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きまぐれな日々

元旦の挨拶を除けば今年最初の記事になるが、新春早々とげとげしい内容であることを最初にお断りしておく。

昨年最後の記事のあと、安倍晋三が靖国神社を参拝した。年末と年始の時事問題を扱うテレビ番組では、この件がもっぱらの話題になった。

かつての第1次安倍内閣時代における安倍晋三へのすり寄りが嘘のように安倍晋三に厳しい論評の言葉を発する毎日新聞元主筆・岸井成格は、昨日(5日)もTBSの番組(『サンデーモーニング』)で、総理大臣の靖国参拝は中国や韓国が怒るから問題なのではない、憲法違反なのだと正論を吐いていた。その通りであるが、国際関係もやはり気になるところだ。

中国や韓国はもちろん、アメリカが安倍晋三の靖国参拝を厳しく批判しているのが目立つ。EUやロシアも同様である。

面白いのは、安倍政権が特定秘密保護法を成立させたことを高く評価する池田信夫(ノビー)が安倍晋三の靖国参拝というか、靖国そのものに徹底的に批判的なことで、ノビーは昨年12月26日のブログ記事に

安倍首相が靖国神社を参拝したことで騒ぎが起きているが、これはもともと招魂社という天皇家の私的な神社であり、国家の戦死者をまつる神社ではなかった。国家神道という国定宗教をでっち上げ、靖国神社をその中心にしたのは明治政府である。

と書き、翌12月27日にはこんなことを書いている。

靖国神社は、このような西洋の政教分離の伝統とは無関係な、天皇制のイデオロギー装置である。それが戦争に大きな役割を果たしたのは、もともと政治の一部だったのだから当たり前だ。したがって靖国に政教分離なんてありえない。そこには「政」と分離して存在する「教」がないからだ。

「どこの国でも戦争のために命を落とした英霊を慰霊するのは当然だ」という話もよくあるが、ちっとも当然ではない。戦争では非戦闘員も大量に殺されるのに、なぜ兵士だけが慰霊施設にまつられ、遺族は年金をもらうのか。それは戦争という個人的には不合理な(しかし国家的には必要な)行動を奨励する装置なのだ。

靖国神社から「A級戦犯を分祀する」なんてナンセンスだ。それは国家神道の中で名簿を書き換えるだけで、靖国そのものが政治的装置なのだから意味がない。A級戦犯だけが戦争を起こしたわけではない。戦争をあおったマスコミも、それに熱狂して旗を振って兵士を戦場に送った国民も含めた無責任体制が、あの戦争の原因である。

その伝統は今も残っている。責任の所在を明確にしないで、みんなで相談して何となく「空気」で決める意思決定が、日本の政治や経済の行き詰まる原因だ。リーダーにはそれを突破する合理的な指導力が必要だが、安倍氏は支持層に忠誠を誓う非合理主義を世界に表明してしまった。これでいちばん喜ぶのは、外交的に行き詰まっていた中国や韓国だろう。

(池田信夫blog 2013年12月27日付記事「靖国神社に『政教分離』はありえない」より)


なぜ、新春早々、私の天敵ともいえるノビーの記事を延々と引用したかというと、何も「ノビーでさえ安倍晋三の靖国参拝を批判している」などという月並みなことが言いたいからではない。そんな論法でたとえば小林よしのりなどを肯定的に引用するのは有害である。

ただ、ナベツネ(渡邉恒雄)などと同様、若い頃マルキストだった池田信夫の指摘する日本的意思決定のプロセスに対する批判が、現在の「リベラル・左派」にも見事に当てはまっていると感じたから、酔狂にもノビーの文章を長々と引用したのである。

ノビーの言う「責任の所在を明確にしないで、みんなで相談して何となく『空気』で決める意思決定」の問題とは、「同調圧力」の問題でもあろう。それが端的に見られる例の一つが、東京都知事選への出馬を表明した宇都宮健児氏の、2012年の東京都知事選における選挙対策本部の問題だと思う。

昨年最後の記事のタイトルは、「東京都知事選、宇都宮健児氏は支持できない」である。その意見は今も変わらない。

昨年暮の記事にも書いたが、私がこの立場に立った最大の理由は、2012年の東京都知事選における宇都宮氏陣営の選対が澤藤統一郎氏父子に対して取ったとされる「排除」のやり方に、私自身がかつて「政権交代ブログ村」で経験したことと同じ匂いを感じたからである。その他に宇都宮氏が昨年「緑茶会」とやらの発起人に名を連ねた一件もあるが、そんなものは宇都宮氏選対の体質の問題と比較すれば、取るに足らない軽微な問題に過ぎない。

また、私が宇都宮健児氏を支持できないと思うのは、政治的な思想信条とも関係ない。澤藤弁護士は共産党支持だそうだが、共産党は既に宇都宮氏の推薦を決めたと報じられている。澤藤氏は19日、「活憲左派の共同行動をめざす会」の発足記念集会で「特別発言」を行うそうだが、この集会で「日本経済はどうなるか?」と題した記念講演を行うという伊藤誠氏を私は買わない。昨年、伊藤氏の著書『日本経済はなぜ衰退したのか 再生への道を探る』(平凡社新書, 2013年)を読んだが、正直言って感心しなかった。伊藤氏は宇野弘蔵系のマルクス経済学者だそうだが、小泉純一郎の「構造改革」を引っ提げて登場した時、少々小泉に期待した点もあったようだ。それに限らず、全般的に小泉構造改革への批判が弱く、全く食い足りなかった。

私は、上記のような思想信条にかかわる点とは関係なく、澤藤氏父子の告発を黙殺し続ける宇都宮氏選対の体質には強い不信感を持つものである。これは、何も私だけではないようだ。ネットを見渡してみると、旧社会党を支持していた方や、生活の党に近い人など、思想信条がさまざまな「リベラル・左派」の人たちが宇都宮氏選対の体質や宇都宮健児氏本人の資質を疑う声を上げている。それに対し、宇都宮氏陣営はただ沈黙を守り続けるだけだ。

一方で、「リベラル(・左派)は団結すべきだ」「割れてはならない」と主張する人たちも多い。だが、こうした意見ほど私を反発させるものはない。この手の意見は有害な「同調圧力」を助長するだけのものだと私は声を大にして主張する。私は何も「東京都知事選には勝てる候補を出せ」などとは言わない。たとえ誰が出たって、東京都民はろくな選択はしない。私はただ嫌なものは嫌なだけである。宇都宮氏が嫌なら代案を出せと言う人もいるが、宇都宮健児氏で負けるのも白票を投じて負けるのも同じである。私は、「同調圧力」を行使する人間にさんざん悪態をつきながらも、いざ投票日になったら宇都宮健児氏に投票するという行動を取る可能性もあるが、それでも百害あって一利なしと信じる「同調圧力」に対する全的な "NO" を、ここにはっきり表明しておく。

ところで、本エントリのテーマである「同調圧力」といえば、昨年12月25日付朝日新聞オピニオン面に掲載された作家・星野智幸氏の論考「『宗教国家』日本」が記憶に新しい。私は新聞紙面で読んだが、下記Togetterで全文が読める。
http://togetter.com/li/607261

一読して強い印象を受けたので、『kojitakenの日記』に要旨と感想を書いた。
http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20131225/1387930380

上記記事中、2箇所で星野氏の論考を直接引用している。それを下記に再掲する。

 今や同調圧力は、職場や学校の小さな集団で「同じであれ」と要求するだけではなく、もっと巨大な単位で、「日本人であれ」と要求してくる。「愛国心」という名の同調圧力である。「日本人」を信仰するためには、個人であることを捨てなければならない。我を張って個人であることにこだわり続けた結果、はみ出し孤立し攻撃のターゲットになり自我を破壊されるぐらいなら、自分であることをやめて「日本人」に加わり、その中に溶け込んで安心を得た方が、どれほど楽なことか。
(朝日新聞 2013年12月25日付オピニオン面掲載「『宗教国家』日本」(星野智幸)より)


 「日本人」信仰は、そんな瀬戸際の人たちに、安らぎをもたらしてくれるのである。安倍政権を支えているのも、安定を切望するこのメンタリティーだろう。

 もちろん、このように有権者が自ら主体を放棄した社会では、民主主義を維持するのは難しい。民主主義は、自分のことは自分で決定するという権利と責任を、原則とした制度だから。だが、進んで「日本人」信仰を求め、緩やかに洗脳されているこの社会は、その権利と責任の孤独に耐えられなくなりつつある。自由を失うという代償を払ってでも、信仰と洗脳がもたらす安心に浸っていたいのだ。それがたんなる依存症の中毒状態であることは、言うまでもない。みんなでいっせいに依存状態に陥っているために、自覚できないだけである。

 この状態を変えようとするなら、強権的な政権を批判するだけでは不十分だ。それをどこかで求め受け入れてしまう、この社会一人ひとりのメンタリティーを転換する必要がある。難しくはない。まず、自分の中にある依存性を各々が見つめればよいだけだから。

(朝日新聞 2013年12月25日付オピニオン面掲載「『宗教国家』日本」(星野智幸)より)


引用文から明らかなように、「同調圧力」の問題とは「全体主義」の問題である。現在の日本においてもっとも広く蔓延している「同調圧力」は、星野智幸氏が書いた「『日本人』信仰」であり、安倍晋三政権を支えるものでもある。それに対抗する陣営が擁立する候補の選対が、同じような「全体主義」的体質を持っていてどうする。そう私は言いたいのである。澤藤統一郎氏父子の告発に沈黙を持って応じる。そんな体質だから、前回の都知事選で宇都宮健児氏は猪瀬直樹の4.48分の1しか得票できなかったのではないかと私は思うし、同様の意見を持つ人は少なくなかろう。

前回の宇都宮氏陣営は、その他にも選挙違反の疑いが澤藤弁護士に告発されているが、そうした具体的な疑惑以前に、宇都宮氏陣営のあり方自体が論外であると私は思う。そもそも民主的に運営されていないのである。それは「全体主義的」であるとさえいえるものだ。

宇都宮氏選対の体質に象徴される「個」なき群れたがりの度し難い集団が、安倍晋三や石原慎太郎ら国家主義者たちが立ててくる都知事候補に勝てるとは、私には全く思えない。現在いくら批判者の声を無視する全体主義的な態度を取ったところで、選挙にはあっけなく惨敗しておしまいになるだけである。

なお、2007年の都知事選における石原慎太郎圧勝のあと2か月間支持率が高止まりした安倍内閣が、その後支持率急落に見舞われて安倍の政権投げ出しに至った。都知事選に惨敗すれば安倍晋三は止められないという事態には必ずしもならない。それが唯一の救いだろうか。
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