1990年代の前半には、「政治改革」の議論があった。その頃、日本経済はバブルが崩壊して変調をきたし始めていた。バブルが弾けたのが明確になったのが、1992年だった。政局的に見れば、92?93年の政治改革は、旧田中派内部の抗争という側面があったと思うが、政治思想的には新自由主義が台頭していった。
日本の社会が新自由主義の洗礼を受ける経緯は、3年毎に象徴的なイベントがあって、そのたびに深みへとはまっていった。バブル崩壊が顕在化した1992年の3年後、1995年には日経連(現在は経団連に統合)が「新時代の『日本的経営』?挑戦すべき方向とその具体策」という悪名高い報告書を出した。原報告書はインターネット上では参照できないようだが、財界は、労働者を、「長期蓄積能力活用型グループ」「高度専門能力活用型グループ」「雇用柔軟型グループ」という3つのグループに分け、労働力の「弾力化」「流動化」を進め、総人件費を節約し、「低コスト」化しようとした。実際、その2年後には企業に派遣社員が急増するようになった。
経済の収縮期に財政再建政策をとったのが橋本龍太郎内閣(1996?98年)であり、1997年4月からの消費税率引き上げは、同年7月に始まったアジア通貨危機と相俟って日本の景気を急に悪化させたが、業績の悪化に苦しむ企業は、過酷なリストラを開始した。もともと再構築を意味するrestructuringという言葉が「首切り」の意味に使われるようになったのはこの頃だ。首切りのほか、成果主義の賃金制度を導入する大企業が増えたが、これも人件費の抑制を真の狙いとしていたから、弊害の方が目立った。社員が成果主義で悪い査定を食うのを恐れて、リスクをとらなくなっていった。こうして企業社会に新自由主義の嵐が吹き荒れるようになった1998年は、自殺者が急増した年、民間給与所得の9年連続減少が始まった年として記憶される。失政を招いた橋本内閣は、自民党有利と予想されたこの年の参院選で惨敗して退陣したが、攻勢に出るべき野党が攻めを誤った。菅直人の民主党は自民党を攻め切れず、一方、小渕恵三首相は98年11月に小沢一郎の自由党と連立政権樹立で合意した。小渕内閣は、99年に数々の悪法を成立させ、日本の右傾化に大きく舵を切った。経済政策では、アメリカの意を受けて大型の財政出動を行った。その間、ITバブルが生じて日経平均株価は一時2万円を超えたが、森内閣時代の2000年春頃にバブルは弾け、以後株価は2003年まで下降局面となった。
次の転機は2001年のコイズミ内閣成立であり、さらなる転機は、今度は3年後ではなく4年後、2005年の郵政解散・総選挙だった。コイズミ以降については本エントリには詳しくは書かない。ただ、90年代後半に新自由主義の嵐が吹き荒れた頃の企業社会を覚えている者にとっては、小渕は財政出動で借金を膨れ上がらせたけれども効果がなかった、コイズミ時代に竹中平蔵が小さな政府と金融政策を組み合わせる新自由主義の政策をとって景気は回復したのだという、よく言われる宣伝が大嘘であることは自明である。あの頃の企業業績の回復は、90年代末頃からの企業の、それこそ激しい「痛みを伴う」再構築(リストラ)によってなされたものだ。しかも、その成果は従業員には還元されなかったことは、前記の9年連続の民間給与所得減少から明らかである。「実感なき景気拡大」と言われるのも当然で、日本の中産階級は没落し、格差は拡大して貧困に直面する人が急増した。
今回のアメリカ発金融危機は、97年のアジア通貨危機や98年のロシア財政危機を受けたヘッジファンド・LTCM(ロングタームキャピタルマネジメント)の破綻を思い出させるもので、実体経済の裏づけのない投機資金が一国の経済を破壊し、回りまわってマネーゲームを仕掛けた側まで破滅させるという馬鹿げた金融資本主義の時代がいつまで続くのだろうかと思う。今回、ついにアメリカ経済を本格的に痛めつけることによって、ついにこの悪魔の時代が終わるのかもしれないが、この嵐が過ぎ去るまでに、いったいいかなる混乱が待ち構えているか、もちろん私自身もそれにいつ巻き込まれてブログなどを更新していられなくなるかも分からないのだが、全く先が見えず気が滅入る今日この頃なのである。
- 関連記事
-
- 部落差別主義者・麻生太郎新総裁&地方票0の小池百合子 (2008/09/23)
- 90年代以降の日本社会の没落を回顧してみる (2008/09/18)
- コイズミカイカクと政官業癒着が引き起こした汚染米事件 (2008/09/15)
新自由主義という名前は新しそうですが、経済学では、新古典派経済理論と呼び、つまりは、世界の戦後復興を支え、欧米日に繁栄をもたらしたケインズ経済学よりも古い、「野放しの自由」をうたう経済理論です。極論すれば理論じゃない。政府は経済に無責任で、あとは弱肉強食でやってくれ、という非常に乱暴かつ稚拙な論だと思います。
結果、「やった者勝ち」、「勝てば官軍」の考え方が急増し、一気にモラルハザードを引き起こし、それが今の食品偽装や汚染米の話につながっているとも言えます。
利益至上主義の過程で、安全や安心を捨て去ってきた姿が、今のアメリカの貧困と、日本の不正の嵐です。
マクロ経済で言う、財政出動はケインズ主義的色合いがありますが、日本においては、それはまた、競争無き、政官業癒着の利権の構造でした。
日本は今、新自由主義を捨てるとともに、旧来の土建ばらまき型財政出動にも異を唱える新しい政策が必要だと思います。
私はそれを、企業の社会的責任をさらに強調したうえでの、高福祉高負担の内需主導型社会の実現だと思います。
2008.09.18 08:21 URL | 眠り猫 #2eH89A.o [ 編集 ]
隼の伊勢です。今日も、ダウ暴落。公的資金をもっと投げ込む。アメリカ発の金融メルトダウンの底が見えない。困ったことに、FRB~TREASURY・DPT~SEC~US政府を日本政府も、財界もコントロールできない。幸運なことに、日本の金融界は大被害を受けなかった。問題は、米ドルの信用力です。為替協調介入は避けられないが、条件を付けるべきです。しかし、国の防衛をアメリカにおんぶでは限界がある。ごきげんよう。
2008.09.18 12:40 URL | iseheijiro #- [ 編集 ]
眠り猫さん、
> 新自由主義という名前は新しそうですが、経済学では、新古典派経済理論と呼び
新自由主義は新古典派経済学という経済理論を包含するイデオロギーであって、その真の狙いは富裕階級への逆再分配と階級の固定化だとする説が、私には説得力を持ちます。
「新自由主義」という言い方が一般になったのはいつ頃からでしょうね。世間一般で用いられるようになったのは今世紀に入ってからだと思います。
公共事業による国土開発は、高度成長期には有効でした。私が少年時代に住んでいた街は、都会地区でしたが、未舗装の車道がまだありました。あの頃、道路の建設は乗数効果の大きな公共事業で、あれも広義の福祉国家の政策に数え入れてもよかったと思います。でも、現在では仰るように乗数効果は全然なくて、一部の業者と、それと癒着した政官が潤っているだけですね。
一部の政官業しか潤わない事業を「ばらまき」と表現するのは実はおかしくて、全然一般庶民への再分配がなされていないわけです。だから、あれは「ばらまき」じゃない。一部の人たちにしか再分配されないから。
一般庶民に対する「ばらまき」と新自由主義者が非難する政策は、実は「再分配政策」と正しく呼ばれるべきものであって(もちろん麻生なんかが主張している政策じゃありません)、需要を喚起し、景気を改善する効果を持つものです。
トラックバックURL↓
http://caprice.blog63.fc2.com/tb.php/738-ee5fbbc4
言葉と「目立ち度」が大事
この社会を支配しようと思う者は言葉を重視する.
2008.09.20 06:46 | ペガサス・ブログ版