私が呆れているのは何も小政党の乱立ではない。それなら90年代にもあった。呆れるのは理念なき者たち、あるいは理念を放棄してしまった者たちの見苦しい振る舞いである。
現在は衆議院が解散されてどの政党も議席を持っていないが、解散前に圧倒的な議席を持っていた民主党や、野党第一党の自民党にも呆れ果てることばかりだった。しかし、今回は両党以上に信じられない妄動を行った政党とその関係者を俎上にあげたい。日本維新の会、減税日本・反TPP・脱原発を実現する党(略称「脱原発」)、それに社民党の3党である。
日本維新の会については、今更書くまでもないだろう。石原慎太郎(4日しか続かなかった「太陽の党」)との野合やみんなの党との合流工作や、「減税日本」の排除工作をめぐるゴタゴタを起こしまくったあげく、選挙資金が足りず、候補者たちに自腹を切れと要求する始末。金を工面することができずに、香川1区と京都1区で公認予定候補者が逃げ出す醜態を晒した。
このうち香川1区は、前回の総選挙が行われた時に私が有権者だった選挙区である。維新の怪の松井一郎や橋下徹は、一昨日(24日)に高松市内で街頭演説を行いながら、「残念ながらまだ香川県で小選挙区候補は決まっていない」と突然宣言する赤恥を晒したが、その醜態を生で見てみたかったものだ。
ところが、その橋下の、というより石原慎太郎を党首に戴く「日本維新の怪」が、共同通信の調査でも朝日新聞の調査でも支持率を解散直後より上げている。おそらく、テレビのワイドショーやスポーツ新聞、週刊誌その他がここぞとばかり維新の会を持ち上げまくっている影響だろう。少し前の自民党総裁選の時にも経験したばかりだが、マスコミが多く取り上げるほど政党支持率が上がるというどうしようもない傾向が今の日本にはある。まあ維新の怪については、来週の週末には現在のゴタゴタを反映して支持率が急落することを期待しておこう。
その維新の怪も派手にやらかした野合の問題に話を移す。ここで当ブログが槍玉に挙げるのは略称、否、僭称「反原発」である。なぜ「僭称」と決めつけるかといえば、この政党は亀井静香、山田正彦と河村たかしが野合した政党だが、このうち亀井静香は地下原発推進議連の顧問であり(記事を書くためにネット検索をかけたが、亀井が地下原発推進議連を脱退したとの情報は全く得られなかった。亀井は現在も顧問にとどまっているものと推測される)、河村たかしは東電原発事故以降「脱原発」を掲げていながら、ついこの間、脱原発など間違っても言わないどころか核武装論者である石原慎太郎の「太陽の党」と野合しようとして、あとから入ってきた、これも「脱原発」を標榜していたはずの「日本維新の怪」に野合のパートナーを奪われて追放されたばかりだからだ。つまり、亀井静香も河村たかしも間違っても「脱原発派」などではない。その彼らが党の略称を「脱原発」として恥じない面の皮の厚さには恐れ入るばかりだ。ところが、彼らの支持者は誰も有権者を馬鹿にした彼らの妄動を批判しない。支持者が政治家を甘やかすようでは日本の政治はいつまで経っても良くならない。
その僭称「脱原発」よりもさらにひどく、目も当てられないのは、この「脱原発」の前身の一つである「減税日本」と野合した社民党である。23日付の読売新聞が報じるところによると、同党の又市征治副党首は22日の記者会見で、「『生活』や減税日本などとは政策がおおむね一致してきているので、選挙で一定の協力が行われるのは当然だ」と述べた。
この又市発言に対する批判は『kojitakenの日記』にも書いたが、要するに、社会民主主義と護憲を掲げる社民党が、その二枚看板と真っ向から対立する河村たかしと野合することは、政党の理念を捨てることに等しい自殺行為である。少なくとも私はもう社民党を護憲の党とも社会民主主義の党ともみなすことはできない。この党の消滅は時間の問題だろう。
ただ、このような非常識な野合が行われる背景に、第1党に極端に有利で、第2党にもそのおこぼれがあるものの、第3党以下には著しく不利益な小選挙区制という選挙制度の問題があることは指摘しておかなければならない。つまり、問題は1990年代に遡る。最近ではもう政治改革に対する批判が、それを推進してきたマスメディアの間でもタブーではなくなりつつあるが、政治家でもっとも強くこの政治改革に関与したのは小沢一郎である。小沢は、第3極はおろか第4極になり果てた今でも比例区の定数削減を唱え続けているが、これでもっとも大きな不利益を被るのは小沢自身の「国民の生活が第一」のような、第3極にもなれない政党群だろう。
現在のような制度においては、政党の新規参入障壁は極めて高い。だから橋下徹はマスメディアで名前を売ってのし上がり、地方自治体の首長を足がかりにして、最初に挑む総選挙で大勢の候補者を立てるようなやり方をした。前回の総選挙で政権交代を果たした民主党の場合は、「政権交代」の一点で寄り集まった「反自民」だけがウリの政党だった。だからその次の総選挙を前に空中分解するのは必定だったし、中には長尾敬のように思想信条が自民党の極右派そのもののような人間も民主党(小沢グループ)に加わっていた。蛇足だが、長尾敬の民主党から自民党への移籍を後押ししたのは、あの自民党前職の城内実と総裁の安倍晋三であると聞く。
しかし、空中分解してバラバラの政党になっても当選は望めないからどうしても野合する。ただ、前々回の自民党や前回の民主党のように第1党になって大量の小選挙区の当選者が出ない限り、候補者たちはおこぼれに預かることは難しい。だから、いわゆる「第3極」を目指す政党を率いる者たちが理念なき離合集散の駆け引きを繰り広げる。その中で、もっともマスメディアに強く後押しされた者がのし上がっていき、冒頭に書いたようにメディアが実施する政党支持率が上昇する。マスメディアが作る幻想と現実の落差は、香川1区や京都1区で公認予定候補が逃げ出した件からも明らかだ。
この選挙制度は絶対に見直さなければならず、比例代表制を軸にした制度に改変する必要があると思うが、思えば90年代に政治改革の議論がなされていた頃、小選挙区比例代表併用制という、事実上比例代表制の選挙制度を提唱しながら、それとは真逆の方向性を持つ小選挙区比例代表並立制に同意するというあり得ない決断をしたのが時の野党第一党・社会党だった。その時以降、間違った選択をし続けてきた同党最後の失態が、「国民の生活が第一」を介した極右・新自由主義政党「減税日本」との野合であったと後世の人は語るのかもしれないと思う今日この頃である。
だが、16日解散に至るまでは確かに急展開だったため、マスメディアが「第三極」と呼ぶところの極右政党群が、解散が早まらなければ彼らが数か月かけてメディアの注目を引きつけながら展開したであろう離合集散が急ピッチのドタバタ劇で繰り広げられた。行き着いた先は、しばらく前から最後にはこうなるのではないかと思っていたところの、石原慎太郎と橋下徹の野合だった。その醜悪さには目をそむけるばかりだった。
特にひどかったのは、15日に、それまで小沢一郎の「国民の生活が第一」を中心としたいくつかの小政党が形成する「民意の実現を図る国民連合」に加わると見られていた「減税日本」(代表・河村たかし)が突如「たちあがれ日本」を改称した「太陽の党」(代表・石原慎太郎)との合流を発表したと思ったら、翌16日、つまり衆議院解散の日には、「日本維新の会」代表(当時)の橋下徹が東京に出向いて石原と会談し、その結果今度は日本維新の会が太陽の党を事実上吸収合併する一方で、太陽の党と減税日本の合流は反古にされたことである。
ある時期から橋下徹と河村たかしの間で確執があったことはもう誰でも知っていることだが、橋下と石原が互いに組みたがっていることが最近ミエミエになっていた。そこで河村は石原にコバンザメにように食いつくことで、つまり石原の配下にしてもらうことで、維新と石原一派が合流する政党に入れてもらおうとしたものだろう。しかし、橋下は冷徹に河村たかしを引き剥がした。
橋下はその理由を政策の違いとかなんとか言っているが、大の原発推進派である石原と組むに当たって「脱原発」の看板を下ろした橋下がそんなことをいうのは噴飯ものだ。そもそも「減税」で入りを減らす河村の政策も、「バサーッと切る」が口癖の歳出減志向の橋下の政策も、ともに過激な新自由主義であって政策に違いなど全くない。橋下は、ただ単に河村たかしという人間が気に食わないだけなのである。
政策の違いで最も大きいのは、石原と橋下、または石原と河村の原発政策である。橋下も河村もともに「脱原発」を表明していた。一方、石原は昨年の東電原発事故の直後に福島を訪れて原発推進論をぶったほどの過激な原発推進派である。その石原と河村がいったん手を組んだことや、石原と橋下が手を組んだことは、河村や橋下の「脱原発」の主張が「人気とり」の目的以外の何物でもないことを意味する。
脱線するが、ついでに書いておくと、民主党と「国民の生活が第一」も「脱原発(依存)」政党であるとは私は認めていない。両党とも核燃サイクル存続を主張する議員が多く、それは両党に属する政治家が「脱原発とは何か」を理解していないからである。彼らは「なんちゃって脱原発」派に過ぎないし、民主党には原発推進派も大勢いる。親分の小沢一郎の言いつけを聞いて「脱原発派」と称している「生活」も内実はどうだかわからないし、そもそも代表の小沢一郎は、1991年の青森県知事で核燃サイクル推進派の現職を当選させるために剛腕を発揮したこと、2007年に日立製作所のエンジニア上がりの大畠章宏の進言を容れて民主党のエネルギー政策を原発の積極的推進に転換したこと、それに昨年の民主党代表選で原発推進派の海江田万里を推したことなどについて、何の総括もしていない。これは、たとえてみれば戦争犯罪人が敗戦後何も言わずに平和主義者に転向したようなものである。そのような態度は無責任そのものだろう。小沢は、まず自らの原発推進の責任を総括しなければならない。
そんな「国民の生活が第一」あるいな民主党にしても、原発をゼロにする年限を掲げているだけ、それがたとえ民主党のように「2030年代」という悠長なものであっても、「脱原発」自体を引っ込めてしまった「日本維新の会」よりはよほどマシだといえるだろう。
そもそも、今年5月に橋下は「脱原発を争点に総選挙をやれ」と言っていたことを私は忘れていない。今後の選挙戦において、本当の「脱原発」政党である社共はもちろん、民主党や生活党も維新のこのふざけた姿勢を厳しく追及すべきだろう。小沢一郎はこれまで橋下と組む気満々で、配下の者に「橋下の悪口は言うな」と厳命していたと聞くが、そういう己の誤った態度を自己批判するとともに、橋下に切り込んでいかなければならない。もっともそれが小沢にできるか、私は知らないけれど。
ついでに書いておくと、解散2日前の11月14日になってもまだ下記のようにつぶやいていた飯田哲也にも、脱原発派の知識人としての責任を問いたい。
NHKも報道。本当に解散か....?もしそうなら、小沢&維新封じと選挙後の連携で、野田官邸周りと自公が野合したか?(NHK11/14)衆院選 来月4日公示・16日投票へ http://nhk.jp/N44Y5evj
「維新封じ」などと被害妄想に浸っている暇があるなら、なぜ橋下と石原慎太郎の野合に飯田は口をつぐんでいるのか。知識人としての責任ある態度のかけらも見られない飯田には呆れるほかはない。
ところで解散前後の15, 16日と17, 18日の朝日新聞の世論調査で、比例区の投票先を問う設問に対して、17, 18日の数字で自民22%(15, 16日23%)、民主15%(同16%)、維新6%(同6%=維新と太陽の合計)という数字が出ている。
これは、今後テレビに各党の政治家、特に橋下徹がテレビに出演を重ねていくことで大きく変わると思うが、解散前と比較して自民と維新が支持率を大きく下げ、民主はやや上げたものの自民と維新の減少分に対応するほどではなく、小沢の「国民の生活が第一」に至っては、政党支持率、比例区の投票先とも、朝日の17, 18日の調査で「0%」という数字をたたき出す惨状だ。阿部知子が離党し、重野安正幹事長までもが病気で出馬を断念した社民党でさえ政党支持率は生活と同じ0%だが、比例区の投票先では1%の数字となっており、小沢新党の勢いはいまや社民党以下に落ちてしまった。
「小沢信者」は世論調査は「マスゴミ」の捏造だとか、「マスゴミ」の小沢隠しのせいだとか言っているが、事実がどうかは選挙結果が明らかにするだろう。ちなみに民主党にもいえることだが旧自由党も、事前の世論調査で支持が低い割には選挙でそれなりの議席数を獲得する傾向があるので、生活党も多ければ議席を2桁に載せることもあり得ると、私はその程度にはみつもっている。しかしそれ以上ではあり得ない。いつまでも橋下に秋波を送り続けて相手にされなかったことや、カルト的な信者に担がれ、最近では岸信介や佐藤栄作を信奉している孫崎享を講師に招いて「戦後史の正体」を勉強しているという彼らに、自民党や自由党時代からの熱心だった支持者の間にも愛想を尽かしている人たちが多いのではないかと私は想像している。
ここでまた脱線するが、たとえば小沢一郎が師と仰ぐ田中角栄について書かれた早野透(元朝日新聞記者)の『田中角栄 - 戦後日本の悲しき自画像』(中公新書)には田中角栄の憲法観が言及されていて、角栄は日本国憲法に懐疑的な考えを持ち、時には改憲志向と思われる発言を野党に批判されたりしながらも、憲法はこの先100年は変えなくて良いと角栄が言ったことなどが紹介されている。しかし、孫崎の『戦後史の正体』には、親米・反米による政治家の色分けはあっても、日本国憲法に対するスタンスの色分けは皆無だ。以前にも当ブログに書いたように、孫崎は核武装を視野に入れていた岸信介や、同じく核武装を検討させた佐藤栄作(その結果は核武装に否定的だったが)などを称揚している。そんな本を、少し前には「脱原発に頑張る橋下市長を応援しよう」と言っていた某左翼人士が絶賛している。岸信介を信奉する保守人士である孫崎享を、吉田茂−田中角栄の系譜を継ぐ小沢一郎の陣営が「先生」格に祭り上げるばかりか、日本共産党の幹部級党員だったはずの編集者まで絶賛する。ちょっと私には信じられない光景だ。
これほど時代が大きく狂ってしまうと、気力も萎えそうになってしまうが、その気力を振り絞ってなんとか週1回のブログの更新を続けている。しかしその気力も、総選挙後というか来年以降はいつまで続くか自信がなくなってきた。私自身は次の選挙では自民党、民主党、維新の怪、国民の生活が第一のいずれにも投票しない。
そんな人間が最後っ屁を放っておくが、国民の生活が第一はリベラル勢力の軸には間違ってもなり得ない。かつて角栄に対してクーデターを起こした竹下登のように、小沢一郎を乗り越えようとする人間が現れなければあの集団は変わらないが、そんなポテンシャルのある人間はあの集団にはいない。小沢が切ってしまったからだ。あるいは、自分たちが田中角栄に対してクーデターを起こして権力を掌握していった小沢にとっては、同じことを起こす可能性のある人間は周囲に置いておけないのかもしれない。そんな人間がトップに立っている集団は、ボスと一緒に命脈が尽きるだけだろう。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121107/stt12110711070002-n1.htm
民主の「中道」は「大衆迎合の醜い姿」 自民・安倍総裁
自民党の安倍晋三総裁は7日午前、都内で講演し、政府・民主党が強調している「中道」路線について「自分の信念も哲学も政策もない人たちを中道の政治家という。堕落した精神、ひたすら大衆に迎合しようとする醜い姿がそこにある。つまり自分たちの考え方がない」と厳しく批判した。
野田佳彦首相が求める党首討論に関しては「首相にしか質問できず問題を明らかにすることはできない。予算委員会とは決定的に違う。これでお茶を濁そうというのはゆゆしき問題だ」と述べ、予算委開催を優先的に求める考えを示した。
一方で「政府・与党は何としても予算委をやりたくない。立ち往生する閣僚が出てくるのは間違いなく、予算委をやらずに衆院を解散して逃げ込もうとしているのではないか」とも指摘した。
(MSN産経ニュース 2012.11.7 11:06)
民主党副代表の仙谷由人が、これにかみついた。今度は毎日新聞記事から引用。
http://mainichi.jp/select/news/20121109k0000m010105000c.html
中道批判:民主・仙谷氏が討論要求、安倍自民総裁は拒否
民主党の仙谷由人副代表は8日、同党が次期衆院選で打ち出そうとしている「中道」路線を批判した自民党の安倍晋三総裁に対し、公開討論を求める申し入れ書を郵送したと明らかにした。仙谷氏は国会内で記者団に「哲学や信念があるのかないのかは、安倍さんが断定する話ではなく、国民だ」と説明した。
仙谷氏は「我々が98年から掲げている『民主中道』という旗について、何か深いお考えがあるのだろう。安倍さんが言い出した話だ。ぜひお逃げにならないでお願いしたい」と述べ、安倍氏をけん制した。
これに対し、安倍氏は文書が届いていないとした上で、記者団に「私も忙しい。野田佳彦首相とは討論するが、すべての議員を相手にする時間はない。フェイスブック(の安倍氏のアカウント)にコメントを書き込んでくれたらいい」と討論には応じないとした。
安倍氏は7日の講演で中道路線について「堕落した精神、大衆に迎合する醜い姿だ」などと発言していた。中道路線は安倍氏の保守色との対立軸を意識したものだけに、論争は今後もヒートアップしそうだ。【木下訓明】
毎日新聞 2012年11月08日 23時35分(最終更新 11月09日 01時03分)
その後安倍晋三のもとに仙谷由人からの申入書が内容証明郵便で届いたらしく、安倍晋三がフェイスブックで吠えた。安倍晋三の下劣な文章は、『kojitakenの日記』の11月10日付記事「フェイスブックで浮かれる安倍晋三は『日本語の不自由な人』らしい(笑)」に全文を引用したので、ここでは再掲しない。ご自身の目が潰れても良いという奇特な方がおられたら、下記リンク先を参照されたい。
http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20121110/1352535721
私はフェイスブックの文章は安倍晋三自身が書いたに違いないと確信しているし、こんな文章を平気で書く無教養な人間を総理大臣にしたら、日本はますますダメになるとも断言する。
しかし、それにもかかわらず、安倍晋三の「中道批判」には一理あると思う。それは、右を見て左を見て、その間に多数意見があると判断して自分がそのポジションを占めようとする姿勢を「中道」と称することは、確かに安倍晋三が言うように、「自分の信念も哲学も政策もない人たちを中道の政治家という。堕落した精神、ひたすら大衆に迎合しようとする醜い姿がそこにある。つまり自分たちの考え方がない」としか言いようがないと思うからである。
そういった自称(「僭称」だと私は思うが)「中道」とは全く違う政治家、いや元政治家もいる。河野洋平がそうだ。
1976年に自民党を割って「新自由クラブ」を創設した河野洋平は、保守の左派に属する。当時の政治勢力全体から見ると、「中道右派」に当たる。新自由クラブは、社会党を「右」から割って出た社民連と統一会派を組んだこともある。
その河野洋平は、先々月(9月)のテレビ出演で、「自民党はずいぶん幅の狭い政党になったものだ。総裁選の候補者は全員が改憲派だ」と嘆いた。TBSの『サンデーモーニング』においてである。昨今の「第三極」の政局についても、プレーヤーは皆右翼ばかりだと、これは同番組における他のコメンテーターもよく口にすることだ。
しかし、出演者がこういう発言をする番組は、他にはほとんど思い浮かばない。日本テレビやフジテレビ、それにNHKも最近はほとんど見なくなったので知らないが、TBSでも『NEWS23』ではそんなことは言わないし、テレビ朝日の『報道ステーション』に至っては、キャスターの古舘伊知郎は、脱原発には熱心だけれども、反中国ムードを煽ることにも同程度に熱心だったりする。何より古舘には、2005年の郵政総選挙で小泉純一郎を全面的に応援した過去があり、私はこの男を信用したことは一度たりともない。この男を評価する文章をブログに書いたことも一度もないはずだ。古舘の悪口でついキーボードを打つ指が滑ったようだが、言いたいのは、TBSやテレビ朝日の番組を見渡しても、『サンデーモーニング』で河野洋平が語るような意見は日本のマスメディアにおいては「異端」になっているということだ。
河野洋平自身は、70年代当時と今で、政治的立場はほとんどぶれていない。変わったのは日本の言論だ。いうまでもなく大きく右に触れた。だから、海外のメディア、それも何も韓国や中国に限らず、アメリカやヨーロッパからも「日本の右傾化」が懸念されている。これが現実だ。
そんな日本国内で、「右を見て左を見てその平均を自分の立場にする(=平均あたりにポジショニングしておけば選挙における得票が多くなると算盤を弾く)」姿勢をとっても、それは70年代以降現在に至る右傾化の流れに流されてずるずる右寄りの政治を行う結果にしかならず、現に民主党政権がやったことはそうしたことばかりだった。そんなものは「中道」でもなんでもない。安倍晋三に「自分の信念も哲学も政策もない人たちを中道の政治家という。堕落した精神、ひたすら大衆に迎合しようとする醜い姿がそこにある。つまり自分たちの考え方がない」と批判されて当然だと私は思う。
私は、上記の批判に関する限り、安倍晋三に違和感は持たない。しかし、繰り返すが全くいただけなかったのは安倍がフェイスブックに書いた文章に表れた品性下劣さだった。
『kojitakenの日記』の記事で私は、安倍晋三の文章における敬語の誤り(相手が行った行動に対して謙譲語を用いる「尊大語」と呼ばれる表現を安倍は用いている)などをあげつらったが、それを見て、麻生太郎の漢字の誤読を連想された読者もおられたようだ。
だが、私は麻生太郎の漢字の誤読は批判しない。あれは、麻生が中途半端な教養を持った人間であることは表していても、麻生太郎が品性下劣だと思わせるものではないからだ。一方、安倍晋三の文章には、はっきり品性下劣な安倍の人格が反映されている。だから私はそれを唾棄したのである。一般に人間は、話し言葉においてよりも書き言葉において、その人格がはっきり表れると私は考えている。そも最悪の例として今も忘れられないのは、4年前に現自民党衆院議員の城内実が、当時議論された「国籍法改正」について自らのブログに書いた下記リンク先の文章である。これはこれまでも何度となく当ブログや『kojitakenの日記』で紹介してきた。
http://www.m-kiuchi.com/2008/11/11/bakawashinanakyanaoranai/
上記のように、安倍晋三を拒否することにかけては誰にも引けをとらないと思う私だが、その安倍に批判されて当然と思えるほど、今の民主党中枢の政治家たちはひどい。
マスメディア報道を見ていると、何か野田佳彦や前原誠司は、TPPを争点にする形で11月22日解散、12月16日投票という衆院選の日程を考えているらしく、この場合東京都知事選とのダブル選挙になる。そのせいか、東京都知事選出馬の意向を表明しているのは、現時点では松沢成文と宇都宮健児だけであり、東国原英夫はもちろん、立候補すれば圧勝すると予想されているらしい猪瀬直樹も態度を明らかにしていない。当ブログは宇都宮健児を支持するが、いろんな政治勢力の動きをああだこうだと言うことはここでは控えておく。
総選挙についていえば、当たり前のことだが争点を決定するのは時の総理大臣ではない。そのことは、2007年参院選における時の総理大臣にして自民党総裁だった安倍晋三が、自身は憲法改定を争点にするつもりだったにもかかわらず、全く不本意な「消えた年金」問題が争点になった選挙で惨敗したことを思い出せば容易に理解されるだろう。
野田佳彦が思い描いているのは、2005年の小泉純一郎の「郵政解散・総選挙」に違いないが、あの時の小泉純一郎のような狂気じみた信念は野田佳彦には全くない。あるのは打算だけだ。だから野田佳彦は必ず失敗する。TPPなど全く争点にならず、TPP参加反対の石原慎太郎はTPP賛成の橋下徹や渡辺喜美と平気で組んで総選挙を戦うだろうし、選挙を前に民主党から離党者が続出するだろう。そして総選挙は石原と同じくTPPに消極的な安倍晋三が率いる自民党が圧勝し、第2次安倍内閣が発足する。
だが私はもう、その事態を受け入れざるを得ないのではないかと思っている。石原慎太郎や橋下徹のような、マッチョ的なカリスマ性を持った独裁者に日本をボロボロにされるくらいなら、勇ましい主張とは裏腹に石原や橋下のようなカリスマ性を欠き、現に一度政権を投げ出した実績もある弱々しい安倍晋三に返り咲いてもらった方が、まだ再度安倍を倒して日本の政治を立て直す可能性がかけらほどには残るのではないかと一縷の希望が残せるからだ。12月末の新政権発足であれば、来年7月の参院選の頃には再び安倍政権への批判が高まっている可能性もある。
野田政権にはもうお腹いっぱいだ。選挙の定数が違憲状態だろうが何だろうが、そもそも小選挙区制自体が間違っていると考えている私にとっては、はっきりいって些事もいいところだ。早く解散して民主党は下野してくれ。そう思うようになってしまった。
ところで、現在も当時と比較されるべき、時代の大きな転換点(但し悪い意味でのそれ)に差しかかっていると思うが、あの寺島実郎でさえ「政界再編ではなく極右の再編に過ぎない」と喝破した(11/4のTBS『サンデーモーニング』)「第三極」とやらの動きも、今後の日本を焦土へと導く政治家同士の縄張り争いといえるだろう。
そんな中、民主党が次期衆院選で「中道」路線を打ち出す方針を固めたという。以下毎日新聞(11/1)より。
http://mainichi.jp/select/news/20121101k0000m010132000c.html
民主党:次期衆院選 「中道」路線を打ち出す方針固める
民主党は次期衆院選で「中道」路線を打ち出す方針を固めた。自民党の安倍晋三総裁、日本維新の会の橋下徹代表、新党結成を表明した石原慎太郎前東京都知事が保守的な言動を強めていることに対し、差別化を図る狙いがある。次期衆院選マニフェスト(政権公約)や策定中の新綱領に盛り込む。
野田佳彦首相は31日、衆院本会議の代表質問で、民主党の仙谷由人副代表から「改革志向の『民主中道』こそが民主党の理念、立ち位置だ」と水を向けられ、「主張に共鳴する。私なりの言葉で言えば『中庸』の姿勢で明日への責任を果たすということだ」と応じた。
首相は前日の30日、細野豪志政調会長や安住淳幹事長代行らと首相官邸で会談し、次期衆院選をにらんで「中道」を全面アピールしていく方針を確認している。代表質問の答弁もその一環だ。
同党幹部は「安倍、橋下、石原3氏の右傾化路線に対する明確な対抗軸になる」と解説する。
ただ、馬淵澄夫政調会長代理は「『中道』を分かりやすくしっかり伝える言葉を考えなければならない」と語っており、具体的な打ち出し方は定まっていない。
民主党は98年の結党時に定めた「私たちの基本理念」で「『民主中道』の新しい道を創造する」とうたったが、今年8月の党綱領原案には盛り込まれていない。【横田愛】
(毎日新聞 2012年11月01日 02時30分)
これに関連して、その少し前には同党の細野豪志がこんな発言をしたと報じられていた。産経新聞(10/28)より。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121028/stt12102819070003-n1.htm
安倍、橋下、石原3氏は「タカ派」 細野氏「民主はど真ん中」と強調
民主党の細野豪志政調会長は28日、名古屋市で講演し、自民党の安倍晋三総裁や日本維新の会の橋下徹代表、新党結成を表明した石原慎太郎東京都知事に関し「3人は極めてタカ派的な言動をしてきた」と指摘。「戦後日本の平和主義、専守防衛という考え方は間違っていない。世論がタカ派の方向に流れるかもしれないが、民主党は真ん中にどっしりと立つ」と強調した。
(MSN産経ニュース 2012.10.28 19:06)
私に言わせれば、細野豪志はせいぜい「中道右派」だろうし、野田佳彦(「野ダメ」)は明白な「右派」政治家だと思うが、安倍晋三、橋下徹、石原慎太郎の3人はいずれも、政治思想と経済思想のどちらかまたは両方において「極右」と言って差し支えない政治家だろうと思う。細野はもちろん、「野ダメ」の比でもないことは当然だ。
このところ、「日本維新の会」の結成、安倍晋三の自民党総裁復帰、「たちあがれ日本」の「石原独裁党」(「たちあがれ日本」が一昨年から存在する以上「新党」という表現はおかしいので「石原独裁党」と表記する)への衣替えなど、まさしく寺島実郎が言う通り「極右再編」の流れが相次いだから、それより少し左の普通の「保守」のニーズを満たす政党がなくなった。だから、それを取り込もうとして民主党が「中道」を掲げたのは当然の流れである。実はそんなに大きくない「極右」のパイを安倍・石原・橋下の3人が取り合う形になったから、大票田をカバーするポジションが空いた。民主党はそれにつけ入ろうとしているのである。
谷垣禎一が自民党総裁だった頃には、私も「民主党は粛々と下野すべきだ」と考えていたし、当ブログにもそう書いたと思うが、安倍晋三が自民党総裁に復帰したあとは、「第2次安倍内閣ができるくらいなら、民主党政権が続いた方がまだマシだ」と考えるようになっている。それでも民主党の下野と第2次安倍内閣発足は不可避だとは予想しているけれども。
事実、10月28日に行われた衆議院鹿児島3区の補選で、自民党は国民新党から議席を奪回したものの、民主党が支持する国民新党の候補がかなり善戦し、「第2次安倍内閣発足確実」と楽勝ムードに浸っていた自民党執行部を慌てさせたらしい。谷垣総裁のままなら99%確実だった自民党の政権復帰の見通しに、安倍晋三というマイナス要因が足を引っ張り始めているようだ。やはり有権者の多くは5年前の安倍晋三の「政権投げ出し」を忘れていないとともに、国民生活そっちのけで「改憲」にばかりかまけた安倍晋三に対する否定的な評価は今も生きていると思われる。
この情勢に敏感に反応したのが橋下徹である。橋下は、配下の松井一郎、松野頼久と「たちあがれ日本」の平沼赳夫、園田博之を交えて石原慎太郎と3日に会談した際、「立ち上がれ日本」の標榜する「真正保守」を批判した。
こういう話になると、産経新聞の独擅場だ。ウェブサイトにも結構長い記事が出ているが、その中から一部を引用する。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121104/stt12110401110001-n2.htm
第三極結集、遠い「薩長連合」 橋下氏「『真正保守』とは組めない」
(前略)会談では、石原氏が「中央集権の支配から変えるのはこの機会しかない」と「官僚支配打倒」による大同団結を呼びかけた。
橋下氏は、この場でもたちあがれ批判を展開した。
「『真正保守』とか言っているメンバーとは組めない!」
「大変失礼だが、石原御大もたちあがれとはカラーが違うじゃないですか?」
「真正保守」について、平沼氏が「日本の伝統・文化を守りたいという意味で言っているのだ」と説明しても、橋下氏は「政策の決定基準にするのは違う。もっと合理的に決めなきゃ」と攻撃を緩めなかった。
同席者の一人は「平沼氏が怒ると思ったが、黙って聞いていた」という。
たちあがれ内には、橋下氏について「政策が違う」「本当の保守なのか」との異論があったのは事実だ。しかし、たちあがれは「石原新党」への合流を機関決定した。石原氏が突き進む橋下氏らとの連携を拒否する選択肢はもはやない。(後略)
(MSN産経ニュース 2012.11.4 01:09)
「真正保守」という言葉は久しぶりに聞いた。ひところ中曽根康弘ら自民党のタカ派勢力が、2006年の(第1次)安倍晋三内閣発足に乗じて、「保守本流」を僭称しようとしたことがあったが、「保守本流」(宏池会)からクレームでもついたためか、ある時期から「真正保守」をやたらと名乗った時期があった。
「真正保守」でググると、2009年10月10日に私が『kojitakenの日記』に書いた記事「『保守本流』と『真正保守』の区別もつかないネット右翼の劣化」が上位で引っかかるが、この記事にはその頃の空気の名残をとどめている。しかし、自民党の下野もあってその後「真正保守」なる言葉をネットで目にする機会はぐっと減っていた。その言葉を橋下が思い出させたのである。
世の中にはいろんなブログがあって、民主党の「中道路線」を歓迎しながら、つまり、民主党支持と思われるにもかかわらず、橋下が「真正保守」を批判したといって喜んでいるところもあった。しかし、橋下の狙いは「中道」を掲げた民主党と同じで、安倍晋三と石原慎太郎の参入で極右支持のパイの割に極右のプレーヤーが増えすぎてしまったために。支持層をそれより「左」側の普通の保守層や一部のおめでたい「リベラル」層に求めているに過ぎない。橋下はそういう損得勘定でのみ動いている。
その橋下の意図を読めずにか、あるいは読めていてあえてしているのかはわからないけれども、橋下の「真正保守」批判に拍手喝采を送るのは、それこそ民主党が獲得するかもしれない票を「第三極」とやらに流し込む効果しかないのではなかろうか。これは何も橋下・石原連合についてだけではなく、未だに橋下に秋波を送ることを止めようとしない小沢一郎の「国民の生活が第一」と橋下が組んだ場合にも当てはまる、というより、このケースの方が民主党の票をより大きく食うであろうことは明らかだ。それにもかかわらず、橋下と小沢が組むことを願うかのような論調は、はっきり言って私には理解不能だ。
それと比較すれば、小沢一郎が橋下に秋波を送るのを止めて「国民の生活が第一」に「リベラル政党になれ」と求めるブログの主張の方がまだ筋が通っている。面白いと思ったのは「リベラル政党であれ」というのではなく、「リベラル政党になれ」という表現であって、つまりたとえ小沢一郎を支持する人であっても、今の「国民の生活が第一」は「リベラル政党ではない(リベラル政党とみなすことはできない)」と思っているということだろう。
実際、原発政策一つとっても、民主党、国民の生活が第一、日本維新の会のいずれも「脱原発政党」とはみなされない。それは、この3党のどこをとっても「脱原発」とは矛盾する「核燃料サイクル」の継続を求める議員が多いことから明らかだ。3党はいずれも「なんちゃって脱原発」政党と言うほかない。
また、集団的自衛権に関しても、「国民の生活が第一」は小沢一郎の長年の持論に従って、基本的には政府解釈の変更を求める立場だ。「日本維新の会」は憲法9条の明文改憲派である。この点では集団的自衛権の政府解釈を偏向しないと打ち出した民主党が3党の中ではもっともマシだといえるだろう。
とはいえ、その民主党にしても、間違っても「リベラル政党」だとは私は思わない。保守政党である。しかし、その民主党の中でもタカ派の野田佳彦の内閣の方が、安倍晋三だの石原慎太郎だの橋下徹だのが首班になる内閣と比較すればまだしもマシだとしか思えないところに、日本の政治のどうしようもない閉塞感がある。