11年前、2007年の6月は、「消えた年金」問題が発覚して、4月・5月に支持率を持ち直しつつあった第1次安倍内閣が一気に奈落に突き落とされるきっかけになった月だった。
その11年後の2018年6月は、末期症状を呈しつつあるかに見えた安倍内閣支持率が、2015年と昨年、2017年のそれぞれ8月に続いて、三たび、あるいは四たびだろうか、支持率をV字回復させるという痛恨の月となった。現時点で既に、9月の自民党総裁選で安倍晋三が3選されることはほぼ不可避の情勢となった。
この1か月では新潟県知事選と米朝首脳会談が大きかった。
後者では安倍晋三は何もしなかった、というより何もできなかったのだが、NHKや読売、産経といった御用メディア、ことに大きなできごとになると頼る人々の多いNHKが「外交の安倍」という大キャンペーンを打って「大本営発表」を垂れ流した悪影響がもろに出た。これは、それに先立つ南北首脳会談で安倍が「蚊帳の外」に置かれていたとする正当な指摘に対して官邸が大々的な反撃に打って出たものとみるほかない。官邸の御用メディアコントロールといえば、文科省元事務次官の前川喜平を陥れようとした昨年6月の読売新聞の報道に典型的に見られるように、(もともと右翼の跳ねっ返りを喜ばせるためのメディアだと誰もが知っている産経新聞はともかく)、NHKや読売といった世間一般では(私は全くそうではないが)比較的信頼されている大メディアを使って臆面もなくフェイクニュースを垂れ流させるという由々しき段階に達した。その手口のおぞましさは、安倍晋三が政権をトリモロした2012年以前には想像もつかなかったほど厚かましく破廉恥そのものだ。中でも最悪なのは岩田明子の「解説」であって、あれはもはや朝鮮中央テレビを笑うことなど全くできないレベルにある。
この御用メディアの大キャンペーンによって、昨年来「人柄が信用できない」とする人が増えて、しばらく前に謎の「失脚」をした木下ちがや(「こたつぬこ」)氏あたりが、もう以前のように内閣支持率が回復することはないと予言していた安倍内閣支持率が、木下氏の楽観的予想に反してまたしても「V字回復」を遂げてしまったのだった。
私が連想するのは、1944年10月に突如大々的垂れ流された、台湾沖航空戦で日本軍が大戦果をあげたという「大本営発表」だ。久々の「日本軍の勝利」に当時の日本国民は沸き返ったというが、実際には日本軍の戦果など何もないただの虚報だった。今回の米朝首脳会談をめぐるNHKや読売の報道は実質的にそれと同じだ。二度目は笑劇として繰り返されている「崩壊の時代」の崩壊はもうここまできた。
安倍晋三がここまでメディア支配を完成させるまでには、思えば長い年月があった。古くは2001年のNHK番組改変問題にまで遡れる。これを朝日新聞が報じたのは2005年だったか。しかし朝日は腰砕けとなって安倍と故中川昭一に謝罪してしまった。その間に魚住昭が安倍と中川からの圧力をあったことを立証する記事を月刊『現代』に発表したにもかかわらず、不可解な屈服だった(朝日は同じ誤りを2014年の「慰安婦報道」撤回で繰り返した)。
その後、一時は政権を投げ出した安倍晋三は政権に返り咲くと、百田尚樹をNHK経営委員に、次いで籾井勝人をNHK会長に次々と送り込んで、NHKの報道を「大本営化」させてしまった。私はもう数年前からテレビのチャンネルをNHKに合わせることはほとんどなくなっている。ここ数年のNHKの報道に対する私の信頼度はゼロなのだが、このような人間では今の日本ではごく少数派なのだろうと自覚している。メディアを支配した権力の暴走はとどまるところを知らない。読売はいつだったか前記木下ちがやが指摘した通り、もはや渡邉恒雄(ナベツネ)はグリップしていないと見られるが、エピゴーネン(追随者)は常に本家本元よりもたちが悪いという私の経験則の通り、ナベツネ全盛時代でもみられなかったほど堕落してしまった(その代表例が前記の前川喜平をめぐる虚報だ)。
ところで、腐敗した政権の暴走が末期的な段階に達しているにもかかわらず、「野党共闘」の迷走はもはやお花畑の域に達している。新潟県知事選の敗因を総括せよとは、たとえば世論調査の分析で定評のある「はる」氏や、私のあまり好まない菅野完なども言っているが、「野党共闘」の中核をなす指導者たち、具体的には志位和夫、小池晃、枝野幸男、辻元清美、岡田克也といった人たちの言動からは総括どころか反省の色さえみられない。
特に頭にくるのは労働の規制緩和の総仕上げともいうべき「高プロ」反対のアピールが「モリカケ」問題追及に比べて力が入っていないように見えることと、それと対をなすかのように、新潟県知事選でもみられたように、こともあろうに小泉純一郎と「共闘」している惨状だ。
高プロが世紀の悪法であることは言うを俟たないが、その前段階として派遣労働の対象拡大という労働の規制緩和があった。小泉純一郎はそのうち、製造業への派遣労働の解禁を定めた2003年の派遣法改定(改悪)に総理大臣として関与したゴリゴリの新自由主義者だ。首相在任中に竹中平蔵と組んだ悪行は実にひどかったが、そんな小泉純一郎と「脱原発」で共闘しているのが今の「野党共闘」だ。
新潟県知事選の直後に、東京電力が同社の福島第二原発の4基を廃炉にする方針を表明したが、東電がこれを知事選の前ではなくあとに表明したのはむろん意図的だ。投票前に表明した場合、東電が保有する原発で残るのは柏崎刈羽原発だけとなるため、自動的に原発が知事選の争点になる。それを配慮したものであることは明らかだ。
逆にいえば、2011年の東日本大震災字に起きた東電福島第一原発事故(以後、東電原発事故)以来、「脱原発」のベクトルの方向を持つ惰性力が強く働いており、それに権力ずくで対抗しようとしているのが安倍政権と経産省だといえる。
米山隆一が勝った2016年の新潟県知事選では、その「空気」というか惰性力の強さを読めなかった自公候補の森民夫がうっかり原発を争点にしてしまったとも聞く。今回の花角英世は極右人士ばかり応援に仰ぐようなとんでもない人間だが、森民夫が犯した誤りは繰り返さなかった。「野党共闘」側は争点隠しだというが、そもそも不利な土俵に自分から上がる馬鹿はそうそういない。「脱原発シングルイシュー」あるいは「脱原発プラス『モリカケ』」で自公候補に勝てるという「野党共闘」側の甘い見通しこそ批判されなければならない。
しかし、「民主集中制」の共産党と「元祖新保守主義・元祖新自由主義」の象徴にしてかつては多数の[信者」を抱えていた小沢一郎、それに「下からの(草の根)民主主義」というのはどうやら看板だけだったらしいことがはっきりしてきた、小沢と同根ではないかとさえ疑われる立憲民主党とが組んだ「野党共闘」にはどうやら批判に耳を傾けるつもりは毛頭ないらしい。ある意味安倍政権と似た体質を持っているともいえる。「野党共闘」内では、2013年に自由党の前身である生活の党が自民・維新とともにカジノ法案を共同提出した過去を問う議論さえタブーになっている。一説によると、当時生活の党がこれに加わったのは、前年の衆院選で袖にされた橋下徹との連携になお未練を持っていたからではないかともいわれる。橋下といえば、小泉純一郎に優るとも劣らない新自由主義者だ。
こんなざまだから、「野党共闘」は高プロ反対の世論を盛り上げることさえままならず、敗北に敗北を重ね続けるのかと思ってしまう。
2018年も早くも半分が過ぎようとしているが、年の前半はますます暗さを増す一方だった。
その11年後の2018年6月は、末期症状を呈しつつあるかに見えた安倍内閣支持率が、2015年と昨年、2017年のそれぞれ8月に続いて、三たび、あるいは四たびだろうか、支持率をV字回復させるという痛恨の月となった。現時点で既に、9月の自民党総裁選で安倍晋三が3選されることはほぼ不可避の情勢となった。
この1か月では新潟県知事選と米朝首脳会談が大きかった。
後者では安倍晋三は何もしなかった、というより何もできなかったのだが、NHKや読売、産経といった御用メディア、ことに大きなできごとになると頼る人々の多いNHKが「外交の安倍」という大キャンペーンを打って「大本営発表」を垂れ流した悪影響がもろに出た。これは、それに先立つ南北首脳会談で安倍が「蚊帳の外」に置かれていたとする正当な指摘に対して官邸が大々的な反撃に打って出たものとみるほかない。官邸の御用メディアコントロールといえば、文科省元事務次官の前川喜平を陥れようとした昨年6月の読売新聞の報道に典型的に見られるように、(もともと右翼の跳ねっ返りを喜ばせるためのメディアだと誰もが知っている産経新聞はともかく)、NHKや読売といった世間一般では(私は全くそうではないが)比較的信頼されている大メディアを使って臆面もなくフェイクニュースを垂れ流させるという由々しき段階に達した。その手口のおぞましさは、安倍晋三が政権をトリモロした2012年以前には想像もつかなかったほど厚かましく破廉恥そのものだ。中でも最悪なのは岩田明子の「解説」であって、あれはもはや朝鮮中央テレビを笑うことなど全くできないレベルにある。
この御用メディアの大キャンペーンによって、昨年来「人柄が信用できない」とする人が増えて、しばらく前に謎の「失脚」をした木下ちがや(「こたつぬこ」)氏あたりが、もう以前のように内閣支持率が回復することはないと予言していた安倍内閣支持率が、木下氏の楽観的予想に反してまたしても「V字回復」を遂げてしまったのだった。
私が連想するのは、1944年10月に突如大々的垂れ流された、台湾沖航空戦で日本軍が大戦果をあげたという「大本営発表」だ。久々の「日本軍の勝利」に当時の日本国民は沸き返ったというが、実際には日本軍の戦果など何もないただの虚報だった。今回の米朝首脳会談をめぐるNHKや読売の報道は実質的にそれと同じだ。二度目は笑劇として繰り返されている「崩壊の時代」の崩壊はもうここまできた。
安倍晋三がここまでメディア支配を完成させるまでには、思えば長い年月があった。古くは2001年のNHK番組改変問題にまで遡れる。これを朝日新聞が報じたのは2005年だったか。しかし朝日は腰砕けとなって安倍と故中川昭一に謝罪してしまった。その間に魚住昭が安倍と中川からの圧力をあったことを立証する記事を月刊『現代』に発表したにもかかわらず、不可解な屈服だった(朝日は同じ誤りを2014年の「慰安婦報道」撤回で繰り返した)。
その後、一時は政権を投げ出した安倍晋三は政権に返り咲くと、百田尚樹をNHK経営委員に、次いで籾井勝人をNHK会長に次々と送り込んで、NHKの報道を「大本営化」させてしまった。私はもう数年前からテレビのチャンネルをNHKに合わせることはほとんどなくなっている。ここ数年のNHKの報道に対する私の信頼度はゼロなのだが、このような人間では今の日本ではごく少数派なのだろうと自覚している。メディアを支配した権力の暴走はとどまるところを知らない。読売はいつだったか前記木下ちがやが指摘した通り、もはや渡邉恒雄(ナベツネ)はグリップしていないと見られるが、エピゴーネン(追随者)は常に本家本元よりもたちが悪いという私の経験則の通り、ナベツネ全盛時代でもみられなかったほど堕落してしまった(その代表例が前記の前川喜平をめぐる虚報だ)。
ところで、腐敗した政権の暴走が末期的な段階に達しているにもかかわらず、「野党共闘」の迷走はもはやお花畑の域に達している。新潟県知事選の敗因を総括せよとは、たとえば世論調査の分析で定評のある「はる」氏や、私のあまり好まない菅野完なども言っているが、「野党共闘」の中核をなす指導者たち、具体的には志位和夫、小池晃、枝野幸男、辻元清美、岡田克也といった人たちの言動からは総括どころか反省の色さえみられない。
特に頭にくるのは労働の規制緩和の総仕上げともいうべき「高プロ」反対のアピールが「モリカケ」問題追及に比べて力が入っていないように見えることと、それと対をなすかのように、新潟県知事選でもみられたように、こともあろうに小泉純一郎と「共闘」している惨状だ。
高プロが世紀の悪法であることは言うを俟たないが、その前段階として派遣労働の対象拡大という労働の規制緩和があった。小泉純一郎はそのうち、製造業への派遣労働の解禁を定めた2003年の派遣法改定(改悪)に総理大臣として関与したゴリゴリの新自由主義者だ。首相在任中に竹中平蔵と組んだ悪行は実にひどかったが、そんな小泉純一郎と「脱原発」で共闘しているのが今の「野党共闘」だ。
新潟県知事選の直後に、東京電力が同社の福島第二原発の4基を廃炉にする方針を表明したが、東電がこれを知事選の前ではなくあとに表明したのはむろん意図的だ。投票前に表明した場合、東電が保有する原発で残るのは柏崎刈羽原発だけとなるため、自動的に原発が知事選の争点になる。それを配慮したものであることは明らかだ。
逆にいえば、2011年の東日本大震災字に起きた東電福島第一原発事故(以後、東電原発事故)以来、「脱原発」のベクトルの方向を持つ惰性力が強く働いており、それに権力ずくで対抗しようとしているのが安倍政権と経産省だといえる。
米山隆一が勝った2016年の新潟県知事選では、その「空気」というか惰性力の強さを読めなかった自公候補の森民夫がうっかり原発を争点にしてしまったとも聞く。今回の花角英世は極右人士ばかり応援に仰ぐようなとんでもない人間だが、森民夫が犯した誤りは繰り返さなかった。「野党共闘」側は争点隠しだというが、そもそも不利な土俵に自分から上がる馬鹿はそうそういない。「脱原発シングルイシュー」あるいは「脱原発プラス『モリカケ』」で自公候補に勝てるという「野党共闘」側の甘い見通しこそ批判されなければならない。
しかし、「民主集中制」の共産党と「元祖新保守主義・元祖新自由主義」の象徴にしてかつては多数の[信者」を抱えていた小沢一郎、それに「下からの(草の根)民主主義」というのはどうやら看板だけだったらしいことがはっきりしてきた、小沢と同根ではないかとさえ疑われる立憲民主党とが組んだ「野党共闘」にはどうやら批判に耳を傾けるつもりは毛頭ないらしい。ある意味安倍政権と似た体質を持っているともいえる。「野党共闘」内では、2013年に自由党の前身である生活の党が自民・維新とともにカジノ法案を共同提出した過去を問う議論さえタブーになっている。一説によると、当時生活の党がこれに加わったのは、前年の衆院選で袖にされた橋下徹との連携になお未練を持っていたからではないかともいわれる。橋下といえば、小泉純一郎に優るとも劣らない新自由主義者だ。
こんなざまだから、「野党共闘」は高プロ反対の世論を盛り上げることさえままならず、敗北に敗北を重ね続けるのかと思ってしまう。
2018年も早くも半分が過ぎようとしているが、年の前半はますます暗さを増す一方だった。
スポンサーサイト