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きまぐれな日々

 今月は上旬に体調を崩し、仕事はずっとやっていたもののネットは不活発で、それどころかもっとも調子が悪かった時期には普段見ている夜のニュース番組(報道ステーションを途中まで見て、11時10分くらいになったらNews23に切り替えるのが近年のパターン。両番組ともすっかりダメになってしまったが)もろくに見ないで、おもに休養に充てていた。体調は上旬の後半を底に、徐々に回復して今に至っているが、例年なら10〜11月は1年でももっとも調子が良いのに、今年は散々だった。

 その間、『kojitakenの日記』もすっかり更新がまばらになってしまったが、このところ何回か更新した時には、カルロス・ゴーンの逮捕を取り上げた。こちらではそのゴーン逮捕は中心的な話題としては取り上げないが、この件で一番失望させられたのは、1999年のゴーン来日の歴史的意義、つまりグローバル資本主義の日本への本格的な侵入に対する批判的な視座を欠く「リベラル・左派」があまりにも多いことだった。彼らの多くはゴーン逮捕を「安倍政権が不都合なことから目をそらさせるための『スピン』」だと決めつけて、得意の陰謀論を開陳して内輪ウケしていた。彼らの堕落と頽廃ぶりを見ながら、ああ、これでは「リベラル・左派」が負け続けるはずだよなあと痛感させられた。それと同時に、「リベラル・左派」がこのざまだから、小沢一郎が安心して小池百合子(昨年)やら橋下徹(現在)とつるもうとするんだよなあとも思った。

 今回は、3連休の後半に読んだ、堀田善衛、司馬遼太郎、宮崎駿の3人による鼎談本『時代の風音』を読んで思ったことを書く。これは1992年にUPUという会社から出版された本で、図書館に置いてあったのを借りて読んだ。調べてみると、1997年に朝日文庫入りしたらしい。UPUとは東京大学新聞OBの故江副浩正が創設したリクルートの向こうを張って、京都大学新聞のOBが創設した就職斡旋会社らしい。鼎談は二度行われて『エスクァイア日本版』1991年3月号と同1992年3月号に掲載され、それに3人の著者が手を加えて単行本化された。ソ連崩壊の前後に行われた鼎談ということになる。なお司馬遼太郎は1996年に73歳で亡くなり、堀田善衛は1998年に80歳で亡くなった。

 鼎談は、宮崎駿が堀田善衛と司馬遼太郎の2人の話を聞きたい、と言ったことをきっかけに実現したという。宮崎駿はあとがきに「心情的左翼だった自分が、経済繁栄と社会主義国の没落で自動的に転向し、続出する理想のない現実主義者の仲間にだけはなりたくありませんでした。自分がどこにいるのか、今この世界でどう選択していくべきか、おふたりなら教えていただけると思いました」(前掲書270-271頁)と書いている。

 この言葉からも想像される通り、鼎談とは言っても宮崎駿は主に聞き役で、堀田善衛と司馬遼太郎の2人が主にしゃべっている。「司馬史観」で知られる司馬遼太郎はむろんのこと、堀田善衛もこの鼎談を読む限り左翼では全くなく、それどころか鼎談を読む限りではノンポリに近い印象だ。堀田善衛は「誰それは左翼だからこんなことを言ったら怒られた」などと言っている。ただ、『文藝春秋』1990年12月号に掲載された寺崎英成の「昭和天皇独白録」について、堀田善衛が「私はあんなの読まない、言い訳は聞きたくないですね」(同174頁)と発言し、それに対して司馬遼太郎が中学4年生の頃(1939年頃)に美濃部達吉の憲法論を教わったと言いながら「基本的にいうと天皇に責任なし。美濃部憲法解釈通りです」(同174頁)と反論しているあたりに、2人の政治的スタンスの違いが少し出ていた。ここが、鼎談の中で堀田善衛と司馬遼太郎の意見が食い違った唯一の箇所だ。

 だが、この本をブログ記事に取り上げようと思ったきっかけはそこではない。私の意見とはむしろ遠いはずの司馬遼太郎の発言だった。そのくだりを以下に引用する。

 日本が大人になる時

 宮崎 これから三〇年、日本の人口は減りはじめますから、攻撃性を失うんじゃないかと期待しているんです。そして、この島で緑を愛して、慎ましく生きる民族になってくれないかなと。根拠のない妄想ですが……。

 司馬 ひょっとすると人口が減る間に、外国系の人が日本人の構成員としてはいってきますね。われわれの二〇パーセントくらい外国系がはいると思うのです。二〇年後くらいに。
 憲法下にあって万人が平等という大原則がありますから、日本も小さな合衆国になるでしょう。そうなることをいまから覚悟して、飲みがたき薬を飲む稽古をしなければならない。つまり、決して差別をしてはならない。差別はわれわれの没落につながります。

(堀田善衛、司馬遼太郎、宮崎駿『時代の風音』(UPU, 1992)181-182頁)


 このくだりを読んで、「あちゃあ、やっちまったな、ニッポン。『嫌韓・嫌中』をやらかして大人になり損ね、没落しちまったな」と思ったことはいうまでもない。

 振り返れば、小林よしのりが漫画で「嫌韓・嫌中」を煽ったのはこの本が出てしばらく経った90年代後半だった。その頃から日本経済は傾き、今でいう「ネトウヨ」たちは過去の栄光にすがろうとして「嫌韓・嫌中」の度合いを強め、最近では「日本スゴイ」を連呼するようになった。日本の没落と周辺国に対する差別が同時に進んだと言って良い。

 特に、前回の記事で取り上げた安倍晋三の訪中で、安倍が習近平に対して「競争から協調へ」などの3原則を提示するなどして中国を攻撃しづらくなると、ネトウヨや右翼メディアは中国への反発を強めるのではなく、韓国を集中攻撃するようになった。夕刊フジなどでは「日韓断交」の大見出しが踊るが、仮に日韓が断交したとして、日本の味方をする国など世界のどこにあるだろうか。ネトウヨや右翼メディアや安倍晋三が頼りとするアメリカだって味方してくれないに違いない。

 そんな状態なのに、朝日新聞なども牧野愛博という記者が先頭に立って韓国攻撃に加わっている。あるいは野党第一党の党首である枝野幸男も韓国批判のコメントを出す。枝野は、世論調査の分析に定評のある三春充希(はる)氏のツイートに注目するくらい「風を読もう」とする傾向の強い政治家だが、日本中が「反韓」の言論一色に染め上げられている状態(朝日新聞以外ではTBSのサンデーモーニングなんかも実にひどい惨状を呈している)だから、安心して韓国批判をやるんだろうと私は思っている。

 これぞ「崩壊の時代」の実相だ。前の「崩壊の時代」は1945年の敗戦で終わったが、その頃について、再び司馬、堀田、宮崎3氏の鼎談から以下に引用する。

 司馬 (前略)二つめに思ったのは、なんでこんなばかな国に生まれたんだろう、ということでした。指導者がおろかだというのは、二十二歳でもわかっていました。しかし、昔の日本は違っただろうと思ったんです。その昔が戦国時代なのか、明治なのか知りませんが、昔は違ったろうと。しかし二十二歳のときだから、日本とは何かなんぞわからない。物を書きはじめてからは、すこしずつわかってきたことどもを、二十二歳の自分に対して手紙を出しつづけてきたようなものです。

 堀田 それは司馬さん、私なんかも完全に同じですよ。これまでやってきた仕事は、ずっと戦時中の自分への手紙を書いていたようなものですよ。私の『ゴヤ』も、『方丈記私記』も、『定家明月記私抄』も戦時中に考えたテーマなんですね。いま書いているモンテーニュ(『ミシェル城館の人』)になって初めて解放されましたね。こんな予期しない年齢まで生きたせいもありまして。

 司馬 いまの人は手紙を書く必要がないから、そのぶんだけ前に進むでしょう。だから、ひじょうに幸いだと思うんですね。

 宮崎 私は敗戦後、学校とNHKのラジオで、日本は四等国でじつにおろかな国だったという話ばっかり聞きました。実際、中国人を殺した自慢話をする人もいましたし、ほんとうにダメな国にうまれたと感じていたので、農村の風景を見ますと、農家のかやぶきの下は、人身売買と迷信と家父長制と、その他ありとあらゆる非人間的な行為が行なわれる暗闇の世界だというふうに思えました。

(堀田善衛、司馬遼太郎、宮崎駿『時代の風音』(UPU, 1992)180-181頁)


 現在、外国人労働者が特に多いのは農家や漁村であって、前者は茨城県、後者は広島県が全国一多いという。昨今は日本人労働者も滅茶苦茶な働き方を強いられて過労死や自殺に追い込まれる報道が後を絶たないが、日本人労働者に対してさえそうなのだから、外国人労働者に対しては想像を絶する「非人間的な行為が行われる暗闇の世界」が現に存在しているに違いない。

 高度成長期にも自民党政府は好き勝手なことをやっていたが、それでもまだ行政と使用者との間には一定の緊張関係があった。今の安倍政権にはそれさえもない。戦時中と同じくらい今の日本の「指導者がおろか」であるとは、安倍晋三や麻生太郎や菅義偉を日々見ていれば誰しも薄々と、あるいははっきりと思っていることだろう。ただ、今はそれを口にしづらい空気が権力側によって形成されており、その空気の醸成に自発的に協力する人たちが多い。それは戦争中も同じだったに違いない。

 また、人々が将来「手紙を書く必要」がある時代になってしまった。「崩壊の時代」は、今年もまた一段とその深刻さを増した。
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