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きまぐれな日々

 2週間ぶりの更新になるが、その間、集団的自衛権をめぐって国論が二分された状況になっているようだ。

 私は普段読売だの産経だのといった新聞をほとんど読まない。産経は、ネットでくだらない記事をたくさん読まされるが、読売にはその機会すらないので、たまに読売新聞の実物を手に取って眺めてみると、集団的自衛権の政府解釈変更のイケイケドンドンの主張には驚かされる。しかし、文化面や日曜日の読書面では、そのような偏りはあまり見られない。最近は、朝日の文化面も、高橋源一郎に論壇時評をやらせて好評とやらで悦に入っているていたらくである。

 読売とは対照的なのが東京新聞で、朝日でもやらない思い切った記事が並ぶ。一時期、隣の芝生が青く見えた時期があったが、日本未来の党を強烈に推した時の印象があまりにも悪く、それ以来、購読紙を東京新聞に代えようとは思わなくなった。

 岩波新書の新刊『日本は戦争をするのか―集団的自衛権と自衛隊』の著者・半田滋氏は、中日新聞の編集委員兼論説委員である。栃木出身の半田氏は、最初地元の下野新聞記者としてスタートし、1991年に中日新聞社に転職した。1993年に防衛庁防衛研究所特別課程を修了した防衛問題を専門とする記者のようだ。

 和歌山市在住の弁護士・金原徹雄さんのブログ経由で、本書の冒頭に置かれた「はじめに」から抜粋する。

 本書は、安倍政権が憲法九条を空文化して「戦争ができる国づくり」を進める様子を具体的に分析している。法律の素人を集めて懇談会を立ち上げ、提出される報告書をもとに内閣が憲法解釈を変えるという「立憲主義の破壊」も分かりやすく解説した。
 憲法解釈が変更され、集団的自衛権が行使容認となれば、将来、起こるかもしれない「第二次朝鮮戦争」で何が起こるのかを自衛隊の極秘文書を基に詳細に記した。米国から「強固な国粋主義者」と呼ばれる首相の驕り、勘違いの数々と、憲法の枠内で頑張る自衛隊の活動との落差も知ってほしい。自衛隊の中に潜む、首相と共通する心情が目覚めかねない危険も書き込んでいる。


 実を言うと、私はまだこの本を半分くらいまでしか読んでいない。200頁そこそこの本だからすぐに読めるのだが、一昨日は土曜日に運動して疲れたあと、昨日、少しばかり今週の仕事の準備をしたあとに読み終えようとしたが、ブログの記事を書き始める時間に間に合わなかったのである。それで、本をほぼ半分くらい読んだ時点での感想を少し記すにとどめる。

 これまで、集団的自衛権について書かれた新書本として、浅井基文(集英社新書,2002)、豊下楢彦(岩波新書,2007)、松竹伸幸(平凡社新書,2013)の3冊を読んだ。浅井氏は第1次小泉内閣、豊下氏は第1次安倍内閣、松竹氏と半田氏は第2次安倍内閣時代にそれぞれ本を書いた。つまりそれらの時期に「集団的自衛権の政府解釈変更」をめぐる議論がなされたことを示す。小泉純一郎と安倍晋三、さらにさかのぼって小沢一郎の3人を「集団的自衛権3人衆」と呼んでも過言ではあるまい。それらのうち2人までをも持ち上げるのが、いまどきの「リベラル」である。

 それはともかく、半田氏の本の大きな特徴として、安倍晋三の異常さをこれでもかこれでもかと描写し続けていることが挙げられる。これは私の心の琴線に触れた。というのは、私は小泉内閣時代に安倍晋三が内閣官房副長官として頭角を現してきた頃から安倍晋三を嫌悪してやまず、2006年にブログを開設するきっかけになったのも、安倍晋三の総理大臣就任を阻止したいと思ったからという人間だからである。他に嫌いな政治家として安倍晋三に肩を並べるのは石原慎太郎と橋下徹くらいのものであり、小泉純一郎や小沢一郎にさえ、安倍晋三に対するほどの嫌悪感は催さない。

 たとえば岸信介に言及する時、著者は「安倍首相の母方の祖父」との枕詞を一度ならずつけているが、私も岸について書く時は必ず「安倍晋三の母方の祖父」と書く。これは単なる表層的な例だが、節のタイトルから一部を引用すると、「オバマに嫌われている」/フェイスブックで元官僚を批判/「こういう憲法でなければ、横田めぐみさんを守れた……」/解釈改憲狙った内閣法制局人事/首相による「クーデター」などなど。そもそも第1章のタイトルが「不安定要素になった安倍首相」である。

「フェイスブックで元官僚を批判」の節の「元官僚」とは田中均だが、著者は安倍晋三が発したフェイスブックの文章を引用して、

 日本の首相がこれほど感情的な文章を公表した例はほかに知らない。秘密にすべき外交にかかわる政府内部のやり取りを、だれでも読むことができるフェイスブックで公にした点も注目に値する。(本書20頁)

(前略)身内同然だった官僚から批判されたことに我慢がならなかったのだろう。子どものように筋違いの過去の因縁話を暴露して、うっぷん晴らしをしている様は首相の品格を疑わせる。(同21頁)

などと書いている。

 さらに、第2章「法治国家から人治国家へ」の冒頭部分を引用する。「人治」の「人」とは安倍晋三のことである。

 「最高の責任者は私だ」

 為政者が「法の支配」を無視して、やりたい放題にやるのだとすれば、その国はもはや「法治国家」ではない。「人治国家」ということになる。ならず者が街を支配して、「俺が法律だ」と言い放つのと何ら変わりない。

 安倍晋三首相は、憲法改正ではなく解釈変更により集団的自衛権の行使を容認できるか問われ、こう答弁した。

 「先ほど来、法制局の答弁を求めていますが、最高の責任者は私です。政府答弁に私が責任を持って、その上で私たちは選挙で国民の審判を受けるんですよ、審判を受けるのは法制局ではないんです。私なんですよ」(二月十二日衆院予算委員会)

 意味するところは、「国会で憲法解釈を示すのは内閣法制局長官ではなく、首相である私だ。自民党が選挙で勝てば、その憲法解釈は受け入れられたことになる」ということだろう。

 第二次安倍政権は特定秘密保護法を強行採決したり、首相本人が靖国神社へ参拝したりとやりたい放題である。自民党と公明党の与党は衆参両院で過半数を占め、安倍内閣の支持率は高い。思い通りにやってどこが悪い、というのが本音ではないだろうか。

 この日。安倍首相は野党議員が内閣法制局次長に繰り返し、答弁を求めたのにいらだち、席に座ったまま「おれ総理大臣だから」「法制局の方が偉いのか」と答弁を求め、この「最高責任者は私だ」発言に至った。中世のフランスで絶対君主制を謳歌したルイ十四世の「朕は国家なり」を彷彿とさせる。

(半田滋『日本は戦争をするのか―集団的自衛権と自衛隊』(岩波新書,2014)35-36頁)


 しかし、そんな安倍晋三を持ち上げるのは何も自民党の政治家に限らない。たとえば日本維新の会(怪)の参院議員・中野正志は安倍晋三の答弁を受けて「さすがでございます」などと持ち上げたという(本書45頁)。そしてそんな政党の共同代表を「私と考えは同じ」と持ち上げた泡沫政党の党首・小沢一郎にいまだにすがるのが日本の「リベラル」というものらしい。

 著者が力説する安倍晋三の異常さについては、著者の書く通りだと思うけれども、そんな安倍晋三に約半数が支持を与えてしまっている現状を思うと、空しさは募るばかりである。

 日本国民は、つい7年前には、参議院選挙で安倍晋三に「ノー」を突きつけ、ついに安倍晋三を政権の座を投げ出させたことがある。そのあとに政権を担った民主党のぶざまさがあったとはいえ、他の政治家ではなく安倍晋三をわざわざ党の総裁に選んだ自民党を容認できる忍耐強さは、短気な私には到底理解できない今日この頃なのである。
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 先週は連休中を理由に更新を休んだ。2週間ぶりの更新になる。

 当ブログは先月16日で開設後丸8年を経過した。しかし、ここ数年、特に2011年に東日本大震災と東電原発事故が起きた時に、私が使用しているサーバー "blog63" でひどいトラブルが起きたのを境に、当ブログの活性が次第に落ちて行った。こう書くと他人事みたいだが、実感はこの通りなのだ。それくらい、あの時のトラブルとFC2の対応は酷かった。当時、たまたま同じサーバーを使っていた某有名ブログは、FC2を見捨てて以前使っていたブログサービスに戻っていったものだ。

 原則として毎週月曜日に公開する当ブログは、前日の日曜日に書き始めるが、書き出す時点で大体の構想はあるものの、当初の構想を記事に盛り込めないまま終わることが少なくない。

 上記の、記事に盛り込めなかった題材の一つが、4月24日付の朝日新聞に掲載された「論壇時評」と同じ頁に掲載された批評家・濱野智史氏のコラム「あすを探る」だった。ちなみに、同じ紙面に掲載された高橋源一郎の「論壇時評」を私は全く買わないが、朝日の読者の間では高橋の「論壇時評」は人気があるらしく、今年で連載4年目になる。あんなダメ時評が4年も続くこと自体、朝日新聞の劣化の象徴だと私は思っている。先日も本屋で、高橋と内田樹が2009年に出した共著が文春文庫に入っているのを手に取ったが、彼らが時代を見通す目を持っていなかったことを証明する以外の何物でもないこんな本の文庫化を認めたあたりに、私はこの2人の救いのなさを感じるのである。

 高橋源一郎(1951年生まれ)の毎度毎度低劣な「論壇時評」とは対照的に、若い濱野智史(1980年生まれ)の批評は面白かった。その冒頭部分を引用する。

 政治家、特に安倍首相とその側近たちとの妄言が相次いでいる。その多くが歴史認識問題や憲法解釈をめぐるものだが、筆者が特に気になったのは、「今月の3点」でも取り上げられた、首相が観桜会で詠んだという次の句である。「給料の 上がりし春は 八重桜」。東大教授の安冨歩氏はこれを見て、ツイッター上で「八重にあがるは 消費税かな」と見事な下の句をつけて皮肉った。確かにこの首相の句がまずいのは「日本人の大半が正規雇用者であり、春闘を通じて給料が上がった」と考えているようにしか見えないことだ。この句を見たら、例えば非正規雇用の立場にある多くの人がどう思うのか、どうやら全く視野に入っていないのである。これは由々しき事態だ。

 政治家の妄言は今に始まったことではないが、あまりに知的レベルが低いとしか思えない発言が連鎖する現状を、どう考えたらいいのだろうか。(後略)

(2014年4月24日付朝日新聞「論壇時評」掲載「明日を探る メディア 〜 政治家の妄言と『世界』喪失」(濱野智史)より)


 この安倍晋三の「句」は、季語が2つ(「春」と「八重桜」)あるという、「二重季語」の禁則に抵触するうえ、「上がりし」の「し」は、自ら経験したことについて用いられる助動詞「き」の連体形であることから、「安倍総理は自分の給料が上がって喜んでるのに違いない」などと、国語を学んでいる高校生から馬鹿にされていると聞く。

 だが、こんな無教養な馬鹿者を党の総裁にした自民党を、2012年の衆院選と2013年の参院選で第一党に選んだのは、選挙権を持つ日本の成人であって、要するに安倍晋三の「知的レベルの低さ」は、日本人の平均的な成人の知的レベルの低さの反映にほかならないのである。安倍晋三に向かって「王様は裸だ」と言えないのは何も自民党の政治家に限らないのであって、それどころか安倍晋三に反対する陣営においても、安倍晋三に負けず劣らずの「裸の王様」だった小沢一郎に向かって何も言えないどころか、小沢を信奉する「小沢信者」なる集団が出現し、「反自民」の文化人たちも彼らに迎合した。内田樹はその典型例だったし、その内田とつるんだ高橋源一郎も同罪と言うほかない。

 母方の祖父・岸信介に対する崇拝だけが言動の動機と思われる安倍晋三は、具体的な政策になるとブレーンに丸投げだが、その内容がまたひどい。大企業の正社員しか視野に入っていないとの濱野智史の批評だが、かつて大企業の正社員だった私の目から見れば、大企業の経営者しか視野に入っていないと思われる。その好例が7年前にも失敗した「残業代ゼロ」構想であり、「職務発明は企業のもの」という特許法改「正」のもくろみである。

 「残業代ゼロ」の表現は正確ではなく、実際には、一定時間の残業手当に相当する手当と引き替えに、残業時間無制限の勤務を受け入れる「裁量労働制」と呼ばれる労働形態であって、私は20年以上前に経験がある。この形態に転換する以前に受け取っていた残業手当と比較すると、裁量労働制を選択することで得られる手当は微々たるものであり、賃金は激減した。むろん、成果をあげていれば残業は不要で手当だけを受け取れるのであるが、そんな恩恵にあずかった者など、少なくとも私の知っている範囲では誰一人としていなかった。

 大企業で「成果主義」が声高に言われるようになったのは1990年代前半であり、そういう流れの中に小沢一郎もいたのであるが、そんなことをいつまでも覚えている私のような人間は例外中の例外であり、だから一時期の小沢一郎だの現在の安倍晋三だのが抵抗なく人びとに受け入れられるのだろうが、とんでもない話である。

 そして、「成果主義」にとらわれ始めた大企業は、ある業種でバブルが弾けて業績が悪化したりしたら、すぐに従業員の首を切るようになった。日本の大企業においては解雇は難しいなどというのはとんでもない大嘘であり、従業員を「自己都合退職」に追い込む悪質な手口をよくご存じの90年代の大企業の従業員は少なくないはずである。

 仮にバブルが弾けても、一定の時間が経てば再び業績が回復する例は珍しくないのだが、現実に起きたのは、リストラされた技術者が韓国の財閥系大企業などに再雇用され、日本企業が持っていた技術が流出する事態であった。

 そして、その傾向を助長すると思われるのが、「職務発明の特許権は企業のもの」とする安倍政権の「成長戦略」である。この件は最近も報じられたが、安倍政権発足半年後にも報じられたことがあった。当時のブログ記事(下記URL)から引用する。
http://1000nichi.blog73.fc2.com/blog-entry-3467.html

 上記ブログ記事は長いので、詳しくはリンク先をご参照いただきたいが、昨年この件を報じた朝日新聞は、

 だが、企業に特許権を帰属させれば、研究者が開発意欲をそがれ、特許権を従業員側に帰属させる米国など海外に流出して日本の競争力強化に逆行する可能性もあり、議論を呼びそうだ。

と書いたし、"SankeiBiz"(ブログ主によると、「同じ社内の産経新聞と違って自民党との距離を健全に保っている記事が多い」とのこと)は、

モチベーションが下がった有能な開発者たちが、チャンスを求めて海を渡る可能性は否定できない。

と書いている。

 私の知る限り、エンジニアという人種にはプライドの高い者が多く、私の知人で、普段政治問題に関しては国粋的傾向の強い主張をする人間でさえ、「いざとなったら韓国にでも中国にでも出て行くさ」とうそぶいていた。もう10年以上も前の話である。それを記憶する人間としては、安倍政権は日本の工業を滅ぼそうとしているとしか思えない。また、ネトウヨたちには、彼らが嫌う「日本から韓国や中国への技術流出」を加速させる政策を安倍政権がやろうとしていることを知ってほしいと思う。

 もっとも、従来私がもっとも恐れていたのは、国家主義的な政治勢力が「経済左派」的な政策を掲げることであった。そうなったらナチスの再来であり、ファシズムの脅威が訪れる。しかし、無能な安倍晋三は前回の政権の時も現在も、新自由主義的なブレーンや経団連などのいいなりの政策しか志向していない。

 そんな安倍晋三であるなら、前回同様打倒できるチャンスは十二分にあると思っていたのだが、現実には、安倍晋三は「八重桜」云々の廃句を口走るなどの痴態を演じているのに、その政権支持率は高止まりしていて、政権崩壊の兆しなど全く見えない。

 さすがに、このような事態は、一昨年末の衆院選で自民党(安倍晋三)が政権を奪回した時には、全く想像もできなかった。