番組冒頭でアメリカの冷淡な対応を言っていたのはTBSのサンデーモーニングだった。ネット検索しても、「記事にできないホンネを集めた脱力系ニュースサイト」と銘打たれた「ニュースの教科書」というサイトに、下記記事が掲載されていたのが目立つ程度だった。
http://news.kyokasho.biz/archives/6571
夕食会も出迎えもなし。日米首脳会談で見せ付けられた日本軽視の厳しい現実
米国を訪問した安倍首相は、日本時間23日未明(現地時間22日午後)、オバマ米大統領とホワイトハウスで会談した。日本側は、TPP(環太平洋経済連携協定)について「全ての関税撤廃をあらかじめ約束することを求められているわけではない」ことが確認できたとして、早期に交渉に参加する意向を表明した。また日米同盟の重要性についても再確認できたとしている。
だがオバマ大統領は、今回の首脳会談の開催そのものについて疑問視しているといわれる。当初米国側は開催について難色を示していたが、日本側のたっての望みで会談にこぎつけたという経緯がある。このため安倍首相に対する応対はかなり冷淡で事務的なものになった。
通常、主要友好国の首脳が米国を訪問する際には、大統領主催の夕食会が開催されることが多い。2011年にドイツのメルケル首相が訪米した際は、大統領夫妻、副大統領がホワイトハウスで直接出迎え、大統領主催のディナーにメルケル首相を招待している。英国のキャメロン首相が訪米した際には、オバマ大統領は大統領専用機にキャメロン首相を乗せ、バスケットボール観戦に招待するというパフォーマンスも見せている。韓国の李明博大統領訪米の際も、ホワイトハウスで夕食会が開催された。
だが今回の安倍首相の訪問に対する米国側の対応はかなり冷淡だ。安倍首相とオバマ大統領の会談は、ミーティング・ルームでの軽いランチを含めてわずかに1時間30分程度。
さらに衝撃的なのが、首脳会談後の記者会見である。オバマ大統領はほとんど中身のない社交辞令的なスピーチに終始したが、その後の記者からの質問は安倍首相そっちのけで、米国政府の歳出強制削減問題に集中。見かねたオバマ大統領が「次の質問は安倍首相に向けられることを提案します」と助け舟を出す始末。
米国における日本の重要度が下がり、日本に対する関心が薄れているというのは、以前から指摘されていたことではあるが、今回の首脳会談はその現実をまざまざと見せつけられる結果となった。
野田前首相の訪米の際も、会談のテーマや目的などを明確化したいという米国側に対して、日本側は「とにかく会談をしたい」の一点張りで、米国側をあきれさせたといわれている。今回の訪米についても、オバマ大統領との友好関係を強調したい安倍首相が、首相就任前の訪米を無理に打診し、オバマ大統領が一蹴するという事件があった。記念写真の撮影のためだけに相手を利用するような付き合い方をくり返していては、日本への信用は低下するばかりだ。
(ニュースの教科書 2013年2月24日)
安倍はオバマに対し、「原発ゼロ」政策のゼロベースでの見直し、普天間基地の辺野古移設へ向けての埋め立て申請、TPP交渉への参加の意向などを言明した。これを指して、安倍晋三のアメリカへのすり寄りと評する向きもある。
だが私には国内向けの安倍晋三の示威行動にしか見えない。安倍晋三は専ら日本国内を意識して、自らの権力を誇示しようとし始めたのではないか。それぞれ抵抗の大きなこれらの案件を片付けるのは、政権の支持率が高い今がチャンスだとでも思っているかのようだ。私が強く感じるのは、安倍晋三の国民に対する嗜虐性である。
今回は特に原発の話に絞るが、そうそう簡単に「日本を取り戻す」とばかりに原発再推進へと政策の舵を切れるはずがない。たとえば一昨日(23日)、朝日新聞は下記のように報じている。
http://www.asahi.com/national/update/0223/TKY201302230222.html
安全適合の原発、ゼロ 規制委案、再稼働は見通し立たず
原子力規制委員会が示した新安全基準骨子案に現時点で適合している原発は一つもないことが、朝日新聞の調べでわかった。適合のめどがたっていない原発も東京電力福島第一原発を除く全国16原発のうち、9原発に上った。7月に始まる規制委の安全審査に向けて各電力会社は安全対策を実施したり、準備を進めたりしているが、原発の再稼働は当面できない見通しだ。
原発をもつ電力会社10社に福島第一を除く全国16原発について、福島原発事故後に着手した安全対策の進み具合をアンケートした。
国の新安全基準骨子案で必要とされた安全対策で最も整備が遅れているのは、原子炉格納容器のフィルター付きベントだ。すべての原発で未設置だった。工事を始めたのも、東電柏崎刈羽の2基にとどまる。
(朝日新聞デジタル 2013年2月23日20時59分)
こうした原子力規制委員会の動きにヒステリーを起こしているのが自民党の議員や原発推進勢力に属する論者である。例えばノビー(池田信夫)は1月29日のブログに
と書いて噴き上がっている(笑)。もっともそのノビーでさえ、2月24日のブログでは「核燃料サイクルの経済性は失われた」と書いているが、そもそも原発そのものの経済性が失われている現実をノビーは直視できないらしい。それはともかく、そもそも田中俊一は脱原発派から「原子力ムラの中心人物だ」と批判されながら、民自公の三党合意で強引に決定された人事だ。昨年8月の時点では、これに反対していたのは自民党内では河野太郎だけだった。それを棚に上げて民主党攻撃をしている自民党の国会議員たちには呆れ返る。反原発派に乗っ取られた原子力規制委は、民主党政権の残した負の遺産である。自民党は国会の同意を得ていない田中俊一委員長を初めとする委員の人事を見直し、まともな専門家に入れ替えるべきだ。
原発推進派の前首相・野田佳彦(「野ダメ」)は、政権の原発依存度の長期目標(2030年)の落としどころを当初「10〜15%」にしようとしたものの、結局世論の強い反対などがあって「原発ゼロ」を目指すことを余儀なくされた経緯がある。「脱原発」は選挙では全く票にならないが、原発推進政策をやろうとすると、その都度世論の強い抵抗があるのだ。古くは一昨年夏、現民主党代表、当時経産相の海江田万里が玄海原発の再稼働をもくろんでそれを当時の首相・菅直人に阻まれ、国会で悔し涙を流したことがあった。あれも菅が阻んだというより、世論が海江田を阻んだのだ。東電福島第一原発事故が今なお収束していない以上、再稼働には本来強い抵抗があって当然だ。その意味では、大飯原発再稼働を容認した橋下徹や嘉田由紀子の罪は重い。
「原子力ムラの中心人物」だった田中俊一にしたところで、最終的にはどこかの原発の再稼働を許可したいと考えているであろうことは十分推測されるが、「原子力安全神話」が崩れた以上、原発事故が起きる可能性を想定して安全基準を策定しなければならないのは学者として当然であって、だから「新安全基準骨子案に現時点で適合している原発は一つもない」ことになる。それを理解できない安倍晋三を筆頭とする自民党の議員たちは本当に頭が悪い。
前述のように、安倍晋三はオバマに「『原発ゼロ』政策のゼロベースでの見直し」を約束したが、サンデーモーニングで毎日新聞主筆の岸井成格は「年内の原発再稼働はできないのではないか。政権はそこを甘く見すぎている」と発言するとともに、いずれは自民党政権も前政権の「原発ゼロ」政策を継承せざるを得なくなるのではないかとの見通しを示していた。余談だが、7年前の第1次政権時代、『週刊ポスト』や『週刊現代』をはじめとして政権発足当初から安倍晋三叩きが過熱していた中、岸井成格は安倍晋三擁護のジャーナリストの筆頭格だったが、現在では週刊誌は安倍をほとんど叩かないことなど、えらく様変わりをしているように見える。
原発推進派のノビーでさえ否定的な核燃サイクルも、安倍政権は当然のごとく続けるのだろう。そもそもこの核燃サイクルについては「にわか脱原発」派の認識が浅いらしく、昨年、「脱原発」を掲げているはずの「国民の生活が第一」の国会議員にアンケートをとった時、「継続する」と答えた議員が過半数いて批判を浴びたものだ。核燃サイクルに投入される国費こそ、彼らの大好きな「ムダの削減」の対象として真っ先に槍玉に挙がって然るべきなあのになあと私は思ったものだが、「有権者の人気とりが第一」の彼らにとっては、有権者の関心の低い核燃サイクルなどどうでも良かったのかもしれない。それで選挙に大敗してれば世話はないが(笑)。
そういえば「アベノミクス」とやらの第三の柱は「成長戦略」らしいが、安倍晋三が実際にやろうとしていることは「成長の妨害」である。なぜかというと、安倍は相も変わらず原発を推進しようとしているからだ。現在の日本において、原発に関する技術革新の成果はきわめて乏しい一方、これまで電気自動車用に開発が進められ、今後再生可能エネルギーの比率が高まった時の負荷平準化のためにも欠かせなくなる蓄電池の技術に多くのメーカーが研究開発の投資をしている(先月のブログ記事で取り上げたボーイング787型機のトラブルは、まだ解決されたとはいえないようだが)。そんな時に、国策で原発を推進するなどは、上述の企業努力に水を差す愚行であり、むしろ原発がなければ経営が成り立たない企業など、市場から退出を願うべきなのだ。あのノビーも、相当とんちんかんではあるが、部分的には一面の真実を突いていることを述べている。
だから必要なのは金融緩和ではなく、流通や建設などの部門に残っているゾンビ企業を退場させて、遊休している労働者が新しい職場で働くことを支援するしくみである。政府が雇用調整助成金などの補助金や公共事業によって過剰雇用を温存することは、経済の停滞をまねいてデフレを長期化させるだけだ。
北欧の経験からいえることは、成長率を左右する要因として重要なのは政府の大きさではなく、労働移動の容易さだということである。それを実現する改革の方向としては、アメリカ型のドライな労働市場より、北欧に学んで負の所得税などの社会的セーフティネットを整備し、個人を守って企業を守らないしくみに変えてゆくことが現実的ではないか。これも日本のタコツボ型組織とは相容れないので容易ではないが…
産業別労組の力が強く、最低賃金制はないけれどもそんな制度は必要ないくらいの賃金を労働者が手にしていること、北欧諸国の国民負担率は日本よりはるかに高い反面、現物給付(=社会保険や公的扶助の給付のうち、医療の給付や施設の利用、サービスの提供など、金銭以外の方法で行うもの。間違っても橋下徹が「現物支給」と称するクーポン券配布と混同してはならない)も充実していること、北欧においても労働者の解雇は決して容易ではないこと、それに急激な産業構造の転換には弊害が大きいこと等々が抜け落ちているノビーの議論にはあまりにも難点が多過ぎるが、「個人を守って企業を守らないしくみに変えてゆくことが現実的ではないか」というフレーズにだけは私もノビーに同意する。労働者にしかるべき賃金を払えない企業は、かの国々では淘汰されてしまうが、そうしたゾンビ企業を守ろうとするのが安倍晋三の政策だといえるかもしれない。
第2次安倍晋三内閣のメッキは、これからボロボロと剥がれ落ちていくことになるだろう。
つまり、麻生太郎としては、財政出動をした結果景気が刺激され、その結果株価が上がるのだったら納得できるのだろう。現実はそうではなく、アベノミクスとやらが喧伝されただけで株価が上がっている。それ見たことかと「りふれは」が勢いづくかもしれない。彼らの中には、財政政策など効果は薄い、金融政策こそ効くのだという「小さな政府」信奉者が少なからずいて、こういう人たちを指して「上げ潮派」というのだと私は勝手に理解している。上げ潮派の代表的な文化人は竹中平蔵と高橋洋一であり、言わずとしれた小泉純一郎内閣の閣僚及びそのブレーンである。麻生太郎の声が小さくなり、竹中平蔵や高橋洋一の声ばかりがよく聞こえるようになった時、第2次安倍晋三内閣は曲がり角を迎えるかもしれない。
私は金融政策偏重の政策など、バブルを生み出すだけでメリットよりデメリットの方がずっと大きいという偏見を持っている。1989年をピークにしたバブル景気と私の暮らしは無縁だったが、2000年にピークにしたITバブルは、その破裂で手痛いダメージを蒙った。バブル景気の頃にマンションに手を出してローンに苦しんでいた人も身近にいたから、バブルなどろくでもないものだと思っている。バブルなんかに影響を受けたら人生設計なんてできない。
しかるに、現在週刊誌等には「安倍バブル」なる言葉が踊っている。誰も「安倍景気」なんて言わない。テレビを見ると、幸田真音(この人の名前は「まいん」と読むが、私には「マネー」にしか見えない)なる新自由主義者の小説家が嬉しそうに「自民党政権に戻って良かった、安心感がある」などと言うが、その舌の根も乾かぬうちに、今回の株高は外国人投資家が買っていることによることを認める発言をして、馬脚を現したりしている。
やはり財政政策が伴わなければダメだ。その点で、安倍政権が反緊縮の姿勢を打ち出している、ただ一点に関する限り私は肯定的に見ているが、使い道が公共事業偏重ではダメだということは、再三当ブログで主張してきた。
最近、神野直彦・金子勝門下に当たる井手英策・慶応大准教授の「土建国家」に関する論考が頭から離れない。井手准教授は『世界』2003年3月別冊「日本を立て直す」にも、「『コンクリートから人へ』何が正しく、何が間違っていたのか」と題する論文を寄稿している。
以下同論文から自由な引用を行うが、井手氏によると、公共事業を「土建国家」という日本型福祉国家の中核に位置するものであった。土建国家を一言で言いあらわせば、経済成長を前提とし、公共事業と減税で利益を分配する統治のあり方であるとする。
高度成長期、政府はほぼ毎年、中低所得層向けの減税を実施した(革新陣営に属する野党もこれを強く要求してきた=引用者註)。1980年代の増税なき財政再建・行革の時代に減税は一時停止されるが、バブル崩壊以降再び大規模な減税が繰り返された。
日本型福祉国家は対人サービスが不十分だが、毎年のように実施された減税は、中間層が、本来であれば政府が提供するような対人サービス(教育、福祉、医療、住宅など)を市場から購入できるようにした。減税は中間層を受益者とした。
再分配政策の柱が公共投資であり、1960年代後半以降地方に傾斜配分されるようになった公共投資は、都市に移動できない低所得層の雇用の機会を保証した。それが土建国家であり、「じつにあざやかなメカニズムであった」と井手氏は評している。
この公共投資は、小泉純一郎の悪名高い「構造改革」以来削減されてきたが、建設業と農業に致命的な悪影響を与えた。井手氏は、「公共事業を社会保障に置き換えることによって、どのようにこの機能が代替されるのか。その点を無視した公共投資の抑制は、良くて節約、悪ければ地域経済社会の破壊でしかない」と指摘する。「コンクリートから人へ」は、将来のあり方を問うことなく、予算の削減にまい進した政治の限界を示していた。ビジョンなき政治の果てに、再び土建国家に舞い戻ろうとしている。
しかしそれは危険な動きだと井手氏は言う。なぜなら、土建国家はあくまでも経済成長を前提とするモデルだからだ。1990年代の政権は、成長なきあと、成長を生むために多額の借金をしてきたが、成果が上がらなかった。
私自身の感想を述べると、そりゃ急激に労働人口が減少する今後の日本で、土建国家の政策を繰り返したって成果が上がらないのは自明だろうと思う。井手氏も書いているように、社会保障の拡充は、人びとにとって重要な課題であり、「コンクリートから人へ」という方向性自体は正しかった。だが、理念もへったくれもなく、「ムダの削減」を叫んで「犯人捜し」に明け暮れるようでは人びとの暮らしを良くする政治などできようはずもなかった。
井手氏は、「分断型利益分配システム」という日本の政治的特質を民主党政権が払拭できなかったと指摘する。民主党政権はこれを克服して「普遍主義」を目指そうとはしていた。所得制限のない「子ども手当」はその一例だろう。民主党政権の「子ども手当」には所得制限はなかった。復活した「児童手当」には所得制限がある。一見、所得制限を設ける方が再分配政策であるかのように見えるが、現実には制限を設けない方が再分配が進むというのが、神野直彦氏の指摘で知られる「再分配のパラドックス」だ。政治や社会に「他の人びとと同じに扱われている」と感じさせる政策が求められる。
逆に言えば、分断型の統治は、井手氏が例に引く以下の言葉を生み出す。「生活保護を与えれば、低所得者は働く意欲を弱め、怠惰な生活を選んでしまう」、「医療費を下げれば高齢者は健康なくせに病院通いをする」、「公務員は収入と雇用が安定しているので働かない」、などなど。これらの悪弊についてくだくだしく述べることは、ここではしない。
井手氏は、普遍主義の政策を行うためにはそれなりの財源が必要であるとする(つまり増税が必要であるということ)。井手氏は、「既存の土建国家のフレームワークのうち、公共投資による雇用保障の機能を回復しながら、中長期的にはこれを量的に縮小し、少しずつ普遍主義的な対人社会サービスにシフトさせていくという戦略がもっとも現実的な選択肢となる」と書いているが、少なくとも私はこの意見に説得される。
井手氏や師の神野氏は、「日本人には公(おおやけ)の考え方がない」と言う。最近の目を覆うばかりの生活保護バッシングなどはその典型的な表れだろう。また、依存心が強く、支配者側も、特に自民党政権は人びとの依存心を強める統治を目指す。安倍晋三の「道徳教育」などその典型だろう。
本当は今回の記事に入れたかったのは、かつて安倍が学校の必修科目にした武道の代表格である柔道界で起きた女子柔道のパワハラ問題をめぐる女子柔道家・山口香の行動を高く評価した西谷修・東京外大大学院教授の論考である。前述『世界』別冊でも五野井郁夫・高千穂大学准教授と「デモは政治を開けるか」と題したリベラル派の学者である西谷氏の論考はまことに興味深く、山口香が目指す「自立と自律」は、井手英策氏や神野直彦氏が「ない」と嘆く「公」の考え方と深く密接につながっているのではないかと思ったからだ。だが、その言葉を紡ぎ出すことは今回できなかった。今後の宿題にとっておくことにする。
[お詫びと訂正](2013.2.19)
井手英策氏のお名前をずっと「井出」と誤表記する非礼を犯し続けていました。お詫びします。本記事の誤記を訂正するとともに、過去の当ブログ及び『kojitakenの日記』の誤表記を訂正しました。
だから、広大なかの国の南部の一都市をピンポイントで、しかももう10年近く前に行っただけであって、その経験をもって中国を語ることはできないのだが、その時に強く持ったイメージは、中国とは巨大な新興土建国家であり、かつ貧富の差が極めて大きい格差の国だということだ。
中国の大気汚染は以前から言われている通りだが、黄砂が増え始める季節になって、また報道されるようになった。黄砂自体は大気汚染とは別の現象だが、特に西日本では首都圏と含む東日本とは比較にならないほどこれに悩まされることが多い。私の記憶では2002年が特にひどくて、この年の3月に九州に行った時には信じられないほどの黄砂によって景色がかすんでいた。但し、気象庁のサイトを見るとグラフが出ていて、2002年は突出して黄砂の観測が多かった年らしく、別に黄砂の観測日数が近年特に増えているわけではない。それに、前述のように黄砂そのものは大気汚染とは別の話である。
しかし、中国の大気汚染が以前にも増してひどくなっているのは事実で、黄砂の季節になるとそれと結びつけて報じられるのだろう。私が思い出すのは、光化学スモッグなどの公害が重大な社会問題になっていた1970年代の日本のことである。
この問題に関して、「公害を撒き散らす中国は怪しからん」と言ってこのところ高まっている対中国軍事衝突の気運を強めるほど馬鹿げたことはない。最近の対中関係はますます抜き差しならないものになっていて、例のレーダー照射の問題も、中国がやったことはおそらく事実だろうが、首相の安倍晋三がこれを政治利用しようとしているフシも濃厚だ。少し前に日経をはじめ朝日など各紙が報じていたように、民主党政権時代にもレーダー照射はあったが、野田政権がこれを公表しなかったというのはおそらく事実だ。特に日経は、官邸が公表を主導したと書いていた。つまり、安倍晋三が強い意向を示したということだ。
ただ、現在の日本の世論は、この件に関しても、「弱腰」もとい「『媚中』のミンス政権のていたらく」を批判するだけになっている。実際、昨年末の衆院選のあと、ニュースで報じられることもなくなった民主党の支持率はさらに凋落し、今夏の参院選では現在民主党が持っている議席は、自民党と維新の怪にとって絶好の草刈り場になるだろう。みんなの党もおこぼれにあずかるかもしれないが、共産党は現状維持、社民党は現有の2議席を1議席に減らし、左翼政党ではないが生活の党も現有の6議席から1〜2議席に激減する可能性が高い。
話題がそれたが、大気汚染に関しては、一昨日(10日)のTBSテレビ『サンデーモーニング』で、過去に大気汚染を改善した経験のある日本の知見を中国に応用する手助けをすべきではないかと言っていた。これもまあ穏当な意見だと思うが、番組では上記の問題と、まさに現在日本で大きな問題になっている東電福島第一原発事故の収束に失敗したために現在もなお放出され続けている放射性物質の問題がリンクされていた。こういう視座の提供は、局全体としては他局同様に姿勢が怪しくなっているTBSに残る異色の番組として存在感を発揮したなと思った。もちろん番組を監視するネトウヨ諸氏は怒り心頭だったに違いなかろうが。
いうまでもなく安倍晋三は強硬な原発推進派の政治家であり、昨日(11日)の朝日新聞にも、経産相の茂木敏充がサウジアラビア政府と原発の支援で合意したとの記事が出ていた。
http://www.asahi.com/politics/update/0210/TKY201302100136.html
経産相、サウジに原発建設支援を申し出 事故後初めて
【リヤド=福山崇】中東訪問中の茂木敏充経済産業相は、原発建設計画があるサウジアラビア政府と、原発関連の人材育成などで協力することで合意した。東京電力福島第一原発事故後、将来の原発輸出を視野に入れて外国に新たな原子力分野の支援を申し出るのは初めてで、原発輸出に前向きな安倍政権の姿勢が鮮明だ。
茂木氏は9日、サウジの首都リヤドで原子力政策などを担う政府機関「アブドラ国王原子力・再生可能エネルギー都市」のファラジ副総裁と会談した。ファラジ氏は、2030年に国内の電力供給の20%を原発でまかなう計画を示し、協力を求めた。これに対し茂木氏は、原子炉の運転技術や法規制などを担う人材を育てるため、サウジから研修生を受け入れることなど、支援の意向を伝えた。今後両国間で協議を進め、支援内容を盛り込んだ「原子力協力文書」をまとめる。
世界最大の産油国・サウジには現在原発はないが、人口増で原油消費が急増し、原発を16基程度建設する計画があるとされる。日本は09年、アラブ首長国連邦(UAE)のアブダビ首長国の原発受注をめぐって韓国勢に敗れており、経産省内では「同じ失敗を繰り返すわけにはいかない」(幹部)との声が漏れる。
(朝日新聞デジタル 2013年2月10日22時28分)
但し、ネットでは無料で読めない記事の続きの部分に、日本とサウジアラビアは原発輸出の協定を結んでおらず、既に協定を締結しているフランス、韓国、中国や交渉中のアメリカ、イギリス、ロシアを相手に厳しい受注競争が予想されるなどと書かれている。
ネトウヨは日本と同様に原発の輸出をもくろんでいる中国や韓国の姿勢こそ批判すべきではないかと思うが、そんなことをしたら直ちに自民党や安倍晋三への批判に跳ね返ってくるからそれは批判しない。ネトウヨとてずいぶんなご都合主義なのである。
いかに強硬な原発推進派である安倍晋三とて思うに任せないのが国内の原発の再稼働だが、現在も原発事故を収束できていない東電が、次々と悪行を暴露されている現状ではそれも当然だろう。つい最近も東電が国会事故調に嘘をついて福島第一原発1号機の建屋内に入らせず、調査を妨害したことで批判の槍玉に挙がった。東電原発事故において、東電がポンプで海水を汲み上げられず、SR弁(主蒸気逃がし弁)を開くためのバッテリーが調達できないなどの失態を重ねたことが今では明らかになっており、少なくとも福島第一原発の2号機と3号機のメルトダウン(炉心溶融)は事故後の対応で防げたはずだというのが現在の定説のようだ。
だが、東電がそれをできなかったのは、原発派絶対に事故を起こさないという「神話」があったために、事故対策を講じることがはばかられるような本末転倒の状態にあったためであり、その「神話」を作り上げてきたのが自民党政府、経産省、それに東電自身を含む電事連(電気事業連合会)という悪の三角形だった(これに御用学者と電力総連を加えると、誰かさんの大好きな「悪徳ペンタゴン」になる)。
そもそも原発のような不経済なものに、必要不可欠になってしまった廃炉の技術は別として、新規原発の建設などを行うなどの金をかけることくらい、日本経済の首を絞める愚挙はない。これは、新自由主義的な立場からもいえることであって、だからこそ先日亡くなった加藤寛も「脱原発」を主張したし、現在の日本でもっとも過激な新自由主義者である橋下徹も「脱原発」に飛びついたのだ。その橋下に招かれ、のちには小沢一郎とも野合して日本未来の党の幹部になってもののみごとに自爆し、脱原発派の期待をさんざんに裏切ってくれた学者センセイもいたけれど、最低限「脱原発」が今後の日本にとって必要不可欠であることは間違いない。
第2次安倍晋三内閣は、それを妨害するとんでもない政権である。
たまたま両氏の本を読み終えた頃、加藤寛の訃報に接した。加藤については、2月2日付『kojitakenの日記』の記事「新自由主義派の経済学者・加藤寛が死去」でコメントしたが、土光敏夫の第2臨調で国鉄、電電公社、専売公社の民営化を、のちには消費税創設を取り仕切ったこの男を私はほとんど評価していない。ただ、最晩年の原発批判だけは評価できるため、記事に個人の冥福を祈る一節を書き加えた。これさえなければ、「こんな人物の冥福を祈る必要などない」とかなんとか書いて、またまた良識ある読者諸賢の眉をひそめさせたに違いない。
井手英策・慶応大准教授は、田中角栄政権による1973年の「福祉元年」まではヨーロッパと同じ福祉国家への道を歩む可能性があった日本が「道を踏み外した」(これは井手氏ではなく私流の表現である)理由として、財政投融資による公共事業費が1970年代以降急速に膨張したにもかかわらず、これが可視化されなかったために見かけ上政府支出に占める社会保障費の割合が高くなり、これが自民党政権によって社会保障費が槍玉に挙げられて削減の対象になったのではないかと考察している。これは興味深い指摘だった。
現在もてはやされている「アベノミクス」とやらも、その中身は公共事業費を大幅に拡大する一方で、今朝公開されたブログ『Nabe Party ~ 再分配を重視する市民の会』の記事「生活保護を考える」でも言及されているように、生活保護の支給額を大幅に引き下げようとするなどの暴挙に出ている。
「アベノミクス」は「反緊縮」を評価されている。私も「反緊縮」自体には大いに賛成なのだが、金の使い方が間違っているというのが私の意見である。安倍晋三が現在の路線を突き進むと、スタグフレーション、すなわち不況下の物価高という最悪の事態に陥る可能性がある(過去の日本でも1974〜75年頃に見舞われたことがある)。井手准教授も指摘している通り、「コンクリートから人へ」という民主党のスローガン自体は正しかったのだ。ただ、それを緊縮財政と混同してしまったところに民主党政権、特に松下政経塾系列の人たちの誤りがあった。
ただ、こう言っただけでは誤解を招く可能性があるので言っておくが、公共事業はそんなには削減できない。これまで構築してきたインフラの整備に巨額の費用がかかるからだ。しかし、現在の日本の人口減を考えると、さらなる新規土建事業による景気浮揚を追求する自民党の「国土強靱化法案」が時代に合っていない政策であることは明白だ。土建業に力を入れすぎで社会補償費用を削減するのでは、せっかくの積極財政が意味をなさなくなる。毎回のように書くけれども、安心して子供を産めない社会だから人口が減少するのである。自民党の政策は間違っている。現在の日本で何よりも強く求められるのは、神野直彦氏が菅政権のスローガンとして考案したとされる「強い社会保障」であるはずだ。
そこで神野氏の著書の紹介に移るが、この本にこんな記述が出てくる。
(前略)今では信じられないことかもしれませんが、日本で格調高いことで有名な1964年(昭和39年)の『税制調査会答申』は、「所得税がもっとも近代的な租税であり、この税が中心的地位を占めるような租税体系が理想である」と宣言していました。
その理由について、この『税制調査会答申』は、次の三点を指摘しています。第一に、所得税は市場価格機構に影響を与えることなく、十分な収入を到達できること、第二に、所得税は所得再分配の機能を最もよく果しうること、第三に、所得税は税収の弾力性が高く、自動安定装置としての高度の景気安定機能を有することです。
(神野直彦『税金 常識のウソ』(文春新書, 2013年)138頁)より)
しかし、世界的に「所得税中心主義」が動揺した(同書第5章のタイトルより)。それは、もともと多額な資産を持っている人に対して、新たに高所得を得た人が不利になる(この問題を解決するために別途資産税を設定する必要が生じる)ことや、俗にクロヨンとかトーゴーサンピンなどと呼ばれた業種による所得の捕捉格差の問題などによるが、それと付加価値税(消費税)の発展に伴うものだったという。
ここでとる道は3つに分かれた。1つは、神野氏が「所得税補強戦略」と呼ぶ、所得税としての限界を、付加価値税を発展させることによって補強していこうとする戦略で、ヨーロッパ諸国が採用した。それに対してアメリカが採用したのは所得税を基幹税として維持する所得税維持戦略で、所得税による税収調達能力の限界を認めて財政機能を拡大しない「小さな政府」を追及する行き方だった。
しかし日本は、上記のいずれも採用せず、基幹税としての所得税を解体していき、その代替としての付加価値税を導入する戦略をとった。これを神野氏は「所得税解体戦略」と呼んでいる。この戦略では基幹税を所得税から付加価値税に変更することを目指す。
神野氏によると、この戦略をとろうとしたのは日本のほかサッチャー時代のイギリスがあったということだ。以下は本には書かれていないが、本に載っているグラフを見ると、所得税の税収においてイギリスは日本よりも高く、かつ付加価値税と同程度の税収がある。つまり、イギリスはもともとが手厚い福祉国家だったから、サッチャーが手洗い新自由主義改革をやってもその程度でとどまっているのだろう。しかし日本では、所得税と消費税の税収の比率は同じくらいで、かつともに国民の負担率が低い。この上、所得税(や法人税)を消費税に置き換えていくと、世界に他に類を見ない「主に消費税に頼る税制」になってしまう。
北欧に範を取る考え方の強い神野氏は、まず所得税の税収を充実させ、しかるのちに消費税を増税するというロードマップを、2010年の鳩山由紀夫首相・菅直人財務相時代に就任した政府税調専門家委員会の座長として示したのだった。ただ、この時に神野氏はアメリカ型の「小さな政府」のオプションも示していて、その場合には所得税中心の税制で良いとした。
しかし、財務相から鳩山由紀夫の政権投げ出しを受けて首相に就任した菅直人は、まず「消費税を上げる」道を選んだ。だから当時私は菅直人を批判した。とはいえ、菅政権もそのあとの野田政権も、所得税・相続税と消費税の税率を並行して引き上げたい方針だったが、自民党が「それでは努力した者が報われる税制にならない」と言って反対した。しかし、野党だからそうは言ってみたものの、自民党とて所得税の累進制強化や証券優遇税制の打ち切りの必要性はわかっていたから、政権を奪回するやそれらを決定したというのが軽易であるようだ。ちなみに、安倍晋三ら官邸はこれらの税制改革にはほぼノータッチで、野田毅を筆頭とする自民党税調調査会がこれらの施策を主導したらしい。
ところで、所得税を解体する構想といえば私が真っ先に思い出すのが小沢一郎である。小沢一郎は、初当選の頃から所得税の減税を志向していた。小沢は自著『日本改造計画』でも、所得税・住民税の半減と消費税の大幅増という構想を大々的に打ち出した。それは、前述の神野直彦氏の分類に従えば、「所得税解体戦略」に該当する。それは、アメリカほどにも再分配に留意しない、弱肉強食型の「小さな政府」を目指す政策だった。そんな税制を目指したのが小沢一郎だった。
小沢一郎は田中角栄に可愛がられたが、政策的には角栄と小沢とは全く違う。私は、井手、神野両氏の本を読みながら、過去の自民党の政治家について考えをめぐらせていたのだが、自民党政権は歴史的に「小さな政府」志向だった。それは、高度成長時代に毎年のように急増する税収がありながら、政府の財政規模を拡大するのではなく、一貫して減税で対応してきたことからも明らかだ。1964年に「所得税中心主義」を高らかに宣言したのも、現在のアメリカのような行き方を目指したと解釈できなくもない。自民党とは「公助」よりも「共助」を重視する理念を持つ政党だった。その点では「保守本流」も福田・中曽根派ら右派も変わりない。大平正芳や加藤紘一も「小さな政府」を目指し、コミュニティの共助に頼る政策だった。「保守本流」と、安倍晋三らが属する右派との違いは、単にコミュニティにイデオロギー性を求めるか否かの違いだけだった。
しかし、上記の流れから外れた政治家が2人いる。1人は小泉純一郎であり、この男は「共助」にも否定的で、ひたすら「自助」を追求した。自民党の政治家ではないが、橋下徹も同じである。
反対の極が田中角栄で、最初は列島改造論に象徴される公共事業で、首相になってからの1973年には「福祉元年」を打ち出して、社会保障重視の方向に舵を切ろうとした。つまり、田中角栄とは、保守本流とも右派とも違って、自民党の政治家としては例外的に「公助」を強く打ち出そうとした政治家ではなかったか。そう思って、このところ私は角栄を再評価しつつある。もちろん角栄が中曽根康弘と組んで制定した「電源三法」はとんでもない負の遺産だったけれども。
しかし、角栄の再評価は小沢一郎の再評価には全くつながらないどころかその正反対になる。上記の考え方からすると、政治家としてのキャリアの早いうちから「所得税減税」を打ち出していた小沢一郎は、田中角栄の直系どころか「不肖の弟子」であって、保守本流や安倍晋三ら右派と比較しても「経済右派」側、つまり小泉純一郎に近い政治家だったということになる。
その小沢一郎が、小泉純一郎へのアンチ・テーゼとして「国民の生活が第一」を打ち出したものの、小沢の持論であった「減税」の思想はそのまま保持したために、自己ねじれ現象を起こして「入りは小さな政府、出は大きな政府」というトンデモ政策になってしまったのではないか。
要するに、最初から小沢一郎が民主党代表時代に掲げた政策は、税収不足のために実現不能だったのだ。実現しようとすれば、「ムダの削減」や埋蔵金をあてにするのではなく、当然増税の議論をしなければならなかったが、小沢一郎はそれから逃げた。留意すべきは、増税の議論イコール消費税の議論ではないということだ。所得税や消費税を含む税制全体の議論であり、いやしくも政権党である以上、最終的にどのような税制を目指すのか、そこをはっきりさせる必要があった(同じことは、現在の自民党政権にも、野党に対しても言える)。それを小沢一派も松下政経塾系の政治家もやらなかった。そもそも松下政経塾系の政治家は、松下幸之助流の「無税国家の理想」を叩き込まれた新自由主義系の政治家が大半であって、そんな彼らの体質と2009年民主党マニフェストとは相容れなかった。
民主党は主流派(松下政経塾)も反主流派(小沢一派)もともにあまりにもひどかった。だから、相変わらずの「公助」軽視の自民党政権の政策でさえ、前回のエントリにいただいたコメントにもあったように、ヨーロッパの国の政策に近いとか、バランスのとれた政策などといった具合に見えてしまう。実際のところは大して褒められたものではないと私は思うが。それでも民主党政権時代の松下政経塾系主流派と日本版ティーパーティーもどきの小沢一郎や河村たかしら一派の不毛の政争と引き比べるなら、そりゃ多少は自民党政権の方がマシに見えても致し方ないかもしれない。
でも所詮はその程度である。残念ながら、アベノミクスで庶民の暮らしが良くなることは、今のところきわめて望み薄である。