きまぐれな日々

 大山鳴動して鼠一匹とでもいうのか、結局安倍晋三が消費増税の2年半延期を言明しながら衆議院の解散(衆参同日選挙)は行われず、参院選のみ7月10日投開票の日程で行われることになった。

 まだ安倍晋三がどう決断するかわからなかった先週月曜日に発売された週刊ポストだったか週刊現代だったか、おそらく前者だったと思うが、それを先週土曜日に遅ればせながら立ち読みしていたら、大略こんなことが書かれていた。

 曰く、自民党で衆参同日選挙をやりたいのは安倍晋三だけだ。自民党の他の議員は皆、衆参同日なんてやってほしくない。自民党の選挙情勢調査もそういう(安倍晋三以外の)自民党の政治家たちの意図を反映して、自民党に厳しい予想が出された。それによると自民党は衆院選で現有議席あるいは前回獲得議席よりも20〜40議席減らすという。この下限である40議席減というのは、「野党共闘」の候補が、民進党と共産党の票を足し合わせた票を得ると仮定した場合の話であって、いくら何でも野党候補の票を多く見積もり過ぎであって現実的な試算ではないのだが、衆参同日選挙へ前のめりの安倍晋三を止めるためにそんな試算をしたものだ。

 こういったまことしやかな週刊誌の記事は、本来眉唾ものでしかないのだが、今回に限っては、実際に起きた安倍晋三と麻生太郎や谷垣禎一ら自民党の大物政治家たちの国会閉会直前の駆け引きに働いた力学をよく説明していると思った。麻生や谷垣は、消費増税を延期するなら衆議院を解散して有権者の信を問え、と安倍晋三に迫ったが、衆参同日選挙をやりたくてたまらなかったはずの安倍晋三は、結局消費増税延期だけ表明して衆議院を解散しなかったからだ。これは、安倍晋三に衆院解散を思いとどまらせただけの何物かを仮定しなければ説明がつかない。それが、「このまま衆議院を解散したら自民党は議席を減らす(そして安倍晋三の最大の宿願である改憲ができなくなる)」ことを示す「自民党内部の世論調査」だった、とはいかにもありそうな話だ。

 とにもかくにも、衆参同日選挙は回避された。正直言って「結果オーライ」だと思った。実際に衆参同日選挙が行われれば、「自民党の内部の世論調査」とやらは外れ、安倍晋三の野望を達成しやすくなる結果になることは目に見えていたと思うからだ。

 ただ、良くないと思うのは、リベラル・左派の多くは私と同じように衆参同日選挙に方をなで下ろしでもしたのか、議論がこのところ不活発をきわめていることだ。何を書いても反応がない。「小沢信者」による嫌がらせのコメントすら、このところほとんど来ない。

 一方、本職の政治家たちには「転向」が相次いでいる。少し前には鈴木宗男が娘の鈴木貴子の自民党移籍を画策した。いつまでも民主党(現民進党)にいては将来がないと判断したからだろう。つい最近には、おおさか維新の会が、田中康夫を参院選東京選挙区候補として擁立する意向だと報じられた。

 鈴木宗男と田中康夫は、いずれも小沢一郎に近いとされた政治家だ。しかし、彼らの「転向」を批判する声は、リベラル・左派、特に7年前の「政権交代」に熱狂した人たちからはほとんど聞こえてこない。鈴木宗男についていえば、先の衆院北海道5区補選で「野党共闘」の池田真紀候補が敗れたのは、宗男票が寝返ったからだとの「慰め」の言説のダシにされただけだ。この俗説を広めたメディアの一つに「日刊ゲンダイ」があったが、これが誤りであることを、私は「kojitakenの日記」で示したが、「日刊ゲンダイ」の欺瞞に満ちた麻薬的なコンソレーションに自ら進んで騙されようとする人間が続出するほどにも、リベラル・左派の心は弱くなっている。

 坂野潤治の言う「異議を唱える者が絶え果てた『崩壊の時代』」とはこのことだ、との感を最近ますます強めている。坂野潤治はこの言葉を1937年7月7日の盧溝橋事件以降敗戦までの時代に対して使ったが、2013年の毎日新聞のインタビューで坂野は、2012年末の総選挙で第2次安倍内閣が発足して、現代日本も「崩壊の時代」に入ったと語った。

 この坂野潤治インタビューは、2013年4月30日付のこのブログの記事「安倍晋三を批判する言論が絶え果てた『崩壊の時代』に思う」にその前半を引用した。今回の記事ではインタビューの中ほどの部分を以下に引用する。

 格差の縮小が社会に活力をもたらす−−というのが坂野史観の神髄だ。日本近代史の中で格差を縮小した社会改革は1871(明治4)年の廃藩置県と、農地改革や労働三法をはじめとする戦後改革の2度しかなかったという。廃藩置県で士農工商の士がなくなり、農工商が張り切って近代日本の礎を築いた。戦後改革で小作農や労働者が解放されて戦後復興を成し遂げた、とみる。

 「そうした戦後改革の遺産を食いつぶし、格差を拡大させたのが小泉政権、そのまま放置して固定化させたのが民主党政権です。正社員を派遣社員にして賃金を安く抑え、国際競争に勝とうと訴えた。まるで芥川龍之介の小説『蜘蛛(くも)の糸』のように下層の人たちを踏み台にして自分たちだけが生き残ろうとした。このあたりから危機の時代が始まったんです」

 続いて崩壊の時代の話に入り、アベノミクス批判が展開すると構えていたら、そう短絡的ではないのが、この人の論のユニークなところだ。

 「野党的な立場の評論家はアベノミクスが崩壊するのを心待ちにしています。そりゃ、いつかは崩壊するでしょう。でもね、格差を縮小するチャンスはバブルの時しかないんです。大恐慌の時にはそんなことは言っていられない。せっかく景気が回復してくるならば、野党は今こそ、固定化した格差を縮小する構想を練っておくべきです。生活保護を拡充し、失業者を派遣社員に、派遣社員を正社員にして、みんなが少しずつ豊かになって社会全体が元気になるような構想を描いておく。国民は豊かになると政治にものを言いたくなる。それを追い風にするんです」

 3・11以降、成長神話から脱却し、もう少しつつましやかに生きる道はないかと多くの日本人が痛感したのではないか。しかし坂野さんは言う。

 「今、豊かさを語る多くの人は成長を否定して、貧困の平等社会みたいなものが理想と言う。極端な例だと江戸時代の暮らしに戻ろう、と。しかし、私は成長自体は良くも悪くもなくニュートラル(中立)だと思っています。成長至上主義は格差拡大につながりますが、先ほど言ったように格差縮小のチャンスととらえることもできます。もうひとつ、平等と聞くと、みなさんは怠け者が増えて成長を阻害するようなイメージを持つかと思いますが、平等とは固定化した格差を縮小することだと解釈すれば、『成長と平等』は両立します。実際に戦後の日本経済はみんな平等の終身雇用のもとで発展してきたではありませんか」

(毎日新聞 2013年04月22日 東京夕刊より)


 今読み返すと、その後2014年末から2015年の初めにかけて日本でも一時代ブームになった(ものの、結局ブームとして消費されて終わり、安倍政権の経済政策を代替する政策の議論にまではつながらなかった)トマ・ピケティの『21世紀の資本』の議論とも共通する視点があって興味深い。

 坂野潤治の言葉通り、安倍政権の経済政策はいまや崩壊しつつあるが、この3年間野党が「固定化した格差を縮小する構想を練って」いたかといえば、答えはノーだろう。せいぜい今回の政局で、民進党の岡田克也が安倍晋三の先手を打って国会の党首討論で消費増税延期を提言して得意げになっているくらいのものだ。これではきたる参院選での「野党共闘」の勝利など到底望めないだろう。

 また、坂野氏の言う「成長による格差縮小」は、多くの経済学者の主張とも共通する、いわば「常識」だと思うが、「リベラル」の間に相も変わらず蔓延していたのは、自身は紛れもない富裕層の人間である内田樹の「脱成長」論だった。現在のリベラル・左派論壇の膠着状況には目を覆うものがある。

 3年前の記事では、坂野潤治の「あの時(1937〜45年の「崩壊の時代」=引用者註)は戦争に負けて焼け野原になったように崩壊の形が目に見えた。しかし今回はこの国の体制がどういう形で崩壊するのか、その姿すら浮かびません」という言葉を引用した。悪いことに、それは今なお当てはまり続けている、というより、3年前にはあまりピンとこなかったその言葉の実感が、ここにきてますます強まっていると思う今日この頃なのである。
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2016.06.06 08:47  | # [ 編集 ]

昨日の日曜日に所謂“野党共闘”の面々が「6・5全国総がかり大行動」というのを全国各地でやってましたけど、その中で民進党の枝野幸男幹事長(かつては“リベラル”とさえ看做されていた!)が「安倍政治を支えている人たちは、安倍自民党が『保守』だと勘違いしている。ここを引きはがさなければ勝てない。われわれこそが保守なんだと言わないと勝てません。日本の長年に渡って作られてきた支え合いと助け合いの社会を壊し、美しい農村風景を壊し、平和主義を壊し…。日本の平和主義というのは、戦後70年の歴史なんかじゃありません。聖徳太子の『(十七条の)憲法』になんて書いてあったか。『和をもって貴(とうと)しとなす』。日本の歴史に残っている最も古い政治指針は『話し合いで円満に物事を治めましょう』。この指針のもとで日本は1500年の歴史を歩いてきたんです」と言っていた http://www.sankei.com/politics/news/160605/plt1606050021-n2.html んですよね。まぁ、『文藝春秋』の保守特集 http://amzn.to/1TVEyuO で八百万の神々云々なんて言う御仁だからそうなっちゃうのも驚きはしないけど、とは言いながら「支え合いと助け合いの社会」の伝統なんてものの内実にも思いを致す以上にもはや“リベラル”ってのは寧ろ嫌われる要素にすらなっているのかなぁとさえ思っちゃうんですよね。

そういや、以前にkojitaken様がはてな日記の方で想田和弘(この方も内田同様“脱成長”論者だったりしますね)の言を批判してました http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20150903/1441235103 けど、リベラルばかりか保守までも“性善説”になっているのはことアジアに目立つ特徴だったりするんですよね。つまり人間の本性は善だから、富める者は貧しい者に施すだろうし権力者は慈悲深いしお互いに助け合い・支え合うだろうって具合の「徳治」な訳です。アジアで寧ろ“性悪説”なのはいわゆる荀子や韓非などの「法治」につながる話で、寧ろ歴史的にみると体制改革的な流れに多く見られるんですよね。

これに対し、西洋の保守主義って案外“性悪説”を基本としているんですよ。バークにしてもトクヴィルにしてもそうだけど人間は完全な存在じゃないのだから矢鱈古くからの慣習や制度を弄って余計な介入をしない方が好いというのが基本的なスタンスだったりして、「法治」を認めてもそれは古来からの慣習を基本とした慣習法だったりして例えば市民革命的なのには否定的だったりする訳です。寧ろリベラルには“性善説”なのが目立っていて人間が理性を持っている存在である以上は自由にやっても法律を作っても巧くいくってことになるし、時代が下って社会政策的なのが出来たとしてもケインズの想定したような「少数の“知的貴族”による理性的説得」という具合だったりします。もっともこの「ハーヴェイロードの前提」ってのは、宇沢弘文がケインズ自身の言動を引く形で否定 http://amzn.to/1TVFAXQ していますが。

何と言うのか、リベラルの自壊・衰退・転向って“性善説”で発想していた悪癖の抜け切れなさではないかとも思うんですよ。でないと、脱成長どころか「支え合いと助け合いの社会」を日本の伝統であるかの如く言えないでしょう。そうでなくても社会政策的な話でもなかなか公共的な政府の介入とかに向かわず、“共助”だの“ノブレス=オブリージュ”だののハナシになってしまう。欧米の中道左派でさえ“性善説”から離れてさえいる面があるのに、いまだ“性善説”でモノを言うのが当たり前ってのを見てると、“転向”が起きても不思議は無いなって気もします。

2016.06.06 10:04 URL | 杉山真大 #- [ 編集 ]

「経済成長」は、誰にとっての政府の大小なのかが問われるように、これもまた抽象的に考えてはいけないのですね。
成長には、それによる分配の問題と内実の問題が不可避に問われるのであって、単なるGDP至上主義ではダメなのです。
富裕層だけがヨリ潤う成長(=格差拡大)とか、経済の軍事化やギャンブル化、儀式化による成長(経済の腐朽化・寄生化)では願い下げです。

2016.06.06 10:43 URL | バッジ@ネオ・トロツキスト #- [ 編集 ]

日本全体のGDPの成長率が低迷しているのは生産年齢人口減少・高齢化のためで,「生産年齢人口一人当たり実質GDP成長率」は,2000年代以降は他の先進国よりもむしろ高かったことは,クルーグマンでさえ認めていること。
今後人口減少と高齢化がますます加速する日本で,国全体のGDPを持続的にプラス成長させるのは土台無理な話。「一人当たりGDP」ならまだわかるが。

「経済成長」を論じるのなら(そもそもGDPが指標として適切か否か,という重要な問題もあるのだが,それはさておき),少なくとも「国全体」と「一人当たり」を厳密に区別することが,議論の前提として不可欠。
それをしないから,論者によって「経済成長」の定義,意図する事柄がてんでバラバラで,議論がすれ違うだけになる。
語句の定義を明確にすることは,科学的議論一般の大前提でもある。

個人的には,「経済成長」という語句を安易に用いるべきではなく,「生活水準の向上」と言い換えるのが適切だと思う。
「脱成長論者」とレッテルを貼られる方々の中で,個々人が貧しくなるべきだ,生活水準を低下させるべきだと主張する,筋金入りの,真の「脱成長論者」はまず見たことがない(狂信的なディープ・エコロジスト位だろう)。

2016.06.07 01:01 URL | 品川に今住む住まい庭が無し #- [ 編集 ]

団塊世代が「生産年齢人口」から退くなかで、「生産年齢人口一人当たり実質GDP成長率」が高くなるのは、自然なことなのではないのですか? 国の生産力を支える物理的・制度的な社会資本は、維持されているはずなのですから。それから、「生産年齢人口」という指標自体、「先進国」の産業構造とかそこに生きる人たちのライフスタイルとかにあまりそぐわないものになっているのではないでしょうか? あと、そもそも、人口ピラミッドの問題込みの問題として、国の問題を論じているのではないでしょうか?

2016.06.07 07:18 URL | suterakuso #- [ 編集 ]

>そもそもGDPが指標として適切か否か,という重要な問題もあるのだが,それはさておき

品川に今住むさん、この点こそ「さておかれ」るべきではない、核心部分みたいですよ!
だって、いくらデタラメなモノサシをあてがってみても、何も測れない(正しく認識出来ない)でしょ!?

最近は、『しんぶん赤旗』や「新左翼」的メディアまで「GDP」概念を無自覚に使っていますが、日本でも戦後初期に戦われた「国民所得論争」など、もう、忘却の彼方なのでしょうかね???
故・都留重人さんが30年ぐらい前に『経済学の常識と非常識』などの著作中でまとめていますが、「GDP」なんて、全く非科学的なモノサシなのですね。「一人当たり」だろうが何だろうが、土台や根本が腐っているモノサシなんです。

あと、経済学的ロマン主義者でしかない「狂信的なディープ・エコロジスト」も、これまた問題ですね。
こういう逆ユレも、真の意味での生産力と疎外された生産力を混同して、前者に後者の罪をなすりつける「反動思想」でしょう。極限的には、「人類よ、原始時代に還れ!」ということにしかなりません。

ま、いろいろと難しい現代ですねw

2016.06.07 10:24 URL | バッジ@ネオ・トロツキスト #- [ 編集 ]













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