そこへ、「安倍晋三TBP」にTBされた「広島瀬戸内新聞ブログ版」の記事「こんな座標分析をつくってみました」が目に飛び込んできた。
このブログの記事には、最近とても教えられるところが多い。そこで、この記事をヒントに思うところを書いていきたい。
短い記事なので、全文を引用する。
横軸に階級格差の大小。縦軸に執行部独裁⇔合意形成重視を取りました。
執行部独裁&格差大=ネオコン
執行部独裁&格差小=スターリン主義
合意形成重視&格差大=リベラリズム
合意形成重視&格差小=社民主義
意外と旧来自民と言うのは合意形成重視で、階級格差も小さい。だから社民主義といえる。
小泉さんは、実は正反対の政治なのです。竹中さんも実は「文化大革命」とご自身のHPで書かれているから当然前衛党的体質がある。
そして、スターリン主義をやっていると、結局「えらい人」が特権化し、執行部独裁&格差大になってしまう。だからスターリンも毛沢東も結果としてネオコンと同じようになってしまったのです。
安倍さんは、ネオコンと社民主義の間で実は呻吟していて、訳が分からなくなり、求心力が低下しているのです。
庶民が昔、自民党を支持していたのは実は、格差が小さく、合意重視の政治を意外と自民党がやっていたから。ただ、女性や若者の声がオミットされてしまった面があった。
そこにネオコン(ネオリベ・バックラッシュ)が目をつけて、執行部独裁をやりつつ、きれいごとを叫んで、圧勝した。最初は新進党、民主党右派だったが、今は、自民党がお株を奪ってそこに居座っているのです。
(「広島瀬戸内新聞ブログ版」?「こんな座標分析を作ってみました」より)
「広島瀬戸内新聞ブログ版」の記事には、横軸を階級格差の大小、縦軸に執行部独裁か合意形成重視かの度合いをとってグラフ化し、ネオコン、リベラリズム、社民主義、スターリン主義および小泉前首相、竹中平蔵、高市早苗、小沢一郎、旧来自民、岡田民主党、国民新党、毛沢東、スターリンをプロットしている。このグラフまで転載してしまうと、読者がリンク先をたどってくれなくなると思うので、グラフは弊ブログには転載しない。是非リンク先をたどってグラフをご覧いただきたいと思う。
このグラフでは第1象限(階級格差大、執行部独裁)をネオコン、第2象限(階級格差小、執行部独裁)をスターリン主義、第2象限(階級格差小、合意形成重視)を社民主義、第4象限(階級格差大、合意形成重視)をリベラリズムとしている。そして、いうまでもなくコイズミはネオコン、竹中平蔵や高市早苗はコイズミ以上に過激なネオコン、スターリンや毛沢東は階級格差小を理想としていたが、彼らの作った実際の社会は決して格差は小さくなかったので実質的にはネオコンに近いとしている。
一方、旧来の自民党やその精神を引き継いでいる現在の国民新党は、実はネオコンよりは社民主義に近く、小沢一郎はかつてはネオコンに位置づけられたが、現在は社民主義寄りのスタンスに移っているとしている。
私にはとてもよく納得できる分析だ。もちろん、現実を分析するのに2次元分析では不十分で、外交・国防政策を考慮に入れた3次元分析や、さらに多次元の分析が必要なのだろうとは思う。だが、今年行われる選挙における論点を考える場合、このグラフによる分析は頭に入れておいた方が良いと思う。
安倍自民党にとっては、こういう分析は都合が悪いから、改憲か護憲かを軸にした1次元分析に話を持っていきたいのだろう。何度も書くが、そんな彼らの思惑に乗っては絶対にダメだ。
現在、民主党、社民党、国民新党の三者が互いに接近を図っている理由も、このグラフを見れば納得できると思う。彼らの政策には親和性があり、この接近は決して野合ではない。野合というのなら、自民党と公明党の方がよほど野合だろう。もっとも、もともとは第2象限にあったはずが、毛沢東やスターリン同様の心理規制から第1象限に移ってきたであろう池田大作が実質的に支配している公明党と、すっかり「共産党化」(立花隆さんらによる分析)してネオコン政党に成り下がった自民党の相性は、現在では抜群なのだろうとも思うが(笑)。
私がこの分析を修正するとするなら、縦軸を「全体主義」⇔「個の重視」でプロットしたいというところだろうか。
このところよく考えるのだが、独裁志向とポピュリズムは、実はともに全体主義といえるのではないかと思う。独裁志向が全体主義を言い換えられるのは当然だろうが、以前のエントリでも書いたように、ひたすら「分かりやすさ」を追求する「ワンフレーズ・ポリティクス」も、全体主義そのものではないかと思うのだ。
弊ブログの読者にお願いしたいのだが、決して「分かりやすさ」を求めないでほしい。「分かりやすさ」は、差異の切り捨て、異質なものの排除につながるからである。それは、全体主義への道だ。そして、ものごとをよく考えてほしい。「分かりやすさ」を求める読者は、弊ブログを訪問しないでほしいとさえ思う。
自分の頭でとことん考えること。それが、現在の閉塞状況を打破するただ一つの道だと思う今日この頃である。
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なるほど。こういう分析は大切だと思います。
確かにネオコンは小さな政府である反面、権力を強める傾向があるため、執行部独裁に陥りやすいのでしょうね。
全体主義とポピュリズムの関係については、まず自由でさえ強制されかねない状況が考えられます。例えば自己責任は自由の裏返しでもあるのですが、イラク人質事件においては政府側の「自己責任」という発言を受けた国民が、ポピュリズムによる集団ヒステリーと化すことで、「自己責任」という言葉にある種の強制力を与え、国民が一様性に染まってしまったとも考えられるのではないでしょうか。そしてあの瞬間こそ、僕が最近になって全体主義をもっとも強く感じた瞬間でした。
ですから、ポピュリズムが全体主義的であるというkojitakenさんの指摘は的を射ていると思います。
2007.01.22 18:51 URL | vannsonn #- [ 編集 ]
この表は、よく出来ていますね。
自分の頭の中でなんとなくもやもやと感じていたことが、整理されたような気がします。
竹中、高市がかなり右上にあって、思わず「そうだ!」とぽんと手をたたいてしまいました。
小沢さんのベクトルが、左下に移動してるのに、気がついてなくて勘違いしてる人も多いんじゃないでしょうか。
2007.01.22 21:05 URL | 花美月 #pqibxaJs [ 編集 ]
vannsonnさん、
コメントありがとうございます。
ネオコンというのは、自由主義と共産主義の悪いとこどりをしたような思想と考えれば良いんでしょうかねえ。
イラク人質事件の時の「自己責任」の大合唱には本当にぞっとしました。コイズミ政権自体がそれを煽っていたし、ネットでは、勝谷誠彦なる馬鹿が、ウェブ日記でネットウヨを煽動していました。
それに対して、敢然と人質の人たちをウェブ日記で擁護し、政府を批判したのが「きっこの日記」でした。
2007.01.24 05:19 URL | kojitaken #e51DOZcs [ 編集 ]
イラク人質事件のときの、『自己責任』一色の政界、マスコミ、世論の中で、それは違うんだ、と人質の人やその家族を擁護し、人質の人たちの救出に全力を尽くした人々のことを、私は決して忘れません。
そういう人たちのことを、その後もずーと信頼しています。彼らは、その信頼を裏切らないで、今も活躍されています。
反対に、『自己責任だ』とうれしそうに語った面々のことも忘れません。その後彼らは相変わらず、品性が地に落ちたようなことを言ったりやったりしていますね。
2007.01.24 09:33 URL | 非戦 #tRWV4pAU [ 編集 ]
自己責任という言葉が自由の裏返し、つまり自由に伴う責任という意味であるならば、イラクで人質となった人たちは、人質になった時点で既に自己責任を取っているわけです。なぜなら、自由に伴う責任として人質となってしまったわけだから。
自由に伴う責任をどこまで適用すればよいのか、明らかに当時の自己責任という言葉には自由に伴う責任以上の強制力が含まれていたのだと思います。つまり、「個々人は自らのことにのみ関心を持つべきである」という暗黙の強制が含まれていた。だからこそ、政府が強制する個人主義という見方も可能だと思うのです。そしてそれが全体主義的な状況を作り出してしまったのでしょう。
現代社会にあっては、自由な個人が何の悪気もなく、自発的に権力を行使する場合があるのです。つまり、権力が偏在(あらゆるところに存在)している。ですから、共産主義国家のような大きな局在した国家権力とは異なり、見えにくい分余計に厄介なのかもしれません。
共謀罪も密告を奨励するものである限り、適用範囲によっては同じことが言えるでしょうね。と言うのも、共謀罪は建前上、「私たちの自由を守るため」となってはいますが、結局監視されるのは私たちなのですから。つまり、「私たち=正常」の自由を「テロリスト=異常」から守るために、「私たち=正常」を監視することになるわけです。そして個々人がそれぞれ自発的に権力装置と化すのです。こんなことを許していると、必ずいつかは自らの首を自らが絞めることになる。
小さな政府が強い権力を持つためには、私たち国民ひとりひとりが名もない権力となってくれることほど理想的なことはないのでしょうね。そして無関心な人たちが無関心なまま権力を行使する。恐ろしいことです。
2007.01.25 21:52 URL | vannsonn #- [ 編集 ]
ありゃりゃ、変換ミスです。
偏在ではなくて、遍在です。(笑)
2007.01.26 01:28 URL | vannsonn #- [ 編集 ]
おじゃまいたします。
とかく自分の信念や経験的なもので議論に向かってしまいがちな私ですが、
kojitakenさんのこの記事を読ませて頂きますと、
そうした概念がどのような論理に基づくものなのか、
大変わかり易く勉強になりました。
ネオコンはまさに資本主義と共産主義の原理において
権力者にのみ都合の良い理論を展開した愚の極みと言えましょう。
私たちひとりひとりは大海にそそぐ一滴の水のような、
小さな力しかないかもしれませんが、
大海はそのひとしずくなしには在り得ないわけですから、
ひとしずくとしての役割をしっかりと果たして行きたいと考えます。
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