私の周囲の人も、「昭和の日って何だ?」などと言っているから、知らない人が多かったのだろう。
この改称に至るまでに、改正法案は確か二度廃案になったはずだ。私の記憶では、この案が7年前の2000年に報道された時、フジテレビの田代尚子アナが、「個人的には『昭和』に愛着がある」として、暗に「昭和の日」への改称を支持する発言をしていたのを聞いて、やっぱりフジのアナウンサーだけあって右寄りなんだな、と大いに失望したのを覚えている。
その後、保守化の流れに乗じたのか、三度目にして「昭和の日」への改称が決まったのだが、4月26日に朝日新聞が卜部元侍従(故人)の日記の内容を報道したのは、明らかにこの第一回の「昭和の日」に合わせて、前々から朝日が決めていたことだろうと推測するし、この推測には自信を持っている。
『逝く昭和と天皇、克明に 卜部侍従32年間の日記刊行へ』 (朝日新聞 2007年4月26日)
http://www.asahi.com/national/update/0426/TKY200704250363.html
(リンクが切れている場合は下記まで)
この「卜部日記」でもっとも注目されるのは、昨年7月に日経新聞がスクープした「富田メモ」で明らかにされた、A級戦犯の靖国神社合祀(1978年)に対して昭和天皇が不快感を持ち、以後靖国神社に参拝しなかったという事実を、卜部元侍従の日記も裏付けていることだ。
これは、実は「富田メモ」のスクープ以前から知られていたことであって、現に私は「富田メモ」スクープの半月前の昨年7月5日に、『靖国神社と昭和天皇』 という記事を書き、その中で藤原肇の 『小泉純一郎と日本の病理』 (光文社、2005年)が、下記のように指摘していることを紹介した。
靖国神社を政治的に使った人物としては、1978年に第6代宮司になった松平永芳(1915-2005)がいる。彼は松平恒雄駐英大使(1877-1949)の長男であり、海軍機関学校を出て海軍に任官し、戦後になって自衛隊を一佐で退官して、宮司になるとA級戦犯 class-A war criminal の合祀 honor collectively を独断で密かに実行した。この実行を知って激怒 get mad した昭和天皇 Emperor Hirohito (1901-1989) は、それ以降は大祭への参拝を中止してしまい、皇室と靖国神社の関係は険悪になっている。 事実、天皇家は靖国神社について一切口をつぐんで keep their lips buttoned いる。』
(藤原肇著「小泉純一郎と日本の病理」より)
この記事は、公開した半月後に「富田メモ」がスクープされた時、検索語「靖国神社 昭和天皇」でGoogle検索をかけると、第5位で検索されたため(当時)、全くの零細ブログだった当ブログに多数のアクセス(といっても1000件弱)をいただいたため、たいへん思い出深い。
こういういきさつがあるから、今回朝日新聞が明らかにした「卜部日記」の記述にも、さもありなんと思うだけなのだが、「富田メモ」のスクープ当時、2ちゃんねらーを中心とするネット右翼が「富田メモが捏造であることを証明した」とバカ騒ぎをしたことには呆れ果てたものだ。それは、「富田メモ」スクープの5か月前の昨年2月、当時民主党議員だった永田寿康が、ライブドア事件で武部自民党幹事長(当時)を追及しようと持ち出した「堀江メール」がニセモノであることを彼らが「検証」したのと同じノリだったのだ。
「堀江メール」は結局ニセモノだったが、彼らの「検証」というのもきわめて怪しくて、たとえば彼らは、永田が見せたメールのコピーには、「堀江」ではなく「掘江」とタイプされていると主張していたが、それは事実に反していた。そんな調子だったから、「富田メモ」が捏造であると「証明した」という彼らの主張には、「ハイハイ、ご苦労さん」としか思わなかったし、「富田メモ」が本物であることは、私には疑問の余地はないように思われたのである。
しかし滑稽だったのは、2ちゃんねらーや「きちが石根」(当時有名だった右翼ブログで、「アインシュタインの予言」 なるデマを広めたことでも知られる) だけならともかく、岡崎久彦や櫻井よしこまでもが、テレビで富田メモの「捏造説」をほのめかす発言をしていたことだ。結局今回公表された「卜部日記」の下記の記述が、「富田メモ」の信憑性を裏づける結果となった。
前述の朝日新聞記事は、下記のように書いている。
靖国神社参拝取りやめの理由についても記述されている。
最後となった天皇の記者会見から数日後の88年4月28日。「お召しがあったので吹上へ 長官拝謁(はいえつ)のあと出たら靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発言のこと」。「靖国」以降の文章には赤線が引かれている。
昭和天皇が靖国神社のA級戦犯合祀に不快感を吐露したとみられる富田朝彦宮内庁長官(当時)のメモも同じ日付。天皇は富田長官と前後して卜部侍従にも戦犯合祀問題を語っていたことになる。そして、卜部侍従は亡くなる直前、「靖国神社の御参拝をお取りやめになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」(01年7月31日)と記している。
(前記朝日新聞記事=2007年4月26日付=より)
「富田メモ」の真贋については決着がついた。29日朝のフジテレビ「報道2001」も、潔くこのことを認めていた。
結局、岡崎や櫻井は赤っ恥をかいた形だ(笑)。そういえば、「アインシュタインの予言」についても、平沼赳夫が肯定的に引用していたことがあった。
この「卜部日記」については、例によって立花隆さんの論考(「メディア ソシオ-ポリティクス」第105回 『"A級戦犯合祀が御意に召さず" 卜部侍従日記が明かした真実』、下記URL)が参考になるので、紹介しておく。
http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/070427_urabe/
この記事の冒頭で、立花さんは、
『間もなく昭和天皇没後19回目の「みどりの日」(旧天皇誕生日)になるなと思っていたら、朝日新聞が一面トップで、「卜部侍従32年間の日記」を入手し、それをはじめて公開するという大ニュースを報道をしていた。』
と書いているが、どうやら立花さんも「昭和の日」への改称を失念されていたのではないかと思う。
立花さんは、同じ記事の中で、以下のように指摘している。
小倉侍従日記によって見ても、天皇が戦争初期(日中戦争)は悩み苦しみつつなんとか戦争のこれ以上の拡大は食いとめようと努力していたことはわかる。しかし途中から天皇の気持ちが変わってしまう。
「戦争はやる迄は深重に、始めたら徹底してやらねばならぬ。また行はざるを得ぬ」
と考えるようになったからである。
そして、1941年12月8日、太平洋戦争が、ハワイの真珠湾攻撃とマレー沖海戦の大勝利ではじまり、その後も年内は勝ち戦をつづけていく過程で、天皇も急に楽観論に転じてしまうのである。
12月25日の記述にこうある。
「常侍官出御の際、平和克服後は南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむなど仰せありたり」
天皇はもう戦争に勝ったつもりになっているのだ。平和になったら日本の領土になった南洋を視察に行きたいなどといいだしているのだ。
日本人全体がこの当時、緒戦の勝利に酔って浮かれていたのだが、天皇もまた浮かれていたということなのだろう。
だが、このように勝利に浮かれていたこともあるとわかると、天皇にも戦争責任ありの声が強くなってくるだろう。
(立花隆 「メディア ソシオ-ポリティクス」 第105回 『"A級戦犯合祀が御意に召さず" 卜部侍従日記が明かした真実』 より)
昭和天皇は確かに戦争初期には戦争に反対しながらも、対米開戦前後にはむしろ戦争を肯定していたことは、これまでにも指摘されていた。
戦争末期には早期の終戦を希望し、敗戦後はA級戦犯の靖国神社への合祀に激怒していたこともまた事実だが、昭和天皇にも重大な戦争責任があったことは、もはや動かしがたい事実であると私は考える。
もうそろそろ、昭和天皇の戦争責任問題についても、イデオロギーを抜きにして史料を冷静に参照して判断しても良い頃ではないかと思うのである。平成もすでに19年、十分すぎるほどの時間は経過した。今後、再び過ちを繰り返さないためにも、昭和天皇をはじめとする当時の指導者たちの戦争責任について、冷静な検証が求められている。
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天皇制の廃止
ある本で浅田という学者がいってたけど、
天皇制を廃止してから
共和制にして、憲法を改める、の
が・・、何故かわからないけど、なんと
なく思いだしました。
まあ私自身もし戦争という事になったら、
逃げる、つもりでいます、とても映画
「男たちの大和」という訳にはいきませんでしょう。
むしろ戦争責任は天皇、ただ一人に
おしつけてしまった方が、万民にはわかり
やすいきがしてます。
2007.04.30 15:43 URL | 井上勇 #- [ 編集 ]
こちらにレスさせてもらいますね。
また、鬼の首でもとったかのように、いちゃもんつけるのかと思ってましたが、報道2001で白旗揚げてましたかw
櫻井よしこブログより 『週刊新潮』 '05年6月9日号
>小泉純一郎首相に信頼され、国対委員長を務める氏は政権の中枢人物だ。保守政権を担うその人物の発言にしては意外である。なぜなら、天皇家が靖国神社参拝を控えたのは“A級戦犯”合祀とは無関係だからだ。
(中略)
>天皇の心をこれ以上曲解し、踏みにじることは許されない。国民と共にありたいとする天皇家の想いに配慮するなら、“A級戦犯”を含む全ての人々の慰霊のためにこそ、靖国神社にお越し頂くのがよいのである。努々(ゆめゆめ)、“A級戦犯”を外して、などと考えてはならない。まして「陛下のために、A級戦犯を外す」などとは、万が一にも言ってはならない。
http://blog.yoshiko-sakurai.jp/profile/message/cat42/
2007.04.30 18:55 URL | やっしゃん #OmEQ3VCk [ 編集 ]
旧日本軍は、天皇の軍隊であり、兵士は天皇の赤子であったわけで、刀まで天皇の刀と言われました。天皇の命令だと言われ、兵士たちは戦い、死んでいったのですから、天皇に責任はあります。そして、天皇のために戦死したことを名誉あることとして、靖国に祭られたら、感謝しなければならなかったのです。そういう「軍国の母」にならなければ、非国民よばわりされたのですから、国全体が、天皇を中心に回っていたのでしょう。もし、もっと早く降伏すればーと思います。
国体のために、降伏が遅れた、などと聞けば、降伏を先延ばしにしたものの責任が重いでしょう。
2007.04.30 22:22 URL | 非戦 #tRWV4pAU [ 編集 ]
富田日記や卜部日記を世の中に
出すものではないと
言っている人たちがいます。
私もそう思います。
本当なら、天皇陛下の身の回りの
ことは出さないほうがいいと思う。
しかし、天皇陛下が何も
言われないことをいいことに
天皇陛下のお気持ちとまったく
違うことを、天皇陛下はこう
思ってらっしゃるので、富田日記は
捏造だとか勝手のいいことを
言っている人たちに
卜部さんや富田さんのご家族は
天皇陛下はそんなことを思われてない、
何で勝手にA級を靖国に入れたのか
ご不満であるということを
知らせたかったのではないでしょうか。
もし、最初から天皇陛下のご意思が
通じていたなら、こんな日記は公開
せずに済んだかもしれません。
2007.05.01 16:08 URL | みり #- [ 編集 ]
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