きまぐれな日々

 橋下徹が仕掛けた「大阪都構想」の住民投票が僅差で橋下の敗北に終わった件は、大阪を除く日本全国での話題としては、住民投票前よりも住民投票後の方が盛り上がっている異常な様相を呈している。

 なにしろ、「ネオリベ」との蔑称で呼ばれることのある新自由主義者たちが、負け惜しみやら、住民投票で反対票を投じた大阪市民に対する誹謗中傷やら、果ては少し前に「小沢信者」がネットで展開して嘲笑を買っていた「不正投票」の陰謀論を有名テレビキャスターが大真面目で口にするなど、想像を絶する反対派バッシングを繰り広げたのだ。『kojitakenの日記』で取り上げた面々の名前を挙げると、辛坊治郎ちきりん、宇野常寛長谷川幸洋らだが、他にも池田信夫(ノビー)や田原総一朗らをはじめ同類はごまんといる。

 大阪のマスメディア、特にテレビ、5局の中でも読売テレビ、関西テレビと朝日放送の3局は橋下の応援団以外の何物でもないといわれる。さらにその中でも読売テレビが突出していて、その読売テレビに出演して害毒を撒き散らしているのが辛坊治郎である。しかし辛坊の悪口は『kojitakenの日記』にずいぶん書いたので、ここではこれ以上繰り返さない。

 時折大阪にお住まいの都構想反対派の方の悲鳴にも似たコメントを目にするのだが、メディアという権力を笠に着た橋下(とその一派及び応援団)の横暴は、他の都道府県に住む人間の想像を絶しているのではないかと思われる。橋下一派とその応援団は、有権者の半分(投票率を考慮すると3分の1かもしれないが)に戦争を仕掛けたようなものだと感じる。

 仮に、現在再び「大阪都構想」の住民投票が行われるなら、橋下に煽動されたメディアのバッシングによって居心地の悪い思いをさせられた人たちが投票行動を変え、賛成が多数を占めてしまうだろう。それは、「上からのファシズム」としか言いようがない性質のものだと思う。

 「大阪都構想」の住民投票をめぐる議論で、何よりも批判すべきは、こうした橋下とその一派及び応援団の暴力的所業である。それなのに、朝日新聞の元「天声人語」子・冨永格は「リベラル側に橋下徹がいない不幸」を説き、それに呼応して「橋下さんくらいファシストと遠い人はいないと思います。何でもかんでも『ファシズム』に結びつけるあるいはレッテルを貼る社会風潮こそ怖い。」などと見当違いの呟きを発する人士が現れる。だから「リベラル」は勝てないのである。

 今、橋下と同じ手法で強引な政治を行っている人間がいる。安倍晋三である。安倍晋三には橋下のようなカリスマ性はないが、橋下にはない「世襲貴族」という属性がある。今の日本は、いかに安倍が「ポツダム宣言」も知らない(理解していない)暗君であろうが、その暗君が独断専行を恣(ほしいまま)にできる脆弱な社会である。ましてや安倍晋三の権力の大きさは橋下の比ではない。

 住民投票で橋下に勝つのさえ薄氷を踏む「リベラル」が、敵の大将のカリスマを羨んでいるようなふがいなさでは、今後安倍晋三を倒す日がくる展望を開くのは、限りなく困難だ。
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 この日記でも『kojitakenの日記』でも、大阪都構想の住民投票は意識して取り上げないようにしてきた。昨年の衆院選で、投票日目前に橋下徹が「敗戦宣言」をしたのを取り上げてはしゃいでいたら、いざ蓋を開けてみたら維新の党がほぼ現状維持の結果で、ぬか喜びに終わってしまったからである。思えば2011年の統一地方選の頃から、維新が前評判を覆して勝つ結果が繰り返された。泣き落としなどの橋下の土壇場のパフォーマンスは、その度に功を奏してきたのだった。だから今回は黙殺に徹すると最初から決めていた。

 案の定、今回の住民投票でも、マスメディアの予想では反対が賛成を大きく上回っていたものの、昨日(5/17)のNHKなどの出口調査では賛成が反対をわずかに上回っていた。しかし、期日前投票では反対が賛成を上回っていたとされるため、大接戦となった。

 『kojitakenの日記』にも書いた通り、私は開票速報の生中継を見ていなかった。NHKをご覧になっていた読者の方のコメントを参照すると、広島と読売が激しく優勝を争った1986年のプロ野球セントラル・リーグを思わせる大接戦だったようだ。開票速報も途中まで賛成が反対を先行し、反対がやや差を詰めたかと思わせたところで飛び出したNHK・武田アナウンサーが反対多数になることが確実になったと告げたアナウンスは、さながら130試合中の129試合目にヤクルトのブロハードが読売の槙原から放った逆転2ランを思わせたとのこと。

 ブロハードの2ランはその年の読売の息の根を止めたが、昨日の住民投票の結果も橋下と維新の息の根を止めた。橋下は今年12月までの大阪市長の任期満了をもって政界を引退することを表明した。それを受けて、維新の党共同代表の江田憲司が代表辞任を表明した。さらには安倍晋三と菅義偉の改憲構想にも大きな打撃を与えたと論評されている。

 これほどの良いニュースは近年記憶にない。中でも、自民党大阪府連が橋下及び維新と戦っているのに水を差すような安倍晋三と菅義偉の妄動には怒りはおさまらなかった。そもそも大阪都構想と改憲に何の関係があるのか、さっぱり理解できない。だから、奴らの野望を挫いた今回の住民投票の結果には快哉を叫んだ。

 維新の党は野党第2党だが、その実体は橋下の個人商店である。2012年と2014年の衆院選では、質の低い政治家を大量に国政に送り出した。百害あって一利なしの政党だった。2012年の当選者の中には、橋下よりも石原慎太郎に近い連中がかなりいて、彼らは維新の分裂の際に「次世代の党」に参加した。山田宏と中田宏といった、かつて日本送信塔(東京スカイツリーか?)ならぬ日本創新党を立ち上げて2010年の参院選を戦ったものの議席ゼロに終わった連中や、どうしようもない下品な極右女・杉田水脈(みお)らである。しかし、彼らはしょせん橋下の看板なしでは当選などとても覚束ない程度の小物であって、めでたく全員落選した。

 今回は、維新の党に残った連中も橋下の看板を失うことになる。民主党から合流した連中は民主党に戻りたがるだろうし、大阪の連中は自民党に行きたがるのかも知れないが、後者は難しいだろう。維新の党は今後消滅への道をたどることは間違いない。

 もちろん橋下のことだから政界引退宣言自体を真に受けることすらできないが、それでも橋下がこれほどの大きな賭けに打って出て負けたことは、少なくとも橋下が大阪府知事選に挑んだ2008年以降には一度もなかった。その結果がやっと出たことは、とりあえずは肯定的に受け止めておいて良いのではないかと思う。
 安倍晋三は「未来志向」が口癖のようだが、昔からこの男の言動からは未来への展望どころか過去への郷愁ばかりしか感じられない。第1次安倍内閣時代には、(岸信介が総理大臣を務めていた)昭和30年代を舞台とした映画『三丁目の夕日』を安倍晋三が絶賛したと知って、それまで好きでも嫌いでもなかった原作の漫画が大嫌いになってしまったことがあるが、第2次・第3次内閣では安倍晋三はさらに退行し、岸信介が生まれ育った明治時代とその「富国強兵」の政治への郷愁を隠さないようになった。

 この連休中、出し抜けに「明治日本の産業革命遺産」の「世界遺産」登録をICOMOSが勧告したと聞いた。そんな話は寝耳に水だったが、マスメディアの解説によると、他に世界遺産登録候補があったのを押しのけて、強引な官邸主導で選定が進められたらしい。

 高度成長時代(1955〜73年=昭和30〜48年)は、比較的格差の小さな状態を保ちながら高度成長を遂げたことで、中高年の間には郷愁を抱く人が多いらしい。しかし、当時は公害がひどかった。私などは、高度成長時代といえば大阪の神崎川から臭う耐え難い悪臭や、中国あたりが核実験を行ったあとに言われた「今日の雨に当たったらあかん」と言われた言葉を思い出す。蛇足を書けば、私が蛇蝎のごとく嫌って止まないプロ野球・読売軍の9年連続日本一があり、長嶋茂雄や王貞治に憧れない少年は人間ではないかのようなふざけた風潮もあった。あんな時代に戻らされてたまるかというのが本音だ。

 しかしそれでも現憲法下の戦後ならまだ良い。安倍自民党による政権再復帰前後から、中学・高校時代から不勉強で日本史の苦手だった私は、つとめて明治維新以降の日本の歴史を勉強し直そうと努力しているが、多くの人々から不評を買っている戦争に突き進んだ時代はもちろん、明治時代の日本にも何の魅力も感じない。かといって江戸時代を「古き良き日本」として称える、一部の「リベラル」の間にまで浸透した考え方にも賛成できず、石原慎太郎が絶賛したという渡辺京二の『逝きし世の面影』という「古き良き日本」を称える本を読んでさえ、江戸時代なんかに生まれなくて本当に良かったと思った。あの時代には職業選択の自由などなく、それこそ格差(身分、階級)が固定された時代だった。

 「明治時代の産業革命遺産」についていえば、朝鮮半島の人々が強制労働を強いられたという韓国からの批判はもちろん、日本人労働者も過酷な労働を強いられ、搾取されたことは言うまでもない。日本の産業革命時代と聞いて私が反射的に思い出すのは、「あゝ野麦峠」の女工哀史である。

 もっとも、資本主義勃興期に当たっていただけあって、日本よりさらに過酷な労働者搾取が行われていたことで知られるイギリスの「産業革命遺産」も既に「世界遺産」に登録されているらしい。下記URLのサイトから引用する。
http://heiwa-ga-ichiban.jp/sekai/sub/sub26.html

世界遺産に登録されている重工業分野における近代化産業遺産は、ブレナヴォン産業用地(イギリス)、コーンウォールとウェストンデヴォンの鉱山景観(イギリス)、エッセンのツォルフェライン炭坑業遺産群(ドイツ)などがありますが、いずれもヨーロッパにおける近代化産業遺産です。明治日本の産業革命遺産は、西洋以外では最も早く重化学分野での産業化を達成したことを証明する資産として注目されています。


 ただ、中立の立場で書かれていると思われるこのサイトの記事にさえ、今回の「明治日本の産業革命遺産」への批判が書かれている。以下再び引用する。

ただ「明治日本の産業革命遺産」は・・・・・

もともとは「九州・山口の近代化産業遺産群」として登録運動が始まりましたが、登録資産を全国に広げ、名称を「明治日本の産業革命遺産」とし文化財保護を前提とする文部科学省主導ではなく内閣官房主導で登録が推進されました。
たまたま残されていた遺産を寄せ集め、ストーリーを作り、世界遺産への登録を果たそうというもので違和感を感じざるを得ません。特に、廃墟として放置されてきた端島(軍艦島)の場合、崩壊の危機にあり、その保存のため50~150億円かかるといわれています。それだけのお金をかけてでも世界遺産にする価値があるのかどうか、疑問です。


 軍艦島なんかを保存するのに税金をかけて良いのか。世の中にはなんちゃら構想の住民投票とかで息巻いている「身を切る改革」をキャッチフレーズにする「政党」があるようだが、軍艦島の世界遺産登録の動きについて何か言っているのだろうか。ネット検索をかけても何も出てこないが、仮に何か言っているとしてもどうせ賛成論に違いない。

 私は基本的に「明治日本の産業革命遺産」登録に好感を全く持たないが、仮に登録されるにしても、その負の側面へも思いを致すものでなければならないだろう。しかし、安倍政権にそれを期待するのはないものねだりというものである。

 さて、今回の「明治日本の産業革命遺産」で噴飯ものなのは、萩の松下村塾が含まれていることだろう。マスメディアはなぜかあまり話題にしないのだが、こんなものは安倍晋三による我田引水以外の何物でもあるまい。しかも、松下村塾に対しては「近代日本のテロリズム遺産」というネットでの批評があり、私もそれに同意する記事を書いたが(そもそも昔から私は吉田松陰に「右翼の元祖」とのレッテルを貼って嫌っていた)、それに限らず以前から吉田松陰に対する批判は活発に行われている。

 最近では3月19日付朝日新聞オピニオン面に掲載された小島毅・東大教授による批判があった。私も紙面で読んだが、「朝日新聞デジタル」では書き出ししか読めない。しかし、それを批評したブログ記事(下記URL)に共感したので以下に紹介する。
http://blogs.yahoo.co.jp/gon_chan_old/13224952.html

NHK大河ドラマ『花燃ゆ』がついに視聴率が1ケタを記録したという。私は3月19日の朝日新聞オピニオン、小島毅の「松蔭の『行動』への賛美 実は危うい」を私は読んでいたので、これで良いと思った。私も吉田寅次郎こと吉田松陰を「英雄」視するのは良くないと思う。

小島毅は朝日新聞オピニオンで吉田松陰の思想の「行動」への偏重を批判する。本人の寄稿でなくインタビューだったので、小島毅の批判する「行動」とは何であるかハッキリしないが、暗殺や内戦に至る暴力的「行動」を批判していると私は解釈してる。暴力的でない「行動」は必要な場合があると私は思う。困っている人をかわいそうだと思うだけでなく、手を差し伸べるほうが良いと思う。

私は、「行動」への偏重だけでなく、吉田松陰の「尊皇攘夷」の思想をも批判すべきと思う。「尊皇攘夷」の思想が、明治維新後も権力の中枢で生き残り、韓国、中国への侵略、太平洋戦争に至ったと思う。

「尊皇攘夷」とは「王を尊び、夷を攘う(はらう)」の意味である。

ここで注意したいのは、あくまで「尊」であって、権力の象徴に天皇をすえるが、実権は側近が握っても良いとしていることである。「尊皇」とは、国家儀礼による国家統治を主張する幕末期の儒学のスローガンである。島薗進の『国家神道と日本人』(岩波新書)は、明治政府の儒学者たちが、いかに皇室祭祀を国家儀礼とし天皇を神格化したかを、実証的に記述している。
また、「攘夷」の本質的問題は、「開国」か否かではなく、日本国が邪悪な「列強」に囲まているという危機意識、被害者意識にある。19世紀末には、すでに、欧米には「個人」や「人権」という概念があった。ところが、暴力で権力を握った明治政府にとって、欧米の人権思想は困るもので、「和魂洋才」をスローガンとし、人権や社会主義を唱える活動家を弾圧した。そして、この道しかないと「富国強兵」の道をばく進した。

「尊皇攘夷」は形を変えて、現在も生き残っている。

現在の天皇や皇太子は健全な教養人なので、権力者にとって儀礼による統治に利用できない。その代りに、国旗掲揚、国歌斉唱という形で、国家儀礼を個人に押し付けている。小学校、中学校、高校だけでなく、大学までそれを強要し始めている。1891年(明治24年)、内村鑑三は、第一高等中学校の講堂での教育勅語奉読式において「最敬礼」をおこなわなかったと、とがめられ、教師の職を失った。教育勅語に対する頭の下げ方が足りないというものである。現在でも、国旗掲揚、国歌斉唱で職員の起立が求められ、それに従わない職員が処分されるのは、異常なことである。

「攘夷」も日本で生き残っている。「国際競争」に勝つことが働く人の人権よりも優先されている。さらに、韓国や中国の「脅威」を誇張し、自衛隊の「軍隊」への昇格、憲法9条の改正を唱える者が、日本で政権を握っている。

私は、儀礼による統治を主張する孔子より、個人が自由に生きることの素晴らしさを語る荘子が好きだ。私は、早く、「尊皇攘夷」の亡霊を歴史の舞台から追い出したい。

(『猫じじいのブログ』 2015年4月27日付記事「『尊皇攘夷』の亡霊、私は孔子より荘子が好きだ。」)


 吉田松陰の「尊皇攘夷」の思想こそ批判すべき。本当にその通りだと思う。私は、吉田松陰のテロリスト的体質も大嫌いだが、そもそもこの「尊皇攘夷」の思想こそ、昔から嫌ってやまなかったものなのだった。

 だが、安倍晋三的右翼はもちろん、昨今の「リベラル」からも「尊皇攘夷」の思想に対する批判精神は極めて稀薄なのではないか。それが安倍晋三を大いに助けているのではないかと思う今日この頃なのである。
 昨年はゴールデンウィーク中のブログの更新を休んだが、今年は記事を書く。憲法記念日の5月3日付朝日新聞の社説に気になった箇所があったからである。

 4月7日付夕刊に池澤夏樹の「左折の改憲」論を掲載したほか、このところの紙面に見られる露骨な日和見ぶりからして、一部には憲法記念日の紙面で朝日が社論を改憲寄りに転換するのではないかとの見方もあった。しかし私は、世論調査でで9条改憲反対派が賛成派を圧倒している現状から見て、今年の社論転換はあり得ないと思ったし、その通りになった。しかし、その一方で、朝日は将来の社論転換への布石を打つのではないかとも予想したが、これも残念ながら当たったと思う。

 今年の朝日の憲法記念日の紙面は、1面トップの見出しが「首相、改憲へ迂回戦略」であり、礒崎陽輔や船田元らが公言している「憲法改正を国民に1回味わってもらう」という、自民党の狙いを指摘する記事だった。社説でもこれを捉えて自民党を批判している。

 そもそも礒崎や船田が公然と口にする、国民を馬鹿にした企みに騙される国民などどれくらいいるのかと思うのだが、政界とは不思議な人たちの集まりで、最初から安倍晋三の援軍である次世代の党や維新の党ばかりではなく、現在はもっともらしいことを言って自民党批判に回っている民主党や生活の党にしたところで、いつ寝返るかわかったものではないから、自民党の動きを批判的に報じておくのは悪いことではないだろう。

 しかし、朝日の社説で一番引っかかるのは、タイトルが「上からの社説をはね返す」となっていることだ。このタイトルから私が真っ先に連想したのは、この記事の最初の方にも書いた池澤夏樹の「左折の改憲」論である。朝日の社説には、安倍自民党の「上からの改憲」には反対だが、(矢部宏治や)池澤夏樹流の「下から(左折?)の改憲」なら良いとでも言うのか、と勘繰ってしまった。

 朝日の社説は、いわゆる「押しつけ憲法論」に触れ、これを批判しているが、矢部宏治がそのトンデモ本『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』で主張し、池澤夏樹が共感しているのも「押しつけ憲法論」にほかならない。矢部に感化された池澤の「左折の改憲」など、安倍晋三の「右折の改憲」に回収されてしまう以外の何物でもないと思うのだが、朝日はいつそちら側に転んでしまうかわからないという危惧を持った次第である。

 それに、朝日の社説は「憲法を一字一句直してはならないというのではない」と書くのだが、一般論としてはそれが正しいのかもしれないが、それはまともな相手と対する時の話である。礒崎陽輔や船田元の「お試し改憲論」などというふざけた議論を敵が仕掛けている現状において、同じ社説で批判しておきながら、わざわざ「憲法を一字一句直してはならないというのではない」と書くのはあまりにも戦術的にお粗末である。つまり、敵を助ける可能性が高い。

 私は、右派の声が異様なまでに大きい現時点において、「憲法を一字一句直してはならないというのではない」と主張するのは賢明ではないと思う。せめて「安倍政権下においては憲法改正に手をつけるべきではない」程度のことは書いてほしかった。さもなければ、今後予想される憲法改正をめぐる攻防戦に勝ち目などないのではないかと思った次第である。