きまぐれな日々

先々週(2/10)の記事「東京都知事選、宇都宮健児と細川護煕がダブルスコアの敗北」に、数日前(20日)にこんなコメントをもらった。

http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-1334.html#comment17710

天皇、小泉、米国といったちょっと前まで批判の対象だった存在に無批判に依存するような姿勢が出ていることに危惧を感じる。戦争云々については「安倍晋三が中国と戦争しようとしている」というが、こういう時に中国側の意図がどうなのかについて言及がないのが疑問だ。たとえば、中国があらゆる犠牲を払っても尖閣を奪取しようと決意を固めているのか、実際は国内向けであってそんな意図がないのか、さらに日本にとっての尖閣の価値はどれほどか、によって日本の対応の評価も違ってくるのではないか。

私はといえば中国の東シナ海での脅威はかなり誇張されていて、双方首脳とも武力衝突の意図はさらさらない中で、安全保障のジレンマに陥っている感を持つ。要するに領海侵入の処理と「領土問題の有無」という点についてのメンツの張り合いであって、これさえ処理できれば関係は改善しうる。現場は双方とも極めて抑制されており、衝突に至ることはなくある程度の時間をおいて緩和に向かうだろう。

ある程度のスパンで考えるなら、やはり日米同盟のリスク要因のほうが大きい。米中の(様々な)軋轢に「巻き込まれる」危険のほうが大きいと考えるからだ。米国への警戒感が薄れていることが疑問。地政学的な要因を視野に安全保障を考えなおすことが必要。

2014.02.20 18:11 優木


小泉純一郎が応援した細川護煕と、細川を応援した「リベラル」たちを批判したエントリに、なぜこんなコメントがつくのか理解不能だが、おそらくこのコメントは、当該エントリにではなく、コメント主が投稿してきた20日に書いた『kojitakenの日記』の記事「安倍晋三のブレーン・本田悦朗もWSJで火に油注ぐ」へのコメントなのだろう。「安倍晋三一味の暴走はとどまるところを知らない」という文章で始まるその記事に、私はこう書いた。

 先の都知事選で、脱原発派の候補を細川護煕に一本化せよと叫んで人々を辟易させたさる有名ブロガーがいるが、トンデモの多いこのブロガーの主張にあって、数少ない納得できる指摘が、「宇都宮健児やその支援勢力は「安倍政権は日本を『アメリカとともに戦争できる国』にしようとしている」というが、それは違う。安倍晋三は中国と戦争を起こそうとしている」というものだ。さらに言えば、アメリカの戦争に日本が巻き込まれるのではなく、日本の(中国との)戦争にアメリカを巻き込もうとしている。だからアメリカが強く警戒するのだ。


「日本が中国と戦争を起こそうとしている」というのは、目新しい指摘でもなんでもない。石原慎太郎が以前からそれを狙っていたことは、たとえば豊下楢彦著『「尖閣問題」とは何か』(岩波現代文庫,2012)が指摘している。

岩波書店の宣伝文から引用する。

 たとえば,石原慎太郎氏がなぜこれほど尖閣問題にこだわった狙いとは何であったかが分析されています.そして日本と中国の対立が生じている中で,アメリカが実に曖昧な態度を取り続けているその真意とは何かが徹底的に抉り出されています.また日本政府の主張にある「尖閣諸島は日本固有の領土である」という主張が,実は極めて危うい論拠に立っていることも白日のもとにさらしています.そして尖閣問題だけではなく,「北方領土」問題や竹島問題も視野に収めた上で,いかにして領土問題の戦略的解決を図っていくかが構想されています.
 何としても日中両国の軍事衝突を避けなければいけないという思いで,著者はこの問題がはらんでいるあらゆる問題群に眼を配り,歴史をふりかえり,未来への提言を行っています.尖閣諸島問題について,どんな意見をお持ちの方であっても,本書から大いに刺激を受けていただくことが可能だと思っております.


石原慎太郎の狙いとは何か。豊下氏の『「尖閣問題」とは何か』から引用する。

(前略)「本当はね、国が買い上げたほうがいいんだけれど、国が買い上げると支那が怒るからね」と語っているのである。つまり、尖閣諸島の「国有化」が中国の大きな反発を引き起こすであろうことを十分に織り込んだ上での購入方針の提起であった。

 つまり、東京都による尖閣購入をうちあげ、次いで政府をして「国有化」せざるを得ない状況をつくり出し、日中関係の緊張を激化させようという訳である。それでは石原氏は、より具体的に、いかなるシナリオを描いているのであろうか。例えば二〇一〇年九月の中国漁船の領海侵入事件をめぐって同氏は、「つまり、本当の軍事紛争にはならない。軍隊まがいの人間がきて、ああいうこと(船長の逮捕)をしても、捕まえるのも(海上)保安庁だった。あれは軍隊が出て行って追っ払ったらいい。それでそれが軍事紛争になるなら、アメリカが、もっとそれを拡大したら踏み込んでこざるを得なくなる」といった見取り図を披瀝しているのである(『田原総一朗 談論爆発!』ニコニコ動画、二〇一一年五月一七日配信)。

 要するに、海上保安庁が対応しているだけでは軍事的緊張状態が生まれにくいから、自衛隊を前面に出すことによって軍事紛争を引き起こし、米国が軍事的に介入せざるを得ない状況をつくりだそう、ということなのである。だからこそ、彼が主導してきた「たちあがれ日本」はその「政策宣言」(二〇一二年七月四日)で、「尖閣諸島への自衛隊の配備」を最優先課題においているのである。このように、石原氏にとって尖閣問題は今や、その「防衛」というよりは、中国との関係をひたすら悪化させて軍事紛争の勃発を導く「引き金」として位置づけられているのである。

 二〇一二年八月一五日に香港の活動家が魚釣島に上陸する事件が起こった時に石原氏は、「首相が自分で行ったらいいよ。尖閣諸島に。野田(首相)が行ったらいいんだよ。私は首相がこの段階になって行かないのは怠慢だと思うけどね」と強調したが、韓国の李明博大統領による竹島訪問が引き起こした衝撃を考えるとき、「野田首相による尖閣訪問」がいかなる事態を引き起こすか、同氏の狙いが透けて見えるというものである。

 いずれにせよ、日本と中国の軍事紛争に米軍が出てこざるを得ない状況をつくり出すというシナリオを描いているからこそ、石原氏はワシントンの財団で尖閣購入をぶちあげ、後に触れるように米国の有力紙に「支援」を求める公告を出したのであり、だからこそ久場島や大正島がおかれている「屈辱的な現実」には一切触れようとしないのである。

 とはいえ、日本が尖閣諸島をめぐって中国と戦争するとき、果たして米国は日本を軍事的に支援するのであろうか。人も住まない小さな島々のためには米国は中国と戦争をするべきと考えるのは、石原氏が講演したヘリテージ財団に象徴される、イラク戦争を主導した好戦的で対中強硬派の勢力しか存在しないのではなかろうか。つまり石原氏は、中国との関係をひたすら悪化させるパフォーマンスには長けていても、その後の戦略的なシナリオを欠落させているのである。

(豊下楢彦『「尖閣問題」とは何か』(岩波現代文庫, 2012年)94-96頁)


石原慎太郎らの思惑は上記の通りであるとして、それでは安倍晋三はどうかといえば、安倍はもともとは石原のようなドス黒い考えを持っていたわけではなく、単に「偉大なおじいちゃん」岸信介を信奉しているだけのボンボンだったに過ぎまい。第1次安倍内閣発足直後には、おそらく当時のブレーンたちの進言を容れてであろう、安倍晋三は中国と韓国を相次いで訪問し、前任者の小泉純一郎が安倍政権発足直前の2006年8月15日に靖国神社を参拝して決定的に悪化させていた日中・日韓の関係を改善したほどであった。これは、第1次、第2次安倍内閣を通じて、唯一の「善政」であったと私は考えている。

しかし、いかんせん現在の安倍晋三は、北岡伸一をはじめとする好戦的なブレーンたちに「洗脳」され切っている。安倍晋三は、先月行われたダボス会議で、現在の日中関係を100年前の第1次世界大戦勃発直前のイギリスとドイツの関係に聞かれもしないのに自分からたとえてみせ、その発言が当のイギリスを含む世界各国から激しい批判を浴びると、「真意が理解されていない」などといかにも不満そうにしていた。安倍のたとえ話は、北岡伸一たちが日々安倍に吹き込んでいる話だったに違いないことは、容易に想像がつく。従って、現在安倍晋三が考えていることも、前述の石原慎太郎と大差あるまいと推測されるのである。

そういうことを考えていたら、集団的自衛権の政府解釈変更に関して、昨日、TBSの『サンデーモーニング』で寺島実郎が大意以下のような指摘をした。安倍晋三は(北岡伸一らのお墨付きを得て、この4月にも)集団的自衛権の政府解釈変更に踏み切ろうとしているが、これが日本とアメリカが協力して中国に対峙しようという狙いであるのは明らかだ。日本はアメリカにとって「都合の良い存在」ではなくなってきている。先にアメリカが「尖閣で日中の有事が発生しても、米軍はそれに関与しない」と言っていることに注意が必要である、と。

保守の寺島実郎でさえこう認識している。つまり、安倍晋三が日中の有事を起こすことを視野に入れているのは、もはや「常識」なのだ。

最初に紹介したコメントで、「優木」氏は

中国側の意図がどうなのかについて言及がないのが疑問だ。たとえば、中国があらゆる犠牲を払っても尖閣を奪取しようと決意を固めているのか、実際は国内向けであってそんな意図がないのか、さらに日本にとっての尖閣の価値はどれほどか、によって日本の対応の評価も違ってくるのではないか。

と書くが、ここまで述べてきたように、戦争を起こす必要を感じているのは中国ではなく、日本の右翼指導者たち(安倍晋三、石原慎太郎、北岡伸一ら)なのである。中国側の意図の如何にはよらない。

「優木」氏は、

中国の東シナ海での脅威はかなり誇張されていて、双方首脳とも武力衝突の意図はさらさらない中で、安全保障のジレンマに陥っている感を持つ。

と書くが、なぜ安倍晋三に対してそこまで無警戒でいられるのか、私には全く理解不能である。

今や、「日米同盟の脅威」よりも「安倍晋三の脅威」の方がずっと重大なのである。
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東京都知事選も終わり、本命の候補こそ立てられなかったものの、自公が推した舛添要一が対立候補を寄せつけなかったことでますますつけ上がっている安倍晋三が「憲法解釈は俺が決める」と豪語して、野党はもちろん自民党内からも批判を浴びている。

そればかりか、都知事選に当選したばかりの舛添要一からも、自民党が作成した憲法草案をケチョンケチョンにけなされた。これにネトウヨがいきり立っていることは言うまでもない。だが、連中がいかに泣こうが喚こうが、連中が熱烈に応援した田母神俊雄は、供託金没収こそ免れたものの、わずか12%の得票率で都知事選に惨敗したのである。若年層の比較的高支持こそ懸念されるものの、とりあえずはネトウヨどもに「ざまあみろ」と言っておく。

その舛添の自民党憲法草案批判はまずまずまっとうである。舛添が記者会見でしゃべった内容は、東京都のサイトで確認できるが、舛添自身はもちろん改憲論者であって、小泉政権時代(2005年)の自民党の第1次憲法草案は、舛添自身が「一言一句全部私が書いた」という。しかし、2009年の政権交代以降、極右化の度合いを強めた自民党は、その舛添ですら容認できない「トンデモ」な第2次憲法草案を作ったのである。

舛添の批判は、自民党の第2次草案が、天賦人権論を否定していること、天皇を元首と規定していること、9条改正で「国防軍」を明記していることなどだが、このうち9条については、舛添が書いた第1次草案では「自衛軍」となっているから、五十歩百歩ではないかと思う。しかし、舛添の元妻・片山さつきが声高に唱えていることでも知られる天賦人権論否定論への批判や、以下に紹介する憲法24条及び13条の改正案への批判はまっとうそのものである。

舛添は下記のように語っている(前記東京都のサイトより引用)。

(前略)それから、24条の家族のことも両性の合意だけでいいじゃないですか。そんな家族、どういう家族であろうと、そんなこと国が文句言うべきじゃない。全ての、だから1つ言うと、その、家族のところはですよ、何が書いてあるか、両性の合意のみでいいと。しかし、家族を書いている諸外国の憲法も、国家は家族を守りなさいって書いてるんですよ。家族同士で相互支援しなさいなんて憲法が言うことではありません。私は最初の会見のときに言ったように、介護をめぐって家族が崩壊したりするわけですから、そこだって私は1つも触れさせなかったですよ。

 それから、人として尊厳に値するって書いちゃだめなんです。絶対個人自体守られている。個人の対抗概念が国家なんですよ。国家権力に対して個人を守らないといけないから憲法があるんであって、憲法っていうのは国家権力が強硬に私たちの言論の自由、今、こうして発言しているとこを、特高入ってきてつぶしたらどうするんですか。憲法があるじゃないかってやるためにあるんです。国家の対抗概念は個人であって、人として何で書きかえたんですかと、人の対抗概念は犬や猫ですよ。基本的に立憲主義がわかってない。


たまたま、読み終えたばかりの稲葉剛著『生活保護から考える』(岩波新書,2013)に、舛添が批判したのと同じ、自民党の第2次憲法草案の第24条と第13条への言及があった。以下、同書より引用する。

 「絆原理主義」

 自民党が二〇一二年四月に発表した日本国憲法改正草案では、二四条一項に「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」という条文が新設されています。わざわざ家族の支え合いを明文化しているのです。

 また改正草案の一三条ではわざわざ現行憲法の「すべて国民は、個人として尊重される」という規定を「全て国民は、人として尊重される」と変更しています。「個人」から「人」への文言変更は、私には「個的領域」を認めず、公私二分法に戻るという宣言のように感じられます。

 家族や地域の「絆」を強調することで国の責任を後退させようとする考え方を、私は「絆原理主義」と呼んでいます。

(稲葉剛『生活保護から考える』(岩波新書,2013)129頁)


稲葉氏の言う「個的領域」とは、精神科医・宮地尚子氏の論考に負うもので、舛添要一とも縁が深いと噂されるDV(Domestic Violence, パートナーからの暴力)に対処するにあたって、従来の「公私二分法」では、「家庭という私的領域に公が介入すべきではない」として退けられてしまうので、「私」をさらに「親密」と「個」とに分け、「DVとは親密的領域における暴力と支配であり、それによって被害者の個的領域が奪われること」と定義すればすっきり定義できるとする。稲葉氏は、この考え方を貧困問題に拡張し、親族によって個人の「溜め」が奪われている状況があり、それは、「親密的領域」における人間関係によって「個的領域」が侵害されている状況にほかならないとする(前掲書69頁)。

稲葉氏は、昨年の臨時国会で特定秘密保護法に注目が集まるどさくさに紛れて改悪されてしまった「生活保護法」において、扶養義務が強化されることを批判しているのである。そして、憲法13条の「個人」を「人」に返ることによって、自民党が「国の責任を後退させようと」しているのではないかとしてこれを批判している。舛添要一は稲葉氏とは少し観点が違って、個人と国家を対置し、憲法を国家から個人を守るものとする「立憲主義」を自民党が否定しようとしているとみなしてこれを批判している。

おそらく、その両方の狙いがあるのであろう。「個人」を「人」に書き換えるたったそれだけのことにも、自民党は被支配者と彼らがみなしている国民に対するどす黒い悪意というか嗜虐心を込めているのである。

さて、前記稲葉氏の本に、とても興味深い指摘があったので、これを紹介したい。

それは、大平正芳政権時代の1979年に自民党が叢書として発表した『日本型福祉社会』と、2012年の自民党の「政策ビジョン」の比較である。

稲葉氏は『日本型福祉社会』を引用する。

 「日本型福祉社会は、個人に自由で安全な生活を保障するさまざまなシステムからなる。そのようなシステムの主なものは、

  1. 個人が所属する(あるいは形成する)家庭、
  2. 個人が所属する企業(または所得の源泉となる職業)
  3. 市場を通じて利用できる各種のリスク対処システム(保険など)
  4. 最後に国が保障する社会保障制度である。
 すなわち、高度福祉社会は、個人の生活を支えるに足る安定した家庭と企業を前提として、それを 3.によって補完し、最終的な生活安全保障を国家が提供する、という形をとるものである。そこで重要なのは、まず家庭基盤の充実と企業の安定と成長、ひいては経済の安定と成長を維持することである。これに失敗して経済が活力を失い、企業や家庭が痩せ細って存立が困難になっていく中で国が個人に手厚い保護を加えるという行き方は『福祉病』への道であるといわなければならない」

(自民党『日本型福祉社会』(1979)~稲葉剛『生活保護から考える』(岩波新書,2013)122-123頁より孫引き)


少し前の1973年に田中角栄が打ち出した「福祉元年」構想を否定するかのような思想である。近年、大平正芳と田中角栄に関する従来の私の評価が逆転し、大平正芳よりも田中角栄の方にずっと「先見の明」があったと考えるようになっているが(但し、田中角栄の弟子である小沢一郎は、田中角栄と真逆の方向性を持つ新自由主義を目指した悪質な反動政治家であると考えている)、その理由が上記の『日本型福祉社会』に見られるような「小さな政府」の思想を大平が持っていたことである。これが持続可能なものであればまだ大平を評価する余地もあったが、そうではなかったことが、その後現在に至るまでの歴史に示されている。

稲葉氏は、2012年の自民党の「政策ビジョン」について書く。

 自民党の目指す社会保障ビジョン

 次に、扶養義務強化の背景にある政治状況や政治理念について検討したいと思います。

 生活保護バッシングの火付け役である自民党は、二〇一二年二月に発表した「政策ビジョン」の中で、現金給付から現物給付への移行(住宅確保、食料回数券の活用等)、医療扶助の適正化、就労支援の強化、不正受給対策の厳格化などにより生活保護予算を大幅に減額させることを公約として打ち出しました。二〇一二年一二月の自民党の政権復帰後、現実性の乏しい現物給付化を除いた諸施策は実現されつつあります。

 この政策ビジョンがめざす「自助・自立を基本とした安心できる社会保障制度」像を一部引用してみましょう。

 「額に汗して働き、税金や社会保険料を納め、また納めようとする意思を持つ人々が報われること。また、不正に申告した者が不当に利益を受け、正直者が損をすることのないようにすることを原点とする」

 「『自助』、『自立』を第一とし、『共助』、さらには『公助』の順に従って政策を組み合わせ、安易なバラマキの道は排し、負担の増大を極力抑制する中で、真に必要とされる社会保障の提供を目指す」

 「家族の助合い、すなわち『家族の力』の強化により『自助』を大事にする方向を目指す」

(自民党『日本型福祉社会』(1979)~稲葉剛『生活保護から考える』(岩波新書,2013)120-121頁)


1979年と2012年の33年間でどこがどう変わったのか。再び稲葉氏の著書より引用する。

 一九七九年の文書と二〇一二年の「政策ビジョン」を比較すると、自立や家族の支え合いを強調している点、社会保険原理を重視し、公助を否定的に描いている点はまったく変化していないことがわかります。しかし、企業福祉に関する記述は消えています。その背景には何があったのでしょうか。

 日本型福祉社会は終身雇用制、年功序列、企業内労使関係を特徴とする日本型雇用システムと相補的な関係にありました。

 しかし、日本型雇用システムは一九九〇年代以降の自民党政権のもとでの規制緩和策により崩壊しました。非正規雇用の拡大は、医療保険や雇用保険などの社会保険制度に加入できない大量の労働者を生み出しています。自民党が日本型福祉のシステムを構成するとした四つの要素のうち、2.の企業福祉と 3.の社会保険は、多くの低所得者にとって機能を果たさないものになったと言えます。

 そうであれば、残るのは 1.の家族による自助と 4.の国家による公助だけになります。

 たとえて言うなら、企業福祉と家族福祉を両翼にして飛行してきた日本型福祉社会は、企業福祉の翼が剥離し、家族福祉の翼もボロボロんになっている状態です。しかしそれでも飛行機を飛ばそうと自民党は言っているのです。それはなぜか。「国が個人に手厚い保護を加えるという行き方」を徹底的に否定することこそ、自民党の党是だからでしょう。

(自民党『日本型福祉社会』(1979)~稲葉剛『生活保護から考える』(岩波新書,2013)120-121頁)


いかがだろうか。

自民党の政策は持続可能なものではない。「国が個人に手厚い保護を加えるという行き方」、すなわち「サービスの大きな政府」しか正解はないと私はずっと言っている。一部に、「日本型雇用システム」を80年代までの昔に戻せと言う人もいるが、当時から現在に至る変化は不可逆的なものであるうえ、かつての「日本型雇用システム」は、それに含まれない多くの国民を排除してきたという、憲法違反ともいうべきものだったことを見逃してはならないと私は思う。

結論は一つ。自民党の政策は持続不可能であり、近い将来必ず破綻するということだ。

以上書いてきたのは内政の問題だが、安倍晋三は自民党の中にあっても特異な極右政治家であり、先の都知事選でも自公が推した舛添要一よりも、石原慎太郎らの支援を得ていた田母神俊雄の方がずっと安倍晋三に思想的に近いことは常識である。そして、このことが外交面でも日本を窮地に追い込む多大なリスク要因になっている。既に安倍晋三や田母神俊雄や、事実上安倍晋三によってNHK経営委員に送り込まれた百田尚樹らは、アメリカを含む全世界から大ブーイングを浴びているのである。たとえば百田尚樹に関して、こんなニュースがあった。
http://www.47news.jp/CN/201402/CN2014021401002679.html

米大使館、NHK取材に難色 百田氏の発言理由に 

 NHKがキャロライン・ケネディ駐日米大使のインタビュー取材を米国大使館(東京都港区)に申し込み、調整を進めていたところ、経営委員を務める作家百田尚樹氏の東京裁判や南京大虐殺をめぐる発言を理由に大使館側から難色を示されていたことが14日、複数の関係者の話で分かった。

 NHK広報部は「取材・制作の過程に関わることについては回答を差し控える」とコメント。米国大使館は「大使のスケジュールはお話ししないことになっている」としている。

 NHKの最高意思決定機関である経営委員会委員の発言の影響が、報道の現場に及んでいることが明らかになったのは初めて。

(共同通信 2014/02/14 21:45)


日本国民は早く目を覚まさなければならない。このまま安倍晋三とその一味を野放しにしておくなら、日本国民は遠くない将来、とんでもない塗炭の苦しみをなめることになる。
東京都知事選は予想通り舛添要一の圧勝に終わった。ただ、猪瀬直樹が宇都宮健児をクアドラプルスコアで破った一昨年12月の都知事選と比較すると、差はかなり少なくなり、舛添が宇都宮健児につけた差はダブルスコアを少し超える程度だった。告示前からモタモタしていた細川護煕は、宇都宮健児の後塵を拝する3位で、田母神俊雄は細川から大きく離れて、それでも12.6%の得票率で4位だった。上位4候補の得票は下記の通り。

 舛添 要一 無新 2,112,979
  宇都宮健児 無新  982,594
  細川 護熙 無新  956,063
  田母神俊雄 無新  610,865

今回の都知事選の投票率は46.14%だった。過去3番目の低さだったとのこと。前日の大雪による積雪の影響も言われているが、投票日の天気は晴だった。都民の関心が必ずしも高くなかったと言えると思う。

私も都知事選の有権者だったので投票したが、以前から当ブログに書いた通り、上記の主要候補4人には投票しなかった。公約や思想信条からいえば宇都宮健児なのだが、昨年末に澤藤統一郎弁護士が発した前回(2012年)都知事選における公選法違反の告発に対し、「人にやさしい東京をつくる会」が今年1月5日に「法的見解」を出したものの、それに対しても澤藤統一郎氏の他、醍醐聰氏からも疑義が呈された。しかし宇都宮陣営はこれを事実上黙殺した。この一件に見られる「ムラ体質」を忌避して、前回宇都宮氏に投票した私は今回は彼に投票しなかった。しかし宇都宮氏は前回より得票数を僅かながら伸ばしている。これは選挙の投票率低下を考慮すると、まずまずの健闘だったと認めざるを得ない。

理由として考えられるのは、前回は衆院選とのダブル選挙であったために、宇都宮氏を推薦する政党の選挙運動が衆院選に重きを置かれたこと、有権者の関心も主に衆院選に集まったこと、それに対して今回は都知事選が注目され、選挙運動に力が入ったことに加え、数少ないテレビ討論などで宇都宮氏の主張に説得力を感じた有権者がかなりいたためだと考えている。

そりゃそうで、もともと宇都宮氏が主張していること自体は立派なものなのだ。ただ、言っていることと選対の組織の体質の乖離がはなはだしいことが問題なのだ。これはしばしば「共産党の体質」に帰される傾向があるが、私はもっと根の深い問題だと思う。というのは、前回都知事選における公選法違反の告発を行った澤藤統一郎氏は共産党支持の弁護士の大物である一方、告発された主要な人間は、元国立市長の上原公子氏であり、上原氏は生活者ネット、つまりほぼ絶滅した民主党左派(菅直人など)に近い人だったのである。さらに岩波書店の熊谷伸一郎なる人物の深い関わりが指摘されている。

また宇都宮氏は、昨年の参院選前にも澤藤弁護士から批判されている。宇都宮氏は前述の上原公子氏らとともに、「脱原発」候補を推薦すると称した「緑茶会」なるもののメンバーとなっていたが、この会が推薦したのは緑の党の全候補者をはじめ、民主党、生活の党、みんなの党などの候補を推薦する一方、共産党の吉良佳子氏には推薦を出していなかった。このことからもわかるように、宇都宮氏はもともと共産党系の人士ではなく、社民党、民主党左派、生活の党などに近い人だったと推測されるのである。

要するに、政党以前に、ごく一部の人物が2012年都知事選における宇都宮選対を壟断していたのであって、その問題への十分な検証が行われないまま選挙に突っ走り、自浄作用が働かなかった。今回は共産党が組織内候補と同格に扱ったように外部からは見える。共産党員や支持者も澤藤統一郎氏が提示した疑義に取り合おうとしなかった。

そんなことで良いのだろうかと私は思うのである。前回の都知事選と比較すると「善戦」したとはいえ、宇都宮氏は舛添にダブルスコアで負けているのである。宇都宮氏陣営は、このことの意味をよく考えるべきだろう。

それから細川護煕であるが、予想通りテレビ討論会は悲惨なものだった。私は細川というとどうしても忘れられないのが20年前にこの男が発した「腰だめの数字」という妄言である。

1994年2月3日 細川内閣で消費税を廃止し、税率を7%とする“国民福祉税”構想を、突如、未明に公表して世論の批判を浴び、8日に撤回した。この時、国民福祉税の税率を7%とする根拠を聞かれた細川は、「正確にはじいていないが、腰だめの数字としてこの程度は必要である」と答えた。

「腰だめ」とは、「goo辞書」を参照すると、

1. 銃床を腰に当て、大まかなねらいで発砲すること。
2. 大ざっぱな見込みで事を行うこと。「―で予算を立てる」

とある。これに頭を抱えたのは、当時細川を操っていた小沢一郎だった。小沢はこう語っている。

小沢 そりゃあ「腰だめ」がまずかった。あのとき、「税率を7%に引き上げる根拠はこうだ。その場合、財政はこうなる」などときちんと説明しておけば、なんのことはなかったんです。要するに「腰だめ」という発言で、「首相の対応はいい加減だ」「腰だめの数字とは何ごとだ」という話になっちゃった。しかも、国民は夜、眠いのに起こされたわけだから、余計に批判を浴びた(笑)。

−− 細川さんは内容をよく把握してなかったんですか。

小沢 たぶんそうでしょうね。もちろん、首相が細かな数字をいちいち説明する必要はない。しかし、理屈はきちんと言わなければならない。そうすれば騒ぎにならないですんだんです。心の中ではみんな消費税を上げなきゃいけないなと思っているわけですから。とにかく日本人というのはインチ・バイ・インチだから、スカッといかないんです。
(五百旗頭真・伊藤元重・薬師寺克行編『90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論』(朝日新聞社,2006)134頁)


そんなかつての小沢一郎の傀儡・細川護煕が、今度は小泉純一郎の傀儡になった。こんな候補を「脱原発派」が支持するなど正気の沙汰とは思えないのだが、驚くべきことに、鎌田慧、澤地久枝、瀬戸内寂聴、それに今年100歳になる老ジャーナリストのむのたけじ各氏までもが細川護煕を推薦した。その結果、昨日のNHKの出口調査によると、「脱原発」派の6割が細川に投票したそうである。しかし、細川や細川を応援した小泉が、他の政策は誰が都知事をやっても同じと言わんばかりの妄言を発したことも影響したのか、「脱原発派」以外には支持が広がらなかった。ネットの「小沢信者」も宇都宮支持派と細川支持派に分裂した。教祖様(小沢一郎)はもちろん細川を推したのだが、岩上安身や「きっこ」をはじめとして、小沢になびかなかった(元?)信者が続出したのであった。

私は宇都宮氏陣営の非民主主義的な体質にも失望したが、それ以上に、これまで信頼していた人たちが細川護煕支持へと雪崩を打ったことにはさらに深く失望した。細川を当選させなければ安倍晋三が戦争に突き進むのを止められないと言っていた人たちもいたが、細川を当選させたらどうやって安倍晋三を止めることができるのか、それを説明できた人間は誰もいなかった。

ただ、「脱原発派」の変質の前兆は昨年には見られていたようである。私は「脱原発」デモには、一昨年9月を最後にしてそれ以降は一度も参加していないが、昨年3月11日に行われた集会で、大江健三郎は反原発運動について「戦後ここまで日本人が統一したことはない」と、澤地久枝は会場で打ち振られる日の丸について、「日の丸を見たら身構える世代ですが、今日はそれを掲げる人もいることをうれしく思う」と、それぞれ発言したという。

大江健三郎について言わせてもらうと、現在話題になっている「偽ベートーヴェン」佐村河内守の「ビジネス」の前段には、20年ほど前に売り出された大江健三郎の障害を持つ長男・大江光の「ビジネス」があったと私は考えている。大江光のCDと「佐村河内守」のCDは、同じレコード会社から発売されているはずである。私は「佐村河内守」のCDを聴いたことはないが、大江光のCDなら聴いたことがある。こんなものをありがたがる人間はどうかしていると思った。大江健三郎の「脱原発」仲間である坂本龍一も、大江光の音楽を酷評した1人であった。

今回の舛添要一の対立候補が宇都宮健児や細川護煕なんかではなく、坂本龍一であれば、もう少しまともな戦いになったかも知れないと思う(私は坂本龍一の言動にも全面的に賛同できない部分はあるけれども)。ただ、その場合自公側が担いでくる候補は舛添要一ではなかったかも知れない。自公が舛添要一を担いだ理由として、宇都宮健児の出馬表明を受けて、それなら舛添要一でも勝てると判断したのではないかと私は考えている。事実、舛添の得票数は前回都知事選の猪瀬直樹の半分にも満たなかった。舛添は決して「強い候補」ではなかったのである。

田母神俊雄については、若年層の支持が多いという朝日新聞の出口調査結果が話題になっているけれども、田母神と舛添の得票の合計は、年齢層によらず同じくらいの比率である。かつて「若いときに左翼でないのは馬鹿だ。年をとっても左翼であるのはもっと馬鹿だ」と言った人間がいたらしいが、「ネトウヨ」はかつての「左翼」に代わって若者のトレンドになったかのようだ。ただ、上記の言葉は、「若い時にネトウヨであるのは馬鹿だが、年をとってもネトウヨであるのはもっと馬鹿だ」と書き換えられねばなるまい。

ネトウヨが総理大臣になってしまったと言うべき安倍晋三は、もちろん日本を危うくするリスクの最たるものであるが、それを都知事選で止めようというのは無理筋だった。2007年の第1次安倍内閣は、都知事選の石原慎太郎圧勝が内閣支持率上昇の追い風になったが、5か月後には安倍晋三は政権を自ら投げ出した。
東京都知事選の情勢は、舛添要一が他の候補を大きく引き離して独走態勢にあり、2位を細川護煕と宇都宮健児が激しく競り合い、田母神俊雄はさらに後れをとっていると見られる。2位争いは読売が宇都宮の名前を、朝日、毎日、共同が細川の名前をそれぞれ先に出している。いずれにせよ細川と宇都宮の票を足し合わしても舛添に及ばない惨敗を喫することは間違いない。また、前回の記事にも書いたように、実質的に安倍晋三と思想が同じである田母神が、細川にも宇都宮にも及ばない大惨敗を喫するであろうことも、絶対に軽視してはならない。

田母神及び田母神と思想が極めて近い安倍晋三の批判以外にも、宇都宮陣営と細川陣営に対する批判をこれまで書いてきたけれども、それは来週月曜日に公開するまとめの記事に思いっ切り書くと決めているから、今日は深入りしない。ただ、毎日の記事に書かれている3候補の揃いも揃った不振ぶりを以下に記録しておく。

 細川氏は勢いは出ておらず、特に女性の支持率が低い。勝手連的に支援する民主、生活、結いの党の支持層でも投票先に細川氏の名前を挙げたのは3〜4割程度で、無党派層への浸透でも舛添氏に後れを取る。

 宇都宮氏も、推薦を受ける共産、社民の支持層の5割前後の支持しか固めておらず、一部は細川氏や舛添氏に流れている。60代以上の支持は比較的高い。

 田母神氏は30〜40代の男性の支持が目立つ。応援する石原慎太郎元都知事が共同代表を務める維新の支持層の2割以上が、投票予定先に挙げた。

毎日新聞 2014年02月02日 21時37分(最終更新 02月02日 22時30分)


この都知事選の情勢から改めて思い起こされるのが、歴史学者・坂野潤治の分析だ。坂野氏は、幕末の1850年から敗戦までの日本の近代史を、改革・革命・建設・運用・再編・危機・崩壊の7つの時代に区分したが、戦後日本にも同じようなサイクルが当てはまり、一昨年末の第2次安倍内閣発足から、日本は「崩壊の時代」に入ったという。戦前の日本の「崩壊の時代」は、1937年の第1次近衛文麿内閣から始まった。あらゆる政治勢力を包摂して発足した近衛内閣の人気は極めて高く、「異議を唱える者が絶え果てた時代」だったという。民主党政権の無惨な失敗を受けた第2次安倍内閣下の現在もまた、「異議を唱える者が絶え果てた」状態といえる。それを象徴するのが上記の東京都知事選の情勢であろう。

この惨状に加えてさらに痛いのは、安倍晋三が第1次小泉内閣の官房副長官だった頃や、第1次安倍政権を投げ出したあとの不遇時代も含めて一貫して執念を燃やし続けてきた「NHK支配」の野望が成就してしまっていることだ。昨今のNHKの放送は、北朝鮮や中国もさることながら、何よりも戦前の日本を強く連想させる安倍晋三の宣伝機関に成り下がっている。

昨今話題のNHK新会長・籾井勝人の妄言問題などはその最たる例だろう。右翼週刊誌である『週刊新潮』にすら辞任は時間の問題かと書かれている籾井だが、私は籾井は辞任せず開き直るだろうと思っていた。その通りの展開になりつつある。

籾井のごとき程度の低い妄言を連発したならば、前世紀末までなら即刻NHK会長の首が飛んでいただろう。そうならないあたりが、「異議を唱える者が絶え果てた時代」たるゆえんである。

ここでは、かねてからNHK会長人事について鋭い論評を行ってこられた醍醐聰氏のブログ記事「NHK籾井会長の解任を求める要望書を提出:視聴者コミュニティ」(2014年1月27日)にリンクを張っておく(下記URL)。
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/nhk-bf86.html

問題は、NHKを私物化している安倍晋三が、同じ思想を持つ東京知事選の候補者が数%の得票率しか得られないであろうと予想されているほど極端に偏った思想信条を持っており、しかもそれが国際社会において全く通用しない代物であることだ。

前回の記事に対し、お前は都知事選における舛添の対立候補が弱すぎると言いながら、安倍批判はそれと矛盾している、安倍の代わりがいないから不毛だ、お前の記事は支離滅裂だから後半部分を推敲して書き直せ、などと書いてきた頭の悪い人間がいた。だが、舛添と安倍は全く異質であることは、ちょっと考えてみただけで誰でもわかることだ。

それはたとえば、舛添ならアメリカが靖国には参拝してくれるなと言っているのを無視して参拝したり、「日中の武力衝突は考えられますか」と聞かれて、それを直ちに否定しないばかりか、聞かれもしない第1次世界大戦前のイギリスとドイツの関係を自分から持ち出したりするか、と考えてみれば明らかだろう。

安倍晋三というのは、石原慎太郎、平沼赳夫、城内実、稲田朋美、片山さつき、下村博文といったお仲間連中ともども、絶対に総理大臣にしてはならない人間だったのである。彼らの信奉する「歴史修正主義」は、アメリカを含む世界各国にとって絶対に容認できないものだからである。安倍晋三に対するオバマの冷淡さの理由を日本の国民はよく考えるべきである。

安倍晋三の代わりなどいくらでもいる。たとえば谷垣禎一を総理・総裁にしておけば日本がここまで世界で孤立するリスクに晒されることはなかった。2012年の自民党総裁選で、森喜朗や古賀誠らが何を思ったか谷垣禎一降ろしをやってしまい、その結果彼ら自身も望まなかった安倍晋三の総裁選出を許してしまった。むしろ安倍晋三ほどひどい総理総裁は滅多にいないという方が正しい。森や古賀の罪は万死に値する。

既に歴史家に「崩壊の時代」に入ったとされる現在、国際社会では絶対に認められない安倍晋三の歴史認識をNHKがオーソライズすることは、日本を決定的な破局に追いやるものにほかならない。

既に「アベゲドン」という言葉が世界に広まり始めている。昨年半ば頃には既に言われていた言葉だったようだが、安倍晋三の存在が日本のみならず世界にもたらす巨大なリスクが懸念されるようになってきた。知らぬは、NHKの御用放送に日々騙されている日本国民ばかりなり。