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きまぐれな日々

今回は、2005年に集英社新書から刊行された森達也と森巣博の対談本「ご臨終メディア」を紹介する。一昨年の、あの悪夢のような「9・11」の総選挙の直前に編集された本で、「質問しないマスコミと一人で考えない日本人」というサブタイトルがつけられている。

森達也氏は1956年生まれのドキュメンタリー作家で、98年、オウム真理教を描いた映画『A』を公開。続編『A2』とともに高い評価を受けた。
森巣博氏は1948年生まれ。オーストラリア在住で、「作家兼国際的博奕打ち」(「サイゾー」2006年10月号別冊による)とのことだ。

二人は、現在のマスコミの機能不全について語り合った。
以下に、この本で興味深いと思われる指摘を紹介していく。

■ずれていく右翼左翼の座標軸

 日本を離れて長い森巣さんが、たまに日本に帰ってくると、かつて「まん中」に位置していた人が、「朝日新聞」の記事で左翼に位置付けられているという。森巣さんが挙げていた例が坂本義和(東京大学名誉教授、国際政治学)だった。かつての右は今のまん中に位置づけられ、かつては相手にされていなかった、神道学の高森明勅(「つくる会」副会長)が右として朝日の紙面に登場しているとの指摘だった。
 森巣さんによると、神道学なるものは、「神がかりのもので、右とか左の範疇に入るものではない」とのこと。痛快な指摘だ。

■大手メディア関係者の給料が高すぎる

 大手メディアの志が低いのは、社員の給料が高すぎるから。これは誰しもが思っていることだろう。森巣さんは、テレビ局の給料を今の10分の1、朝日・読売・日経を6分の1、比較的給与の安い毎日・産経は4分の1に下げよと主張している(笑)。

■「視聴率がとれないから」有事法制をニュースで取り上げなかった日本テレビ

 「有事法制」が騒がれていた頃、日本テレビがこの件をニュースで取り上げなかったことがあった。森さんが日本テレビ報道局の記者にその理由を聞いたら、ナント「数字(視聴率)が来ないから」という答えだったそうだ。

■NHKの番組改変問題(NHKが安倍と中川の圧力に屈したとされる件)

 毎度オナジミのNHK番組改変問題は、この本でも取り上げられている。
 番組が無惨に改変されたことに対して「戦争と女性への暴力」日本ネットワークから訴えられたNHKは、責任を末端の制作会社に押しつけて逃げた。その結果、制作会社が法廷で裁かれた。安倍晋三や中川昭一がNHKに圧力をかけたことを暴いた朝日新聞は、(魚住昭氏に真相を暴かれたのちも)録音テープの存在を認めようとせず、安倍らの軍門に下った。
 なお、森喜朗が首相当時、「神の国」発言をして問題になった時に、森に釈明のやり方を指南したNHK記者はその後順調に出世しているそうだ。

■なぜ石原慎太郎を「極右」と呼ばないのか?

 日本の大手メディアは、フランスのルペンやオーストリアのハイダーらを取り上げる時、必ず「極右」という形容をするのに、「中国人犯罪者民族的DNA論」なる、ルペンやハイダーでもしないようなトンデモ発言をする、紛れもない極右政治家である石原慎太郎を、決して「極右」と呼ばない。これはなぜなのか。
 なお、森巣さんによると、石原邸では「祭日」(右翼用語)に「日の丸」を掲揚していないそうだ(笑)。

 森さんが数年前、右翼の大物と飲んだ時、彼は決して今の日本のこの世相を大歓迎しているわけじゃないと言っていたそうだ。たとえば、「新しい歴史教科書をつくる会」に対して、「あれは民族主義じゃなくて全体主義だ」と言っていた。森さん曰く、『全体主義とは、構造的には無自覚な萎縮の集積です。だから、メディアや世相の右傾化という側面よりも、個が全体に溶け込んで帰属意識や排他性が強くなっていることのほうがよっぽど恐ろしい。(中略)彼(石原)を極右だとメディアが断言しない理由は、自分たちが右翼的体質に感染しているからではなく、むしろこの無自覚な萎縮や保身が継続的に集積している状況の表れなんじゃないかな』とのことだ。実に的を射た発言だと思う。

■サダムがやると拷問、アメリカ軍がやると虐待

 捕虜への取扱いも、同じことをやっても、メディアはサダム・フセインがやると「拷問」(torture)、アメリカ軍がやると「虐待」(ill-treatment)と表現する。アメリカのマスコミも当初そうだったが、誤りに気づいて表記を変えた。しかし、日本のマスコミはこの二重基準を変えなかった。

■コイズミを問い詰められない記者たち

 香田証生さんがバクダッドで武装勢力に拘束されたとの一報が入ったとき、コイズミが初期の段階で、自衛隊の撤退はしないと明言し、香田さんは処刑された。記者の一人は、コイズミに対して「最初に自衛隊撤退はないと言ってしまったために、香田さんの処刑が早まったのではないかという声があります」と言った(森さん曰く、「将棋に喩えれば王手飛車取り」)。それに対し、コイズミは「それでは皆さん、想像してください。もしあのとき、撤退だという言葉を口にしたり、仄めかしたりしたら、どうなっていたかを」。森さん曰く、「王手なのに飛車が逃げたような」突っ込みどころ満載のコイズミの答えだったのに、コイズミを取り囲んだ記者は誰一人コイズミの問いに答えない。コイズミの言葉のあとに一瞬の間を置いてから、記者たちの頷きの吐息が聞こえてきて、そこで映像は終わった。

■「自己責任」について聞かれて答えられない産経新聞の幹部記者

 森巣さんの発言。
 『SBS(オーストラリアの少数者のための公営放送局)で、日本人の三人が、イラクで人質にとられたときの自己責任論についての番組が放送されました。「産経新聞」の編集委員か論説委員が出てきて、インタビューされたんです。SBS側のインタビュアーが問い詰める、どうしてこれが自己責任になるのだと。あなたの考える自己責任とはいったいどんなものなのかと質問される。何てその編集委員か論説委員は答えたと思いますか。ノーコメントって言いやがんの(笑)。これが、ジャーナリストの端くれなんですかね(笑)』
 産経新聞なんてこんなもんだろう(笑)。

■「わかりやすさ」の落とし穴

 以下引用する。

 メディアにおいては、善意とわかりやすさは、とても相性が良いんです。事件が起きると、すぐに結論を出してわかりやすく提示する。よく吟味もしないうちに、解説を施して、決めつける。曖昧な部分を提示しても受け取る側は納得しない。数字も落ちる。だからわかりやすさが、メディアにおいては至上の価値になる。でもこの営みを、利潤最優先の帰結とは認めたくない。だから自分を正当化するんです。使命感と言い換えてもよい。こうして事象や現象をわかりやすく簡略化する悪循環の構造に飲み込まれてしまう。
(中略)
森巣 曖昧なものは曖昧なまま、その答えを自分で考え出そうとしない。曖昧なものに、無理してわかったフリをする必要はない。曖昧なものとして、そのまま放っておいていいんです。簡単な解答を与えてはいけない。
 そもそも世界とは、異質なものが混じり合って成立している。森さん流に言うのなら、それゆえ世界は優しいし豊かなのですね。それに対して一元的な理解をしてはいけない。異質なものは、わからなければわからないでいい。
 だけど、それを怖がるな。
 みんなが一緒の世界のほうが、ずっと怖いのです。異質なものを混ぜて一緒にやる。これが本来の意味での多元主義の立場です。異物はわからないからといって、排除してしまったら終わり。そこで思考は止まります。わからないものはわからないまま、置いておいて、一緒に考えればいい。
(中略)
 ペルーの日本大使公邸を占拠したゲリラたちは、みんな死ぬ気で行動していた。命を懸け、身を挺しても訴えたい、表現したいことがあった。その主張を、テレビを見ている人間が洗脳されるかもしれないからといって、報道しないというのは、何事かと思う。テロリズムが犯罪なら、そのメディアの姿勢も明らかに犯罪行為です。
 本当ですね。
森巣 そんな主張が通るのは、世界中で独裁国家と日本のメディアだけでしょう。北朝鮮や中国には言論の自由がない。報道が規制されているって、よく日本の右派の人たちは主張するのですが、日本では統制する必要がなくなっているだけじゃなかろうか? 安倍晋三なんて三代にわたって日本を喰い物にしてきた奴の言う通りにしている。実践して初めて言論の自由は守られるのです。

 この本の中で、もっとも印象に残る箇所だった。

■希望が絶望に変わるのは諦めた時

 森巣さんは、よく「あいつはオーストラリアという安全な場所に身を置いているから、あんなことが言えるんだ」という批判を受けるという。でも、森巣さんは、この批判はどこかおかしい。日本が「危険な場所」だと認めていることだ。ならばなぜ避難しないのか、と言う。
 森さんが、「オーストラリアには簡単に移住できない」と言うと、森巣さんは「だったら今いる場所を安全にすればいい」と応じる。最後に、巻末に置かれた森巣さんの言葉を紹介する。
 『もし日本が「危険な場所」であるなら、なぜそれを変えようとしないか。変革なんていうとバカにされるニヒリズムの共同体に、どっぷりと身を浸しながら、奈落に落ちるのを待っていても仕方ないのじゃなかろうか。
 長い博奕体験から、私には言えることが一つある。それは、希望が絶望に変わるのは諦めたときなんです。諦めちゃいけない。絶望に陥ってはいけないのです。やれるところから、変えていきましょう。その意味で、日本のマスメディアには、重大な義務と責任があることを、しっかり認識してほしいと思います』

 読みやすい新書本だが、なかなか示唆に富むメディア論が展開されている好著だと思う。


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kojitakenさんのこの記事は、この本を読んでない人が、読んだ気になるくらい良くまとめてあります。だから、これを読んだ人が、
「良く分かった!」と言って、読まなくなるのが本気で心配です。(笑)

私もこの本を読みました。
森さんの言う事に前から共感していましたが、それ以上に森巣さんの発想や物の見かた、考え方が、衝撃を受けるほどすばらしく、引きこまれてしまいました。森巣さんの経歴、家族構成、家族との係わりあいなどを知ると、なるほどなと思うのですが、こんなグローバルな考え方が出来る人は今までにいただろうか、と感心しました。まさに、「無境界の人」(「無境界家族」という著書が面白い)ですね。

「報道が規制されているって、よく日本の右派の人たちは主張するのですが、日本では統制する必要がなくなっているだけじゃなかろうか? 安倍晋三なんて三代にわたって日本を喰い物にしてきた奴の言う通りにしている。実践して初めて言論の自由は守られるのです。」
に、私も、同感!です。

2007.01.07 12:18 URL | 非戦 #tRWV4pAU [ 編集 ]

「報道が規制・・・日本では規制する必要がなくなっているだけじゃなかろうか?」に関連して。

米原万里が「打ちのめさせるようなすごい本」という本の中で、『戦争広告代理店』(高木徹著)の書評を書いています。
その文から一部紹介します。

圧倒的多数の人々は自由なる意思に基ずいて、己の意思やを立場を決定していると無邪気に思い込んでいる。
あたかも自身の意思で、さして必要もない商品を嬉々として買い求め、インタビューに際しては10人中9人が自分自身が考え抜いた意見であるかのように、テレビキャスターや新聞の論調を反芻する。そして選挙ともなれば、自分や自分と同じ境遇の人々の利害に
反する政策を推し進める政党に投票したりする。
それが、情報操作の結果であるなんて露ほども疑わない。

2007.01.07 13:02 URL | 非戦 #tRWV4pAU [ 編集 ]

>希望が絶望に変わるのは諦めたときなんです。諦めちゃいけない。絶望に陥ってはいけないのです。
この言葉、骨の髄までしみ込ませてやっていきたいと思います。

2007.01.08 00:17 URL | メロディ #- [ 編集 ]

 以下は[So-net blog『試稿錯誤』(著作者・古井戸さん)のブログ「遠山啓 1909 - 1979 」]の引用だ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 文化としての数学、1973年、の末尾で遠山啓は言う:
「もし自然科学者の眼が素通しの眼鏡のようなものであったら、誤った仮説が生まれてくることはなかったであろう。しかし自然科学の歴史はおびただしい誤った仮説の堆積のうえに築かれているのである」
  (中略)
「数学が、さらに広くいって自然科学が人間の自由な想像力とは無縁である、という誤解を生みだしたものは、これまでの数学教育、自然科学教育であるといっても過言ではない。既成の知識をできるだけ多量につめこむことにのみ力を注ぎ、それらの真理が多くの誤謬を犯しながら獲得されたという過程を子どもたちに追体験、もしくは拡大的に再体験させるという不可欠な手続を抜かしているからである」
(遠山啓『文化としての数学』光文社文庫)

 1973年発行された大月文庫の再刊である。今回は79年に遠山が没した直後に発表された吉本隆明の長い追悼文が付いている。敗戦の余塵がまだ醒めない時期、遠山啓は「量子論の数学的基礎」の自主講座を焼け残った学舎で開き、工場動員のため地方に散っていた吉本隆明のような皇国青年が多く参加し、熱心に耳を傾けた。
 吉本隆明は追悼文のなかで次のように述べている:

「講義の内容は切れ味の軽快さよりも抜群の重みを、整合性よりも構想力の強さを背後に感じさせるようなものである。このような印象は、ある一つの対象を理解するために不必要なほどの迂回路をとおって到達した証拠であるように思われた。」
   (中略)
「敗戦とはなにか、大学とはなんなのか、学問とはいったいなにかを回答することなしに、大学がまたぞろ再開されようとする姿が醜悪で、嫌悪だけがどうしようもなく内訌しくすぶっていた」
「遠山さんには敗戦の打撃からおきあがれない若い学生たちの荒廃をどこかで支えなければならないという使命感が秘められていて、その情感と世相への批判が潜熱のように伝わってきた」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 吉本隆明は1960年代~70年代にかけて、学生達、特に私のような田舎出の学生に人気の文芸批評家だった。
 振り返ってみて、彼にひかれたことの一つは、「都市(出来上がってしまったもの)」に“見下され”、苛立ちつつ取り込まれようとする田舎者に待ったをかけ、「お前ら自身に存在根拠があるんだよ」と言い続けてくれた所にあったように思う。
 「皇国青年」吉本が敗戦直後、遠山に感じたのも、それだったのだろう。

 現今のマスコミ(記者、解説者等々)に欠けているのは、結果(論理)を語る背後にあるはずの、思考(試行錯誤を含むその人の人生)の広がりだろうと思う。それがないからそれを感じない、描けない、感じさせられないのだろう。
 その一つの根は、日露戦争期に一つのピークとなった硬直的な科挙(受験)教育、「鋳型を作れば、心は後から付いてくる」の精神主義とピラミッド型の公教育にあると感じている。
 それは今も、何一つ変わっていない。いないばかりか、自己決定に向け、試行錯誤で歩き始めた人々が時折引き起こす「事件」(家庭内の事件などの多くは、私にはそう見える)を誇大に取り上げ、「それ見たことか」の道学者達に、ほとんど無批判に乗る。
 ここ(マスコミとそれに同調する人々)に在る正義とは、何もしないことによって保たれる正義といっていいと思う。
 なにもしないことで保たれる正義。それは「命令」を待つしかないのだ。

 自分自身の事柄を含め、道は長いと思う。そこに「おもしろさ」もあると思っている。

 古井戸さんはこの文章を、次のように結んでいる。「国家に何かを期待すること自体が愚劣である」。

2007.01.08 11:05 URL | 朝空 #N/K9pUKc [ 編集 ]

コメントいただき、ありがとうございました。
森巣氏はなかなかユニークな人です。以前、喜八さんが森巣氏の夫人のテッサ・モーリス・スズキさんについて書かれていましたね。
kojitakenさんが紹介されているものは、私は未読。森氏との対談自体がそもそも触手が動きそう。内容をも予感させます。ぜひ読んでみたいと思います。

2007.01.08 17:28 URL | これお・ぷてら  #- [ 編集 ]

こんにちは。本年も、よろしく。大変興味深いご紹介でした。何ででしょうねえ。丸山真男も、吉本隆明も、大島渚も、口を酸っぱくして言いつづけ、いままた、森巣、森の両氏も言っておられる。僕なんて、いっぺん聞いて、なるほど「主体性」か、よし分かった!と膝を叩いたものなのに。何でこうも日本人社会ってえのは、「個」がヘナヘナなんだろうか。うーん、絶望的な気分になりそうですが、ここが、堪え所ですね。

2007.01.10 01:59 URL | BLOG BLUES #- [ 編集 ]













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