野田内閣発足直後の動きから推測して、野田佳彦首相は、積極的な原発推進論者であることは確実だろう。しかし、世論は急速に「脱原発」へと傾きつつある。永田町と霞ヶ関と大手マスコミの論調でしか感覚をつかめなかった「野ダメ」首相は、まさかこんなに原発に対する国民の忌避感が強まっているとは計算違いだったのではないか。
政権では、枝野幸男経産相の動きが定まらない。「原発維持」側に舵を切ったかと思うと、翌日には「脱原発」側に歩み寄るなど、動きがクルクル変わる。菅政権の内閣官房長官時代からそうだった。
東京電力はというと、そんな「野ダメ」民主党政権を見限って、早くも自民党の政権奪回に期待を託しているかのように見える。以下、毎日新聞記事(下記URL)から引用する。
http://mainichi.jp/select/biz/news/20120129ddm003020136000c.html
電力会社・崩れる牙城:強気の東電、「改革」迷走 「選挙なら下野」民主政権の足元見透かす
◇幹部「値上げで1兆円稼げる。資本注入など必要ない」
東京電力が17日に発表した企業向け電気料金の「不意打ち値上げ」。3月の東電改革決定を見据え、「東電国有化」を巡る政府との水面下の攻防が激化する中、吹き始めた「衆院解散風」をにらんだ思惑も交錯する。
◇
「どこかの時点で腹を割って議論しなければ前に進みませんよ」。値上げ発表の4カ月ほど前、仙谷由人官房副長官(当時)は西沢俊夫社長に告げ、東電説得に乗り出した。
仙谷氏は東電改革の政権側のキーマンと目されている。政府を離れ、民主党政調会長代行となったいまも、ひそかに東電の勝俣恒久会長に接触。公的資本注入後の東電の将来像について意見を交わしてきた。
東電は福島第1原発の事故で原発を稼働できなくなり、火力発電の燃料費増加で経営環境は厳しさを増す。経営破綻に追い込まれれば、電力の安定供給や原発事故被害者への賠償が滞る。政府が描くのは、1兆円規模の公的資本を注入し、議決権の3分の2を取得して経営権を握る「実質国有化」だ。
東電改革の素案には電気料金値上げや原発再稼働で収益を改善することも盛り込まれているが、「国民の理解」が大前提だ。民主党関係者は「東電には死んだふりをしてもらう」と政権主導の改革を目指す。
ところが、東電はシナリオ通りには動かなかった。勝俣会長は政府関係者に「政府が議決権の3分の2を持つのだけは勘弁してほしい。50%以下でお願いします」と譲らず、年末年始をはさんだ交渉は難航する。
議決権の3分の2を政府に与えれば人事権まで明け渡すことになる。公的資本受け入れは不可避とみる首脳陣の中にも「屈辱的な事態だけは避けたい」という組織防衛の意識は強い。
東電幹部の間では資本注入にすら否定的な声がなおくすぶる。「料金値上げを実施すれば1兆円は稼げる計算になる。そうすれば政府からの資本注入など必要ない」。勝俣会長は年明け以降、「料金値上げは必要だ」と政府側に繰り返し、政府関係者は「建前論が先行して話が前に進まない」と焦燥感を募らす。
「民主党に好きなようにやられるなら東電の方からひっくり返せばいい」。東電幹部は最近、接触を重ねる自民党政権下の閣僚経験者らに言われた。賠償責任を負わずにすむ「会社更生法の申請」の打診だった。
別の幹部は漏らす。「選挙になれば民主党は下野するだろう。そんな政権に経営権を委ねるわけにはいかない」。消費増税問題を抱え、支持率低下にあえぐ野田政権の足元を見透かすように強気の姿勢をみせる。
◇発送電分離も失速
「東電は置かれた立場をわかっていない」。原子力損害賠償支援機構幹部はいら立ちを隠さない。1兆円規模の公的資本注入方針は固まりながらも、東電改革が迷走するのは、政府内にも温度差があるためだ。
「国が経営権を握ることでリスクも生じる」。政府内には料金値上げや原発再稼働に慎重な枝野幸男経済産業相に対し、原発事故が再発した場合に国の責任になることや、値上げなどをせずに東電の経営改善が進まない場合の国民負担増を懸念する財務省などに経営権を握ることへの慎重論があるという。
「東電国有化」への政府の動きがまとまりを欠く中、改革の目玉のはずの発電部門と送電部門を切り離す「発送電分離」も勢いを失いつつある。「国民から抜本的な改革を求められている」。東電改革の陣頭指揮をとる枝野経産相は昨年12月、こう強調した。電力業界では「送電部門を資本関係のない別会社にする『所有分離』まで踏み込まなければ現状と変わらない」(電気事業連合会幹部)というのが定説。政府内の改革急進派は「所有分離」を有力視した。
現在の制度では送電部門の会計を発電部門と分ける「会計分離」を採用。経産省内には「東電という会社をこの世から消すための発送電分離が必要だ」として、東電の送電部門以外を売却する「解体案」も検討された。
しかし、現在、政府内で検討されているのは、送電部門の運用を電力会社から独立して設置する公的機関に委ねる「機能分離」案。政府内の検討の結果、「民間資産を強制的に切り分けるのは、私有財産権の侵害になる」(経産省幹部)として「所有分離」への慎重論が浮上。残る選択肢の送電部門を分社化して東電の傘下に置く「法的分離」では「一体運営の延長」との異論が続出、消去法的に機能分離が有力となった。独立性をどこまで貫けるかが焦点だが、政府内では公的機関に電力会社から出向させることも案として浮上。東電の影響下に置く形態になれば、改革は骨抜きになる可能性も残る。
「福島の賠償を優先させるためにも、発送電分離は先送りだ」。今月上旬、交渉を担当する政府関係者は東電幹部にこう告げた。衆院解散・総選挙が視野に入る中、「制度改革は賠償問題が落ち着いた後に時間をかけてやる」(政府関係者)と、先送りムードが高まっている。
「消費税しか頭にない今の政権に発送電分離をやり遂げる強い意志も力もない」。発送電分離に積極的な経産省幹部はあきらめ顔だ。東電改革は出口の見えない迷路に入りつつある。【斉藤信宏、三沢耕平、野原大輔】
(毎日新聞 2012年1月29日 東京朝刊)
確かに、野田首相は「消費税(増税)しか頭にない」ように見える。民主党代表選や総理大臣就任直後の頃とは全く違って、思い詰めたような険しい表情をしている。それを見ていると、野田首相が真面目な人であることだけはわかる。おそらく、「消費税増税こそ日本の将来のために自分に課せられた使命」だと信じているようだろう。それは間違った信念だと私は思うが、そういう人だからエスタブリッシュメント層は総理大臣に据えたかったのだ。
昨日(29日)、安住淳財務相がテレビ番組で消費税を税の柱にしたいと発言したのを聞いて私は驚いた。アメリカのような「小さな政府」の国にもヨーロッパのような「福祉国家」にも当てはまらない行き方だからだ。
たまたま昨日から経済学者・八代尚宏が昨年書いた中公新書の『新自由主義の復権』を読み始めた。自ら堂々と「新自由主義」の立場を標榜する八代は、第1章「新自由主義の思想とは何か」に下記のように書いている。
また、不況期の景気対策で拡大した財政赤字が、次の好況期の税収増による財政黒字で相殺されれば、景気循環を通じた財政収支は均衡を維持できる。しかし、長期的な財政収支の均衡が成り立つためには、よほどの財政規律が必要とされる。現実には、多くの政治家は不況を理由に財政支出を増加させることには熱心でも、景気が回復した後の税収増は国債の償還にではなく、新たな歳出の増加に向ける行動が一般的である。ケインズ理論は、暗黙のうちに賢人政治を前提としていたが、これが成り立ちにくいのが、とくに日本の政治の現実である。
ケインズ政策は、指導者が賢人でなければ成り立たない。それに対して、新自由主義の立場から考えれば、単なる需要不足の段階では、政府は何も行動せず、財政の「自動安定化装置」に委ねるのがよい。これは、累進的な所得税制では、好況期に所得が増えれば自動的に税収が増加(増税)となり、不況期には逆に減税となる。また、不況期に失業者が増えれば、自動的に失業給付という歳出が増える一連の機能を指している。
こうした自動安定化装置の範囲を超えた財政政策を超えた財政政策を発動することは、景気の先行きへの不安が蓄積し、総需要がどこまで減少するか不確実性が高まるような状況に、極力限定する。(後略)
(八代尚宏『新自由主義の復権』(中公新書, 2011年)24-25頁)
読んでいて、さすがは「新自由主義」を自ら掲げる著者だけのことはあると思った。「小さな政府」の税制をとるアメリカの税制は直接税が中心になっており、著者もそれを志向しているのだろう。
一方、ヨーロッパの福祉国家では消費税の税率が高いが、これは消費税の税収が景気に左右されにくいことと関係があって、コンスタントな福祉・社会保障のためにはそういう性質を持った財源も必要ということだ。だから私も消費税自体を否定するものではなく、将来的には消費税増税も必要な局面に至ると考えている。
しかし、それも所得税や法人税がまともに機能していての話だ。「バブル景気」の頃の自民党政権、特に竹下登内閣が「バラマキ」を行い、所得税を減税して景気の「自動安定化装置」の機能を毀損してきた。中曽根康弘ともども、竹下登に対する批判はこれまで十分なされてこなかったのではないか。そして人脈的にこの竹下とつながる人物として、言わずと知れた小沢一郎もいる。小沢も、バブル時代の自民党政権下で自民党幹事長を務めた(海部俊樹内閣時代)。その小沢一郎の当時からの現在までの変わらぬ持論が「所得税と住民税の大幅減税」であることに注意したい。ただ、当時の小沢は同時に「消費税の大幅増税」を主張していたが、現在ではその主張は隠している(本音では当時と変わっていないと私はにらんでいるけれど)。
現在の野田政権は、毀損された所得税の「自動安定化装置」機能の回復もそこそこに、消費税増税にばかり血眼になっていて、それが安住淳の「消費税を税の柱にする」発言につながったのだろうが、アメリカのように直接税中心でもなければ、ヨーロッパのように直接税の税収が景気に左右されやすい欠点を補うために直接税と消費税を両輪とする税制でもない、世界に他に類を見ない日本独自の「専ら消費税に頼る税制」を目指すということなのか。景気の自動調節機能を持たず、単に大富豪(土豪)や大企業に優しく弱者に厳しいだけの「いんちきネオリベラリズム」ともいえそうな「トンデモ税制」の下では、いつまで経っても景気は回復せず、格差が拡大して貧困に陥る国民が増えるだけだろう。
そして、民主党政権もマスコミも「消費税増税のためにまず身を削る」などと言っているが、噴飯ものだ。公務員の人数削減とはすなわち公共サービスの縮小であり、公務員給与の削減によって間違いなく民間の給与も連動して下がるし、国会議員の定数削減は「民意の切り捨て」にほかならない。特に、民主党が2009年総選挙のマニフェストにも掲げた「衆院比例定数80削減」は愛媛新聞も書く通り論外であり、いくら「マニフェストに書いてあることはやるんです」と言ったにせよ、これに関しては前言を翻してもらって大いに結構だ。
いや、原発の件にしても、民主党は小沢一郎代表時代の2007年に、それまでの「原発を慎重に推進」から「積極的に推進」へと政策を転換した。それだって、東電原発事故という現実を前にして、事故前には原発の輸出に前のめりだった前首相の菅直人が「脱原発依存」へと政策を転換した。野田首相はそれを再転換したいようだが、いっこうに原発事故が収束しない現状は、野田首相の思惑とは逆に、菅政権時代の「脱原発依存」からさらに一歩踏み込んで「脱原発」へと進むことを求めている。
野田首相の政治的体質からしてあり得ないとは思うが、野田首相が税制と原発に関する政策を転換しない限り、次の総選挙でこの2点に関して民主党よりひどい論外な政策をとるであろう自民党が政権に復帰するか、さもなくば橋下徹が国政に進出してきて日本を焦土にしてしまうだろう。
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK201201210008.html
維新の会、衆院200議席を目標 300人擁立を検討
大阪維新の会は、次期衆院選で200議席の確保をめざし、300人規模の候補者擁立に向けて準備を進める方針を固めた。大阪都構想の実現に必要な法改正が国会で成立しない場合に備えるもので、3月に立ち上げる「維新政治塾」などで候補者の養成を急ぐ。
維新の会関係者によると、公明党やみんなの党のほか、自民党の一部などと選挙で連携することを視野に入れているという。
同会代表の橋下徹大阪市長らは昨秋のダブル選後、近畿一円で衆院選の候補者擁立を検討すると表明。当初は各党に法改正への協力を求めて揺さぶりをかける狙いが強かったが、衆院で過半数を占める民主党の協力が得られる見通しが不透明なことを懸念。都構想実現には地方自治法改正に加え、様々な関連法の改正も必要なため、国政で独自の勢力を作る方向へかじを切り始めたとみられる。
(asahi.com 2012年1月21日)
ネットでは、大阪市長・橋下徹について「大阪の地方知事の話だからよそ者が口を出すべきではない」とわかったような口をきいて論評を避ける人たちもいるが、こうして「大阪維新の会」が公然と国政進出を口にし始めた以上、どこの地域の住民であろうが、橋下についてバンバン意見を発信していく必要があると思う。
橋下徹が注目されるようになったのは、毎回のように書くけれども府知事選に立候補する前年に出演したテレビ番組で山口県光市母子殺害事件の弁護団に対する懲戒請求を煽ったことだが、当時から橋下はテレビを利用する名人だった。だから、作家で元共同通信記者の辺見庸は2008年に橋下を「テレビがひり出した排泄物にしか見えない」と論評した。月刊『現代』2008年4月号の巻頭言「潜思録」に書いているし(のち単行本『美と破局』=毎日新聞社, 2009年=に収録)、2008年に大阪で行なわれた講演会でも辺見は同じ表現を用いていた。
当時、「リベラル」ないし「左派」のブログではどうだったかというと、光市母子殺害事件の弁護団懲戒請求の時には、いくつかの「人気ブログ」が犯人への死刑を煽り立てていた影響か、橋下への批判はさほど強くなかった。しかし、2008年の大阪府知事選の時には、のちに「小沢信者」に転じる人たちも合わせて、みな橋下を強く批判していたものだ。選挙はふたを開けてみると橋下の圧勝だったが、民主党・社民党・国民新党が推薦した対立候補・熊谷貞俊(現民主党衆院議員)の敗因を熊谷の「上から目線」のせいだとする珍論評が現れたことが印象に残っている。つまり、もっともっと熊谷は橋下に対抗して「ポピュリズム選挙をやれ」と言っていたのだった。
それから4年。「小沢信者」のブログも橋下に対する態度はさまざまだ。かつては橋下を強く批判していたのに、今では「橋下の方が平松邦夫を上回っていた」と評価する人間。それ以上に橋下を強く支持し、橋下と小沢一郎が組むことを待望する人間。また、橋下に対する態度を4年前と変えず、小沢は支持するけれども橋下を強く批判する人間。
しかし、4年前と態度を変えていない人間も、小沢一郎が橋下徹にすり寄っている現状について一言も触れない。小沢が橋下にすり寄っている事実を「なかったこと」にしてしまっているのである。それが単に「小沢信者」にとどまるのならまだ良いけれども、そうではなくせいぜい「小沢支持」に過ぎない人間にも同じことが言える。なぜ、せめて「小沢さんを私は支持しているけれども、橋下市長にはすり寄らないでほしい」くらいのことが言えないのかと不思議でならない。おそらく強い「同調圧力」があって、表現を「自己規制」してしまっているのだろう。
同様のことが橋下徹そのものに対する態度にまで拡張されているのが昨今だと思う。前記の辺見庸が今では休刊(廃刊)になっている月刊誌『現代』に書いたコラムで橋下を、
と論評しているが、ごく一般的な用語でいえば橋下は右翼にして新自由主義者である。そういう片づけ方をするなという意見がよく見られるが、それはおかしい。そのような「右翼で新自由主義者」の橋下がなぜ支持されるのかということを考えなければならない。日本のいちばん情けないところは単独で戦争ができないことだの、核武装肯定だの、ニートには拘留のうえ労役をかすだのと、まともな議論以前のいわば戯論の主である。
当然だが、右翼が支持されているのでも新自由主義が支持されているのでもなく、橋下徹が支持されている。「左」側の誰も橋下を突けないとよく論評されるが、そういう意見にも「したり顔の批判」だと思ってしまう。というのは、そういうことを言う人自身も橋下を突けていないからである(むろん、橋下を支持する側の人間が発する言葉であるなら話は別だ)。反対側の誰もが橋下を突けていないからこそ、橋下は多くの人々に支持されている。
そして、もっともおかしいと思うのは、「たとえ橋下徹でも認めるべき点は認めるべきだ」という意見だ。そんなのは当たり前のことであって、ことさらに強調するような話ではない。もちろん一部の「小沢信者」のように、小沢一郎自身が「脱原発派」でも何でもないことを棚に上げて「橋下は本当の『脱原発派』ではない」と言い募る者もいるが、それならなぜお前は自公による菅内閣の不信任案提出を煽り、民主党代表選で海江田万里を推した小沢一郎を支持するのだと言うだけの話だ。蛇足ながらさらに遡ると、2007年に民主党のエネルギー政策をそれまでの「慎重に推進」から「積極的に推進」に転換した当時の民主党代表も、さらに遡って1991年の青森県知事選で保守分裂選挙区になった時、現地入りして劣勢と見られていた原発推進派候補を応援して現地の企業など自民党支持層を締め上げ、推進派候補を逆転当選させた当時の自民党幹事長も、ともに小沢一郎である。
そんな小沢一郎が、たまたま5年前の参議院選挙当時の民主党代表であり、安倍晋三総裁の自民党に参議院選挙で圧勝した実績があるからといって崇拝するようになったのが、いわゆる「左」系の「小沢信者」であり、彼らは仲間うちで小沢信者に対する批判が一切許されない空気を作り上げた。最近、橋下を批判しているある「小沢信者」のブログを見ていたら、小沢に対して言いたいことはたくさんあるとかなんとか書いていて、私は暗に小沢が橋下にすり寄っていることなどを指しているのではないかと邪推したのだが、そのブログも具体的に小沢を批判はしていないのだった。
だが、上記のような「小沢信者」は、日本全体で見れば異端のごく少数派である。マスコミはむしろ小沢一郎批判が状態であるのは周知の通り。だから、「小沢信者」が仲間うちで批判を自粛し合っていても、それは連中の異常な体質を浮き彫りにするだけで実害はない。
私が危惧するのは、それと同じような空気が「橋下徹」をめぐって形成されたらどうなるのかということだ。
マスコミは橋下徹を批判しない。「みんなの党」や公明党を筆頭に、自民党や民主党も橋下徹にすり寄る。民主党の場合特に反執行部系の小沢派が橋下すり寄りにご執心だ。そんな状態で、数少ない橋下批判勢力である「左派」が、「たとえ橋下徹でも認めるべき点は認めるべきだ」などと言っていてどうすると思うのである。なんでそんなに「ものわかりが良い」ポーズをとりたがるのか。そこから生み出されるのは、橋下への批判が一切許されない「大政翼賛会」づくりではないのか。
私もかつて、現在の「小沢信者」たちが集っているブログ村、かつては「AbEnd(安倍晋三終了)」とか「自End(自民党終了)」などと言っていたが、そこの村民だった。その村では、城内実を持ち上げるムーブメントが起こり、私はそれを批判した。結局小沢一郎を批判したことで私は「村」を出たのだが、村内の城内実擁護派は、最後には2008年の国籍法改正をめぐる城内実の許されざる差別発言さえも擁護し、「城内実さんは『9条護憲派』だ」などと口走るに及んだ。
「橋下市長の『脱原発』を応援しよう」という左派のかけ声は、いずれ教育基本条例までも左派が「擁護」ないし「容認」することに転化させる推進力にしかならないのではないかと危惧する。
私はかつて「『わかりやすさ』の落とし穴」について繰り返し書いたが、今では「『ものわかりの良さ』の落とし穴」の方がもっと恐ろしいと思うに至っている。
少し前なら、このことで東京新聞をほめたたえていたかもしれないが、残念ながら今はそういう気分ではない。東京新聞論説副主幹の長谷川幸洋は高橋洋一や古賀茂明に近い新自由主義者だが、最近では橋下徹を持ち上げているからだ。つまり、前回にも書いた「脱原発」が「ハシズム」に回収される結果になりかねないと考えると憂鬱になってしまうのである。
もちろん、野田佳彦(「野ダメ」)流の財政再建至上主義に傾く朝日や毎日に「脱原発」が回収されるのも歓迎できないが、野田政権は今でも原発維持に強くこだわっているから、この政権が「脱原発」の主流となることは考えられない。消費税増税問題で支持を落としてこの政権が終わった時、次にくるものが何かということである。私は、それは「みんなの党」や橋下が中心になった政治勢力になるのではないかと危惧している。
現在、「リベラル」や「左派」は何をやっているか。3つの悪例を挙げるとしよう。
まず「小沢信者」。昨年は自公による菅内閣不信任案提出を煽り、民主党代表選では原発推進派の海江田万里を推した小沢一郎を信奉する人たちだが、彼らの間には「脱原発」が多い。というよりいわゆる「小沢左派」はほぼ全員が「脱原発」または「反原発」派だ。彼らに顕著な傾向として、武田邦彦や早川由紀夫を信奉し、「地球温暖化仮説」を「原発推進勢力の陰謀」だと決めつけることが挙げられる。「リスク厨」が多く、何でもかんでも東電原発事故に原因を求めたがる。
彼ら「小沢信者」の代表的なブログとして知られる『反戦な家づくり』が、「脱原発」で「自然エネルギー推進」論者として最近マスコミへの露出が増えている飯田哲也氏が橋下の意にそって大阪の原発住民投票を潰そうとしているというデマをブログ記事でバラ撒いた。
http://sensouhantai.blog25.fc2.com/blog-entry-1130.html
事実は、橋下が飯田氏らに関西電力の株主提案権の行使についての方案を求めているに過ぎない。橋下は、「原発住民投票に5億円かける価値ない」とも発言しており、そんな橋下に関電の株主提案権行使について飯田氏に案を求めた、だから飯田氏も大阪の原発住民投票を邪魔するに違いないという三段論法(というか陰謀論)でデマを撒き散らしたものだ。実際には、飯田氏は大阪の住民投票の実現を期待するTwitterを発信している(下記URL)。
http://twitter.com/#!/iidatetsunari/status/156453190445969408
飯田氏は、電力自由化についても、今世紀初頭の通産省(現経産省)の電力自由化派は、実際には市場原理主義の風潮に乗ったものに過ぎず、エンロンの破綻によってあっけなくポシャったことを指摘するなど、新自由主義に対する批判的な視座も持っている。最初に接近した政治家も社民党の福島瑞穂党首だ。それなのになぜ一部の「小沢信者」が飯田氏を敵視するかというと、東電原発事故が起きた当時の総理大臣だった菅直人に飯田氏が影響を与えたとされているからだろう。要するに、「敵味方思考」でもって、属人的に価値判断をしているわけだ。そんな「小沢信者」が「脱原発」を新自由主義者のものにする手助けをしてしまっている。
なお、この件については、『kojitakenの日記』にも書いたので、詳細はそちらを参照されたい(下記URL)。
http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20120112/1326296527
2件目は、元共産党支持者だった一部の人たちが「原発擁護派」へと走っている件だ。これについては、昨日(15日)の『kojitakenの日記』に書いた。相当に不愉快な話だし、昨日書いたばかりなのでくどくどとは繰り返さない。下記にURLのみ挙げておく。
http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20120115/1326586783
最後は、さらに気が重くなる話だ。ブログ『超左翼おじさんの挑戦』が、「脱原発で頑張る橋下市長を応援しよう」と言い出していることである(下記URL)。
http://chousayoku.blog100.fc2.com/blog-entry-1051.html
「脱原発で頑張る」も何も、今や「脱原発」派の方が「原発推進勢力」よりも多数派でないか。私は、昨年秋に野田内閣の支持率が急落したのも、野田首相が「原発再稼働」や「原発輸出」に積極的なスタンスをとったからではないかとにらんでいる。支持率急落を報じる朝日新聞に、同時に原発反対派が賛成派を大きく上回り、それも東電原発事故当初から原発反対派の世論が単調増加を続けているグラフが示されていた。
新聞では、冒頭に書いた東京(中日)がもっとも「脱原発」色が鮮明で、朝日・毎日も「脱原発」。読売・産経・日経は原発賛成派だが、原発がビジネス的にますます苦しくなるであろう今後は、日経のスタンスも変わる可能性がある。イデオロギー的に、あるいは社の偉人(正力松太郎)の流れから原発に固執しているのが産経と読売だが、読者層が固定されている産経はともかく、読売が原発に固執する態度をとっていることは今後発行部数を落とす要因になるだろう。
最近は財界もスタンスにも微妙な変化が見えるようになった。とはいえ、民主党は電力総連、自民党は経団連とのしがらみが強く、なかなか「脱原発」を打ち出せない。そこで保守の側から「脱原発」のおいしいポジションを占めようとしているのが、「みんなの党」や橋下徹ではないのか。
昨日(15日)、橋下はテレビ朝日の番組に生出演した。といっても橋下が東京に出向いたのではなく、番組のキャスターがわざわざ大阪の朝日放送のスタジオを訪ねるという卑屈さで、大阪で橋下及び山口二郎をゲストに迎えて討論してもらうという趣向だった。
この番組だが、いきなり中田宏をナビゲーターとした大阪のムダなハコモノ紹介のVTRに始まり、視聴者には橋下圧勝にしか見えなかったであろう「口喧嘩」の場面のあと、突如「メザシの土光さん」を称えるVTRを流した。まさか橋下を土光敏夫になぞらえる印象操作をしようとしていたのだろうか。ともかく露骨な橋下PR番組だった。なお、土光敏夫の礼賛は最近のテレビ朝日の十八番であり、なんでも同局のOBが土光についての本を出したのだそうだが、この放送局が中曽根政権のような新自由主義改革を支持していることを示している。
私が問いたいのは、そのような番組の作りをされるであろうことは十分予測できたはずの山口二郎が、のこのこ丸腰で現れて橋下にサンドバッグのようにボコボコにされる醜態を演じたことの責任だ。私は橋下のしゃべりを見ていて竹中平蔵を思い出したが、橋下は自身のTwitterでもしきりに竹中の名前を肯定的に引用している。
「超左翼おじさん」(松竹伸幸氏)は、このように東京キー局あるいは大阪準キー局に全面的にバックアップされている橋下徹の「脱原発」を応援せよと言うのだろうか。それでは「既得権益者と戦う改革者・橋下徹」という印象操作に加担せよと言っているも同然だ。
少し前に、「脱原発」を主張したらテレビの仕事を干されたなどと言っていた芸能人がいたが、俳優としてどう見ても一流とはいえなかったその芸能人は、いまやテレビの出演機会が増えてウハウハである。もはや「脱原発」とはそういう立ち位置なのだ。少女アイドルが「脱原発」を訴えたら小沢一郎がすり寄ってきた例もあった。
また、孫正義は、前述のテレビ朝日の番組に関して、橋下を称賛して山口二郎をこき下ろすTwitterを発信していた(下記URL)。
http://twitter.com/#!/masason/status/158366808406110208
この孫正義のTwitterは、下記URLのtogetterから抽出した。リンク先をご参照いただければおわかりの通り、ほとんどのTwitterは橋下と山口二郎のバトルで橋下に軍配を上げている。
http://togetter.com/li/241876
私は、橋下が論戦に勝ったとは決して思わなかった。しかし、橋下は自らが論戦に圧勝したかのような印象を視聴者に与えることには成功したなと感じた。テレビ出演はこういう「印象を視聴者に植えつけること」がすべてである。3年前の正月に竹中平蔵と金子勝がテレビで論戦をした時もそうだった。また、7年前(2005年)の郵政総選挙の時のテレビ討論では、小泉純一郎が冒頭にいきなり切れたり、それとは別の局の番組では司会者(古舘伊知郎)が小泉びいきの司会をして共産党議員の発言を制止する場面があった。小泉純一郎も竹中平蔵も、議論に「勝った」わけでは決してなく、ただ単に視聴者に与える印象で勝った。形成が危ういと見えた場面では、司会者が「強者」を助けた。
それがテレビ討論だ。そしてテレビを制する者が最終的に権力を握る。それが橋下だ。なぜそんな「強者」が現在の日本において「多数派」であるところの「脱原発」側に立っているからといって、そのことをことさらに「リベラル」や「左派」が評価する必要があるのか。私には全く理解できない。
ただ、「リベラル」や「左派」のふがいなさなら、いやというほど痛感している。「小沢信者」みたいに陰謀論だろうがニセ科学・トンデモだろうが早川由紀夫のようなレイシストだろうが「脱原発」なら何でもOK(そのくせ彼らが信奉する小沢一郎は「脱原発」派ですらないのだが)という連中か、「反・脱原発」に走る元共産党支持者か、さもなくば「脱原発に頑張る橋下市長を応援しよう」と言う共産党関係者か、「左」側にはそんな人たちしかいないのかと思うと脱力してしまう。
かくして「脱原発」の果実は橋下徹ら新自由主義者のものになる。なんたることか。
さて、昨年末以来話題の中心となっている橋下徹だが、政界のニュースを見聞きしていると、一地方自治体の首長である橋下が、もはや与党の大物政治家より影響力の強い人間として扱われていてうんざりさせられる。たとえば、最近の小沢一郎の橋下徹へのすり寄りぶりは「異常」の一語に尽きる。もちろん小沢一郎だけではなく、野田佳彦、谷垣禎一、石原慎太郎・伸晃親子など、保守政治家がみんながみんな、橋下にすり寄る。もちろん「みんなの党」は「大阪維新の会」の「友党」気取りである。
たとえば、石原慎太郎が新党を結成して橋下と連携したいと言ったと報じられたが、これは石原が勝手に橋下にすり寄っているだけであり、必ずや橋下の拒絶に遭うと私はにらんでいる。小沢一郎との関係にしてもそうで、いまやフリーハンドは橋下の側にある。あれほど多くの者にすり寄られてきた小沢一郎が、いまや何世代も下の橋下ごときにすり寄る醜態には哀れさえ催す。
その小沢一郎は、1月8日付の朝日新聞の報道によって、他の9人の国会議員とともに、東電に「優遇」されて多額のパーティー券を購入していたことが報じられ、ますます勢いを失っているように見える。以前から「反小沢」の記事を書き続けている私は、この件でもあちこちに多くの小沢批判の記事を書いたが、「小沢信者」を含む支持者の反撃が次第に弱々しくなってきている。リアルの私の周囲にも、ひところはずいぶん声高に小沢一郎を擁護していた人がいたが、その人も今では小沢一郎のことは何も言わなくなった。
さて、橋下徹だが、橋下をどうとらえるかについては、当ブログのコメント欄でも議論が百出している。たとえば、「独裁」や「強力な指導者」という「橋下像」には批判も多い。だが、正直言って私は「指導者」としての「橋下像」の議論はさほど重要ではないと思う。最大の問題は、人々が誰に強制されるわけでもなく自発的に橋下徹に入れ込んでいることである。橋下には人々を煽動する能力があるのだ。
しばしば私が思い出すのは、2007年5月27日放送の読売テレビ制作の番組『たかじんのそこまで言って委員会』に出演した橋下が、山口県光市母子殺害事件の弁護団に対する懲戒請求をテレビで煽り、7千件以上の懲戒請求書が殺到することになった件だ。これに反発した弁護団のうち4人が業務を妨害されたとして、広島地裁に橋下の損害賠償を求める提訴をしたのだが、なんとテレビでさんざん視聴者を煽った橋下自身が懲戒請求をしていなかったことが明らかになった。
一方、橋下に煽られて懲戒請求をした視聴者が、請求の内容によっては懲戒請求をされた弁護士の側から訴えられる可能性もあることを知って青くなったことも伝えられた。橋下の煽動にうっかり乗ってしまったことを後悔した人も大いに違いないが、それについては煽動されて軽挙妄動に走った人間の責任も重い。それこそ、新自由主義者の大好きな「自己責任」である(笑)。
その橋下が大阪府知事を経て今では大阪市長だ。政治や社会の閉塞状況を利用する橋下は、1月8日付朝日新聞にインタビューが掲載された内橋克人の言葉を借りれば、大衆のニーズに応えて「うっぷん晴らし政治」を展開する。橋下による「公務員バッシング」はその最たる例だ。大阪府や大阪市の正規職員と非正規職員の給与格差が大きいなど、改善すべき問題はあるだろう。しかし、大阪府知事時代の橋下がその問題にまともに取り組んだかというとそうではない。橋下は府知事時代の1年目に、さっそく約350人の府立高校の非正規職員の首を一度に切った。「権力」と戦うポーズをとりながら、その実もっとも弱いところからいじめていくのが橋下の手口である。
ところで、内橋克人は「ハシズム現象」は「貧困マジョリティー」(国民皆年金など基礎的な社会保障からさえも排除された人たちが形成する多数派)の心情的瞬発力に支えられている面が大きい」と言うのだが、もちろん「ハシズム」が浸透する原因はそれだけではない。
2007年の光市母子殺害事件の弁護団懲戒請求の時もそうだったように、電波媒体が煽っている5年前は読売系の在阪テレビ局だったが、今ではキー局がこぞって橋下を出演させている。特に目立つのはテレビ朝日であり、しょっちゅう橋下翼賛番組を流している。古舘伊知郎にいたっては、橋下のプロパガンダ要員も同然だ。
小沢一郎が力説する「政治主導」や「官僚支配の打破」も、簡単に「公務員の既得権益」へのバッシングに転化してしまう。実際、小沢一郎自身が「私の考えは橋下市長と同じ」と言って橋下に露骨にすり寄っている。もちろん橋下にすり寄っているのは何も小沢一郎に限らない。
これらもよく考えてみれば奇妙な話で、マスコミ、特に電波媒体ほど「既得権益」に守られている業界はないわけだし、政治家たちはそもそも「権益」を付与する側の人間だ。その政治家が口を開けば「官僚ガー」「霞ヶ関ガー」と言うのは、何かおかしくないか。たとえば小沢一郎は大震災に被災し、東電原発事故に遭遇した福島県民は霞ヶ関取り巻くデモ起こしてもいいと言うのだが、なぜ取り囲むのは経団連や小沢一郎のパー券を多額購入した東電本店ではなく霞ヶ関なのか。もちろん、経産省も「原子力ムラ」の中枢の一つだし、財務省のデフレ政策志向が日本経済の足を引っ張っているし、「天下り」は怪しからんと私も思うけれども、マスコミや政治家たちは結局「公務員叩き」へと話をすり替えてしまうのだ。
公務員の給与の問題にしても、同一価値労働同一賃金の原則に従って、お役所にも多い非正規雇用者への賃金を引き上げて、その分正規職員の賃金を引き下げることはあっても良いと思うけれども、その代わりに公務員に労働基本券を付与することは絶対に必要だ。ところが、自民党と公明党はこれに頑強に抵抗した。民主党の「野ダメ」政権もひどいものだけれども、自公はやはり本家本元。今後、仮に総選挙で民主党政権が倒れても、そのあとにくるのが自公政権の復活だとしたら、日本の将来は真っ暗闇だ。
そうなるとますます橋下徹への待望論が高まるのだろうけれど、橋下を大衆が担ぎ上げることこそ「ファシズム」そのものだ。何も橋下が独裁者だというのではない。「ファシズム」(伊: fascismo)の語源はイタリア語の「ファッショ」(束(たば)、集団、結束)ということだから、ファシズムは橋下に内在するのではなく、橋下のような人間を担ぎ上げようとする大衆に内在する。そしてその大衆を煽るのがマスコミであり、橋下にすり寄る政治家たちだ。たとえば小沢一郎だって、立派な「ファシスト」なのである。始末に負えないことに、そんなマスコミや自身に群がる政治家たちをいいように利用するのが橋下徹という男なのだ。
橋下の大衆煽動の手口についてもう少し書くと、たとえば西洋の古典芸術(オーケストラ)や日本の伝統芸能(文楽や能楽)に対する橋下の敵意は、それらに接することが日々ほとんどない人たちに対する、愛好家たちへのルサンチマンを刺激することを意図している。「特権階級を叩いてくれる橋下市長」への支持を高める効果を狙っているわけだ。前述の光市母子殺害事件の弁護団も、現在橋下がTwitterで狂ったように叫んでいるらしい中島岳志、山口二郎、浜矩子に対する非難も同様だ。「特権階級」たる弁護士や大学教授たちを叩くことで、人々のルサンチマンを刺激しているのである。
さらに困ったものだと思うのは、いまや「脱原発」にせよ「反貧困」にせよすべての運動が「ハシズム」に回収されかねない様相を呈していることだ。たとえば、唯一エネルギー問題にのみ見るべきところのある(他は全く評価に値しない)新自由主義者の古賀茂明は橋下のブレーンだし、「反貧困」の矛先も、なぜか経団連や「金融資本主義」にではなく、「霞ヶ関」に向かう。「反貧困」運動もずいぶん変質してしまったと思う。
内橋克人は「『うっぷん晴らし政治』ではなく、世界のモデルに目を向け、食糧、介護、エネルギーの自給圏(内橋氏の言うところの「FEC自給圏」=foods, energy, careの自給圏)を志向すべきだ。地味でもいいから、グローバル化の中で、それに対抗できる『新たな経済』を作ることが本当の政治の役割だと思う」と言うのだが、そのような地味な主張には大衆は食いつかず、橋下のような「煽り政治」にばかり熱狂するのだからどうしようもない。この流れを止める妙案など、私には思い浮かばない。
さりとて自民党も支持を回復しているとはいえないから、現時点で解散総選挙があったら少しの民意の差を拡大する選挙制度に助けられて自民党が安定多数を確保し、政権再交代が起きるだろうとは思うものの、それは「民主党よりマシだろう」と有権者が思ってのものに過ぎず、その程度の期待さえ裏切られることは確実だから、結局内閣が発足して3か月ほどのうちに支持率が下落することになる。そして、自民でダメ、民主でダメ、それで自民に戻してもやっぱりダメ、となって、ますます「強力な指導者」への渇望が強まるのだ。
現状の延長ではそうなることがわかり切っているから、年末年始の番組では「2012年のキーマンは橋下徹だ」と多くの識者が橋下待望論を口にするようになった。NHKでかつて『週刊こどもニュース』の解説者をやっていた池上彰などもそうだ(調子の良いことばかり言う男だと思う)。
昨年末に民主党を離党した9人の国会議員が今日1月4日に結成を届け出るらしい「新党きづな」(「きずな」と命名する予定を急遽変更したとのこと)も、そんな橋下にすり寄ろうという気満々に違いない。
昨年の暮にこの9人が民主党を離党した時、一昨年の総選挙を前にして毎日新聞が実施したボートマッチ「えらぼーと」に対する9議員の回答を分析してみた。その結果の一部を『kojitakenの日記』の昨年12月29日付記事「『泥舟』から逃げ出す民主党比例区選出議員たちの『方舟新党』は、軍事タカ派にして新自由主義に親和的な『トンデモ政党』になる!!!」に書いたが、要するに政治思想、経済政策ともに「右」に位置する人たちが民主党を割って出た形になっている。中には、東海比例区選出の2人や近畿比例選出議員のうちの1人のように、企業・団体献金の全面禁止や製造業への派遣禁止に反対していた、つまりもともと民主党のマニフェストに反する主張を持っていた人たちもいる。こんなのが新党を構成する9人のうち3分の1を占めているのである。そして笑えるのが、選挙後の議員の政党鞍替えを「問題だ」としていた議員が9人中8人を占めることだ。こんな、ただ単に国会議員の座を守りたいだけの志の低い人たちが、名は体を表すどころか正反対ともいえる「きづな」なる名前の新党を立ち上げるのだから、噴飯ものの一語に尽きる。
もっとも、昨年(2011年)の流行語にもなった「絆」という言葉自体に、自民党が「絆 KIZUNA がんばろう日本!」というキャッチフレーズを用いていたことにも反映されているように、「自己責任」とは言わぬまでも、公共サービスよりも家族や友人などの「絆」による助け合いで立ち直っていこうと思想が含まれるという指摘が昨年からあった。これを考えれば、新自由主義者や大企業寄りの考え方を持つ人たちが多く、民主党の中でも「右」に位置する人たちが集まった「新党」にふさわしい名前といえるかもしれない。そんな彼らが橋下徹にすり寄らないと考える方が不自然だが、橋下の方がこんな連中を相手にしないのではないか。
橋下徹と相性が良いのは、むろん「みんなの党」である。橋下に党代表の渡辺喜美を見くびっている気配があるとはいえ、高橋洋一、飯田泰之、古賀茂明といった学者や官僚たちと「みんなの党」と橋下徹の3者は、どう見ても相性が抜群だ。ジャーナリストでは、東京新聞論説副主幹の長谷川幸洋がこの流れだが、年始の討論番組で長谷川は明確に橋下待望論を口にしていた。
橋下、みんなの党、長谷川幸洋らの共通点としてもう一点挙げられるのが「脱原発」である。本当はコスト的にも割に合わない発電方式を「国策」で無理やり推進してきたのが原発だから、「脱原発」と「新自由主義」はもともと相性が良いのである。昨年議論になったもう一つのイシューである「TPP」への反対論が「政治思想右派」というか国家主義と相性が良いことと好対照である。自民党でも河野太郎のような新自由主義者が「脱原発」に熱心で、稲田朋美のような極右が「TPP反対」に熱心である一方、平沼赳夫・安倍晋三・鳩山由紀夫ら右派は原発維持・推進に熱心で(城内実は「脱原発」を主張しているが、これはパトロンのスズキ自動車会長・鈴木修の意向を反映していると見られる)、「みんなの党」はTPP推進を主張していることを想起されたい。
ところが、上に見たように「新自由主義」と相性の良いはずの「脱原発」の立場を民主党も自民党もとらない。東日本大震災に伴って発生した東電原発事故で、時の首相・菅直人は「脱原発」に舵を切ろうとしたが、党内の圧力によってすぐに「脱原発『依存』」に後退した。自民党総裁・谷垣禎一に至っては、東電原発事故発生直後にエネルギー政策の見直しを口にしたが、すぐに党内の猛反発にあって発言を撤回した。それほど、民主党も自民党も原発利権とのしがらみが強い。民主党は電力総連、自民党は電事連にそれぞれ逆らえない。今まで、本来は新自由主義的な勢力と相性の良いはずの位置を占める政治家がほとんどいなかった。こんな状況は、「みんなの党」や橋下徹にとってはまことに好都合だろう。
今年を回顧する時期になっても、東電原発事故の収束の見通しは相変わらず立たず、原発事故への対応は相当な長期戦になるという認識はますますはっきりしてきて、国民の間の「反原発感情」は今以上に強まっているだろう。そして、いつまでも原発維持にこだわる野田佳彦は、遅くとも9月の代表選で敗れて退任し、次の総選挙での勝利が必定と見る自民党の政治家たちも、9月の総裁選で谷垣禎一を降ろしている可能性がかなり高い。小沢一郎は政局をかき回そうといろいろ動くけれども、決定打は出せないのではないか。政界はますます混乱し、橋下徹への期待感がますます高まっていく。政党支持率では「みんなの党」が伸びる。
2012年はろくな年にはならないという展望しか、今は持ち得ない。
本年が皆さまにとって良き年になりますよう、心より祈念いたします。
当ブログは旧年までに引き続きマイペースで更新していきたいと思いますので、よろしければお付き合いください。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
2012年元旦
「きまぐれな日々」 管理人 古寺多見(kojitaken)