私はこの本を2000年の夏休みに読んだのだが、大いにはまった。2つの点で、私の好きな作家・筒井康隆を思い起こさせるところがあったからである。
この作品は、物語仕立てで哲学史を語っていく。これは、1991年に日本でベストセラーになった筒井の「文学部唯野教授」と同じやり方である。そして、物語のちょうど真ん中に、あるトリックが仕掛けられている。これ以上書くとネタバレになるので表現をぼかすが、このトリックはいかにも筒井が好みそうなものだ。
この本の訳者の池田香代子さんは、2002年にヴィクトール・E・フランクルの名著 「夜と霧」の新訳 も手がけている(みすず書房から出版)。この本は、アウシュヴィッツに送られたユダヤ人精神医学者による体験記録書で、1961年刊の霜山徳爾の翻訳(同じくみすず書房から出版)で知られているが、その41年ぶりの新訳になった。
私は新版の出る前年の2001年に霜山氏の手になる旧訳でこの本を読んだので、池田さん訳の新版は持っていないのだが、こういう本の翻訳書を出すことからも想像がつくように、池田さんは反戦・平和の側に立つ方である。
その池田さんの「再話」によって構成されたのが、ベストセラー「世界がもし100人の村だったら」(2001年、マガジンハウス)である。これは、もともと「ネットロア」(インターネットによる民話)であり、発信者不詳の、インターネットを通して広まった物語を、池田さんが再構成したものである。当然、格差社会否定の側に立ったものである。
ところが、6月にフジテレビがこの「世界がもし100人の村だったら」に基づく番組を、あろうことか安倍晋三のプロパガンダとして悪用したのである。
私にはこれがどうしても許せなかった。それが、この記事を書く動機になった。
この本につけられた帯には、次のように記されている。
『「よめる、わかる、かんがえる!」
憲法のエッセンスを「英文憲法」から新訳。
日本国憲法こそ
「世界がもし100人の村だったら」の希望。
わたしたちの夢です。』
日本国憲法に英語版があることは「知る人ぞ知る」ことかもしれない(法的に拘束力があるのは日本語版のみ)。これはもちろん、GHQの占領政策に基づいて制定された憲法であることと関係がある。その英語版を池田さんが新たに訳したのがこの本である。但し全訳ではなく、前文と第1条、第9条、それに第3, 9, 10章が「中学生でも理解できるよう」な文体で、新たに訳出されている。
なお、以上のように書くと、「ほれ見ろ、やっぱり『押し付け憲法』じゃないか」と、鬼の首をとったように騒ぐ人たちがいる。現に、Amazonのサイトにおけるこの本の読者によるレビューを見ると、そちらの方が多数派だと思われる。
こんな状況だから、この記事を書くにあたって、そのような批判に対する反批判を行っておく必要があると考え、良い資料を探していたのだが、ほかならぬ池田香代子さんご自身が、「法学館憲法研究所」のウェブページに載せた『「われらの」日本国憲法』という記事があったので、ここに紹介しておく。
http://www.jicl.jp/hitokoto/backnumber/20050718.html
以下引用する。
私は日本国憲法に対する批判を調べてみました。そうすると、現行憲法は戦後すぐ、人々が呆然自失していたときにGHQに否応なしに押し付けられたものである、そのたたきだいはアメリカがいろいろな国の憲法をつぎはぎして1週間あまりでつくったものである、だいたいこんなものでした。
私はこうした批判が当たっているのか調べてみました。すると戦後すぐ、人々はいつまでも呆然自失していたわけではありませんでした。みな大変だということで働きました。呆然自失していたなんで言ったら当事の人々に失礼です。当事の人々は働くだけでなく、政治的社会的な問題にも活発に発言していました。首都圏では 15万人もの人々がデモをする状況の中で憲法が公布されました。現在と比べようもなく少ない交通網や情報量の中で、当事の人々がどれほど元気だったかということです。
アメリカ人が憲法のたたきだいを1週間でつくったということは本当です。ただ、憲法が1週間でできるはずはありません。そんなことができたら手品です。手品には種があります。たたきだいにはそのたたきだいがあったんです。その当事民間から様々な憲法案が出されていました。そのうち鈴木安蔵さんの憲法研究会が1945年12月に発表した憲法試案「憲法草案要綱」は大変民主主義的な憲法だったんです。GHQはこれに注目し、全文を翻訳し、その評価をしたラウレル大佐が1946年2月にGHQの憲法を作成するチームの中心に座ることになったんです。したがってラウレル大佐は鈴木安蔵さんのたちの試案の内容をよく知っていたんです。ですから、その後つくられた日本国憲法はそのために鈴木安蔵さんたちの試案と実際によく似たものになっています。
私は鈴木安蔵さんの試案を見て、すごく不思議な思いに駆られました。それはGHQの憲法案に似ているだけでなく、それ以前のものとも似ていたからです。明治の自由民権運動の中でも様々な憲法案が出されましたが、その中で土佐の植木枝盛が書いた憲法案である「東洋大日本国国権案」にもよく似ていたからなんです。鈴木安蔵さんは憲法史の研究者でしたので、植木枝盛のこともよく知っていたんです。鈴木安蔵さんは植木枝盛の案をはじめ自由民権運動の中で生まれた様々な憲法案を参考にし、また様々な国の憲法を参考にして憲法試案をつくったんです。
植木枝盛の憲法案は現実にはなりませんでした。でも、すぐれた思想というのはいったん生まれ落ちると絶対死ぬことはないんです。私たちの歴史と一緒に、目に見えないところで伏流水のように走ってきてくれる。そしてチャンスだと思うと地上に噴き出してくるんです。植木枝盛の憲法思想は鈴木安蔵の憲法史研究という井戸の底から戦後噴き出したのです。
私は、日本国憲法は私たちの憲法思想の本流に位置していると思います。日本国憲法ができる過程でアメリカが関わったとしてもその思想そのものは私たちの憲法思想史の本流を汲んでいるんだと思います。
(池田香代子『「われらの」日本国憲法』?「法学館憲法研究所」2005年7月18日付より)
白状するが、私は高校の頃の政治・経済の授業で、日本国憲法についてかなり突っ込んだ教育を受けたものの、その記憶の多くは失われてしまっている。あの当時習い、今改めてその感を強くしているのは、経緯はどうあれ、日本国憲法は日本が世界に誇る平和憲法だということだ。池田さんが書かれるように、その思想の源も、また日本人によるものなのだ。それを、あの愚かな安倍晋三の手によって変えられてしまってたまるものか。
さて、英文憲法を新訳したこの本では、第9条第2項の訳文が特に印象に残る。現在の正文では、次のようになっている。
「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」
この項の後半、「国の交戦権は、これを認めない」という部分の英語は、下記の通りである。
"The right of belligerency of the state will not be recognized."
"belligerency"とは、「交戦国であること」という名詞だ、と本の註に記されている。
これを、池田さんは下記のように訳している。
「戦争で人を殺すのは罪ではないという特権を国にみとめません」
これを読んで、あっ、と声をあげた。「交戦権」という言葉をみごとに解きほぐした、憲法第9条の鮮やかな読解である。これについては、本に収められた政治学者のC.ダグラス・ラミス氏の解説がついているので、ここに引用する。
おそらく、第9条で唯一むずかしい専門用語は「交戦権」だろう。政府には、これを「侵略する権利」、あるいは「戦争をしかける権利」だと、わたしたちに信じさせたがっている人がいる。そうすれば、交戦権が認められなくても自衛権は残る。しかし、これはことばの意味と違う。「侵略する権利」などというものは存在しない。侵略は国連憲章で禁止され、ニュルンベルク国際裁判で戦争犯罪として定義された。交戦権とは、その中身をほどいて見てみると、「戦争で人を殺すのは罪ではないという特権」を意味する。交戦権で守られた軍人は、連続殺人犯として、裁判にかけられることなく、何百というおびただしい人々を殺すことができる。これが戦争の法的基礎である。これなしに戦争は不可能だ。
そして、この点で第9条がまだ(かろうじて)実定法として効力を持っている。というのは、日本の自衛隊には、今日まだ交戦権はない。自衛隊が平和維持活動や米軍の後方支援で海外に送られるときでさえ、法的には個人的防衛のためだけに武器を使うことが許されている。しかし、刑法第36条、第37条に規定された正当防衛権は、日本にいるすべての人に保障されている権利であり、交戦権とはまったく異なる。このように、たとえ自衛隊が政府によって交戦地帯に送られても(アフガニスタン侵略の際、海上自衛隊が米戦艦に給油するためにインド洋に送られたときのように)、彼らには軍事行動に関わる法的権限はない。
第9条に関する多くの「解釈改憲」にも関わらず、第9条はあるひとつのことを明確に達成している。それは、第9条ができてから半世紀以上、日本国家の交戦権の下でだれも殺されていない、ということだ。しかし、もし政府がアメリカの戦争支援目的に自衛隊派遣を続ければ、この記録はそう長くは続かないだろう。
(C.ダグラス・ラミス「やさしいことばで日本国憲法」解説文より=2002年、マガジンハウス)
まことに説得力のある解説である。人を一人殺したら、もちろん重罪になる。しかし、軍人が、ひいては愚かな指導者が戦争で大量の殺人をしても、「交戦権」が認められるのなら、それは肯定されてしまう。憲法第9条第2項は、そのような理不尽な権利を否定しているのだ。
これは2002年に書かれた本だが、それからわずか4年、改憲を政治日程に載せると明言している安倍晋三の総理大臣就任を目前に控え、日本国家が「戦争犯罪」を犯していないという記録が途切れるのは、もはや時間の問題となった。
改めてわが同胞に問いたい。
こんなやつを総理大臣にして、本当にそれでかまわないのか?
安倍晋三が犯そうとしている犯罪に加担してかまわないのか?
とてもでないが、私には容認できない。
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- 憲法九条の理念を守る現実的な道 (2007/05/11)
- 池田香代子さんの「やさしいことばで日本国憲法」 (2006/08/20)
ご無沙汰してます。
ABENDにシツコク貼り付けた「甲斐田新町」の事が書いてあります。
一読を。
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20060820#1156003737
2006.08.20 18:51 URL | どーも #a2H6GHBU [ 編集 ]
どーもさん
どーもありがとう(笑)。その記事は既に読んでいました。あいつといい某清流といいよくやりますねえ。某清流なんか私のことを2ちゃんねらーだと思っているみたいです。2ちゃんなんか一度だって投稿したことないのに(笑)。
2006.08.20 18:58 URL | kojitaken #e51DOZcs [ 編集 ]
こんにちは。
私のブログ作成遅れてます(汗;
私自身がブログもやらないで偉そうな事言えませんが、一つご提案があります。
ABENDですが、ほぼ毎日閲覧していますが、今ひとつパワーに欠けるところがあると思うのです。
それは資料集的まとめサイトの欠如です。
たんぽぽさんやカマヤンさんは色んな資料を集め、その分析を行い、まとめています。
それらを週刊誌的にあつめ、発表するサイトがあってもいいと思うのです。
勿論、私はたんぽぽさんやカマヤンさん、そしてその他の皆さんの資料を集め、閲覧分析していますが、一般の人は必ずしもそうでないと思います。
私がそれらをまとめて公表すればよいのでしょうが、スキルがありません。
安倍の非道を世に知らしめるために開設を願いたい今日この頃です。
2006.08.22 12:55 URL | どーも #a2H6GHBU [ 編集 ]
どーもさん
確かに資料サイトは不足していますね。
1日が240時間くらいあったらいろいろやりたいのになあ、といつも思います。私の自宅では雑誌が箱からあふれている状態だったりします。これで安倍が首相になったりしたら、収拾がつかなくなりそうです。
しかも、最近は自宅を離れて出先にいることも多いし、気楽に書いているはてなの分家はともかく、こちらのブログはなかなか更新もできないありさまです。
そのうち何とかしたいとは思っているのですが...
あ、そうそう、FC2も良いですが、はてなも面白いかもしれませんよ。私は全然使いこなせていませんけど。
2006.08.23 02:12 URL | kojitaken #e51DOZcs [ 編集 ]
TBありがとうございました。
大津留さんのところで見た
kojitaken さんとは
こちらでしたか。
当方のブログにも以前ご来訪して頂いたかと思います。
2006.09.02 13:16 URL | JUNSKY観劇レビュー #- [ 編集 ]
JUNSKYさん
コメントありがとうございます。
以前伺ったことがありましたか。失念していてすみませんでした。
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