秘密保護法案の衆院採決は、明日(26日)にも行われそうだ。しかし、法案に反対する言論は、東京新聞や毎日・朝日などがネットに先行している。ネット市民の反応は鈍く、『kojitakenの日記』に
などとしたり顔に書く馬鹿者まで現れた。また、同じ『kojitakenの日記』で私が山本太郎の「天皇お手紙事件」や小泉純一郎が自らの原発推進責任をろくろく反省もしないで「脱原発」でウケを狙ったことを繰り返し批判したことに対して、民主党が反対するんだそうな。てめえが作った(煽った)法案だろうが。こんな奴らが反対するなら賛成したくなる。
とコメントしてきた人間もいたが、前述の通り、「法案の本質を徹底的に批判するキャンペーン」なら東京(中日)・朝日・毎日などの新聞やTBSのテレビ番組『サンデーモーニング』などの方がネットよりずっと先行している。マスメディアに説得されない国民の考え方を弱小の個人ブログが変えられるはずもない。小泉・山本を叩く暇があったら、法案の本質を徹底的に批判するキャンペーンをすべきところであった。
私は、国民主権を蔑ろにして明治憲法時代さながらに天皇に「直訴」した山本太郎や、原発推進のほか格差拡大の経済政策やイラク戦争への加担などの犯罪的行為を犯し続けた小泉純一郎に「脱原発」派が肩入れしていることと、安倍晋三の狙い通りに今国会で秘密保護法案が成立しようとしていることに対する主権者たる国民の抵抗の弱さとの間には強い相関があると考えている。
要するに国民一人一人に「個」がないのである。
昨日、2000年に指揮者の小澤征爾と作家の大江健三郎が2000年に行った対談を記録した『同じ年に生まれて - 音楽、文学が僕らをつくった』(中公文庫,2004)を読んだ。私は正直言って小澤征爾にも大江健三郎にも一定の批判を持っているが、それにもかかわらず、2人の言葉に、今の日本人に欠けているところを鋭く突いていると思った。以下引用する。
大江 やはり自分という個人、自分の個ということを強く考えて、その自分をはっきり表現しようとしたり、ほかの個を教育してやろうと思ったりするということは、自己中心主義というのじゃない、この世界のなかに真っすぐ立って生きていることであって、それは重要だと思います。
小さな島に、海に囲まれて暮らしてて、ほかの国から侵略してきた人間に殺されたり奴隷にされたりしないできた日本人には、自分の一人の個を直立させねばならないという考え方、真っすぐ立ってる人間にまず個がなければならないという考え方は、弱いと思う。(中略)その個として立っていることが、エゴイズムとか、個人中心主義とかいうんじゃなくて、人間が生きていることの原則だと受けとめられねばならない。まず一人立たなきゃなにも始まらない、ということへの認識が弱いということが日本にはある。
(小澤征爾、大江健三郎『同じ年に生まれて - 音楽、文学が僕らをつくった』(中公文庫,2004)70-71頁)
(中略)
小澤 だからインスティチューション(引用者註:団体や政党)よりも個人のほうが絶対大事なんだ、というのが僕の信念だと、だんだん分かってきました。ところがインスティチューションに入っちゃうと、お金もかかるし、いろいろ道のりもあるし、その人があるポジションに就くまでには時間がかかったりするので、えてしてインスティチューションのほうが自分より大事だとか、あなたより大事だとか、会議に出ている人の前で、インスティチューションのほうがあなたたちよりも大事だとなりがち。そうじゃないと僕は思うんですね。
大江 はい。
小澤 とくに日本は戦後二十五年のあいだに、急にいろいろなことが変わった。それで国益とあなたがおっしゃったことで思ったんですけれども、会社の益とか、インスティチューションの益の方が個人よりも大事だと思った瞬間に、その個人は個というものを失った。どんなところへ行っても、インスティチューションの益が、その人よりも強いということはありえないと僕は思うわけです。
インスティチューションの長になった人が、もしそのことを分からなかったら大きな問題が起こってくるでしょう。
大江 本当に、そうだなあ。
(前掲書 91-92頁)
国民個人個人に自立する気がないから、「脱原発」を実現するにも小泉純一郎や(山本太郎を介して)天皇にすがろうとする。そんな根性と、為政者が発する「国益」なる言葉に易々と説得され、長いものに巻かれてしまうことは、断じて無関係ではない。「私は小泉純一郎や山本太郎を支持するけれども、秘密保護法案には反対だ」と仰る人もおられようが、小泉純一郎や山本太郎を支持すること自体に、秘密保護法案を容認する芽が潜んでいるのである。