東京都知事選はいよいよ明日告示だが、今日はテレビ朝日の「スーパーモーニング」で、有力4候補による討論が放送された。
今回は、18日のフジテレビ「報道2001」で石原慎太郎が袋叩きにあった築地市場の移転問題や「新銀行東京」の問題は扱わず、福祉問題を中心に扱ったが、テレビ討論会も6回目ともなると、各候補の話す内容もだいたいわかってきたこともあり、あまり印象に残らない内容だった。なお、首都圏以外は10時前に番組終了となり、あるいは10時以降も関東では討論の続きが見られたのかもしれないが、私は地方在住なので見ることができなかった。
テレビ討論会は、6回のうち昨日(3月20日)放送された「朝ズバッ!」以外はすべて見た。「朝ズバッ!」は、仕事に出なければならないので見ることができず、録画して出かけたが、ありがたいことに、当ブログにトラックバックいただいた 「大津留公彦のブログ2」 の記事 『今朝の朝ズバの都知事候補討論会』 に紹介されている。この番組は、司会が大嫌いなみのもんたということもあり、ビデオは見ていないが、大津留さんのおかげで、討論のおおまかな内容はわかった。むろん、みのの司会だから、石原にとって厳しい討論にはならなかったことだろう。
大津留さんの記事で、ちょっと面白いなと思ったのは、「今の心境を歌かフレーズでいうと」という問いに対して、浅野史郎さんが中山千夏の「あなたの心に」を挙げたことだ。この歌については、私は全然知らないが、調べてみたら1964年の歌だという(Wikipedia 「中山千夏」 より)。この歌は、最近岩崎宏美もカバーしているのだそうだが、私が面白いと思ったのは歌のことではなく、中山千夏を私が初めて認識したのは、1977年の参院選の時だったからだ。この時、選挙に向けて「革新自由連合」が結成され、中山さんはその代表の一人となったが、当時28歳で、参院選の被選挙権のある30歳に達していなかったので、立候補はできなかった。その後、80年の参院選で当選したが、86年に落選し、以後国政から身を引いた。
その中山さんの歌を、「心境を表わす歌」として浅野さんがあげたことには興味深いものがある。
なお、吉田万三さんが美空ひばりの「柔」、黒川紀章氏が山本譲二の「みちのくひとり旅」を挙げたのに対し、石原は「千万人なりとも我往(ゆ)かん」という孟子の言葉を挙げたそうだが、日和見のチキン・石原が何を生意気なことを言うかと思った(笑)。郵政総選挙を前にしたテレビの政治番組で(フジの「報道2001」かテレビ朝日の「サンデープロジェクト」のいずれかだった。たぶん前者)、小林興起を擁護しようとして周りの冷たい視線を浴びた石原は、気圧されて小林擁護の言葉を発することができなくなったのを、私は目撃している。石原は、以後小林を見捨て、コイズミの軍門に下った。当時、石原とはなんと小心な男かと呆れ果てたものである。
さて、前置きがずいぶん長くなってしまった。ここからが本題である。
今日は、都知事選で石原に挑む浅野史郎さんの著書 『疾走12年 アサノ知事の改革白書』 (岩波書店、2006年)を紹介したい。
過去6回行われたテレビでの都知事選有力候補の討論会で、石原に対する対立3候補のうち、一番目立ったのが黒川紀章氏であることは、衆目の一致するところだろう。とにかく、他の候補者の発言を遮って自説を延々と述べる。かなりいい加減なことでも、とうとうとまくし立てる。それに対し、浅野史郎氏と吉田万三氏は、真面目に石原都政の問題点を指摘していたが、両氏に対して少々堅い印象を持たれた視聴者も多いのではないかと思う。
浅野さんの著書 『疾走12年 アサノ知事の改革白書』は、そんな浅野さんの印象を吹き飛ばすに足る本だ。浅野さんには10冊以上の著書があるが、この本は初めての書き下ろしだそうだ。
これは、浅野さんが宮城県知事を辞めてほどない2006年5月に発行された本で、オビに「これにて知事を卒業します。」と銘打たれており、寺島実郎さんの下記のような推薦文が書かれている。
先にリンクを張った、出版元の岩波書店のウェブページには、次のようなあおり文句が書かれている。
同書店のページをさらに開くと、前記寺島さんの推薦文のほか、著者・浅野史郎さんからのメッセージ、著者略歴、それに本の目次を見ることができる。
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0234210/top.html
本は8章から成り、第1章「私が知事を辞めたわけ――57歳転職最後のチャンス」では、出馬すれば4選は間違いないといわれていた浅野氏が出馬しなかった理由を語っている。「権力は長く続けば、腐敗するとは言わないが、陳腐化する」として、最初から知事は3期12年と決めていたそうだ。
第2章 「組織スキャンダル――情報公開に聖域なし」には、宮城県庁の「食糧費」不正支出問題をめぐって、住民訴訟が起きたことをきっかけに、浅野県政が情報公開を進めた経緯が書かれている。
なお、「食糧費」とは、『霞が関の役人を接待した懇親会や、その他のパーティー、宴会の経費として使われている』(二重括弧は浅野氏の著書からの引用、以下同様)支出科目とのことだ。
都知事選を控えた現在、もっとも注目を引くのが第3章 「選挙は楽し――基盤なし借りなしで3選」 だろう。浅野さんが最初に宮城県知事選に出馬したのは1993年だが、この時は現職知事がゼネコン汚職で逮捕され辞職したことを受けての「出直し選挙」で、浅野さんは告示日のわずか3日前に出馬表明をした。「20対0で負けている野球の試合で、9回裏ツーアウト、ランナーなしの場面の打者だ」とまでいわれた浅野さんだが、みごと波を生み出して、『このままでは、いけない』 『みやぎの誇りを取り戻したい』と感じていた有権者に支持され、29万票対21万票という大差で、自民党、社会党、民社党の3党が推していた副知事を破って当選した。
2選目の1997年には、「県民一人ひとりが主役の選挙」をスローガンに、政党や団体からの推薦を拒んだ。自民党も新進党も浅野氏を推薦したいと申し入れてきたのに、これを断った挙句、当時国政では与党と野党に分かれていた自民・新進両党が組んで立ててきた対立候補を、ナント62万票対31万票の大差で破って再選を果たしたのである。
3選目の2001年には、自民党は対立候補を立てることができず不戦敗。浅野さんは共産党推薦の候補を53万票対8万8千票の大差で破った。
3度の選挙を通じ、浅野さんは県民が主役の選挙を心がけてきた。『選挙のありようが、当選後の知事のありようを決める』というのが浅野さんの持論である。その伝でいうと、「石原軍団」なるものに頼ってきたポピュリズム選挙を毎回展開している石原慎太郎が、東京都政を私物化するのは当然の成り行きということになるだろう(笑)。
さて、だいぶ長くなったので、第4章、第5章を飛ばして第6章 「福祉の現実と理想――障害者施設解体宣言」を紹介しよう。「障害者施設解体宣言」などというと驚かれる方も多いと思うが、これは、障害者を施設に押し込めるのではなく、地域全体で受け入れていこうというコンセプトに基づくもので、浅野さんは2004年に「解体宣言」を発表した。先進的な福祉政策といえると思う。
浅野さんは、1987年9月からの1年9か月間、厚生省児童家庭局障害福祉課長を務めたが、その経験が浅野さんの人生を変え、『障害福祉の仕事が、私にとってのライフワークになった』と書いている。この章はこの本の中でも特に印象に残る箇所なので、少し引用する。
この浅野さんの言葉と、府中療育センターを視察したあとの記者会見で、知的障害者に対して 「ああいう人ってのは人格があるのかね?」とほざいた石原の暴言とを比較して、それでも石原に投票するというのなら、どうぞご自由に、というしかない。私に言えるのは、そんな人は信用することができない、ということだけだ。
本の最後の第8章は、「知事の責任――県警犯罪捜査報償費」 と題された、宮城県警との確執を記述した章だ。この件についても石原は、「浅野さんが警察の機密まで公開しようとするから、宮城県警の検挙率が下がった」と、浅野氏批判の材料に使っているが、これはとんでもない言いがかりだ。浅野さんの本を読んでもらえばわかることだが、県警の捜査への協力者に対して支払われるはずの報償費の用途が不明で、県警幹部の懐に入れられてしまったのではないかという疑惑を解明しようとした浅野さんの県警に対する闘争であり、浅野さんに言わせれば『知事という権力と県警本部長という権力のぶつかり合い』だった。浅野さんは県警と激しくやり合ったあげく、県警犯罪捜査報償費の予算執行を停止するという強硬手段に出たのだが、理がどちらにあるかはあまりに明らかだろう。この章での浅野さんの文章には、特に力が入っていて、県警との激しいバトルの様子が生々しく伝わってくるので、読んでいてとても面白い。
こういういきさつの件だから、これを 「情報公開の負の部分」 ととらえるのは問題のすり替えである。石原の主張は、彼がうしろ暗い部分をずいぶん持っているために、警察に恩を売って自らを守ってもらおうと思っているのではないか、などとついつい勘繰りたくなってしまう(笑)。
まあ、石原のことはともかく、この章は結局浅野さんがやり遂げることができず、浅野さん辞職のあと、自民党推薦で当選した村井嘉浩知事は、あっさり予算執行停止を解除してしまった。2005年の知事選は、郵政選挙で自民党が圧勝した直後に行われ、宮城県にもコイズミチルドレンの杉村太蔵が応援にくるなど、馬鹿騒ぎの延長戦をやった結果、村井氏が、浅野さんが推した前葉泰幸候補と共産党推薦の出浦秀隆候補を破って当選してしまったのだ。
この問題に関して、章の終わりに浅野さんは以下のように書いている。
この本は、浅野史郎さん支持派はもちろん、「敵を知る」意味からも、吉田万三さん支持派や黒川紀章さん支持派、それに石原慎太郎都知事支持派にも是非一読をおすすめしたい。
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今回は、18日のフジテレビ「報道2001」で石原慎太郎が袋叩きにあった築地市場の移転問題や「新銀行東京」の問題は扱わず、福祉問題を中心に扱ったが、テレビ討論会も6回目ともなると、各候補の話す内容もだいたいわかってきたこともあり、あまり印象に残らない内容だった。なお、首都圏以外は10時前に番組終了となり、あるいは10時以降も関東では討論の続きが見られたのかもしれないが、私は地方在住なので見ることができなかった。
テレビ討論会は、6回のうち昨日(3月20日)放送された「朝ズバッ!」以外はすべて見た。「朝ズバッ!」は、仕事に出なければならないので見ることができず、録画して出かけたが、ありがたいことに、当ブログにトラックバックいただいた 「大津留公彦のブログ2」 の記事 『今朝の朝ズバの都知事候補討論会』 に紹介されている。この番組は、司会が大嫌いなみのもんたということもあり、ビデオは見ていないが、大津留さんのおかげで、討論のおおまかな内容はわかった。むろん、みのの司会だから、石原にとって厳しい討論にはならなかったことだろう。
大津留さんの記事で、ちょっと面白いなと思ったのは、「今の心境を歌かフレーズでいうと」という問いに対して、浅野史郎さんが中山千夏の「あなたの心に」を挙げたことだ。この歌については、私は全然知らないが、調べてみたら1964年の歌だという(Wikipedia 「中山千夏」 より)。この歌は、最近岩崎宏美もカバーしているのだそうだが、私が面白いと思ったのは歌のことではなく、中山千夏を私が初めて認識したのは、1977年の参院選の時だったからだ。この時、選挙に向けて「革新自由連合」が結成され、中山さんはその代表の一人となったが、当時28歳で、参院選の被選挙権のある30歳に達していなかったので、立候補はできなかった。その後、80年の参院選で当選したが、86年に落選し、以後国政から身を引いた。
その中山さんの歌を、「心境を表わす歌」として浅野さんがあげたことには興味深いものがある。
なお、吉田万三さんが美空ひばりの「柔」、黒川紀章氏が山本譲二の「みちのくひとり旅」を挙げたのに対し、石原は「千万人なりとも我往(ゆ)かん」という孟子の言葉を挙げたそうだが、日和見のチキン・石原が何を生意気なことを言うかと思った(笑)。郵政総選挙を前にしたテレビの政治番組で(フジの「報道2001」かテレビ朝日の「サンデープロジェクト」のいずれかだった。たぶん前者)、小林興起を擁護しようとして周りの冷たい視線を浴びた石原は、気圧されて小林擁護の言葉を発することができなくなったのを、私は目撃している。石原は、以後小林を見捨て、コイズミの軍門に下った。当時、石原とはなんと小心な男かと呆れ果てたものである。
さて、前置きがずいぶん長くなってしまった。ここからが本題である。
今日は、都知事選で石原に挑む浅野史郎さんの著書 『疾走12年 アサノ知事の改革白書』 (岩波書店、2006年)を紹介したい。
過去6回行われたテレビでの都知事選有力候補の討論会で、石原に対する対立3候補のうち、一番目立ったのが黒川紀章氏であることは、衆目の一致するところだろう。とにかく、他の候補者の発言を遮って自説を延々と述べる。かなりいい加減なことでも、とうとうとまくし立てる。それに対し、浅野史郎氏と吉田万三氏は、真面目に石原都政の問題点を指摘していたが、両氏に対して少々堅い印象を持たれた視聴者も多いのではないかと思う。
浅野さんの著書 『疾走12年 アサノ知事の改革白書』は、そんな浅野さんの印象を吹き飛ばすに足る本だ。浅野さんには10冊以上の著書があるが、この本は初めての書き下ろしだそうだ。
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これは、浅野さんが宮城県知事を辞めてほどない2006年5月に発行された本で、オビに「これにて知事を卒業します。」と銘打たれており、寺島実郎さんの下記のような推薦文が書かれている。
「浅野史郎ほど爽やかに筋を通す人物を知らない。彼の知事としての12年は地方の在り方だけではなく日本の針路にとって示唆的である。」
(浅野史郎 『疾走12年 アサノ知事の改革白書』(岩波書店、2006年)への寺島実郎さんの推薦文)
先にリンクを張った、出版元の岩波書店のウェブページには、次のようなあおり文句が書かれている。
これにて知事を卒業します」.突然の不出馬宣言は県民を驚かせた.「宮城県の誇りを取り戻す」一心で取り組んできた12年間,ユニークな選挙,議会との激しい応酬,障害者施設解体宣言の衝撃,県警とのバトル,楽天イーグルス誘致の内幕.そこには地方発改革断行に賭ける強固な意志が貫かれ,知事業にともなう喜怒哀楽が溢れていた.
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/8/0234210.html
同書店のページをさらに開くと、前記寺島さんの推薦文のほか、著者・浅野史郎さんからのメッセージ、著者略歴、それに本の目次を見ることができる。
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0234210/top.html
本は8章から成り、第1章「私が知事を辞めたわけ――57歳転職最後のチャンス」では、出馬すれば4選は間違いないといわれていた浅野氏が出馬しなかった理由を語っている。「権力は長く続けば、腐敗するとは言わないが、陳腐化する」として、最初から知事は3期12年と決めていたそうだ。
第2章 「組織スキャンダル――情報公開に聖域なし」には、宮城県庁の「食糧費」不正支出問題をめぐって、住民訴訟が起きたことをきっかけに、浅野県政が情報公開を進めた経緯が書かれている。
なお、「食糧費」とは、『霞が関の役人を接待した懇親会や、その他のパーティー、宴会の経費として使われている』(二重括弧は浅野氏の著書からの引用、以下同様)支出科目とのことだ。
都知事選を控えた現在、もっとも注目を引くのが第3章 「選挙は楽し――基盤なし借りなしで3選」 だろう。浅野さんが最初に宮城県知事選に出馬したのは1993年だが、この時は現職知事がゼネコン汚職で逮捕され辞職したことを受けての「出直し選挙」で、浅野さんは告示日のわずか3日前に出馬表明をした。「20対0で負けている野球の試合で、9回裏ツーアウト、ランナーなしの場面の打者だ」とまでいわれた浅野さんだが、みごと波を生み出して、『このままでは、いけない』 『みやぎの誇りを取り戻したい』と感じていた有権者に支持され、29万票対21万票という大差で、自民党、社会党、民社党の3党が推していた副知事を破って当選した。
2選目の1997年には、「県民一人ひとりが主役の選挙」をスローガンに、政党や団体からの推薦を拒んだ。自民党も新進党も浅野氏を推薦したいと申し入れてきたのに、これを断った挙句、当時国政では与党と野党に分かれていた自民・新進両党が組んで立ててきた対立候補を、ナント62万票対31万票の大差で破って再選を果たしたのである。
3選目の2001年には、自民党は対立候補を立てることができず不戦敗。浅野さんは共産党推薦の候補を53万票対8万8千票の大差で破った。
3度の選挙を通じ、浅野さんは県民が主役の選挙を心がけてきた。『選挙のありようが、当選後の知事のありようを決める』というのが浅野さんの持論である。その伝でいうと、「石原軍団」なるものに頼ってきたポピュリズム選挙を毎回展開している石原慎太郎が、東京都政を私物化するのは当然の成り行きということになるだろう(笑)。
さて、だいぶ長くなったので、第4章、第5章を飛ばして第6章 「福祉の現実と理想――障害者施設解体宣言」を紹介しよう。「障害者施設解体宣言」などというと驚かれる方も多いと思うが、これは、障害者を施設に押し込めるのではなく、地域全体で受け入れていこうというコンセプトに基づくもので、浅野さんは2004年に「解体宣言」を発表した。先進的な福祉政策といえると思う。
浅野さんは、1987年9月からの1年9か月間、厚生省児童家庭局障害福祉課長を務めたが、その経験が浅野さんの人生を変え、『障害福祉の仕事が、私にとってのライフワークになった』と書いている。この章はこの本の中でも特に印象に残る箇所なので、少し引用する。
「障害者の存在が社会のありように関わる」ということも漠然と感じることになった。そんなことから、障害福祉の仕事は人間存在そのものに関わること、人道的だとか、あわれみの心とかで表現されるものではなく、むしろ自分たちの住む社会を住みやすくするためのプロジェクトではないかと思い、自分にとって一生ものの仕事になるのではないかという予感がしたのである。
(浅野史郎 『疾走12年 アサノ知事の改革白書』 (岩波書店、2006年) 170頁)
この浅野さんの言葉と、府中療育センターを視察したあとの記者会見で、知的障害者に対して 「ああいう人ってのは人格があるのかね?」とほざいた石原の暴言とを比較して、それでも石原に投票するというのなら、どうぞご自由に、というしかない。私に言えるのは、そんな人は信用することができない、ということだけだ。
本の最後の第8章は、「知事の責任――県警犯罪捜査報償費」 と題された、宮城県警との確執を記述した章だ。この件についても石原は、「浅野さんが警察の機密まで公開しようとするから、宮城県警の検挙率が下がった」と、浅野氏批判の材料に使っているが、これはとんでもない言いがかりだ。浅野さんの本を読んでもらえばわかることだが、県警の捜査への協力者に対して支払われるはずの報償費の用途が不明で、県警幹部の懐に入れられてしまったのではないかという疑惑を解明しようとした浅野さんの県警に対する闘争であり、浅野さんに言わせれば『知事という権力と県警本部長という権力のぶつかり合い』だった。浅野さんは県警と激しくやり合ったあげく、県警犯罪捜査報償費の予算執行を停止するという強硬手段に出たのだが、理がどちらにあるかはあまりに明らかだろう。この章での浅野さんの文章には、特に力が入っていて、県警との激しいバトルの様子が生々しく伝わってくるので、読んでいてとても面白い。
こういういきさつの件だから、これを 「情報公開の負の部分」 ととらえるのは問題のすり替えである。石原の主張は、彼がうしろ暗い部分をずいぶん持っているために、警察に恩を売って自らを守ってもらおうと思っているのではないか、などとついつい勘繰りたくなってしまう(笑)。
まあ、石原のことはともかく、この章は結局浅野さんがやり遂げることができず、浅野さん辞職のあと、自民党推薦で当選した村井嘉浩知事は、あっさり予算執行停止を解除してしまった。2005年の知事選は、郵政選挙で自民党が圧勝した直後に行われ、宮城県にもコイズミチルドレンの杉村太蔵が応援にくるなど、馬鹿騒ぎの延長戦をやった結果、村井氏が、浅野さんが推した前葉泰幸候補と共産党推薦の出浦秀隆候補を破って当選してしまったのだ。
この問題に関して、章の終わりに浅野さんは以下のように書いている。
犯罪捜査報償費問題に決着をつけるということなしに、宮城県知事を退任することになったのは、確かに心残りである。しかし、負け惜しみで言うのではなく、真実は何年かかったとしても、必ずや明らかになると信じている。その時には、快哉(かいさい)を叫ぶという気持ちにはならないだろうが、自分として最善を尽くしたという自負を持つことだけはできるだろうと思っている。
(浅野史郎 『疾走12年 アサノ知事の改革白書』 (岩波書店、2006年) 233頁)
この本は、浅野史郎さん支持派はもちろん、「敵を知る」意味からも、吉田万三さん支持派や黒川紀章さん支持派、それに石原慎太郎都知事支持派にも是非一読をおすすめしたい。
#当ブログは浅野史郎さんを応援しています
浅野史郎 『夢らいん』
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『浅野史郎さんのハートに火をつけよう!』
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私の記事の紹介ありがとうございました。
これからもよろしくお願いします。
2007.03.21 19:51 URL | 大津留公彦 #ZMUMkWGc [ 編集 ]
白取千夏雄
2007.03.26 07:11 URL | #- [ 編集 ]
http://blog.livedoor.jp/abc6861/?blog_id=2321450
在日の元売春婦を妻にした小林は建前と本音が乖離した。
25才 極秘婚の訳あり妻
金 明子 夜の蝶時代写真
石原が小林を見捨てたという解釈は妥当なようでいて小林が 無名時代から支えた事実婚の女性や、その間の子に1円の養育費も払わない事実を知る人々からすれば
小林こそ利用できる人々は利用し、乗り換えてきたので石原も其処をかぎとり 無理をしてまで小林の為に人肌ぬぐのをやめたと解釈する、事実婚女性は元自民党大臣の血縁、現在の在日売春婦歴を隠す何処の馬の骨ともわからないと呼ばれる25才年下のナラ韓国語(金明子)とは品格が異なる、だからこそ古巣の通産の奥様連も支援し、そもそも石原と結びつけたのはかの女性なのだから石原は極秘婚が露呈した段で引くことにしただろう。
2007.05.16 15:49 URL | 元秘書 #- [ 編集 ]
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