きまぐれな日々

このところ、当ブログの更新は週4回のペースだが、更新しない日でも裏ブログ 「kojitakenの日記」 でバトルをやったり、他のブログにお邪魔したりしている。

実は、ネットに割く時間を減らして、もっと勉強したり、以前のように外に出て体を動かしたりしなければならないと思っているのだが、思うにまかせない今日この頃なのだ。

自分のブログのコメント欄もコメンター同士がバトルをするがままに任せておいて(5月17日のエントリへのコメントは、50件以上に達して過去最多となった)、よそさまのブログでバトルをするとは、なんて勝手なやつかと自分自身でも思う(笑)。

私がブログを始めた頃は、いろんなブログにお邪魔してコメントをすることが多かったが、次第にその頻度が減って自分のブログに専念するようになり、コメント欄にいただくコメントに返事する頻度も減らしていった。基本的に、私は自分のブログのコメント欄をコメントを下さる方との議論の場とは見ていないからだ。但し、コメントされる方同士の議論は放任している。よほどひどいコメントや荒らしの常習犯によるコメント、あるいはスパムコメント以外は、右翼のコメントだろうが極左のコメントだろうが承認している。当ブログにコメントを削除された方は、「よほどひどいコメント」だと私がみなしていると考えてほしい。なお、削除する/しないの基準は私の勝手な判断によるものであり、苦情は受けつけないことをおことわりしておく。

そういう状態だったのが、このところよそさまのブログに出向いてコメントしたり、時にはケンカをしたりすることが多くなったのは、正月以来の「水からの伝言」騒動がきっかけである。この騒動については、1月15日付エントリ "「水からの伝言」をめぐるトラブルの総括" で一度当ブログとしての区切りをつけようとしたし、騒動も1月の後半には下火になったが、その後 「週刊金曜日」 が編集後記で取り上げたことがきっかけになって騒動が再燃した(4月19日エントリ "再燃しかかった「水からの伝言」騒動" 参照)。

再燃した騒動の特徴は、「水からの伝言」を肯定的に紹介したブログを批判した 「たんぽぽのなみだ?運営日誌」 およびそれに賛意を表するブログ(「批判派」と名づけられた)が、批判を受けたブログに同情するブロガーやコメンター(「共感派」と名づけられた)から感情的な非難を受けたことだ。

その最たる例が、たんぽぽさんが批判の対象とした 「らんきーブログ」 のぶいっちゃんさんに「謝罪を要求した」という事実無根の風評が生まれたことだ。これを元に「批判派は『連合赤軍』みたいだ」とか、「いや、あれは『解同』(部落解放同盟)のやり口だ」とか、果てには「批判派は『ソーカルト』(創価学会とカルトをかけ合わせた造語)だ」と言いだす人まで現れた。1月の騒動の時にはたんぽぽさんは「雑談日記」のSOBA氏に「日共」とのレッテルを張られていたから、同じ人が「日共」「連赤」「解同」「ソーカルト」の4種類のレッテルを張られたことになる。「共感派」の陰謀論を好む体質が浮き彫りになっていて興味深い(笑)。

なお、謝罪要求が事実無根であったことを示したのは、「玄倉川の岸辺」 の名エントリ "幻の謝罪要求" である。このエントリは、最初に「幻の謝罪要求」をでっち上げたのがニケ氏というブロガーであることを示した。 玄倉川さんは、「幻の謝罪要求」は、ぶいっちゃんさんと水葉さんがでっち上げたものではないかとしている。

しかし、当ブログが指摘しておきたいのは、「共感派」の間では、共感を重んじ議論を嫌うあまり、議論をしたがる人間を「連合赤軍」にたとえるような体質(つまり、「極左」「過激派」といわんばかりのレッテルを張りたがる体質)は、何も今に始まったものではなく、「騒動」以前からあったということだ。これを以下に示す。

昨年11月22日付 「わんばらんす」 の記事 "またまたブログについて・・・緊急エントリー!" のコメント欄に、喜八さんが
「議論」は万能などではない。
「議論」が物事を悪化(最悪化)してしまうことも珍しくない。
つねづね、私はそう思っています。
「連合赤軍事件」で仲間を大虐殺した青年たちも、殺し合いを始める前にたっぷりと「議論」をしていたみたいです。
(だから、議論をするべきではない、と言うわけではありませんが・・・)
と書いている。

つまり、「共感派」の間には、コミュニティの平和(=馴れ合い)を破る闖入者を「ギャーギャーうるさい屁理屈をこねるやつだ。まるで連合赤軍みたいだ」と言って排除する「空気」はもともとあったということだ。たんぽぽさんは、彼らにとって「KY」であり、排除されるべき対象だった。

再燃した「水からの伝言」騒動は、1月の論戦で劣勢だった「共感派」のカタルシスを求めた絶望的な闘争だったと思う。彼らの何人かはブログの閉鎖や休止を宣言した。ブログなんて勝手に始めて勝手に更新しなくなって、もういいや、と思ったときに静かに閉鎖すればよいものだと私はブログを始めた時からずっと思っているから、ブログをやめるのやめないのと言ったり、それを慰留したりしている人たちの気がしれなかった。批判派を「連合赤軍」呼ばわりした人はブログを閉鎖したけれど、ブログを「辞める」のをやめた人もいたし(「やめる」に「辞める」という字を当てること自体大仰だと思うが)、ブログを閉鎖しないであちこちのブログに出没して自己愛に満ちたコメントを書き散らした人もいる。

こういった状況は、従来の「水からの伝言」が問題になるたびに論じられた「擬似科学批判」とはかけ離れたものになっている。これを指して、アカデミズムやそれに近い世界にいる人たちからは、「公論であるべき "水伝" 批判が私闘になっている」という批判がある。1月に当ブログが騒動に乱入した時に私は 「雑談日記」 のSOBA氏に宣戦布告をしたのだが、それが個人的動機に基づいているという批判も受けた。

だが、今だから白状するが、「個人的動機に基づいて」の宣戦布告は、意識的にやったのである。公論と私論なんてはっきり分けられるはずがない。日本の政治史を顧みても、たとえばロッキード事件での田中角栄元首相の逮捕は、時の総理大臣が三木武夫でなければあり得なかった。あの逮捕劇には三木の「私闘」という側面が確かにあった。そして、近年で最悪の「私闘」の例は、コイズミの「郵政解散・総選挙」だろう。

「水伝」騒動でも、一時、「共感派」に対する批判派は「論理派」と称されたこともあったし、今も「共感派」から「論理村の人たち」と呼ばれて攻撃されている。しかし一方で、政治ブログにおける「水伝」批判派は、アカデミズムの「水伝」批判派を意識して、"「私闘」宣言" をしている(「nagonaguの日記」)。私もこれに賛同したい。

そもそも、「私論」だの「公論」だのというのは、発話者が決めるものではない。本人は「私論」のつもりでもそれがパブリックな性格を帯びることもあるし、発話者が力み返って「公論」を述べていたつもりが、はたから見ればごく限定された範囲でしか通用しない私論に過ぎなかったりする。「私闘」批判をして「公論であるべし」と主張した人の文章は、不必要に長大だった。それだけでも「公論」失格だ、そう私は思った。

ところで、アカデミズムの世界の人がネットでやる議論には、一部でかもしれないが、「議論は属人的であってはならない」というルールがあるらしい。これは、円滑なコミュニケーションをするためには、「書かれてもいないことを勝手に読み取ってはならない」という経験則からきているようだ。しかし、「議論は属人的であってはならない」というテーゼはいささかエキセントリックであって、経験則を不必要に拡張したものであるように私には思われる。特に、人文・社会科学においては、人間的・社会的コンテキスト(文脈、脈略。あるいは状況、環境)を抜きにして、テキストのみに基づいてすべてを議論することはナンセンスだ。

「擬似科学批判」というのは、自然科学の分野には属さないと私は思う。擬似科学を悪用する人たちがいて、擬似科学にいとも簡単に引っかかる人たちがいるから、擬似科学批判が必要なのではないのか。つまり、すぐれて人文・社会科学的な分野だ。だったら、「議論は属人的であってはならない」というのは、議論を深めるのを阻害するドグマなのではないのか。

当ブログの2006年7月28日付記事 "差別用語なんて存在しません" で、20年近く前にネットニュースで話題になった「差別用語論争」をとりあげたことがある。そこでも当初、「差別用語なんて存在しません」という「合意」が成立したが、このフレーズがコンテキストを無視して用いられたために論壇は混乱し、さらなる対立と激論を招いた。そして、「言葉が使われているコンテキストを無視して、差別用語があるとかないなどと議論しても意味がない」というまっとうな指摘がなされて、その認識が定着するのには3、4年の歳月を要したのである。

人間なんてそんなに簡単に進歩するものではない。現在繰り広げられている騒動も、20年近く前と何も変わっていないし、何百年の昔と比較してもそんなに変わっていないのではないかと想像する今日この頃だ。


[追記] (2008.5.25)
玄倉川さんのご指摘を受けて、本文を一部修正しました(「このエントリは、最初に「幻の謝罪要求」をでっち上げたのがニケ氏というブロガーであることを示した。」という部分を取り消し、赤字部分を追加)。


#この記事は、「トラックバックピープル・自民党」 にトラックバックしています。ここにTBされている他の自民党関係の記事も、どうかご覧下さい。

↓ランキング参戦中です。クリックお願いします。
FC2ブログランキング

関連記事
スポンサーサイト

わたし(たち)は、論理派にして私闘派になるけれど、
よく考えたら、しっかり矛盾してますね。(笑)

「論理」というのは、どこでも通用する普遍的な正義を
押し付けていると、「共感派」から見られているし、
「私闘」というのは、そこでしか通用しない正しさしか求めないと、
「公論派」から言われていたからだけど。

おなじ人たちで、おなじことやっていても、
立場が違えば、違って見えるのねと、無難なことだけ、
ここでは言っておこうかな。(笑)

2008.05.24 23:36 URL | たんぽぽ #ZiqE0vWU [ 編集 ]

玄倉川です。

「このエントリは、最初に「幻の謝罪要求」をでっち上げたのがニケ氏というブロガーであることを示した。」

これは私自身の認識とは違います。
「幻の謝罪要求」はぶいっちゃん氏と水葉氏の合作、というのが今のところの考えです。
ニケ氏が「騒動」の始まりの時点でたんぽぽさんに謝罪を勧めたのは事実です。この行為が「らんきーブログ」読者の間に「謝罪」という概念を強く印象付け、「しつこく謝罪を要求されている」という幻が生まれる遠因となったのは間違いないでしょう。
とはいえ、「幻の謝罪要求」の直接の生みの親はぶいっちゃん氏と水葉氏です。

らんきーブログ 色々な人に支えられて・・・ 【感謝と反省】
http://rankeyblog.blog68.fc2.com/blog-entry-771.html

01.11 01:15 ぶいっちゃん 「例え、私が100正しくとも、子供に頭ごなしに言っても素直に
                  聞かないこともある。無理強いして「わかったか!謝れ!」と
                  言っても反発心だけが残るかもしれません。」
01.11 08:06 水葉      「何年も前に書いたものに対しても全てに責任を持ち、釈明や
                  謝罪の義務を課せられるのなら、もうブログに戻らなくてもいいや、
                  という気持ちにさえなったり・・・。」

このコメントこそが「幻の謝罪要求」の火元だと考えます。
ニケ氏は扇動によって「謝罪要求ガス」を充満させましたが、火付けの責任までは問えません。

2008.05.25 01:32 URL | 玄倉川 #USldnCAg [ 編集 ]

高校生の課外授業で、普段は大人しい担任の先生(化学担当)が一生懸命に熱く説明したのを覚えてますよ。
全ての生命体は同じ暗号?で構成されていて、その暗号とは水だとか。その水は言葉を理解する機能があるから、日常生活でキレイな言葉を使わないと体に悪い水を飲むことになるって内容でしたかね?

この理論はオノ・ヨーコ、大仁田厚、倖田來未、松坂大輔、広末涼子までもが、日頃から水を飲む時に「ありがとう」「勝つぞ!」と語りかけてから飲んでいると自慢気に力説してましたね。
根拠がイマイチ分からないし、正直怖かったので信じる生徒はいないと思いましたが・・・・完全にハマった女子が数人いました!

2008.05.25 03:18 URL | 与志 #- [ 編集 ]

失礼致します。 いつも理性的な?kojitakenさんともあろうお方が、またもや このような記事を書かれることにどれほどの価値があるのでしょうか? たとえ登り口は違ったとしても、目指している頂は同じなのではないですか?。 ましてや わんばらんす さんの記事は「水伝」とはなんの関係もありません。ここにわざわざ晒す必要がありましたか?必要性がありましたか?。 
リベラル的な視点から、少しでもこの国を、日本を良くしたい、私利私欲なくその一念でブログ続けておられる事、その思いは同じなのではないですか・・・ 
いつも拝読させて頂いてたので少し残念でした。 

2008.05.25 10:09 URL | 九十九の使者 #aR5DLEYU [ 編集 ]

九十九の使者さん
ある目的を達成するには、その目的に適した手段を使用する必要があります。
釘を打つときに必要なのはかなづちであって、木を切るときに必要なのは鋸です。
かなづちで木は切れませんし、鋸で釘は打てません。

問題は互いの議論を避け、議論することを否定し、あまつさえ議論を要求する人らを一方的に敵視するような人たちに、「この国を良くする」などということがそもそも可能なのか、ということなのではないですか。

肝心の入り口を間違えていたのでは、いくら本人が頂上を目指しているつもりでも、そのうち道に迷い、遭難してしまうことなどいくらでもありますよ。

2008.05.25 15:22 URL | かつ #- [ 編集 ]

かつさん、 そんなに政治を語る事は 難しい事なのですか?
専門的知識が必要な事なのですか?
かつさんを納得させなければ、 なんとか少しでも良い国になってもらいたいと思う事も おこがましい事なのですか?
山の頂きの話は比喩ですよね。 政治が山だとしたら、 多くの人達はその山を 見ようとさえしない、 その結果が現在の政治状況を生んだのではないですか。 まず山=政治を 多くの方々に知ってもらう事こそが大事なのではないですか?。
その意味で皆さんは頑張っておられるでしょう。
「水伝」の賛否は私は持ち合わせません。
ただ、水伝の記事と関係無い、わんばらんす さんの記事まで、あげつらわれる必要が有ったのか? 同じ想いを 持たれる方々なのに、もったいないなと素朴に感じたまででした。

2008.05.25 19:34 URL | 九十九の使者 #- [ 編集 ]

九十九の使者さん
専門的知識がいるとか、いらないとかいう話はしておりません。また、わたしを納得させなければ駄目だ、などという話もしておりません。だれでも自由に政治について語ることができるのは、もちろんのことです。

>山の頂きの話は比喩ですよね。
比喩だというのは分かっていますが、その頂上というのは「この国を良くする」という目的のことではなかったのでしょうか。わたしはそのように解釈しましたが、違っていたのなら、すみません。
さて、そうだとして、山の頂上に至る道は1つしかないわけではありません。しかし、だからといって、どんな道も頂上に通じているわけではありません。中には、頂上には至らず変なところへ出てしまったり、行き止まりになっていたり、石が落ちてきたり雪崩が起きたりする危険な道もあります。
もし、そういう道を選ぼうとしている人を見かけたら、あなたはどうなさいますか。知らない顔をし、見てみぬふりをなさいますか。それとも、声をかけて、そっちは危険だよと注意なさいますか。わたしが言いたかったのは、ただそれだけのことです。

2008.05.25 20:47 URL | かつ #- [ 編集 ]

かつさん、 なるほどですね。 で、 どなたが、 かつさんだけに山の頂きに登る、正しい道を教えたのでしょうか?事前に自分だけは正しい道を知っておられるのでしょう。

2008.05.26 00:35 URL | 九十九の使者 #- [ 編集 ]

正しい道までは知りません。
そんなものがあらかじめ分かっていたら、誰も苦労はしません。ただし、間違っている道ぐらいは分かります。

「陰謀論」を受容したり、「陰謀論」に疑いを持たなこと、議論を回避したり、議論を求める者を敵視するようなことは間違った道です。

問題を解くということは、すべてそういうことではありませんか。間違っていることが分かっている手段を、あらかじめ問題を解く手順についての考察対象から外すことがそれほどおかしなことでしょうか。

2008.05.26 00:46 URL | かつ #- [ 編集 ]

なるほど、かつさん、これが 言いたかったわけですね。私は、最初、断ったように自分は、「水伝」の話には、まだまだ賛否を持ち合わせていませんのでなんとも言えません。ただ今の科学でも万能では無い事は周知の事実です。要はその科学をどのように発展させ、用いるか、利用するかでしょうしね。。ただ私は、最初から違う意味で書いてますから。かつさんとは意見の帰結は見ませんね。
ただただ、皆さんが、もっと仲良くなれないものかなと思いました。。いまさら、関係ない事まで書かなくてもとね。
じゃ 失礼致しました。

2008.05.26 02:41 URL | 九十九の使者 #- [ 編集 ]













管理者にだけ表示

トラックバックURL↓
http://caprice.blog63.fc2.com/tb.php/642-d0e2d2e4