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きまぐれな日々

昨日のエントリに引き続いて、宮崎学&近代の真相研究会編 『安倍晋三の敬愛する祖父 岸信介』(同時代社、2006年)を紹介する。

この本は、最初の部分はかなり読みにくいが、あとの方ほど面白い。昨日紹介した、A級戦犯容疑者だった岸が、起訴を免れ、アメリカの後押しを得て不死鳥のように甦り、ついに総理大臣に上り詰めた経緯は、8章からなるこの本の第5章に書かれている。

今回は、第6章以降に書かれている内容を紹介する。

岸の政治プログラムの目標は、「自主憲法」「自主防衛」「アジアへの経済進出」であった。安倍晋三がシャカリキになって改憲を目指しているのは、母方の「祖父」の果たせなかった夢を実現しようとしているからだ、とはよく指摘されることである。

日米安保条約の改定は、自主防衛を目指すためのステップだった。宮崎さんは、岸は最終的には核武装まで視野に入れていたという。2002年に安倍晋三が早稲田大学で「戦術核の保有や使用も違憲ではない」と発言して「サンデー毎日」にスッパ抜かれたことがあるが、これも安倍が岸の思想を継承しているからだろう。

だが、岸信介は、日米安保の改定を強行した直後の1960年6月23日に退陣に追い込まれた。皮肉にもそれを招いたのは、岸の「ご主人さま」アメリカだったと宮崎さんは指摘している。

1960年2月頃、新聞や野党からは「岸は安保条約改定について、衆議院を解散して国民に信を問え」という声が上がっていた。しかし、この頃にはまだ安保反対の世論は盛り上がっておらず、もしこの時点で議会を解散していたら、自民党は勝利し、安保条約はスムーズに改定されただろうと言われているそうだ。

しかし、アメリカの政治日程の都合により、岸は解散できなかった。なんと、議会の解散さえアメリカの許可を得なければできない、岸内閣とはそんな政権だったのだ。

日米安保条約の改定を、警官隊を導入して強行採決をした1960年5月19日を境に、安保反対の世論は大いに盛り上がった。6月15日には、東大生だった樺美智子さんが事実上警官隊に殺される事件が起き、世論はさらに沸騰した。岸は、自衛隊まで出動させてデモを抑え込もうとしたが、赤城宗徳防衛庁長官は、岸の要請をはねつけた。最後は、柏村信雄警察庁長官が、岸に政治姿勢を改めるよう迫り、岸は柏村を罷免しようとしたが、それに対して各地の警察幹部が反発、長官罷免なら自分たちが一斉辞任すると抗議した。こうして、自衛隊からも警察からも見放された岸は、退陣に追い込まれたのだ。岸を辞任に追いつめたのは、最終的には味方の造反であったが、彼らをそうさせたのは、いうまでもなく民衆の力である。

宮崎さんによると、岸は大衆を愛せなかった政治家だという。岸にとって、大衆とはみずからの国家構想に翼賛させる「数」に過ぎなかった。確かに岸は最低賃金法や国民年金法を制定したが、それは安倍晋三が言うような「貧しい人々を助けようと」したものではなく、大衆を懐柔するための「演技」に過ぎなかったと、宮崎さんは喝破している。

だから、岸にはそもそも戦争責任を感じる感性がない。岸信介論を著した、評論家の村上兵衛は、アウシュヴィッツを訪ねたアイゼンハワーの表情から、戦争に対する悲しみと怒りを強く感じていることを読み取り、そういう『真摯さ』を一切持たない岸に思いを致したという。だが、そんな独裁志向の男だった岸を倒したのは、「大衆の力」だったのだ。本来、大衆には政権を倒すパワーがある。日本国憲法は国民主権を定めている。日本を統治するのはわれわれになったのだ。

宮崎さんは下記のように指摘している。

 しかし、いつのまにか、われわれは、この「民主の力」の遺産の上に眠るものになっていったのではないか。民主主義が自己統治だということが忘れられようとしている。そして、それにともなって、われわれはなめられはじめたのだ。
 特にこの五年、われわれは「小泉劇場」なるものに誘い入れられ、パフォーマンス劇の演技を見て喜ぶ観客にされてきた。そういうふうにして、「演技される数」に甘んじているうちに、次なる劇場の座付き脚本家が書いたシナリオが岸復権なのだ。

(宮崎学&近代の真相研究会編 『安倍晋三の敬愛する祖父 岸信介』=同時代社、2006年=より)

さて、安倍晋三に論を移す前に、岸信介の「金権政治家」としての側面にも触れておかなければならない。

安倍晋三は、恥書ならぬ著書の「美しい国へ」において、金権政治の創始者が田中角栄であるかのように書いているが、これは真っ赤なウソで、岸信介こそ金権政治の本家本元である。
岸が満州を離れるときに語ったという「政治資金の濾過」論をここで紹介する。

「政治資金は濾過器を通ったものでなければならない。つまりきれいな金ということだ。濾過をよくしてあれば、問題が起こっても、それは濾過のところでとまって政治家その人には及ばぬのだ。そのようなことを心がけておかねばならん」
(前掲書より)

要は、岸は汚れ役は周囲の人間にやらせて、いざとなったらトカゲの尻尾切りをするぞ、と公言したわけだ。

田中角栄は、ロッキード事件に関係して、総理大臣辞任の2年後、受託収賄容疑で逮捕されたが、宮崎さんはこう指摘する。

 それ(岸信介の政治資金調達法)と田中角栄的な「現金取引」とどっちが「構造的」だろうか。岸のほうが構造的である。岸のような黙っていてもカネが集まってくる真正権力者と違う成り上がりの田中角栄は、受託収賄のようなヤクザな手法を使うしかなかったのだ。
(前掲書より)


それでも、岸は、首相時代「歴代総理のうち、岸首相ほど"金の出所"に疑惑を持たれている人は少ない」(「週刊新潮」1959年3月30日号)と書かれた男である。宮崎さんは、岸が絡んでいるとささやかれた疑惑を列挙している。

1958年(昭和33年)
 千葉銀行事件
 グラマン・ロッキード事件
1959年(昭和34年)
 インドネシア賠償疑惑
 熱海別荘疑惑
1961年(昭和36年)
 武州鉄道疑惑
1966年(昭和41年)
 バノコン疑惑
(前掲書より)


これらは、いずれも岸が直接絡んだと噂された疑惑であって、間接的な関与が噂された件を含むと、数え切れないほどの疑惑がささやかれたが、いうまでもなく岸は一度も逮捕されたことはない。

さらに、岸はアンダーグラウンドの世界ともつながりがあった。だが、それらにいずれも岸の戦犯仲間である児玉誉士夫や笹川良一を介在させ、岸には累が及ばないようにしていた。

宮崎さんの本から、岸とアングラ勢力のかかわりについて書かれた部分を以下に紹介する。

デイビッド・E・カプランとアレック・デュプロは『ヤクザ ニッポン的地下犯罪帝国と右翼』で、「岸は、戦前の右翼とヤクザの同盟のそうそうたる一群全員が中央舞台へ復帰するのに力を貸し、何とか彼らの復帰をやりとげてしまった」と書いている。そして、それを受け継いだのが、「岸と児玉の支持を受けて自民党副総裁の座を占めた」大野伴睦だった、という。
(中略)
 岸が退陣した時、この大野伴睦に後継総裁を約束したと念書を渡していたことが問題になった。この念書は、1959年(昭和34年)1月、岸が自民党総裁選で再選を勝ち取るために書いたものだが、このとき仲介者として児玉誉士夫が同席していた。そして、岸はそれを反故にしたのだ。後継総裁には池田勇人が選ばれた。
 池田総裁の就任パーティで岸は荒牧退助という男に太股を刺された。この荒牧は、児玉誉士夫系の右翼団体・大化会に所属していた右翼だった。大野とも面識があり、世話になったこともあった。海原清兵衛という大野系自民党院外団体の顔役で働いていた。この事件は、大野の報復という見方が強いが、むしろ大野の無念さを汲みながら、裏社会のドン児玉が仲介して成立した念書を無視したことに対する裏社会からの警告だったと見た方が良いのではないか。
 もちろん、岸は、このあと大野にではなく、裏社会に対して、しかるべき手を打ったにちがいない。右翼、ヤクザが岸に手を出すことは二度となかった。
(前掲書より)


安倍晋三にも暴力団にかかわる噂は多いが、暴力団によって、地元事務所に火炎瓶を投げ込まれてしまう安倍は、「脇が甘い」というべきなのかもしれない。

その安倍晋三を、母方の祖父・岸信介と絡めて論じた部分は、宮崎さんの本では最後の第8章に置かれている。今回は、またしてもそこまで書き切れなかった。そこで、このシリーズの連載をさらに1回追加して、次回のエントリでそれを紹介することにしたい。

(続きはこちらへ)
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2007.01.16 12:20 | 読んだ本 | トラックバック(-) | コメント(2) | このエントリーを含むはてなブックマーク

昨年の12月に掲載されたナベツネの日経「私の履歴書」、60年安保の前後の岸や大野のことが一番詳しく書かれています。書かれていないことも含めて読み合わせたら何か発見があるでしょうか?

2007.01.16 20:05 URL | ゴンベイ #eBcs6aYE [ 編集 ]

ゴンベイさん、
お久しぶりです。情報ありがとうございます。
私は日経はとっていないので、ナベツネの「私の履歴書」は未読ですが、図書館ででも読んでみたいと思います。
ナベツネは、大野伴睦にかわいがられていて、岸に裏切られた時にはショックだったようですね。
魚住昭さんの「渡邉恒雄 メディアと権力」にもそこらへんが書かれていますが、ナベツネ自身の記述と比較するのも楽しみです。

2007.01.16 20:12 URL | kojitaken #e51DOZcs [ 編集 ]













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