その間、『kojitakenの日記』もすっかり更新がまばらになってしまったが、このところ何回か更新した時には、カルロス・ゴーンの逮捕を取り上げた。こちらではそのゴーン逮捕は中心的な話題としては取り上げないが、この件で一番失望させられたのは、1999年のゴーン来日の歴史的意義、つまりグローバル資本主義の日本への本格的な侵入に対する批判的な視座を欠く「リベラル・左派」があまりにも多いことだった。彼らの多くはゴーン逮捕を「安倍政権が不都合なことから目をそらさせるための『スピン』」だと決めつけて、得意の陰謀論を開陳して内輪ウケしていた。彼らの堕落と頽廃ぶりを見ながら、ああ、これでは「リベラル・左派」が負け続けるはずだよなあと痛感させられた。それと同時に、「リベラル・左派」がこのざまだから、小沢一郎が安心して小池百合子(昨年)やら橋下徹(現在)とつるもうとするんだよなあとも思った。
今回は、3連休の後半に読んだ、堀田善衛、司馬遼太郎、宮崎駿の3人による鼎談本『時代の風音』を読んで思ったことを書く。これは1992年にUPUという会社から出版された本で、図書館に置いてあったのを借りて読んだ。調べてみると、1997年に朝日文庫入りしたらしい。UPUとは東京大学新聞OBの故江副浩正が創設したリクルートの向こうを張って、京都大学新聞のOBが創設した就職斡旋会社らしい。鼎談は二度行われて『エスクァイア日本版』1991年3月号と同1992年3月号に掲載され、それに3人の著者が手を加えて単行本化された。ソ連崩壊の前後に行われた鼎談ということになる。なお司馬遼太郎は1996年に73歳で亡くなり、堀田善衛は1998年に80歳で亡くなった。
鼎談は、宮崎駿が堀田善衛と司馬遼太郎の2人の話を聞きたい、と言ったことをきっかけに実現したという。宮崎駿はあとがきに「心情的左翼だった自分が、経済繁栄と社会主義国の没落で自動的に転向し、続出する理想のない現実主義者の仲間にだけはなりたくありませんでした。自分がどこにいるのか、今この世界でどう選択していくべきか、おふたりなら教えていただけると思いました」(前掲書270-271頁)と書いている。
この言葉からも想像される通り、鼎談とは言っても宮崎駿は主に聞き役で、堀田善衛と司馬遼太郎の2人が主にしゃべっている。「司馬史観」で知られる司馬遼太郎はむろんのこと、堀田善衛もこの鼎談を読む限り左翼では全くなく、それどころか鼎談を読む限りではノンポリに近い印象だ。堀田善衛は「誰それは左翼だからこんなことを言ったら怒られた」などと言っている。ただ、『文藝春秋』1990年12月号に掲載された寺崎英成の「昭和天皇独白録」について、堀田善衛が「私はあんなの読まない、言い訳は聞きたくないですね」(同174頁)と発言し、それに対して司馬遼太郎が中学4年生の頃(1939年頃)に美濃部達吉の憲法論を教わったと言いながら「基本的にいうと天皇に責任なし。美濃部憲法解釈通りです」(同174頁)と反論しているあたりに、2人の政治的スタンスの違いが少し出ていた。ここが、鼎談の中で堀田善衛と司馬遼太郎の意見が食い違った唯一の箇所だ。
だが、この本をブログ記事に取り上げようと思ったきっかけはそこではない。私の意見とはむしろ遠いはずの司馬遼太郎の発言だった。そのくだりを以下に引用する。
日本が大人になる時
宮崎 これから三〇年、日本の人口は減りはじめますから、攻撃性を失うんじゃないかと期待しているんです。そして、この島で緑を愛して、慎ましく生きる民族になってくれないかなと。根拠のない妄想ですが……。
司馬 ひょっとすると人口が減る間に、外国系の人が日本人の構成員としてはいってきますね。われわれの二〇パーセントくらい外国系がはいると思うのです。二〇年後くらいに。
憲法下にあって万人が平等という大原則がありますから、日本も小さな合衆国になるでしょう。そうなることをいまから覚悟して、飲みがたき薬を飲む稽古をしなければならない。つまり、決して差別をしてはならない。差別はわれわれの没落につながります。
(堀田善衛、司馬遼太郎、宮崎駿『時代の風音』(UPU, 1992)181-182頁)
このくだりを読んで、「あちゃあ、やっちまったな、ニッポン。『嫌韓・嫌中』をやらかして大人になり損ね、没落しちまったな」と思ったことはいうまでもない。
振り返れば、小林よしのりが漫画で「嫌韓・嫌中」を煽ったのはこの本が出てしばらく経った90年代後半だった。その頃から日本経済は傾き、今でいう「ネトウヨ」たちは過去の栄光にすがろうとして「嫌韓・嫌中」の度合いを強め、最近では「日本スゴイ」を連呼するようになった。日本の没落と周辺国に対する差別が同時に進んだと言って良い。
特に、前回の記事で取り上げた安倍晋三の訪中で、安倍が習近平に対して「競争から協調へ」などの3原則を提示するなどして中国を攻撃しづらくなると、ネトウヨや右翼メディアは中国への反発を強めるのではなく、韓国を集中攻撃するようになった。夕刊フジなどでは「日韓断交」の大見出しが踊るが、仮に日韓が断交したとして、日本の味方をする国など世界のどこにあるだろうか。ネトウヨや右翼メディアや安倍晋三が頼りとするアメリカだって味方してくれないに違いない。
そんな状態なのに、朝日新聞なども牧野愛博という記者が先頭に立って韓国攻撃に加わっている。あるいは野党第一党の党首である枝野幸男も韓国批判のコメントを出す。枝野は、世論調査の分析に定評のある三春充希(はる)氏のツイートに注目するくらい「風を読もう」とする傾向の強い政治家だが、日本中が「反韓」の言論一色に染め上げられている状態(朝日新聞以外ではTBSのサンデーモーニングなんかも実にひどい惨状を呈している)だから、安心して韓国批判をやるんだろうと私は思っている。
これぞ「崩壊の時代」の実相だ。前の「崩壊の時代」は1945年の敗戦で終わったが、その頃について、再び司馬、堀田、宮崎3氏の鼎談から以下に引用する。
司馬 (前略)二つめに思ったのは、なんでこんなばかな国に生まれたんだろう、ということでした。指導者がおろかだというのは、二十二歳でもわかっていました。しかし、昔の日本は違っただろうと思ったんです。その昔が戦国時代なのか、明治なのか知りませんが、昔は違ったろうと。しかし二十二歳のときだから、日本とは何かなんぞわからない。物を書きはじめてからは、すこしずつわかってきたことどもを、二十二歳の自分に対して手紙を出しつづけてきたようなものです。
堀田 それは司馬さん、私なんかも完全に同じですよ。これまでやってきた仕事は、ずっと戦時中の自分への手紙を書いていたようなものですよ。私の『ゴヤ』も、『方丈記私記』も、『定家明月記私抄』も戦時中に考えたテーマなんですね。いま書いているモンテーニュ(『ミシェル城館の人』)になって初めて解放されましたね。こんな予期しない年齢まで生きたせいもありまして。
司馬 いまの人は手紙を書く必要がないから、そのぶんだけ前に進むでしょう。だから、ひじょうに幸いだと思うんですね。
宮崎 私は敗戦後、学校とNHKのラジオで、日本は四等国でじつにおろかな国だったという話ばっかり聞きました。実際、中国人を殺した自慢話をする人もいましたし、ほんとうにダメな国にうまれたと感じていたので、農村の風景を見ますと、農家のかやぶきの下は、人身売買と迷信と家父長制と、その他ありとあらゆる非人間的な行為が行なわれる暗闇の世界だというふうに思えました。
(堀田善衛、司馬遼太郎、宮崎駿『時代の風音』(UPU, 1992)180-181頁)
現在、外国人労働者が特に多いのは農家や漁村であって、前者は茨城県、後者は広島県が全国一多いという。昨今は日本人労働者も滅茶苦茶な働き方を強いられて過労死や自殺に追い込まれる報道が後を絶たないが、日本人労働者に対してさえそうなのだから、外国人労働者に対しては想像を絶する「非人間的な行為が行われる暗闇の世界」が現に存在しているに違いない。
高度成長期にも自民党政府は好き勝手なことをやっていたが、それでもまだ行政と使用者との間には一定の緊張関係があった。今の安倍政権にはそれさえもない。戦時中と同じくらい今の日本の「指導者がおろか」であるとは、安倍晋三や麻生太郎や菅義偉を日々見ていれば誰しも薄々と、あるいははっきりと思っていることだろう。ただ、今はそれを口にしづらい空気が権力側によって形成されており、その空気の醸成に自発的に協力する人たちが多い。それは戦争中も同じだったに違いない。
また、人々が将来「手紙を書く必要」がある時代になってしまった。「崩壊の時代」は、今年もまた一段とその深刻さを増した。
だが、今週もこの日記を更新しないと、またまたトップページに広告が表示される。止むを得ず、というわけでもないが久々の更新をする。このあと7回更新したら、ブログの更新を停止する。
先週はジャーナリストの安田純平氏の解放と、安倍晋三の中国訪問が注目された。このうち安倍訪中では、安倍が習近平に対して「競争から協調へ」などの3原則を提示した。
これについて、「安倍晋三がネトウヨの梯子を外した」という見方と、「いや、それは見せかけであって、安倍政権はアメリカ中間選挙の結果を受けて再び中国との対決姿勢を強めるアメリカの尖兵になる」との見方があるようだが、私の意見は前者に近い。
なぜなら、安倍政権は「経産省政権」と言われていることからも明らかなように、この政権は基本的に財界の嫌がることはやらないからだ。
安倍は長年極右思想をウリにして、いわゆるネトウヨ(その実態は「安倍信者」に近くなっていた)ばかりではなく、月刊誌『正論』や『WiLL』や『Hanada』などに寄稿する極右文化人たちの絶大な支持を受けてきた。
しかし、安倍が本当にこだわっているのは極右思想ではなく、「お祖父ちゃんのなし遂げられなかった『憲法改正』」を自らの手で達成することだけだ。極右思想のアピールも、なんとかのミクスと呼ばれている経済政策も、みんなそのための手段に過ぎない。だから、改憲のためならネトウヨだって平気で切り捨てる。
とはいえ、安倍は自らの改憲構想をまず日本会議に提示した。そもそも、安倍の改憲構想自体が日本会議から入れ知恵されたものだ。ネトウヨを切り捨てれば安倍が「リベラル右派」の歓心を買うことに成功して改憲を達成できるとの見通しを安倍が持っているとしたら、それは楽観的に過ぎるだろう。まさか安倍も最初からそんなことを考えていたわけではあるまい。
安倍訪中で見せた中国へのすり寄りは、日本経済の力が急速に落ちている結果採らざるを得なくなった方策であり、その結果ネトウヨの梯子を外さざるを得なくなった、というのが真相ではないかと思う。第2次安倍内閣発足とともに始まった「崩壊の時代」(by 坂野潤治)は、日本経済の崩落とともに終わりを告げ、安倍政権も同時に倒れると私はみている。
安田純平氏の解放については、安倍に梯子を外されたネトウヨたちの相変わらずの「自己責任論」には心底うんざりさせられたが、この件でダルビッシュ有を見直すことができたのは唯一の収穫だった。今回はこの件をメインに取り上げようかと思ったが、あまりにも語り尽くされているのでいまさらと思う。ここではダルビッシュ有が発したツイートのURLを示すにとどめる。
https://twitter.com/faridyu/status/1055450819645132800
ここでダルビッシュは、意見を言いっ放しにするのではなく、自らの意見に異を唱える人たちに丹念に反論している。たいしたものだ。いつも書きっ放しの私には真似できない(笑)。
一方、破廉恥なネトウヨの連中は、戦場カメラマンの渡部陽一氏が「捕まるやつはその時点でジャーナリスト失格」という一文を含む「戦場取材の掟」を捏造し、それが何万回もリツイートされたというから開いた口がふさがらない。
この件で思い出すのは、2015年にISIS(自称イスラム国)に後藤健二・湯川遙菜両氏が殺害された時、安倍晋三が平然と2人を見殺しにしたことだ。あの時安倍は、わざわざイスラエルでネタニヤフと会談して「テロとの闘い」の姿勢を示すなど、暗にテロリストたちに後藤氏らの処刑を促すかのような言動をとっていた。さらに呆れたことには、世論はこれに安倍内閣支持率上昇で応えた。「崩壊の時代」には為政者のみならず人心もすっかりおかしくなっていた見本だと思う。
今回は、政権が安田氏を見殺しにしようとしたもののそれに失敗したのか、それとも本当は影で動いていて、身代金もカタール政府が払ったというのが本当でも、あとから日本政府がカタール政府に払うなり、あるいはそれに相当する見返りをするなりするのか。これにも諸説紛々で、本当のところはわからない。
だが、2015年には勇ましく見殺しにできたことが今回はできなかっただけでも、安倍政権の足腰は確実に弱っているのではないか。そう思う今日この頃だ。
55%対45%というと、たまたま20日の自民党総裁選での安倍晋三と石破茂の党員票の数字と同じだが、まああれは得票率でもないし裏返しの数字でもあるから偶然だ。
しかし、自民党総裁選で安倍晋三が党員票で石破茂に追い上げられたことと、沖縄県知事選で佐喜真淳が思わぬ大差をつけられたこととの間には密接な関係があるとはいえるだろう。
つまり、安倍晋三に対する忌避感が、全国の自民党員の間に続いて沖縄県民の間にも広がってきたことを意味する。
その他にも、常識的に誰もが思う「弔い合戦」の効果(私など首長の死を受けた選挙の時にはいつも選挙戦中に時の首相だった大平正芳が急死した1980年の衆参同日選挙を思い出す)もあろうし、『広島瀬戸内新聞ニュース』が指摘した、小池百合子や松井一郎といった本土の大都市における新自由主義者の首長が佐喜真候補を応援したことで同候補への票が逃げたこと(「『公務員に天誅!』は大都会以外では通用しない」と表現されている)もあろう。特に後者には無視できない効果があると私も考えており、たとえば6月の新潟県知事選で小泉純一郎が新潟県入りして「野党共闘」の候補者を応援したこと及び共産党の志位和夫や立憲民主党の枝野幸男が小泉の新潟入りを歓迎するコメントを発したことは、新潟県知事選で「野党共闘」候補の票を逃がす原因の一つになったのではないか。こうした意見には賛同者は少ないのだが、ずっとそんな仮説を持っている。
しかし、それよりも今回は「安倍晋三が滅茶苦茶な力の入れようをしている佐喜真淳候補には入れたくない」心理が強く働いたのではないかと思えてならない。こんなことを書くと「沖縄のことを何も知らない本土の人間がいい加減なことを言うな」とお叱りを受けるかもしれないが、一つの仮説として、全国的に大規模な「安倍離れ」が起き始める前兆が、自民党総裁選に続いて沖縄県知事選でも観測されたのではないかと考えている。
独裁で締めつけを強めれば強めるほど、また誰にでもわかる嘘の上にさらに嘘を重ねることを続けるほど、地震が起きる前の状態にも似て、歪みのエネルギーが蓄積していく。そしてそのエネルギーはいつか解放される。そのエネルギーの解放が、他国に戦争に負けることによってしか実現しなかったのが前回の「崩壊の時代」が終わった1945年であって、日本の国民や日本に住んでいた人々の甚大な犠牲をもたらした。
現在の「崩壊の時代」は、あの時の反省を踏まえて徐々にエネルギーを解放していくものでなければならない。今回の沖縄県知事選は、その絶好のきっかけになり得る可能性がある。
もちろん、今回の知事選における玉城デニー陣営にも問題はいくつもあった。その最たるものは、存在するかどうか未だに疑いの晴れない「翁長知事の音声データ」であって、候補者が密室で選定された過程は、2000年に小渕恵三が倒れたあと自民党長老の談合で森喜朗が自民党総裁・日本国総理大臣になった経緯を思い出させるものだった。「新9条論」の推進者として一部で悪評を買っている東京新聞の記者が、今回の候補者選びを「どこの独裁国家の話か」と評した一幕があったが、「新9条」では彼に与しない私も、この候補者選びに対する彼の批判には同意する。
それでなくても「野党共闘」には不透明な点が多く、特に政党としては泡沫政党としかいいようのない自由党の党首(代表)に過ぎない小沢一郎が異様な影響力を駆使し、自らやその配下の者が接着剤になる形で立憲民主党と共産党とをくっつける形を作り上げてしまっていることは不健全極まりない。
小沢は先週、自らの改憲論を『AERA dot.』のインタビューに答える形で発表した(下記URL)。
https://dot.asahi.com/dot/2018092700037.html
これは、私の見るところ、『世界』2007年11月号に小沢が発表したアフガニスタンに展開するISAF(国際治安支援部隊)への自衛隊派兵論を思い出させるものだ。『世界』の「小沢論文」は当時大きな話題になり、左派から強い批判を受けたものだが、現在では打って変わって小沢の改憲構想はそもそも話題にもならない。それが、小沢の影響力が低下したことの反映であればまだしも、現実の野党間の政治においては、小沢が今も強い影響力を持っていることは明らかだ。先日も立憲民主党との間で国会議員の移籍があり、私はあれは今後行われる衆院選沖縄3区(沖縄県知事選の前までは自由党の玉城デニーが議席を持っていた)に立憲民主党から候補を出すことを容認する見返りなのではないかと推測している。つまり小沢一郎と枝野幸男とは「握っている」と想像するのだ。
表面には出てこないが、立憲民主党以上に小沢が強い影響力を行使していると推測されるのは共産党に対してであって、ネットでも野党支持者たちの間で小沢の改憲構想に触れることが一種のタブーになっているのではないか。そう私は思っている。
この現状は、安倍晋三の独裁政治の弊害によって日本社会に溜まっている歪みエネルギーを、大きな被害をもたらさない形で解放するためには、むしろ逆効果になっているとしか私には思われない。
ちょうど安倍晋三が自らに「まつろわない」者は、たとえ自らと同じ極右である石破茂であっても容赦なく弾圧するのと同じように、今の「市民連合」と共産党とが表に立ち、背後(せいごではない)に影の最高指導者として小沢一郎が控える「野党共闘」は異論を許さずタブー化してしまっている。そのことは、反安倍・反自民の勢力の間に別の歪みエネルギーを溜め込むことになると同時に、「野党共闘」の勢力を拡大する上での障害にもなり、安倍独裁政治によって溜まった歪みエネルギーを徐々に解放するための阻害要因になってしまっているのだ。
心ある反安倍・反自民の者にとっては、安倍晋三の独裁政治を打倒することももちろん必要だが、「市民連合」や「野党共闘」の同調圧力をはね返すことも求められると信じる。後者は、前者を実現するための必要条件だと思うからである。
少し前に、1515番目のエントリを最後にこのブログの更新を止めると書いたが、今回が1506番目になる。あと9回だが、現在のようにズルズルと更新しない状態をいつまでも続けていても仕方がないので、来年(2019年)春を目処に、この記事を含めてあと10本の記事を書き切って終わらせようと思うに至った。そのきっかけは、「はてなダイアリー」が来年春に終了することがある。はてなに開設している『kojitakenの日記』は、そのうち「はてなブログ」に移行させるが、もう少しはてなダイアリーにとどまって、ダイアリーの終了日時がはっきり告知された頃に移行しようと考えている。その移行のタイミングに合わせて、こちらのブログにも区切りをつけようと思うのだ。
だから、今回の更新のあとは週末の沖縄県知事選を受けて来週月曜日に更新するつもりだ。
今回は、自民党総裁選について簡単に書く。
『kojitakenの日記』にも書いた通り、私は自民党総裁選では安倍晋三が党員票でも圧勝し、石破茂の政治生命が終わるだろうと思っていた。しかし、予想通り議員票で石破は2割弱しか得票できなかったものの、予想に反して石破は45%弱の党員票を獲得した、
このことについて、『kojitakenの日記』には
と書いたが、実はもう一つ異なる仮説を立てている。安倍晋三は何もやらなきゃ圧勝だったのに誰の目にも明らかな形で変な圧力をかけたもんだから総裁選中に支持が離れたんだろう。
それは、党籍を持っている自民党員の方が、一般の自民党支持者よりも安倍晋三に対して厳しい目を向けているということだ。
どんな世界でも、素人ほど惰性に流されやすく、既成観念にとらわれた因習的な考え方や感じ方しかできない。これが、この人生を通じて得た私の経験則だ。一般には、素人だからとらわれのない考え方ができると思われがちだが、実は真逆なのだ。だから、一般の自民党支持者や世論調査で安倍内閣を「支持する」と答えてしまう人たちは、簡単に「長いものに巻かれて」しまう。党籍を持つ自民党員の場合は、もう少し真面目に政治を考えているし、「自らへの異見を圧殺する」安倍晋三のあり方が、人の道に反しており、安倍に投票するわけにはいかないと考えた。今回の結果を公開酌することもできるし、案外こっちの方が当たっているかもしれない。
この場合、石破茂は単なる「安倍晋三以外の候補者」であって、別に石破の極右的な思想信条や政策が支持されたのではない。ただ問題は、安倍に対抗する候補として総裁選に出馬できたのが極右の石破だけだったことだ。宏池会の岸田文雄だの「初の女性総理大臣を目指す」野田聖子だのは安倍支持に回ったが、今回の結果に舌打ちしているに違いない。彼らは、自ら「オワコン」になる道を選んでしまった。特に岸田については、何とか安倍晋三に「禅譲」してもらおうと今後醜態を晒し続けるであろうことが目に見えている。宏池会は、安倍晋三一派よりももっと未来のない完全な「オワコン」だとしか言いようがない。ことに、今後「保守本流」たちが共通して自らの信念としている財政再建原理主義が厳しい批判に晒される可能性が高い。
蛇足ながら、宏池会系ではなく竹下登系の石破茂もまた「財政再建原理主義」の政治家であり、それにとどまらずこのイデオロギーは朝日新聞や立憲民主党の政治家やさらにはその支持者たちにも広く行き渡っている。私など、TBSのニュース番組で安倍政権に批判的な報じ方をしている最中に「国の借金」とか言い出すと、またかよ、それが安倍政権を助けてるんだよ、と苦々しい思いになる。
その立場に立つ石破茂は、政治思想においても紛れもなく「右の極北」に位置する。こんな政治家を「リベラル・左派」たちが熱心に応援したのも目を覆うばかりだった。
このところ、国会の閉会中には安倍晋三が追及されないために内閣支持率が上がる傾向があるが、それに加えて、自民党総裁選で自民党が注目されると自民党と内閣の支持率が上がる傾向が昔からある。
この結果、自民党総裁選で「安倍一強」に綻びがはっきり見えてきたにもかかわらず、ここ最近の間では安倍内閣支持率がもっとも高いという、一件矛盾した現象が起きている。
だがこれは、たとえてみれば夏至が過ぎてもその後1か月ほどは気温が上がり続けるのと似ている。たまたま一昨日は「秋分の日」だったが、遠からず安倍政権にも「秋の日はつるべ落とし」の日がくる。だが、没落しきらないうちにと安倍が焦って進めようとする改憲を、現在熱心に安倍を応援している読売新聞だのNHK(特に岩田明子)らが後押しするだろう。読売とNHKはそれぞれ影響力が絶大だし、イデオロギーというより「お祖父ちゃんが成し遂げられなかった改憲を僕ちゃんが成し遂げるんだ」という、妄執ともいうべき暗く強い情念に突き動かされている安倍晋三の突破力は絶対に侮れないほど強いので、今後無事に安倍政権が「終わってくれる」と楽観するのは絶対に禁物なのだ。
何が何でも安倍(政権)を終わらせる。そんな強い気持ちを政権批判側が持たないと、安倍にしてやられてしまう。
戦いはこれからが本番だ。
そもそも来月行われる自民党総裁選に、安倍晋三はまだ出馬表明すらしていないが、間違いなく出馬するといわれている。
マスメディアの報道では、地方票で石破茂が検討するのではないかと願望混じりに言っている人もいるようだが、そうはならず、石破の政治生命が危うくなるくらいの安倍晋三の圧勝になるであろうことは疑う余地がない。
マスメディアの世界でさえ、テレビ朝日の小川彩佳のように「ちょっと自分の意見を言うこともあるけれども、基本的には原稿を読む人」(小川氏はアナウンサーだ)でさえ番組を追われるほど、「政権に対するちょっとの文句も許さない」言論空間ができつつある。
前記小川アナの場合は、まさかあの程度の意見を言うくらいで番組を追われるとは信じられない。実際には昨年週刊誌に書き立てられた芸能人との結婚に伴う退社など、別の理由ではないかと最初は訝ったくらいだ。しかし、その後の報道を追うと、実際にはそうではなく、安倍晋三と昵懇といわれるテレビ朝日会長・早河洋の「鶴の一声」で決まった人事だそうだ。まさかと思っていたが、やはり「官邸筋」の人事ではないかとの心証を強めるに至った。
小川アナの後任はかつてテレビ朝日のアナウンサーだった徳永有美だそうだが、この人はかつて芸能人との不倫騒動で局を追われた。2004年に報道ステーションが始まった時、1年間だけ木曜日と金曜日のスポーツコーナーを担当していたが、私はこの人にやってほしくないな、月曜から水曜までやっている武内絵美がずっとやれば良いじゃないかと思っていたら、同じことを思う視聴者が多かったせいか、翌年春の改編で徳永は外され、月曜から金曜まで武内アナがやるようになった。
その徳永が戻ってくるというのだから、それでなくても番組の開始時刻から見ることがほとんどなくなった「報棄て」は、10月からはもうほとんど見なくなるのではないかと思う。徳永有美に「報道」のイメージなどない、とは誰もが思うことだろうし、報道ステーション自体、来年3月には視聴率低下を理由に打ち切られるのではないかとさえ私は疑っている。
別に自民党員によって構成されているわけでもないテレビ局でさえこんなありさまだから、自民党内にはとんでもなく強い「同調圧力」が働いているとみなければならない。そんな「空気」にあっては、「物言えば唇寒し」だとか「長いものには巻かれろ」などといった諺に従って自民党員が行動するであろうことは火を見るよりも明らかだ。自民党総裁選は間違いなく安倍晋三の歴史的圧勝に終わる。
しかし、独裁者の欲には本当に限りがないらしく、独裁権力を強めれば強めるほど、少しの文句を言う者も許せなくなるようだ。同じ体質は2008年の民主党代表選を無理矢理無投票にしてしまった小沢一郎にもあったが、小沢の場合はまだ民主党や「小沢信者」たちの間で独裁権力をふるっていたに過ぎなかった。安倍晋三の方が母集団が大きいだけに、小沢よりもずっと悪質だ。
その表れの一つが、自民党総裁選で候補者同士の公開討論を行うことを安倍が阻止しようとしていることだ。前記の小沢一郎についても言えることだが、安倍は論戦をきわめて苦手としている。国会でも質問にまともに答えず、質問をはぐらかして答えになっていない妄言を延々と垂れ流して、自分が口を開かない場面ではニヤニヤ不敵に笑みを浮かべるというふざけた態度をとるのが常だが、それは安倍がその強大極まりない権力とは不釣り合いなほど論戦を苦手にしているからにほかならない。
そんな背景を考えると、安倍の意向通り安倍晋三と石破茂との公開討論は行われないまま投票日に至り、自民党議員たちが「ハイル・晋三」と言わんばかりに万歳を三唱する姿が目に浮かぶ。これは絶対に間違いなく現実になる。
思想信条や主義主張からいえば、石破茂の方がずっと右翼(極右)・タカ派色が強く、だからこそ石破を公然と応援する「リベラル」たちを私は日々批判しているのだが、政治手法に関しては、というより現在の力関係をそのまま反映して、石破のほうは普通の合意形成方法を主張するのに対して安倍晋三はひたすら権力で押しまくる。もっともこれについては、石破茂も万一総理大臣になった場合は、現在口にしているようなまっとうな合意形成方法をとるとは到底思われず、やはり権力をゴリ押しするであろうから、その点に注意が必要だ。
いずれにせよ現時点では安倍晋三の方がずっと脅威だし、これまでに安倍が学習した独裁権力の揮い方から類推して、今後さほど長い時間をかけずに日本国憲法が改変される危険性は、現在「リベラル・左派」が楽観しているほど低くはなく、総裁戦後のこの国にとってきわめて大きな脅威になることは間違いない。
坂野潤治は2013年春に毎日新聞のインタビューに答えて、現在の日本が「「異議を唱える者が絶え果てた『崩壊の時代』」に入ったと言った。その「崩壊の時代」においては、個々の人間が「長いものには巻かれろ」式の行動をとっている悪弊も見逃せないが、何より独裁権力者である安倍晋三が、「異議を唱える者を根絶やしにしようとしている」ことを見逃してはなるまい。
こうして、「崩壊の時代」の帝王・安倍晋三が自らへの異見を圧殺し続けている間、あれほど独裁者を賛美する者たちが叫び続けてきた「日本スゴイ」のメッキはすっかり剥がれ、昨日(8/19)のTBS『サンデーモーニング』で保守論者の寺島実郎と大宅映子が言っていた通り、いまや日本の産業の世界的競争力は、かつての高度経済成長時代を反転させたかのような、高度凋落時代に差しかかった様相を呈しつつある。前回の「崩壊の時代」は日本の軍事が破滅して終わったが、どうやら今回の「崩壊の時代」は日本経済の崩落とともに終わる気配が見えてきた。
なお、今回書いたような安倍晋三批判は私にとってはあまりにも当たり前のことで、だからこそこうしたことを前提にした上で、「リベラル・左派」の世界の中に働く同調圧力に流される人たちを批判する記事を書く方が、安倍を非難する記事を書くよりずっと頻度が多くなっている。
だが、自民党総裁選のような機会を捉えて、たまには安倍の正体を指摘する記事を書いておかなければなるまい。そう思って今回の記事を書いた。