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きまぐれな日々

しばらくブログを更新しなかった。毎週月曜日にまとまった文章を公開する気力が減退してきたからだ。このままではズルズルほったらかして、放置ブログになりかねないので、今回は自らを奮い立たせる意味で短い記事を書く。

安倍晋三の支持率が異常に高いが、奇妙な現象が起きている。たとえば安倍晋三のTPP参加表明の是非を問う朝日新聞の世論調査に対する「支持する」の回答が71%を占めた。また、安倍晋三が民主党・野田政権が掲げた「2030年原発ゼロ」の政策を「ゼロベースで見直す」としたことの是非を問うTBSの世論調査で、こちらはさすがに7割台などという高率にはならなかったものの、「見直し賛成」51%、「反対」41%となり、約半数の回答者が安倍晋三の原発推進政策を支持した。毎日新聞の同様の問いにも、過半数には至らなかったが「見直し賛成」が「反対」を上回った。

ああ、これが日本人だと思った。第2次安倍内閣が発足する前、有権者は安倍晋三が過去にやったことを覚えているから、今回も安倍は自滅するに違いないと書いたことがあるが、甘かった。よくよく考えてみれば、A級戦犯容疑者の岸信介を戦後12年目に早くも総理大臣にしてしまったのが日本国民だった。

日本社会の「同調圧力」の強さにはほとほと呆れる。あまりにも「空気を読む」人間が多すぎる。ところが安倍晋三は前回の総理大臣時代、「空気が読めない」を略した「KY」の異名を頂戴した人間だ。国民の関心の低い「改憲」にばかりかまけて、気づいたら「消えた年金」問題で輿論が騒然となる中、支持率を急落させた。

安倍晋三が総理大臣を退いた後、誰もが安倍晋三は終わった政治家だと思ったし、私もその例外ではなかったが、「KY」安倍晋三は、KY、じゃなかった敬愛する母方の祖父・岸信介の悲願だった「憲法改正」を実現するために「再チャレンジ」を付け狙ってきた。その執念おそるべしである。安倍は、岸信介のような頭のキレはおよそないようだが、執念深さだけは岸信介のそれを受け継いでいたようだ。

そしてその機は来た。昨年の終戦記念日に、橋下徹が安倍晋三を自民党から引き抜こうとしていることを朝日新聞が「スクープ」した(実際にはマスメディアの記者たちの誰もが知っていながらそれを報じないという「空気」を朝日が破っただけだと私は推測している)ことで潮目が変わった。自民党が安倍を維新に獲られてはなるまいと思ったのかどうか、あれよあれよと安倍は総裁選に当選し、衆院選で圧勝し、「アベノミクス」の宣伝が大当たりして、かつての小泉純一郎を彷彿させる「敵なし」状態になってしまった。

その間、自民党を批判する側の言論の流行もずいぶん変わった。2006年10月の党首討論で「憲法無効論」を振りかざして時の総裁・安倍晋三(当時)に改憲を迫った民主党代表・小沢一郎(同)を、多くの「新左翼崩れ」が支持するようになった。これらニューカマーの小沢一郎の支持者たちが形成するサークル内での「同調圧力」の強さはまさに異常である。原発は「即時廃棄」でなければ「脱原発派」とは認められない一方で、なぜか孫崎享の教える「岸信介は偉大な『自主独立派』の政治家」という教義を信じなければ異端として排斥される。今では、安倍晋三を「A級戦犯の孫」として非難する「小沢信者」は誰もいなくなった。噴飯ものである。

「小沢信者」は単なる一例であって、何が言いたいかというと、「付和雷同」して「空気を読む」のは、何も安倍晋三や自民党を支持する人々ばかりではないということだ。広く日本人に染みついた悪弊である。

私は呼びかけたい。われわれは皆、内閣総理大臣・安倍晋三の「KY」を見習おうではないか、と。
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今日で東日本大震災・東電福島原発事故からまる2年になる。震災で犠牲になられた方々にお悔やみを申し上げるとともに、今なお不自由をされている被災者の方々にお見舞い申し上げる。

本来静かに祈りを捧げる日であってしかるべきだろうが、そうはさせないのは東電原発事故以降の原発をめぐる混迷だ。

昨夜のNHKの番組を含み、東電原発事故の検証報道もずいぶんなされているけれども、東電の事故対応がお粗末だった原因は、原発派絶対に事故を起こさないという「安全神話」であり、それを作り上げてきたのは歴代の自民党政権、経産省や文科省、それに当の電力会社だった。安倍晋三は野党時代から自民党の責任を棚に上げて、東電原発事故当時の菅政権批判を繰り返し、そのためには海水注入をめぐるでっち上げさえ辞さなかった。こんな人間を再び総理大臣にしてしまった日本人は、まず根本的に狂っているとしか言いようがない。

もちろん民主党(菅・野田)政権の事故対応にも問題が多かったのは事実だし、岩手県選出でありながら震災を顧みず政争に明け暮れた小沢一郎の問題もあった。小沢に関していえば、被災地選出の政治家として立ち上がり、原発政策に関しても、事故後1年以上も経って離党してからではなく、事故直後から「脱原発」を鮮明にし、かつ自公の菅内閣不信任案提出を煽るなどの愚行を行わなければ、今日のような無惨な姿を晒すことはなかったのではないか。小沢もまた、事故対応を誤った政治家だった。だが、民主党離党後に「脱原発」を打ち出しただけ安倍晋三よりはマシだろう。

その安倍でさえ、施政方針演説で「省エネルギーと再生可能エネルギーの最大限の導入を進め、できる限り原発依存度を低減させていきます」と言わざるを得ないのが現状なのだ。前首相の野田佳彦(「野ダメ」)が愚かにも一昨年末に東電原発事故の収束宣言をしたが、実際に収束などしていないことは、安倍晋三が野ダメや民主党を批判しながら認める通りだ。もっとも、この件で安倍に野ダメや民主党を批判する資格は一切ない。

昨年末に発売された『週刊朝日』2012年12月28日号に、田原総一朗がこんなことを書いていた。
http://dot.asahi.com/news/politics/2012121900008.html

 ただ、民主党政権で原発事故が起きたことはよかったと思っている。これがもし自民党政権で起きていれば、自民党は全力で事故の内容を隠蔽(いんぺい)しただろう。民主党は隠し方を知らなかったから、原発事故はほぼすべてが露呈した。民主党政権でなければ、いまも事故の詳細は闇の中だったかもしれない。

(『週刊朝日』2012年12月28日号より)


私は田原総一朗が大嫌いだが、この件に関しては田原が言う通りだろう。もっとも、それ以前に、自民党政権、特に安倍晋三が総理大臣であれば、東電が事故対応にお手上げになって、福島第一原発からの撤退を言い出した時にそれを認め、その結果原発は致命的な事態に至って東日本には人が住めなくなり、今頃は首都はどこかに移転していたのではないかとさえ私は思っているのだが。

東電福島第一原発でまた新たな問題が起きれば、それは原発再稼働にブレーキをかける要因になるし、その時政権が原発再稼働に前のめりになっていれば支持率の急落につながる。それは、現時点では自民党の圧勝以外に考えられない参院選の情勢を一変させる可能性もある。脱原発を求める民意は根強い。だから、安倍晋三は「できる限り原発依存度を低減させていく」などという心にもないことを言わざるを得なかった。

だが、安倍の本音はどこまでも原発推進であって、参院選後にはその正体をむき出しにするだろう。福島を切り捨てようがお構いなしである。だが、その当の福島の原発事故被災地でも、先の衆院選では自民党が議席を獲得した。

以上、安倍晋三批判を述べたが、最後に、「脱原発」陣営の問題点にも触れなければなるまい。特にネットで顕著だが、一部脱原発派の暴走が「脱原発」の流れに大きく水を差した。いわゆる「放射脳」問題である。ここではいちいち具体例は挙げないが、特に問題なのは個々の症例を東電原発事故の関係を短絡し、それに対して懐疑的な論者を「原発推進派」と決めつけて論難する「脱原発派」が後を絶たないことだ。よほど特殊な場合を除いて、東電原発事故の影響の有無は統計的にしか推論することはできないと私は考えている。

極端な例をいえば、誰かの訃報が報じられるたびに「東電原発事故の影響だ」と書く人間がいるが、明らかに人の死や東電原発事故を娯楽として消費している態度だ。その延長上に、あえて名を秘すが小野俊一や木下黄太などのネットの人気者がいる。こういった人間のクズをまともに批判できない「脱原発派」は、脱原発運動そのものに水を差していることを自覚すべきだ。

トンデモに堕さない脱原発運動の持続が強く求められる。
昨日、本屋で写真週刊誌(どこだったか忘れた)の見出しが目に入ったのでページをめくってみると、小沢一郎が昨年暮の衆院選で供託金没収の惨敗を喫した姫井由美子のパーティーに出たり、亀井静香がカラオケで何やら歌ったり、菅直人が東京・三鷹に建てた4LDKのエコ仕様だか何だかの新居の前でニヤニヤしたりするなどの冴えない様子が報じられていた。姫井由美子のパーティーには大新聞の「小沢番」が遅刻して現れ、なぜかスポーツ紙の記者がいたが、最近女子柔道のパワハラ問題で悪評ふんぷんの谷亮子が来るのではないかと期待したからだとか。結局谷は現れなかったそうだが。

写真週刊誌は、この3人の政治家を「セミリタイア」と形容していたが、3人が政権交代の失敗の責任を感じている様子はなさそうだ。

彼らのていたらくもあってかどうか、第2次安倍内閣に対する批判の言論に全く力がない。朝日新聞を日々眺めても、紙面が死んでいる。安倍晋三を批判する側のネット言論も不活発だ。「小沢信者」たちの「不正選挙キャンペーン」は当の「生活の党」にさえ相手にされておらず(当たり前だ)、連中は意気阻喪しているし、そんな狂信的な連中とは違う、まともな政権批判者でも、日本維新の会の分裂や、定数是正がなされないまま行われた衆院選が無効になることなどに空しい期待をしていたりする。だが、日本維新の会の騒ぎは、単に自分たちから注目を逸らさせないためのプロレスに過ぎないし、再投票などあり得ない衆院選の再投票が万一あったところで、自民党の議席がますます増え、民主党と生活の党は壊滅の度を増すだけだろう。菅直人や亀井静香は落選するだろうし、「生活の党」で残るのは小沢一郎ただ1人ではないか。いや、小沢の当選さえ危ういかもしれない。

先日、安倍晋三が施政方針演説で貝原益軒を引き合いに出した。貝原益軒と言えば私など真っ先に「女大学」を連想する。「女大学」は貝原益軒の自著ではなく、貝原の『和俗童子訓』を元に作られたものらしいが、「女は陰性也、陰は夜にて暗し、故に女は男に比るに愚にて目前なる然るべきことをも知らず」などと書かれており、儒教道徳で女性を縛る思想に基づいている。そんなことを思い出さずにはいられない貝原益軒を引き合いに出すなど、第1次安倍内閣の時代だったらそれだけで安倍は猛烈な批判を浴びただろう。だが今はそうではない。

また安倍は、「一身独立して一国独立する」という福沢諭吉の言葉を持ち出した。これを産経は、「首相は福沢諭吉の言葉を引用して自立した個人が互いに助け合うことこそ真の『共助』『公助』だと訴えた」と評しているが、安倍は福沢諭吉の言葉を換骨奪胎している。ひどいものだ。これではまるで小泉純一郎の言葉ではないか。

福沢諭吉が嘆いたのは、日本人の「お上」に対する依存心の強さである。それは現在でも根強い。だから小泉内閣から第1次安倍内閣時代に、格差や貧困が大きな社会問題になって、自民党の支持率が大きく低下した時にも、「剛腕」と称された「何とかしてくれそうな」小沢一郎にすがる人間が多数発生した。私に言わせれば、「政権交代」を望んでいた人たちの小沢一郎に対する依存心の強さが政権交代を失敗させたようなものである。昨今の橋下徹の異常人気も同じ心理規制によるものだろう。

そして、前述の貝原益軒を引き合いに出したことや、相も変わらず「教育改革」とやらで権力に隷従する人民づくりに精を出す安倍晋三の政治思想は、福沢諭吉とは真逆の方向性を持っていると言っても過言ではない。

安倍の「著書」であるらしい『美しい国』を、前回政権時代に私は「読まずに批判する」ことを実践したが、その改訂版であるらしい『新しい国』もまた、読まずに批判する。ネットで得られた情報によると、安倍はこんなことを書いているらしい。

自立自助を基本とし、不幸にして誰かが病に倒れれば、村の人たちみんなでこれを助ける。これが日本古来の社会保障であり、日本人のDNAに組み込まれているものです。


 アホか!!!!!

「DNA」という言葉をみだりに用いる人間を私は信用しないが、安倍晋三はそれ以前の問題外である。「アベノミクス」とやらは、財政出動と金融緩和とインフレターゲットの組み合わせであり、積極財政という点ではフリードマンではなくケインズ流の政策なのだろうが、何度も書くように税金の使い方が間違っている。安倍が社会保障を切りまくろうとしていることは疑う余地はない。現に安倍は生活保障の水準を切り下げる。上記『新しい国』の引用文は、そんな安倍の逃げ口上である。「国土強靱化」の政策は、人口が増加している国であれば効果があるかもしれないが、人口が減っている状態においては、社会保障費の割合を増やしていく政策をとるほかない。第2次安倍内閣の経済政策は、やはり日本を谷底に突き落とそうとするもの以外の何物でもあるまい。

だが、最初の方にも書いたように、そんな安倍を批判する言論に、全く力がない。ふと思い出したのは、昨年読んで感銘を受けた坂野潤治著『日本近代史』である。著者は、この本のあとがきに、「2011年3月11日は、(敗戦した1945年8月15日より)日中戦争が勃発した1937年7月7日の方に近く見える」と書いた。そして、「これ(1937年)以後の八年間は、異議申立てをする政党、官僚、財界、労働界、言論界、学界がどこにも存在しない、まさに『崩壊の時代』であった。異議を唱えるものが絶えはてた『崩壊の時代』を描く能力は、筆者にはない」という言葉で長い『日本近代史』の記述が締めくくられている。

昨年暮の衆院選の結果、「異議申立てをする政党、官僚、財界、労働界、言論界、学界」が、どこにも存在しないとまでは言わないけれども、影響力を決定的に失ったといえるのではないか。

現在はまだ村上春樹の訴えに中国の作家や人々が反応したり、榊原英資の言葉を借りれば「日中の経済統合が進」んだりしている。しかし、そんな文化や経済のつながりは戦争を防ぐ抑止力には全くならないことは、歴史が教えるところである。戦争を防ぐのは、正しい歴史認識だと思うが、現在の日本の最高権力者は、歴然とした「歴史修正(というより歴史改竄)主義者」である。そして、そんな権力者に対する批判に、全く力がない。ここまで危機的な状況なのに、何の危機感も持たない人間があまりにも多すぎる。

今回もまた、暗澹とした気分のまま文章を締めくくるしかない。