きまぐれな日々

『フンニャロメ日記』経由で知ったのだが、植草一秀さんが、当ブログが投げかけた疑問に答える形で、「「独立自尊外交」について」という記事を公開された。

その多くは、植草さんの著書『知られざる真実?勾留地にて』からの引用であり、そこにはネオコン批判もナショナリズム批判もある。西部邁や安倍晋三(!)の言葉を引用している点は、「古い左派」の私には引っかかるが、それでもこのエントリからは、同じ植草さんのブログの「政治の対立軸(2)三つのトピックス」を読んだ時のような違和感は感じられない。

安倍晋三が首相就任時の所信表明演説で、アインシュタインの言葉を引用したと書かれているのを読んで、一瞬、安倍の盟友である平沼赳夫が信じている「アインシュタインの予言」なるトンデモかと錯覚したが、いかに頭の悪さで知られる安倍とはいえ、総理大臣としての初の所信表明演説でそんなへまをするはずもなく、真正のアインシュタインの言葉の引用だった。そういえば、安倍が総理大臣に就任した日は、私は運よく海外出張中で、不快なニュースをさほど見ずに済んだのだった。

コイズミカイカクを強く批判していたはずの植草さんが、コイズミの経済政策をそのまま受け継いだ安倍晋三の演説を著書で引用しているとは意外だが、論旨そのものには異存はない。しかし、「属人的議論」をいとわない私としては引っかかりが残るというのが正直なところだ。

だが、本エントリで一番言いたいのはそこではない。引っかかるのは、

私の言説に対する批判を私は一切排除しないが、批判する際には、私のこれまでの著作を踏まえてほしいと感じる。歴史認識、外交政策、経済政策などについて、マスメディアなどが勝手に創り出してきた事実と異なる私に対するイメージに基づいて批判されても、私としてはいわれなき事実誤認だとしか反論できない。

という植草さんの主張だ。

私は、植草さんのブログを読むまでは、植草さんに対してネガティブな先入観は全く持っていなかった。

ネット検索すると、2002年に榊原英資氏が竹中平蔵を「ペーパードライバー」呼ばわりして激しく批判し始めた時、植草さんも榊原さんと共同戦線を張っていたようだ。私にとっては、当時の榊原さんの激論はきわめて印象的だった。それまで新自由主義的な印象が強くて「いやなやつ」だと思っていた榊原さんが、突如としてコイズミ?竹中カイカクを批判し始めた時には、意外感と爽快感が入り混じった気分だったし、これでコイズミも終わりだ、と小躍りしたものだ。そうは問屋が卸さなかったわけだが。

率直に言って、植草さんの印象は榊原さんよりは薄かったが、それでもコイズミカイカクを批判した学者という認識はあり、植草さんに対して、ネガティブどころか肯定的な印象を持っていた。

ところが、植草さんのブログを開くと、右派民族主義系、陰謀論系、擬似科学系のブログへのリンクがずらりと張られている。特に私が問題にしたいのは、「4つの目で世の中を考える」へのリンクだ。これは、典型的な擬似科学系のブログである。

当ブログにおいて継続的なアクセスを得ている記事の一つとして、昨年12月23日に公開した「ネットに横行する「トンデモ」や「陰謀論」を批判する」がある。この記事で当ブログは、「ケムトレイル」だとか、「アメリカで行われている高周波活性オーロラ調査プログラム(HAARP)を気象兵器だとか地震兵器だとか騒いでいる人たち」などを批判したが、この時私が念頭に置いていたのが、この「4つの目」がどうこう、とかういうトンデモブログだった。

私が未知のブログを見るとき最初に気にするのは、そのブログからどういったブログにリンクが張られているかということだ。だいたい、どういうブログにリンクが張られているかでそのブログの性格がわかる。植草さんのブログを見てあ然としたのは、キラ星のごとく並ぶ右派系、陰謀論系、それに擬似科学系ブログ群へのリンクだったのだ。

植草さんは「ブログ初心者」とのことだから、単に植草さんを支援してくれるブログへのリンクを並べただけなのかもしれない。しかし、「リベラル・左派系政治ブログ」と呼ばれる世界に2年間いた私の経験からいうと、この世界では魑魅魍魎が跳梁跋扈している。そんな世界に参入してこられて、「批判する際には、私のこれまでの著作を踏まえてほしいと感じる」という言い分は通用しない。

念のため言っておくと、当ブログは植草さんの意思表示を尊重する。すなわち、次の植草さんへの批判は、植草さんが示された著書(『知られざる真実?勾留地にて?』)を読み終えるまでは行わない。まだ購入してもいないから、その時期は少し先になると思う。だが、いくら著書で高邁な理想を掲げていても、一銭にもならないブログだからといって、そこで擬似科学や陰謀論に迎合するようないい加減な記事や、本来のご自身の主義主張から離れているかもしれない右派民族主義者におもねるような記事を書かないでほしい。著書の主張とブログで書き飛ばした記事に整合性がない場合、言論人はその主張の正当性を疑われる。それで飯を食っているプロフェッショナルならなおさらだ。

プロなら、ブログの言論にも責任を持ってほしい。「著書を読まずにマスコミの宣伝による印象批評でいい加減なことを書くな」などと言わないでほしいと思うのである。

ちなみに、私がブログの記事を書くために費やした累積のコストは相当なものだが、リターンは一銭たりとも得ていない。それでも、自分の内心から突き上げるものに動かされて、ブログの記事を公開し続けている今日この頃なのである。


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 植草氏は、現在、自身の犯罪容疑を陰謀、それもアメリカの息のかかった連中によるものとして否定しているわけですから、当然自分に同情してくれる「陰謀論者」「右派民族系」を味方と考えるでしょう。
 彼の容疑について何の干渉もしない左派政党、左派人士とは自然、疎遠になるでしょうね。
 ただし、彼の業績や、客観的であるべき政治・経済思想は、ひとかどの学者なら、現在の個人的苦境とは無関係であるはずで、その辺りはブログに貼られてるリンクとかとは別に、見てあげるべきではないでしょうか。
 電磁波とか、地震装置とか、ハリケーン装置とか、ベンジャミン・フルフォードなどが唱えるものは、私も眉唾と思っていますが、山口組本部の前で演説をぶつ彼を、簡単に詐欺師とも断定できず、本気で信じているのか、それとも確かに本当なのか、真相は到底わかりかねます。
 ただ、いくら胡散臭いと言っても、彼らと交流があるから即ダメとか言うのもおかしいと思いますよ。以前、天木直人氏への批判のところでも書きましたが。
 それから、911の陰謀論については、ブッシュ政権そのものへの評価に関わることで、タブー視されてはいますが、安易に否定してはいけないと思います。これはUFOの話なんかとは次元が違います。

2008.06.27 23:57 URL | cube #- [ 編集 ]

日本のリベラルが911陰謀論を嫌うのは、私から見れば「案の定」で、意外ではないです。混乱して解放同盟のせいにする人もいますが。

仮に911陰謀論が証明されたとすると、「グローバル」「インターナショナル」の評判が悪くなり、相対的にローカルの評価が上がります。

ローカル社会の欠陥を、外部の権威で抑制・中和しようとする人、あるいはローカル社会そのものを嫌う人にとって、彼らの頼るインターナショナル・グローバルが腐りきっているってのは認めたくない情報です。

2008.06.28 10:27 URL | ねこ #mQop/nM. [ 編集 ]

>次の植草さんへの批判は、植草さんが示された著書(『知られざる真実-勾留地にて-』)を読み終えるまでは行わない。

言葉が葬られるひとつの例ですね。
・ある人は
・ある内容について
・ある期間
「発言しない」と言うことですね。残念です。
特に他の人がこのことを望んでいると言うわけでもないのでしょうから、自主規制のようなものですか。

貼られたバナー類を拝見すると、悪に挑む雰囲気が感じられ、大いに期待されます。しかし、他の人に注目されると発言を控えてしまう、となると、果たしてそれら巨悪に抗して行けるのか、と少々不安にもなります。悪漢共がこのブログに気が付いて何か言ってきたら...。

>批判する際には、私のこれまでの著作を踏まえてほしいと感じる

違和感をお持ちのようですが、私もこれは一寸変かなと思います。
感じる気持ちは分かるのですが、本当にそうあるべきだと感じているとしたら、自身の活動を限定的にしてしまいます。自著の読者のみ、と。しかし、それでは指摘されるような問題を正したり、主張を社会に浸透させたりするには不十分です。例えば、実際に、どちらかと言えば支持しているはずの「きまぐれな日々」ブログが、抵抗感のようなものを新たに持つわけですから。悪に投票する人を減らし、悪に気付き反対する人を増やす、ことが目指すべきことのはずです。
人々が連帯しようとするとき、民主的であることは、その連帯を強めるためのひとつの方法だと思います。その場合、議論することや説明することはとても重要です。少々手間のかかることですが。同じことを何度も繰り返し説明したり、他で参照できることを言葉を変えて説明したりと。そういった意味では、上記引用の内容は、あまり民主的な視点には立っていません。もちろんこれは一つの考え方であり、外来の文化かも知れませんが。

何かに反対するのであれば、集合するのもしないのも、何れもあり得ると思います。集合しても計画されないなら、むしろ個人の動きを制限されることに不都合を感じるかも知れませんし。『「植草一秀さんを中心にした反自民の結集」には応じられない 』と言うのも、反対しつつもあり得る選択肢だと思います。
一方、何かを作ったり達成したりするためには、人々は集まり手を携えたほうがより効果的かも知れません。もちろん、内容にもよりますが、例えば創造的な分野とかでは個人でも構わないでしょうし。計画することは重要です。

2008.06.29 08:03 URL | #- [ 編集 ]













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