きまぐれな日々

 参院選公示後最初の週末となった金曜日(24日)、新聞各紙が一斉に改憲政党の議席が3分の2に迫るという情勢調査結果を発表したが、同じ日にイギリスの国民投票でEUからの離脱が決まった。このニュースは世界に大きな衝撃を与えた。日本も例外ではなく、同日の日経平均株価は1300円近くも下がって1万5千円を割り込み、円高が急激に進んで一時99円台をつけた。

 先般のサミットで、日本国首相の安倍晋三が「世界経済はリーマン・ショック前に似ている」と発言して失笑を買ったが、皮肉にも世界各国の株価の下落はリーマン・ショック並みだった。

 もちろん、2008年のリーマン・ショックは、その前年から不動産バブルの崩壊に端を発したサブプライムローン問題が大きな金融危機につながるのではないかとずっと警戒されていた。つまりリーマン・ショックとは、リスクが徐々に高まった末に、一部の論者からはっきり懸念が表明されていた危機に到ったものであって、十分予測されていたといえる。なお、当時は麻生政権時代だったが、日本の政財界は「そんな事態には至らない」とずっと言い張っていて、予測を大きく外したのだった。

 イギリス、特にイングランドの内向指向が突沸したとでもいうべき今回のイギリスのEU離脱決定とはリーマン・ショックとは経緯も理由も全然違う。だからサミットでの安倍晋三の発言がイギリスのEU離脱決定によって正当化される理屈など全く成り立たない。

 ただ、イギリスのEU離脱も、一昨年にスコットランド独立の住民投票で否決された頃から可能性として取り沙汰されていたものではあった。欧州各国で内向き指向が強まる中、スコットランドには「イギリスからは独立したいがEUにはとどまりたい」と考える人たちが少なからずいて、仮にイギリスがEUを離脱すると決まったら、スコットランドで再度独立運動が起き、その時には独立派がEU加盟を求め、これを争点にして残留派と戦うことになるだろうと指摘する向きがあったことを私は覚えている。

 日中及び日韓関係やインドとパキスタンの関係、あるいはかつての仏独関係など、隣国をもっとも敵視するのは洋の東西を問わず「国民」の性というものらしい。そして、隣人への反感と、より大きな共同体への依存とは裏腹の関係にある。だから、独立派が住民投票にこぎ着け、EU加盟を争点として住民投票を再び行った場合、今度は独立が選択される可能性が極めて高いと思う。そうなると、イングランドとスコットランドの緊張が高まることは目に見えている。たとえばスコットランドは当然ながら自国の「非核化」を求め、核施設はイングランドが引き取れと強くイングランドに要求するだろう。今後起きることが予想されるそうした事どもを考えると、今回のイギリス国民が賢明な判断をしたとは私には全く思われない。

 しかし、EUにも大きな問題があることもまた事実だ。事実上ドイツが牛耳り、フランスがそれに付き従っているEUは、加盟国に緊縮財政を強要しては加盟国の経済を悪化させ、加盟国内の格差を拡大させている。それが今回のイギリスのEU離脱決定につながったことは明らかだろう。

 問題は特にドイツにあり、ことに保守政治家アンゲラ・メルケルの経済極右ぶりはまっとうなリベラルであれば批判して当然ではないかと思う。

 しかし、ガラパゴス化した日本の「リベラル」の一部には、たとえば上述のサミットでの安倍晋三を批判する際にも、メルケルのコメントを引き合いに出す者がいた。私はそういう記事を見るたび、ああ、また「リベラル」が安倍政権の経済政策を経済軸上の「右」側から批判してるんだな、そんなこといつまでやってんだ、これじゃ当分自民党(安倍晋三)に勝てないよなあ、などとと思っていた。

 もちろんメルケル(ドイツ)だけではなく、今回の国民投票の結果に大きく「貢献」したとされるイングランドの白人労働者もまた浅はかであって、彼らも批判されなければならない。彼らは、一方で「搾取される側」の人々かもしれないが、移民を「差別し、抑圧する側」の人々という側面もある。彼らの言いたいのは「(強い)イギリスを取り戻す」ということであって、これは安倍晋三の「日本をトリモロス」と響き合う目標であることはいうまでもない。

 今回の株価暴落で、一昨年の10月(衆院選の2か月前!)に年金運用先に占める株式の比率が大幅に引き上げられた年金がまたしても大きなダメージを蒙った。安倍晋三は世界経済を「リーマン・ショック前」だと言いながら、年金運用先に占める株式の比率はそのままだったのである。政権批判側にはこの点を突いて安倍政権の批判を行う向きもあるし、それは当然の批判であるとも思う。

 しかし、この批判が功を奏する可能性は低いように思う。「経済が危なくなると自民党」という、実際には根拠の全くない思考(というより、何が起きても自民党にすがりつくというべきかもしれないが)は、すっかり惰性として定着した感がある。2013年の特定秘密保護法案や昨年の安保法案の審議中には、いっとき安倍内閣の支持率が下がっても、何ヶ月か経つとすぐに元に戻ってしまうパターンが続いている。しかも、「イギリスを取り戻す」今回の選択自体は安倍政権支持者の思考と親和性が強い。

 結局、イギリスのEU離脱決定が与える日本の参院選への影響は、本来は許してはならないことであるにもかかわらず3年以上もずっと続いている安倍晋三の独裁をさらに強める方向に作用するのではないかと強く懸念する今日この頃なのである。
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 このところずっとそうなのだが、月の半ば、特に5日から15日頃にかけてあまりネットに時間をとれない。今月は特にひどくて、ここ数年では最悪の状態だった。今ではこのブログよりもずっとアクセス数が多くなった(というよりこのブログのアクセス数が減っていったという方が正しいが)「kojitakenの日記」さえろくに更新できない日々が続いた。と言いながら、実は日曜日(12日)に千葉のQVCマリンフィールドにプロ野球を見に行っていたのだが(ひいきのヤクルトはロッテに大敗した)、そのプロ野球観戦と、それに出かける直前に「kojitakenの日記」に駄文を2つ書いたこと以外は、私としてはまことに珍しいことだが、ほぼ仕事オンリーの日々が続いた。プロ野球の試合はデーゲームだったが、それが終わると日曜日でも夜遅くまで開館している東京都内某区の図書館に行って閉館間際まで仕事の準備をして、月曜日から昨日までは昼食もコンビニ弁当をつまみながら仕事をやる始末で、週明けからの3日間はネットはおろか本も読めなかった。ただ夜に遅い夕食をとりながら報ステの後半とNEWS23を見る時間くらいはあったが。その仕事漬けの日々に、昨日ようやく一段落つけて、久々にブログに記事を書いた次第だ。

 前振りが長くなったが、NEWS23では、異様なほど東京都知事・舛添要一の問題に長く時間を割いていた。この番組は、先週末には市川海老蔵夫人の小林麻央氏の不運な進行性乳癌罹患にやはり異様に長い時間を割くなど、単にキャスターが岸井成格から星浩に代わっただけにとどまらない番組の劣化が目を覆うばかりであるように思われるが、TBSだけではなく朝日新聞も連日一面トップは舛添要一で、一昨日(14日)の朝刊一面トップの見出しが黒字白抜きで最上段横書きの「舛添知事 辞職不可避」とあっては、これがいわゆる「新聞辞令」というやつか、舛添はもう持たないなと思った。結局舛添は昨日辞意を表明した。

 報じられた舛添の公私混同ぶりは確かにひどいといえばひどいもので、それが問題視されれば退陣不可避となったのは止むを得ないとは思う。ただ、いくつか気になることがある。

 先月のことだが、例によって仕事の山がピークを越えた下旬の週末から月曜日にかけて、2泊3日で本物の山に歩き(登り)に行っていた。その山から下りて、麓で地元のおじちゃんおばちゃんたちが雑談していたのを小耳に挟んだ時、おばちゃんが出し抜けに「舛添さんみたいなもんだよねえ」と口にしたのだった。おお、舛添批判はそこまで浸透しているのかと思った。それが5月23日。この時期にはテレビのワイドショーで連日舛添が叩かれていたと推測される。

 ワイドショーが連日舛添を叩き続けると、舛添やめろの声が高まり、最後には自民党も庇い切れずに舛添退陣と相成った。もしかしたら2013年末の猪瀬直樹の時も似たような経緯だったのかもしれないが、今回は自民党の極右の連中が「舛添おろし」をやろうとしたことが発端だったという指摘がある。以前にも「kojitakenの日記」に取り上げたが、政治ブログ「日本がアブナイ!」の5月14日付記事「舛添おろしがスタートか。舛添に問題あるも、石原との扱い方の差に怒」が、リテラの5月9日付記事「舛添より酷かった石原慎太郎都知事時代の贅沢三昧、登庁も週3日! それでも石原が批判されなかった理由」(著者・宮島みつや氏)を引用しながら、自民党極右勢力の動きを批判している。

 ただ、そのリテラの記事中の下記のくだりには違和感がある。以下引用する。

 ご存知のとおり、石原氏は芥川賞選考委員まで務めた大作家であり、国会議員引退後、都知事になるまでは、保守論客として活躍していたため、マスコミ各社との関係が非常に深い。読売、産経、日本テレビ、フジテレビは幹部が石原べったり、「週刊文春」「週刊新潮」「週刊ポスト」「週刊現代」も作家タブーで批判はご法度。テレビ朝日も石原プロモーションとの関係が深いため手が出せない。

 批判できるのは、せいぜい、朝日新聞、毎日新聞、共同通信、TBSくらいなのだが、こうしたメディアも橋下徹前大阪市長をめぐって起きた構図と同じで、少しでも批判しようものなら、会見で吊るし上げられ、取材から排除されるため、どんどん沈黙するようになっていった。

 その結果、石原都知事はどんな贅沢三昧、公私混同をしても、ほとんど追及を受けることなく、むしろそれが前例となって、豪華な外遊が舛添都知事に引き継がれてしまったのである。

(「リテラ」5月9日付記事「舛添より酷かった石原慎太郎都知事時代の贅沢三昧、登庁も週3日! それでも石原が批判されなかった理由」(著者・宮島みつや)より)


 この指摘は、2007年の東京都知事選当時の状況には当てはまらない部分が多い。当時、右寄りの週刊誌として悪評の高い「週刊文春」や「週刊新潮」は確かに石原を批判する記事はほとんど載せなかった。文芸出版社の大手である文藝春秋や新潮社には、確かに「作家タブー」があったといえるかもしれない。

 しかし、2007年当時には、「週刊現代」(講談社)や「週刊ポスト」(小学館)は「サンデー毎日」(毎日新聞社=当時。現在は毎日新聞出版)に負けず劣らず活発な石原批判を展開していた。ブログで政治について書くようになって日の浅かった当時の私は、それらの週刊誌を買ってはブログ記事で紹介することをかなりやったし、当時の週刊誌の石原批判記事は今でも持っている。一部はスキャナーで読み込んでpdf化したのち廃棄したが、現物かpdfかのいずれかは今も手元にあるのだ。そもそも石原など大家に数え入れられるような作家ではなく、私が文庫本を買うようになった1974年には既に多くの文庫本が絶版になっていたありさまだった。その後は弟・石原裕次郎について書いた本や盛田昭夫との共著『「NO」と言える日本』、最近では再評価の進む田中角栄ブームに当て込んだつまらない小説などの際物が時に話題になる程度の四流作家に過ぎない。だから「作家タブー」も文藝春秋や新潮社止まりで、講談社や小学館にまでは及ばないのである。

 むしろ、リテラが「批判できるのは、せいぜい」と書いた朝日新聞や毎日新聞や共同通信やTBSが石原批判をほとんどしなかった。たとえば毎日新聞などは石原批判は「サンデー毎日」に任せていると言わんばかりだったし、朝日新聞に至っては新聞本体でも「週刊朝日」でも石原批判の記事を読んだ記憶はほとんどない。

 それよりも何よりも、東京都民が石原批判に反応しなかった。当時私は四国(香川県)に住んでいたが、東京都民の知り合いが「浅野さん(浅野史郎元宮城県知事)は東京向きじゃないよねえ」と言っていたのを聞いたことがある。おそらく石原に投票したのだろう。都民の感覚とはそんなものかと呆れたものだ。それどころか都民は「佐々淳之が編み出した「反省しろよ慎太郎、だけどやっぱり慎太郎」などというふざけたキャッチフレーズになびいた。「だけどやっぱり慎太郎」キャンペーンの協力者には、その少し前に「9条護憲派」として「リベラル・左派」の熱い応援を受けていた藤原紀香も一役買った。

 私は、あれだけ週刊誌で悪行三昧が書き立てられている石原は負けるのではないか」と期待していたのだが、それは無惨にも裏切られた。これ以降、東京都民のほか、橋下徹を支持し続けた大阪府民及び大阪市民の選択には毎回裏切られ、そのたびに彼らに悪態をつく繰り返しが(既に東京都民になって久しい)今に至るまで続いている。

 石原に限らず橋下徹もそうだが、彼らマッチョ的な指導者を日本人の多数が排除したことは一度もなく、それどころか民主党政権時代に、朝日・毎日・TBSなどを含めて「決められる政治」を求める声が起きた始末だ(朝日新聞社内でその論陣を張った中心的な人物が、現在TBSでNEWS23のアンカーをやっている星浩である。この4月以降のNEWS23の激しい劣化もむべなるかな)。石原に関しては、わずかに1975年の東京都知事選で美濃部亮吉に敗れたことがあるだけだった。石原は、その敗北をトラウマとして長年抱えていたが、1999年に東京都知事選に当選して宿願を成し遂げると、公私混同をやりたい放題だった。この記事で批判した「リテラ」の記事だが、

石原都知事はどんな贅沢三昧、公私混同をしても、ほとんど追及を受けることなく、むしろそれが前例となって、豪華な外遊が舛添都知事に引き継がれてしまったのである。

という指摘だけは文句なく正しい。なにしろ、人間社会に働く最大の力は惰性力(イナーシア)である。東京都知事の公私混同をイナーシアにする力を最初に与えたのはほかならぬ石原慎太郎だった。単に都民のみならず、マスメディア、特に石原の公私混同を、猪瀬直樹や舛添要一に対して行ったような「ワイドショー攻撃」を行わなかったテレビという媒体に、私は深い病根を見る。

 なにしろテレビが「ワイドショー攻撃」で力を与えると、それはイナーシアどころか2005年の郵政総選挙や2009年の政権交代総選挙で見られた「バンドワゴン効果」を思わせる加速がついて、最大会派の自民党をもってしても歯止めがきかなくなる。前回の猪瀬直樹辞任劇に続く今回の舛添要一辞任劇はそのことを示しているように思われる。

 マスメディア報道で異色を放っていたのは、昨夕職場で読んだ日経夕刊の一面記事だった。日経の記事はネットではかなり厳しい[登録制のために冒頭部分しか読めないので引用できないが、都の非正規職員の正規化、障害者雇用の促進、介護保育人材の確保などの実績が指摘されていたかと思う。ネット検索をかけると、民進党の鈴木けんぽうという渋谷区議会議員のサイトの「活動日記」に6月15日付で「今更ながら、舛添都政の2年間は都政関係者からどう評価されているのか、ご紹介」という記事が公開されている。この記事に、日本経済新聞社編集委員兼論説委員・谷隆徳氏が「都政研究」誌2016年3月号に書いた「『安定軌道』に乗り始めた舛添都政」と題する記事の要約が、箇条書きの形で掲載されている。この記事の多くは、舛添要一の主張の受け売りなのかもしれないが、「障害者を正規社員として雇い入れる事業者を支援する制度などは石原・猪瀬都政では考えられない」などと書かれている。但し、民進党渋谷区議の鈴木けんぽう氏自身は、「舛添さんの弁護をする気はさらさらない」とは書いている。私も、多少都政が石原慎太郎や猪瀬直樹よりましだったとしても、今回の舛添の辞任自体は致し方なかったとは思う。

 しかし、これだけは自信を持って言える。今、マスコミで次期都知事候補として名前が取り沙汰されている具体的な人名に即していえば、橋下徹はむろん論外だが、小池百合子が都知事になったとしても、都政は舛添時代より確実に悪くなる。丸川珠代でも同様だ。

 それどころか、民進党右派で、かつて「事業仕分け」に辣腕をふるった蓮舫でも、舛添都政よりましになるかどうかは大いに疑わしい。報棄てで(腹立たしいことに)後藤謙次が好意を持って名前を挙げているように聞こえた長島昭久では舛添より悪くなる可能性が極めて高い。宇都宮健児が都知事になるのであれば、(2014年の都知事選で指摘された問題は棚に上げるとして)舛添都政と比較しても確実に良くなるだろうが、そもそも当選を期待しづらい。

 東京都知事選はどうやら7月31日の投開票になりそうだが、石原慎太郎の4選を易々と許した2011年の都知事選から6年目で早くも4度目になる都知事選に、もういい加減にしてくれないか、うんざりだと思うばかりの今日この頃なのである。
 大山鳴動して鼠一匹とでもいうのか、結局安倍晋三が消費増税の2年半延期を言明しながら衆議院の解散(衆参同日選挙)は行われず、参院選のみ7月10日投開票の日程で行われることになった。

 まだ安倍晋三がどう決断するかわからなかった先週月曜日に発売された週刊ポストだったか週刊現代だったか、おそらく前者だったと思うが、それを先週土曜日に遅ればせながら立ち読みしていたら、大略こんなことが書かれていた。

 曰く、自民党で衆参同日選挙をやりたいのは安倍晋三だけだ。自民党の他の議員は皆、衆参同日なんてやってほしくない。自民党の選挙情勢調査もそういう(安倍晋三以外の)自民党の政治家たちの意図を反映して、自民党に厳しい予想が出された。それによると自民党は衆院選で現有議席あるいは前回獲得議席よりも20〜40議席減らすという。この下限である40議席減というのは、「野党共闘」の候補が、民進党と共産党の票を足し合わせた票を得ると仮定した場合の話であって、いくら何でも野党候補の票を多く見積もり過ぎであって現実的な試算ではないのだが、衆参同日選挙へ前のめりの安倍晋三を止めるためにそんな試算をしたものだ。

 こういったまことしやかな週刊誌の記事は、本来眉唾ものでしかないのだが、今回に限っては、実際に起きた安倍晋三と麻生太郎や谷垣禎一ら自民党の大物政治家たちの国会閉会直前の駆け引きに働いた力学をよく説明していると思った。麻生や谷垣は、消費増税を延期するなら衆議院を解散して有権者の信を問え、と安倍晋三に迫ったが、衆参同日選挙をやりたくてたまらなかったはずの安倍晋三は、結局消費増税延期だけ表明して衆議院を解散しなかったからだ。これは、安倍晋三に衆院解散を思いとどまらせただけの何物かを仮定しなければ説明がつかない。それが、「このまま衆議院を解散したら自民党は議席を減らす(そして安倍晋三の最大の宿願である改憲ができなくなる)」ことを示す「自民党内部の世論調査」だった、とはいかにもありそうな話だ。

 とにもかくにも、衆参同日選挙は回避された。正直言って「結果オーライ」だと思った。実際に衆参同日選挙が行われれば、「自民党の内部の世論調査」とやらは外れ、安倍晋三の野望を達成しやすくなる結果になることは目に見えていたと思うからだ。

 ただ、良くないと思うのは、リベラル・左派の多くは私と同じように衆参同日選挙に方をなで下ろしでもしたのか、議論がこのところ不活発をきわめていることだ。何を書いても反応がない。「小沢信者」による嫌がらせのコメントすら、このところほとんど来ない。

 一方、本職の政治家たちには「転向」が相次いでいる。少し前には鈴木宗男が娘の鈴木貴子の自民党移籍を画策した。いつまでも民主党(現民進党)にいては将来がないと判断したからだろう。つい最近には、おおさか維新の会が、田中康夫を参院選東京選挙区候補として擁立する意向だと報じられた。

 鈴木宗男と田中康夫は、いずれも小沢一郎に近いとされた政治家だ。しかし、彼らの「転向」を批判する声は、リベラル・左派、特に7年前の「政権交代」に熱狂した人たちからはほとんど聞こえてこない。鈴木宗男についていえば、先の衆院北海道5区補選で「野党共闘」の池田真紀候補が敗れたのは、宗男票が寝返ったからだとの「慰め」の言説のダシにされただけだ。この俗説を広めたメディアの一つに「日刊ゲンダイ」があったが、これが誤りであることを、私は「kojitakenの日記」で示したが、「日刊ゲンダイ」の欺瞞に満ちた麻薬的なコンソレーションに自ら進んで騙されようとする人間が続出するほどにも、リベラル・左派の心は弱くなっている。

 坂野潤治の言う「異議を唱える者が絶え果てた『崩壊の時代』」とはこのことだ、との感を最近ますます強めている。坂野潤治はこの言葉を1937年7月7日の盧溝橋事件以降敗戦までの時代に対して使ったが、2013年の毎日新聞のインタビューで坂野は、2012年末の総選挙で第2次安倍内閣が発足して、現代日本も「崩壊の時代」に入ったと語った。

 この坂野潤治インタビューは、2013年4月30日付のこのブログの記事「安倍晋三を批判する言論が絶え果てた『崩壊の時代』に思う」にその前半を引用した。今回の記事ではインタビューの中ほどの部分を以下に引用する。

 格差の縮小が社会に活力をもたらす−−というのが坂野史観の神髄だ。日本近代史の中で格差を縮小した社会改革は1871(明治4)年の廃藩置県と、農地改革や労働三法をはじめとする戦後改革の2度しかなかったという。廃藩置県で士農工商の士がなくなり、農工商が張り切って近代日本の礎を築いた。戦後改革で小作農や労働者が解放されて戦後復興を成し遂げた、とみる。

 「そうした戦後改革の遺産を食いつぶし、格差を拡大させたのが小泉政権、そのまま放置して固定化させたのが民主党政権です。正社員を派遣社員にして賃金を安く抑え、国際競争に勝とうと訴えた。まるで芥川龍之介の小説『蜘蛛(くも)の糸』のように下層の人たちを踏み台にして自分たちだけが生き残ろうとした。このあたりから危機の時代が始まったんです」

 続いて崩壊の時代の話に入り、アベノミクス批判が展開すると構えていたら、そう短絡的ではないのが、この人の論のユニークなところだ。

 「野党的な立場の評論家はアベノミクスが崩壊するのを心待ちにしています。そりゃ、いつかは崩壊するでしょう。でもね、格差を縮小するチャンスはバブルの時しかないんです。大恐慌の時にはそんなことは言っていられない。せっかく景気が回復してくるならば、野党は今こそ、固定化した格差を縮小する構想を練っておくべきです。生活保護を拡充し、失業者を派遣社員に、派遣社員を正社員にして、みんなが少しずつ豊かになって社会全体が元気になるような構想を描いておく。国民は豊かになると政治にものを言いたくなる。それを追い風にするんです」

 3・11以降、成長神話から脱却し、もう少しつつましやかに生きる道はないかと多くの日本人が痛感したのではないか。しかし坂野さんは言う。

 「今、豊かさを語る多くの人は成長を否定して、貧困の平等社会みたいなものが理想と言う。極端な例だと江戸時代の暮らしに戻ろう、と。しかし、私は成長自体は良くも悪くもなくニュートラル(中立)だと思っています。成長至上主義は格差拡大につながりますが、先ほど言ったように格差縮小のチャンスととらえることもできます。もうひとつ、平等と聞くと、みなさんは怠け者が増えて成長を阻害するようなイメージを持つかと思いますが、平等とは固定化した格差を縮小することだと解釈すれば、『成長と平等』は両立します。実際に戦後の日本経済はみんな平等の終身雇用のもとで発展してきたではありませんか」

(毎日新聞 2013年04月22日 東京夕刊より)


 今読み返すと、その後2014年末から2015年の初めにかけて日本でも一時代ブームになった(ものの、結局ブームとして消費されて終わり、安倍政権の経済政策を代替する政策の議論にまではつながらなかった)トマ・ピケティの『21世紀の資本』の議論とも共通する視点があって興味深い。

 坂野潤治の言葉通り、安倍政権の経済政策はいまや崩壊しつつあるが、この3年間野党が「固定化した格差を縮小する構想を練って」いたかといえば、答えはノーだろう。せいぜい今回の政局で、民進党の岡田克也が安倍晋三の先手を打って国会の党首討論で消費増税延期を提言して得意げになっているくらいのものだ。これではきたる参院選での「野党共闘」の勝利など到底望めないだろう。

 また、坂野氏の言う「成長による格差縮小」は、多くの経済学者の主張とも共通する、いわば「常識」だと思うが、「リベラル」の間に相も変わらず蔓延していたのは、自身は紛れもない富裕層の人間である内田樹の「脱成長」論だった。現在のリベラル・左派論壇の膠着状況には目を覆うものがある。

 3年前の記事では、坂野潤治の「あの時(1937〜45年の「崩壊の時代」=引用者註)は戦争に負けて焼け野原になったように崩壊の形が目に見えた。しかし今回はこの国の体制がどういう形で崩壊するのか、その姿すら浮かびません」という言葉を引用した。悪いことに、それは今なお当てはまり続けている、というより、3年前にはあまりピンとこなかったその言葉の実感が、ここにきてますます強まっていると思う今日この頃なのである。