昨年秋以来週1回更新を原則としている当ブログで取り上げる題材は、専ら大阪市長の橋下徹をめぐるものばかりになっているが、橋下に関する状況で私が「気持ちが悪くてたまらない」と思うことがある。
それは、多くの人々の「沈黙」である。人々は橋下について何も語ろうとしないのだ。人一倍関心を持っていながら。なぜそう断定的に書くかというと、ほぼ毎日更新している『kojitakenの日記』において、他のいかなる話題を取り上げた記事と比較しても、橋下について書いた記事のアクセス数が多くなるからだ。えっ、こんなつまらない記事がアクセスされるの、と驚いたことも数知れない。
今では小沢一郎関連の記事は典型的な「不人気記事」だし、原発問題について書いた記事もアクセス数は頭打ちだ。それなのに橋下について書いた記事ばかりアクセス数が伸びる。それくらい、みんな橋下に注目しているのだ。
そのくせ、橋下についてなかなか旗幟を鮮明にしたがらない。しかも、最近では「反・反橋下」の気運が見られるという。「反・反橋下」というのは、「橋下を叩いている奴らが気に食わない」というもので、本当は心情的には「橋下シンパ」なのだけれど、報道されている橋下の言動には、論理的に言って支持できない部分が多く、その自己矛盾を解消するために、「気に食わない反橋下派」を叩いて、「自分は橋下支持なんかじゃない、橋下批判派を批判しているのだ」という理屈で自己を正当化するのだ。
当ブログのコメント欄でよく見られた、「橋下を『右翼』とみなすのは正しくない」、「橋下を『新自由主義』と決めつけるのは不適切だ」などという言説もそんな空気に通じており、どこか橋下を批判することを自己規制しているかのように思われる。毎度のように書くけれども「脱原発に頑張る橋下市長を応援しよう」などという左翼人士氏の言説もそうだ。左翼人士氏にとっては、橋下という名前に条件反射して批判ばかりする左翼が多くの人々の共感を得ることはないと思うのかもしれないが、頭脳の明晰さは私とて認める左翼人士氏の発言の影響によって、ますます橋下批判がしにくくなり、「反・反橋下」の言説が、ほかならぬ「左派・リベラル」側から多く出てくる弊害の方がはるかに大きいと思う。
こういう風潮は、辺見庸がかつてよく書いた「鵺のような全体主義」につながるのではないか。今では事態はもっと深刻かと思われるが。近著『死と滅亡のパンセ』(毎日新聞社)で辺見は、東日本大震災1周年のために詩作と朗読とインタビューを朝日新聞記者から電子メールで依頼され(辺見は依頼を断ったとのこと)、その中で「社会に意義のある言葉」を求められたことを、戦時中の昭和18年(1943年)に「朝日新聞大阪厚生事業團」が主催した「戰詩の朗讀と合唱の夕」のリーフレットに「戰意昂揚と精神醇化のために」と書かれていることとの類似を指摘しそれを批判している。そしてその直後に、マスメディアと橋下徹を批判する文章が続く。以下引用する。
辺見庸が槍玉に挙げているのは朝日新聞社だが、本の出版元の毎日新聞社も同罪であることはいうまでもない。朝日も毎日も、先日アメリカの保守系新聞『ワシントン・ポスト』が書いた程度の橋下評も行わない。同紙は橋下を「扇動市長」と表現し、「ティーパーティー(茶会)のような、小さな政府の哲学を持っている」と評している。選挙で勝った者は「白紙委任」されているとして、読売新聞主筆の渡邉恒雄(ナベツネ)に「ヒトラーを思い出させる」と批判されたことも紹介した。
橋下の酷薄な新自由主義的な施策は実にひどいものだが、多くの大阪市民はそれを手放しで賛美している。その橋下に安倍晋三(自民党)、渡辺喜美(みんなの党)、小沢一郎(民主党反主流派)など中央政界の「大物政治家」たちや、極右マッチョイズムでは橋下の先輩格とも思われた東京都知事の石原慎太郎までもがすり寄る。「小沢信者」たちは橋下にすり寄る小沢一郎について何も言わなくなるか、あるいは積極的に橋下と小沢一郎の連携を期待したりして「ファシズム」に組み込まれている。
橋下の「扇動政治」にヒントを得たのか、それとも静岡7区において長年「極右レイシスト」の城内実(自民党衆院議員)との抗争を続けた結果ライバルの城内にすっかり感化されたのか、自民党参院議員の片山さつきは、さる有名芸能人(私はこの人のことを知らなかったが)の母親が生活保護を受けていたとしてバッシングする愚挙に出た。昨日のテレビ朝日の『報道ステーション』日曜版だかなんだかが、番組の最初の方にいきなり片山が出てきたから私はチャンネルを変えたが、こいつはなんと自らがバッシングした相方の芸能人に「『夫の会社を潰してやる』と脅された」などと言って泣いて見せたのだそうだ。この「相方の芸能人」の発言とやらは、片山による捏造だろうと言われている。
「劣化版橋下」としか思えないこいつの醜態について、かつてこいつと選挙で争った城内実(1勝1敗)や、こいつに「こいつ」呼ばわりされた前原誠司のコメントが聞きたいところだが、こいつはなんと前自民党衆院議員の杉村太蔵(通称「タイゾー」。現お笑い芸人)にまで批判された。
しかし、さらに呆れるのは「2ちゃんねらー」がこいつを支持して芸能人をバッシングしていることだ。この事態を知って私は2004年の「イラク人質事件」における人質バッシングを思い出した。あの時の「自己責任論」はひどく、自民党の陣笠議員が誤った風説(自作自演説)を捏造してこれを煽り、その仕掛け人は官邸であるとの複数のメディアによる報道もなされた(当時は小泉純一郎政権時代。例の強面秘書あたりの仕業か)。
今回は、野田政権はバッシング劇に直接関与はしていないが、小宮山洋子厚労相が国会で生活水準の保護引き下げを示唆する発言を行った。これでは極右野党の極右政治家に「戦果」を与えるようなものである。そもそも「大連立政権」を目指しているとされる野田政権こそ「ファシズム志向」の最たるものだろう。しかし、朝日新聞も毎日新聞も社説で民主党と自民党は互いに歩み寄れと何度も何度も書き続けている。
事態は、「イラク人質バッシング」が起きた2004年当時よりも、ずっと悪化しているように思われる。
それは、多くの人々の「沈黙」である。人々は橋下について何も語ろうとしないのだ。人一倍関心を持っていながら。なぜそう断定的に書くかというと、ほぼ毎日更新している『kojitakenの日記』において、他のいかなる話題を取り上げた記事と比較しても、橋下について書いた記事のアクセス数が多くなるからだ。えっ、こんなつまらない記事がアクセスされるの、と驚いたことも数知れない。
今では小沢一郎関連の記事は典型的な「不人気記事」だし、原発問題について書いた記事もアクセス数は頭打ちだ。それなのに橋下について書いた記事ばかりアクセス数が伸びる。それくらい、みんな橋下に注目しているのだ。
そのくせ、橋下についてなかなか旗幟を鮮明にしたがらない。しかも、最近では「反・反橋下」の気運が見られるという。「反・反橋下」というのは、「橋下を叩いている奴らが気に食わない」というもので、本当は心情的には「橋下シンパ」なのだけれど、報道されている橋下の言動には、論理的に言って支持できない部分が多く、その自己矛盾を解消するために、「気に食わない反橋下派」を叩いて、「自分は橋下支持なんかじゃない、橋下批判派を批判しているのだ」という理屈で自己を正当化するのだ。
当ブログのコメント欄でよく見られた、「橋下を『右翼』とみなすのは正しくない」、「橋下を『新自由主義』と決めつけるのは不適切だ」などという言説もそんな空気に通じており、どこか橋下を批判することを自己規制しているかのように思われる。毎度のように書くけれども「脱原発に頑張る橋下市長を応援しよう」などという左翼人士氏の言説もそうだ。左翼人士氏にとっては、橋下という名前に条件反射して批判ばかりする左翼が多くの人々の共感を得ることはないと思うのかもしれないが、頭脳の明晰さは私とて認める左翼人士氏の発言の影響によって、ますます橋下批判がしにくくなり、「反・反橋下」の言説が、ほかならぬ「左派・リベラル」側から多く出てくる弊害の方がはるかに大きいと思う。
こういう風潮は、辺見庸がかつてよく書いた「鵺のような全体主義」につながるのではないか。今では事態はもっと深刻かと思われるが。近著『死と滅亡のパンセ』(毎日新聞社)で辺見は、東日本大震災1周年のために詩作と朗読とインタビューを朝日新聞記者から電子メールで依頼され(辺見は依頼を断ったとのこと)、その中で「社会に意義のある言葉」を求められたことを、戦時中の昭和18年(1943年)に「朝日新聞大阪厚生事業團」が主催した「戰詩の朗讀と合唱の夕」のリーフレットに「戰意昂揚と精神醇化のために」と書かれていることとの類似を指摘しそれを批判している。そしてその直後に、マスメディアと橋下徹を批判する文章が続く。以下引用する。
坪井秀人は「メディアは戦争が作る(あるいは戦争はメディアが作る)」と書いているけれども、大正解だね。これがマスメディアというものの本性だろうね。そうこうするうちに三月十一日の奈落はまるでなかったかのように塗りかえられ、テレビからはまたぞろばか笑いが聞こえてきている。大阪でおきているバックラッシュもテレビ、新聞を中心とするマスメディア由来のものだ。テレビはバラエティショーおなじみのタレント弁護士を売りだし、チンピラ・アジテーターに過ぎなかったかれをヒーローにしたてあげた。ボクシングの世界タイトルマッチで大阪の知事と市長をリングにあげ、「君が代」をうたわせてそれを実況中継したのはTBSだった。これだって別種の「声の祝祭」なんだよ。新聞もハエのように橋下という、テレビがひりだしたアジテーターにたかりついた。坪井秀人風に言えば、「ファシズムはメディアがつくる」さ。チンピラ・アジテーターは調子にのってどんどんしゃべくり、香具師のようにしゃべくりがうまくなっていった。このテレビ産の香具師は図にのっているうちにいずれはまちがいなく転けるだろうけれども、この社会は大震災後もヘラヘラ笑いながら新型ファシズムの道を歩んでいるし、橋下がいようがいまいが、今後もそうだろう。
(辺見庸『死と滅亡のパンセ』(毎日新聞社, 2012年)72-73頁)
辺見庸が槍玉に挙げているのは朝日新聞社だが、本の出版元の毎日新聞社も同罪であることはいうまでもない。朝日も毎日も、先日アメリカの保守系新聞『ワシントン・ポスト』が書いた程度の橋下評も行わない。同紙は橋下を「扇動市長」と表現し、「ティーパーティー(茶会)のような、小さな政府の哲学を持っている」と評している。選挙で勝った者は「白紙委任」されているとして、読売新聞主筆の渡邉恒雄(ナベツネ)に「ヒトラーを思い出させる」と批判されたことも紹介した。
橋下の酷薄な新自由主義的な施策は実にひどいものだが、多くの大阪市民はそれを手放しで賛美している。その橋下に安倍晋三(自民党)、渡辺喜美(みんなの党)、小沢一郎(民主党反主流派)など中央政界の「大物政治家」たちや、極右マッチョイズムでは橋下の先輩格とも思われた東京都知事の石原慎太郎までもがすり寄る。「小沢信者」たちは橋下にすり寄る小沢一郎について何も言わなくなるか、あるいは積極的に橋下と小沢一郎の連携を期待したりして「ファシズム」に組み込まれている。
橋下の「扇動政治」にヒントを得たのか、それとも静岡7区において長年「極右レイシスト」の城内実(自民党衆院議員)との抗争を続けた結果ライバルの城内にすっかり感化されたのか、自民党参院議員の片山さつきは、さる有名芸能人(私はこの人のことを知らなかったが)の母親が生活保護を受けていたとしてバッシングする愚挙に出た。昨日のテレビ朝日の『報道ステーション』日曜版だかなんだかが、番組の最初の方にいきなり片山が出てきたから私はチャンネルを変えたが、こいつはなんと自らがバッシングした相方の芸能人に「『夫の会社を潰してやる』と脅された」などと言って泣いて見せたのだそうだ。この「相方の芸能人」の発言とやらは、片山による捏造だろうと言われている。
「劣化版橋下」としか思えないこいつの醜態について、かつてこいつと選挙で争った城内実(1勝1敗)や、こいつに「こいつ」呼ばわりされた前原誠司のコメントが聞きたいところだが、こいつはなんと前自民党衆院議員の杉村太蔵(通称「タイゾー」。現お笑い芸人)にまで批判された。
しかし、さらに呆れるのは「2ちゃんねらー」がこいつを支持して芸能人をバッシングしていることだ。この事態を知って私は2004年の「イラク人質事件」における人質バッシングを思い出した。あの時の「自己責任論」はひどく、自民党の陣笠議員が誤った風説(自作自演説)を捏造してこれを煽り、その仕掛け人は官邸であるとの複数のメディアによる報道もなされた(当時は小泉純一郎政権時代。例の強面秘書あたりの仕業か)。
今回は、野田政権はバッシング劇に直接関与はしていないが、小宮山洋子厚労相が国会で生活水準の保護引き下げを示唆する発言を行った。これでは極右野党の極右政治家に「戦果」を与えるようなものである。そもそも「大連立政権」を目指しているとされる野田政権こそ「ファシズム志向」の最たるものだろう。しかし、朝日新聞も毎日新聞も社説で民主党と自民党は互いに歩み寄れと何度も何度も書き続けている。
事態は、「イラク人質バッシング」が起きた2004年当時よりも、ずっと悪化しているように思われる。
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