私は消費税増税法案そのものには反対だから、その意味で小鳩派の動きを見ているが、だからといって彼らへのシンパシーは感じない。彼らの親分である小沢一郎は、「減税真理教」もとい「減税日本」の河村たかしを支援したり、日本でもっとも酷薄な新自由主義政治家・橋下徹にすり寄ったりする人間である。
私は血眼になって消費税増税法案の成立を焚き付けている朝日新聞の社説を評価しないが、その朝日の社説も小沢一郎批判の部分にだけはうなずけるものがある。6月23日付社説で離党届に署名した小沢派の議員の多くがそれを小沢氏に預けたことを、
として批判しているが、これはその通りであって、河村たかしを支援したり橋下にすり寄ったりする政治屋に離党届を預けるような政治家など、到底信を置くに値しない。だから私は小鳩派には全くシンパシーを感じないのである。もちろん民主党主流派や自民・公明、あるいは法案に反対するみんなの党や国政進出をうかがう橋下「大阪維新の会」も支持しない。橋下に関しては最近の当ブログがメインのターゲットにしていることは読者の皆さまはよくご存じのことと思う。最後まで自分で判断し行動する姿勢を放棄し、「親分」に身の処し方を委ねるかのようだ。小沢氏に世話になっているのが事実でも、民主主義国の国会議員のふるまいとは思えない。
消費税増税法案以外で最近気になるのは、原発をめぐる問題である。再稼働問題は、再稼働そのものよりも、今後のエネルギー政策を何一つはっきりさせないままに野田政権がなし崩しに再稼働を進めようとしていることが問題だ。
「脱原発」派にも、上杉隆、早川由紀夫、木下黄太、ブログ『院長の独り言』などのトンデモがはびこっているし、橋下徹のブレーンになったり、「脱原発に頑張る橋下市長を応援しよう」と言い出す人士が現れるなど、いろいろと問題はあるが、彼らを批判する勢い余って、とっくに破綻が明らかになって世界各国はみな手を引いている「核燃料サイクル」計画を温存しようと原子力委員会が秘密会議を重ねていたことを暴いた毎日新聞のスクープ(5月24日)までもがネットで「トンデモ」「誤報」扱いされた。江川紹子氏が結果的に(その意図はなかったと思うが)この誤解を拡散する手助けをした。このあたりから「脱原発」の勢いが一時的にそがれ、そのタイミングを見計らったかのように、5月31日に大阪市長・橋下徹がそれまでの「脱原発」のポーズから、「大飯原発再稼働容認」へと転じた。
政権は、これで突破口が開けたとばかり、四国電力の伊方原発、九州電力の玄海原発、北海道電力の泊原発などのなし崩し再稼働を進めようとしている。さらに看過できないのは、原子力基本法に「安全保障に資する」という文言を自民党の要求を受け入れて挿入したことだ。その間の審議はわずか4日。6月21日付の東京新聞が1面トップで大きく報じ、22日付朝日新聞、23日付毎日新聞がそれぞれ社説でとりあげて批判した。
この件で思い出したのは、昨年8月16日に自民党の石破茂がテレビ朝日の『報道ステーション』で発した妄言だ。『kojitakenの日記』でこれを取り上げて、「石破茂、「『脱原発』をしてはならない。核兵器を開発する能力を保つために原発は必要だ」と驚天動地の妄言を炸裂!」という長いタイトルのエントリにした。以下再録する。
いわゆる「リベラル」と称される人たちの中にも、石破茂とかいうキチガイを評価する向きがあるが、その石破が『報ステ』でトンデモ発言を炸裂させた。
石破は、「脱原発」に反対を表明。そして、その理由として、原発を持つことは一年以内に核兵器を開発できるということを意味し、これはすなわち抑止力である。中国・北朝鮮・ロシア・アメリカといった日本の周辺諸国がすべて核を持っている中で、日本が核を放棄していいのか。なんとそんな意味のことを言っていたのだ。
開いた口が塞がらないとはこのこと。石破なんかを評価してきた自称及び他称「リベラル」たちは、直ちに全員懺悔せよ。
これを書いた時には、右翼や保守派ばかりではなく、石破茂びいきの自称及び他称「リベラル」たちからも批判を受けたが、現実に石破のような主張が「原子力基本法」の改定に取り込まれたわけだ。
「核燃料サイクル」計画の延命や原子力(というより核分裂エネルギー利用)を「安全保障に資する」と位置づけることは、そもそも「脱原発」を大方針にするならあり得ない政策であり、その「トンデモ」の度合いは、上杉隆、早川由紀夫、木下黄太、「院長の独り言」などの比ではないほどひどい。しかし、小さな「トンデモ」を気にして批判するけれども巨大な「トンデモ」には気づきもしない(たとえば核燃サイクルの継続と原発再稼働を同列に並べてとらえてしまうような)自称「脱原発派」が少なくないことは憂慮すべきことだ。
さらに憂慮すべきは、このまま自民党が政権に復帰してしまうと、上記のような「3.11」を経ながらの核分裂エネルギー(いわゆる「原子力」)政策の「焼け太り」という事態が現実のものになりかねないことだ。私は、「野ダメ」(野田佳彦)というのは消費税増税法案の政局がこじれた場合、民主党の惨敗が必至の解散総選挙をやりかねない人間だとにらんでいる。というのは、いくらなんでも現職総理大臣である野田自身の落選は考えにくいし、少数政党に転落した民主党は、仮に自民党が過半数を制した場合(橋下「維新の会」が国政に進出しない限りそうなると思う)でも自民党と連立を組み(民主党は数十議席に転落するだろうから、もはや「大連立」とさえいえない)、次の次の選挙では民主党は自民党に吸収され、野田は自民党候補として立候補し、自民党の政治家として残りの政治家人生を歩むだろうからだ。
私は野田佳彦というのはそれくらいの「狂気」を秘めた人間だと思うし、小沢一郎は昨年の民主党代表選でそんな野田の正体に気づかず、野田を甘く見ていたとしか思えない。小沢一郎はおそらく9月の代表選で勝負をかけるつもりでいたのだろうけれど、野田がそれまでに解散総選挙を仕掛ける公算が強くなってきたので、分裂・新党結成への動きを余儀なくされているのではないかと私は見ている。つまり、かつての自民党分裂の時とは異なり、小沢一郎は政局の主導権を握れていない。だが、しょせん小沢は橋下徹に色目を使うような人間。現在の窮状は自業自得としか思えない。
そんなことより、民自公の暴走を何としてでも止めなければならない。たとえば、核分裂エネルギー政策関連では、大飯原発再稼働反対の官邸前デモの規模をさらに拡大して空前のものにして、野田政権に大きなプレッシャーをかけることなど。
これで自民党が政権復帰してしまうと、もう「革命」しか選択肢がなくなってしまうかもしれない。
https://twitter.com/masaru_kaneko/status/213671421409366016
大手メディアの社説やコメンテーターが「決められない政治」脱却を大合唱。若者の非正規雇用化や家族の解体でもたない社会保障制度はそのまま、自民党の国土強靱化法案を批判せずに社会保障をバラマキと言い、なし崩しの原発推進も肯定。逆戻りしても日本の未来はない。変われない政治が問題なのです。
6月16日付朝日新聞社説を見てみると、タイトルが「修正協議で3党合意―政治を進める転機に」となっており、本文には「この合意が『決められない政治』を脱する契機となることを願う」、「なぜ『決められない政治』に陥ったのか。それは、政治家が厳しい現実と向き合うことから逃げてきたことが大きい」といった文章が並ぶ。
他紙も、毎日「『決める政治』を評価する」、読売「『決められる政治』に転じる貴重な一歩としてもらいたい」、産経「『決められぬ政治』回避したが社会保障抑制は不十分」と、朝日も合わせて「決める政治」「決められる政治」「決められぬ政治」「決められない政治」とみごとなまでのワンフレーズ・ポリティクス。しかも4社で語尾が少しずつ異なっているところまで笑わせてくれる。
大新聞、特に朝日新聞に対する批判は、『kojitakenの日記』にも書いてホッテントリになったが、そこで触れなかったことをこの記事に書く。
私は、マスコミが政府を批判する言葉として「決められない政治」というフレーズを用いていることはもちろん知っていたが、それを朝日や毎日も前面に押し出して堂々と使ってくるとまでは思わなかった。それは、「決められない政治」批判を行う者が念頭に置いているに違いない政治家を思い起こさせるフレーズだからだ。
そう、橋下徹である。
検索語「決められない政治 橋下」でネット検索をかけると、下記日本経済新聞の記事が引っかかる。
http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM2401H_U2A520C1EB1000/
橋下現象の背景に「決められない政治」 米紙分析
米紙ワシントン・ポストは23日付の1面と14面で、次期衆院選に向けて注目を浴びる橋下徹大阪市長に関する記事を掲載した。橋下氏が支持を集める背景には政治、経済の現状への「国民の不満」があると指摘。「決められない政治」への嫌悪感が改革を訴える橋下氏への支持と結び付いていると分析している。
「橋下現象」を巡る米側の関心の一端が米メディアを通じて表れた。橋下氏について「部外者が日本の政治に一石を投じた」とし、「橋下氏の政治手法が名声を広げた。敵をつくり、その敵と競うという能力に優れているからだ」と説明した。
橋下氏が代表を務める「大阪維新の会」は現在、国会で議席はないものの、衆院選では200人の当選を目指していると紹介。現実に200議席を獲得した場合、橋下氏が一気に首相になる可能性もあると記した。(ワシントン=吉野直也)
(日本経済新聞 2012/5/24 10:12)
上記日経の記事が言及している『ワシントン・ポスト』の記事については、5月28日付当ブログ記事「マスメディアが作る『橋下ファシズム』&片山さつき批判」でも言及したが、現実に前述の「『決める政治』を評価する」と題したトンデモ社説を執筆したという毎日新聞論説委員長・倉重篤郎は、「ハシズム」批判のシンポジウムに出席して、「私は橋下さんをある程度評価する者です」と断った上で、「震災直後にあれだけ『頑張ろう日本』『頑張ろう東北』『絆』と叫ばれていたのに、がれき処理になったら一斉に拒絶。全ては憲法9条が原因だと思っています」という橋下の発言に対して、「私の心にも響くものがある」と述べたという(『五十嵐仁の転成仁語』のエントリ「橋下大阪市長の『ハシズム』で日本を沈めないためには」より)。同じ場で倉重は、橋下政治の「決める政治」は既成政党にも好ましい影響を与えているとして、決められない政治から抜け出しつつある点を挙げたとのことだ。
このことは、倉重が社論に責任を持つ毎日新聞や、私が前記『kojitakenの日記』でこき下ろした朝日新聞、それに主筆の渡邉恒雄(ナベツネ)が橋下を痛烈に批判したはずの読売新聞(当ブログ3月19日付記事「ナベツネは単なるワンマンマン、橋下徹の方が1万倍危険だ」参照)を含むマスメディアが、橋下(流)の「決められる政治」を肯定的に評価していることを示すものだ。
だが、いったい橋下は何を「決められる」政治家だというのだろうか。どういう実績があるというのだろうか。大阪府の財政は、黒字どころか過去最悪の赤字を記録した。大阪府知事時代から大阪市長就任後半年以上経過した現在に至るまで、橋下に何の実績があったのか。
何もないのである。
試しに、「橋下 実績」でググってみた。何も出てこない。それどころか、府職員や府立学校の教師志望者を激減させたり麻生太郎が「大阪維新の会の国政進出は市長として実績挙げてからにしろ」に言われた、などという記事ばかりが見つかる。橋下信者は人件費削減が成果だと言っているが、実際には橋下知事の下で大阪府の財政は悪化した。
まさか、マスメディアは「教育基本条例」(「教育行政基本条例」と「府立学校条例」)の成立が実績だというのか? あるいは「『親学』なるカルトに基づくトンデモ条例」として話題になった「家庭教育支援条例案」を、批判を受けたら早々に撤回したことが「決められる政治」になるとでもいうのか(そんな条例案を提出したこと自体、維新の怪の体質が問われねばならないことはいうまでもない)、あるいは、「脱原発」で人気取りを狙って、飯田哲也、大島堅一氏らを「市特別顧問」に任命し、「脱原発を争点にして解散総選挙を行え」と息巻いたことを評価でもしているのか?
橋下は、先月31日に大飯原発再稼働を「容認」した。橋下からの攻勢に手を焼いた野田佳彦(「野ダメ」)政権が球を関西広域連合に投げたところ、最終的に橋下の掌の上で球が炸裂した形だ。橋下は例によって掌返しを行って原発再稼働を「容認」し、責任を関西電力と政府だけに押しつけようとしたが、大阪府知事時代最高で83%もあった支持率を54%(毎日新聞・MBS調査)にまで落とした。しかしなおも半数以上の大阪市民が橋下を支持している。
支持率はともかく、橋下には実績が何もないことは明らかだ。すぐに何かをブチ上げたり、掌を返したりすることが「決め(られ)る政治」なのか。前述の毎日新聞・倉重篤郎が書いた社説や倉重の発言などを参照すると、そうとしか思えない。最初に引用した金子勝氏のTwitterでいうと、橋下も政府・民主党も自民党も「変われない政治」には該当する。たとえば橋下の「脱原発」がポーズだけだったことは、大阪市特別顧問を辞めて山口県知事選に立候補する飯田哲也氏を、大阪維新の会が一切支援しないことからも明らかだ。自民党がめちゃくちゃに強い山口県では、仮に「維新の会」の支援を受けたとしても、飯田氏は「ノーパンしゃぶしゃぶ」で悪名高く、2008年の衆院補選と翌年の衆院選で民主党の平岡秀夫に惨敗した自民・公明推薦の山本繁太郎に勝てない。だから橋下は飯田哲也を切り捨てたのである。飯田氏は、少し前の朝日新聞土曜別刷「be」に大きく取り上げられ、もし橋下政権ができたら古賀茂明氏と自分は入閣する、みたいなことを言って舞い上がっていて、みっともないなあと思っていたが、橋下に切り捨てられてようやく橋下の正体を悟っただろうか。だが、仮にそうだとしても、あそこまで橋下のスポークスマンを演じた飯田氏に、知事選で頑張ってほしいという気には、私にはなれない。
16日、ついに大飯原発再稼働を認めた「野ダメ」政権は、消費税増税の3党合意に続いて、2日連続で「決め(られ)る政治」を断行した。
消費税増税にも原発再稼働にも賛成している読売や産経は、まだ敵ながら筋が通っている。しかし、朝日や毎日は、原発再稼働には反対しながら、消費税増税には諸手を挙げて賛成するどころか読売・産経以上に熱心に推進し、ついには誰しもが橋下を連想する「決められない政治からの脱却」「決める政治」を社説で連呼し、論説の責任者自らが橋下のシンパであると認めるに至った。読売・産経よりもはるかに罪が重いのが朝日・毎日だといえるだろう。東京の人間なら、まだ東京新聞(中日新聞東京本社発行)をとるという選択肢があるし、兵庫県なら神戸新聞、京都府なら京都新聞があるのだろうけれど、大阪には何があるのかとも思う。昔の大阪には夕刊紙が乱立していて、神戸にも京都にもない、独特の猥雑な雰囲気があって面白かったものだが、その「庶民の町」はいまや「橋下ファシズム(ハシズム)に支配された町」に変わってしまった。
思えば、朝日新聞も毎日新聞も大阪発祥の新聞だった。残念な偶然である。
しかし、金子勝氏のTwitterを見ると、『サンデーモーニング』のような番組はむしろ例外で、「大飯再稼動問題は国民的関心事なのに多くの番組も回避」しているのだそうだ。
再稼働そのものにもまして問題なのは、野田首相が「原発政策の道筋を示していない」ことだ。たとえば朝日新聞編集委員(元論説委員)の竹内敬二記者は、「すべての原発を動かさないのも、多くの原発をなし崩しで再稼働するのも現実的ではない」とする立場をとるが、「事故の検証と総括がないまま再稼働すれば、再び大事故が起きるのではないかとの不安が消えない」、「事故の分析をふまえた根本的な安全対策や基準はまだできていない」、「電力不足について、政府や電力会社は突き詰めた電力需給のデータを示していない」などとして拙速な再稼働に反対した。同記者は「このまま政府が再稼働を押し切れば、国民との信頼関係は再び崩れ、炉心溶融を起こした東電原発事故に続いて、失敗を繰り返すことになる」と警告した。この記事が朝日新聞に掲載されたのは4月14日である(同日付の『kojitakenの日記』で記事の要旨を紹介した)。
しかし、野田首相は竹内記者が「現実的ではない」と評した「多くの原発をなし崩しで再稼働する」という方針をずっと持っていて、タイミングをずっと測っていた。それ以外には解釈できない。
私がこの記事で特に訴えたい対象は、「そうはいっても原発を再稼働しなければ関西が電力不足になってしまうんじゃないか。再稼働は仕方ない判断だ」と思われている読者、その中でも特に「基本的には脱原発が望ましい」との考えを持っておられる読者の方々である。現状の延長線上には、「多くの原発のなし崩し再稼働」しかあり得ないことを知っていただきたいのである。漠然と、「そうはいっても民主党政権下では緩やかな『脱原発』が進むだろう」などと楽観視しているあなた。事態はあなたが期待しているようには決して推移しない。
このところの原発をめぐる議論は何から何までまやかしだらけだ。たとえば「2030年の原発依存度15%」がいかにも「脱原発依存」の中庸の解であるかのような誤った印象操作がなされているが、『kojitakenの日記』の昨日(10日)の記事「『野ダメ』と関電の黒い企みを許すな」で指摘したように、原発の「運転開始から40年で廃炉」の原則を破って「40年超」の運転を認めるか、原発を新規に建設するかのいずれかを行わない限り、「2030年の原発依存度」を15%に保つことなどできない。何もしなくても、老朽原発が年を追って増えるため、自動的に原発依存度がそれ以下に下がってしまうからだ。つまり、「2030年の原発依存度15%」とは紛れもない原発維持の政策なのである。
私が特に暗い気持ちになるのは、財界を牛耳っている経団連や労働界を牛耳っている連合にそれぞれ強い影響力を持つ「電事連」と「電力総連」のマインドと、多くのメーカーのマインドとの間に大きなギャップがあることを知っているからだ。日本には環境・エネルギー関係の優秀な技術があるが、電事連や電力総連の意を受けた政府の「なし崩し原発再稼働・原発維持ないし推進」の政策は日本の製造業が伸びる芽をあたら摘んでしまうものなのである。実質的に破綻している東京電力や、まともに推移すれば今後10年内に経営が立ちゆかなくなる関西電力を守ることは、日本の産業の可能性を閉ざしてしまうことを意味する。それを痛感するからいやでも気持ちが暗くなる。経団連は決して日本の産業会を正しく代表していないし、電力総連は決して日本の労働界を正しく代表していない。このことを口を酸っぱくして訴えたい。
しかし、守旧的な「野ダメ」こと野田佳彦首相に代表される保守政治家たちはみな無能だから、本来退出を迫られて然るべき「原子力ムラ」を温存しようと躍起になっている。「まず脱原発依存の大方針を明確にする」つもりなど全くない。その必然的帰結として大飯原発3,4号機の再稼働は間違いなくあらゆる原発のなし崩し的再稼働につながる。だから今回の野田首相の再稼働すべきとの意思表示には断じて賛成できないのである。何よりも私が憂えるのは、野田政権や経団連や電力総連や読売新聞や産経新聞が、日本の産業の未来を損ねようとしていることである。それこそ、前回のエントリのコメント欄で小沢一郎支持者(信者?)の風太さんに教えていただいた金子勝・神野直彦両氏の共著(私も早速買って読みました。風太さんどうもありがとう)のタイトルにあるような「失われた30年」を招きかねない。いや、野田政権のあとに現れるのが自民党の政権復帰にせよ橋下「維新の会」政権の誕生にせよ、野田政権よりさらにひどいものになる可能性がきわめて高い(特に後者は最悪だ)から、私はもうこの国の未来に匙を投げたくなり始めている。
そんな私が現在一番イライラしているのが、したり顔で「原発再稼働は仕方ない」と口にして自らを「現実主義者」だと思い込んでいる人たちである。私とて、前記朝日の竹内記者と同様、日本の産業に支障をきたすことを防ぐために、今後原発の再稼働が必要になる局面が生じる可能性もあり得ると考えているが、再稼働の大前提は、竹内記者が簡潔にまとめたように、政府が「脱原発(依存)」の大方針を明確に打ち出すことであり、東電原発事故の検証と総括をなすことであり、根本的な安全対策や基準を作ることであり、突き詰めた電力需給のデータを示すことであり、新しい規制機関を早く立ち上げることだ。だが、そもそも「脱原発」の立場に立たない野田政権はこれらを意図的に怠り、なんとしてでも一刻も早く原発再稼働の既成事実を作ることばかりを考えてきた。だからダメな野田。
国会事故調もひどいものだ。民間事故調とは対照的に、東電及び「原子力ムラ」を免責し、東電原発事故当時の菅直人政権の対応にのみ責任をかぶせようとしている。これまで原発推進政策をとってきた責任をとりたくない二大政党(民主・自民両党)の思惑が反映されている。
特に呆れるのが、大阪で橋下徹の「思想調査」の下手人を務めた野村収也という人物の暗躍である。東電が原発事故を起こした福島第一原発から「撤退」しようとした件については、朝日新聞は東電が全面撤退しようとしたと主張しているし、読売新聞はそれは誤解だと主張している。状況証拠は朝日の主張(及び民間事故調の結論)の方が正しいことを示しているが、野村修也の言動は東電・原子力ムラ・読売・産経・自民党側に立ったものだ。それは、『kojitakenの日記』にも引用した読売新聞記事に端的に示されている。
この件に関して、前記『kojitakenの日記』に寄せられたgreenstoneさんのコメントを紹介する。
greenstone 2012/06/10 18:18
久しぶりにコメントいたします。腹の立つことが多かったもので。
この野村というのは、いわゆる弁護士ではなく商法の研究者である。
なぜ商法の研究者が専門外の原発事故の問題に出てきたのか。
野村は長く政府機関で仕事をしてきたこと、そして企業法たる商法の専門であったことから、官僚利権、電力業界の利益を代弁してくれることが期待されたのでしょう。
私は、菅元首相の事故対応は本人が語るような最善のものからは程遠いと思います。
批判検討は十分になされるべきです。
しかし、あの事故で経産省東京電力が事故対応を主導していたらどうなっていたか。
最終的には米軍が主導し自衛隊が実行部隊として収束を図ることになったと思います。
橋下の下手人・野村修也とはそういう男らしい。道理で橋下があっさり原発再稼働を容認するわけだ。橋下は「停電リスクに怖気づいた」などと言っているが、事故の究明も総括もなく、安全基準もないまま、事故を起こしたものと同じカテゴリのプラントを稼働させるリスクについてはとんと念頭にないようだ。こんな人間を「脱原発に頑張っている」など評価してきた人たちは、まことにおめでたいとしか言いようがない。
「野ダメ」も橋下も、もう顔も見たくないが、当分の間はいやでも見せつけられるのだろう。いい加減うんざりする。
これが、その2日後の金曜日(6月1日)、床屋政談ならぬ職場政談で話題になっていた。政談の主いわく、「野田さんは『関西広域連合の理解が得られつつある』って、一体何言ってるのかなあと思ってたけど、話がついてたんだね」と。断っておくが、私はその人に何らの示唆もしていない。
新聞も橋下徹の「転向」を大きく報じた。喜びを隠せない読売新聞は、「橋下市長の理解が決め手、大飯再稼働へ急展開」と題した記事に、
と書いた。毎日新聞も、「大飯再稼働:橋下市長、一転『事実上容認』 前日発言翻し」と題した記事にこう書いている。再稼働批判の急先鋒(せんぽう)だった橋下市長が理解を示したことで、一気に再稼働容認への流れができた。
大阪市の橋下徹市長は31日、関西電力大飯原発3、4号機(福井県おおい町)の再稼働について、「基本的には認めない」としていた前日の発言を翻し、「事実上、容認する」と明言した。ただ、「期間限定(の再稼働)は言い続けていく」として、秋ごろをめどに運転停止を求める考えを示した。
橋下市長は市役所で記者団に、「上辺ばかり言っていても仕方ない。事実上の容認です」と語った。これまで大阪府・市のエネルギー戦略会議などでは、再稼働しなくても電力は足りるとする趣旨の議論が展開されてきたが、「足りるというのは個人の意見だ。きちんとしたプロセスで確定した数字は前提にしなければならない」とも発言。政府が今夏、関西で15%の電力不足が生じると試算していることを踏まえ、「この夏をどうしても乗り切る必要があるなら、再稼働を容認する」と述べた。また従来、「安全が不十分な状態での再稼働はあり得ない」と繰り返していたが、「机上の論だけではいかないのが現実の政治だ。最後は有権者に判断してもらったらいい」と説明した。(後略)
毎日新聞 2012年05月31日 12時00分(最終更新 05月31日 13時24分)
だが、橋下が大飯原発再稼働を「基本的には認めない」と啖呵を切っていた前日には、野田首相が「関西広域連合の理解が得られつつある」と発言していたのである。橋下は、裏で政府と手を握りながら、表ではええかっこしいをしていたということだ。
そもそも、橋下が大飯原発再稼働可否のキャスティングボートを握っていたこと自体異常だが、これというのも原発再稼働をめぐって橋下に突き上げられ、「脱原発を総選挙の争点にする」と言われて支持率の低下に悩まされていた「野ダメ」政権が、当初もくろんでいたゴールデンウィーク前の大飯原発再稼働決定をいったん先送りし、橋下にボールを投げた形をとったためだ。
噂された「6月解散・総選挙」もほぼ消えた橋下の本音は、特段「脱原発」でもなんでもなく、ただ単に自身の人気取りのために有効なカードとしてこれを利用していただけだったから、解散総選挙が先送りされて関西の財界から原発再稼働をせっつかれるだけの状況は橋下にとって都合が悪い。ところが、このところ上杉隆や早川由紀夫らの暴走によって「脱原発」から次第に人心が離れてきており、そのとばっちりを食って「核燃サイクル維持のための秘密会議」を暴いた毎日新聞のスクープまで誤報扱いされる事態が生じていた。
この件については、『さつきのブログ「科学と認識」』のエントリ「だまされゆく人達」に実によくまとめられているので、リンク先をご参照いただきたい。一言だけ付言すると、私もブログ主のさつきさんと全く同様に、「togetter: 毎日新聞スクープ"核燃サイクル「秘密会議」"について鈴木達治郎氏(原子力委員長代理)と江川紹子氏、斗ヶ沢秀俊氏がツイッター上で質疑応答のコメント欄を読んで、暗澹たる気分になった。「核燃サイクル」とは、「原発再稼働可否」とは一段レベルの違う論外の「トンデモ」であり、その存続を狙った「原子力ムラ」の画策を暴いた毎日新聞のスクープは称賛されてしかるべきものだし、橋下徹のブレーンであることは全く評価できない飯田哲也とはいえ、この件に怒ったのは当然の反応である。
頭が痛いのは、昨日(6月3日)のオウム真理教・菊地直子容疑者逮捕でまたぞろ引っ張りだこになっているであろう江川紹子氏が、結果的に「毎日新聞の誤報」であるかのような印象操作に加担してしまったことだ。江川氏は、もはや「無自覚な原発推進派・核燃サイクル推進派」と言わざるを得ない。本人にはそのような意図は全くなく、ましてや一部で誹謗中傷されたような「東電から金をもらっている」ことはあり得ないと思うが、本人に悪意はなくとも結果的に「原子力ムラ」の延命に加担してしまうあたり、日本の長年の「原発推進」の病巣は深いと嘆かずにはいられない。
脱線が長くなったが、こんな「流れの変化」を見て取った橋下が、「脱原発」を求める世論と、これまで築き上げてきた自らの人気を秤にかけて、「今なら再稼働を『容認』しても、自らの人気を決定的に毀損するほどのひどいダメージは受けない」と判断し、原発再稼働の「容認」に踏み切った。そう私は考えている。
案の定、橋下に「梯子を外された」ようにしか見えないブレーンの飯田哲也は、Twitterを連打して、必死に主君の橋下を庇い立てた。だが、そんな飯田氏に橋下は追い打ちをかけた。「原発再稼働」に突き進む野田首相を飯田氏は「知性のカケラもない、野ダメ首相」と評した(これには私も全面的に同意する)のに、橋下は「民主党政権を倒す」としてきた自らの発言を撤回したのである。以下毎日新聞記事を引用する。
橋下市長:「民主党政権倒す」発言を撤回 対決姿勢も修正
「大阪維新の会」代表の橋下徹・大阪市長は1日、関西電力大飯原発3、4号機(福井県)の再稼働を巡り、「民主党政権を倒す」としてきた自らの発言を撤回すると述べた。次期衆院選で民主と対決するとしてきた維新の方針も見直す方針を明言した。
市役所で記者団に述べた。橋下市長は、政府が大飯原発の再稼働を妥当と判断した4月13日、「政治家が安全なんて確認できるわけはない。次の選挙で民主党政権に代わってもらう」と発言。維新の会としても翌日、次期衆院選で民主と全面対決する方針を決定したが、わずか1カ月半で方針転換することになった。
橋下市長はこの日、原発再稼働を「事実上容認する」と判断する決め手になったのは、細野豪志・原発事故担当相の発言だったと説明。5月30日の関西広域連合で、細野氏が「(再稼働について)暫定的な安全判断だ」と橋下市長の主張を一部受け入れたことが、政権への対決姿勢を軟化させた最大の理由だったと明かした。
一方、5月15日に関西の経済3団体首脳らと会食した際、再稼働について「何とかならないか」と求められたことも明かしたが、「(経済界からの)脅しや圧力は一切ない。細野氏の発言が一番の判断根拠だ」と強調した。【原田啓之】
毎日新聞 2012年06月01日 22時40分(最終更新 06月02日 02時09分)
ここでもまた「橋下スペシャル」とでもいうべき「掌返し」を炸裂させた橋下だが、それ以上にいただけないのは橋下の屁理屈だ。
当初橋下は、「野ダメ」政権が急ごしらえで作った「暫定的な安全基準」を批判し、これに基づく再稼働に反対していたはずだ。民間のメーカーでも、重大事故を起こしたり製品に欠陥が見つかったりした製造ラインを「暫定的な安全基準」で再稼働させることは決して許されないから、この時点では橋下の言い分には筋が通っていた。
それなのに、それがいつの間にか、細野豪志が「暫定的な安全判断だ」と認めたから再稼働を容認する、などという理屈にすり替わってしまっている。もはや「詭弁」のレベルにも達さない、子供騙しの言い分というほかない。橋下の大好きな「民間」では、絶対に通用しない論法である。
しかし、呆れたことに橋下のこの論理破綻を指摘し批判するマスコミはほぼ皆無だ。まるで「物言えば唇寒し」とばかり、メディアは沈黙している。元々原発推進派の読売や産経はもちろん、朝日や毎日も同じなのだ。
さらに呆れるのは、「左派」あるいは「リベラル」の人士たちであって、「橋下さんを大きく描きすぎ」と書くブログもあれば、「原発問題に関して安易な橋下バッシングには決して乗らない」とつぶやく「進歩的」人士あり、さらには当ブログのコメント欄にも、「橋下のような小物に執着して、仲間内での議論に興じる」などと言って「橋下批判批判」を行う「小沢信者」がいる。
前回のエントリに、辺見庸が
と書いたことを紹介したが、現実に橋下は「ヒーローにしたてあげ」られてしまった。中央政界では、小沢一郎をはじめ、渡辺喜美や安倍晋三や前原誠司、それどころか橋下の「元祖」格かと思っていた東京都知事の石原慎太郎までもが橋下にすり寄っている。こういう冷厳な現実があるにもかかわらず、「橋下さんを大きく描きすぎ」とか「橋下のような小物」などとは、いったい何を言っているのかと思うし、ましてや橋下のごとき手のつけられない人気者に対して、どこから「安易なバッシング」が起きているというのかと、頭がクラクラしてくる。テレビはバラエティショーおなじみのタレント弁護士を売りだし、チンピラ・アジテーターに過ぎなかったかれをヒーローにしたてあげた。
本当は今回は橋下の「文化・芸術に対する迫害」や教育政策における「強者への逆再分配」についても書きたかったが、長くなりすぎたので止める。リンク先を参照されたい。といっても、今では当ブログよりリンク先の『kojitakenの日記』の方が数倍のアクセス数をいただくようになっているけれど。
それでも、まとまった意見表明の場として、当ブログは更新頻度はめっきり減ったけれども今後も続けていきたい。