きまぐれな日々

 2013年に安倍晋三が憲法96条改正を目指した頃、そして今年成立を許してしまった安保法制をめぐる議論において、キーワードを挙げよと言われたら、「立憲主義」と答える。

 高校の政治経済の授業では習った記憶のない「立憲主義」は、ブログで政治に関する記事を書くようになってから知った。最近は高校のほか、中学の公民の授業でも教えるらしい。今年7月4日のアメリカ独立記念日に江川紹子がリリースした記事「『立憲主義』ってなあに?」から引用する。

 学校の教室でも、最近は「立憲主義」が教えられるようになった。高校や中学の社会科公民で使われる教科書の多くが、2012年3月検定に合格し、昨年に使われ始めた最新版から、「立憲主義」を取り上げている。

 たとえば、高校の「現代社会」でもっともシェアが高い東京書籍の教科書。最新版では、「個人の尊重と法の支配」というタイトルの章を新たに設け、そこで「立憲主義」について、次のように説明している。

 〈「法の支配」と密接に関連するものとして立憲主義という考え方がある。立憲主義とは、政治はあらかじめ定められた憲法の枠のなかで行わなければならないというものである。さまざまな法のなかでも憲法は、ほかの法がつくられる際の原則や手続きなどを定める点で、法のなかの法という性格をもつ(最高法規性)。国家権力は憲法によって権限をさずけられ、国家権力の行使は憲法により制限される。憲法は、個人の尊重が目的とされ、人間らしい生活を保障するものであり、政治権力がそうした目的に違反することは、憲法によって禁止される。そして、国民の権利が国家によって侵害された場合には、司法などによって法的な救済がなされることになる〉


(江川紹子「『立憲主義』ってなあに?」より〜2015年7月4日「Yahoo!ニュース」掲載)


 悪名高い自民党の第2次改憲草案(2012年)では、現行日本国憲法憲法の第13条

 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

を、

 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。

と書き換えている。

 ネット検索でみつけたサイトを参照すると、中学の公民の教科書(日本文教出版)には、

 「憲法は私たちの人権を守るために政治権力を制限するしくみを定めたものです。まず、憲法は、人がその人らしく生きていく(個人の尊重)ために必要な自由を人権として明記しています。」

 「日本国憲法は、アメリカ独立宣言などと同様に、人が生まれながらにもつ自由や平等の権利を基本的人権として保障しています。その根本には、「個人の尊重」の考え方があります。」

 「私たちが個人として尊重されるには、国家などから不当な干渉や妨害を受けずに生活できなければなりません。」
 「政治権力が1カ所に集中して人々の自由を踏みにじることがないように」

と書かれており、「個人の尊重」と「人の尊重」の違いについて、下記のように解説されている。

(3)「個人として尊重される」と「人として尊重される」の違い

 さて、教科書の記述にもどってみると、「人が人らしく」ではなく、「人がその人らしく」と表現されています。また、日本国憲法の根本には「個人の尊重」があるとされています。
 「個人として尊重される」と「人として尊重される」はどう違うのでしょうか。

 人はみんな平等。同じ人間。だから差別はだめ。はだの色が違っても生まれたところが違っても、白人も黒人も同じ人間、だから平等だ。
 これが一番目の意味で、とても大事なことです。
 しかし日本国憲法で述べられている「個人の尊重」というのは、さらに進んだもう一つの意味をもっています。それは同じ人間というだけでなく、「個人はみんな違う。ひとりひとり個性があって違う。だから差別はだめ。違いを認め合う。違いを認めた上で、互いを大切にして共生していく」という考えです。

 それは、一人一人をかけがえのない個人として大切にしようとする考え方であり、すべての人は、例外なく一人の人格をもった存在として国家から尊重されなければならないということです。
 「個人の尊重」は、自分が大切にされたいのと同じように、他者を大切にするという意味をはじめから含んでいます。

○憲法13条の英文をみてみましょう。
article 13.
 All of the people shall be respected as individuals. their right to life, liberty, and the pursuit of happiness shall, to the extent that it does not interfere with the public welfare, be the supreme consideration in legislation and in other governmental affairs.

 personが「人一般」を指すのに対して、individualすなわち、「一個の独立した人格」という意味合いがあります。

 日本語では、「人」に「個」をつけただけで、「人」も「個人」もあまり語感に違いがないように思えますが、英語では全く違う単語で、尊重する対象がちがうのです。

(リブ・イン・ピース☆9+25 N 「『自民党憲法改正案』批判──日本国憲法の根本『個人の尊重』変更の意味」(2013年3月8日)より)


 引用が長くなったが、要するに自民党は、日本国民を「個人として」、つまり「一個の独立した人格として」尊重するつもりなんかありませんよ、と宣言しているに等しい。そして、「個人の尊重」の実現のために「憲法で権力を縛る」立憲主義が生まれたことを考えると、自民党の改憲草案は立憲主義を否定していると言える。

 余談ながら、「個人」を「人」に変えようとする自民党の第2次改憲草案に怒り狂った1人が、現東京都知事の舛添要一だった。舛添とて2005年の第1次自民党改憲草案作成に深く関わったとんでもない人間ではあるが、その舛添から見てもとんでもないのが自民党の第2次改憲草案といえる。もっとも、とんでもないことをするぞと見せかけて、いざ蓋を開けてみたらそこまでではなかったというだけで、政権や自民党を「評価」してしまうおめでたい人間も少なくなく、今年8月の「安倍談話」の時には、東京新聞や「リベラル」ブロガー氏あたりもそれに引っかかっていた。いざ自民党が最初に出してくる改憲案自体は、「公明党に配慮して環境権の規定を入れた」式の、礒崎陽輔が言うところの「一度味わってもらうお試し改憲案」になることは絶対に間違いないから、そんなものを絶対に認めてはならない。敵のクーデター構想は何段階にもわたっており、敵自身それを公言して憚らないのだから。

 礒崎陽輔といえば東大法学部卒ながら「立憲主義を憲法講義で習ったことがない」と言い放った人間だが、聞くところによると「マルクス主義法学」には立憲主義の概念がない、ないしは立憲主義に否定的であるとのことだから、礒崎はその系列の講義でも受けたのだろうか。まさか戦後の東大には上杉慎吉の流れを汲む講座などなかっただろうし。

 さて、以上は実は前振りのつもりで書き始めたのが長くなってしまった。この記事で本当に書きたかったのは、自民党のようなトンデモ改憲勢力の批判ではなく、「新9条」、「左折の改憲」などといわれる「左派(サハッ?)」ないし「リベラル」勢力が提案して、「マガジン9条」や東京新聞(「こちら特報部」)が後押ししたという改憲案もまた立憲主義によって否定されるという話だった。

 先週私は、まだ想田和弘や加藤典洋はおろか、矢部宏治が憲法9条2項の改憲を提言し、それを池澤夏樹が朝日新聞夕刊のコラムで推奨するよりも以前の2013年に憲法学者の水島朝穂が書いた本で、立憲主義による憲法9条改定批判の論理を学んだ。『kojitakenの日記』で紹介したが、水島朝穂は著書『はじめての憲法教室 —立憲主義の基本から考える』 (集英社新書,2013)に、

「いま現実に存在する自衛隊が憲法と矛盾するから、憲法を改正しよう」という趣旨の議論は、国家権力を制限するという立憲主義の観点からは考えられないものです。そんな憲法はもはや近代国家の憲法とは言えません。(87頁)

と書いていた。この批判が「新9条」に適用されることは当然だろう。

 また昨日(11/29)、朝日新聞3面に掲載された「平和主義を守るための改憲 ありえるか」という記事に、同じく憲法学者の長谷部恭男が立憲主義の立場から「新9条論」を批判していた。記事は朝日に不定期で掲載される、高橋純子論説委員が政治学者の杉田敦と憲法学者の長谷部恭男の対談形式の(実際に2人が対談しているかどうか私は疑っているが)記事だ。ここで長谷部恭男は、杉田敦の

(前略)安保法制の成立によって(中略)9条は空文化し、死んでしまった。だから、新条項として蘇生させなければならないと『新9条論』者たちは主張しています。

との指摘に、長谷部恭男は、

 死んでいるのならなぜ、安倍さんたちは改憲を目指しているのでしょう。死んでませんよ。集団的自衛権の行使は認められないという「法律家共同体」のコンセンサスは死んでいませんから。元の政府解釈に戻せばいい。

と言い、さらに、

 法律の現実を形作っているのは法律家共同体のコンセンサスです。国民一般が法律の解釈をするわけにはいかないでしょう。素っ気ない言い方になりますが、国民には、法律家共同体のコンセンサスを受け入れるか受け入れないか、二者択一してもらうしかないのです。

と言う。杉田敦も、 

 たしかに、みんなで決めたことでもだめなものはだめ。これが立憲主義でしたね。民主主義と立憲主義の間の緊張関係を常に意識しておかないと、「新9条論」を主張する人たちの純粋で真摯な思いが、民主主義の名の下に、改憲そのものを自己目的化する現政権の動きを、裏側から支えてしまう可能性がありそうです。

と応じている。

 立憲主義とはかくも難解にして強力だ。そんなことを偉そうに記事に書く私も、その実体は今頃になって立憲主義を学び始めたうつけ者に過ぎないことは、本記事自体がはっきり示している。

 それにしても、想田和弘や伊勢崎賢治や矢部宏治や池澤夏樹や加藤典洋らが言い募り、憲法学者でも改憲派の小林節がそれに加担し、「マガジン9条」や東京新聞がその浪に乗ろうとした「新9条論」に対する批判にも立憲主義が威力を発揮するとは、立憲主義おそるべし、というのが初学者である私の正直な感想だ。われながら間抜けな感想だと思うが、そうとしか書きようがない。
関連記事
スポンサーサイト

憲法が死んだというのは戦争法を認めるというのと同じ。憲法に優位を置く立場なら法を廃止するのがスジというもの。逆に憲法改正するというなら、ろくに機能しない裁判所の位置付けを変更し、個別の紛争がなくても違憲審査する権限を与える提案をするべき。

そう言わないのは馬鹿だからではない。この人たちはもう「護憲」という語が嫌なんだ。しかし、その程度では右は満足しないよ。右に受けるためには「新9条では集団的自衛権に厳しい歯止めをかけて認めることも議論するべき云々」と言わなければいけない。実際にそう言い出すだろう。それはオレも痴呆革命に加えてくれという右へのサインだ。

2015.11.30 12:12 URL | 野次馬 #mQop/nM. [ 編集 ]

もう二十年以上も昔になるが、日比谷高校の体育館で
こちら側の人々のリレートークが開かれたのを思い出した。
まだ、黒田のオッチャンが元気で、元読売新聞記者として
、あんな改憲構想をさらした読売の新聞社としての振る舞いが断じて許せないと、トーク後も、開場一般席からマイクで語っていた。
ジャーナリストの労組が主宰だった。石川真澄さんと廊下ですれちがい、『君も来てくれたか』と喜ばれたのも、懐かしい思い出。
そんな中で、異彩を放っていた学者がいた。
その方こそ(たしか、広大の先生だったはず)テーブルの上に大小様々なサイズの防弾の薬莢を並べながら、サンダーバードについて熱く語る、水島先生だった。
この人は、軍事研究…シビリアンコントロールについて…
の人だったと記憶する。
コジタサンがよく紹介されている、この新書本はけっこう前に図書館で借りて読んだと思う。たしか、ノンフィックスなるフジテレビの話が記してあり、そこで例のこわもての教授と共に学生たちと議論合宿する下りがあったと思う。
また、所謂ひとつの左翼先生などが愛してやまない『あたらしい憲法の話』から縁を切れと、バッサリ書いていたはずで、この先生、センスいいなあと感心したものである。
水島先生が、左折とか(笑)、転向とかに無縁なのは言わずもがな。
要するに、頭がたしかな人ってことだ。サンダーバード構想には、その昔の石橋構想に通じる所もあるとは思うけど。(石橋は、九条の理想に肉薄させるべく、自衛隊を縮小させ、国際連合が機能するようになれば、自衛隊を国際連合に荷担させる、そしてそもそも自衛隊の実質的な任務は災害救援にあるので、自衛隊をこの点からも質的な再編をやることで、国内外の信用
勝ち得る云々…。『非武装中立論』なる言葉ばかりが先走り、あの本が出るうんと前に纏めた石橋構想は、あの戦闘的な左翼活動家どもが華々しかった時代にして、よく編み出せたものとは感心すらした記憶あり。石橋自身は、憲法九条の死守が絶対だったわけで、これは左折ではないと思うけど…)マル法とか、学生時代からエタイノシレナイもの…経済学ならば、あの曰く付きの先生の本、つまり、岩波ではなくて、大月書店の文庫本で学ばされたものですが、何故に法?…しか思えなかった私には、共産党が
何年何月何日に、立憲主義がとか(正式に)語りだしたかは知らないが、少なくとも共産党の立場から生まれる代物かは?がつく主義でしょう。
それはそれとして。
ある意味、左側から…それはアカラサマな右側からのリベラル叩きにしたり顔で興じる
、私、美人かも?みたいな何とか瑠璃なんかとはまるで異なり(笑)…頭の硬直化した左に
批判を加えていた。
これからも、様々なアレッてことが起きるのだろうが…秘密保護法に賛同した長谷部先生の自民党へのヒトサシや共産党の立憲主義擁護論とかは
この好例である!…真贋を見極めるべく、学び、視野を拡げることが肝要になろう。
伊藤塾の人や、御大;伊東光晴先生などが、今の私のライトハウス。

2015.11.30 12:46 URL | axfxzo- #ePfhgX1o [ 編集 ]

世論調査や選挙情勢を冷静的確に分析している面白いブログを見つけたので紹介しておきます
ttp://harunosippo.blog.fc2.com/blog-entry-48.html

あと↓これとか政権の支持母体の実態を丁寧に追ってて、読んでて気分悪くなるけど勉強になりました
ttp://hbol.jp/25122

すでにご存じだったらすみません

2015.11.30 13:31 URL | tktk #/.4ufyBc [ 編集 ]

コメントで石川真澄が出ていたんでふと思いついたんだけど、最近相前後して石川真澄の『日本政治の透視図』 http://amzn.to/1XfuPLX矢部宏治のクズ本 http://amzn.to/1Inz4BZ を入手したんだけど、両書を読み比べてみると特に現状認識に関して雲泥の差(勿論石川の方が"雲"ね)ってのを感じるんですよ。

石川が『日本政治の透視図』を上梓したのは1985年、当時は中曽根康弘政権で不沈空母とか何鱈でタカ派的な政治潮流が盛んでスパイ防止法案やら憲法改正やらが議題に挙がってた時期です。その中で石川は「積極的護憲論」って一文を1983年に著わし(ただ、これは石川と安東仁兵衛・岩見隆夫・筑紫哲也・前田哲男との勉強会での"中間的まとめ"と石川自身が断っています)同書にも収録していますが、石川らにしても「現行憲法が占領軍のつくった草案をごく僅かに手直ししただけのものであることは事実であって動かし難い」と所謂「押しつけ」憲法であることを認めながらも当時の国民のなかの一部有識者の思想にはかなりの程度まで一致するものがあった」と憲法研究会の「憲法要綱草案」を引き、更に「押しつけであったことはその憲法を改めねばならない当然の理由になるのだろうか」と問いかけた上で当時の政府や近衛文麿らの案を紹介した上で「押しつけ」られた憲法のほうが、自主憲法より、遥かに国民の側に立っていたと結果的には「押しつけ憲法」論者の主張を一蹴、「押しつけ憲法」を対米追従の元凶として全否定的に言い募る矢部や孫崎享とは対照を為している訳です。(同書 pp.193-196)

更に石川らは「現行憲法の『不備』とは何か」と、実は今日の"新9条論"者が問題にしている第9条第2項の問題について触れています。(同書 pp.197-202)とは言いながら先立って「平和主義の理想をあれほどの文言で規定しながら、自衛隊の拡大解釈による再軍備、さらには軍備拡張に対して歯止めとはならず、政府の恣意を許してしまっているという事実」を問題意識として断っておいて、終戦直後の現行憲法が論議されていた頃に論じられていた公法研究会や東大憲法研究会による(平和主義的性格をより鮮明とした)憲法改正意見を紹介した上で、以下の3点を主張しているのです。

1.現行憲法の第九条を、一、二項とも、今のまま残す。
2.そのうえで、「自衛のための実力を、たとえ保持しなければならない場合にも、国はその措置を極少にとどめるため不断に努力しなければならない」との趣旨の嬢または項を加える。
3.自衛権発動の際の、国権の最高機関またはそれにかわる機関による厳重な手続きを定め、文民統制についての明文規定を加える。

その上で、石川らは憲法の不備を理由に改正するとすれば、このような方向こそが平和主義の理念に適ったものであり、今(当時の中曽根政権・そして今の安倍政権にも当てはまる)の改憲論議はベクトルが逆向きだと中曽根や自民党などの改憲派主流を批判し、結論としてはたとえこのような「積極的護憲のための改憲」であっても、結果的には「復古改憲」と同じ、あるいは手を貸すものとなってしまうおそれがあり、とても改憲などと叫ぶわけにはいかないと、昨今の"新9条論"まで含めた風潮を見越したかの様な憲法擁護の姿勢を示しているのです。

ちなみに「積極的護憲論」は次の一文で締めくくられています、今にしてみるとこれって言わずもがなながら立憲主義を主張している様にも自分には思えます。

「憲法第九条は裁判規範の性格よりも政治規範、つまり主権者である国民の政治意思の決定の基礎となる規範としての性格が強いと考えることで解決出来るであろう。憲法第九条が指し示す方向に政策を進めようとする政府を信任した有権者は、同時にその(「違憲の軍隊」を「合憲の防禦システム」に:杉山注)移行に時間が必要であることも承認したものと見ることができるからである」(同書 p.216)

2015.12.02 19:03 URL | 杉山真大 #- [ 編集 ]

はてなの方の12/06付けの記事、とても参考になります。
いつもながら、(例え大嫌いな政治家に対してさえも)冷徹に分析する知性と、自己の位置付けに対するストイックなまでの抑制には頭が下がります。 

参考までに、今 沖縄において起こっている様々なことに対して、kojitaken さんなりにどのような視点、見解を持っているのか、お聞きしたく思います。
自分自身の見解から言えば、沖縄は今 、日本本土全体(特に都市部)の将来の治安体制がどう敷かれるのか、その将来を占う、非常に警戒すべき分水嶺に来ているように思います。
今、沖縄で海保が行っている基地反対運動に対する所業が、今後の社会運動に対するスタンダードになる可能性は非常に高い。
だからこそ、沖縄の反辺野古基地運動に対する連携は左派の必然のように思う。
(下手をすれば辺野古基地反対運動がISIL、テロの世界的連携と結びつく危険性さえある、と個人的には思っています)
思うのですが、自分自身としては何故だか理由はわからないのだけれど、なかなか東京近郊での左派の沖縄運動に踏み出せないでいる。
(地方のことは地方の自治においての民主運動で解決すべき、というこだわりが自分の中であるせいかもしれない)
非常にもやもやとしています。
よろしければ、沖縄の現在の状況に対してのkojitaken さんなりの見解、いただきたく思います。
お体、大切に。

2015.12.07 00:51 URL | 朱の盤 #uPeRzJK6 [ 編集 ]













管理者にだけ表示

トラックバックURL↓
http://caprice.blog63.fc2.com/tb.php/1416-af235452

[立憲主義][憲法9条][水島朝穂][石橋湛山][自衛隊]水島朝穂、石橋湛山、自衛隊、憲法9条、それに立憲主義
きまぐれな日々 立憲主義は「新9条」「左折の改憲」をも否定する(2015年11月30日)のコメント欄より。 http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-1416.html#comment19184 もう二十年以上も昔になるが、日比谷高校の体育館でこちら側の人々のリレートークが開かれたのを思

2015.12.01 08:50 | kojitakenの日記