ちなみに、「左派」という言い方は、眠り猫さんはあまり好まないとのことだが、私も同様である。だが、少なくとも「右派」でないのは確かだから、相対的には「左派」なのだろうと割り切ることにしている。
よく考えていたのが、「AbEnd」系ブログがその「リベラル・左派」ブログ全体に占める比率がどのくらいだろうということだった。ネット右翼系では、「人気ブログランキング」で上位を占めるブログは日に5桁のアクセス数を記録しているが、「リベラル・左派系」全体である程度以上の影響力を持ったブログがどれくらいあるのか、その全体像は今に至るも全然つかめていない。
当ブログのような素人が運営しているブログではなく、プロの政治家やジャーナリストが解説しているブログは、あまりアクセスカウンタをブログに搭載していないのではないかと思う。私は、あまりプロの手になるブログに注目している部類の人間ではない。ただ、立花隆さんのブログが前首相・安倍晋三の「逃亡」寸前に公開した安倍の脱税疑惑に関する記事が、2日連続で日に130万件のページビューを記録したことは、週刊誌で知った。当ブログは先日トータルアクセス数が100万件を突破し、おそらく素人が運営している政治・経済関係のブログとしてはアクセス数が多いほうだと思うが、当ブログ1年半のアクセス数の総計は立花さんのブログの1日のアクセス数にも及ばなかったわけだ。これがプロとアマチュアの差なのだろう。
プロとアマの一番大きな違いは何か。それは、プロの方が柔軟かつ深い思考ができ、アマの方が型にはまった思考しかできないことだ。しがらみのないアマの方が好き勝手なことが言えるように思われがちだが、実際は逆だ。
たとえば、私はクラシック音楽を聴くのが好きだが、クラシック音楽の愛好家に対して、「権威に弱い」という偏見を持っている。クラシック音楽などというのはもともと権威にとらわれやすい世界なのだが、プロの音楽家は自由な発想ができる。そうでなければプロにはなれない。それと比較すると、評論家は権威に弱いが、それよりもっと権威に弱いのが一般の愛好家なのだ。
これは、政治・経済について意見を表明するブログについてもいえる。たとえば日本共産党は硬直的な体質を持っているとよく言われるのだが、以前ご紹介した 「編集者が見た日本と世界」 は、もと共産党の重鎮だった方のブログとお見受けするが、自由な考え方が感じられる。むしろ一般の共産党支持者のブログの方が、妙に共産党中央の指導者の言動とシンクロする主張が目立つように思う。
非共産党系のブログについても同様である。たとえば、アメリカ政府から日本政府に対して出される年次改革要望書のプログラムに沿って、アメリカに操られた日本政府が売国政策を行っている、という都市伝説もその一つだろう。前にも書いたが、これは関岡英之が最初に提起した仮説であって、仮説であるが故の単純化がなされている。仮説は常に検証されなければならないのであって、仮説がドグマ(教義)と化してはならない。そうなった状態こそが「原理主義」なのである。現在、一部のブログには「反『年次改革要望書』原理主義」のようなものがあり、一昨年の「郵政民営化法案」に反対した議員でさえあれば、昨日のエントリで批判した平沼赳夫のような、新自由主義者にして極右である議員の意見まで肯定的に引用しているブログさえある。これが、右派ブログの意見であればまだ首尾一貫しているのだが、一方で護憲を唱えておいて、他方で平沼に容認的な意見を表明できる神経が、私には信じられない。
原理主義に傾きがちなブログの悪弊として、批判を嫌う傾向を指摘することができる。たとえば、当ブログでは民主党・小沢一郎代表の国連重視に基づく「自衛隊のISAF参加」論を、自民党政府がやろうとしている、対米隷属の「自衛隊のインド洋給油継続」よりずっと筋の通った意見であると評価し、「給油の方がよっぽど安全」であるとする、マスコミでも田原総一朗あたりも平気で口にする考え方は、「安全な戦争ならやってもかまわない」と言っているに等しいと批判した。しかし、同時に小沢の主張に対し、平和憲法を持っている日本のなすべきことは、非軍事分野での国際協力であるとも主張している(さらに言うと、「テロとの戦い」なるもの自体欺瞞であると考えているが、これを論じ始めると長くなるので、ここではこれ以上述べない)。
つまり、どんな政治勢力や政治家の主張に対しても、是々非々で臨むというのが当ブログのスタンスだ。ところが、一部ブログでは「小沢一郎を守れ」という。これが、言論合戦にとどまればよいのだが、多くのブログが同じスローガンを唱え始めると、小沢への批判を許さない雰囲気ができあがってしまう。それが小沢の安全保障政策に対して批判的な方々の反発を招くのは当然のことだと思う。ついでに言うと、小沢一郎はブロガーに守られなければならないほどヤワな政治家ではない。
とにかく、批判を許さない姿勢は最低だ。人は、批判されることを喜ぶべきだ。本当にどうしようもないと見なされたら、批判されるのではなく無視されるだけだからだ。私は、「まあまあそんな硬いことを言わず」などと言われるより、むしろ批判されるほうがよほどましだといつも思う。意見の表明を封じられることほどイライラさせられることはない。
さて、またまた前振りが異様に長くなってしまった。ここからが本論である。
ここまでに書いたような思考の硬直したアマチュアとは、プロフェッショナルはやはりものが違うという例をご紹介したい。
それは、某所で教えていただいた、白川勝彦さんの論考である。白川さんは、いまや「絶滅危惧種」ともいえる保守本流というか、保守側のリベラル政治家だが、その白川さんのブログ 「永田町徒然草」 の10月26日付エントリ 「財務省職員の集団強姦事件!?」 の終わりのほうで、官僚は国民に対しては尊大だが、政治家に対しては卑屈だと批判しながら、こんなことを書いている。
尊大と卑屈の循環を改めるのが、本来の政治の仕事なのである。行政の“民主化”ということである。民主化とは、国民が主であるということである。わが国は戦後の民主化のなかで、行政の民主化をおろそかにしてきた。それはマッカーサー指令によって天皇制が存続することになった負の遺産なのである。秩序の中心であった天皇制が総括されることなくそのまま存続されたために、戦前の官僚制がそのまま残ったからである。これを“改革”することが新しい政権の任務である。
(白川勝彦 「永田町徒然草」 ? 「財務省職員の集団強姦事件!?」 より)
これには驚いた。白川さんの師匠格の加藤紘一代議士(自民党)は、「右翼は先の戦争の総括をしておらず、左翼は社会主義の総括をしていない」というのが持論で、私もそれに賛成なのだが、先の戦争を総括していくと、天皇制の総括にいきつくのは必然だ。そして、白川さんはそれに言及した。
前首相・安倍晋三は「戦後レジームからの脱却」を目指したが、本当に戦後レジームから脱却しようと思ったら、安倍の母方の祖父・岸信介が作り上げた「1940年体制」と呼ばれる統制経済の仕組みを変えなければならなかったはずだ。とはいえ、私は弱肉強食の新自由主義的「カイカク」をせよといっているのではない。高度成長には大きく寄与した「1940年体制」を、真に日本の国民の利益を考える新しい福祉国家を作るための体制に作り変えよと言っているのだ。そして、この改革を行うためには、先の戦争を総括しなければならないし、天皇制の総括も行わなければならないと思う。
白川さんのような意見が、保守の側から出てきたことを心強く思う。白川さんは1945年生まれで、まだ62歳。中央政界にカムバックして、日本の再生のために力を発揮してほしいと思う。
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古寺タケンさん、今晩は。
>天皇制の総括にいきつくのは必然だ。そして、白川さんはそれに言及
おお、すごい、確かにいまゃEUの大黒柱としてリードするドイツと比較して、
この辺は全く弱いので、アジアで中心的存在になれない。ま、左派も杓子定規で、その論説は力強さにかけ、保守政権の責任とばかりは言えませんが。
そ[白川さん言及]の背景には、やはり中国資本の台頭が在りますね。三輪耀山さんが、IMF論で、おッ射程多様に米中のハザマ[かつて都留さんも「ジャパンパッシング&ナッシング」なんていう米派の外交官の言を紹介していました]で、埋没する危機感。かといって重商主義に勤しむ経験に乏しいので、左右とも「閉じこもり」言説に陥りやすい国民性と果敢に闘い、本当の意味で「維新」なり、「革命」なり「対アジア・対米等距離外交」なりを構築する迫力不足。で、懐古主義と現状追認に融けて行くって感じでしょうか?
誰かが言ってました、「癒し」じゃなくて「闘い」が要るにゃと。確か府大の社会学のセンセイやったと記憶してます。
白川氏の呼び掛けを、真摯に受け止めんと、
確かに「世界史的挑戦・課題」=その大波のシタで、沈没するでしょう。
鎖国でも市場原理主義でもない、地に足付いたネットわ-苦&そのルール作り。左右ウを問わない深い[不快?]「理念」造りはじめるには、もっと危機感を持つべきでしょうね。適当に弱そうなンを叩いて悦べる程度の開放感に浸るより。
2007.10.29 00:48 URL | 三介 #CRE.7pXc [ 編集 ]
初めてコメントさせていただきます。見識のあるエントリーを読ませていただいております。有り難うございます。
あなたがおっしゃる「年次改革要望書の評価あるいは関岡氏の主張の評価・検証」が必要であることには賛成ですが、今現在の情報環境ではたしてそれらの完全な検証が可能でしょうか?
特に郵政民営化については10月1日という非常に重要な期日を過ぎてしまい、年次改革要望書と日本の改革の間に厳しい関連があると考えている人々にとっては・・・より多くの国民に「年次改革要望書」の存在を告知することが急務であると考えることはごく自然なことだと思います(あなたがおっしゃる完全な「検証」は今の段階では出来ないかも知れませんが)・・・そのことを「原理主義」という言葉で表現されることは少し違うように私は思います。
年次改革要望書の内容について取り上げておられるブロガーの方は少ない情報を調べ、ご自分なりの見識でエントリーされていると私には見えます。
右・左関係なく人を尊敬する人も多く居ますし・・・それがその人にとっての時宜に即した「是々非々」であることがあるのかも知れません。
今後もいろいろお教え下さい。
2007.10.29 11:52 URL | こば☆ふみ #mmbzY/b6 [ 編集 ]
選ばれる方が同床異夢なら、選ぶほうも同床異夢。
2007.10.29 18:32 URL | 観潮楼 #- [ 編集 ]
いつも勉強させていただいております。
ところで、
>一昨年の「郵政民営化法案」に反対した議員でさえあれば、昨日のエントリで批判した平沼赳夫のような、新自由主義者にして極右である議員の意見まで肯定的に引用しているブログさえある。
といって、平沢氏を全否定するのは、
>つまり、どんな政治勢力や政治家の主張に対しても、是々非々で臨むというのが当ブログのスタンスだ。
と矛盾しませんか?
あなた様のお考え方でしたら、平沼赳夫のような、新自由主義者にして極右であるものでも、彼が郵政民営化反対で信念を曲げなかった点は評価するべきじゃないのでしょうか。
2007.10.29 21:32 URL | ファン #- [ 編集 ]
今晩は。何度も、失礼します。
白川氏のような主張、
やや遠回しですけど、日経のあるコラムにも通底しているンかな?
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/yanai.cfm?i=20060203c9000c9&p=5
「昭和史となると自虐的に教育を回避している印象すらある。
だが、もはや終戦から60年たつ。国は感情的なナショナリズムに振り回されないためにも、戦時中の公文書を積極開示するなどして、広範で多面的な昭和史の研究を促進すべきだ。」箭内 昇氏のコラム
まあ、どうとでも取れる言い方ですけど、
もっと現代史を多角的に捉えて、論じ合えとは言っているようです。その中には当然天皇制も含まざるを得ないでしょうし、地政学的な観点とは、東アジア現代史の深化でしょう。
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年次改革要望書。関岡英之氏が「拒否できない日本」を出版して以来、ネットを中心(...
2007.10.28 23:40 | 日本を守るのに右も左もない