大岡の小説は、有名な『野火』を読んだことがあるものの、とてもではないが良い読者などではなかったが、印象に残っているのは、没年の1988年、昭和天皇が病に倒れたことについて聞かれて、「おいたわしい」と発言したことだ。この言葉に大岡はどんな意味を込めたのだろうか。だが、それについて語る前に、昭和天皇よりも2週間早い1988年12月25日、大岡昇平は急逝した。
大岡と交流のあった音楽評論家の吉田秀和が、追悼文を朝日新聞の「音楽展望」に発表した時、この発言に触れたと記憶しているが、手元に資料がなく、ネット検索しても何も引っかからなかった。だが、このネット検索で思いがけない新聞記事に出くわした。
毎日新聞の伊藤智永記者が12月6日付の同紙「発信箱」に書いた「音楽を言葉に」である。
伊藤記者の名前には見覚えがあった。コイズミ政権最後の年の2006年、毎日新聞の名物コラム「記者の目」で「小泉改革とは何だったのか」と題した記事を発表したことがあり、それをブログをはじめたばかりでまだほとんど読者のいなかった当ブログが取り上げた。
http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-24.html
ここでは、昨日のエントリで批判した関岡英之を肯定的に取り上げるなど、昔書いた記事だなあと思うが、取り上げた対象の伊藤記者の記事も、率直に言って、むしろコイズミへの批判の生ぬるさが感じられるものだった。だからエントリに「毎日新聞は小泉を正しく批判していたか?」というタイトルをつけた。今伊藤記者の記事を読み返すと、コイズミのみならず「新自由主義」への切り込みに、さらに不満を感じる。
だが、大げさに言えば「コイズミは神聖にして侵すべからず」のような雰囲気があった2年半前に、伊藤記者が「空気」に抗してコイズミカイカクに疑義を呈する記事を書いたこと自体は、今でも高く評価している。
その伊藤記者が、吉田秀和について論じている。以下引用する。
発信箱:音楽を言葉に=伊藤智永(外信部)
音楽評論家の吉田秀和氏は、大好きな相撲の実況中継を通して音楽を言葉にする方法を学んだ。目まぐるしい動きと一瞬の勝負のポイントを的確に分かりやすく伝えるすべが、音楽批評の勘所に通じるという例えは素人にも得心がいく。
95歳で現役の吉田氏の歩みを、鎌倉文学館が小さな企画展で紹介している(14日まで、月曜日休み)。感じ入るのは30代までの修業時代、吉田氏が方法論の前に、音楽を言葉にする仕事へにじり寄っていく精神の核を形作っていったことだ。
詩人・吉田一穂との交友で「本質だけを追求すること」こそ快いと知り、中原中也の詩の朗唱に「小鳥と空、森の香りと走ってゆく風が、自分の心の中で一つにとけあってゆく」言葉の魔力を体感し、ニーチェの著作から「感覚と心情の芸術としての音楽のほかに、精神の科学としての音楽を教え」られた。
50代で、なお「自分が一向に傷つかないような批評は、貧しい精神の批評だといわなければならないのではあるまいか」と青年のように宣言している。
後の吉田氏は「?かしら?」と口語調の平明でふくらみある言葉づかいになった。固い心棒ができているからだろう。
さて、新聞のコラムはとかく社会的教訓の落ちをつけたがる。ネットにあふれる他人を批評する言葉のゆるさ、政治や経済の言葉の薄っぺらさ……。
興ざめでしょう。そこで、吉田氏が明かす相撲中継以外の名文修業のコツを。夏目漱石、小林秀雄、大岡昇平。共通するのは皆、落語調ということ。
ちなみに吉田氏は、もう30年以上、FMラジオで一人語りを続けている。
毎日新聞 2008年12月6日 0時00分
この記事で印象に残るのは、
という箇所だ。そういえば、「自分が一向に傷つかない」どころか、自分が傷つくことを過敏なまでに恐れ、自分に対する「優しさ」を強要するような輩が目立つ。自らへの批判を、権柄ずくで抑え込もうとする佐藤優などはその典型例ではなかろうか。文章で飯を食っている人間でさえそうだから、一銭にもならないブログを書いている人間の間では、むしろ普通に見られるタイプではないかと思う。そして、そういう人たちが「世間」を形成して、異分子には「村八分」で対応し、「鵺のようなファシズム」を形作っていく。50代で、なお「自分が一向に傷つかないような批評は、貧しい精神の批評だといわなければならないのではあるまいか」と青年のように宣言している。
いや、人のことばかり言ってはならない。これは、何よりも私自身が自戒しなければならないことだ。公の空間に言葉を発するとはどういうことか。常に「覚悟」をもって、自分の書くものには責任を持たなければならない。
伊藤記者の記事に話題を戻すと、記事で紹介されている、吉田氏がFMラジオで30年以上続けている「一人語り」というのは、NHK-FMで今も続く「名曲のたのしみ」という番組のことで、調べてみると1971年4月11日開始だそうだ。私は、この番組でモーツァルトの音楽が作曲年代順に取り上げられていた70年代半ばから同年代末頃にかけて聴いていた。私にモーツァルトを教えてくれた懐かしい番組だが、3年前の夏、寝台列車の中でラジオをつけたら、偶然この番組が流れてきて、朝日新聞の「音楽展望」は3か月間隔になってもラジオ番組はまだ続けておられるのかと驚いたものだ。この時、吉田氏は既に91歳だった。
伊藤記者は、「ネットにあふれる他人を批評する言葉のゆるさ、政治や経済の言葉の薄っぺらさ」を批判する一方、名文修行のコツとして、
と書いている。ここでやっと大岡昇平に戻ることができた。夏目漱石、小林秀雄、大岡昇平。共通するのは皆、落語調ということ。
あと書いておきたいのは吉田秀和の盟友だった加藤周一のことで、ネットで検索すると、「加藤周一と吉田秀和を読むために朝日新聞をとっている」と書いている人が少なからずおられるが、私も同様だった。これは加藤氏が逝去された翌日、12月8日付のエントリにも書いたことだが、何度でも書かずにはいられない。そして、いつかは来る日だったとはいえ、この時期に加藤周一を失った損失の大きさに思いを致さずにはいられない。
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「鵺のようなファシズム」。言い得て妙な言葉ではありますが、もともと、「鵺」自体が、怪奇な理解しがたい妖異を何とか評した言葉で、実際に「鵺のようなファシズム」が、どのようにして起きるかは、まったく想像しがたいのが難点です。
しかし、実際に歴史的にそれを経験してきた日本人には、直接は体験していなくても、なんとなく、その感覚がわかるのです。
論理ももちろんですが、ほかにも嗅覚、聴覚、肌ざわり。そして自分自身の思考でこの「鵺」の襲来を感じ取らねばならないでしょう。
全くもって気が抜けない時代です。
「野火」は、野間寛の「真空地帯」と一緒に読みましたが、当時私はこの両書を消化する力がありませんでした。
今の時代、他の戦争文学とともに、再読されるべきものでしょう。
2008.12.25 08:03 URL | 眠り猫 #2eH89A.o [ 編集 ]
おはようございます、KOJIさん。
「ぬえ」の正体は、やはり、どうも掴みきれません。癌細胞のように、未成熟な自己細胞の暴走っていうのが、近いのかな?
社会の激変で、大量に『放棄』された人々が、『手っ取り早く』特権を得ようと、もがく中で、「醗」生する。どんなあ古臭い社会でも、『貴族層』はそれなりに『受け継がれるべき価値を継承すべく、様々な仕組み・因習を持っているんやろうけど、傍目には『ブラックボックス』で、或いは、新規参入者には、結構チンケにも観える。これやったら、簡単に乗っ取れそうと。この安易さが、『癌細胞』程度の成熟度ゆえ、元の『特権』連中のより、さらに悲惨な結果をもたらすんとチャうかいなあ~とか思ってみたりします。
革命はもちろんの御琴、改革も、かなり叫ばれる割にしょっちゅう『掛け声倒れ』になるのは、『社会制度の束』の精緻な複雑さを、『蔑ろ』にしてしまうからかな。本来『保守』というものがいれば、そこらを堅持してバランスが取れるんでしょうけど、名ばかり『保守』しか居ない気がします。『改革踊り』の好きなポピュリストだらけ。特にこんな『下がり目』の時期には一層、何を何故、『保守』するか判らんまま迷走していくはずで、・・。この社会がどうゆう仕組みで、うまく転がっているか?から、考え直さんと、つまり保守を再建?再発見?せんと、癌と正常細胞との識別さえ出来ない。ああ、面倒くさい・・。
ところで、眠り猫さん。野間さんは『宏』ですよーん。
2008.12.27 04:40 URL | 三介 #CRE.7pXc [ 編集 ]
大岡昇平の命日は正確に記憶していませんでした。大岡昇平にはkojitakenさんのおっしゃる『野火』をはじめ傑作がたくさんあり、敬愛する文学者の一人ですが、残っている逸話にもおもしろいもの、興味深いものがいろいろあり、これも好きです。
○ 昔、文壇囲碁大会に優勝するつもりで張り切って参加したものの、善戦むなしく1回戦で尾崎一雄に敗退したとき、最後の駒を盤上に放り終えるや「ひでぇ番狂わせだッ!」と大声を挙げたそうです。このことを対戦相手の尾崎一雄は勝利者らしく落ち着き払って、またいかにも愉しそうに書いています。「番狂わせかどうかは知らないが、負けて「番狂わせだッ!」と叫ぶよりも、勝ってゆったりしている方がずっと気分がいい」と。
そしてこの尾崎一雄の文章は、大岡昇平に言わせると、友人間でとても評判が良かったそうです。「アイツ(大岡昇平のこと)の根性がよく出ている。」と。読んで私もそう思いました。
○フィリピンの戦場で歩哨に出ているとき、大岡昇平はよく友人であった亡き中原中也の詩『夕照』に勝手な節をつけて(作曲して)歌っていたそうです。
「丘々は、胸に手を当て退けり。 落陽は、慈愛の色の金のいろ」
大岡昇平は自分の綽名は「僻み屋」とか「淋しがりや屋」で、「昔から、人の訪問を受ける回数を1とすれば、自分が相手を訪問する回数は10回になる。どんな交友関係でも自然にそうなった」そうですが、ただその自分も決して叶わなかった極度の訪問魔がただ一人いて、それが中原中也だったと書いています。
○ものすごい論争家だったこと。晩年(81~84年)になされた埴谷豊高との長い対談(二つの同時代史)では、中村光夫やマルクスやスタンダールから論争術を学んだと述べられています。『蒼き狼』論議をはじめ数々の論争では論敵を「徹底的にやっつけてやる」「勝ってやる」というような気概が横溢。迫力に圧倒されるのですが、埴谷雄高は老いてもなおするどい大岡昇平の批判精神についてこう述べています。
-いやぁ、きみは本当に闘争力が旺盛だな。独歩に対しても闘争心、中村(真一郎)に対しても闘争心、そのうちに埴谷に対しても闘争して、死者たちについて何か書くんじゃないか。実際、感心なものだよ。ただ、その闘争心は他の人に向けてくれ、おれに向けないで(笑)。
「その闘争心は他の人に向けてくれ、おれに向けないで(笑)。」には笑ってしまいますが、この対談ではかつて加藤周一が荒正人や本多秋五などとはげしい論争をしたという話も埴谷雄高から出ています。
○それから大岡昇平晩年の昭和天皇に対する「おいたわしい」という発言ですが、これは私も喉にささった小骨のように気になっています。天皇制と天皇個人とを峻別しているということかも知れませんが、そういえば、大岡昇平が昭和天皇についての感情や見方を述べているのを読んだり聞いたりしたことはなかったように思います。
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ごう慢と無知
イヴォンヌ・リドリー 2008年12月10日 Information Clear
2008.12.26 20:09 | マスコミに載らない海外記事