http://pari.u-tokyo.ac.jp/column/column107.html
書き出しの部分を引用する。
集団的自衛権の行使は憲法に違反しないという解釈を日本政府が提起している。米国政府の要請が背後にあると考えるのが普通だろう。集団的自衛権を否定することで日米同盟における日本の軍事協力が狭い範囲にとどめられてきたことに対し、米国政府は繰り返し不満を表明してきたからだ。しかしいま、そんな歓迎や圧力は、少なくとも公式には認めることができない。
(藤原帰一「東アジアの緊張 ― 深まる米国のジレンマ」(2014年3月18日付朝日新聞夕刊掲載)より)
なぜかと言えば、中東から兵力を撤収したアメリカは、次の政策課題として、東アジアにおける安定と繁栄を掲げており、アジアにおいてアメリカは「(強大化した中国の)抑止は求めても実戦は回避したい」というジレンマを抱えているからだという。再び藤原帰一の論考から引用する。
そのジレンマを端的に表現するのが、尖閣諸島をめぐる日中両国の緊張である。尖閣諸島の国有化を宣言した日本に対して中国政府と中国社会が極度に強硬な反発を示した2012年9月以後、米国政府は中国への軍事的牽制を強めるのではなく、むしろ日中両国の妥協を模索した。日中間の領土紛争のために米中戦争の危険を冒す意思はないからである。
アメリカ単独で力を行使しないのなら、同盟国の協力を強めるほかはない。だが、慰安婦をめぐる日韓両政府の対立を典型として、それぞれの国内政治に根ざした地域対立をアメリカが打開することは難しい。また、東アジアの緊張を招いた主な原因は中国政府の行動であったが、就任後ほぼ1年慎重な外交に終始した安倍首相は、昨年12月に靖国神社に参拝したために、日本が緊張拡大の引き金となる懸念を招いてしまった。東アジア諸国の対立を前にしたアメリカは、自らの軸足を動かすだけでは打開を見込むことのできない東アジアの緊張を見守るほかにないという状況に追い込まれていった。
集団的自衛権に対して行われたこれまでの批判の基底には、日米同盟のために日本が戦争に巻き込まれるという懸念があった。だが、いま戦争に巻き込まれることを懸念しているのは、日本よりはむしろアメリカのほうだ。安倍政権の集団的自衛権容認方針を前に慎重な立場に終始するアメリカの背後には、地域各国を操作する力の乏しいアメリカという現実がある。
私は、国際社会の一員として日本政府が必要な武力行使に当たることが必要な状況は存在すると考える。だが、いま求められるのは、アメリカが軍事介入を行う意思の乏しいなかで東アジアの安定を実現することであり、歴史問題に関する日本の孤立の解消や日韓関係の打開である。戦わないアメリカのもとにおける安定の模索が、集団的自衛権の容認よりもはるかに切迫した課題であると私は考える。
(藤原帰一「東アジアの緊張 ― 深まる米国のジレンマ」(2014年3月18日付朝日新聞夕刊掲載)より)
そうであるなら、訪日したオバマは、安倍晋三との首脳会見で、共同声明に「集団的自衛権の行使の検討を歓迎、支持する」という文章を盛り込むべきではなかった。しかし、それは盛り込まれた。それにはもちろん事前における日本側からの猛烈なアプローチがあったからだ。日本側は、藤原帰一が論考の冒頭で指摘したような、集団的自衛権の政府解釈変更は、もともとアメリカが強く要請していたという既成事実を最大限に利用したのである。
集団的自衛権の政府解釈変更とセットになっているのは、「尖閣諸島を日米安保条約の対象とする」ことをオバマに認めさせたことであって、安倍晋三はこの2つによって、「尖閣で有事が起きた場合、アメリカを戦争に巻き込む」ことの、文字通りの「お墨付き」を得たのであった。
この事実は大きい。たとえば朝日新聞は、自社が強硬な推進論を唱えるTPPの合意が先送りになったことを連日一面トップにもってくることで、集団的自衛権と尖閣の問題をことさらに矮小化しようとしている。しかしそれは全く誤った報道姿勢である。日本の次に韓国を訪問したオバマが、いかに従軍慰安婦問題を「甚だしい人権侵害」だと言ったところで、日本の内政問題の観点から言えば、「集団的自衛権の行使の検討を歓迎、支持する」と「お墨付き」を与えてしまった影響を打ち消すことはできない。あるいは日韓関係の悪化に対しては多少の抑止力にはなり得るかもしれないが、日中関係悪化の抑止には全くならないことは明らかだろう。
今にして思えば、高村正彦だの谷垣禎一だのが最近、集団的自衛権の政府解釈変更を容認するなり積極的に推進するなりの姿勢を打ち出すようになっていたのは、日米首脳会談の下交渉で、安倍政権のアメリカへのアプローチが功を奏していた情報をつかんでいたからではないか。私はそう想像する。
藤原帰一の論考に即して解釈すると、オバマは今回の日米首脳会談において、「日中戦争にアメリカが巻き込まれるリスク」をわざわざ高める行為を冒してしまったわけで、オバマの失態といえると思う。むろん、集団的自衛権の政府解釈変更はもともとアメリカが強く日本に対して求めていたものだから、「自業自得」ともいえるが。
ただ一言書いておきたいのは、いざ実際に有事が起きた時、アメリカを「巻き込める」ことができるかどうかは全くわからないということだ。約束事が違えられた例など枚挙に遑(いとま)がない。
とはいえ、これで「集団的自衛権の政府解釈変更」を安倍晋三が行うことは確実になった。最大の打撃を受けたのは、日本国民である。藤原帰一が言う「歴史問題に関する日本の孤立」はますます進むだろう。
安倍政権への支持の安定を物語るのは、多くの自民党議員たち、特に谷垣禎一などが好例だが、特にタカ派ではなかった政治家たちまでが、次々と安倍晋三のスタンスにすり寄っていくことだ。高村正彦という政治家は、一昨年(2012年)の自民党総裁選で安倍晋三を支持した時以来、私はほんのこれっぽっちも評価していないが、先日、1959年の「砂川事件」の最高裁判決を根拠に、安倍晋三が推進しようとしている集団的自衛権の政府解釈変更を正当化する発言をした。この判決は、はるか昔の高校生の頃に、「統治行為論」や「跳躍上告」といった言葉とともに学んだ判決だが、裁判所が自らの違憲立法審査権を放棄した世紀の「トンデモ判決」として悪名高いものだ。そんなのを根拠に安倍晋三がたくらむ集団的自衛権の政府解釈変更を正当化するとは、高村が初当選した頃の派閥の領袖だった河本敏夫やその師の三木武夫(いずれも故人)が知ったら腰を抜かすのではないか。
私がこれを学んだのは、福田赳夫が総理大臣を務めていた時代だが、福田内閣はその前後の内閣と比較して突出した「タカ派政権」として評判が悪く、内閣支持率も低かった。しかし、現在の目から見ると、その息子で同じく総理大臣を経験した福田康夫と比較しても、福田赳夫は穏健な政策をとったと思える。しかし福田赳夫内閣は、その前後の田中角栄、三木武夫、大平正芳、鈴木善幸のどの内閣と比較しても、タカ派色が強かった。
それとは対照的に、福田康夫内閣は、それを挟む第1次安倍内閣及び麻生太郎内閣と比較すると、著しくマイルドな政策をとったといえる。しかし、福田赳夫内閣と福田康夫内閣とを比較すると、よりタカ派色が強かったのは福田康夫内閣の方である。たとえば、福田康夫は2004年に起きたイラク人質事件で、平然と「自己責任論」のコメントを発した。私はその時、1977年にダッカ日航機ハイジャック事件が起きた時、父の福田赳夫が発した「人命は地球より重い」という言葉を思い出した。当時も今もその言葉は批判されているが、私は事件当時共感した。そして2004年には福田父子の政治姿勢の違いを思ったものだ。
しかし、今では2008年に突如政権を投げ出した福田康夫について、彼がもう少し政権に粘っていたら、日本の政治はこれほど酷くはならなかったのではないかと思うに至っている。つまり、福田康夫は他の自民党の政治家よりは明らかにマシな政治家だったのであり、それほどまでにも、この30年間で日本の政治が著しく右傾化したのである。
私はしばしば「日本の政治は激しく右傾化している」と書くが、当ブログだったか『kojitakenの日記』だったか忘れたが、リベラル・左派の立ち位置の方から「日本は右傾化なんてしていない」と激しい抗議のコメントをもらったことがある。しかし、ネトウヨならともかく、なぜリベラルないし左派の方が「右傾化」の事実を認めようとしないのか、私には全く理解不能である。
「古き良き時代の日本」への郷愁を語る安倍晋三は、長年の日本経済の低落に倦み疲れた日本人にとって、そんなにも共感できるものなのであろうか。少なくとも私の思想信条とも感覚ともは激しく異なる。かつて人びとが選択した民主党や、やはり人心をとらえた橋下徹などのいわゆる「第三極」がひどかったから「自民党でもいいか」と思って回帰した、その程度なのかもしれないが、その自民党のとりわけ安倍晋三一派が、かつての自民党とは似てもにつかない「怪物」であるにもかかわらず、とりあえずは高支持率を保っているのが現実なのである。そして、その安倍政権の立ち位置は、国際関係から見ると、どの国からも全く受け入れられないものであって、それは特にアメリカにとってそうだ。なぜなら、安倍晋三の思想の中心は「戦後レジームの脱却」であるが、その「戦後レジーム」を定めたのはアメリカだからである。
だから、国内の世論が安定的に落ち着こうとする位置は、国際関係から見れば極めて不安定で、世界各国から強い圧力を受ける位置であり、そこに落ち着くことは決してできない。しかし、アメリカを含む世界から受ける圧力が強まれば強まるほど、安倍政権の支持率は上がるという大いなるパラドックスがある。このあり方は、私は地球表面で互いに接している岩盤同士が歪みエネルギーを貯め込んでいる状態を想起させる。つまり、このまま推移すれば、いずれエネルギーが一気に解放される大地震に相当する破局が訪れるのではないかと恐れるのである。
同様に、国内政治についても、安倍政権の政策は歴史の流れに逆らうものだとしか私には思われない。既に敗戦から70年近くが経過し、戦前・戦中の教育を受けた人たちが少なくなっている現在、安倍政権がやろうとしているような「教育の戦前への回帰」を強制しようとしても、それは労多くして功少ない試みだろう。安倍政権や自民党、あるいは維新の会などの極右政党で、極右的な言論で人気を博している政治家の中に「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」などと本気で思っている人間がどれくらいいるだろうか。たとえば自意識過剰の固まりみたいな片山さつきを思い浮かべてみれば、戦前教育の精神を「トリモロス」ことが不可能であることに誰しも気づかれるのではないか。あるいは石原慎太郎にしてもそうだ。彼らは、天皇ではなく自分が一番偉いと思っているのである。
安倍晋三が「トリモロ」そうとしているものは何か。それは、信奉する母方の祖父・岸信介の政治であろう。それは、ある面においては岸が東条英機内閣の商工大臣として入閣した戦争の時代であり、また他の面においては、岸内閣が存在した1957〜60年であろう。だから、安倍晋三は東電原発事故を「なかった」ことであるかのように原発再稼働や増設を推進しようとする。だが、それは歴史の流れに逆らう所業である。
他の、ごく俗っぽい例を挙げれば、これは安倍政権そのものではなく一部の自民党議員が言い出しているだけの話ではあるが、先日報じられたプロ野球の球団を増やす案も、後楽園球場に詰めかけるプロ野球ファンの「声なき声」に耳を傾け、長嶋茂雄が天覧試合でホームランを放った1959年頃であれば、経済の活性化に効果があったかもしれない。しかし、プロ野球の人気が衰退したことには、それだけの構造的な原因があったのであり、それを政府主導で(つまり税金を注ぎ込んで)無理矢理球団を増やしても、倒産する球団やスタジアムが続出するだけであって、到底実現不可能なのである。
それと同様に安倍政権の原発推進も実現不可能である。何より、既に東電原発事故が起きてしまったという事実が大きい。関西電力を筆頭とする電力会社が抱える老朽原発、特に運転開始後40年以上経過した原子炉の再稼働は事実上不可能である。しかるに電力会社には廃炉の費用もない。つまり東電のみならず各地域の電力会社の経営も持続不可能である。さらに、現在建設が進んでいる原発は別として、新規の立地自治体が現れる可能性は実質的にゼロだし、既存の立地自治体においても今後原発を増設することは極めて困難だろう。安倍政権のエネルギー政策は絶対に実現不可能なのである。
つまり、安倍政権や自民党は内政においても持続不可能な政策ばかり打ち出しているといえる。労働市場の規制緩和も公共事業に偏重した財政政策も、いずれも労働人口が減るこれからも時代とはミスマッチで実現できるものではない。さすがにその矛盾に政府も気づいているようで、政権は「大規模な移民受け入れ」をひそかに画策している。しかし、これは安倍晋三の支持母体である右翼(ネトウヨを含む)がもっとも嫌う政策であり、現に産経新聞社が発行する極右月刊誌『正論』5月号には、「どうした、安倍政権! 隠された中国人移民の急増と大量受け入れ計画」と題した関岡英之の記事(論文?)が掲載されているようだ。だが、安倍政権の経済政策を吟味すると、大規模な移民の受け入れでもしない限り実現できっこないことくらい、誰にだってわかることではなかろうか。安倍政権の「一時的な」移民受け入れ政策が報じられた時、私はそう思った。安倍政権の政策は歴史の流れに逆らって歪みを生じさせており、そのエネルギーは貯め込まれる一方なのである。
要するに、安倍晋三のやりたい放題を許していると、外交においても内政においても、日本はいずれ破局に至る歪みエネルギーをため込む一方だということだ。しかし、私には信じられないことだが、そんな安倍政権を現在の多くの日本人が受け入れてしまっている。
生まれてからこの方、安倍晋三が政権に復帰した一昨年12月以降ほど、日本の政治にストレスを感じた時代は未だかつてなかった。こんな最悪の政権がこれからも続くかと思うと気が滅入る。
http://www.asahi.com/articles/ASG49667QG49ULFA02H.html
理研の優遇法案、今国会成立を断念へ STAP問題受け
安倍内閣は、研究者に高給を認めるなど理化学研究所を優遇する法案の今国会成立を断念する方向で調整に入った。理研はSTAP細胞の論文に不正があったと認定したが、筆頭著者の小保方晴子氏が否定し、全容が解明されていない。疑惑を招いた理研の組織的な問題も指摘されており、このままでは与野党の理解を得るのは困難と判断した。
法案は、理研を世界最高水準の研究機関にしようと「特定国立研究開発法人」に指定するもの。内閣は今月中旬に閣議決定し、法案を国会に出す予定だった。しかし、菅義偉官房長官は9日の会見で「一連の問題にメドが立たないうちは閣議決定しない」と明言。政権幹部も「成立は難しい」と認めた。
小保方氏が理研に求めている再調査が認められた場合、結果が出るまで最長50日かかる。6月22日の今国会会期末までに法案を提出しても、十分な審議時間を確保できないため、今国会での法案成立をあきらめる方向となった。経済産業省が所管する産業技術総合研究所も同法人の候補だが、内閣は理研と同時に指定する方針で、産総研の指定も先送りされる見通し。
(朝日新聞デジタル 2014年4月10日09時32分)
「STAP細胞」の件がなくとも、理研や産総研に対する「特定国立研究開発法人」指定など、「止めとけ止めとけ」としか私は思わない。法案は、理研や産総研を「世界最高水準の研究機関にしよう」とする狙いがあるとのことだが、権力者が「世界最高水準」と称する技術が本当に世界水準であったためしがない。その好例が安倍晋三が「世界最高水準」と称する、日本の原発関連技術である。原発関連技術は、長年にわたる政府の優遇政策によって莫大な予算がつけられ、甘やかされ続けてきたが、世界最高水準どころか日本の工業技術分野の中でも珍しく、欧米に全く太刀打ちできないレベルでしかない。
歴史的に見ても、日本の工業技術のうち世界的な競争力が特に強い電機や自動車などの分野は、「傾斜生産方式」の対象外だった。それどころか、自動車産業などは70年代の排ガス規制では政府から強い圧力を受けた。日本の自動車産業は、それを跳ね返して技術的なアドバンテージを獲得し、それが国際的な競争力につながった。
理研といえば私などは、戦時中に「ニ号研究」で原子爆弾の基礎研究を手がけながら、湯川秀樹を含む研究者は原爆が実用化できるとは誰も想像もしていなかったという恥ずかしい歴史を反射的に連想する。半世紀前でもあるまいし、いまどき「傾斜生産方式」を連想させるような「特定国立研究開発法人」指定などナンセンスだ。
「STAP細胞」の一件は、あまりにも不透明な点が多く、マスメディアは小保方晴子博士のちゃらんぽらんな研究姿勢と画像の流用、博士論文のうち序文とバックグラウンドの部分のインターネット経由のコピーアンドペーストなどを騒ぎ立てている。
しかし私がもっとも強く疑念を抱くのは、笹井芳樹博士及び理研に対してである。たとえばSTAP細胞の特許出願は、最初2012年に米国特許庁に対して仮出願がなされているが、その発明者の中に笹井氏の名前はない。その米国仮出願に基づく翌2013年の国際特許出願になって初めて笹井氏の名前が出てくるのである。そして米国出願も国際出願も、ともに筆頭発明者はハーバード大学のチャールズ・バカンティ教授だ。果たしてそんなものが「理研の研究成果」といえるのか極めて疑わしいし、この件で果たした笹井氏の役割にも疑念を抱かずにはいられない。
聞くところによると、笹井氏はその道の第一人者であり、ノーベル賞級の学者とも言われているらしい。しかしその内実はいかほどのものなのか。もしかしたら、同じ研究分野においてかつて韓国の黄禹錫(ファン・ウソク)が犯した捏造行為と同じか、それに近いことをやろうとしていたのではないか。そんな疑念さえ拭えない。
2005年末に黄禹錫がやらかしたES細胞論文の捏造や研究費等横領が明るみに出るまで、韓国政府は国を挙げて黄禹錫をバックアップしようとしていた。ちょっとネット検索をかけただけでも、問題発覚前の2005年5月30日のAP通信の記事「韓国政府がES細胞研究者に追加支援、身辺警備も」が引っかかった。
「STAP細胞」の件も、理研が小保方晴子を「客寄せパンダ」にして成果をブチ上げた直後には、安倍晋三を筆頭とする政府首脳がこれを大々的にバックアップしようとしていた。理研の理事長・野依良治に関しても芳しからぬ噂をいろいろ耳にするが、2005年の韓国政府と2014年の日本政府は、ともに浅薄さを露呈した点で共通するように私には思われる。
そもそも、金になりそうな研究を大々的にバックアップし、金にならない研究は切り捨てるという、小泉政権以来露骨に進められている政策が全く気に食わない。2005年当時の韓国は盧武鉉政権だったが、小泉政権にせよ盧武鉉政権にせよ、また現在の日本の安倍政権にせよ、いずれも新自由主義を強烈にむき出しにした政権である。政府のやるべきことはそんなことではあるまい。金儲けを追求するのは私企業だけで十分だ。
「STAP細胞」の件では、小保方晴子個人にとどまらず、笹井芳樹をはじめとする理研の関与を厳しく追及する必要があると同時に、政府が「金になりそうな研究」に予算を傾斜配分するというあり方に対しても、国民的議論が必要なのではないかと思う今日この頃である。
今後しばらく経って、1〜3月度の駆け込み需要が反映された経済指標が発表される。4〜6月にどのくらい落ち込むか、そしてその後どうなるかはさらに時間が経たなければわからない。安倍政権の経済政策について、はっきり結果を云々できるのは、ようやく年末あたりになってのことかもしれない。
その間、あの憂鬱な安倍政権の支持率が高止まりしたまま推移するかと思うとうんざりするが、新年度最初の記事でもこうしてぼやくくらいしか能がないのが現実だ。
今日はとりわけ記事を書く気力が減退していて、短く終えたいと思うのだが、現在目立つのは、民主党で支持基盤を安定させたと見たのかどうか、海江田万里が本性を発揮して、民主党が東電原発事故前の2007〜2011年にそうであったような、本格的な原発推進政党へと回帰しつつあることと、みんなの党の渡辺喜美の党首辞任が確実視されるようになったことだ。
なにしろ海江田万里とは、経産相を務めていた2011年8月に、九州電力の玄海原発再稼働を当時の首相・菅直人に阻まれて国会で悔し涙を流した御仁だから、あまりにも明々白々な原発推進派なのだが、それでもつい最近まではその本性を隠して、自民党との対決姿勢を打ち出していた。しかし、ついに本性を現し、「ゆ党」と揶揄されるみんなの党や日本維新の会でさえ反対したトルコやアラブ首長国連邦(UAE)への原発輸出を可能にする原子力協定の承認案に賛成した。
民主党内からは承認案に反対した議員は現れず、菅直人や辻元清美、生方幸夫らの抵抗も、「欠席」や「退席」が精一杯だった。
このていたらくは、民主党のさらなる党勢後退と、その末路としての党消滅を約束するものであろう。
また渡辺喜美は、8億円融資問題で雲隠れしてしまった。7年前に総理大臣の座を自ら投げ出した安倍晋三や、全く政権交代の意義を自覚せず、4年前に短期間でやはり総理大臣の座を投げ出した鳩山由紀夫などと同様、世襲政治家の「打たれ弱さ」には呆れるほかない。
こうして民主党やみんなの党が流動化を始めると、それらを束ねようとする人間が必ず現れるが、橋下徹がそれを狙ってかどうか、結いの党との合併を前倒しする動きを見せた。
しかし、安倍晋三と橋下徹の二大政党制など、仮に実現すれば日本を地獄の底に突き落とすもの以外の何物でもあるまい。
仮に保守系野党を束ねる政治家が橋下徹でなかったとしても、保守政治家たちを束ねていつか作られるであろう野党第一党は、安倍自民党の補完勢力以外の位置づけには絶対にならない。
なるほど、これが坂野潤治氏が言うところの「批判勢力の絶え果てた『崩壊の時代』」の政局というものなのかと、無力感に襲われる。
問題は、こうした現況が、安倍晋三を筆頭とする「歴史修正主義政権」が引き起こした日本を国際的孤立をますます深めていくだけだということだ。現在の政局は無風の安定的な状態にあるように見えるが、国際関係を考えた場合、大きな歪みエネルギーが蓄積されつつある状態と思える。
そのエネルギーがあまりに大きくなると、大地震と同じで、それが一度に解放された時に日本社会に与えるダメージも巨大なものになる。いうまでもなく私は、1945年8月15日の敗戦をイメージしている。
そうならないうちに、まずは早期に安倍晋三を引きずり下ろさなければならないと思うが、そのきっかけは全く見えない今日この頃なのである。