きまぐれな日々

 安倍晋三への沖縄の野次と自民党3議員が百田尚樹とつるんでやらかした「言論弾圧」騒動で騒然となった先々週に対し、先週は一転して再び重苦しい雰囲気ながら自公が着実に安保法案成立に向けて歩を進め、それに対して民主党と維新の党の無策が目立つという、フラストレーションの溜まる1週間となった。

 6月30日に、一度は反省を口にしていた自民党の大西英男が再び「言論弾圧」の暴言を口にした時、これは野党が抗議して審議ストップにでもなるかと思いきや、「粛々と」審議時間が消化された。しかもあろうことか法案の衆院通過に向けてのスケジュールがマスコミに報じられるていたらくである。これでは民主党や維新の党は本当に法案成立を阻止するつもりがあるのかどうか、その本気度を疑わざるを得ない。

 昨日(7/5)、TBSのサンデーモーニングで岸井成格は、問題発言をした議員(大西英男、井上貴博、長尾敬)は外国だったら厳重注意処分程度で済むはずがない、自民党は除名すべきだと言い募る一方、これらの議員が安倍晋三に近い人たちであることが問題だとも言った。岸井は口にしなかったが、3議員の発言が安倍晋三の思っていることを代弁したものであるとは誰しも思うことだろう。

 しかし、3議員の問題発言に関する自民党の動きは、安倍晋三の意向を忖度するかのごときひどいものだった。先週発売された『週刊文春』(7月9日号)に「自民党は死んだ」と題した特集記事を掲載した。記事の中身はタイトルほど激しいものではな、いささか羊頭狗肉の感はあるものの、保守系の週刊誌に批判されるくらい今の安倍晋三と自民党はひどいということだろう。その『週刊文春』の記事から、自民党幹事長の谷垣禎一の呆れた対応ぶりを批判したくだりを以下に引用する。

 折しも、国会は安保法案の審議の真っ最中。安倍親衛隊議員の“言論封殺”発言は、野党に格好の攻撃材料を与えた。しかし、谷垣禎一幹事長の危機感は呆れるほど薄かった。

「翌日の午前中の会見で谷垣氏は『白熱した議論のときは、メディアから見れば不愉快な発言も出るかもしれません。またメディアのほうに時々、私どもに不愉快な発言があるのも事実。冷静に双方行きましょう』とニコニコして答えた。しかし、同じ日に二階俊博総務会長が『責任者が責任を取るべき』と発言し、公明党も強く反発したために、二日後に慌てて木原青年局長を更迭した。処分まで二日かかったことに、谷垣氏は『私はすぐ物事に対応するのが苦手なほうだ』と弁明し、失笑を買っていました」(与党担当記者)

(週刊文春 2015年7月9日号23頁〜「自民党は死んだ」より)


 これがかつて「スパイ防止法」に反対した「保守本流」の政治家のなれの果てである。この谷垣の醜態は、どんなに厳しく批判しても厳しすぎることはあるまいと私などは思うが、二階俊博に突き上げられてしぶしぶ木原稔を更迭し、3議員を「厳重注意処分」という実質的に何の処分でもない軽いお咎め(現に大西英男は問題発言を繰り返した)をした程度の谷垣禎一について、さる「リベラル」のブログは「温厚な谷垣激怒」などと書いた。何が激怒だよ、と読んだ私が激怒したことはいうまでもない。批判の強さで保守系週刊誌にも後れをとるようではまったくいただけない。

 結局大西英男は再度「厳重注意」を受けただけで放免された。私は、野党は大西の議員辞職勧告決議案を出して然るべきだ、また国会は空転して当然だと思ったが、そのような動きは何も起こらなかった。これには背筋が凍った。野党はここまで安倍晋三と自民党のやりたい放題を許すのかと驚き呆れたが、世間一般の「リベラル」たちがそんな野党のあり方を許容してしまっていることが、現在の野党のていたらくを招いているようにも思われる。

 結局、今回の安保法案をめぐる論戦で、一番まともな動きをしたのは憲法学者だったといえる。彼らは「立憲主義」を論点として、安倍晋三の安保法案(安倍晋三は現在国会に提出されている安保法案を「俺の法案」と呼んでいると伝えられる)が違憲であると主張した。この点に関しては、西修や百地章といった、御用学者としての卑しさが人相に滲み出ている異端の人間を除く大部分の憲法学者たちの意見が一致している。

 「立憲主義」というのは、法学部卒の方々にとってはおなじみの議論なのだろうが、世間一般によく知られている概念とは言いがたい。正直言って私も不勉強なことにあまり理解しておらず、最近になって2004年に長谷部恭男が書いた『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書)などを読んで泥縄式に知識を仕入れているていたらくである。上記にリンクした筑摩書店のサイトから引用すると、長谷部恭男は

日本国憲法第九条を改正すべきか否か、私たち一人ひとりが決断を迫られる時代が近づきつつある。だが、これまでの改正論議では、改憲・護憲派ともども、致命的に見落としてきた視点があった。立憲主義、つまり、そもそも何のための憲法かを問う視点である。

と書いている。この「立憲主義」の議論が、今回の「安保法案」を批判するのに有効だった。

 長谷部恭男の上記ちくま新書を引用している哲学者・國分功一郎の文章(昨年10月に『WEB論座』に掲載)が興味深い。以下引用する。

(前略)ここのところ、急に耳なれない言葉が注目を集めています。それが「立憲主義」という言葉です。

 これは憲法学者や政治学者でもなければ、知らなくてもおかしくない言葉だったと思います。そんなによく口にするものでもない。憲法があったりする国では当たり前の原則でしたし。でも、それが突然注目を集め始めた。特に今年に入ってからだと思います、この1年ぐらいです。

 きっかけは、集団的自衛権の行使容認をめぐる憲法解釈について、首相が「私が最高責任者だ」と言ったあの発言であったと思います。今年2月の衆議院予算委員会での発言です。もちろんこれはむちゃくちゃな発言です。いかなる権力も憲法によって制限されねばならないというのが立憲主義の考え方ですが、それを反故にするような発言ですから。

 しかし、この発言を支えている気持ちというのは想像できる。それはつまり、「自分は民主主義的な手続きを経て選ばれているのだ。なぜその自分が決めてはいけないのか」という気持ちですね。非常に稚拙なものです。しかし、これは想像できなくはない。

 この発言に反映されている気持ちは、民主主義を背景にした、権力の制限への反発として位置づけることができるでしょう。そして、まさしく、民主主義を背景とするこのような権力の暴走を抑えるために立憲主義という考え方があります。

 簡単に言うと、民主主義的な手続を経たとしてもできないこと、やってはならないことがあるという話です。例えば、人種差別を合法化するような法律を、民主主義的な手続を経てつくることは一応できますけれども、それは憲法で否定されてしまうわけです。

 だから、たとえどんなに民衆が望んでも、憲法の決まりによって「それはだめです」と言われることがある。民衆が〈下から〉権力を作り出すのが民主主義という仕組みであるとしたら、それに対して、「そこまではやってもいいけど、これ以上はだめです」と権力に〈上から〉制限を課してくるのが立憲主義という仕組みであるわけです。

(中略)

〈上から〉の制限に対する、〈下から〉の反発

 さて、こう考えていくと、立憲主義と民主主義というのは、なんとなくボンヤリと重ねられて「大切なものだ」「守るべきものだ」と思われているわけですが、そこにはある種の対立があることになります。

 両者は別に矛盾しているわけではありませんが、しかし確かに異なった方向性を持っている。したがって、「立憲民主主義」というのは近代が見出した大切な仕組みですけれども、そこには難しい問題が内蔵されています。立憲主義と民主主義はいったいどういう関係にあるのかという問題です。これはとても解決されたとは言えない問題です。

 この問題にどう答えるにせよ、立憲主義そのものの重要性は揺るがないでしょう。ところが、「私が最高責任者」発言のように、政治家が非常に素朴な発想で立憲主義を蔑ろにするようなことをし始めているので、これが現実の政治に関して問われるようになってきたわけです。

 しかも、先ほど述べたように、「私が最高責任者」発言というのは、立憲主義的な〈上から〉の制限に対する〈下から〉の反発と捉えることができるわけですが、現在は、この〈下から〉の反発が猛烈に強くなっている。この現象は、憲法に関してのみならず、いろいろなところに見いだせると思うんです。ある種のエリート主義的なものに対する〈下から〉の反発。僕はこれを現代版の「反知性主義」と呼んでいいかなと思っています。

(中略)とにかく今の政権や今の社会の雰囲気というのは、これまであった〈上から〉の規制に対して、〈下から〉怨念をぶつけるように反発している感じだと思うんです。それが「俺は民主主義的に選ばれているんだ。俺が決めて何が悪いんだ」という立憲主義的なものへの反発にも現れている。反知性主義的な反発ですね。

 そうすると、僕は立憲主義っていうのは非常に大切なものだと思いますけれども、今の状況に対して、上から目線で「立憲主義が大切」と説き伏せようにしても、怨恨混じりの下からの反発っていうのをむしろ増長するだけではないかという感じがするんです。僕なんかも本当にそういう態度に出たくなってしまいます。「あいつらは何も分かっていない」とバカにしたくなってしまう。でもそれではダメだと思うんです。

 ここで課題は二つあると思います。

 一つは、どうしてこういう怨恨混じりの反発が、いま、ここまで強くなっているのかを見極めることです。そのためには、戦後日本、戦後民主主義をもう一度考え直すことが必要になるでしょう。こういう政府、こういう世論を作り出したのが戦後日本だったのだという問題意識をもってこの70年を再検討することです。

 もう一つは、現在力をもっている怨恨混じりの反発に「民主主義」の名を語らせてはいけないということです。民主主義を単なる下からの反発に貶めてはいけない。立憲主義との緊張関係の中で民主主義を育んでいかねばならない。(後略)

(國分功一郎 【哲学で読み解く民主主義と立憲主義(3)】――民主主義と立憲主義はどういう関係にあるのか?(『WEB論座』 2014年10月20日)より)


 安倍晋三らの所業を、「下から目線」による立憲主義という「上から目線」の思想に対する挑戦だととらえるわけだ。これは非常に興味深い。なるほど、「ネトウヨ」に限らない草の根保守ないし右翼が安倍晋三に熱狂するはずだし、これまでしきりに「上から目線」を批判してきた「リベラル」がなかなか効果的なカウンターパンチを繰り出せないのも道理だ。

 私自身は「『上から目線』批判」に対する反批判をずいぶん昔からやっている。最初は2008年の大阪府知事選で橋下徹が勝った時に、「リベラル」のブログ群が「民主党が推した対立候補(熊谷貞俊)は『上から目線』だったから橋下に負けたのだ」と言っていたことを批判した時だった。私自身が書いた記事が「上から目線」だとして、当時の「リベラル」に批判されたことが「反批判」の記事を書いたきっかけだった。だが私の主張が広く支持されたことは一度もなかった。その後も橋下に関しては、「立憲主義を理解している橋下くん」へのシンパシーを表明する者や「脱原発に頑張っている橋下市長を応援しよう」などと言い出す者など、「リベラル・左派」からの橋下応援団の出現は後を絶たなかった。その橋下が現在、立憲主義に挑戦している安倍晋三に協力すべく、何やらうごめいているらしいことが昨日(7/5)あたりから報じられている。なんでも「関西維新の会」とかいう新党を立ち上げるという話だ。

 橋下の話はこれくらいにする。「上から目線」批判に対する反批判は、やはり専門知を持たない一般人では力不足で、立憲主義を熟知している憲法学者たちの奮戦があって初めて有効だったんだなと思う。一方、この憲法学者の批判に安倍晋三や自民党が手を焼き、業を煮やした「安倍親衛隊」たちが切れて暴挙に出たのを見て、リアルの政治も、やはり知性より感情によって動くんだな、とも思った。

 結局、安倍晋三が局面を押し切りそうな可能性が濃厚、少なくとも今月中旬から下旬のいずれかの日に安保法案が衆議院を通過することを覚悟せざるを得ない状況になっているように思われる。憲法学者の知性も、世間一般の人たちのエモーションを大きく動かすには至っていない。結局政権批判には、知と情の両面に欠けているところがあり、それが安倍晋三の無法を許してしまっていると思われる。

 少なくともここまでは、安保法案に反対する側の野党もわれわれ一般人も、先週まで書いてきた「怒りの温度が低い」ことのみならず、私自身も含めて知的努力が全く足りなかったのではないかと反省する今日この頃である。
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以前も書いたけど、安部首相解任の党内クーデターがいよいよ起きるかもよw
そういう動きが出始めました。
アベノミクス幻想が崩壊したことやTPP危機の切迫も併せ技になっているみたいねw

アンテナを高く伸ばそう!!!

2015.07.06 20:50 URL | バッジ@ネオ・トロツキスト #CrLMSZ1k [ 編集 ]

「上から目線」に就いての問題って、1990年代頃の「参加民主主義」のムーブメントに乗って出てきた感があると思いますね。官僚や政治家に任せたら業界と癒着する・専門家と称する者だって連中とつるんでいるとか批判されたりして(実際薬害エイズ事件とかそういう案件も現に起きていた訳ですが)、それで"さらば「お任せ民主主義」"とばかりに"目覚めた"市民が行動しよう・自分で出来ることは自分でやろうって風潮を生んだ訳です。しかも、それが所謂民営化とか"小さな政府"などのネオリベとも巧く適合したりして、"自己責任"とかが声高に言われたりもしましたし、更には"新しい公共"とかいうのまで出てきた訳ですよ(イギリス辺りだったら保守派の主張だったりするのに!)。

で、国分氏のお説を読んで思うことが二つあって、一つが以前のエントリで取り上げた水島朝穂・早大教授の「直言」 http://www.asaho.com/jpn/bkno/2013/0603.html で、立憲主義を「上から目線」というか"お上"=権力を縛るものとして捉えるのに対し(国分氏の様な)権力に上から制限を課してくる仕組みとして捉える考えには意外性というか何か違和感を感じる部分があるって気もするんですよね。水島氏の立憲主義観を「法の支配」的なものとして見るなら、国分氏の立憲主義観って「法治主義」の発想から来ているって感じがするんですよ。国分氏は「これまであった〈上から〉の規制に対して、〈下から〉怨念をぶつけるように反発している感じ」って言ってますけど、そもそも安倍って"下"の人間なの?権力者で"お上"なんじゃないの?って疑問符が未だ以て拭えないんですよ。

あと、もう一つの点はこちらのtogetterでのまとめ http://togetter.com/li/826221 に詳しいんですけど、「上から押し付けるもの」以上に「下から湧き上がって来るもの」ってものの怖さってのにも通じる問題じゃないのか?ってことなんですよね。最初の点で国分氏の主張に対する疑問を呈しておいてこう言うのも何ですけど、戦時中からあった"草の根"の柵の暴力的な側面ってのは戦後70年の民主主義でも現行憲法でも何ら変わらなかったばかりか、それを懐かしんでは理想的の様に語る言説が幅を利かす様にも思えちゃうんですよね。所謂"リベラル"に「怒りの温度が低い」(ことに加えて「期待値が大きい」)ってことに関連して、昔の自民党は懐深くて何鱈と懐かしむ声が少なからざる"リベラル"からも出ていますけど、30年ほど前の中曽根政権の頃の自民党だって(いみじくも青木慧氏が一連の著作 http://amzn.to/1Iwri8O で実証的に指摘してますけど)体質的には殆ど変化も無く況や"草の根保守"をや、だと自分は考えますが。

2015.07.06 22:21 URL | 杉山真大 #- [ 編集 ]

議員の仕事とは何かということを考えてみれば、審議拒否を是とするのは間違いだと思う。

2015.07.07 09:39 URL | #- [ 編集 ]













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