魚住さんは、次のように書かれている。
作家の辺見庸さんは、「今の日本は鵺のような全体主義に覆われ始めている」と喝破したが、法曹界の現状を取材してみて、私は辺見さんの指摘に深くうなずかざるを得なかった。
(魚住昭「特捜検察の闇」=文藝春秋、2001年=あとがきより)
これを読んで以来、この「鵺のような全体主義」という言葉が、ずっと頭を離れなかった。
鵺とは何か。「鵺 - Wikipedia」 を見てみよう。
鵺(ぬえ)は日本の伝説の生物。鵼とも書く。『平家物語』に登場し、サルの顔、タヌキの胴体、トラの手足を持ち、尾はヘビで、「ヒョーヒョー」という鳥のトラツグミの声に似た大変に気味の悪い声で鳴いた、とされる。一説には雷獣であるともいわれる。元来、鵺とはトラツグミの呼び名であり、この怪物はあくまで「鵺の声でなく得体の知れないもの」で名前はついていなかった。しかし現在ではこの怪物の名前が鵺だと思われ、そちらの方が有名である。
(「鵺 - Wikipedia」より)
「鵺のような全体主義」とは、何から生じたのかも不明な、得体の知れない全体主義、という意味だ。
魚住さんも書かれているように、この言葉を初めて用いられたのは辺見庸さんである。以前、月刊「現代」10月号に辺見さんが寄稿された記事を当ブログで紹介したことがある。辺見さんは、2004年3月に新潟で講演中に脳出血で倒れ、右半身に後遺症があるが、今年春に復帰されて、精力的な執筆や講演を行っておられる。
この記事を書くために、辺見さんについてちょっと調べていたら、10月13日付の毎日新聞夕刊に掲載された、辺見さんが小泉純一郎と安倍晋三の前職および現職の首相を論じた記事が見つかった。
この記事を「kojitakenの日記」にアップしておいた。下記リンク先を参照いただきたい。
「辺見庸の小泉純一郎・安倍晋三論(ちょっと古い毎日新聞の記事)」(「kojitakenの日記」より)
この記事から、辺見さんの略歴を引用する。
作家。1944年、宮城県生まれ。早大卒。70年、共同通信社入社。78年に中国報道で日本新聞協会賞。「自動起床装置」(91年)で芥川賞、「もの食う人びと」(94年)で講談社ノンフィクション賞を受賞。96年に退社し、現在は近刊「自分自身への審問」の続編と、病前から書き続けている小説を執筆中。
ちなみに、魚住昭さんは同じ共同通信社に勤めていて、辺見さんと同じ1996年に退社し、以後フリージャーナリストとして活躍しているが、魚住さんは1951年生まれで、1975年に共同通信に入社しているから、年齢で7年、記者歴では5年後輩ということになる。
白状すると、私が辺見庸さんの本を読むようになったのは最近のことなので、辺見さんがいつから「鵺のような全体主義」という言葉を使われていたかは知らない。ネットで検索すると、1998年に朝日新聞社から刊行された「眼の探索」には既に出ているようだ。以下引用する。
私がいま感じているのは、いわば、鵺のような全体主義化である。そこには凛呼たるものが何もない。右も左も凛然としないことをもって、主体が消え、責任の所在が隠れ、満目ひたすら模糊とした風景のままに「いつのまにかそう成る」何かだ。その好個の例が新しい日米防衛協力のための指針(新ガイドライン)だろう。ひと昔前ならば、この国挙げての大騒ぎに確実になったであろう新ガイドラインは、いま、鳴り物入りで「構築」されているのではなく、靄のようなものとして、人知れず「生成」されているようにも思われる。いつのまにかそうなり、巨大な輪郭が眼前にどーんと立ち上がるまで、われわれは生成しているものの貌の凄さに、過去にもそうだったように、はっきりと心づくことがないのかもしれない。
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マスメディアによるテーマの遠心分離が先かテーマの下克上が先か、あるいは両方があずかって主要テーマが見えない現在があるのか、わからない。ただ、蔓延する不安感やアパシーの主な発生源はその辺にあるのではないかという見当はつく。新ガイドラインや関連法案がほぼ無抵抗で登場できる空気にも、法体系を突き破り安保統帥権が屹立する無理無体を許している土壌にも、私たちの生活圏におけるテーマの拡散ないし転倒がありはしないか。マスメディアによる意味の蹂躪がありはしないか。はっきりしているのは、今日の危うい風景が、激しい議論の末に立ち現れたのではないこと。黙ってずるずると受け入れてしまったのだ。
(辺見庸「眼の探索」=朝日新聞社、1998年=より)
8年前の辺見さんの予見は、日に日に現実のものになっていった。
「小泉前首相は何もない人間で、社会がイメージで押し上げた言わばフィクション(虚構)だが、安倍首相は『ナチュラル・ボーン(生まれながらの)国家主義者』。史上まれに見るウルトラ右翼。憲法、教育基本法を本気で変えようとしている分、危うい。小泉前首相の方は凡庸な右派政治家で不見識な地金(じがね)をさらした。安倍首相は官房副長官の時、戦術核を持てると言っていたのに、いまは『美しい国』という言葉で隠している。小泉前首相に比べ狡猾(こうかつ)だが、オーラが小さい分、短命と思うね」
安倍首相は著書「美しい国へ」で、父の死後、国会議員になったいきさつにほとんど触れていない。日本の政治を知らない人が読めば、閣僚の父を失った人物は自動的に議員になれるものと錯覚するだろう。この点でも、辺見さんの矛先はメディアに向かう。
「親子3代にわたり国民の税金でまかなってもらっているのがいまの首相の一族。それを問題にもせず、持ち上げるメディア社会とは何なのか。皇室に男子が生まれたのをあれほど騒ぎ、それを社会現象として分析しない。天皇制の問題は大正時代や70年代の方がもっと気軽に語れたんじゃないか」
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「この国には、こうした精神性やモラルがあきれるほどない。A級戦犯に問われた岸信介が首相になり、その孫が平然と現れる。47年の憲法施行式典で、吉田茂首相(当時)の音頭で集まった約1万人が『天皇陛下バンザイ』を叫んだ。その前まで約300万人が死に、一般の人が、天皇の退位を語っていたわけでしょ。これが、戦後日本の恥の起点だと思う。天皇制は戦争や憲法施行を経ても何も変わっていない。それを踏まえずタテマエを語るところに、メディアの問題の根があるんじゃないか」
辺見さん自身も、日本人の抱える自己規制を感じている。「日本には英国ほど監視カメラはいらない。この国ではみな自分の中に監視カメラがある。髪の毛一本一本、神経細胞にまで入り込んでいる天皇制を自由に語れない状況がある限り、その監視カメラは消えないんじゃないか」
(「毎日新聞」 2006年10月13日付夕刊 「この国はどこへ行こうとしているのか 辺見庸さん」より)
この指摘に対して、コメントを書くだけの筆力は私にはない。ただ、言論の自由を殺そうとしているのは私たち自身であることは、どんなに強調しても強調しすぎることはないだろう。
最後に、今回の記事を書く準備のためにネット検索して見つけた、とても印象的なサイトを紹介しておこう。
「平和に生きる権利の会」というホームページである。URLを下記に示す。
http://homepage2.nifty.com/mi-show/peaceright/index.htm
(上記をクリックすると「平和に生きる権利の会」に飛びます)
このサイトに、「書を持って外に出よう」というページがあり、2002年12月15日付と2006年6月24日付の記事に辺見さんの講演会を聴いた時の感想文が書かれている。辺見さんの講演の要約もさることながら、感想文がとても素晴らしい。是非全文をお読みいただきたいと思うので、ここでは特に印象に残った一節だけを引用するにとどめる。
鵺のような全体主義。誰も責任を持つことなく、特徴ないのが特徴。対立を無化し、私性を溶解させる。
この貌のない群体から離脱するには、つまり「思え!」だ。
(「平和に生きる権利の会」?「書を持って外に出よう」 2002年12月15日付記事 『辺見庸講演会「鵺のような全体主義を越えるには」』より)
あるいは、この一節の引用だけでは、辺見さんの言わんとしたことは十分伝わらないかもしれない。だからこそ、是非ともリンク先に飛んでいただいて、記事の全文をお読みいただきたいと強く思う次第である。
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辺見庸。
彼が病室で左手で1字1字キーボードに打ち込んだ文章の数数。まったく病後も衰えない反骨精神。研ぎ澄まされた感性。天皇制に関しても彼は書く。ジャーナリスト100人集まっても彼に勝てるのでしょうか。
9.11後、新聞も識者も革新政党までもが、ビンラディンを口実にアフガン攻撃をするブッシュに異を唱えないのを見て、私は、愕然としました。医師中村哲の講演を聞いて、アフガン攻撃は間違いだと確信しました。そして、同じ考えを持つ人の意見を聞きたい、私の考えは間違っていないはずだ、と思いました。そのとき、朝日に辺見さんの「道義なき攻撃の即時停止を」が載りました。攻撃賛成一色の気持ちの悪い空気の中で、わたしは辺見さんを自分の気持ちの代弁者だと勝手に決めました。それ以降、彼の書くもの、しゃべること、必死で探しました。でも、kojitakenさんの「書を持って外にでよう」のサイトは知らなかったです。教えてくださって、ありがとう!講演を聴きに行くことにしていたのに、倒れられて、聞けませんでした。でもここに講演のもようが書いてあるんですね。
「自分の生活圏にいると無力感がつのるが、決して孤立していない・・・ 私たちは孤立していない。だから「思え!」 それが何よりもの武器だ。
こんな言葉に勇気がわきます。
「まちがいなく憲法は改悪されるでしょう。・・・この国の全員が改悪賛成でも私は絶対に反対です。・・・尽きるところ自分のためなのです。この国に生きる自分自身の、根底の恥のためです。いまここに在ることの恥のためです。・・・」(『いまここに在ることの恥』毎日新聞社)
恥を知らないアベやネオコンのはびこる「鵺のような全体主義」に覆われた恥なき日本を救うのは、辺見さんに同感する人が増えることかな、と思います。
これからも、辺見さんをどんどん取り上げてください。
2006.11.28 09:34 URL | 非戦 #tRWV4pAU [ 編集 ]
弊「戦争屋」に「ぬえのような……」例を挙げておきましたので、TBさせてください。
2006.11.28 10:26 URL | ましま #- [ 編集 ]
後から言うのも僭越ですが、私もこれまで何度も、安倍政権または安倍自身を、「ぬえ」のような、っと表現してきました。
それは、今日の私の記事に書いたように、安倍政権(小泉政権も)が、「論理をもって説明できない」、意味不明で、行動の目的も良くわからないが、強烈な支配欲だけはあるという、まさに「正体不明の妖怪」のような存在であるからでしょう。
「ぬえ」と言う、まさにそれなぞらえるにふさわしい、面妖な妖怪がいたので、あちこちで使われることになったのだと思います。
安倍政権は、まさに不定見。目的意識も無く、「ああすればこうなる」と言う認識も無く、ただひたすら、民主主義を否定し、自らを中心とする貴族主義的王国を作る、「支配だけを求める」集団であると断言します。
そこに国民の幸福も、800兆円もの借金返済も、何も考えていない。アメリカの戦争が以降に追従するだけで、何兆円もの非生産的な金がかかることなども、全く考えていない。単に頭の悪い甘やかされたガキである。
なのに政権をとってしまった。そこが「怖い」のです。
この怖さは、まだわかる人にしかわかっていない。これを国民の共通認識にする努力をして行きましょう。
2006.11.28 13:09 URL | 眠り猫 #2eH89A.o [ 編集 ]
眠り猫さんのおっしゃるとおりですね。アベは国民のことなど、ぜんぜん見ていません。考えていません。戦争ごっこをしているんです。その影で何人の人が、苦しんでいるかなんて関係ないんです。核をもてあそび、教育をいじり、借金を重ね、、、。コイズミのようなでたらめな男を首相として許してきたマスコミや国民が祭り上げた「ぬえのような妖怪」ですね。眠り猫さんは、「ぬえ」という言葉をご存知で、もうとっくに何度も使っていらしたんですね。すごい。私は、辺見さんが好きで、本をほとんど読んでいますが、この言葉に気がつかず、今日初めて知った次第です。
2006.11.28 14:52 URL | 非戦 #tRWV4pAU [ 編集 ]
たまたま切り抜いてあった『信濃毎日新聞』という地方紙の05年3月17日付けの切り抜きがあるので、抜粋する。共同配信の記事かも知れないが。執筆者は「辺見庸、作家」。
「鬼畜」対「良民」なのか
―地下鉄サリンから10年―
やけに風の強かった月曜のあの朝、私はいったい何にたまげたのだろう。十年後の今でも時折反芻(はんすう)するのは、糸の切れたマリオネットのように、ゆっくりと通路に崩れ落ちるサリン被害者たちのむごい姿では必ずしもない。倒れた人々を助けるでなく、まるで線路の枕木でも跨ぐようにしながら、一分でも職場に遅れまいと無表情で改札口を目指す圧倒的多数の通勤者たち。目蓋に焼きついているのは、彼ら彼女たちの異様なまでの「生真面目さ」なのである。
あれは、しかし、真に人間的な真面目さだったのであろうか。口から泡を吐き苦しみ悶える被害者を眼の端に入れながら、なおも改札口に殺到する群れが、この国の民衆の原像であるとしたら、十年でそれはどう変貌したのか。サリンを撒いた加害者達と脇目も振らず職場に急いだ人々は、「鬼畜」対「良民」といった、後の裁判で語られたような単純な構図であったのか― 十年間、私は折りに触れて考えた。
……その朝、私はたまたま地下鉄日比谷線の神谷町駅構内にいた。……
……当初の現場にはマスコミが報じたような「パニック」などなかったのだ。不可思議な「秩序」のみが存在したのである。通勤者も、駅員も、遅れて駆け付けた記者らも、実に生真面目だった。ただし、それぞれの職分のみに。
……あの朝の生真面目さの隊列には、通勤者や記者らとともに、実のところサリン製造者や撒布者らも象徴的に連なるのではないか。加害者が決して尋常ならざる「反逆者」だったのではなく、大方の通勤者、記者、警察官同様に、心優しき「服従者」にすぎなかったのではないか。……そこには言葉の優れた意味で自由な「私」は一人としていなかったのである。……
法廷でふと想い出した一節がある。「暗く陰惨な人間の歴史をふり返ってみると、反逆の名において犯されたよりもさらに多くの恐ろしい犯罪が服従の名において犯されていることがわかるであろう」。スタンレー・ミルグラムが『服従の心理 アイヒマン実験』
(岸田秀訳)で引用したC・スノーの言葉である。……
……ファシズムはかっての装いを一変して、あくまでも優しく道理にかなっているかのごとくに日々を振る舞っているのである。
2006.11.28 17:44 URL | 朝空 #- [ 編集 ]
人間が「従順」になった―。それは私の住む地域のちっぽけな自治会の場でも感じる。出席者達、ことに50代半ばより若い年代の者達は、自分の考えを言わない。そしてその場の雰囲気に、「上」の意見に従う。
その種の場では、力は無いが意見を言う者は間違いなく孤立する。私がそれだ。それでも言おうとする時、私は次のことを自分に言い聞かせる。一つは、知性に依拠して発言するのはやめる、ということだ。もう一つはそれと対のことなのだが、自分自身の「沈黙」の深さに依拠しようということである。沈黙とは私なりの言い方で、もう少し論理的に言えば、生きてきた私自身の総体という意味になるかと思う。それの密度を信じること。体験として言えば、もやもやとした「全体」に抗する根拠は、今のところそれだけなのだ。
2006.11.28 18:22 URL | 朝空 #- [ 編集 ]
非戦さん
コメントありがとうございます。
「平和に生きる権利の会」中の「書を持って外に出よう」はご存知ありませんでしたか。
少しはお役に立てたようで、うれしいです。
辺見庸さんの表現も、辺見さんの読者の方々の表現も、直接心の深部に訴えかけるものがありました。それで、辺見さんについてそれほど多くを知っているわけでもないのにかかわらず、僭越ながら取り上げさせていただいた次第です。
もっと多くの辺見さんの著書を読んで、またブログで紹介したいと思います。
2006.11.29 19:30 URL | kojitaken #e51DOZcs [ 編集 ]
ましまさん
コメントありがとうございます。TB返しさせていただきました。
2006.11.29 19:31 URL | kojitaken #e51DOZcs [ 編集 ]
眠り猫さん
コメントありがとうございます。
安倍も「鵺」のようなら、安倍を野放しにするばかりか、むざむざ総理大臣の座につかせてしまった私たちも「鵺」のようなものなのだと思います。
恐ろしいまでに、国民のレベルを反映した安倍晋三政権。その空虚さを知れば知るほど背筋が凍ります。
こんなものは、一刻も早く「the End!」にしてしまわなければなりません。
2006.11.29 19:34 URL | kojitaken #e51DOZcs [ 編集 ]
朝空さん
貴重な切り抜きのご紹介、ありがとうございます。
辺見さんがサリン事件の時現場に居合わせたのは知っていましたが、この文章は知りませんでした。
この辺見さんの文章を読んで、アニメ映画「千と千尋の神隠し」の「カオナシ」を思い出しました。
辺見さんのいわれる「鵺のような」の意味するところと、宮崎駿監督の描く「カオナシ」には相通じるところがあるように思います。
(「カオナシ 象徴」でネット検索をかけたら、私の好まないブログの記事が最初に引っかかって辟易してしまいましたが)
人々は、単に従順になっただけではなく、皆が顔を持たないまま権力と一体となり、反対者の存在を許さないような不気味な存在になっていっていると思います。
2006.11.29 19:44 URL | kojitaken #e51DOZcs [ 編集 ]
私の従姉も地下鉄サリン事件に巻き込まれました。
あの被害者の方たちの痛々しい姿を今でも忘れることができません。
サリンに触れたため重態になり病院に搬送された駅員さん、消防隊員におんぶされ泣きながら地下鉄の駅の出口へ出た方、嘔吐していた人たち、横になって救助を待っていたさまざまな人たちを思い出します。
それと、辺見庸さんの観察眼やヌエという表現に対して唸らざるおえませんでした。
なぜ、サリンによるけが人を見ながら何もせず会社へ行くのだろう、これって昨年の福知山脱線衝突事故当時のJR職員たちといっしょじゃない?という印象を受けました。
また、ユダヤ人のホロコーストの教訓から学んだことを思わずにいられませんでした。
彼らは、権力者が間違っている行動をしている場合、従順であることより自分の考えを優先して権力者の意見や命令を無視してもよいと教えられています。
たぶん、日本では、考えられないことでしょう。
疑いはしても相手の顔色を気にして違う意見を述べること実行に移すことが難しいと思います。
そうならないようにせめて自分の心に正直でいたいと思います。
2006.12.10 18:10 URL | 奈央 #/.5ea5nI [ 編集 ]
辺見さんが目撃したサリン事件での平常の行動を保つ市民の姿には衝撃を受けました。
どうして、そんなに平静でいられるのかと。
それこそ鵺のような社会と市民の中に暮らしていかなければならないことが、辺見さんと同じく私も苦痛に感じます。
そういう人がいる中で、教育基本法改正反対!と言って国会の前で座り込みをしている人たちの前を、何の感情も持たず、または冷笑しとおりすぎていく人たちには、反対する人たちが単に邪魔な存在なのでしょうか?
権力にすがりつく人たちは、ファシズム国家になったとき(もうなっている)、国のために何でもするのでしょうか。やっぱり、国民のレベルにあった政権しかもてないのです。でも、そうならなにように、今、みんなが必死で抵抗して闘っているんだと思います。
2006.12.11 08:53 URL | 非戦 #tRWV4pAU [ 編集 ]
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2006.11.28 20:08 | 雑談日記(徒然なるままに、。)