しかし、マスコミはことさらにこれを過小評価し、麻生の所信表明演説を「盛り上がらなかった」などと評している。なぜだろうかと考えた時、マスコミにとってコイズミの「構造改革」路線の転換は好ましくないことだからではあるまいか、と思い当たった。新自由主義は、「勝ち組」のマスコミ業界人にとって都合の良いイデオロギーなのである。
しかし、このところ急速に広がる「反新自由主義」の機運に、乗り遅れてはならじとする人たちが多い。昨年末以来話題を呼んだのが経済学者の中谷巌の転向であり、ついには一国の総理大臣までが転向を表明したのである。
中谷巌については、多くのブログで論じられているが、転向については評価する意見と批判的な意見が相半ばし、著書については金を払って買うほどの内容ではないとの酷評が多い。私は、週刊誌のインタビュー記事をいくつか飛ばし読みしただけだが、それらから著書の内容はほぼ想像がつくし、実際その程度の書物らしいから、書店に置いてあっても手に取る気もしない。そんなものに割く時間がもったいない。それでなくとも、もっともっと時間が欲しいと思う日々を送っている。
私は、人文・社会科学を大学で専攻しなかった人間だが、政治・経済問題に対するスタンスは、高校2年生の時以来基本的に変わっていない。もちろん若干の揺れは常にあるのだが、微修正に過ぎない。それだけに、中谷巌のように極端な方向転換を行う人間が小渕内閣の経済戦略会議の議長代理を務め、経済政策の方向性を決めていたかと思うと、やりきれなさを感じるのである。少なくとも、まともな経済学者であるとは思われない。経済学の世界というのは、学問的な能力よりも世渡りの能力の方がものをいうのだろうか。世渡り上手というと竹中平蔵のにやけ顔がすぐ思い浮かぶが、新自由主義の代名詞である竹中平蔵は、間違っても転向宣言はしないだろう。
1945年の終戦を機に、多くの指導者たちが一斉に転向したことは誰もが知っている。朝日新聞の縮刷版を見ると、日本政府も朝日新聞も転向したことがよくわかる。戦争責任を問われて処刑された指導者たちもいるが、日本人自らが裁いたものではない。それどころか、A級戦犯容疑者だった岸信介は、アメリカにとって役に立つ人間だとみなされ無罪放免されたあと、戦後12年目にして総理大臣に就任した。小学生の頃、当時まだ生きていた元首相の岸が、かつて東条内閣に入閣していたことを知って驚いたものである。その岸の孫・安倍晋三が、「岸信介の孫」を売り物にして総理大臣に就任した時には世も末かと思ったが、政治思想も経済思想も「右」に属するネオコンの安倍が全くの無能だったことは、日本国民にとっては不幸中の幸いだった。安倍首相在任時の2007年の参院選は、日本政治の流れを変えた歴史的な選挙として後世に記憶されるだろう。あの選挙での自民党の歴史的惨敗が、世界金融危機を受けた新自由主義からの「転向」ブームにつながった。
ところで、『カトラー:katolerのマーケティング言論』が「経済学者、中谷巌の転向?新自由主義は死んだのか??」と題するエントリ(1月16日付)を上げている。著者はリバタリアン的な人らしく、中谷の転向を酷評する一方で、現在主流になりつつある反新自由主義の論調も厳しく批判している。カトラー氏の立場に私は与しないが、このエントリで「ポリティカル・コンパス」の原型であるノーラン・チャートを用いて、今後の日本の動向を予想していることが注目される。
カトラー氏は、新自由主義には、個人的自由と経済的自由の両方を追求するリバタリアニズムの思想が流れているとしているが、私はデヴィッド・ハーヴェイがいうように、新自由主義とは富裕層が階級支配を復活・強化し、格差の固定を狙ったプロジェクトであり、リバタリアニズムを装った新自由主義の主張は、その真の狙いを覆い隠す仮面であると考えている。個人的自由と経済的自由の両方を追求した結果、格差が固定されるというのはどう考えても矛盾した話だ。
だから、新自由主義に親和的なカトラー氏の主張には賛同できない部分が多いのだが、現在の新自由主義批判のあと、個人的自由も経済的自由も小さくする方向性を持った「ポピュリズム」に走るという予想には賛成する。
これは、カトラー氏のような(?)リバタリアンだけではなく、リベラルや左翼からも指摘されている。当ブログも、昨年10月27日付エントリ「新自由主義のあとにくるもの ? 国家社会主義を阻止せよ」で、辺見庸が講演会で「国家社会主義の変種ともいうべき者が、「革新づらをして」現れるだろう」と警告したことを紹介した。2月1日(日)の午後10時から、NHK教育テレビで「NHK・ETV特集「作家・辺見庸 しのびよる破局のなかで」」が放送されるそうだから、これは見逃せない。当初1時間の放送枠の予定だったが、延長されて1時間半の番組になるそうだ。
カトラー氏の下記の指摘には、当ブログも同感である。
自由から遁走することは、「ポピュリズム」に走ることであり、それは最終的にはファシズムに至る道である。ポピュリズムとファシズムが近いというと違和感を持つ人もいるかも知れないが、ファシズムとは、一般に思われているように、ヒトラーのような独裁者が、一方的に大衆を抑圧、支配することで成立するのではない。むしろその逆だ。大衆のほうから、むしろ進んで歓呼をもって独裁者を受け容れるものだということを歴史は教えている。残念ながら、今の日本は、そちらの方向に舵を切りつつあると実感している。
日々あちこちの「政治ブログ」の記事を瞥見していると、ポピュリズムとファシズムが近いというのは実感として実によくわかる。政治家でいえば平沼赳夫や城内実、文化人でいえば佐藤優がこのカテゴリに属する。ブログでいえば(以下自粛)。
麻生太郎も、もともと新自由主義政策を推進したコイズミ内閣の中枢にいた人物である。麻生の転向も、下手をすればファシズムの呼び水になりかねない。
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「ファシズムはそよ風とともにやってくる」という言葉は、やはりファシズムが、最初は耳当たりの良い言葉で、つまりはポピュリズムで始まることを表した言葉でしょう。
日本で、最近、ファシズムの危機が最も高かったのは、やはり安倍政権でしたでしょう。北朝鮮強硬策で、国民の人気を得、マスコミに介入して世論操作を含めて露骨な情報操作を行い、コイズミ郵政選挙での三分の二を背景に、一昨年の参院選で自公政権が三分の二をとれば、安倍政権は存続。その後、アフガン派兵、北朝鮮核施設への限定空爆などを行って世論を煽り、改憲へと突き進んだでしょう。安倍がその後も政権に居続けたかはわかりませんが、日本は反中国の覇権主義として、軍国化を進めたものと思います。
幸いだったのが年金問題が噴出したことと、安倍自身が無能かつ臆病ものであったこと。そして、読売新聞の改憲世論調査結果にもあるように、安倍政権を境に改憲賛成派が減り、ついには進歩的改憲を含めて改憲反対が賛成を上回るまでになったこと。
このように、今回は安倍によるファシズムの到来はいったんは避けられましたが、大阪の橋下、東京の石原のようなポピュリズム利権政治屋に多くの支持を与える国民の現状では、またいつファシズムの危険が訪れるかはわかりません。
現状、新自由主義の破たんで、自公政権は追い詰められていますが、ファシズムのもう一つの傾向として、経済的に困窮しているとき、その苦難を取り払ってくれそうな個人に盲目的に支持を与えた結果起きているという歴史があります。
ですから、最近、9条の会にも、アメリカ憎し、アメリカ発金融恐慌のような事態をさけるためには、アメリカからの独立=軍事的独立を唱える人物まで出ています。
警戒はなお怠ってはならないでしょう。
2009.01.30 09:29 URL | 眠り猫 #2eH89A.o [ 編集 ]
IMFの予想では、今年の経済成長率予想として、日本は-2.6%で先進国中イギリスに次いで2番目に悪いらしいですね。
サッチャー・レーガンから始まり、ソ連崩壊もあって歴史的に世界中を席巻した新自由主義に巻き込まれたのは、ある程度仕方ない面もあるでしょうが、その中でも特に被害が大きかったのは、米国による陰の支配と、子分の政治家、官僚、学者、財界、マスコミ連中のせいでしょう。
日本人はもっともっと怒るべきでしょうね。
2009.01.30 16:26 URL | cube #- [ 編集 ]
管理人さんが引用したカトラー氏の指摘は「自由から遁走することは」で始まるのですが、これを読んですぐ連想したのが、ナチスに追われアメリカに亡命した社会心理学者エーリッヒ・フロムが1941年に著した「自由からの逃走(Escape from Freedom)」です。かいつまんで言えばナチズムを心理学的な面から分析した本で、日本では東京創元社から日高六郎氏の訳で出ています。私は、高校生の頃読んで強い印象を受けたのですが、最近読み直してみて改めて同書の時代や国を超えた普遍性に打たれるとともに、かって読んだ時よりはるかに現実味をおびて感じられる時代になってしまった事に非常な危惧を感じています。
ヒトラーのような人物をいくら批判してもファシズムはびくともしないでしょう。代わりはいくらでもいるのです。ファシズムの真の恐ろしさはリーダーとなる独裁者個人ではなく、彼(彼女)をそこまで持ち上げる民衆の側にあると思います。
2009.01.30 17:44 URL | ぽむ #HfMzn2gY [ 編集 ]
>新自由主義は、「勝ち組」のマスコミ業界人にとって都合の良いイデオロギーなのである。
すでにお読みかもしれませんが、各紙の「新自由主義」に関するスタンスを、元日の社説をもとに評価しようと試みているblog記事があり、私は参考になりました。
http://kyasuhara.blog14.fc2.com/blog-entry-198.html
日経が新自由主義を擁護しようとするのは当然なのでしょうが、それ以外の各紙は濃淡の違いこそあれ批判的な見方が増えてきているようにも見えます。(まだまだ足りないとは思います)
麻生首相の施政方針演説は、確かに小泉路線からの決別宣言だとは思いますが、麻生氏は元々、小泉・竹中の構造改革路線には批判的な立場でした。たとえば、毎日新聞の記事には
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090101ddm010010058000c2.html
小泉政権下の2003年1月、党政調会長だった麻生氏は後援会報に自ら書いている。
「私と小泉(純一郎)総裁は経済政策が全く異なっております。見解を異にする政策責任者が与党の中枢部に存在することは、政府としては甚だ迷惑なことと推察されます」
などとありますから、「転向」という言葉よりも「自らが理念とする方向へ自民党を軌道修正させた」と私はとらえています。
(「自民党としての転向宣言」ということであれば無論同意します。)
もちろん麻生氏は、小泉政権の総務相、外相を務めて「コイズミ内閣の中枢にいた人物」であることは間違いないわけですし、その前は自民党の政調会長だったわけで、植草氏が糾弾するように、「政調会長は自民党のおける政策決定の最高責任者である。小泉政権の政策決定責任者として麻生氏が小泉元首相の財政政策運営に強く反対した形跡はない。」(2008年10月6日のエントリー)のでしょうから、「政治家としてのキャリアを積むことを優先して自分の理念は脇におき、権力に迎合した」点はまったく評価できないと思います。
2009.01.30 22:29 URL | sweden1901 #- [ 編集 ]
山口定『ファシズム――その比較研究のために』有斐閣1979年(改題新版『ファシズム』岩波書店1979年)によると、ファシズムは上だけ、下だけということはなく、必ず下からの大衆的な動きと権力層の中からのファシズムの動きの両方が合わさることにより、成立するそうです。その強弱のパターンは様々ですが。
ではナチスの上からの動きなどあったのかといわれそうですが、まず大恐慌により資本家や権力層がワイマール体制の民主政治を廃止するよう求めるようになったのです。
また、ヒンデンブルグ大統領も国会の束縛を嫌い、ワイマール憲法48条の大統領緊急令の規定「『公共の秩序と安定』が危険にさらされ国家が憲法の義務を履行できなくなったとき、大統領は軍隊の援助のもとに緊急令を強行でき、その際に身体の自由、住居不可侵、通信の秘密、言論の自由、集会結社の
自由、私有財産の保護の一部または全部を停止することができる」を多用しました。
ただし、通常言われている財界による補助は選挙の勝利直前でした。
日本の戦前でも、実は幅広い層から戦争と天皇制の絶対化を望む動きがあり、新聞も同調しました。
2.26事件による軍隊の、動きも強まりました。
ポピュリズムだけではファシズムに至らないと思います。もっと上からのはっきりとした動きが必要だと思います。そして貧困化による下からの動きも。
2009.01.31 00:21 URL | 奈良たかし #L1ch7n1I [ 編集 ]
kojitakenさん、皆さま、こんばんは
中谷巌さんの転向は、労働者の惨状をみて、間違っていたと懺悔するのは人間的であり、竹中氏など未だに新自由主義を信奉する人達よりは明らかに評価できるものと思います。
竹中氏のように、改革が途上だったというすり替えや、格差はできて当然、と新自由主義のモットーである非人間的姿勢を貫いているのをみると憤怒します。
新自由主義、市場原理主義で何もかも行くと考えたら、大間違いです。
新自由主義、市場原理主義は強者の論理で、ハードルを下げての殴り合いでは、強い者が絶対的に有利です。
資本主義では、実力以上に、富が偏在します。
人権や雇用、環境といった、人類が克服しなければ問題には、自由競争、経済の論理では、それらを阻害するこそあれ、絶対に達成できません。
人権や雇用、福祉、教育を守るために、民主主義が生まれたように思います。
新自由主義、市場原理主義は歴史の大きな流れには逆行してます。
人権や雇用、福祉、教育、環境を守って、人々が最低限の幸せに過ごすためには、経済活動の上に民主主義を置くべきだと思います。
北欧の福祉国家が、世界有数の競争力のあるのは、その辺の理由からだと思っています。
その為にも、民主主義が機能すること、政府に国民の信頼があることが必須条件と思います。
経済活動はグローバル化し、常に低レベルへと傾きがちになります。
新自由主義の蔓延により、ハードルは極めて低くなりました。
経済活動において、人権や環境というセーフティネットという網を世界で構築できるかが、21世紀のテーマだと思っています。
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