きまぐれな日々

一昨日のエントリ「戦争反対の小さな声を集めよう」に、多くのコメントをいただきました。
今回は、いただいたコメントをそのまま紹介します。但し、明らかな誤変換や誤記は、当方で勝手に訂正させていただきました。

まず、朝空さんのコメント。

 06.12.18『信濃毎日新聞』より(抜粋)

 改憲が視野に入り、日本の枠組みが大きく変ろうとする中で、個人はどう状況に向き合うことができるのか。作家の辺見庸さんが東京都内で「個体と状況について」と題して講演し、変化する時代の奥底に潜むものは何かを論じた。
 「病気に倒れ、明日へつながる今日とは違う、『永遠の今』を自覚するようになった。内心の声に耳を澄まし、結晶体のような真の言葉を紡ぎ出したい。だが現実には、例えば『美しい国』といった“にせ金”のような言葉がはびこっている」
 「自衛隊の海外派兵も、教育基本法も憲法も、少し前は考えられなかったことが平気で行われて行く。ダメージを被ったのは言葉であり、言葉と分かち難く結び付いている記憶だ。テレビや新聞言語にしてもそうで、内奥の力を失い単なる手段と化した、雑草のような、クソのような言葉がまん延するのに、恐怖と戦慄(せんりつ)を感じる」
 …
 そこで忘れられていったのは、何だったのか。…
 「大元帥閣下(昭和天皇)がかかわった戦争を、私達はもっと想起すべきではないか。一部の軍国主義者に責任を押しつけ、天皇を無罪放免して自らの責任を無化したのが、戦後の日本人だった。主体的責任をあいまいにし、戦後六十年の節目で戦後にグッドバイと言えてしまう感覚が、この国の言説の根っこにある」
 (ナチス親衛隊に所属していたギュンター・グラスがそれを告白し、『恥辱』と表現していたことに触れ)
 「戦争責任を恥辱とする発想を、この国は結局作り得なかった。恥辱は社会の奥底に埋め込まれ、人が日常のルーティン(決まりきった仕事)を生きるうち、言葉はにせ金のようになった」
 ならば、この状況を個人がどう乗り越えていけるのか。辺見さんは人が「単独者」であり続けることだと語る。
 「(それは)自分の言葉に身体をかけて責任を持つ者だ。にせ金の言葉と対極にある自分の言葉を、へどもどしながらでも話す存在。その人が放つ光は、かすかな微光のようなものかもしれないが、それが単独者の崇高さだ。私も固い結晶体のような本物の言葉を、残りの生で命の限り紡いでいきたい」

2006.12.21 08:23 (朝空さんのコメント)

続いては、朝空さんからの2件目のコメント。

戦時下、南京で医者をしていた故人の息子に、次の話を聞いたことがある。「小学生の時、揚子江の河岸に日本の兵隊が立っていて、川を覗かせなかった。あとでこっそり見たら人の骸骨がゴロゴロしていた。虐殺みたいのは、やっぱりあったんだろうねえ…」
 彼の生まれは1935年なので、南京虐殺のものではないと思われるが。

 どこの旧制中学にも職業学校にも、戦時下に勤労動員や、教師の肩たたきで予科練などに入った次男、三男らの手記があるはずだ。同窓会のガリ版などの形で。
 私の地方でも「動員先の木曽川に、強制労働の朝鮮人だか中国人だかの死体が浮いていた」「逃げた中国人捕虜の山狩りがあった」などの記述が、同窓会の回顧録などの中に多々ある。
 彼らは、敗戦間近の勤労動員先の反乱についても記している。こき使う工場長や配属将校を、「万歳、万歳」と言って胴上げしながら、雪穴に投げ落とすのだ。「万歳」の行為だから厳罰にはできない。だが進学のための内申点は下げられた。下げられれば旧制高への進学は、事実上断たれたという。
 別の中学だが、反乱を起こし退学になった生徒が、その後も執拗に付きまとう当局によって赤紙となり、激戦の死地へ送られたという話を聞いたことがある。どこへ送れば死ぬだろう位、軍人や役人にはよく知れたことだったはずだ。彼らは、思惑通り戦死したという。
 敗戦間近に生徒達が動員先で反乱したという話は、たいてい今もタブーだが、全国の多くの学校であったようだ。敗戦間もない頃も、予科練などから帰った生徒が「この野郎」と教師をつるし上げた話は、どこにもある話と思う。この種の話は表の校史には現れず、仲間内の座談や手記の中に散見される。
 当時の彼らの、数十人の同窓生の手記を端からあたったことがあるが、戦争を懐かしむ者は皆無だった。
 この種の本能的な反乱の情念が、1970年頃まで続く学生運動の下地になったことは確かだ。私の知る旧制中学・新生高校の初期の自治会は、彼らの流れを汲む者達で構成されていた。彼らが発行した「生徒手帳」の巻頭には、消されつつある教育基本法が記されている。

2006.12.21 09:51 (朝空さんのコメント)

次は、朝空さんのコメントを受けての非戦さんのコメント。

朝空さんの大変貴重なコメントをいつも読ませていただいています。今回の、信濃毎日新聞からの辺見さんの講演の記事の引用も、朝空さんが聞かれた戦争中の話も、大変重みのある重要なことが含まれるコメントで、じっくり読ませていただきました。戦争に反対したものはただではおかない、という権力側の卑怯なやり方はやっぱり本当でしたね。刑務所に入れる、拷問する、激戦地、最前線に送るなど、権力側の意のまま。これからの生徒手帳には、偽造の新教育基本法の文面が載るのでしょうか。

2006.12.21 10:11 (非戦さんのコメント)

続いては、「あんち・アンチエイジング・メロディ」の管理人・メロディさんのコメント。

私の父は、戦争で直接間接に妻とこどもを亡くしていますし、自分もシベリアに抑留されています。外地で暮らしていて、たまたま東京大空襲の直後に東京に戻り、焼け野原を見て敗戦を確信したと言っていました。戦争で犠牲になるのはいつも庶民です.安倍政権を支持する若者はそのことをどう思っているのかいつも疑問です。

2006.12.21 10:24 (メロディさんのコメント)

非戦さんのコメントをさらに受けて、朝空さんから3件目のコメントをいただいた。

 ありがとうございます。頼まれ仕事と勇み足で掘り起こした田舎の歴史については、場違いでない限り、記してみたいと思います。

 田舎の学校や団体の通史を、幕末・明治の頃から何度か掘り起こして、気づいたことがある。それは誇張ではない、あの「タリバン」なみの精神主義・国家主義教育が席巻した、日露戦争期の中学教育だ。
 私の知る、当時できた中学の校地は、神社と同じ配置だった。正面玄関からは真っ直ぐに、拝殿ならぬ講堂に。その最奥には、宝物殿ならぬ御神影奉安殿が設置された。それを背に校長が、「国家の中堅たれ」の修身科の洗脳教育を、毎回授業として垂れた。全校生徒が相手だったはずだ。他の教師達も出席し「拝聴」したという。
 それは1903年?1911年のことだ。その頃学んだ生徒達が、日中・太平洋戦争期には文字通り社会の「中堅」になった。1896年生まれの「秀才」岸信介も、この時代に中学生だったはずだ。
 当時の救いは、やはり生徒の反乱が起きていることだ。隠されていても、当時の文書や手記をあたれば、原因も含めておおよそ見当はつく。間違いないのは、この校長の精神主義のスパルタ教育だ。生徒達の授業放棄などによって、この校長は丁重にお引取り戴くことになった。教師達も内心彼(と当時の教育)を嫌悪してしていたのは、当時の書類の端々からうかがうことができる。
 二代目は、大正期そのもののリベラルな校長だった。そしてこの時期に学校は伸びた。例えば、その後全国一となるほどのあるスポーツの基礎を作ったのは、間違いなく彼だった。
 注意すべきは、明治から昭和への「戦前」も、軍国的精神主義一本やりではなかったことだ。そして大抵、生徒の主体性を知る校長・教師が力を振るえる時代に、学校も生徒も伸びている。
 だが同窓生らのほとんどは今も、そこまで仔細に見ようとせず、たいがいは「教育勅語」を軸とする戦前教育の善さと思い込んでいる。史実をもって突きつければ、その時は分かる。だが、そのことを伝えられるのはほんの一握りで、それもいっときに過ぎない。

2006.12.21 11:30 (朝空さんのコメント)

どさくさに紛れて、私自身もコメントしました。メロディさんのコメントに触発されたものです。

私の母は大阪大空襲の頃まだ5歳。大阪のど真ん中に住んでいましたが、疎開先の豊中から、自宅のある大阪中心部の夜空が赤く燃えているのを見た記憶があるそうです。
東京大空襲(昭和20年3月10日)や大阪大空襲(同3月13日)に遭った人たちは、負けいくさを実感したことでしょう。
私が子供の頃、「毎日小学生新聞」をとってもらってましたが、3月になるとよく東京や大阪の大空襲の記事が載っていました。昔は、新聞社も平和の尊さを子どもたちに教えようとしていたのです。今の御用新聞と化してしまった姿とは大違いでした。

2006.12.21 19:42 (kojitakenのコメント)

「とむ丸の夢」の管理人・とむ丸さんからは、「なおも続くコメント特集?中国における日本軍」にコメントをいただいた。

何度も記事にしていますが、私の父が入営した連隊は2.26事件に参加し、その後満州に送られ、チチハルに駐屯して、いわゆる「討伐」に明け暮れています。「討伐」という言葉が使われても、これは紛れもなく「侵略戦争」でした。父から直接当時の戦争の話しを聞くことは皆無でしたが。
当時2.26事件参加兵達は、「死ね! 死ね!」といわれて最前線をかけずり回らなければならなかったという証言はたくさんあります。当然明日をも知れぬ命ともなると部隊の空気はすさみ、いざこざも絶えなかったとか。そうしたところに、たった1人、新兵が配属され、それは大変な経験をしたようです。そんな兵隊達も、考えてみれば、二十歳そこそこの若者ばかりです。
「国を守る」とかいう言葉が、いかにも崇高そうな衣を着てしゃしゃり出てきてます。が、目を転じて生の人間の姿を間近に見ていけば、そんなイデオロギーなんて何の価値もないことが分かります。

2006.12.21 20:09 (とむ丸さんのコメント)

続いては、「いわいわブレーク」の管理人・建つ三介さんのコメント。

>ギュンター・グラスがそれを告白し、『恥辱』と表現

今晩は、皆さん。
「ブリキの太鼓」は凄く好きです。どっしり迫ってくるし、笑いもある。凄い作家は自己批判も徹底してますね。

>長崎元市長の本島等さんの「天皇発言」
で思い出しましたが、被曝者の声を集めたCDが
ネットで聴けるんですよ。
僕、相互リンクしました。そのサイトと。
皆さんも、やられたら。
まだ聴いてないんですけど・・。
大事な証言を世界に・次代に繋げる事の
一助にと思いまして・・。

>天皇を無罪放免して自らの責任を無化したのが、戦後の日本人だった。主体的責任をあいまいにし、戦後六十年の節目で戦後にグッドバイと言えてしまう感覚が、この国の言説の根っこにある

野田正彰さんらの『鼎談』↓も同じ問題意識で貫かれていましたね。
http://blogs.dion.ne.jp/ivanat/archives/2698180.html
日本人は侵略したという意識どころか、『殺した』ことさえ『受け止める』心を持っていないので『ココロが壊れていない』=戦争心身症に陥っていない、と野田氏は驚かれたそうです。で、研究を始めた、と。

ではまた。

2006.12.21 23:34 (建つ三介さんのコメント)

各所ですぐれたコメントをされるヤマボウシさんからも、コメントをいただいた。

わたしが中学生だった頃、中年以上の教師の中には軍隊経験のある人がまだいくらかはいました。そのうちの1人、体育教師(指導助手?)は雨の日の授業時間などに軍隊時代の話をしてくれました。体育教師にしては腹が出過ぎで精悍さに欠けたので、軍隊では少尉だったと言われてもにわかには信じ難かったのですが、いたって気の好い人物でした。
 そんな彼が語った話で唯一記憶に残るのが、中国人を処刑する方法です。捕虜と言ったかスパイと言ったか思い出せませんが、とにかく「チャンコロ」をまず直径3メートルだったか5メートルだったかの地面を掘った大穴の縁にひざまずかせるのだそうです。次に、首を下にうつむかせ、そこへ軍刀を振り下ろす……というのを、体育教師は教壇傍にあった1メートルの物差しを手に取って上段から振り下ろしながら語ったのです。
 当時のわたしは未だ南京大虐殺も知らず、「そういうものか」という程度の受け止め方しかしていませんでした。しかし後から考えると、それほどの「大穴」を掘ったということは、処刑されたのは1人や2人ではなかったことが想像できます。また、物差しを振り下ろすという動作で甦る記憶は彼にとって決して不快ではなかったのではないか(不快ならやるはずがない)ということが考えられます。今更ながら慄然とする思いです。
 風の便りでは、この体育教師は定年前に破廉恥事件を起こして退職し、まもなく死亡したとのことですが、今では確かめるすべもありません。

2006.12.22 02:05 (ヤマボウシさんのコメント)

朝空さんから、4件目のコメントをいただいた。

 私の父親は確か1944年春に33歳で「応召」となり、当時の北支(華北)に行った。その頃は内地勤務が一番よかったようで、北支はそれに次ぐ位のところだったはずだ。「死んで来い」は大抵南方(太平洋の島々や当時のビルマなど)だったろう。
 父から聞かされたのは、八路軍(中国共産党軍)との戦闘の様子だ。「我々の機関銃は重くておんぼろで、すぐ故障した。八路軍のは『チェッコ』と呼ばれるやつで、『タン、タン、タン』と軽い音を立てて、いつも突然撃ってきた」
 捕虜の扱いについては、次の話を聞いたことがある。
「捕虜の首を刀ではねるのは、新兵の役目だった。中々うまく斬れなくてなあ。ある時下手な斬り方をした奴は、返り血で顔が真っ赤になった」
 ジュネーブ条約もクソも無かったのだろう。
 私「父ちゃんはどうだった?」
 父「わしはもう歳だったから…」
 やらされない訳はないなと、その時は感じた。
 八路軍の捕虜の扱いについては、次のように言っていた。
「彼らは日本兵を捕虜にしても、また放してよこすのだ。そういうとこは寛大だったなあ。『戦陣訓』知ってたからかどうか、分からんが…」

2006.12.22 13:04 (朝空さんのコメント)

建つ三介さんからも2件目のコメントをいただいた。

今晩は。皆様。
>八路軍の捕虜の扱いについて・・「彼らは日本兵を捕虜にしても、・・寛大だったなあ

かなり前でうろ覚えですが、スメドレー「偉大な道」を読みました。朱・毛の軍隊を描いたルポを。
やはり規律は厳格に守られていたのですね。

90年代までは戦争体験者の方が多く残られていたので、「嘘」が制限されていたような気がしますが。でも、多くの証言が多くの若者に伝えられないまま、時だけ過ぎて、しかもバブル後のデフレの波が、苛立つ心ばかりを増幅させて、「神の国」発言まで出る始末。

あ、そうそう、小熊さんの分厚い本の書評をタマタマ見つけましたので、紹介させてくださいね。吉川勇一さんという方のHPからです。
http://www.jca.apc.org/~yyoffice/DokushoFun-Oguma-MinshutoAikoku.htm

「愛国」という言葉一つとっても意味が色々に使われているようで、頭がパンク気味です。この本ちょっと高くて買えませんが、読んでみたい気はします。

ではでは。

2006.12.22 22:29 (建つ三介さんのコメント)

最後に、以前の記事「天皇家と戦争と安倍晋三と」にいただいていながら、これまで取り上げずにきてしまってずっと気になっていた、「晴天とら日和」の管理人・とらちゃんのコメントをこれを機に取り上げて、今回のコメント特集の締めくくりとしたい。

こんばんわ!
2?3日前からパソコンの調子が悪くって1度で3回も送ってしまってるようです。すみませんが2回分削除お願いします。
すみませんでした。

父が遺した戦争のハナシは、終戦記念日に私のブログに書きました。
そりゃぁ?悲惨極まりないものであったと思う。戦友達が発した今際の際の言葉は、○○バンザイでもなく、○○で会おうでもなく、
「お母ちゃんに、」「お母ちゃんに遺言」と戦死したみなさんが、そう言ったそうです。
瀕死の重症を負った戦友を背負っていて。
「おい○○←父の名前、俺もう駄目だ。お母ちゃんに遺言」と言ってこと切れたという。
お酒を飲んでは戦友を偲んで泣いておりました。
父の口癖
母親の愛情に勝るものなし!
戦後のワシの人生はオマケや!
でした。
私に、
戦争は二度とするな!と言っておりました。
大空襲の時のハナシもおジイさん・おバァさんから聞いています。
勿論、そのハナシだけが総てではありません。
戦争になったら何でもアリです。
だから、戦争反対です。

長くなりました。ごめんなさい!
では、また、・・・・・

2006.12.05 17:39 (とらちゃんのコメント)

多くのコメントをお寄せいただき、皆さまどうもありがとうございました。
今後も、コメントを適宜記事の本文に取り上げていきたいと思いますので、皆さまどうぞよろしくお願いいたします。
関連記事
スポンサーサイト
2006.12.23 09:07 | コメント特集 | トラックバック(-) | コメント(3) | このエントリーを含むはてなブックマーク

ありがとうございます。

 付け加えれば、その後父親が死ぬまで、中国との彼なりの友好活動をしたのは、後ろめたさを含むその頃への思いによると感じている。
 この年代の者達が、総じて中国に「甘かった」のは、同種の想いによるように思う。

2006.12.23 10:17 URL | 朝空 #- [ 編集 ]

kojitakenさん、言い忘れてました。
(きまぐれな日々)の「コメント特集 」は、
『2チャンネル』[その全てを知っているわけではありませんが]
に対する見事な『アンチテーゼ』ですね。

好き管理人さんが「これぞというのを
ピックアップ」する。
(へっへ。自分のも、入っているからそう言ってみたかっただけなんですけど・・)

カク・ブログ[フォーラムや伝言板も]
の管理人サン達が学ぶことは多いですね。

あ、もちろん「三」の付く人にも・・です。

ではでは。

2006.12.23 17:22 URL | 建つ三介 #CRE.7pXc [ 編集 ]

建つ三介さん
コメントありがとうございます。
もともと、コメント欄においとくのは惜しい、と思うコメントを発信しようとして始めました。
「きっこの日記」がよくやる、メール紹介特集がヒントになっています。
また、最初にコメント特集をやった時、「kojitakenの日記」で、たんぽぽさんに「美爾依さまのところみたいですね」と言われました。無意識のうちに「カナダde日本語」からの影響もあったのかもしれません。
いずれにしても、ブログの方向性を保つ範囲内で、多彩な意見を発信しようというのが狙いです。

2006.12.24 10:52 URL | kojitaken #e51DOZcs [ 編集 ]













管理者にだけ表示