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きまぐれな日々

一昨日の記事でもちょっと触れたが、私は、ここ30年間にずいぶん進んだ日本社会の右傾化に、渡邉恒雄ことナベツネの果たした役割が大きかったと思っている。

ナベツネは、1979年に読売新聞の論説委員長に就任するや、読売新聞の論調を大きく右に傾けた。彼はまず、裁判所の違憲立法審査権を否定し、統治行為論を認める方向に社論を転換した。それまでの読売の社論は、違憲立法審査権を重視する、朝日などに近いものだったが、急激に舵を右に切ったのである。この時ナベツネは、従来の社論に基づく左派的な社説を書こうとした論説委員を左遷したといわれている。

ナベツネは、反戦・平和を主張し、弱者の立場に立つ紙面作りをしていた読売新聞大阪本社の社会部、通称「黒田軍団」を壊滅させた。現在テレビなどで活躍している大谷昭宏氏は、黒田軍団のエース記者だった。

以前にも書いたことがあるが、かつての大阪読売の紙面は、東京本社発行の紙面とは全然違う個性的なものだった。朝日や毎日が東京と大阪で似たような紙面であるのと、鋭い対象をなしていた。しかし、今の大阪読売は、東京版と何ら変わらない味気ない紙面になっている。これは、ナベツネのしわざだった。

読売新聞は、1984年元旦の社説で、右派路線を声高らかに宣言し、その10年後の1994年11月3日には、「改憲試案」を公表した。改憲を是とする意見が国民の間に浸透したことに対する読売新聞の寄与、ナベツネの寄与は、極めて大きい。

そんなナベツネが、私は昔から大嫌いだった。私はかつては熱心なプロ野球ファンだったが、とにかく巨人が大嫌いで、巨人が勝つたびに怒り狂っていたものだ(笑)。巨人が嫌いだからナベツネが嫌いになったのか、ナベツネが嫌いだから巨人が嫌いになったのかはよくわからないが、かつて私は掲示板で巨人ファンと大喧嘩することもしばしばで、よく「こんな馬鹿は逝ってよし」などと書かれて憎まれたものだ。

しかし、その反面、ナベツネというのは実に魅力ある男だ。私は、しばしばナベツネを批判するために彼の書いた本を買って読む。敵の主張を知った上でそれを批判したい。ナベツネというのは、そういう気を起こさせる男である。

対照的なのが安倍晋三の書いた「美しい国へ」であって、私はこれを本屋でパラパラとめくってみて、こんな本は批判の対象としても読むに値しないと判断した。

また、石原慎太郎もナベツネよりはるかに安倍晋三に近い。私は、石原の小説など最初から読む気にもならないばかりか、かつて読んだ2冊の石原の評伝である、佐野眞一「てっぺん野郎」(講談社、2003年)斎藤貴男「空虚な小皇帝」(岩波書店、2003年)を読んで、石原というのはひでぇ野郎だな、と思ったのだが、今これらの本の内容を思い出そうとしても、ろくすっぽ覚えていない。派手なパフォーマンスとは裏腹に、石原というのはびっくりするくらい印象の薄い、というかあとに何も残らない男なのだ。だからこそ斎藤貴男が「空虚な」と評したのかもしれない。

ナベツネはそうではない。全身全霊で批判したい気持ちになるのである。ある意味、「筋の通った敵」といえるかもしれない。「筋の通らない味方は、筋の通った敵よりずっとたちが悪い」と言ったのは、確か右派の論客である谷沢永一だ。私はこの言葉に深く共感するものである。

そのナベツネの著書に、「ポピュリズム批判」(博文館新社、1999年)という本がある。この本については、昨年7月19日の記事『ナベツネと靖国と安倍晋三と(その2)』で紹介したことがあるが、ほぼ全編がナベツネのクセの強い右派的な主張で埋め尽くされている中、新自由主義と靖国神社についてだけは、ナベツネは強烈な批判を行っている。

私の主張とも一致するその部分については、以前書いたので改めて書くことはしない。今回書きたいのは、ナベツネがタイトルに用いている「ポピュリズム批判」についてである。

ナベツネは、この本の中で、政権批判側の言論を、ポピュリズム(大衆迎合主義)であると厳しく批判している。

ナベツネは、自分の主張に反対する者には、あたり構わず「ポピュリスト」とのレッテルを貼る傾向があり、私はこれに対して強く反発していた。しかし、当時の野党や反政権ジャーナリズムにポピュリズムがなかったかというと、そうはいえないだろう。

だが、この本が出版された2年後、情勢は一変した。

小泉純一郎が政権を握り、そのパフォーマンスが大衆の心をつかんだのだ。大相撲で怪我を押して出場して優勝を遂げた横綱貴乃花に支配を手渡す時、「痛みに耐えて、よく頑張った! 感動した!」とコイズミが叫んだ時、大衆の陶酔は絶頂に達したが、まさにその瞬間、私はコイズミのパフォーマンスの嘘くささを直感し、反コイズミを強く意識したのだった。小泉内閣の登場によって、従来はどちらかというと反政権側の属性であった「ポピュリズム」は、権力者が大衆の懐柔に用いる手段となったのだった。

しかし、こんなことを感じた私のようなへそ曲がりはあくまで例外で、国民の多数はコイズミのパフォーマンスに酔い、高支持率を与え、しまいには郵政総選挙での圧勝まで与えてしまった。コイズミというポピュリストに全権を委ねてしまったのだ。

特に05年の総選挙における「刺客」の効果は絶大だった。選挙を残酷な見世物にし、大衆に血の味を覚えさせた。
権力者は、政治を単純化し、細部を切り落とし、見かけ上「分かりやすい」ものにしてしまった。テレビは、政治ショーが視聴者にとってとても面白く、興味を惹くものであることを知って、ますます政治をショー化していった。
それでも大衆の要求はとどまるところを知らず、もっと刺激が強く、もっとわかりやすいものを求めるようになっている。

安倍晋三は、コイズミほどポピュリストの才能はない。われわれ「AbEnd」を標榜するブロガーも、いずれはコイズミ流のポピュリズムに再び対峙しなければならないのではないかと、私は予想している。

だが、当ブログで繰り返し私が主張するように、世界は本来複雑なものなのだ。

1月9日のエントリで書いたのと同様のことを、もう一度繰り返したい。
ポピュリズムは単純化のプロセスだ。それは、差異を切り捨てようとすることだ。人の心は弱いので、強くて大きなものに自己を同一化させたいという強い欲求が働く。ポピュリズムは、そこにつけこんでくる。だが、異質なものの混合物に対して、一元的な理解をしていてはいけないのである。わからなければわからないで良い。人間一人一人は個性を持っており、みんな違っているからこそ良いのだ。みんなが一緒の方がずっと怖い。排除してしまったら終わりで、そこで思考は止まる。それは、全体主義への道にほかならない。

当ブログは、ここに「反ポピュリズム宣言」をしたいと思う。


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