小嶋社長の証人喚問で、民主党の馬淵澄夫議員が、小嶋氏が「安晋会」の会員であり、マンション住民への説明会で、安倍晋三の後ろ盾があるようなことをしゃべっていたことを暴露した。しかし、そのニュースはライブドアの強制捜査の陰に隠れてしまったのである。
ところが、事実は小説より奇なりとはよく言ったもので、馬淵議員が「安晋会」の存在を暴いた翌日の1月18日、ライブドア事件に絡んでエイチ・エス証券の野口英昭さんが謎の「自殺」を遂げた。野口さんの命日ももう間もなくだ。私は1月19日の早朝に、読売新聞の速報でこのニュースを知った瞬間に、「これは自殺じゃない」と即座に確信し、掲示板で騒ぎまくったのだが、同日にこの件をある有名ブログが取り上げたことによって、ブログ界でもこの話題は沸騰したものだ(私は当時ブログを未開設だったので、これには加われなかった)。
驚くべきことに、野口さんは「安晋会」の理事だった。これは、「週刊ポスト」のスクープだ。その数日前から、耐震偽装事件とライブドア事件の両方に絡んで安倍晋三の名前がささやかれているという情報は得ていた。しかし、「自殺」した野口さんまでもが「安晋会」の理事だったという情報には、背筋が凍る思いだった。いったい、「安晋会」にはどこまで深い闇があるというのだろうか。
これで安倍晋三の政治生命は終わるかもしれない。そういう予想もあった。しかし、安倍は生き延びた。6月上旬、安倍が統一協会系の大会に祝電を送っていたことが判明し、その頃にはブログを開設していた私も騒ぎに参加したのだが、安倍はこれも乗り切った。
ついに総理大臣になり、安倍晋三は得意絶頂だったはずだが、そこから安倍は高転びに転びつつある。それが現状だと思う。
さて、前置きが長くなってしまった。
昨日のエントリに引き続き、佐藤優・魚住昭著 『ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき』(朝日新聞社、2006年)を紹介したい。
この本でも、ライブドアの強制捜査のことが取り上げられている(第9章)。この強制捜査劇を、ホリエモンが体現している新自由主義と国家の対決と見る佐藤さんの見方は、ごく一般的なものだろう。新自由主義とは究極の資本の論理だから、天皇制もどうでも良いし(事実、堀江貴文は天皇制を否定し、大統領制を唱えていた)、国家も邪魔なだけ、これに対して国家の論理は自己保存であって、そのイデオロギーは「新保守主義」である、これが新自由主義と激しくぶつかったのが、ライブドアの強制捜査であり、ホリエモンの逮捕だったと佐藤優は解釈しているが、これは、当時この事件を非常な関心を持って見守っていた私の感覚とよく合致するものだ。
以下、佐藤優のたとえ話を引用する。
ホリエモン事件は、国家と貨幣の間の激しい戦いだと私は見ています。いわば、怪獣大戦争ですよ。たとえば、ゴジラ対ヘドラ。ゴジラは水爆実験によって生み出されましたね。ヘドラは公害が生み出しました。どちらも人間が生み出したものであるにもかかわらず、人間のコントロールが利かない化け物という点では、国家と貨幣に似ていませんか。このまま、新自由主義=貨幣が強くなり過ぎると、おまんまの食い上げになると心配した国家が、貨幣に噛みついたと。東京タワーを引き抜いたり、転んでビルや住宅を押しつぶしたり、みんなひどい目にあっている。こんなイメージですね。
(佐藤優・魚住昭 『ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき』=朝日新聞社、2006年=第9章より)
さて、この本の中でもっとも印象に残ったのは、蓑田胸喜(みのだ・むねき, 1894〜1946)という思想家の話題だ。
この蓑田胸喜という人物は、Wikipediaにも載っておらず、Googleで検索しても576件しか引っかからない、今となっては忘れられた思想家で、私自身も「ナショナリズムという迷宮」を読んで、初めて知った(佐藤優がGoogle検索をした時には459件しかヒットしなかったらしい)。
佐藤優によると、蓑田は国家主義思想家で、リベラルな学者を次々と糾弾し、アカデミズムの世界から追放したり、事実上、ものが言えないような状況に追い込むことに成功したばかりか、右翼や国家主義者まで攻撃した人とのことだ。
蓑田の思想に関する佐藤優と魚住昭の対話を以下に引用する。
佐藤 彼の思想の基本的な構えは、日本人には単一の歴史しかない。全体が部分に優先し、歴史は個人に優先するというものです。さらにそうした全体や歴史は天皇によって体現されていると。そのことは『明治天皇御集』の和歌の解釈で、"客観的"に確定できるというものです。この考えを受け入れない人間は国賊なんです。ですから、日本人でありながら仏教徒であったり、クリスチャンであったり、ましてやマルクス主義者などということは、あってはならないことなんです。
魚住 整合性のない思想のように思えますが、本当に当時の知識人を屈服させることができたんですか。
佐藤 いまお話ししたように、蓑田の内面では、社会の枠組みや制度、歴史といった論理的な事柄と、和歌という心情的、情緒的な事柄が何の矛盾もなく往来しています。蓑田は、論理の問題と心情の問題という、本来、分けて考えるべき問題をいっしょにこね回すことができる天才だったんです。そうして生み出された言説は、当時の日本人が抱いていたいらだちや集合的無意識を見事に掬うことができたんです。そんな天才的なアジテーション能力が彼の強みであり武器でした。01年の自民党総裁選で小泉さんが勝ったのは田中眞紀子さんによるところが大きいですよね。彼女の応援演説を思い出してください。聴衆は爆笑、拍手喝采でした。蓑田については、外国語や和歌に通暁した田中眞紀子さんが、戦前の10年間、論壇を席捲(せっけん)した。こんなふうにイメージしたらいいと思います。
(佐藤優・魚住昭 『ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき』=朝日新聞社、2006年=第14章より)
なんと、蓑田胸喜というのは、論理の問題と心情の問題をごっちゃにして言論封殺のアジテーションを行っていた男であるようだ。
蓑田はこの論法で、美濃部達吉の「天皇機関説」を激しく攻撃し、論争を巻き起こした。「ナショナリズムという迷宮」の中に、立花隆著『天皇と東大』(文藝春秋、2005年)の記述が引用されているが、これがとても興味深いので、孫引きになるが紹介したい。
天皇機関説論争は、国会でも取り上げられたのだが、国会で天皇機関説を批判した議員は、美濃部達吉の天皇機関説の論文を読まずに批判していたのだった。
当時有名だったジャーナリスト・徳富蘇峰も、天皇機関説の論争に参加したのだが、彼もまた美濃部の著作を読んでいない、と自ら明らかにした上で天皇機関説を批判していた。
立花隆は、以下のように書いている。
何も読んでいないが、批判だけはするというのだ。これでも蘇峰か、と唖然とするほど堂々たる開き直りぶりである。
それで何をいうのかと思ったら、要するに、「天皇機関説などという、其の言葉」がいけないというのだ。その言葉が何を意味するのかわからないが、とにかくその言葉がいけないというのだ。「機関」が何を意味するかわからなかったら、天皇機関説の真意がわかるはずもなく、批判などできるわけがない。しかし蘇峰はそれでも構わず論理ゼロの感情だけの議論を続けていく。実は、天皇機関説論争の相当部分が、これと同じレベルの議論なのである。(立花隆 『天皇と東大』 下巻135頁)
議会のやりとりを見ても、首相、大臣などが、天皇機関説に対する見解を問われると、みな反対だといい、日本の国体をどう思うかと問えば、みな尊厳そのものとか、万国無比といったありふれたきまり文句をならべ、あげくにみんなが国体明徴を叫んで終わりという空虚な芝居が繰り返し演じられた。(前掲書、172頁)
一つの国が滅びの道を突っ走りはじめるときというのは、恐らくこうなのだ。とめどなく空虚な空さわぎがつづき、社会が一大転換期にさしかかっているというのに、ほとんどの人が時代がどのように展開しつつあるのか見ようとしない。たとえようもなくひどい知力の衰弱が社会をおおっているため、ほとんどの人が、ちょっと考えればすぐにわかりそうなはずのものがわからず、ちょっと目をこらせばみえるはずのものが見えない(こう書きながら、今日ただいまの日本が、もう一度そういう滅びの道のとば口に立っているのかもしれないと思っている)。(前掲書、173頁)
(佐藤優・魚住昭 『ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき』(朝日新聞社、2006年)206-207頁)
魚住昭も佐藤優も、この立花隆の見解に同意しているが、私も同感だ。これを読みながら私の脳裏から離れなかったのが、安倍晋三が好むフレーズである「美しい国」だった。
ほかならぬ立花隆が、「メディア ソシオ-ポリティクス」第93回「未熟な安倍内閣が許した危険な官僚暴走の時代」で、下記のように書いている。
センチメンタリズムが国を危うくする
実はそんなこと以上に、私がかねがね安倍首相の政治家としての資質で疑問に思っているのは、彼が好んで自分が目指す国の方向性を示すコンセプトとして使いつづけている「美しい国」なるスローガンである。情緒過多のコンセプトを政治目標として掲げるのは、誤りである。
だいたい政治をセンチメンタリズムで語る人間は、危ないと私は思っている。
政治で何より大切なのは、レアリズムである。政治家が政治目標を語るとき、あくまでも「これ」をする、「あれ」をすると、いつもはっきりした意味内容をもって語るべきである。同じ意味を聞いても、人によってその意味内容のとらえ方がちがう曖昧で情緒的な言葉をもって政治目標を語るべきではない。
人間Aにとって「美しい」ものは、人間Bにとっては、「醜い」ものかもしれない。政治は人間Aに対しても、人間Bに対しても平等に行われなければならないのだから、その目標はあくまでも明確に具体性をもって語ることができる内容をともなって語られなければならない。
歴史的にいっても、政治にロマンティシズムを導入した人間にろくな政治家がいない。一人よがりのイデオロギーに酔って、国全体を危うくした政治家たちは、みんなロマンティストだった。
政治をセンチメンタリズムで語りがちの安倍首相は、すでにイデオロギー過多の危ない世界に入りつつあると思う。
(「メディア ソシオ-ポリティクス」第93回「未熟な安倍内閣が許した危険な官僚暴走の時代」より)
安倍晋三自身が意識していたかどうかはわからないが、「美しい国・日本」というキャッチフレーズには、日本人を思考停止させようという狙いがあったと思う。しかし、日本国民にとって幸いなことに、安倍自身が失政を重ねたことによって、このフレーズはすっかり色あせてきている。
「ナショナリズムの迷宮」には、この他にも、キリスト教・イスラム教論や、丸山眞男批判などなど、興味深い考察が満載されていて、読み応えたっぷりの本である。
- 関連記事
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- 年末年始に読んだ本(5) - 『安倍晋三の敬愛する祖父 岸信介』(上) (2007/01/15)
- 年末年始に読んだ本(4) 『ナショナリズムという迷宮』(下) (2007/01/14)
- 年末年始に読んだ本(3) 『ナショナリズムという迷宮』(上) (2007/01/13)
今晩は、お久しぶりです。
>「天皇機関説」ということがダメなのだ
のくだり、面白いですね。
そもそも「天皇」っていう言葉について考えた形跡がない辺りが・・。
「天」の「皇帝」でしょ。中国史で「天帝」とかいうの見た覚えがあるような気がしますが、「天皇」はないです、僕は。勉強不足?
それはともかく、「上皇」っていうのが中世史ではでてきますね。
wikiで鳥羽上皇[法皇]や後白河上皇を読むと、平安末期という転換期の苦悩やギリギリの状況での戦略、色んな人間模様が読めて面白いですね。
鎌倉仏教[親鸞や日蓮・・]が生み出される庶民のエネルギーとかも何となく窺えて・・。
禅宗の成立?発展?なんかもやはりこの頃なんでしょうか?室町時代の(京)五山文化は鎌倉時代のを継承しているんでしょうか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%B1%B1%E6%96%87%E5%AD%A6
とか、今日の政治地図に少なからぬ影響を与えているようで、興味は尽きません。
明治期以降の「国家主義」だけでは論じ尽くせないものが、今にも生きているようで・・。
では。
2007.01.14 17:47 URL | 三介 #CRE.7pXc [ 編集 ]
こんばんは。
うちの家族も昨今の大臣たちの
事務所費問題をテレビや新聞で見聞きして、
「何が美しい国だ。ぜんぜん美しくない
じゃないかって」怒ってました。
美しい国といいながら、やっていることは
美しくない。
はっきりと見えてきています。
特に伊吹大臣のは安倍さんにとって
頭の痛いところだと思います。
文部大臣ですから。
2007.01.14 20:23 URL | みり #- [ 編集 ]
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ちょっと一言。
初の戦後生まれの総理大臣が、誕生して100日余経ちました。
2007.01.14 11:00 | 酔語酔吟 夢がたり