朝日新聞社が発行している論壇誌「論座」の7月号の投書欄「読者の広場」に、下記のような投書が掲載されていた。
断っておくが、私は自分を「左翼」であるとは全く考えておらず、リベラル系無党派の人間で、単に安倍晋三や自民党が大嫌い、自分が戦争で死ぬのはいやだから好戦的な安倍の防衛(というより軍事)政策に反対し、ごく一部が勝ち組になって残り大部分が負け組になる新自由主義社会では当然負け組になるに決まっているから新自由主義が嫌いで、だからコイズミ?竹中平蔵の新自由主義路線を継承している安倍の経済政策に反対する。突き詰めればそういうことになる。
加藤紘一は「右翼は先の戦争を総括しておらず、左翼は社会主義を総括していない」と指摘するのだが、確かに左翼が沈黙しているから、私ていどの「リベラル左派」の人間がネット右翼に「極左」だの「反日」だのと言われて矢面に立たされるのだ、と不満を持っている(笑)。
朝日新聞や毎日新聞が「左翼」であるとも考えないが、ナベツネ(渡邉恒雄・読売新聞会長)は、朝日、毎日と中日新聞を「三大左翼紙」だと言っている。このうち、中日新聞はまあまあ健闘していると思うが、このところ朝日新聞は全く元気がない。毎日新聞は、「記者の目」などの署名記事には見るべきものがあるが、社説は朝日以上にあいまいで立場が不鮮明だ。
昨日のエントリで、日経と読売の社説をつなぎ合わせれば、簡潔にして的を射た安倍政権の「教育改革批判」になると指摘した。概して保守系のメディアのほうが、リベラル系のメディアより主張がはっきりしていると感じる。
たとえば、読売は松岡農水相が「自殺」しても安倍晋三首相の責任を全く問わないばかりか民主党議員の問題に話をすり替えるトンデモ社説を発表する一方で、安倍政権の「教育改革」における新自由主義的施策をはっきり批判する社説も書く。
また、産経は「徳育」の教科化を歓迎し、事実上戦前の「修身」を復活させたい意気込みに満ちているが、松岡大臣の「自殺」の際には、朝日や毎日以上に明確に安倍首相の責任を問うている。
日経は、集団的自衛権についての憲法解釈の見直しをナント肯定し要求するような社説を掲載する一方で、「徳育」の教科化にははっきり反対する、といった具合だ。
これらの各紙の主張は、各紙がどういう人たちの意見を代弁しているかをはっきりと表している。日経は軍需で金儲けがしたい財界人の意見を、産経は狂信的な復古主義の人たちの意見を、そして読売はナベツネの意見を代弁しているのだ(笑)。
日経が「徳育」の教科化に反対するのも、復古主義教育で作り上げられる型にはまった人間など、新自由主義社会で生き抜く力を持っていないからに違いない。もともと、「経済右派」である新自由主義と、カルト思想と結びつきやすい新保守主義は相容れないものなのだ。
一方、朝日や毎日の社説は、客観報道のスタイルに引きずられて、主張があいまいであることが多い。保守が元気で、リベラルに元気がないから、安倍政権があれほど失政を重ねても、支持率がなお30%前後もあるのではないかと思える。
ところで、「論座」の7月号には、「AbEnd」に参加しているブロガーたちの多くと比較してかなり若い書き手(小林よしのりを除く)による、いくつかの記事からなる特集「格差、保守、そして戦争。」が掲載されている。
これらは、「AbEnd」に多く見られるリベラルの論調と、ネット右翼の論調のいずれとも趣を異にするもので、若い人たちの絶望感をかなり生々しく伝えるものである。
記事のいくつかは、同誌の4月号に掲載された赤木智弘の『「丸山眞男」をひっぱたきたい』に言及している。赤木は、Webサイト 「深夜のシマネコ」 の管理人であり、そこに掲載されている 『なぜ左翼は若者が自分たちの味方になるなどと、馬鹿面下げて思っているのか』 は、なかなか痛烈な「左翼批判」だ。
白状すると、私は「論座」の4月号を読んでいないので、『「丸山眞男」をひっぱたきたい』は、その抜粋をネットで読んだ程度だが、この中で赤木は、『「国民全員が苦しむ平等を」、その可能性の一つは戦争だ』と書いているという。そこには深い絶望が感じられる。
6年前に完結した浦沢直樹の漫画 「MONSTER」 に、人格改造の実験対象になるなどの過酷な幼年時代を過ごしたあげく、「絶対悪」と呼ばれる冷酷非情な殺人鬼に育ってしまった青年・ヨハンが、自らの命を救ったヒューマニストの医師・テンマに向かって発する印象的な言葉がある。「人の命は平等だ」というのがテンマの信念なのだが、そのテンマにヨハンは言う。
格差が克服されないのであれば、いっそみんながともに苦しむ戦争を望むという、赤木の描く若者たちの意見(注)は、まさにヨハンを地で行っている。そんな若者たちを煽動し、熱狂させたのがコイズミだった。安倍晋三は、その熱狂が残っているうちに彼らを利用しつくし、自分たち「選ばれた者」だけがいい思いをする独裁国家に日本を作り変えようとたくらんでいる人間だ。
安倍らの卑劣な狙いは論外だが、絶望の深さを克服するだけのコンセプトを構築するのは、決して容易ではない。
冒頭に紹介した「右派」の工場作業員の方の意見とは異なり、私は、左派もそれなりに「労働経済的な政策により若年層を救済しようと」していると思う。問題は、それがおそらく若者たち嘘臭く感じられて、説得力を持たないことだろう。若年層を救済しようとする左派の人たち自身には、「守りたいもの」があるのに対し、絶望している若者たちには失うものなど何もないのではないかと想像する。
こういう状況をいかにして克服するかが大きな課題だと思うが、残念ながら即答はできない。重い課題だと思う。
(注) 赤木が描いている若者たちの意見は、必ずしも赤木自身の意見と同じではないと思われる。
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左翼は何をしているのか?
いったい何をしているのだろう。非正規雇用、負け組、フリーター、ワーキングプア、偽装請負などの言葉が氾濫し、これだけ格差が問題になっているのに、左翼の顔が見えない。左翼は平等を追求する思想的立場ではなかったのだろうか。
失われて初めてその良さがわかるものがあるが、戦後の平等もまた、その一つではなかっただろうか。それなのに、社会主義への信仰心と一緒に、平等への情熱も失ってしまったのだろうか。6月号で後藤和智氏は書いている。「若年層が階層的に、あるいは社会的に分断されていることが『右傾化』なるものの原因であるというのであれば、労働経済的な政策により若年層を救済しようというのが、本来、左派が示すべき処方箋のはずだ」。しかし、左翼、とりわけインテリは、処方箋を示そうとはせず、「右傾化」の診断を下すことだけで満足している。ひょっとすると、このまま社会不安を増大させ、革命でも起こそうと考えているのだろうか。しかし1930年代同様、革命よりもファシズムが先に来てしまったら?
左翼がなすべきは、格差の抜本的な是正策を提示すること、「安定労働層」から「貧困労働層」へ軸足を移し、彼らとともに戦うこと、あるいは、彼らに闘い方を教えることではないだろうか。右派の私から見ても、昨今の格差は異常と思えるが、それを静観しているようにしか見えない左翼の姿勢も、それ以上に異様に思えるのである。
(福岡県の47歳工場作業員の方の投稿)
(「論座」 2007年7月号より)
断っておくが、私は自分を「左翼」であるとは全く考えておらず、リベラル系無党派の人間で、単に安倍晋三や自民党が大嫌い、自分が戦争で死ぬのはいやだから好戦的な安倍の防衛(というより軍事)政策に反対し、ごく一部が勝ち組になって残り大部分が負け組になる新自由主義社会では当然負け組になるに決まっているから新自由主義が嫌いで、だからコイズミ?竹中平蔵の新自由主義路線を継承している安倍の経済政策に反対する。突き詰めればそういうことになる。
加藤紘一は「右翼は先の戦争を総括しておらず、左翼は社会主義を総括していない」と指摘するのだが、確かに左翼が沈黙しているから、私ていどの「リベラル左派」の人間がネット右翼に「極左」だの「反日」だのと言われて矢面に立たされるのだ、と不満を持っている(笑)。
朝日新聞や毎日新聞が「左翼」であるとも考えないが、ナベツネ(渡邉恒雄・読売新聞会長)は、朝日、毎日と中日新聞を「三大左翼紙」だと言っている。このうち、中日新聞はまあまあ健闘していると思うが、このところ朝日新聞は全く元気がない。毎日新聞は、「記者の目」などの署名記事には見るべきものがあるが、社説は朝日以上にあいまいで立場が不鮮明だ。
昨日のエントリで、日経と読売の社説をつなぎ合わせれば、簡潔にして的を射た安倍政権の「教育改革批判」になると指摘した。概して保守系のメディアのほうが、リベラル系のメディアより主張がはっきりしていると感じる。
たとえば、読売は松岡農水相が「自殺」しても安倍晋三首相の責任を全く問わないばかりか民主党議員の問題に話をすり替えるトンデモ社説を発表する一方で、安倍政権の「教育改革」における新自由主義的施策をはっきり批判する社説も書く。
また、産経は「徳育」の教科化を歓迎し、事実上戦前の「修身」を復活させたい意気込みに満ちているが、松岡大臣の「自殺」の際には、朝日や毎日以上に明確に安倍首相の責任を問うている。
日経は、集団的自衛権についての憲法解釈の見直しをナント肯定し要求するような社説を掲載する一方で、「徳育」の教科化にははっきり反対する、といった具合だ。
これらの各紙の主張は、各紙がどういう人たちの意見を代弁しているかをはっきりと表している。日経は軍需で金儲けがしたい財界人の意見を、産経は狂信的な復古主義の人たちの意見を、そして読売はナベツネの意見を代弁しているのだ(笑)。
日経が「徳育」の教科化に反対するのも、復古主義教育で作り上げられる型にはまった人間など、新自由主義社会で生き抜く力を持っていないからに違いない。もともと、「経済右派」である新自由主義と、カルト思想と結びつきやすい新保守主義は相容れないものなのだ。
一方、朝日や毎日の社説は、客観報道のスタイルに引きずられて、主張があいまいであることが多い。保守が元気で、リベラルに元気がないから、安倍政権があれほど失政を重ねても、支持率がなお30%前後もあるのではないかと思える。
ところで、「論座」の7月号には、「AbEnd」に参加しているブロガーたちの多くと比較してかなり若い書き手(小林よしのりを除く)による、いくつかの記事からなる特集「格差、保守、そして戦争。」が掲載されている。
これらは、「AbEnd」に多く見られるリベラルの論調と、ネット右翼の論調のいずれとも趣を異にするもので、若い人たちの絶望感をかなり生々しく伝えるものである。
記事のいくつかは、同誌の4月号に掲載された赤木智弘の『「丸山眞男」をひっぱたきたい』に言及している。赤木は、Webサイト 「深夜のシマネコ」 の管理人であり、そこに掲載されている 『なぜ左翼は若者が自分たちの味方になるなどと、馬鹿面下げて思っているのか』 は、なかなか痛烈な「左翼批判」だ。
白状すると、私は「論座」の4月号を読んでいないので、『「丸山眞男」をひっぱたきたい』は、その抜粋をネットで読んだ程度だが、この中で赤木は、『「国民全員が苦しむ平等を」、その可能性の一つは戦争だ』と書いているという。そこには深い絶望が感じられる。
6年前に完結した浦沢直樹の漫画 「MONSTER」 に、人格改造の実験対象になるなどの過酷な幼年時代を過ごしたあげく、「絶対悪」と呼ばれる冷酷非情な殺人鬼に育ってしまった青年・ヨハンが、自らの命を救ったヒューマニストの医師・テンマに向かって発する印象的な言葉がある。「人の命は平等だ」というのがテンマの信念なのだが、そのテンマにヨハンは言う。
「誰にも平等なのは死だけだ。」
格差が克服されないのであれば、いっそみんながともに苦しむ戦争を望むという、赤木の描く若者たちの意見(注)は、まさにヨハンを地で行っている。そんな若者たちを煽動し、熱狂させたのがコイズミだった。安倍晋三は、その熱狂が残っているうちに彼らを利用しつくし、自分たち「選ばれた者」だけがいい思いをする独裁国家に日本を作り変えようとたくらんでいる人間だ。
安倍らの卑劣な狙いは論外だが、絶望の深さを克服するだけのコンセプトを構築するのは、決して容易ではない。
冒頭に紹介した「右派」の工場作業員の方の意見とは異なり、私は、左派もそれなりに「労働経済的な政策により若年層を救済しようと」していると思う。問題は、それがおそらく若者たち嘘臭く感じられて、説得力を持たないことだろう。若年層を救済しようとする左派の人たち自身には、「守りたいもの」があるのに対し、絶望している若者たちには失うものなど何もないのではないかと想像する。
こういう状況をいかにして克服するかが大きな課題だと思うが、残念ながら即答はできない。重い課題だと思う。
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左翼、の定義も難しい時代になりました。
だいぶ前に、私も自分のエントリーで、かつて、国会を取り巻いた市民のエネルギーはどこに消えたのか?と言う内容の記事を書きました。すぐに、共産党シンパのコメントがつき、我々は活動している、貴様こそ口だけの偽善者だ!といきなり噛み付かれました。言葉遣いもヤクザまがいだったのでアクセス禁止にしました。
それが今の「左翼」の現状でしょうか?
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