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きまぐれな日々

 2013年に安倍晋三が憲法96条改正を目指した頃、そして今年成立を許してしまった安保法制をめぐる議論において、キーワードを挙げよと言われたら、「立憲主義」と答える。

 高校の政治経済の授業では習った記憶のない「立憲主義」は、ブログで政治に関する記事を書くようになってから知った。最近は高校のほか、中学の公民の授業でも教えるらしい。今年7月4日のアメリカ独立記念日に江川紹子がリリースした記事「『立憲主義』ってなあに?」から引用する。

 学校の教室でも、最近は「立憲主義」が教えられるようになった。高校や中学の社会科公民で使われる教科書の多くが、2012年3月検定に合格し、昨年に使われ始めた最新版から、「立憲主義」を取り上げている。

 たとえば、高校の「現代社会」でもっともシェアが高い東京書籍の教科書。最新版では、「個人の尊重と法の支配」というタイトルの章を新たに設け、そこで「立憲主義」について、次のように説明している。

 〈「法の支配」と密接に関連するものとして立憲主義という考え方がある。立憲主義とは、政治はあらかじめ定められた憲法の枠のなかで行わなければならないというものである。さまざまな法のなかでも憲法は、ほかの法がつくられる際の原則や手続きなどを定める点で、法のなかの法という性格をもつ(最高法規性)。国家権力は憲法によって権限をさずけられ、国家権力の行使は憲法により制限される。憲法は、個人の尊重が目的とされ、人間らしい生活を保障するものであり、政治権力がそうした目的に違反することは、憲法によって禁止される。そして、国民の権利が国家によって侵害された場合には、司法などによって法的な救済がなされることになる〉


(江川紹子「『立憲主義』ってなあに?」より〜2015年7月4日「Yahoo!ニュース」掲載)


 悪名高い自民党の第2次改憲草案(2012年)では、現行日本国憲法憲法の第13条

 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

を、

 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。

と書き換えている。

 ネット検索でみつけたサイトを参照すると、中学の公民の教科書(日本文教出版)には、

 「憲法は私たちの人権を守るために政治権力を制限するしくみを定めたものです。まず、憲法は、人がその人らしく生きていく(個人の尊重)ために必要な自由を人権として明記しています。」

 「日本国憲法は、アメリカ独立宣言などと同様に、人が生まれながらにもつ自由や平等の権利を基本的人権として保障しています。その根本には、「個人の尊重」の考え方があります。」

 「私たちが個人として尊重されるには、国家などから不当な干渉や妨害を受けずに生活できなければなりません。」
 「政治権力が1カ所に集中して人々の自由を踏みにじることがないように」

と書かれており、「個人の尊重」と「人の尊重」の違いについて、下記のように解説されている。

(3)「個人として尊重される」と「人として尊重される」の違い

 さて、教科書の記述にもどってみると、「人が人らしく」ではなく、「人がその人らしく」と表現されています。また、日本国憲法の根本には「個人の尊重」があるとされています。
 「個人として尊重される」と「人として尊重される」はどう違うのでしょうか。

 人はみんな平等。同じ人間。だから差別はだめ。はだの色が違っても生まれたところが違っても、白人も黒人も同じ人間、だから平等だ。
 これが一番目の意味で、とても大事なことです。
 しかし日本国憲法で述べられている「個人の尊重」というのは、さらに進んだもう一つの意味をもっています。それは同じ人間というだけでなく、「個人はみんな違う。ひとりひとり個性があって違う。だから差別はだめ。違いを認め合う。違いを認めた上で、互いを大切にして共生していく」という考えです。

 それは、一人一人をかけがえのない個人として大切にしようとする考え方であり、すべての人は、例外なく一人の人格をもった存在として国家から尊重されなければならないということです。
 「個人の尊重」は、自分が大切にされたいのと同じように、他者を大切にするという意味をはじめから含んでいます。

○憲法13条の英文をみてみましょう。
article 13.
 All of the people shall be respected as individuals. their right to life, liberty, and the pursuit of happiness shall, to the extent that it does not interfere with the public welfare, be the supreme consideration in legislation and in other governmental affairs.

 personが「人一般」を指すのに対して、individualすなわち、「一個の独立した人格」という意味合いがあります。

 日本語では、「人」に「個」をつけただけで、「人」も「個人」もあまり語感に違いがないように思えますが、英語では全く違う単語で、尊重する対象がちがうのです。

(リブ・イン・ピース☆9+25 N 「『自民党憲法改正案』批判──日本国憲法の根本『個人の尊重』変更の意味」(2013年3月8日)より)


 引用が長くなったが、要するに自民党は、日本国民を「個人として」、つまり「一個の独立した人格として」尊重するつもりなんかありませんよ、と宣言しているに等しい。そして、「個人の尊重」の実現のために「憲法で権力を縛る」立憲主義が生まれたことを考えると、自民党の改憲草案は立憲主義を否定していると言える。

 余談ながら、「個人」を「人」に変えようとする自民党の第2次改憲草案に怒り狂った1人が、現東京都知事の舛添要一だった。舛添とて2005年の第1次自民党改憲草案作成に深く関わったとんでもない人間ではあるが、その舛添から見てもとんでもないのが自民党の第2次改憲草案といえる。もっとも、とんでもないことをするぞと見せかけて、いざ蓋を開けてみたらそこまでではなかったというだけで、政権や自民党を「評価」してしまうおめでたい人間も少なくなく、今年8月の「安倍談話」の時には、東京新聞や「リベラル」ブロガー氏あたりもそれに引っかかっていた。いざ自民党が最初に出してくる改憲案自体は、「公明党に配慮して環境権の規定を入れた」式の、礒崎陽輔が言うところの「一度味わってもらうお試し改憲案」になることは絶対に間違いないから、そんなものを絶対に認めてはならない。敵のクーデター構想は何段階にもわたっており、敵自身それを公言して憚らないのだから。

 礒崎陽輔といえば東大法学部卒ながら「立憲主義を憲法講義で習ったことがない」と言い放った人間だが、聞くところによると「マルクス主義法学」には立憲主義の概念がない、ないしは立憲主義に否定的であるとのことだから、礒崎はその系列の講義でも受けたのだろうか。まさか戦後の東大には上杉慎吉の流れを汲む講座などなかっただろうし。

 さて、以上は実は前振りのつもりで書き始めたのが長くなってしまった。この記事で本当に書きたかったのは、自民党のようなトンデモ改憲勢力の批判ではなく、「新9条」、「左折の改憲」などといわれる「左派(サハッ?)」ないし「リベラル」勢力が提案して、「マガジン9条」や東京新聞(「こちら特報部」)が後押ししたという改憲案もまた立憲主義によって否定されるという話だった。

 先週私は、まだ想田和弘や加藤典洋はおろか、矢部宏治が憲法9条2項の改憲を提言し、それを池澤夏樹が朝日新聞夕刊のコラムで推奨するよりも以前の2013年に憲法学者の水島朝穂が書いた本で、立憲主義による憲法9条改定批判の論理を学んだ。『kojitakenの日記』で紹介したが、水島朝穂は著書『はじめての憲法教室 —立憲主義の基本から考える』 (集英社新書,2013)に、

「いま現実に存在する自衛隊が憲法と矛盾するから、憲法を改正しよう」という趣旨の議論は、国家権力を制限するという立憲主義の観点からは考えられないものです。そんな憲法はもはや近代国家の憲法とは言えません。(87頁)

と書いていた。この批判が「新9条」に適用されることは当然だろう。

 また昨日(11/29)、朝日新聞3面に掲載された「平和主義を守るための改憲 ありえるか」という記事に、同じく憲法学者の長谷部恭男が立憲主義の立場から「新9条論」を批判していた。記事は朝日に不定期で掲載される、高橋純子論説委員が政治学者の杉田敦と憲法学者の長谷部恭男の対談形式の(実際に2人が対談しているかどうか私は疑っているが)記事だ。ここで長谷部恭男は、杉田敦の

(前略)安保法制の成立によって(中略)9条は空文化し、死んでしまった。だから、新条項として蘇生させなければならないと『新9条論』者たちは主張しています。

との指摘に、長谷部恭男は、

 死んでいるのならなぜ、安倍さんたちは改憲を目指しているのでしょう。死んでませんよ。集団的自衛権の行使は認められないという「法律家共同体」のコンセンサスは死んでいませんから。元の政府解釈に戻せばいい。

と言い、さらに、

 法律の現実を形作っているのは法律家共同体のコンセンサスです。国民一般が法律の解釈をするわけにはいかないでしょう。素っ気ない言い方になりますが、国民には、法律家共同体のコンセンサスを受け入れるか受け入れないか、二者択一してもらうしかないのです。

と言う。杉田敦も、 

 たしかに、みんなで決めたことでもだめなものはだめ。これが立憲主義でしたね。民主主義と立憲主義の間の緊張関係を常に意識しておかないと、「新9条論」を主張する人たちの純粋で真摯な思いが、民主主義の名の下に、改憲そのものを自己目的化する現政権の動きを、裏側から支えてしまう可能性がありそうです。

と応じている。

 立憲主義とはかくも難解にして強力だ。そんなことを偉そうに記事に書く私も、その実体は今頃になって立憲主義を学び始めたうつけ者に過ぎないことは、本記事自体がはっきり示している。

 それにしても、想田和弘や伊勢崎賢治や矢部宏治や池澤夏樹や加藤典洋らが言い募り、憲法学者でも改憲派の小林節がそれに加担し、「マガジン9条」や東京新聞がその浪に乗ろうとした「新9条論」に対する批判にも立憲主義が威力を発揮するとは、立憲主義おそるべし、というのが初学者である私の正直な感想だ。われながら間抜けな感想だと思うが、そうとしか書きようがない。
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 私は今回の大阪ダブル選挙には何も期待していなかった。最初から大阪維新の会の2候補が圧勝するだろうと予想していた。そしてその通りの選挙結果になった。各候補の得票数は下記の通り。

[大阪府知事選確定得票数]
 松井 一郎 2,025,387票 64.1%
  栗原 貴子 1,051,174票 33.3%
  美馬 幸則   84,762票 2.7%

[大阪市長選確定得票数]
 吉村 洋文 590,645票 56.4%
  柳本  顕 406,595票 38.5%
  中川 暢三  35,019票  3.3%
  高尾 英尚  18,807票  1.8%


 政治に限らず、社会にもっとも強く働くのは惰性力だ。大阪維新の会に対抗した側には、その惰性力を止められるだけの力が全然足りなかった。前回までの自民党と民主党の共闘に共産党が加わったところで、2007年末に橋下徹が大阪府知事選への出馬を表明して以来8年の長きにわたって大阪に働いてきた惰性力を止めるにはほど遠かった。

 府知事選の場合、ただでさえ「現職の強み」がもっとも発揮されるとされる2期目の選挙なのに、その候補が維新の松井一郎だったから、メディアの情勢調査は告示前にフライングで行われた時から松井圧勝が示されていたし、それは終始変わらなかった。

 一方、市長選の方は、「本尊」の橋下徹が出馬しなかったからある程度勝負になるともいわれた。メディアの情勢調査は、告示前の時点では接戦で、中には柳本顕候補の名前を先に書くメディアもあった。しかし、告示1週間後に行われた情勢調査では、どの報道機関も吉村洋文のリードを伝えた。結局、このダブル選挙は維新のお家芸である選挙戦終盤の驚異的(私にとっては脅威的)な追い込みを発揮するまでもなく、選挙戦中盤で大勢が決した。

 「リベラル」や穏健保守の側が「橋下徹的なもの」、つまりマッチョなクーデター体質に惹かれる心情を克服し得ていない現状では、何度選挙をやっても勝てない。

 橋下に関しては、もう指にタコができているけれども、「脱原発に頑張る橋下市長を応援しよう」と書いた左翼人士、大阪府市の特別顧問に就任した「脱原発」人士たち("I'm not Abe"のフレーズで反安倍晋三派に大受けした某新自由主義者を含む)、かつて「ヒーローを待っていても世界は変わらない」というタイトルの本を書いた「『反貧困』の星」、それに「立憲主義を理解している橋下くんを自民党のアブナイ改憲論に対抗する戦力として活用したい」と書いた「リベラル」のブロガーなど、橋下的なものを克服できず、橋下に惹かれた(ことのある)人たちは数知れない。

 7年前に橋下が大阪の市立女子高生たちを「恫喝」した姿を見た私は、そこに橋下のあさましい人間性を見て、何があっても橋下に騙されてはならないと肝に銘じたが、橋下に騙されたり橋下に接近する人たちは後を絶たなかった。

 そういえば、2009年の「政権交代選挙」目前にも、民主党の代表や幹事長が橋下に熱烈なラブコールを送っていた。当時の「剛腕」幹事長はその後民主党を割って出たが、その時にも「私の意見は橋下市長と同じだ」というのが彼の口癖だった。しかし橋下は「剛腕」氏の熱烈なラブコールを振り切って石原慎太郎とくっついた。

 今また、民主党を割って出るどころか民主党解体を目指してクーデター活動にいそしんでいるタカ派にして新自由主義者の某人が、「橋下氏らも排除しない」などと言っている。橋下(や安倍晋三ら)から排除されるのはあんたの方だろうが、と私などは思ってしまう。

 選挙前から自明ではあったが、今回の大阪ダブル選挙の結果は、国政にも悪い影響を及ぼすことは必至だ。

 かくして、「崩壊の時代」の崩壊は進む一方である。崩壊を止める目処は全く立たない。何か大きな外力が働かない限りそれは止まりそうにもないという悲観的な予想を否定することは、今の私にはできない。
 やはり最悪の展開となった。

 前回の記事に昨夜から未明にかけていただいたコメントより。

http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-1413.html#comment19131

大阪ダブル選挙は、知事選、市長選とも極右ならず者集団「大坂維新」が大きくリードの予想です。
狂信的な極右ならず者「橋下徹」。
彼を育てたのは極右全体主義化した日本、そして有権者でしょう。
リベラルの中に当初、選挙目当てで彼が唱えた大嘘「脱原発」に踊らされた者もいましたが、リベラル自体が少数勢力になっていました。
しかし、彼が筋金入りの核武装論者であること、狂信的な極右、そして冷酷思想の持主であることは誰の目にも明らかでした。
リベラルとは対極にある最低、最悪の「橋下徹」とは、まず真っ先に闘わなければいけなかったはずのリベラルが、彼の大嘘に惑わされ、支持するとはリベラルの恥というべきでしょう。
また、最近リベラルの中にも名ばかりリベラルが増えつつあります。
厳重な警戒が必要です。
55年体制の頃だったら、「橋下徹」や「安倍晋三」といった狂信的な極右が支持を受けることはなかったでしょう。
こういった人物の登場を許すこと事体、いかに日本が極右全体主義化したか、退化したかということの現われです。
大阪の政党地図を見てみましょう。
「橋下維新」「安倍自民」の似た者同士の極右政党が一党、二党になり牛耳っています。
極右都市大阪。
日本の絶望的な近未来を暗示させられます。

2015.11.15 21:53 風てん


http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-1413.html#comment19132

お久しぶりです。

大阪市長選、朝日新聞デジタルによると松井氏が優勢と伝えられていますね。
新聞が「優勢」と言う時は大抵、大差がついているもので、おそらく松井氏が楽々当選するのでしょうね。

そして頃合いを見計らってまた「大阪都構想」をぶちあげて…。
橋下の「演技」は見事なまでに成功しています。もはや大阪は絶望的ですね。

>庶民にこそ届く言葉を発する

ポピュリズムの前にはとんだ綺麗事にしか聞こえませんけどね。

2015.11.16 00:04 飛び入りの凡人


 これらのコメントにあるように、大阪府知事選では松井一郎、大阪市長選では吉村洋文という、大阪維新の会の推す2候補が自民党などが推す栗原貴子(府知事選)、柳本顕(市長選)の両候補を引き離している。

 朝日のほか、産経と日経の世論調査を『kojitakenの日記』の記事「最悪! 大阪ダブル選、予想通り『大阪維新2勝』の世論調査結果」に引用しておいた。

 各マスメディアの世論調査は、私には衝撃は全くない。あまりにも予想通りだったからだ。

 とはいえ、このダブル選挙の結果(目に見えている)が、大阪維新のみならず、国政に与える影響も考えると、気分はますます暗くなる。

 どっかの「リベラル」とは違って、私はもともと、「野党再編」には何の期待もしていなかったが、維新分裂で様子見を決め込んでいた議員が橋下側につく流れが加速するだろう。また、大阪市長選においては「自共共闘」(+民主党)が効果を持たないことが示される。SEALDsへの必要以上の入れ込み(それに関連してであろう、しばらく前にSEALDsを痛烈に批判した作家の辺見庸へのインタビューを『しんぶん赤旗』がドタキャンしたらしい)など、このところやや浮わついた印象のある共産党は、頭を冷やすべき時だと思う。共産党のような一枚岩の体質を持つ政党が右傾化した日には(まだ「右傾化している」とまでは言わないが、「右傾化が懸念される」とは十分言えると思う)、日本がどれほど恐ろしい国になるか想像もつかない。そもそも、もともと左翼からも批判される立場にある私のような人間が「共産党の右傾化」を懸念するようになるとは、なんという時代になったのだろうか。

 昨日思ったことだが、街を歩いていると、昔と変わらない日本があるように見える。だが、その中身は20年、30年前とは大きく変わってしまったのだなあとの感慨にかられた。

 そういえば悪くなっているのは日本ばかりではない。先週末、またしても自称イスラム国(IS)がフランスでテロを引き起こした。これも、日本国内では短期的に安倍晋三ら極右のリーダーをますます肥え太らせる悪い影響をもたらすだろう。長期的にも、今はまだ世論では安保法制反対論の方が賛成論より強いが、自衛隊員に死者が出たり、ましてや日本国内でもISがテロを起こしたりすると、世論は「テロとの戦い」支持一色に染め上げられるであろうことは想像に難くない。

 何もかも、悪いことずくめ。やはり「崩壊の時代」なんだなあと思う、今日この頃なのである。
 5日に大阪府知事選、昨日(8日)には大阪市長選がそれぞれ告示され、4年前に続いて「大阪ダブル選挙」が始まった。

 4年前は府知事選で橋下一派(大阪維新の会)の松井一郎が民主・自民相乗り候補の倉田薫に圧勝した。また、市長選では府知事から転じた橋下徹が民主・自民・共産の支持ないし支援を受けた当時の現職・平松邦夫にやはり圧勝した。この選挙で橋下は「既成政党との対決」を打ち出すポピュリズム戦術によって、大阪市民をまんまと騙しおおせた。

 前回はそれでも、当時谷垣禎一が総裁を務めていた自民党は橋下一派(大阪維新の会)とはっきり対決した。今回は違う。

 自民党大阪府連が大阪維新の会と対決しているのは前回と同じだ。だが、自民党総裁の安倍晋三と内閣官房長官の菅義偉は、半ば公然と「維新シンパ」であることを折に触れてちらつかせている。

 4年前の総裁で、現在は党幹事長である谷垣禎一は、このような官邸が率先しての「反党行為」について、大阪府連から激しい突き上げを受けていることは間違いない。谷垣自身も安倍や菅の動きに心穏やかではあるまい。一度など、近畿地方選出の国会議員らが国会内で開いた会合で、主語は明確に示さなかったものの暗に官邸を指して、「橋下と連携を一時模索」していたことを「暴露」したこともあった(10月27日)。この件を別々の角度から報じた産経朝日の記事を読み比べると、そのいきさつが想像できるのだが、これについては『kojitakenの日記』の10月28日付記事「表向き、大阪維新との全面対決を打ち出した安倍晋三だが…」に、産経・朝日両紙の記事を引用してまとめた。その記事についた下記のコメントが、妥当な推測かと思われる。

axfxzo 2015/10/28 09:37

(前略)恐らく、実態はこうだろう。
谷垣が、関西、ことに大阪から突き上げられ続けていて、改めてとりあえず安倍晋三にお伺い、てか、苦情を取り次ぎしたということ。
安倍晋三から、最低限の言質を取りましたよという、谷垣のメンツを誇示したところというのが実態。
本質的には、何も変化はない。
安倍晋三がなんで橋下徹を撃破して得がありましょうや(笑)?
大阪の自民党とか、岐阜の自民党みたいなのがムカついてたまらないのが安倍晋三であり…たかだが街頭インタビューで連続してアベノミクスなり景気なりに否定的な声が示されただけで、色をなして生放送最中に文句を垂れまくる男だぜ(笑)…壊憲大好きな新自由主義者にして、野党を兎に角引っ掻き回す騒動屋の橋下徹を、苦しめる道理はゼロ!(後略)


 まあそんなところ、というか、この推測には誰しも納得するところだろう。谷垣が出席したのは、朝日の記事には明記されていないが、産経の記事によると「近畿地方選出の国会議員らが国会内で開いた会合」だそうだから、大阪自民党の谷垣に対する突き上げはさぞかし激しいものであったに違いない。

 「壊憲大好きな新自由主義者」であることにかけては、安倍晋三だって橋下に一歩もひけはとらないのだから、コメント主の言う通り、安倍が橋下を苦しめることは安倍にとって何のプラスにもならないから、総理総裁自ら公然と「反党行為」をやらかすって寸法だ。

 だから今回の大阪ダブル選挙は、明らかに「立憲主義と地方自治に対する反逆者(=橋下・安倍同盟軍)」と、それを止めようとする(橋下や安倍との比較においては)はるかにまっとうな勢力との対立構造なのである。このダブル選で、反逆者同盟軍を退治する必要があるのは当然だ。

 ところで、今回の選挙に出馬はしないものの、橋下が事実上の主役の1人であることはいうまでもない。しかしこの橋下、必ずしも保守や右翼にばかり育てられてきたわけではない。むしろ、「リベラル」が育ててきたモンスターであると言っても過言ではない。

 このことは、『kojitakenの日記』の記事「大阪ダブル選挙と『リベラル』と『クーデター』と」にも書いた。そこでは、橋下を時たま「橋下くん」と呼ぶ「リベラル」ブログの悪口を書いたが、当該ブロガーに限らず橋下に靡いた「リベラル・左派」ないし「左翼」の著名人は少なくない。それは橋下が「脱原発」を唱えた頃に特に顕著だった。

 テレビ朝日の『報道ステーション』で「I'm not ABE」と書いたフリップを見せて安倍晋三批判派から拍手喝采を浴びた古賀茂明や、2011年の東電原発事故を機に「脱原発の論客」として一時脚光を浴びた飯田哲也らは、「大阪府市特別顧問」になって橋下に取り込まれたし、「脱原発に頑張る橋下市長を応援しよう」と言い出した(元?)共産党系出版人(過去に共産党公認で参院選に立候補したこともある)もいた。ちなみに、この人は「左派(サハッ?)」界隈でいま流行(?)の「新9条」にも一枚噛んでいるのではないかと私はにらんでいる(ちなみに、彼が書いた憲法9条や集団的自衛権に関する平凡社新書の帯には、内田樹や池田香代子の推薦文が麗々しく飾られている。「新9条」は昨日今日急に出てきた話ではないのである)。

 あるいは、前記『kojitakenの日記』の記事にも書いたように、小沢一郎は2012年に民主党を離党して「国民の生活が第一」を立ち上げた頃、しきりに「私の考えは橋下市長と同じ」と言っていた。いわゆる「小沢信者」はもちろん、小沢支持者の中にもそんな小沢を批判する者は、私の知る限りほとんどいなかった。

 小沢一郎自身は自分が「リベラル」だとも「左派」だとも思っていないだろうが、「小沢信者」や小沢の支持者の中には、「リベラル・左派」あるいは新左翼の範疇に入る者が大勢いるだろう。そんな彼らがなぜ橋下に心引かれたり、そこまでいかずとも容認したりしたのだろうか。

 それは橋下が「反逆者」だからだろう。

 最近、1970年にジョン・トーランド(1912-2004)が書き、今年になってハヤカワ文庫の新版として刊行された『大日本帝国の興亡』(全5巻、単行本初出毎日新聞社1971, ハヤカワ文庫初版1984)を読んでいるが(まだ読了していないが、広島原爆投下直前のあたりまで、全体でいうと9割ほど読み終えた)、太平洋戦争の通史として書かれたこの本の第1章(この本の表記に従うと「一部」)の副題は「燃え上がる『下剋上』」であり、1936年の2.26事件から記述を始めている。

 ここで著者は下記のように書いている。

 反乱を起こそうとしていた青年将校たちの動機は、個人的な野心から生まれたものではなかった。以前にも、いくつかの集団が反乱を企てて失敗した例があったが、こんども日本社会の不正を正すために、武力と暗殺という手段を通じて彼らは立ち上がろうとしていた。日本には伝統的にそのような行動を是認する風潮があり、日本人はこれを「下剋上」と特別な名称で呼んでいた。この言葉は、地方の豪族は将軍の命に服せず、将軍はといえば天皇の命令を無視するという、反乱がどの階層にも頻発した十五世紀ごろに最初に用いられたものである。

(ジョン・トーランド(毎日新聞社訳)『大日本帝国の興亡』(ハヤカワ文庫,2005)第1巻32頁)


 著者は続いて「2.26事件」のイデオローグにして事件に関与した罪で処刑された北一輝に言及し、北を「社会主義と帝国主義を混ぜ合わすことに成功した民族主義者」(前掲書33頁)と評している。

 著者(私の見たところ、特にリベラルでも何でもないアメリカの「フツーの保守」であり、随所に反共的な記述も見られる)は、「下剋上」を日本社会の特質ととらえているようだ。「下剋上」を今の新聞は「下克上」と書くが、「克」に刃物を表す「刂」をつけた「剋」という文字を用いることによって、「武器を用いた『克(よくす=〜できる)』」、すなわちクーデターを意味する言葉であることが了解される。トーランドは「下剋上」という言葉にネガティブな意味合いを込めているようである。たとえば著者が「下剋上の権化」として挙げているのは辻政信だが、陸軍で「作戦の神様」との異名を取ったらしい辻政信は、しばしば暴走して敵味方の多くの戦闘員を不必要な死に追いやった極悪人として描かれている。辻は「ノモンハン事件」(実質的には「ノモンハン戦争」)でも大本営の指示を平然と無視して勝手に無謀な作戦を進めたあげく、敗軍の将に自決を強要したという鬼畜のような人間だが、受けた指示を平然と無視するようなところが「下剋上」好きの日本人の琴線に触れたのか、重大きわまりない戦争責任を負うべき人間だったにもかかわらず、戦後国会議員に立候補して何度も当選した(辻は、さすがに最後にはラオスで行方不明になって果てた)。

 私は本に描かれた辻政信から橋下を連想した。橋下は、憲法で戦争を放棄している現代日本の人間だから武力こそ用いないものの、「下剋上」で成り上がった人間だ。しかし、「下」から自分の力で這い上がった人間にしばしばあることだが、橋下は弱者に対して実に冷酷だ。橋下に関する出来事で私が忘れられないのは、大阪の私立女子高校生と論戦して彼女らを泣かせたことだ。橋下の嗜虐性には恐れ入ったが、橋下の大阪府政や大阪市政全体も、弱者に対して徹底的に苛酷なものだった。橋下と辻政信は、「下剋上」という言葉で括ることができる。

 そんな橋下を「同じ改憲派でも、立憲主義を無視する自民党と違って立憲主義を理解しているから、自民党の改憲案に対する批判勢力として活用したい」だの、「脱原発に頑張る橋下市長を応援しよう」だの、「私の考えは橋下市長と同じ」だのと言って甘い顔をし続けていたのが「リベラル」ブロガーであり、左翼の出版人士であり、(かつては「新保守」のエースだったが)今では「リベラル・左派」層を主な支持者とする政治家だった。

 つまり、橋下は「リベラル」「左派」「左翼」らが育てたモンスターであるといえる。

 これというのも、日本の「リベラル」「左派」「左翼」の意識が低く、為政者に力で取って代わる「反逆者」に依存し、その反逆者に無力な自己を同一化して溜飲を下げて事足れりとしてしまう受動的な体質からいつまで経っても脱却できずにいるからではないかと思う。

 橋下に限らず、小沢一郎なども「反逆者」といえる。小沢は竹下登の「創政会」結成に参加し、社会党を潰す目的で小選挙区を導入させた「政治改革」の流れで自民党を割って新生党を結成して細川護煕の日本新党と組んで政権を奪うなど、民主党入りして政権交代をなしとげる以前から、一貫して「クーデター」体質の政治家だった。その小沢に、[リベラル・左派」の支持者や「信者」が多数現れたばかりか、「社民」を党名に掲げる政党が、よりにもよってそのルーツである社会党を選挙制度の改変によってぶっ壊した張本人の「衛星政党」みたいな存在と化すという、想像を絶する倒錯ぶりを見せたあげくに、現在では絶滅に瀕している。

 小沢が、まだ政権を狙える立場にあった2012年に「私の考えは橋下市長と同じ」というのを口癖にしていたことは示唆的だ。つまり、小沢一郎とは「人気のない橋下」ともいうべき政治家だった。

 その小沢が頼りにした橋下は、落ち目の小沢を平然と袖にして石原慎太郎と組み、今また安倍晋三と実質的に手を組む人間である。それが橋下の正体なのだが、そんな橋下に空しい期待をしたのが、少なくない「リベラル」、「左派」、「左翼」の面々だった。

 もっとも橋下人気のピークは2012年であり、それ以降は基本的には衰勢にある。しかし、選挙戦における橋下の人心収攬術にものをいわせて、選挙の度にかんばしくないマスメディアの情勢調査を覆して延命してきたのが橋下一派だった。

 そう、2011年の統一地方選、2012年と2014年の衆院選などで、(大阪の)維新は、不利、苦戦などといわれた情勢調査をいつも覆してきた。

 松井一郎の圧勝が予想されている府知事選のみならず、接戦が予想されている市長選も、楽観は全く許されない。