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きまぐれな日々

 2015年最後の記事。

 今年は年初に自称イスラム国(IS)による日本人人質事件が起き、安倍晋三が強硬策をとって人質を見殺しにして自らの内閣の支持率を上げた。

 安倍晋三はまた、立憲主義をないがしろにして、秋には戦争法案(安保法)を強引に可決成立させた。

 日本経済は1年を通して停滞した。

 以上のことから来年以後予想されるのは、自衛隊が海外の戦争に参加することだ。それは、常識的に見て対中戦争ではなく「テロとの戦い」になる可能性が高い。そのための安保法制定だ。集団的自衛権とは「他国を防衛する権利」のことだから、自衛隊は他国のため、つまり米軍の肩代わりをして戦争を行うことになる。石原慎太郎らの年来の悲願である「中国との戦争」は、石原の目の黒いうちには実現しないだろうし、また実現させてはならない。

 リベラル・左派の中には、「日本人は自衛隊が戦争に参加しなければ目を覚まさないのではないか」と仰る方もおられる。しかし、それは楽観的に過ぎる見通しだ。実際には、自衛隊が海外で参戦して自衛隊員に戦死者が出ると、安倍内閣の支持率は間違いなく急上昇する。「愛国」に燃える国民が多数出るのだ。それを予告しているのが、初めに書いた年初のISによる日本人人質事件であって、安倍晋三が強硬策をとって湯川遥菜、後藤健二両氏を見殺しにするや、安倍内閣の支持率は急上昇した。「テロリストに毅然と対峙して妥協しなかった」安倍晋三の姿にしびれた「ニッポンジン」が多数いたとしか解釈できない。

 また日本経済だが、これだけ長年停滞し、第2次安倍内閣発足当時には効果を見せたかに見えた「大胆な金融緩和」も、安倍晋三自身が決断した消費税増税と、不適切な財政政策、すなわち効果的な富の再分配につながらない開発独裁的な財政政策がとられた結果、日本経済を浮揚させることはできなかった。それでは今後安倍政権は経済成長を何に求めるかといえば、それは軍需だろう。そのためにも自衛隊は海外で参戦する。だが軍需による景気浮揚は、一部の軍需産業に「戦争景気」をもたらしても国民生活の改善には必ずしもつながらないばかりか国民生活を圧迫することの方が多いことを歴史は示している。それでも安倍内閣の支持率は下がらないだろう。

 前回も書いたが、極右政権も3年も続くと、それに文句を言わずに従うのが惰性になってしまっている。惰性をこれ以上つけさせないためにも、戦争法案(安保法)を成立させてはならなかった。「負けたけれど若い人が立ち上がったことで未来に希望を感じさせる」ものなどではなかった。そんな総括をするお花畑では、リベラル・左派は永遠に勝てない。立憲主義という守りの最強手段に共産党までもが頼りながら、クーデター軍(安倍政権)に拠点を攻め落とされてしまった痛恨の敗北だった。

 今年ほど悲観的に年末を迎えなければならない年は過去にはなかった。このところ毎年そうだが、年末の挨拶の決まり文句を書くのも気が重い。しかし気を取り直して書こう。

 それでは、皆さま、良いお年を。
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 フランスの極右政党の躍進や、アメリカの大統領選共和党候補選びで共和党支持者からトランプが大人気を博していることなどの「極右の台頭」が2015年の欧米の政治状況の特徴だったと言えるかもしれない。

 だが、日本はそれをもう2年も前に先取りしている。極右政権が発足して既に3年が経過しようとしている。お隣の韓国も似たようなもので、朴槿恵政権は疑いもなく極右政権である。ただ、韓国の場合はまだしも裁判所が極右政権の意図を「忖度」した判決を下さないだけの良識を保っていることが先の産経新聞記者の無罪判決で示された。一方、日本では夫婦別姓の強制を最高裁判所が合憲と判断したが、これは露骨に「夫婦別姓は家族の解体を目的とした共産主義のドグマだ」と言い放ったことのある極右宰相・安倍晋三の意を汲んだ判断としか言いようがない。

 ついでだから書くが、日本の右翼(極右)による慰安婦問題の歴史修正主義に対する韓国極右政権の態度を、ナチの言説に対する戦後の(西)ドイツの態度になぞらえる言説は誤りだと私は考えている。

 この年末につくづく思うのは、もう3年も極右政権が続くと、それが日本の社会の「惰性」になってしまっているという冷厳な現実だ。安保法案の審議中大きく落ち込んだ安倍内閣の支持率が、この4か月で元に戻ってしまったことは、この惰性力の大きさを物語っている。

 だから安保法の成立は、成立時に「リベラル・左派」の多くが論評したような「負けたけれども未来に希望を感じさせる負け」なんかではなく、「絶対に負けてはならなかったはずの戦いに負けた、致命的に近い負け」だった。その後さらに日本の政治の「崩壊」は加速する一方である。元下着泥棒の大臣はいつまで経っても辞める気配もなく、それどころか気の早い週刊誌の予想記事によると、元下着泥棒は次の衆院選にも負ける気配はないらしい。

 これは、立憲主義という最強の「守り」の武器の威力をせっかく6月に憲法学者たちが知らせてくれたにもかかわらず、それがいつの間にか民主主義を求める「攻め」の戦いであるかのように、安保法案反対の勢力が自ら見せかけてしまった、つまりイメージ戦略を誤ったことが大きな敗因になったのだと思う。私自身、安保法が成立してから立憲主義について憲法学者たちが書いた本を読んでこの結論に至ったというレスポンスの悪さなので、偉そうなことは言えないのだが。

 だが、安倍内閣の支持率V字回復という現実を直視できずにうろたえ、週刊朝日(2015年12月16日号)に「どういうこと?」と書いた室井佑月(及びそれをブログ記事に引用した「リベラル」のブロガー)には、民主党政権の失敗の原因をなお総括できていないようだから、記事の後半ではこれに関する坂野潤治の指摘を紹介する。

 室井佑月という人は、2010〜12年の民主党政権時代の民主党内抗争において、小沢・鳩山一派を熱烈に応援していた人間だが(だから前述のブロガー氏とは立場を異にするはずだが)、菅直人が前原誠司や野田佳彦らの松下政経塾組と手を組んでできた内閣やその後の野田内閣には、原発に関する政策くらいしか見るべきところがなく、それも野田政権時代には骨抜きにされた(とはいえ原発回帰の安倍内閣よりはよほどマシだったが)ことについては私も異論はない。しかし、それならそれまでの鳩山内閣は良かったのかというとそうではない。辺野古現行案への回帰を決定したのは菅直人ではなく鳩山由紀夫であるという事実などもあるが、それ以前に小沢・鳩山一派はマニフェストを政争の具にしてしまった。彼らは党内抗争の最中、菅政権や野田政権はマニフェストを守らなかったから国民の支持を失ったのだと主張した。

 しかし、2012年の衆院選の結果は、その主張が誤りだったことを証明した。なぜなら、2009年の民主党マニフェストへの回帰を求めた人たちが作った「日本未来の党」には、民主党に対してよりもさらに厳しい有権者の審判が下され、9議席しか獲得することができなかったからだ。だが、今でも当時の「小鳩シンパ」(「小沢信者」どもは論外だからここでは論評の対象としない。ここで私が批判しているのは、真面目な小沢・鳩山支持者たちである。念のため)たちは民主党政権の失敗を菅政権以降にのみ求めることが多い。「なっていない」と私は思う。

 坂野潤治が民主党政権の失敗について山口二郎と話し合おうと言って手紙を出したの鳩山政権時代の末期、2010年4月である。つまり鳩山政権時代に既に民主党政権の失敗は明らかだったのである。

 坂野潤治は、民主党政権の失敗の「真犯人は、マニフェスト論者だったと思う」と指摘している。以下、坂野潤治・山口二郎著『歴史を繰り返すな』(岩波書店,2014)から引用する。

 坂野 (略)民主党の指導者は「理念」とは「政策」だと考えていたように思える。だから「政策」でつまずくとパニックになってしまう。「理念」というものは、今すぐ実現しなくても、将来は必ず実現させるというもので、それを言い続ければいいのに、「事業仕分け」で思ったほど財源が浮かないと、その時点で浮き足立っちゃった。

 その意味で僕は真犯人は、マニフェスト論者だったと思う。二〇〇九年八月三〇日の政権交代の時には、馬も鹿もみんなマニフェスト教徒だった。でも、マニフェストというのは約束した「政策」の実現度でその「理念」まで計ろうというもので、当時から僕は大反対だったんだ。後出しじゃんけんではない証拠に、八月三〇日からわずか一六日後に行った雑誌のインタビューを再録しておきたい。僕が“古い新左翼”と呼んでいる雑誌『状況』の記者に、二〇〇九年九月一五日に応じたインタビューです。

 ――今回の政権交代に期待してるとすれば、マニフェストで言ったことをやることができるかどうかだと思いますが。

 そんなことではないと、僕は思う。そんな具体策やっていたら袋小路だよ。具体策ではなくて全般的な変革ムードを喜んでいればいい。だって、夢くれたんだから、いいじゃない。(中略)子育てにみんなが関心持ってくれりゃいいけど、その時には、高齢化問題どうしてくれるんだって言うでしょ、で、高齢化問題どうかしようとすれば、その年金負担をどうしてくれるんだって、少子化の下で、年金払えるかっていう、そういうふうにぐるぐる廻りになってくるから、絶対に、個々の具体策では国民を満足させられないよ。

 ――政策的にできないということですか。

 政策はできますよ。みんな、個別の政策だから。できるけど、やったところで国民はなにも満足しない。(中略)
 だから、格差是正問題は、基本的に辻褄が合わないから、格差是正に努めるという全体のイデオロギーを出しとけばいいし、(中略)我々は、格差是正を目指し、弱者を救うための政治をやるんだってスタンスを、南無阿弥陀仏みたいに、毎回、言うことだとおもう。

(『状況』二〇〇九年一一月号、一六―一七頁)


 「イデオロギー」とか「南無阿弥陀仏」だとか、わざとどぎつい表現を使っているけど、言っていることは、政権とってすぐマニフェストに掲げた個別の政治に点数を付けられていては何もできない。格差是正とか社会的平等とかいうのが党員全員の理念になっていれば、短期的には政策として実現できなくてもいい、と言ったんです。今から五年前のことですが、この「理念」が今の民主党内で維持されているのか、大変心細い。

(坂野潤治・山口二郎『歴史を繰り返すな』(岩波書店,2014)84-86頁)


 新自由主義者揃いの松下政経塾組が「格差是正」など本気で考えているはずもなかったのは当然だし、そんな彼らと組んだ菅直人の罪は極めて重い。しかし、それに対抗する小沢・鳩山側がやったことは、マニフェストを振りかざして党内主流派を攻撃することだった。つまりマニフェストを「政争の具」として利用したのだ。そして、彼らの党内抗争に理念もへったくれもなかったことを示す象徴が、2011年の菅内閣不信任案騒ぎだった。あの時小沢一郎や鳩山由紀夫が組もうとしたのは自民党だったのだ。それこそ「格差是正」の理念とは正面から反することだった。つまり、菅直人一派と小沢・鳩山一派は「どっちもどっち」「五十歩百歩」でしかなかった。そして、彼らがこのような愚行に走ったのも、「格差是正」や「社会的平等」が、ほかならぬ小沢一郎や鳩山由紀夫や菅直人といった当時の民主党の最高指導者たちの理念になっていなかったからにほかならない。もちろん、彼らの理不尽な党内抗争を応援した、具体的には小沢一郎や鳩山由紀夫が自民党と手を結ぼうとしたことを容認した室井佑月についても同じことがいえる。

 この民主党政権の愚行を見た国民は絶望し、だからどんなにひどくても民主党政権よりはましだろうと思って安倍内閣を支持し、安倍内閣が安保法案成立に向けて暴走した時にはこれに眉をひそめても、時間が経つとすぐに安倍政権支持へと回帰してしまう。

 室井佑月がそれを見て「なぜだ」と叫ぶのは、民主党政権の失敗について、民主党、特に小沢・鳩山派を応援した自分自身の総括ができていないからだ。それができない限りは、どんなに週刊誌に政権批判の記事を書いても、安倍政権打倒、自民党政権打倒の結果につながる日はいつまで待っても来ない。そんなことは当たり前だ。
 今朝は新聞休刊日だけれど、昨日(12/13)まで朝日新聞の一面トップを飾っていたのは「軽減税率」の話題だった。私はこんなものはマスメディアが大きく取り上げるだけでも腹立たしい限りだと思っているのだが、幸いにも村野瀬玲奈さんのブログが「自公政権が流通させる『軽減税率』という言葉と、茶番の自公協議を実況するだけの報道、その茶番の裏で新聞への『軽減税率』適用が決まっているらしいことを言わない新聞への批判」という長いタイトルの記事をリリースして下さっていて、その中には『kojitakenの日記』の、「橋下、『軽減税率』で公明党に『譲歩』した安倍晋三の『決断』(=猿芝居)を『凄すぎる』と絶賛 (呆)(呆)(呆)」という、これまた長いタイトルの記事の一部も引用していただいているので、この件に関心のおありの方は村野瀬さんの記事を読まれると良いかと思う。

 なお、昨日のTBSテレビの『サンデーモーニング』、私は昨日はこの番組をあまり真面目に見ていなかったのだけれど、確かこのニュースを読んでいたのはいつも2番目に登場する水野アナウンサーの声だったように思うから(音声は聞いていたけれども画面はほとんど見ていなかった)、やはり大きく取り上げていたといえる。なぜサンデーモーニングのことを書くかというと、この番組では『kojitakenの日記』で取り上げた橋下徹の下記Twitterをアナウンサーが読み上げていたからだ。

https://twitter.com/t_ishin/status/674710080709722112

安倍政権・官邸、恐るべしの政治。これが政治か。軽減税率でここまで妥協するとは。これで完全に憲法改正のプロセスは詰んだ。来夏の参議院選挙で参院3分の2を達成すれば、いよいよ憲法改正。目的達成のための妥協。凄すぎる。僕はケツが青すぎる。おおさか維新の会の新執行部、気合を入れないと


 私にはこれは文字通りの意味にしかとれなかったし、サンデーモーニングでもこれを読み上げたアナウンサーも何のコメントもしなかった。しかし、これは橋下が安倍晋三にはなった皮肉だったという説を唱える人もいて、その中の一人は熱心に安倍晋三を批判する記事を長年書き続けているブロガーだったりした。

 繰り返すように、昨日はこの番組を真面目に見ていなかったので自信はないのだけれど、サンデーモーニングのコメンテーターの中にも、「橋下さんのコメントは安倍総理に対する皮肉じゃないかと思いますよ」と言った人はいなかったように思う(間違いならご指摘のほどよろしくお願いします)。いったいなぜ、このつぶやきが橋下徹が安倍晋三に対して放った皮肉だと介した人が複数いたのだろうか。もしかしたら前後の橋下のつぶやきにそう思わせるものがあったのだろうか。それは橋下のTwitterに目を通す習慣のない私にはわからない。

 仮に橋下にそういう印象を読者に与えようという意図があったにせよ、目的のためには手段を選ばないことにかけては、人気とりのためなら「脱原発」や「米軍基地の関空移転」を声高に唱えながら、いざという時になると逃げるというふざけた態度をこれまで何度もとってきた橋下は安倍晋三顔負けなのであって、その橋下に安倍晋三を皮肉る資格などないとしか言いようがない(もっとも私は、橋下のTwitterは文字通りの意味だと思うから、その場合は橋下に自己矛盾はない)。

 問題は、橋下に幻惑されるのは、何も前記「リベラル」のブロガーばかりではないことだ。たとえば、維新の党代表に再選された松野頼久なども、毎日新聞のインタビューに、

大阪側とは分かれたが、今でも橋下さんという政治家は大好きだ。

などと答えた。「別れても好きな人」とかいう歌の一節が思い浮かんだが、過去にも松野頼久と同じように、橋下に甘言を弄されてメロメロになったことがあるんだな私に想像させた政治家は少なくない。

 たとえば、松野頼久と異口同音に「おおさか維新を排除しない」と言った前原誠司がそうだ。また古くは、「私の考えは橋下市長と同じだ」というのを口癖にしていた時期(2012年)のある小沢一郎もそうだった。政治家以外でも、脱原発の元官僚にして新自由主義者の古賀茂明や、同じく脱原発の論客の飯田哲也が大阪府市のアドバイザーを務めていた時期があるが、新自由主義者という共通項でいかにも橋下と気が合いそうな古賀茂明はともかく、岩波の『世界』の常連ライターだった飯田哲也など橋下との接点などありそうにないと思われたのに、いとも簡単に橋下に籠絡された。おそらく橋下には、一対一で接した相手を虜にしてしまう話術でもあるのではないかと邪推する。そして、ひとたびそれに接した者にとっては橋下の言葉が忘れられないのではなかろうか。あの時、一緒に政党を立ち上げると言ってくれたよね、ってな感じで、彼らはいつまでも橋下への未練を断ち切れなくなっているのではないか。そうとでも解釈しなければ理解できない言動を、上記の面々は行ってきた。そして、橋下が最後に選ぶのはいつだって彼らではなく石原慎太郎であり安倍晋三だったのだから、上記の面々は馬鹿を見続けたわけだ(もっとも小沢一郎だけは、2012年の衆院選をにらんだ野合の工作において、橋下と同時に石原慎太郎にも声をかけていたらしい=岸井成格が佐高信に語ったところによる=。小沢の鉄面皮だけは、もし小沢の全盛期であったならば橋下と十分渡り合えたかもしれない。だが2012年には小沢は既に衰えていた)。

 で、この記事で私が何を言いたいかというと、民主党や維新の党(松野一派)は党勢の低迷に悩み、社民党や生活の党と(以下略)は党の存亡の危機にあるし、参院選の多くは一人区だし、しかも安倍晋三は衆参同日選挙を行う腹を持っているのではないかという有力な観測もあって、衆院選になったらこれは小選挙区制だから小党乱立なんてわけにいくはずもないから、野党再編は遅かれ早かれ行われざるを得ないが、その際に橋下徹なんかを入れようとしては絶対にダメだということだ。そんなことをしていたら、まとまるものもまとまらなくなる。そもそも橋下は、いくら来るようなそぶりをしたり安倍晋三をバカにしているかのように見せかけるTwitterを発したりしても、決してそこには橋下の本心はない。

 ついこの間の大阪ダブル選で橋下を「安物のヒットラー」とこき下ろしながら、松野頼久が橋下は「別れても好きな人」だと言い出すなどしてちょっと流れが変わっただけで橋下シンパ癖をぶり返すブロガー氏に見られるような姿勢では絶対にダメだ。いつだって橋下が選ぶのは向こう側なのだし、そもそも橋下の政治的体質にリベラルなものなど何もないのだから、フラフラした態度をとること自体私には許しがたいものがある。8年間見てきて、まだ橋下の本性がわからないのかと腹が立って仕方がない。

 野党再編または野党共闘は、下記の2点を基本にすると早くはっきりさせるべきだ。

 1. 安保法案を廃止し、集団的自衛権の政府解釈変更を元に戻す。

 2. 反安倍・非橋下。つまり橋下徹(おおさか維新)を排除する。

 後者は、本当は「反安倍・反橋下」であるべきだと私は思うのだが、橋下に未練たっぷりの人間が信じがたいほどたくさんいるようなので、上記のように妥協した。

 上記2点に同意できない者は仲間に入れてやらないから勝手に戦うなり自民党に入れてもらうなりしてくれ、で良いと思う。この基本を早く固め、「おおさか維新も排除しない」等の妄言がこれ以上出るのを許さないようにすべきだ。

 早い話、「おおさか維新も排除しない」などと言う人間は、「おおさか維新の会」の公認候補として立候補すれば良いのである。「別れても好きな人」だというなら再びくっつけば良い。それだけの話だ。

 とにかく、安倍晋三と同様、「選挙に勝てば何をやっても良い」という態度をとる橋下徹は、たとえTwitterで「立憲主義」をつぶやいたことがあろうが、その政治姿勢によって真っ向から「立憲主義」に挑戦しているのだ。「立憲主義」を標榜しようという人間が橋下を容認すること自体、その人間が立憲主義を全く理解していないことを露呈する以外の何物でもない、
 このところ、図らずも「立憲主義って何だ」と考えるようになり、自分が全く何も知らなかったことにわれながら唖然とさせられつつ、現在の政治状況について下記の認識に至った。

 今年の安保法をめぐる攻防が敗北(もちろん相手方の人たちにとっては勝利)であったことは言うまでもないが、それはこちら側の多くの人が言うような「希望が感じられる敗北」なんかではなく、保守思想である「立憲主義」のもとに防衛戦を戦った、いわば「背水の陣」がいとも簡単に破られた致命的な敗北だった。

 共産党までもが立憲主義を打ち出すようになり、マルクス主義法学ではなく立憲主義を奉じる、憲法学の世界では「保守派」と分類される学者たちと語り合うようになるとともに、「国民連合政府」を提唱しているのが現実だ。これを「共産党の右傾化」と決めつけるのはたやすいが、共産党もそこまで追い詰められていると私は見る。そうでもしないと、フラフラしている他の野党が揃って「大政翼賛会」側に行ってしまうのではないかとの危機感が共産党にはあるはずだ。一方でミイラ捕りがミイラになる、つまり共産党も含めて「大政翼賛会」化するという懸念もあるが。

 昨今、今やすっかり安倍晋三の手下に成り下がった反知性主義者の谷垣禎一らが、来年の衆参同日選挙を示唆しているが、それに呼応するかのように、「安倍政権を支持している」とその記事の中で明言する長谷川幸洋が、「騒がれだした衆参ダブル選、その行方を教えよう~政治家にぶら下がるだけの記者には分からない『政局の読み方』」なる、長ったらしいタイトルの記事を書いている。

 記事の内容は不愉快きわまりないから引用して紹介したりはしないが、思い出すべきは、昨年(2014年)の衆議院選挙実施も長谷川幸洋が言い当てていたことだ。これは、何も長谷川が敏腕記者だからでも何でもなく、それくらい長谷川が安倍政権とべったりであって、彼らの手の内を知りうる人間だからだ。こんな人間を、どうして中日新聞(東京新聞)はいつまでも飼っておくのだろうかとか、こんな人間を「親安倍のはずがない」などとみなしていた「小沢信者」にしてリアルの活動家である某ブロガーはなんて頭が悪いんだろうか、とはいつも書くことであって、短めに終わらせようと思っていたこの記事でも書いてしまった(笑)。

 いずれにせよ、長谷川の「予言」が当たる可能性は相当程度高い。衆参同日選挙が来年行われた場合、自民党に勝つのは至難の業だが、このハードルを超えない限り、日本が戦争を始めるだけでなく、明文改憲も行われてしまう可能性が高い。

 このところ私が共産党を批判してきたのは、「国民連合政府」を唱えるのなら、「一枚岩」である現在の党の体質をも変えよ、と言ってきたものである。これをもって私が「国民連合政府」に反対していると短絡的に捉えている読者は少なくないだろうと思うが、注意深い読者なら、私が一度も「国民連合政府に反対する」と書いたことがないことにお気づきだろう。そう、私は「国民連合政府」そのものには反対しない。「背水の陣」としての戦法としては認めるほかないと思っている。

 ただ、「国民連合政府」構想のもと、来年の参院選及び同時に行われるかもしれない衆院選を行うのであれば、それをまとめる司令塔となるのは、共産党では(小沢一郎らでも)なく、外部の有識者であるべきであり、安倍クーデター政権が立憲主義を踏みにじった今であれば、立憲主義を奉じる立場の憲法学者たちが中心になるほかないだろう。私自身は好まないが、自民党時代の小沢一郎と連携してかつては「9条改憲」論を唱える一方、最近では共産党の志位和夫委員長と語り合い、「立憲主義回復はすべてに優先」するとして「 『国民連合政府』で意気投合」したという(『しんぶん赤旗』記事による)小林節あたりが適任ではないか。但し、某有名ブログが以前書いたような内閣総理大臣としてではなく、外部の司令塔のトップとしてだが。小林節は、保守系の講演会で共演した櫻井よしこが「日本国憲法には権利ばかりが書いてあって義務の規定がほとんどない」と妄言を吐いたところ、これをこっぴどく批判して櫻井をやり込め、櫻井は講演会のあと顔面蒼白になり、小林節に挨拶もせず帰ってしまったらしい(佐高信との対談本による)。

 立憲主義系の学者たちの書いた学術書を私は読んだことがないが、彼らの何人かが書いた一般書(多くは新書本や文庫本)をこのところ何冊か読んだ。樋口陽一、水島朝穂、長谷部恭男、木村草太、それに前述の小林節の佐高信との対談本など。言うまでもないが、彼らの書いた本に、立憲主義がマルクスに論拠を持つなどと書いた記述は一行もないし、民主党政権時代に小沢一郎や菅直人らが内閣法制局長官の国会答弁を禁じたことを批判する学者もいる。

 それならば、立憲主義を論拠にして、安保法の廃棄を求めて戦うことになるであろう来年の参院選(または衆参同日選挙)を共産党(や小沢一郎ら)が仕切るのは、あってはならないことだと私は考える。「国民連合政府」を掲げる陣営は、強力な司令塔を民間に置く形で戦う以外に有権者の支持を広く得られる方法はないと思う今日この頃なのである。