きまぐれな日々

プロ野球・中日ドラゴンズが4年ぶりのセントラルリーグ優勝を目前にする名古屋だが、そのドラゴンズの帽子を被って人気とりに余念がない名古屋市長・河村たかしが主導する、名古屋市議会のリコールに向けた署名が目標数に達し、10月4日に同市選挙管理委員会に提出されることになってしまった。
http://www.asahi.com/politics/update/0930/NGY201009300004.html

河村側が設定した目標は、無効票を多めに見積もって設定した数字だから、リコール成立はほぼ間違いないと考えるべきだろう。これで、住民投票などによって名古屋市は4億5千万円の税金を無駄遣いすることになってしまいそうだが、残念ながらそれが名古屋市民の選択なのだから仕方ない。

大阪府の橋下徹といい、この河村たかしといい、モンスター首長の人気ぶりには呆れるばかりだ。それだけ日本各地で苦しくなる一方の暮らしに閉塞感が強まっているのだろうが、間違った方向に舵を切ろうとしている人たちへの人気が高まっている現状を憂慮するほかない。

当ブログには、尖閣諸島沖の衝突事件を取り上げろというリクエストもいただいているが、メインテーマとして取り上げるつもりはない。現在目立つのは右翼のヒステリックな叫びであり、火に油を注いだって仕方ないからだ。その中で、石原慎太郎なる犬同然の人間が、「ヤクザ国家には核武装しかない」などと週刊誌でキャンキャン吠えているようだ。その石原は、河村や橋下といったモンスター首長のはしりであることを指摘しておきたい。

尖閣諸島沖事件と相前後して、ロシアのメドベージェフ大統領が北方領土を訪問する意思を示すなど、大国が日本に対して強い態度をとることが目立っているが、いうまでもなくこれは日本の国力が落ちたためだ。思い出せば、1990年初頭には北方領土の返還が視野に入った時期があったが、当時のロシアはソ連崩壊直後の混乱で国力が落ちていた。一方、日本は海部俊樹が総理大臣を務め、小沢一郎が自民党幹事長の時代。あの頃、日本は北方領土問題を金で解決しようとしているかに見えた。当時、私の友人は「日本は北方領土を買うんだよ」と皮肉を込めて言っていた。

現在の菅政権の対応は頼りない限りだが、責任を菅政権にのみ帰しても得られるものは何もない。政治に必要なのは、なぜ日本の国力がここまで落ちたのかを分析し、国を立て直すことだ。まさに「失われた20年」(というより中曽根政権時代から数えて「失われた30年」)であって、その間違った方向へと向かった誤りを、早く総括して立ち直ることが必要だ。内政あっての外交であり、先の戦争だって内政の失敗が無謀な戦争へと国を突っ込ませた。

折しも、昨年(2009年)の民間給与所得が国税庁調べで前年比23万7千円減(5.5%減)の405万9千円となったことが報じられた。統計を取り始めた1949年以降で、過去最大の減少幅を記録した一昨年(同7万6千円、1.7%減)を大幅に上回ったが、2年間を合計すると、金額にして31万3千円、率にして7.2%も下がったことになる。2007年にはわずかに前年比で増えていたが、その前は1998年から2006年まで9年連続で前年比で減っていた。

トラックバックいただいた『ニコブログ』のエントリ「『企業平均給与23万円減、過去最大の減少』の衝撃」が、9年連続で民間給与所得が減少する直前の1997年との比較を行っているが、30?34歳で16.8%、35?39歳で15.6%、40?44歳で10.2%、45?49歳で10.8%、50?54歳で14.7%減少となっている。しわ寄せは40代には比較的小さく、30代と50代に大きいことがわかる。さらに悲惨なのが新卒であることはいうまでもない。

私が思い出すのは、1995年に日経連が打ち出した「新時代の『日本的経営』」である。日経連がこの方針を発表すると同時に、まず大企業が賃金切り下げ競争を始めた。「成果主義」など賃金切り下げのための方便に過ぎなかった。その影響が現れる直前の1997年に民間給与所得がピークに達し、以後減少の一途をたどったのは必然の帰結である。賃金切り下げはその後さらに、派遣労働の範囲拡大へと進んでいく。

手前味噌だが、「新時代の日本的経営」を検索語にしてGoogle検索をかけると、当ブログの2009年1月19日付エントリ「1995年?『新時代の日本的経営』と内橋克人『共生の大地』」が引っかかる。当該記事自体には大した内容はないが、そこで取り上げた内橋克人の『共生の大地―新しい経済がはじまる』(岩波新書、1995年)は、今なお価値を失わない、読まれるべき本だ。

15年前に書かれたこの本が今なお価値を失っていないことは、内橋克人にとっては名誉なことだが、日本にとっては不幸なことであり、要するに内橋克人が書いた「新しい経済」は未だ始まっていないのである。1年半以上前の当ブログの記事では、当時民主党代表を務めていた小沢一郎が、「2つのニューディール」として、「環境のニューディール」と「安心・安全のニューディール」を打ち出したことを評価する文章を書いていたが、「グリーンニューディール」を鳩山由紀夫も菅直人もさぼり続け、小沢一郎も先の民主党代表選で争点にもしなかった。その代わりに小沢一郎が言い出したのはひも付き補助金の一括交付金化による財源捻出と所得税・住民税の大幅減税だった。何のことはない、自民党から自由党時代までに小沢が唱えていた「小さな政府」路線に立ち返ったわけだが、悪名高い「小沢信者」のみならず、小沢支持者にも菅支持者にもそのことを指摘する人間はほとんどいなかった。図に乗る小沢一郎は、子飼いの松木謙公や三宅雪子を名古屋に送り込み、河村たかしを応援させる暴挙に出た。新自由主義者へと先祖返りした小沢一郎を、私は許せない。

思えば、中曽根政権時代の第二臨調の「民活」(民間活力の活用)から「新時代の『日本的経営』」を経て、橋本政権の「8大改革」、そしてそれらの総仕上げとしての小泉・竹中「構造改革」へと進んだ流れの中に、小沢一郎も新自由主義の唱道者の一人として位置づけられるし、それを示した小沢の著書が1993年の『日本改造計画』である。ところが、今なお小沢一郎は「『日本改造計画』の頃と私は変わっていない」と口にする。なぜ小沢一郎がそんなことを言うかというと、「国民の生活が第一」を実現させるために不可欠であると私が考えているところの「高福祉高負担」路線を日本人が望んでいないと小沢一郎が見ているためではないか。

小沢一郎にはそうした嗅覚が強く働く。本来は利益誘導型政治家だった小沢が90年代初頭に新自由主義路線を掲げたのも、2006年に民主党代表に就任したと同時に「国民の生活が第一」をスローガンに掲げたのも、現在再び新自由主義路線に回帰しようとしているのも、同じ動機に基づくものなのではないか。私はそういう仮説を立てている。私に言わせれば、小沢一郎こそ典型的な大衆迎合主義者(ポピュリスト)であり、2006年からの民主党代表時代には、それが良い結果をもたらしたこともあるが、現在は害毒の方が目立つ。菅直人も世論の動向に敏感な風見鶏だから、世論が新自由主義に容認的なら、それでなくとも経団連、大企業御用労組、松下政経塾出身や旧民社の民主党議員たちにがんじがらめにされている菅直人はますます新自由主義的な傾向を強める。

例によって小沢一郎批判へと話がそれてしまったが、公務員の給料を減らせ、議員定数を削減せよ、税金は「悪」だ、民主党を「減税政党」にせよという河村たかしを、名古屋市民のみならず日本人の多くが支持する現状は嘆かわしい限りだ。小沢一郎が「マスゴミ」の標的になっていると、被害妄想全開で絶叫する「小沢信者」の中には、熱狂的に河村たかしを応援する者が多いが、テレビ朝日で小宮悦子が司会を務めている、サンデーなんとかという番組が何度も何度も河村たかしを好意的に取り上げ、名古屋市議会リコール運動を後押ししていた事実を、彼ら小沢信者はどう説明するのか。「マスゴミ」が応援する河村たかしを批判するのが彼らにとって筋の通った態度だと思うし、私も河村批判になら彼らに同意するかもしれないが、彼らは決してそんな態度はとらない。ダブルスタンダードとはこのことをいう。

最後に、現時点で既に日本が世界に冠たる「小さな政府」であることを示す資料にリンクを張ってこれを紹介する。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5194.html

「図録▽大きな政府・小さな政府(OECD諸国の財政規模と公務員数規模)」と題されたこの資料には、縦軸に財政規模、横軸に公務員数規模をとったグラフが示されており、一目瞭然、日本政府は財政規模も公務員数規模もともに世界有数の小ささである。公務員数規模は2位韓国を抑え、堂々のOECD諸国中最小だし、財政規模も下から6番目で、アメリカより小さい。

記事は、「政府(中央、地方)のサービス水準に問題があるとすると、その原因は、政府の非効率・ムダづかいなのか、それともそもそもの規模の小ささなのかを疑わなくてはならない」と指摘するが、その通りだと思う。しかし、菅直人も小沢一郎も「無駄の削減」しか言わないし、社民党の福島瑞穂も「まず無駄の削減から」と言う。過激な公務員叩きをウリにしている「みんなの党」など論外だ。そんな流れの中に橋下徹や河村たかしもいる。

前記リンク先の記事は、「データの得られる国の中での下からの順位を見ると1970年以降だいたい一貫して小さな政府であったことが分かる」とも書いているが、それでも70年代の日本がうまくいっていたのは、民間の企業が再分配を行っていたからだ。70年代前半に「人手不足」に悩む日本の企業は、パートタイマーを正社員より高い時給で雇い、正社員の不満を抑えるために、企業の人事部では「正社員はその分解雇の心配もなく安定な身分なのだから」となだめていたという。企業に再分配を行う余裕がなくなった現在だから、日本は「大きくて強い政府」へと舵を切らなければならないのだが、河村たかしが日々叫ぶような「税金はすべて悪」という刷り込みを数十年にわたって行われてきた日本人は、簡単に河村らにだまされ、結局大金持ちの蓄財に自分から協力するのである。

再分配が適切に行われない社会は、ますます産業の競争力を失う一方だから、領土問題でも足元を見られてどんどん中国、ロシア、アメリカ(沖縄の米軍基地問題などその最たるもの)などの大国にやりたい放題をやられてしまうのであって、そんな背景を無視して排外主義に走る一方、河村たかしの「減税日本」なんかをマンセーしているようでは世も末だ、と強く思う今日この頃である。


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 名古屋市民です。河村市長の全貌についての指摘は、殆ど仰有る通りで同意します。
 しかし小生が結局は署名したのは、次のような状況にあったからです。小生の住まいは三百戸の西洋長屋、しかし署名締め切り日近くになっても誰も勧誘に来ない。そんなある日、地下鉄駅前の日射激しい場所(構内は禁止)で、ぽつねんと立っている署名人を見てのことでした。河村サポート連中に怖れるのは、一歩間違えば「拝外人」になるのではないかということですが、この人も繁華街で見た人も、おずおずとしているのです。自信なんて持ってないのです。
 それから地元の新聞は、政党や市議の大きな壁がありますから、紙面はみるからに半分分けといった編集を心掛けていたことを報告します。
 

2010.10.01 10:24 URL | 元部平憐 #gIYQI5Sw [ 編集 ]

> それから地元の新聞は、政党や市議の大きな壁がありますから、紙面はみるからに半分分けといった編集を心掛けていたことを報告します。

私は中日新聞購読の非名古屋市民です。
「リコール」云々はテレビの河村礼賛にくらべて(中日)新聞のほうが冷静に報道してたという印象がありしたが。

2010.10.01 13:36 URL | ウサギの耳アカ #- [ 編集 ]

河村市長と橋下知事を同列で批判されるのは少し疑問があります。

その決定的な違いは 公約に関する忠実度と政治実績です。

課税権限を持っている自治体が手数料の値上げや増税を財政赤字を理由に実施するのは明らかな誤りではないでしょうか
…?増税するならば、歳費は削減しなければなりません。

河村市長はシンプルにその流れを作るるべく、減税と歳費カットを実施しようと考えていると 思います。


行政権が肥大化している日本では、透明度の高さを確保していく方が地方議会の機能強化するよりも効率的だと思います。

2010.10.01 18:32 URL | 葉隠 #CRmGiUQU [ 編集 ]

右派にもネオリベと反ネオリベが存在するが、左派もまた同様なのではないだろうか。
官僚制をはじめとする中央集権打破と、いわゆる「既得権益」の剥奪。
左派ネオリベはこれが好きなんだと思う。
そう考えれば小沢信者が河村市長の応援をするのも不思議ではない。
イデオロギーが左であることと、大きな政府志向とは必ずしも一致していないと私は思う。
極限まで行政の無駄を排して「良き小さな政府」を目指す左派の一派も存在してもおかしくはない。
ちなみに私は反ネオリベであるが、左派ではない。
ここに来る多くの人からみると、やや右寄りに分類されると思うけれど。

2010.10.02 00:55 URL | 元大阪府民からの伝言   #- [ 編集 ]

〉元大阪府民からの伝言様
ご意見に同感です。左派の一部には、国家=悪の側面を強調して「庶民は国家による支配から脱しなければならない!」という観念を庶民に刷り込んでしまった責任があると思います。D.ハーヴェイが「自由を最高の価値とする人や集団は新自由主義に乗っ取られ易い」と言ったように、新自由主義者はそこに付け込んで勢力を拡大したんです。
勿論、右派の一部にも新自由主義拡大を助長した責任はありますが、それを批判し反省する良心的な者もいます。左派にも良心的な方々がいらっしゃるはずですから、良心的な右派と同様に新自由主義に関する失敗や責任を真摯に反省すればいいと思います。

2010.10.02 06:00 URL | loopy #- [ 編集 ]

ニューヨークに移り住んで2年が経つ私ですが、日本の惨状は目を覆うばかりです。アメリカを物まねしようという輩と、日本をアジアから孤立させて国粋主義を煽る輩がはびこり、マスコミが駄目なだけでなく、日本のネット界も一見力強く見える偏った考えばかりが力を得る状況です。

全て政治、経済、教育、この20-30年間での劣化の集大成として現在の事態があるわけで立て直しは容易ではないでしょう。私は日本を立て直す鍵は、「大きな政府」しかないと思っておりますが、ガラパゴス日本にどっぷりつかった国民がそれを受け入れることは短期的にはほぼ不可能だとも思います。

日本は世界的にも地位を下げ続け、プライドだけが高い国に成り下がりました。悲しいことに、私は日本に戻る気持ちには到底なれないのが現状です。

kojitakenさんの主張は概ね同意できます。少数派と言われても、正論を吐き続けてください。応援しております。

2010.10.02 07:29 URL | sdpj_2007 #QFLD8DSc [ 編集 ]

河村市長の主張が多くの市民に受け入れられる根には、市民の政治家に対する通俗的な偏見があると思われます。
議会だって決して市民のためにならないことばかりをしているわけではない、むしろ本来は市民のための政策を多く行っているはずです。それは当然のことなので、マスコミも取りあげようとはしない。
議員の行為はネガティブな面のみ強調されます。二世議員が何割を占めるとか、観光旅行まがいの海外視察だとか。
そうした面ばかりを見せられている視聴者は政治家に対してネガティブなイメージしか持てなくなるのも必然かも知れません。

日本での政治家のイメージは黒く染まっています。金に汚くて、自分の保身ばかり、利権がらみでしか行動しない等々。それはまさにマスコミが作り出した非常に通俗的な政治家のイメージです。
ある一面のみを強調することで、すべてを否定的に見せる、河村氏はこうしたマスコミの利用法が実にうまい人物でした。橋下知事、竹原市長などにも同じことが言えるでしょう。

河村氏は市議会は自己保身のみに走っていると断定します。
しかしたとえば共産党市議団は議員報酬年間1000万を提案しています。これは河村氏の主張する800万とさほど差はありません。歩み寄ろうと思えばできたはずです。しかし河村氏はそれをしない。市議会と妥協することはポピュリズムだけが頼りの河村氏にとって致命的なダメージになるからです。

左派にも新自由主義に親和的な勢力がいるのではないか? それは行政=権力という図式に反抗する形でという意見には同意します。
それと同時に、日本では行政サービスを求めるくせに行政改革を声高にとなえる「リベサヨ」と呼ばれる勢力もいます。ブログ「きょうも歩く」「dongfangの日記」などでも指摘されていますが、ルサンチマンから出た改革としてのネオリベラリズムは、フリードマンらが提唱したものとは最早別物ではないか、そうとも思えます。

2010.10.02 14:32 URL | 飛び入りの凡人 #mQop/nM. [ 編集 ]

飛び入りの凡人さん
>歩み寄ろうと思えばできたはずです。

そうなんですよね。議会制民主主義の基本中の基本は「討議」と「妥協」なんですよね。
議会を「改革」したいなら、ポピュリストがトップダウンに行うのではなくて、市民自らが討議してボトムアップで行っていかなければ。
本当に必要なのは「市民」の意識改革なのかもしれません。

(理想主義すぎるか、、、(汗))

2010.10.02 17:11 URL | ウサギの耳アカ #- [ 編集 ]

>現時点で既に日本が世界に冠たる「小さな政府」であることを示す資料

kojitakenさんの主張には概ね賛成なのだが、結論部分がお粗末だ。「ではお前にはこの資料を覆すだけの、より有力なデータがあるのか?」と聞かれれば、「残念ながらない」と答えざるを得ない。いえるのは、日本の公務員が自分たちに不利な資料を正直に晒す訳がないという確信だけである。どこかに、嘘と欺瞞と捏造が隠されているはずだ。

日本の失業率は約5%で、これは米国の半分、スペインの4分の1だ。この数字を、kojitakenさんは正しいと思われるのか?
例えば3年間は失業保険が支給されて、他の職業に移るための訓練費は別に支給されるオランダと、失業してから3ヶ月後にやっと失業保険から支給される日本が、同じ条件だと?
明日の米を得るためにパートやアルバイトとして働いて、ハローワークへ行かないと失業者として認定されなくなるのが、日本の失業者というものだ。
ホームレスは、住居だけでなく「住所」を持っていないから、ハローワークへ行っても無駄だから行かない。彼らも、失業者にはカウントされない。
幼い子供を預ける保育園がなくて、働きに出られない主婦も、失業者ではない。
日本人の実感としては、日本の失業率(5.1%)にはかなり違和感がある。失業者は、スペインの4分の1しかいないって?

以前は1万人を越えていた交通事故死者が、2009年は警察発表では5500人にまで減少した。本当だろうか? 交通事故は、そんなに減少したのか?
国土交通省の発表では、年間の交通事故死者は11000人近い。(こちらは2008年度統計)おかしいじゃないか。
調べたら、カラクリが分かった。警察は、即死者だけを交通事故死者としてカウントしていたのだ。病院へ運ばれてから死亡が確認された者は、交通事故死者ではないのだ。

福田内閣の時に、ある独立行政法人では理事10名のうち9名が「天下り」だった。これはちょっと行き過ぎだろう。そこで、「天下りは理事の定員の3割以下にするように」と通達を出した。これなら、理事10名のうち3名までしか認められない。
しかし、日本のお役人様はずっと賢い。その独立行政法人では、理事の定員を10名から30名へ増員した。大学教授などから名前を借りた新しい理事20名は、無給だ。理事会での議決権もない。しかし、理事の総員は30人だから、9名の天下りは今も安泰のままだ。

文部科学省の宗教統計調査によると、日本の宗教団体の信者数は、神道系が約1億700万人、仏教系が約8900万人、キリスト教系が約300万人、その他が約1千万人、合計2億900万人となる。人口の倍じゃないかって? 10年前は、信者は5億5千万人もいたのだそうだ。最近は良心的になってきているらしい。

さて、日本の公務員数は、世界でも有数の少なさですって? 優秀な公務員様がそう言われたのなら、きっとそうではないのでしょう。議論は、そこから始めるべきでしょう。

2010.10.02 18:09 URL | 隠居老人 #5nOD/QyU [ 編集 ]

主題とは関係ないのですが、隠居老人様が交通事故死者について大きな誤解をしておられるようなので指摘しておきます。

警察は24時間以内の死者(即死ではない)と30日以内の死者を両方発表しています。
また厚労省などでも交通事故死者数の統計を取っています。その経年データを下で見ることができます。
http://img.f.hatena.ne.jp/images/fotolife/s/sgtb/20100808/20100808165805_original.jpg

当然のことですが、死亡までの時間差を大きくとるほど死者数は増えますが、どの基準で見ても、平成に入ってから死者数は激減していることが分かります。警察の統計方法に疑問があるのは分かりますが、それが死者数減少を否定する根拠にはなり得ません。

それと以前から警察は24時間以内死亡の統計を取っているのですから、統計の連続性を保つために、同じ条件の死者数を比較する必要はあるかと思います。

2010.10.02 21:59 URL | 飛び入りの凡人 #mQop/nM. [ 編集 ]

私が名古屋市民だったとすれば署名に協力したと思います、「無駄の削減」というよりは「癒着の削減」が実現する事を切に願います。

2010.10.03 00:20 URL | A #AtAD9fD6 [ 編集 ]

結局は国民が高級官僚・地方官僚・政治家を信用するためにはどうすれば良いのか、というところに問題は行き着くと思うんですよね。
官僚・役人が信用できないから小さな政府で彼らをコントロールしなければ(小さければコントロールが効くというのもまた錯覚かもしれませんが)、というところが私なんかも大きいし、一般国民にもあるのかと。(マスコミに乗せられてるといえばその通りなんでしょうけど)

そのためには予算のチェックなどに政治家でも官僚・役人でもない市民国民からなる第三者機関を入れてチェックを入れる、透明性を高めるということをしないと、なかなか高福祉高負担の大きい政府でやろうと言っても、一般国民の賛同は得られないと思うんですよね。(一度、官僚・役人の在り方・システムは刷新あるいは見直し検討する必要があるのではないかという国民意見は少なくないと思われる)

まあそのためには、一般国民も政治にある程度(選挙で一票入れる以上の)介入をするという、共同体の義務感みたいなものを育てなければいけないわけで、まずはそこをどうするか、という話になるんでしょうけど。

そのための入り口としては(政治を進めた結果がどうなるかはともかくとして)、名古屋の河村市長のような賑やかしも、(日本における民主主義をより進めるための)ある程度の必要悪みたいなところがあるのではないかと思ったりする私です。

本当はもっと、左翼の方からの勢いが欲しいところですが、なかなかその勢いが育たないならば仕方ない、次善の策で行くしかないのではないか。
もちろん右翼・保守・新自由主義勢力が行き過ぎないように,批判の手を緩めることなく。

2010.10.03 02:50 URL | 朱の盤 #XQYq98OQ [ 編集 ]

最近、私は右派と左派の違いが分らなくなっています。
既得権益擁護、利益誘導型政治は、伝統的な自民党の政策でした。それが否定されて現在の政治状況があるのですが、現在では、既得権益擁護も利益誘導も左派の主張とされることがあります。
既得権益の打破は、もともと左派の主張だったはずですが、既得権益の打破が結局は、自分たちの足元に火が及ぶことに気づいた左派が、今度は立場を変えて、既得権益打破は、ネオリベの主張と決め付けて、それを右派の主張に変えてしまったところがあります。
既得権益打破は、基本的には現状改革的な考え方であり、革新的な考えであったのですが、左派は、自分たちが既得権益の享受者であったことに気づいたので主旨換えを行なったものと見られます。
もちろん、これは全ての左派を指していません。自分の力で考え、相対的に物事を見られる方は全く違う見方をしています。
問題は、伝統的な左派であった層は、現在では既得権益の享受者であり、現在は安定した生活をしていることであり、むしろ、伝統的左派とは別に貧困層が生まれていることです。
高度成長期、安定成長期にあっては、特定の業種を利権団体として保護し集票システムとする行政を行なっても、社会の矛盾は表面化しませんでした(自社両党によって行なわれた)。しかし、不況期になると利権団体に組織化されなかった人々は、相対的に貧困化し、不満を募らせ、既得権益の打破に向かいます。みんなの党の隆盛は、年収の高い層とこれら利権行政によって救済されなかった人々が支えています。
つまり現在の既得権益打破の動きは、人々の公平を希求する動きなのです。
そうであれば、既得権益擁護と利益誘導を求める人々は、伝統的保守層ということになると思います。
また、財政支出削減の方向を唱えると、ネオリベとレッテル貼りされるか、新自由主義的傾向が出てきたと言われます。私は不況期の財政支出削減には慎重であるべきだと思いますが、財政支出削減は、必ずしも新自由主義的経済政策に結びつくものではないと思います。現在の財政状況では、財政支出削減に理がないとするのは言いすぎだと思います。要は、中身が重要だということです。
公務員の人員削減は、行政の間接費削減であり、価値中立的な主張であり、どの立場とも結びつくと思いますが、やはりネオリベと決め付けられます。

私は、福祉国家観と自助自立型の国家観に分けて、福祉国家を志向する人が現在では左派と呼ばれるべきなのではないかと思います(私自身、右派左派は使いたくない言葉ですが)。
そして福祉型と自助自立型の間には中間に多くの段階があって、完全な福祉型の社会主義は破綻しており成り立ちませんし、完全な自助自立型の国家も今のところ見当たりません。どの辺でバランスをとるかについて我々は価値選択を迫られているのであり、違いは相対的なものです。
その意味で左派のネオリベとは言葉の矛盾だと思います。なぜならネオリベは徹底した自助自立を説く考えだからです。BLOGOSに出てくる論者や竹中平蔵氏が典型です。

2010.10.03 10:04 URL | greenstone #- [ 編集 ]

尖閣問題がきな臭い。マスコミが扇情的な報道に終始していて、小泉政権の時を思い出す。また作られた騒動の裏でネオリベ政策を押し進めようとしているのだろうか。

2010.10.03 11:47 URL | ぴったん #- [ 編集 ]

飛び入りの凡人さん

>左派にも新自由主義に親和的な勢力がいるのではないか? それは行政=権力という図式に反抗する形でという意見には同意します。

元先鋭的ロック評論家・渋谷陽一のようなかってのカウンターカルチャーの担い手が今や「みんなの党」の支持者となってますからね。スターリニズム批判から生まれた新左翼に共感していた全共闘世代の人たちにもこの傾向はみられるように思えます。

>それと同時に、日本では行政サービスを求めるくせに行政改革を声高にとなえる「リベサヨ」と呼ばれる勢力もいます。ブログ「きょうも歩く」「dongfangの日記」などでも指摘されていますが、ルサンチマンから出た改革としてのネオリベラリズムは、フリードマンらが提唱したものとは最早別物ではないか、そうとも思えます。

「dongfang99の日記」は私もいつも読ませていただいています。
下記に紹介したエントリでは「既得権益」に対するルサンチマンについて私にはとても共感できる見解を述べていられます。

「既得権益」こそ自由と民主の基礎
http://d.hatena.ne.jp/dongfang99/20100401

一部抜粋します。
──────────────────────────────
しかし誤解を恐れずにいえば、「利権」「既得権」のない民主主義などは不健全である。重要なのは、「利権」「既得権」をめぐる闘争と交渉に、より多くの利害関係者が参加できる場が与えられるかどうかである。自由で民主的な社会というのはそういうものであるはずなのだが、今は「既得権」の正当性を訴えようとすると、それだけで「庶民感覚とはずれている」などと糾弾されてしまう。「利権」「既得権」そのものを解体しなければまともな政治ができないなどいうのは、それこそかつてのファシストや社会主義者の物言いでしかないことを、そろそろ反省すべきである。
───────────────────────
ナチスをもっとも熱狂的に支持した層とされるのが下層中産階級の人々ですが、ナチスは巧みに彼らのもつ「既得権益者」へのルサンチマンをあおったのです。産業構造の変化で富や社会的地位を得たユダヤ人や組合を組織し団結して権利を主張できる労働者が彼らの憎悪の対象となったことはよく知られています。
スターリン時代のクラーク(富農)撲滅運動や文革も権力者が「既得権益者」への大衆のルサンチマンを利用した代表的な例です。
おかげで真に大衆の幸福を奪っている者たち~大資本家や党の幹部たちへの批判をかわすことができたのです。
「既得権益打破」とはそんなものです。はっきり言うと私は政治家から一般ブロガーに至るまで今横行している「既得権益打破」を主張するような人には全く共感できません。

ところで、私の本棚に今もある「ソフィーの世界」の背表紙も心なしか色あせて見える今日この頃ですが
池田香代子さんの最近のエントリ「若者がチマチマしている」
http://blog.livedoor.jp/ikedakayoko/archives/51479783.html

若者の雇用環境の理不尽な厳しさを批判しているのですが、途中まではまずまずまともなことを書いているのが、最後になって
───────────────────────
若者が湯浅誠さんの言う「すべり台社会」への恐怖に身をすくませているなら、多くの企業が若者を正社員として抱え込めなくなることを見込んで、「バイトで自分探し」を奨励したこの社会の罪は深いと思います。この残酷な話に飛びついたのは、正社員の既得権に守られた年長世代です。
───────────────────────
と世代間格差や「既得権」を持ち出されたのにはがっかりしました。

2010.10.03 17:07 URL | ぽむ #mQop/nM. [ 編集 ]

ぽむさんがリンクされた池田香代子さんの文章ですが、内容以前に年数表記がめちゃくちゃですね。以下引用。

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1985年、労働者派遣法が成立し、正規に就職しないで腰かけ的な仕事でつなぎながら、自分のやりたいことを追いかけることが、若い人びとの間でひとつの選択肢になりました。テレビコマーシャルは、「職業選択の自由~」と歌い、世の中はそんな生き方をもてはやすような雰囲気でした。「自分探し」が流行語になり、私のところにもそんなテーマのエッセイ依頼がたくさん来ました。この年に訳出した『ソフィーの世界』という、ヨーロッパ哲学史をファンタジー形式で語るという本がベストセラーになったからです。なにしろその出だしは、「あなたはだれ?」だったのです。それで、哲学的な思考とは何かを説くこの作品とはおよそ無関係だったにも拘わらず、当時の風潮に押されて、私などのところにまで「自分探し」エッセイの注文が殺到したのでした。
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「自分探し」ブームが起きたのは確かに80年代ですが、『ソフィーの世界』の邦訳出版は1995年でしょう? 池田さんはご自身の仕事をいつごろやったかも覚えておられないのでしょうか?

さらに、労働者派遣法は確かに1985年制定ですが、「職業選択の自由」と歌ったCMが流れたのは、ネットで調べたら1991年のことでした。いったい、池田さんが書いているのは1985年、1991年、1995年のいずれのことなのかさっぱりわかりません。

池田さんが『ソフィーの世界』を訳出した1995年の労働界における大きな出来事というなら、当エントリで取り上げた日経連(現在は経団連に吸収合併)の「新時代の『日本的経営』」あたりでしょうに。

こんないい加減な姿勢で書かれた文章に説得力なんて全くありません。

2010.10.03 17:35 URL | kojitaken #e51DOZcs [ 編集 ]

確かに時系列がめちゃくちゃですね。
おっしゃるとおり『ソフィーの世界』の邦訳出版は1995年、バブル崩壊の後で、この本がベストセラーになったのはそんな時代の気分もあったのではないかと思われます。
この翌年くらいに派遣法の最初の改正があったので、それと取り違えているとも思えないでもないですが、正直言ってそもそも派遣法の変化を池田さんがちゃんとわかっているかどうかも疑問です。
Kojitakenさんはもちろんご存じでしょうが、派遣法は85年制定されたときはあくまで専門職に限られていたこともあってそれほど悪質なものではなかったのです。ひどくなったのはポジとネガが入れ替わったとされる(派遣が許可される業務より禁止される業務のほうが少なくなった)1999年の改正からですよね。そして、決定的なのが製造業への派遣が解禁となった2004年第2次小泉政権下の改正でした。

余談ですが、80年代後半の「自分探し」ブームに利用されたかもしれない本として思いつくのがミヒャエル・エンデの『モモ』です。『モモ』の邦訳出版は70年代後半ですが、80年代末あたりに小泉今日子が愛読書と言ったことで(『アンアン』に連載していたエッセイか何かで?)若者の間でブームになったことがありました。ドイツ文学者の池田さんはいつのまにか錯覚を起こしてしまったというのは考えすぎでしょうけど。
ちなみに『モモ』は甘い「自分探し」どころではないまさに新自由主義への警鐘が感じられる偉大な作品で今こそ読まれるべきだと思います。

2010.10.03 20:37 URL | ぽむ #mQop/nM. [ 編集 ]

はじめまして。しばしば拝読させていただいている者です。

私が内橋氏の『規制緩和という悪夢』を読んだのは2006年の春ごろでした。前年の”郵政民営化選挙”で、”小泉構造改革”の何がいけないんだと友人に問われて、ただ漠然と、社会全体が不味いことになるのではないか?(すでになりはじめているのではないか?)という予感しかなかった私は、上手く答えられずにもどかしい思いをしたものでした。翌年、内橋氏の著書を読み、改めて目から鱗が落ちる思いで、選挙の前に読んで友人にも教えてやればよかったと残念に思いました。

先日たまたま、内橋氏の著書を検索していたら、『規制緩和ー何をもたらすか』(岩波ブックレット458) の一部を掲載しているサイトを見つけました。(中田前市長の大学改革に反対する横浜市立大学の教員の方のサイトのようです)『規制緩和ー何をもたらすか』は重版未定になっていて、手に入りにくかったので、有り難く保存させていただきました。(「すり替えられた規制緩和」で検索すると出てきますが、脚注や文中の強調部分は引用者の方によるもののようです)こちらは1998年の発行ですが、現在読んでも十分意味があると思います。『共生の大地』や『規制緩和という悪夢』もそうですが、10年以上前に、これだけ的確な警告がなされていたのに、この国はそれを回避することが出来なかったのだと思うと、残念でなりません。特にこの本で紹介されている当時のニュージーランドの惨状は今現在の日本の状況にそっくりです。

当時の国民が”規制緩和”に賛同したのは理由のないことではなかった。しかし、その”規制緩和”の内容はすり替えられてしまった、と内橋氏は指摘します。

少々長くなりますが、その部分だけを少し引用させていただきます。

(以下引用)
日本の財界は長い間、「自由経済を守る」という大義名分を全面に押し出すことによって、多くの日本的な経済の仕組みを保持してきました。たとえば経団連を介しての特定の政権政党に対する政治献金などは民主主義の原理そのものの否定であるわけですが、「これは自由経済を守るためのコストだ」といって巨額の献金を正当化することができたわけです。ところが、冷戦構造の崩壊によってこのような論理はもはや通用しなくなりました。「自由経済を守る」などといっても、周りの、ほとんどすべてが自由経済、市場経済化し、市場経済が世界全体を包み込む原理になってしまった以上、いったい誰から自由経済を守るのか、ということになるでしょう。冷戦構造の崩壊、旧社会主義圏の崩壊は、同時に、日本の“経団連的論理”の崩壊を意味することにたってしまったのです。当然、日本の経済界は新たな論理を構築する必要に迫られることになりました。

 しかし、望まれる新たな論理は次のような複雑は条件を満たしたものとして立ち現れる必要があったのです。何よりもまずかつての日米貿易摩擦のように、アメリカの国益に真っ向うから逆らうものであってはならないこと。アメリカ主導のグローバリズム(国際化)の波に棹さすものであってはならないということです。次に国内では、過去の官主導・行政独裁の政治・経済体制が、すでに限界と矛盾を露呈しつつあるなか、官僚に対する国民の反発は急激に高まっており、したがって新しい論理もそうした「反官僚」感情への同調、つまり官僚への国民の反感と反発に応える方向性に沿ったものになっている必要があったでしょう。

 それにもまして、新しい論理は何よりも昨今、急速に高まりつつある「市民主義」への対抗力を十分に備えたものでたければならなかった。市民主義というのは経済の領域に関していえば、企業行動を「市民社会的規制」のもとにおく、という思潮です。市民主義は、地球環境問題に限らず、街づくりから安全問題まで、広範な社会的責任を企業に迫る体質のものであり、財界からすれば、社会的コストの内部化というさらなる負荷を企業に求める「市民主義」への警戒はきわめて強いものがあったわけです。市民社会的規制も含むあらゆる規制の撤廃、つまり「例外なき規制緩和」という言葉こそ、以上に述べてきたような事情の集約的表現であったことがよく理解できるのではないでしょうか。

 こうして「市民主義」に対峙できる「市場主義」が時代の思潮として、日本経済の主流をなすような財界人の世界に、激しく台頭することになりました。「市場主義」こそ、以上に述べてきたような、すべての条件に適合していたからにほかなりません。それはまことに力強い大衆説得力をも兼ね備えた学説であり、反官僚、自由、開放、自立の代名詞として押し立てるのにもっとも好都合の思潮でもあったからです。加えてバブル崩壊後の、深刻な不況からの脱出を願う中小零細な企業家たち、また一般サラリーマンの人々への説得性においても抜群の力を発揮する思潮でした。当初、規制緩和が見事な「万能論」として登場してきたのはこういう歴史的背景によっていたということができます。この戦列にただちにマスコミが馳せ参じたことは繰り返すまでもありません。規制緩和はマスコミにとってもまたお誂え向きのスローガンでした。やがて運動は「改革」のキャッチフレーズのもとに集約化され、高揚し、結集されていくのですが、いまにして振り返ってみれば「改革」の真意とは何であったのか。(「すり替えられた規制緩和 内橋克人 より)

 彼らは、ニュージーランドの一三年にわたる規制緩和は成功だったと主張します。しかし、誰のための成功だったかは語りません。ニュージーランドの規制緩和は、資産家と、企業と、外国投資家のエリート層にとっては、間違いなく成功でした。しかしニュージーランドの一般大衆にとっての規制緩和の実態は、これとはまったく異なったものでした。規制緩和の犠牲になった人々は、大きな対価を支払わされました。とくに、マオリ族(ニュージーランドの先住民)、女性、子どもたち、高齢者は深刻でした。しかし、被害を受けたのはこれらの人々だけではなく、社会そのものが犠牲になったのです。伝統的な価値観は退けられ、共同体意識は利己的な個人主義にとって代わられました。
 聞くところによると、現在日本では規制緩和への大きな力が働いていて、多くの人々は規制緩和を良いことだと信じているようです。とくに、官僚があまりに力を持ち過ぎていると大方の人々は考えています。しかし、大切なことは規制緩和とは官僚から市民に権力を移すことではないということを理解することです。それは、社会のエリート層の集団内での権力の移動であり、個人や市民のコントロールの及ばない経済エリートと世界市場の手に権力を与えることを意味しているのです。規制緩和は市民の力を強めるのではなく、資本と市場を強化するのです。これこそがニュージーランドの経験でした。(「ニュージーランドで何が行われたか」 ジェーン・ケルシー)
(岩波ブックレット458『規制緩和ー何をもたらすか』 内橋克人,ジェーン・ケルシー,大脇雅子,中野麻美 1998年より)

2010.10.04 11:28 URL | 桃色クジラ #- [ 編集 ]

桃色クジラさん

このサイトですね。
http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/20030310MSDokUchihashiBassui.htm

『規制緩和ー何をもたらすか』はアマゾンで中古品が入手できるようです。
http://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/4000033980/ref=dp_olp_used?ie=UTF8&condition=used

実は、桃色クジラさんのコメントを読んで、手に入れたくなり検索して早速注文してみました。
引用された部分を読むだけでも、内橋氏の慧眼に深い感銘を受けました。まさに、私も思っていながらうまく表現できないことを論理的にしかもわかりやすく述べてくれています。
(それこそ池田香代子さんにも読んでもらいたいです)

それにしても、内橋氏が「共生の大地」で書かれた「いま、この現代日本に本格的な『使命共同体の時代』が到来しようとしている」の「いま」が15年たっても「いま」になっているとは思えないのが現状です。

2010.10.04 15:10 URL | ぽむ #mQop/nM. [ 編集 ]

市民の署名で 解散総選挙になるかもしれない名古屋。名古屋市長も再選挙になる。
河村市長が 選挙で 勝って、新しい市議会ができるのだろうか?それで 河村市長が目標とする議員の給料削減して 市民の減税が
本当に実現できるのか?政治に詳しくない私には よくわからない。名古屋市民が この事実を把握してなかったら 署名は 集まったけれど こんな考えもある。ずばり 河村市長 はずし。名古屋市民の私は 税金下がる方がいい やれるなら やっていただきたい。

2010.10.04 21:13 URL | ラン&村石太星人&ウリコ #naX7fG5Y [ 編集 ]

選挙というものは、もともと意識しているいないにかかわらず自分が幸せになると思うほうに入れるものです。
今回の名古屋でも、議員の家族や関係者は石田氏にいれたはず。
それでいいと思うし、河村氏に入れた人も同じ。
どちらに入れたから良心的だとか正しい、悪いなどという性質の物ではない。
それは選挙後に市政、県政が行われたあとではっきりするもの。
投票者はどちらも自分が正しいと思っていれているのです。
結果責任は有権者が取るに決まっている。
この流れが、自分にとって都合が悪い人は広がらないよう予防線を張るでしょう。
愛知、名古屋の選択はもう決まったのです。
どうなるかは歴史が決めることです。

2011.02.13 09:04 URL | 愛知県民 #cYPQwWac [ 編集 ]

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2012.02.19 22:02  | # [ 編集 ]













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