きまぐれな日々

早いもので、李纓(リ・イン)監督が製作した映画『靖国 YASUKUNI』が公開されてから1年4か月が経った。昨年3月公開が予定されていたこの映画に対し、なぜか今回の総選挙でも当選してしまった衆院議員の稲田朋美が公開前のチェック(事実上の検閲)を要求したことが話題になった映画だ。稲田が起こしたアクションをきっかけに、公開を予定していた映画館が次々と公開の中止を決めたが、東京・渋谷にあるシネ・アミューズという勇気ある映画館が公開を引き受け、一般に初公開されたのが昨年(2008年)の5月3日、憲法記念日だった。私は上京してこの日にこの映画を見た。そのレビューは昨年5月19日付同5月20日付のエントリに書いた。

その映画『靖国 YASUKUNI』を製作した李纓監督がこの映画について語った内容をまとめた、映画と同名の本『靖国 YASUKUNI』が、先月(2009年8月)、朝日新聞出版から出た。本の前半は、李監督の自筆の形をとっているが、実際には李氏が自作について語った言葉をノンフィクションライターの黒田麻由子氏がまとめたもので、後半には李監督と「新右翼」といわれる「一水会」顧問の鈴木邦男氏との対談(2008年)、李氏とドキュメンタリー映画監督・故土本典昭氏との対談(2007年)、李氏に花田達朗、ジャン・ユンカーマン、班忠義、野中章弘各氏らが加わって今年6月に早稲田大学で行われたシンポジウム「ドキュメンタリーは世界を変える」の計3本が収録されている。

興味深いのはやはり李監督への聞き書きを収録した前半だ。1963年に広州で生まれた李監督が幼少時に文化大革命があったが、家の近くの川によく死体が流れていたそうだ。さらに、社会人となって中国中央テレビ(CCTV)に勤務を始めた頃、チベットで高山病にかかり、その治療の際に受けた静脈注射にミスがあった(不純物が混入していた)ためか、一時死に瀕し、その際意識が肉体を離れて治療を受けている自分を空から眺める臨死体験をしたとのことで、この経験から李監督は人間の魂の存在を確信するようになるとともに、人間の命や魂がどこから来てどこに行くのかということに思いをめぐらせるようになった。それが、『靖国 YASUKUNI』の製作につながったのである。

ところで、昨年5月に映画のレビューを書いた時、この映画についてネット検索をかけたところ、ネット右翼が映画および李監督を激しく批判したエントリが多数見つかった。特に多かったのが映画で核心的な役割を演じる靖国刀匠の刈谷直治氏が、映画から出演部分の削除を求めたとされる件への言及だった。この件について李監督は、以下のように述べている。

 映画『靖国』の上映中止問題の中で、私と出演者の刈谷直治さんとの関係について、さまざまな憶測や情報が流れました。一部メディアでは、刈谷さん側が、映画の趣旨に賛成できない、ゆえに出演した場面の削除を望んでいると報道されたこともありました。騒動の最中には、刈谷さん宅に報道陣が殺到したことにより、心ならずも静かな生活を乱すことになってしまいました。

 戦争体験の有無、中国人と日本人であることなど、多くの違いがあるなかで、私と刈谷さんはお互いに少なくない努力をして関係を築きあげてきたと信じています。だから、この事態はにわかには信じられないものでした。彼が出演場面を削除してほしいと言ったとしても、それが彼の本当の気持ちではなく、そう言わざるを得ない事情があったのだと理解しています。出会いから、刈谷さんとの数年間にわたるつきあいをもとに、私にはそう思えるのです。

(李纓 『靖国 YASUKUNI』(朝日新聞出版、2009年) 66-67頁)


その上で李監督は、刈谷氏から李監督および映画を製作したプロダクション「龍影」に削除依頼は来ていないことを明らかにする一方で、老夫婦を相同に巻き込むことになって静かな生活を一時的に壊してしまったことについて、申し訳なく思うと重ねて表明している。

本を読みながら、そういえば確かに騒動が鎮静化してから削除依頼の件は音沙汰なしになったなと思い出した。刈谷氏夫婦を騒動に巻き込んだことについては、右翼ジャーナリズム(やネットおよびリアルの右翼)により重い責任があると私は考えている。映画の公開から期間を置いて本を出版する意義も感じられる。

ところで李監督は、以前からこの映画『靖国 YASUKUNI』の中国での公開を目指してきたが、まだ実現しておらず、韓国とアメリカで一足先に公開された。李氏は自身について、日本と中国のいずれにおいてもアウトサイダーだと見られて、中国でも問題人物扱いされることがあると言っている。『靖国 YASUKUNI』が日本で公開された2008年5月に亡くなった李監督の父は、中国で詩集を出版していた人で、ノーベル賞作家の処女作となった詩を掲載したこともある。文化大革命の頃には李氏の兄、さらには李氏自身も「反革命分子の子供」としていじめられた。そんな李氏の父は、親日的な人物であり、1998年に妻とともに日本にいる李氏を訪ねたことがあるが、来日した時にも、ある小川に流れる桜の花びらを見て感激したりもしていた。しかし、靖国神社の境内で、少年時代に聞き覚えのある日本の軍歌を再び耳にした李氏の父はショックを受け、それがきっかけになったのか、すでに患っていた心臓病が訪日をきっかけに悪化してしまったのだという。そして、中国で映画『靖国 YASUKUNI』を父に見せられなかったことが李監督の心残りだそうである。

このほか、本の最後に収められたシンポジウムで、アメリカ人のジャン・ユンカーマン監督が2005年に『映画 日本国憲法』を完成させた2005年に、ユンカーマン氏が「あなたは共産党支持者ですか」と必ず聞かれたということにも考えさせられた。ユンカーマン氏も語るように、当時は憲法を守ろうと声を上げていたのは共産党と社民党くらいだった。かつて、1982年に小学館(「SAPIO!」の出版元!)から出た『日本国憲法』がベストセラーになったことを覚えている私としては、信じられないほどの空気の変化だったが、その空気が再び変わったのは、2006年に安倍晋三が首相になったことがきっかけだろう。国民生活にかかわる問題をすべてそっちのけにして、一直線に改憲に進もうとした安倍に対し、保守といってよい立花隆が「安倍晋三への宣戦布告」を発し、教育基本法改正反対の声をあげたあたりから流れが変わった。その直前の2006年夏は、前のエントリにも書いたように、戦後日本の政治史上、右傾化がピークに達した時期だったといえるだろう。この時期を象徴するのが、2006年8月15日に時の首相・小泉純一郎が行った靖国神社への参拝だった。世論調査では小泉の参拝に賛成する意見が反対意見を大きく上回った。

李監督の本には気になるところもあって、特に「新右翼」といわれる鈴木邦男氏との対談の部分で顕著なのだが、靖国神社は戦没者を慰霊する施設ではなく、戦死した「英霊」を「顕彰」して戦意を高揚させるための好戦的な施設であるとの認識がやや弱いことだ。映画でこの視点を強調すると、右側の観衆に拒絶反応を起こさせてしまうことは明らかなので、映画の表現としてはあれで良かったと思うが、せっかく右翼でありながら独善に走らず他民族の尊厳も尊重する鈴木邦男氏を相手にしての対談なのに、靖国神社の好戦性についての議論が行われていないために、対談に食い足りない印象が残ってしまった。

最後に、李監督が繰り返し強調していたのが、「表現の自由」の問題ばかりが話題になった映画『靖国 YASUKUNI』だが、一番表現したかったのは人間の魂の問題だということだ。

この本は、映画『靖国 YASUKUNI』をご覧になった方には一読の価値があると思うし、ご覧になっていない方も、本を読まれれば映画が見たくなるのではないかと思える。


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私は靖国神社には英霊ではなく、怨霊(御霊)が祀られているのだと思っている。

死んだ彼らの、死んだその時に抱いた思いなど、誰にもわかるはずがない。
「靖国に眠る彼らが国を怨んで死ぬなどあるはずなし」と思うのは、彼らを死地に追いやった人間共や彼らの犠牲の上に安穏と暮らす一般民からすれば、「彼らが国家に怨みを抱いて彼の場所に眠っている」などと思っては夢見が悪いからで、
清く高潔な方々が心静かにあそこでお眠りになっているというのは、決して死んだ彼らに死後に確認を取った話ではあるまい。

ならば夢見がちな我らが同胞と同じくらいの思い込みで、私が
「靖国神社に御住まいなのは未だ国家に怨み晴らさでいられぬ方々である」と信じることは、思い違い甚だしと責められようのはずもない。

ことに靖国のことで口角泡を飛ばす勢いで興奮する輩を見るにつけ、靖国の怨霊の恨みの深さを思わずにはいられない。

本来、死者は静かに祀られるもの。
心静かに眠っているはずの者のために騒乱が起こるということは、民俗文化の歴史的には「霊が怨みを飲んだまま、心静かに眠れていない」という判断が往々にして為される。
私が靖国神社を怨霊鎮魂の御社と見るのも、この先人逹の知恵に従うものである。

靖国とその死者をネタに騒乱を起こしたがる人間は、間違いなく靖国の死者を怨霊に「してしまっている」。
オカルト的に言うならば、「怨霊に取り憑かれてしまっている」と言ってもいい。

だが英霊だろうが怨霊だろうが、霊とは物質的に存在するものではない。
個人の心象風景にどうかして映りこんだ死者、その映りこみに個人が何かをリアクションし、
その個人のアクションを第3者がどう判断を下すか。
それだけの問題だ。

私は思う。
今の時代に勇ましい英霊が必要だろうか?
靖国神社=英霊の名誉のためにと声を荒げることが、かえって彼らの静かなる死を妨げ、彼らを怨霊にしてしまっている。
戦争によって死んだ彼らを更なる修羅道地獄に葬り込むのは忍びない。

願わくは、彼らをただの御霊として安んじて祀らんことを、私は静かに思う。

2009.09.11 17:09 URL | 朱の盤 #XQYq98OQ [ 編集 ]













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櫻井よしこさん
  そんなに、心配なら自分で立候補をして総理大臣になり、政権を運営なされたたらいかがですか?

2009.09.10 10:25 | 雑感