きまぐれな日々

 2週間ぶりのブログ更新。先週は夏休みをとっていた。また2週続けて週末に『kojitakenの日記』もほとんど更新しなかった。意図したわけではないが、安保法案(戦争法案)の衆院強行可決から参院審議入りの間の中休みと梅雨明けと私の夏休みは重なった。

 さて、今日(7/27)も朝から猛暑で、39年前にロッキード事件で田中角栄が逮捕された日を思い出させるが(今日と同じ7月27日だった)、安倍内閣の支持率低下は止まらない。読売の世論調査(7/24〜26)でも前回(7/3〜5)よりも支持率が6ポイント減って43%、不支持率が9ポイント減って49%となった。とはいえ、読売の調査は自民党内閣支持への誘導尋問があることで悪名高いから、「まだ支持率が43%もあるのか」と思わせる数字になっている。また読売は、下記の記事に見るように、9月の自民党総裁選で安倍晋三を無投票3選させようと躍起になっている。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/20150724-OYT1T50146.html

石破氏、総裁選不出馬示唆…無投票3選強まる?

 石破地方創生相は24日、TBSの番組収録で、9月の自民党総裁選への出馬について問われ、「安倍内閣として、ものすごい大きな課題を負っている時に、閣僚の一人がそんなことを言えますか。内閣支持率を上げるのは閣僚たる我々の責任だ」と述べ、出馬を見送る考えを示唆した。

 動向が注目される野田聖子・前総務会長も、出馬に向けた目立った動きがないことから、安倍首相(党総裁)が無投票で3選する流れが強まりそうだ。

 石破氏は、内閣の課題として、参院での安全保障関連法案の審議や、新国立競技場建設問題などを挙げ、「内閣支持率を上げるため、それぞれの閣僚が担当している分野で頑張ることだ」とも語った。

(読売新聞 2015年07月25日 08時54分)


 私は石破茂はもちろん、野田聖子だって間違っても支持しないが、安倍政権がここまで人心から離れているこの期に及んでも、安倍の独裁政治を守ろうとする読売の報道はいかにも異常だと思う。

 安倍が保守層からの支持をも失っていることを痛感させられたのは、昨日(7/26)のTBSテレビ『サンデーモーニング』だった。この番組では、最近とみに右寄りの意見発信が強まってイライラさせられてきた田中秀征が、安保法案について「資金、人、危険の3つの面でアメリカの肩代わりをするものだ」、「これは決してしてはいけない、後戻りできなくなる」などと、強い危機感をにじませて反対意見を述べていた。そして、第2次安倍内閣発足から間もない一昨年(2013年)の年初の放送で、「政権が自民党に戻って本当に良かったと思う」とほざいた右派・新自由主義者の幸田真音(「まいん」と読むらしいが私は勝手に「まねー」と呼んでいる)までもが安保法案に反対する口ぶりの意見を歯切れ悪く述べた。

 反面、「なんだこいつ」と思わせたのが、朝日新聞に私の気に入らない「論壇時評」を何年も書いている高橋源一郎だった。私は毎年春になると、論壇時評の筆者変わってくれないかなあ、と思いながら、もう何年も裏切られ続けている。それどころか高橋は人気が高いらしく、過去の論壇時評をまとめたとおぼしき本を朝日新書から出しており、それがそこそこ売れているらしい。この高橋源一郎とか内田樹あたりが最近の「リベラル」に大人気らしいが、ご両人とも私とは合わない。

 前振りが長くなったが、高橋源一郎は安保法制が国会で通るだろうとの見通しを述べたのである。このブログでは、過去に同じ番組に出演した姜尚中が安保法案の審議を「消化試合だ」と述べたことを強く批判したが、高橋源一郎も姜尚中と同じだ。むろん高橋は安保法案に反対の立場なのだが、危機感が全くない。高橋は視聴者に迎合していると思しき幸田真音と五十歩百歩がせいぜいのところであって、保守の田中秀征が見せる危機感とは雲泥の差である。こんな人が「リベラル」から大人気というのだから頭が痛くなる。

 安保法案廃案と安倍内閣打倒によって、姜尚中や高橋源一郎に目にもの見せてくれる、と強く思う今日この頃なのである。
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 とうとうここまできたか、と思う。先週は国内のニュースでもっとも注目を集めたのは2020年の東京五輪に向けての新国立競技場の建設費が巨額に上る件で、TBSの『サンデーモーニング』もこれをトップにもってきていた。もちろん怪しからん話だが、もとをただせば東京五輪の誘致、それに石原慎太郎や森喜朗の跳梁跋扈を許した国民の民度の問題だ(朝日新聞もスポーツ面などを見ると、森喜朗のラグビー界への貢献を称える記事なんかが載っていたが、日本のスポーツ界に対する功罪を冷静に評価すると、森喜朗の貢献より罪の方がはるかに大きいと思う)。番組のトップにもってきて、普段は二番目のニュースを読ませるアナウンサーに最初の出番を与えるほどのものではない。番組で二番目に扱われた安保法案の件こそ、冒頭に持ってこなければならなかった。

 2006年の教育基本法改悪以来、安倍晋三の政治手法はずっと「ゴリ押し」一辺倒である。タカ派ながらまだしも常識をわきまえていた父の安倍晋太郎を疎んじ、ひたすら東条内閣の商工大臣だった元A級戦犯容疑者・岸信介を信奉する安倍晋三は「頭の悪い岸信介」そのものだ。いや、岸信介にはまだ、大間違いであったとはいえ「理想」を持っていたが(だから却って岸信介は安倍晋三以上に悪質であるともいえるが)、安倍晋三の場合は、「お祖父ちゃんが日本の『サヨク』にいじめられた」という被害者意識というかルサンチマン(弱者が強者に対して、「憤り・怨恨・憎悪・非難」の感情を持つこと)むき出しであって(だから安倍晋三の安保法案が立憲主義への「下からの」挑戦になり、それにネトウヨが共感するのである)、かつその安倍晋三が自民党内及び連立を組む公明党に対して、異論は絶対に許さないという独裁体制を敷いている。だから安保法案をめぐる政局は醜悪そのものだ。

 最近は保守派のみならず右翼の言論人やメディアも安倍晋三と距離を置き始めている。保守派の例を挙げれば田原総一朗であって、あたかも安倍晋三を批判しているかのようなタイトルの朝日新書を出している(中身は『週刊朝日』連載コラムをまとめたもののようで、巻末に安倍昭恵との対談を載せるなど、「羊頭狗肉」もいいところのようだ。もちろん私はそんな本は買わない)。また『週刊文春』を立ち読みしていると、このブログの右翼コメンテーターの中にもかつて支持を表明した者がいた右翼の適菜収が安倍批判派に転じていた。適菜については、かつて『kojitakenの日記』に「自称『哲学者』・適菜収ってバッカじゃなかろか?」(2012年5月9日)と題した記事で馬鹿にした通り、右翼でもあるけれどもそれ以前にどうしようもない俗物なのだが、おおかた安倍政権は長く持たないと計算して、安倍批判派に転じたものであろう。『週刊文春』自体も安倍批判を打ち出していることはいうまでもない。

 反面、ダメダメなのが『週刊現代』や『サンデー毎日』といった、かつて第1次安倍内閣時代に積極的に安倍晋三を批判していたメディアである。『サンデー毎日』は政治評論にあのインチキ男・鈴木哲夫を起用するようになってすっかりダメになった。鈴木哲夫とは、橋下徹にもシンパシーを示す「小沢信者」にして、某「リベラル」ブロガーのお気に入りの「政治評論家」であるが、私から見れば『サンデー毎日』を右に寄せただけの、百害あって一利なしの人間である。また、『週刊文春』までもが安倍批判に転じている中、『週刊現代』がいまだに安倍批判を強く打ち出せない。かつて同誌によく登場して安倍批判を牽引していた立花隆も、一体何を考えているのかまったくの「音なしの構え」である。概して、「リベラル」の反応が鈍い。最近は前記の2つの週刊誌を立ち読みすることはほとんどない。学者でも姜尚中や藤原帰一といった「リベラル」と目される連中のていたらくは目に余る。

 そんな「リベラル」のダメさ加減を反映するかのように、民主党(この政党はリベラル政党ではなく保守政党であると私は考えているが)のやる気のなさもひどいものである。結局、安保法案が今週の強行採決か、または来週の維新の党が採決に加わった上での採決のどちらになるかは知らないが、どちらかにはなるであろうと思われる情勢に至った最大の戦犯は民主党であるというほかない。『日刊ゲンダイ』が「小沢(一郎)が廃案に動く」という与太記事を書いたのはもう2、3週間かそれ以上前だったと思うが、もちろん小沢にそんな影響力はもはやないし、そもそも憲法解釈を変更して集団的自衛権行使を認めろという、昨年安倍晋三が実行したことの言い出しっぺは、ほかならぬ小沢一郎自身である。

 こうしたダメな「リベラル」だの民主党だの小沢一郎と信者たちだのに助けられて、安倍晋三となかまたちはわが世の春を謳歌しているが、このところの台風の北上で急に蒸し暑くなった気候よりもさらに暑苦しく、不快指数無限大といったところだ。

 その増長ぶりは、百田尚樹を呼んで沖縄の2つの新聞は潰さなあかんと言わせたり、経団連は企業に「リベラル」系の番組から企業にスポンサーを降りさせろと言ったり(さすがに経団連からも白眼視されている)の言いたい放題だ。

 また安倍晋三御大が「安保法案を丁寧に説明します」といって登場したのが、なんと極右月刊誌『WILL』とネトウヨの巣窟・ニコニコ動画。しかも、ブログ『Everyone says I love you !』が紹介した通り『WILL』にはネトウヨと化した元自衛官が書いた「ご注進」の記事に複数の自民党議員が反応し、「自衛官が書いているブログの内容を批判して、おまけに書き直させようとしている」(前記ブログ記事より)ありさま。しかもそれを報じる日テレ日経には、政権与党の議員の妄動に対する批判精神が欠片もない。系列に日本最悪の極右放送局・読売テレビ(大阪)を抱える日テレだけではなく、日経の記事もひどい。以下引用する。

 出席者の一人は白書が紹介した女性自衛官がネット上で公開している文書が不適切だと問題視した。文書は旧日本軍の従軍慰安婦を「性奴隷」とする国連報告書をまとめたクマラスワミ氏との会談を「光栄」と記している。
(日本経済新聞 2015/7/7 19:50)


 あたかも重大な問題であるかのようなニュアンスを込め、女性自衛官が「安倍天皇」に対する「不敬罪」をやらかしたと言わんばかりの書きっぷり。異常である。正気の社会ではない。まさにリアル『1984』ともいうべき、異様な監視社会である。

 もはや安倍政権を一刻も早く打倒しなければならない。安保法案の廃案など当然だと思うが、「リベラル」氏は悠長に「できれば廃案」などと書くていたらく。

 あまりにも危機感が足りなさ過ぎるのである。
 安倍晋三への沖縄の野次と自民党3議員が百田尚樹とつるんでやらかした「言論弾圧」騒動で騒然となった先々週に対し、先週は一転して再び重苦しい雰囲気ながら自公が着実に安保法案成立に向けて歩を進め、それに対して民主党と維新の党の無策が目立つという、フラストレーションの溜まる1週間となった。

 6月30日に、一度は反省を口にしていた自民党の大西英男が再び「言論弾圧」の暴言を口にした時、これは野党が抗議して審議ストップにでもなるかと思いきや、「粛々と」審議時間が消化された。しかもあろうことか法案の衆院通過に向けてのスケジュールがマスコミに報じられるていたらくである。これでは民主党や維新の党は本当に法案成立を阻止するつもりがあるのかどうか、その本気度を疑わざるを得ない。

 昨日(7/5)、TBSのサンデーモーニングで岸井成格は、問題発言をした議員(大西英男、井上貴博、長尾敬)は外国だったら厳重注意処分程度で済むはずがない、自民党は除名すべきだと言い募る一方、これらの議員が安倍晋三に近い人たちであることが問題だとも言った。岸井は口にしなかったが、3議員の発言が安倍晋三の思っていることを代弁したものであるとは誰しも思うことだろう。

 しかし、3議員の問題発言に関する自民党の動きは、安倍晋三の意向を忖度するかのごときひどいものだった。先週発売された『週刊文春』(7月9日号)に「自民党は死んだ」と題した特集記事を掲載した。記事の中身はタイトルほど激しいものではな、いささか羊頭狗肉の感はあるものの、保守系の週刊誌に批判されるくらい今の安倍晋三と自民党はひどいということだろう。その『週刊文春』の記事から、自民党幹事長の谷垣禎一の呆れた対応ぶりを批判したくだりを以下に引用する。

 折しも、国会は安保法案の審議の真っ最中。安倍親衛隊議員の“言論封殺”発言は、野党に格好の攻撃材料を与えた。しかし、谷垣禎一幹事長の危機感は呆れるほど薄かった。

「翌日の午前中の会見で谷垣氏は『白熱した議論のときは、メディアから見れば不愉快な発言も出るかもしれません。またメディアのほうに時々、私どもに不愉快な発言があるのも事実。冷静に双方行きましょう』とニコニコして答えた。しかし、同じ日に二階俊博総務会長が『責任者が責任を取るべき』と発言し、公明党も強く反発したために、二日後に慌てて木原青年局長を更迭した。処分まで二日かかったことに、谷垣氏は『私はすぐ物事に対応するのが苦手なほうだ』と弁明し、失笑を買っていました」(与党担当記者)

(週刊文春 2015年7月9日号23頁〜「自民党は死んだ」より)


 これがかつて「スパイ防止法」に反対した「保守本流」の政治家のなれの果てである。この谷垣の醜態は、どんなに厳しく批判しても厳しすぎることはあるまいと私などは思うが、二階俊博に突き上げられてしぶしぶ木原稔を更迭し、3議員を「厳重注意処分」という実質的に何の処分でもない軽いお咎め(現に大西英男は問題発言を繰り返した)をした程度の谷垣禎一について、さる「リベラル」のブログは「温厚な谷垣激怒」などと書いた。何が激怒だよ、と読んだ私が激怒したことはいうまでもない。批判の強さで保守系週刊誌にも後れをとるようではまったくいただけない。

 結局大西英男は再度「厳重注意」を受けただけで放免された。私は、野党は大西の議員辞職勧告決議案を出して然るべきだ、また国会は空転して当然だと思ったが、そのような動きは何も起こらなかった。これには背筋が凍った。野党はここまで安倍晋三と自民党のやりたい放題を許すのかと驚き呆れたが、世間一般の「リベラル」たちがそんな野党のあり方を許容してしまっていることが、現在の野党のていたらくを招いているようにも思われる。

 結局、今回の安保法案をめぐる論戦で、一番まともな動きをしたのは憲法学者だったといえる。彼らは「立憲主義」を論点として、安倍晋三の安保法案(安倍晋三は現在国会に提出されている安保法案を「俺の法案」と呼んでいると伝えられる)が違憲であると主張した。この点に関しては、西修や百地章といった、御用学者としての卑しさが人相に滲み出ている異端の人間を除く大部分の憲法学者たちの意見が一致している。

 「立憲主義」というのは、法学部卒の方々にとってはおなじみの議論なのだろうが、世間一般によく知られている概念とは言いがたい。正直言って私も不勉強なことにあまり理解しておらず、最近になって2004年に長谷部恭男が書いた『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書)などを読んで泥縄式に知識を仕入れているていたらくである。上記にリンクした筑摩書店のサイトから引用すると、長谷部恭男は

日本国憲法第九条を改正すべきか否か、私たち一人ひとりが決断を迫られる時代が近づきつつある。だが、これまでの改正論議では、改憲・護憲派ともども、致命的に見落としてきた視点があった。立憲主義、つまり、そもそも何のための憲法かを問う視点である。

と書いている。この「立憲主義」の議論が、今回の「安保法案」を批判するのに有効だった。

 長谷部恭男の上記ちくま新書を引用している哲学者・國分功一郎の文章(昨年10月に『WEB論座』に掲載)が興味深い。以下引用する。

(前略)ここのところ、急に耳なれない言葉が注目を集めています。それが「立憲主義」という言葉です。

 これは憲法学者や政治学者でもなければ、知らなくてもおかしくない言葉だったと思います。そんなによく口にするものでもない。憲法があったりする国では当たり前の原則でしたし。でも、それが突然注目を集め始めた。特に今年に入ってからだと思います、この1年ぐらいです。

 きっかけは、集団的自衛権の行使容認をめぐる憲法解釈について、首相が「私が最高責任者だ」と言ったあの発言であったと思います。今年2月の衆議院予算委員会での発言です。もちろんこれはむちゃくちゃな発言です。いかなる権力も憲法によって制限されねばならないというのが立憲主義の考え方ですが、それを反故にするような発言ですから。

 しかし、この発言を支えている気持ちというのは想像できる。それはつまり、「自分は民主主義的な手続きを経て選ばれているのだ。なぜその自分が決めてはいけないのか」という気持ちですね。非常に稚拙なものです。しかし、これは想像できなくはない。

 この発言に反映されている気持ちは、民主主義を背景にした、権力の制限への反発として位置づけることができるでしょう。そして、まさしく、民主主義を背景とするこのような権力の暴走を抑えるために立憲主義という考え方があります。

 簡単に言うと、民主主義的な手続を経たとしてもできないこと、やってはならないことがあるという話です。例えば、人種差別を合法化するような法律を、民主主義的な手続を経てつくることは一応できますけれども、それは憲法で否定されてしまうわけです。

 だから、たとえどんなに民衆が望んでも、憲法の決まりによって「それはだめです」と言われることがある。民衆が〈下から〉権力を作り出すのが民主主義という仕組みであるとしたら、それに対して、「そこまではやってもいいけど、これ以上はだめです」と権力に〈上から〉制限を課してくるのが立憲主義という仕組みであるわけです。

(中略)

〈上から〉の制限に対する、〈下から〉の反発

 さて、こう考えていくと、立憲主義と民主主義というのは、なんとなくボンヤリと重ねられて「大切なものだ」「守るべきものだ」と思われているわけですが、そこにはある種の対立があることになります。

 両者は別に矛盾しているわけではありませんが、しかし確かに異なった方向性を持っている。したがって、「立憲民主主義」というのは近代が見出した大切な仕組みですけれども、そこには難しい問題が内蔵されています。立憲主義と民主主義はいったいどういう関係にあるのかという問題です。これはとても解決されたとは言えない問題です。

 この問題にどう答えるにせよ、立憲主義そのものの重要性は揺るがないでしょう。ところが、「私が最高責任者」発言のように、政治家が非常に素朴な発想で立憲主義を蔑ろにするようなことをし始めているので、これが現実の政治に関して問われるようになってきたわけです。

 しかも、先ほど述べたように、「私が最高責任者」発言というのは、立憲主義的な〈上から〉の制限に対する〈下から〉の反発と捉えることができるわけですが、現在は、この〈下から〉の反発が猛烈に強くなっている。この現象は、憲法に関してのみならず、いろいろなところに見いだせると思うんです。ある種のエリート主義的なものに対する〈下から〉の反発。僕はこれを現代版の「反知性主義」と呼んでいいかなと思っています。

(中略)とにかく今の政権や今の社会の雰囲気というのは、これまであった〈上から〉の規制に対して、〈下から〉怨念をぶつけるように反発している感じだと思うんです。それが「俺は民主主義的に選ばれているんだ。俺が決めて何が悪いんだ」という立憲主義的なものへの反発にも現れている。反知性主義的な反発ですね。

 そうすると、僕は立憲主義っていうのは非常に大切なものだと思いますけれども、今の状況に対して、上から目線で「立憲主義が大切」と説き伏せようにしても、怨恨混じりの下からの反発っていうのをむしろ増長するだけではないかという感じがするんです。僕なんかも本当にそういう態度に出たくなってしまいます。「あいつらは何も分かっていない」とバカにしたくなってしまう。でもそれではダメだと思うんです。

 ここで課題は二つあると思います。

 一つは、どうしてこういう怨恨混じりの反発が、いま、ここまで強くなっているのかを見極めることです。そのためには、戦後日本、戦後民主主義をもう一度考え直すことが必要になるでしょう。こういう政府、こういう世論を作り出したのが戦後日本だったのだという問題意識をもってこの70年を再検討することです。

 もう一つは、現在力をもっている怨恨混じりの反発に「民主主義」の名を語らせてはいけないということです。民主主義を単なる下からの反発に貶めてはいけない。立憲主義との緊張関係の中で民主主義を育んでいかねばならない。(後略)

(國分功一郎 【哲学で読み解く民主主義と立憲主義(3)】――民主主義と立憲主義はどういう関係にあるのか?(『WEB論座』 2014年10月20日)より)


 安倍晋三らの所業を、「下から目線」による立憲主義という「上から目線」の思想に対する挑戦だととらえるわけだ。これは非常に興味深い。なるほど、「ネトウヨ」に限らない草の根保守ないし右翼が安倍晋三に熱狂するはずだし、これまでしきりに「上から目線」を批判してきた「リベラル」がなかなか効果的なカウンターパンチを繰り出せないのも道理だ。

 私自身は「『上から目線』批判」に対する反批判をずいぶん昔からやっている。最初は2008年の大阪府知事選で橋下徹が勝った時に、「リベラル」のブログ群が「民主党が推した対立候補(熊谷貞俊)は『上から目線』だったから橋下に負けたのだ」と言っていたことを批判した時だった。私自身が書いた記事が「上から目線」だとして、当時の「リベラル」に批判されたことが「反批判」の記事を書いたきっかけだった。だが私の主張が広く支持されたことは一度もなかった。その後も橋下に関しては、「立憲主義を理解している橋下くん」へのシンパシーを表明する者や「脱原発に頑張っている橋下市長を応援しよう」などと言い出す者など、「リベラル・左派」からの橋下応援団の出現は後を絶たなかった。その橋下が現在、立憲主義に挑戦している安倍晋三に協力すべく、何やらうごめいているらしいことが昨日(7/5)あたりから報じられている。なんでも「関西維新の会」とかいう新党を立ち上げるという話だ。

 橋下の話はこれくらいにする。「上から目線」批判に対する反批判は、やはり専門知を持たない一般人では力不足で、立憲主義を熟知している憲法学者たちの奮戦があって初めて有効だったんだなと思う。一方、この憲法学者の批判に安倍晋三や自民党が手を焼き、業を煮やした「安倍親衛隊」たちが切れて暴挙に出たのを見て、リアルの政治も、やはり知性より感情によって動くんだな、とも思った。

 結局、安倍晋三が局面を押し切りそうな可能性が濃厚、少なくとも今月中旬から下旬のいずれかの日に安保法案が衆議院を通過することを覚悟せざるを得ない状況になっているように思われる。憲法学者の知性も、世間一般の人たちのエモーションを大きく動かすには至っていない。結局政権批判には、知と情の両面に欠けているところがあり、それが安倍晋三の無法を許してしまっていると思われる。

 少なくともここまでは、安保法案に反対する側の野党もわれわれ一般人も、先週まで書いてきた「怒りの温度が低い」ことのみならず、私自身も含めて知的努力が全く足りなかったのではないかと反省する今日この頃である。