きまぐれな日々

『だっくくろっくではありません。kojitakenです。』で紹介した、『御用学者にだまされないために』のコメントツリーは、まだまだ続いている。

議論は、私などの参加の余地のない高いレベルに達しており、議論の当事者でもある建つ三介さんのブログ「いわいわブレーク」のエントリ『論争!「諭吉&丸山」と現代!』に、『御用学者にだまされないために』のすべてのコメントが、ブログ本文に掲載されている。引き続いての議論は「いわいわブレーク」で行いたい、とのことで、私もそれに異存はないが、その後なんと、私のブログの方に、以前にもお世話になったことのあるsonicさんからコメントをいただいた。

以下にsonicさんのコメントを紹介する。

福沢諭吉の「学問ノススメ」の巻頭言「天は人の上に人をつくらず、人の下に人を作らずと言へり」についてですが、東北史学の諸氏から、この台詞を福沢に伝えた秋田男爵家が安倍貞任の子孫であり、福沢の巻頭言は秋田家の伝承にある貞任の台詞「人の上に人を作るも、人の下に人をつくるも、これ人なり」を不確実に伝えたものだろうと指摘されています。(ただし、秋田男爵家が貞任の末裔だと言うのは意識の系譜であり、事実そうであるかどうかの証拠はありません。)
学問のススメの巻頭言ですが、福沢はこの言葉の本来の意味を考察しないまま、実学を重視する自身の立場を正当化するのに利用してしまったのだろうと思われます。
このことは、我が国における「実学の浅はかさ」をよく象徴していると私には思えます。
実学であること、役にたつものであることは、実はそれが真の知識ではないかもしれないことでもあります。有用さで学問を判断するのではなく、「有用さ」そのものを批判してこそ学問です。ところが実学は実学であるが故にそれを初めから放棄しています。
「有用さ」の判定はまさに権力に他なりません。有用さと言う観念自体がその時々の権威と権力を志向しているのです。
ですから、実学の雄たる慶応大学が御用学者を輩出しがちなのは少しも不思議なことではありません。要するに「慶応は建学に遡って、その程度のところなのだ」と言うことです。
ただ、慶応大学にも高く評価できるところがあります。慶応大学は、大学入試で蝦夷史を積極的にとりあげ、受験生に対して日本観・日本人観の脱構築を迫っていることがしばしばあるのです。
学長の鳥居氏が歴史や文化についてはクルクルパーも同然であることを考えれば、慶応にも気骨の学者は大勢いるのだと言ってよいと思います。
(sonicさんのコメント)

なんと、安倍貞任(あべのさだとう)にまでご登場願うことになってしまった。

安倍晋三の父、晋太郎が、安倍貞任の弟、宗任(むねとう)の末裔だと言っていたことについて、「AERA」(2006年3月20日号)に吉田司氏が記事を書かれている。当ブログのエントリ『安倍のもう一人の祖父は「平和主義者」だった』で、吉田さんの記事を紹介したところ、sonicさんから、故安倍晋太郎氏と安倍一族及び奥州とのかかわりについての、とても印象的なコメントをいただいたので、sonicさんのコメントを中心に据えた『安倍晋三は「安倍家の面汚し」』という記事を書いたことがある。

そのsonicさんから再びコメントをいただき、御用学者論に端を発した福沢諭吉論までもが安倍一族につながり、かつて当ブログの「売り」の一つだった安倍晋三の血脈に関する記事とも接点を持つことになろうとは想像しなかった。

こういうコメントをいただいた時が、ブログをやっていてもっともうれしい瞬間だ。

sonicさんには厚く御礼を申し上げたい。


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>安倍一族及び奥州とのかかわりについて

奥州安倍氏は中公文庫の「日本の歴史6」「武士の登場」でも出て来ますよ。
今で言う岩手県の辺り。昔から優れた軍人(武士)がいただけでなく、朝廷側に協力していた、ので太平洋側は「蝦夷人」の反乱は少なく、日本海側(出羽地方)は反乱が頻発して困っていたそうです。古代の対外戦争や防人として大宰府で活躍もした。20世紀になっても、ここからの兵隊が最も優秀なんて話を聞いたこともあります。

ちなみに、いつの時代も一番ダメなのが、我が大阪の部隊だそうです[逃げ足が速いのか、命を粗末にしたがらないのか・・]。今の大阪(信太山)の自衛隊がどうかは知りませんが・・。

ですから、安倍氏一族自体は日本の国防の一端を支えてきたという自負が強くあるでしょうね。特に東北の方々ほど、そうかもしれません。

ではでは。

2006.12.17 22:17 URL | 建つ三介 #- [ 編集 ]

建つ三介さん
コメントありがとうございます。
以前のsonicさんのコメントによると、奥州で「安倍」の姓を名乗ること自体、反骨の宣言みたいなものだった、故安倍晋太郎氏は最晩年に奥州に遊説して安倍一族の伝統に接し、最後には権力側に立っていた自らを恥じて、涙まで流したそうです。
「国防を支えてきたという自負」という以上の、反権力的な誇りを感じました。
それと安倍晋三とのあまりの落差にため息が出たしだいです。

2006.12.17 22:24 URL | kojitaken #e51DOZcs [ 編集 ]

ああ、それと、kojitakenさん、言い忘れてました。
この記事のTB[論争!諭吉&丸山]の方に貼っていただけませんか。
ソニックさんのネタも諭吉(慶応大)の実学主義批判ですから。
お手数掛けます。

2006.12.17 23:29 URL | 建つ三介 #- [ 編集 ]

明治期は江戸期を否定する考え方が隆盛を極めていました。
例えば、歌舞伎を旧劇・旧派演劇として否定するものとして新派・新劇が起こりました。

「実学」は現在では応用科学を指すもとされていますが、明治期においては科学に相当する概念と考えていいと思います。儒教を主とする漢学(=江戸期の官学)や国学を文献解釈学とし、実証的(=科学的)でないと批判するものとして「実学」を位置づける視点も必要ではないでしょうか。

ちなみに、福沢諭吉も参画し、開化期の啓蒙に指導的役割を果たした「明六社」の一員であった西周がサイエンスに対して「科学」という訳語を考案しています。また、1875年(明治8年)、政府の讒謗律(ざんぼうりつ)・新聞紙条例が施行されたことで機関誌の「明六雑誌」発行は43号で中絶・廃刊に追い込まれたという経緯もあります。

2006.12.18 00:10 URL | ゴンベイ #eBcs6aYE [ 編集 ]

>今で言う岩手県の辺り。昔から優れた軍人(武士)がいただけでなく、朝廷側に協力していた、ので太平洋側は「蝦夷人」の反乱は少なく、日本海側(出羽地方)は反乱が頻発して困っていたそうです。

9世紀初めにアテルイが降伏して北上平野全域が朝廷の支配下に入ると、文綿麻呂の第二次征夷がおこなわれ、現在の岩手県北部では地元民への大量虐殺が行われました。
綿麻呂の方法は脅迫と買収によって部族間の離反を煽り、部族同士を戦わせて、最後に勝ち残った部族を自分の手勢で撃つと言うものでした。
当時の集落跡の調査から、朝廷に征服されたあとの北東北は部族間の戦国時代となり、蝦夷同士で殺しあう時代が約100年前後続いたことが分かっています。
西日本では弥生時代に見られる戦闘的環濠集落が、北東北ではずっと後の9世紀から10世紀に見られるのはこのためです。

日本海側の反乱というはおそらく978年の「元慶の乱」のことでしょう。
朝廷側の苛政に怒った秋田蝦夷の武力蜂起を、藤原保則・小野春風らが無血で収集した紛争で、現代的にも非常に意義深い事件だと思います。
是非全国の・・・いや全世界の人に知ってもらいたいエピソードです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E6%85%B6%E3%81%AE%E4%B9%B1

2006.12.18 01:49 URL | sonic #GCA3nAmE [ 編集 ]













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