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きまぐれな日々

10月最終週になって、ようやく月曜日にブログを更新する。今月は、8日から10日までの3連休のあと体調を崩した。老化の表れだろうと思うが、政治については閉塞感が強くて文章を書く意欲がなかなか起きないためもあって、当ブログも週1回だけの更新が2週続いた。

新聞を見ると、野田政権は「TPPのあとは消費税増税」と決めているらしく、12月には一気に消費税増税が政治の焦点になると思うが、現在はTPPが焦点になっている。

TPPについては、読売・産経・日経も、朝日・毎日・東京(中日)もすべて前のめりの大賛成。マスコミの「翼賛」の追い風を受けた野田政権は「推進」をブチ上げた。

ところが、TPPに関しては原発問題とは異なる勢力分布になっていて、「右」側からの反発が非常に強い。保守が強い地方で反対論が強いためだ。そこに目をつけたのが保守メディアであり、産経が「TPP推進」に舵を切っているためにおいしいポジションが空いていることに彼らが目をつけないはずがない。産経の『正論』と並ぶ極右月刊誌『WiLL』の最新号には最近話題の保守派TPP反対論者・中野剛志(経産省から京大に出向)が載っている。中野は経産省の人間だからバリバリの原発推進論者だが、TPPに対する反対論はきわめて強硬だ。

同様のスタンスの政治家は多い。あの「たちあがれ日本」の平沼赳夫もそうだ。この男は20年前から「地下原発推進議連」のボスだが、TPPには反対の立場。平沼の選挙区は岡山県北の3区である。福井1区の稲田朋美もTPP反対だ。もっとも稲田は福井県選出議員でありながら原発問題はあまり語らない。城内実も10月15日付のブログを見る限りTPP反対論。URLに "tanigakitpp" という文字列を使っており、記事のタイトルは「自民党谷垣総裁TPPに前向き?」。そして記事本文では下記のように書いている。

 今朝インターネットのニュースで自民党の谷垣総裁がTPPに前向きだとの報道があった。
 民主党の代表であり、わが国の総理大臣である野田総理が検討すべしとの決断を下した矢先、それに迎合するかのような態度はいかがなものか。
 いっそ谷垣自民党総裁は野田民主党と大連立でも申し入れたらどうだろうか。
 TPPについては、国民の間での議論が十分に議論されていないのにかつての郵政民営化と同じようにあたかも「バスに乗り遅れるな」のような感じで議論されている。経団連はもちろん賛成であろう。しかし、残りの95%の中小零細企業はどうなのか。労働組合をかかえている民主党が経団連の立場に立ってTPPを推進なんて本当に狂気の沙汰である。かつてのどこかの歴代総理のように、アメリカのご機嫌をうかがって長期政権をめざしているのであろうか。
 TPPは日本の農業解体だけでなく、医療や雇用にまで及ぶ。
 これまで日本で通用したルールが全て外の某勢力の都合の良いようになるのだ。二世三世四世や旧大陸系の国会議員にとってはどうでも良いことであろう。しかし、今アメリカでおこっているデモの意義がわからないような国会議員が多くて困る。
 世界の流れからもっと日本人は学ぶべきではないか。
 なぜ日本が円高なのか。これだけで、裏のからくりがわかるようなものだ。いろいろいえないことがあるが、もう少し真相に迫ってほしい。

(2011年10月15日付城内実ブログ「自民党谷垣総裁TPPに前向き?」より)


「反城内実」をウリの一つにしてきた当ブログが城内実のブログを肯定的に引用するなんて「世も末」だとわれながら思うが、城内実が書く通り、「バスに乗り遅れるな」式の、問答無用の押し切り方をしようとしているのが野田(「野ダメ」)政権であり、マスコミ大連合だ。だがあまりに強引で理不尽なので、社共の左翼も「たちあがれ日本」や稲田・城内などの極右もTPP反対論を唱え、昨年の参院選において地方で民主党から議席を奪って勝った自民党の谷垣禎一総裁も腰がふらつき始めている。そこを強硬突破しようとしているのが野田佳彦と前原誠司の「松下政経塾」コンビである。毎回書くけれども、あれほど菅直人の人格攻撃をしたマスコミは野田政権批判を全然やらない。

私がもっとも「気味悪い」と感じるのは、マスコミの翼賛報道と、それに乗って国民に何の説明も果たさないままTPPに突っ込もうとする野田政権だ。野田佳彦自身はおそらく「安全運転」をしているつもりなのだろうが、安全だと思って走っている道は行き止まりの道なのだ。それを感じる人間が少なくないからTPPで政権がきしむ。

ここでいったん話題を変える。
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1970年代から80年代にかけて内橋克人が『夕刊フジ』に連載した『匠の時代』は当初サンケイ出版から出版され、のち講談社文庫に収められて、今年4~9月に岩波現代文庫から出ている。製造業の技術者たちが苦労して製品を開発した話が中心で、ひところNHKテレビで放送されて人気を博した『プロジェクトX』を先取りしたともいえる著作だ。

岩波現代文庫版では今年新たに書かれた「緒言」が付記されているが、全6巻の後半3巻に付記された「緒言その2」に、内橋克人は下記のように書いている。

「FEC自給圏」の形成に向けて

 日本と日本人はいま根源的な「成長概念の問い直し」を迫られている。

 たとえば「原発安全神話」のうえに築かれたエネルギー政策は行き詰まった。エネルギー多消費型産業と消費のあり方、それらを前提とした経済成長追求の慣性(イナーシャ)は断ち切られた。過去、原発への強引にして過剰なる依存政策推進、すなわち国策が、結果において「エネルギー選択」の幅も自由も狭めてしまった。その咎が厳しく自らのうえに跳ね返る。そのタガを取り外すときがきた。

 東北の復興では「FEC自給圏」の形成を目指すべきだ。Fは食料(フード・農)、Eは自然の再生可能エネルギー、Cはケアとコミュニティー再生。それらを地域内で自給していくシステムの構築である。もう長い時間、筆者がつづけてきた主張だ。

(内橋克人『匠の時代』第4~6巻(岩波現代文庫, 2011年)「緒言その2」より)


このように書く内橋克人が大のTPP反対論者であることはいうまでもない。たとえば、今年2月8日に『農業協同組合新聞 JAcom』のサイトに掲載された記事「異様な『TPP開国論』歴史の連続性を見抜け 内橋克人氏講演会」(下記URL)などを参照されたい。
http://www.jacom.or.jp/tokusyu/2011/tokusyu110208-12482.php

ところが、現在の野田政権(「野ダメ政権」)はTPPを推進しようとしている。TPP推進は昨年、菅前首相が大々的にぶち上げたものの、今年3月の東日本大震災以後は店晒しにしていた。菅直人のTPP推進は、「原発輸出」の制作とともに、仙谷由人、野田佳彦、前原誠司らの支持を受けて昨年6月に民主党代表選に当選した見返りとしての「妥協」の産物であったように思われる。菅は東電原発事故を奇貨として「脱原発」に転向するとともに、6月の不信任案否決の際に近い将来の退陣を約束させられたこともあって、TPPへの熱意を失ったように見える。

しかし、菅退陣を受けて成立した野田政権は、もともと原発再稼働、TPP推進、消費税増税、辺野古移転を「4つの柱」にしているかのような極悪政権だから、これら4つに狂ったように邁進している。

内橋克人は原発について「慣性(イナーシャ)は断ち切られた」と書いた。中長期的にはその通りだと思うが、現在の日本を支配している経団連にとっては「慣性が断ち切られ」ては困るのである。そして官僚は変化を嫌うし(彼らは自らの仕事を増やす厄介ごとが嫌いで楽をしたいだけである)、政治家は財界と官僚の意を受けて動く。つまり永田町と霞ヶ関の論理においてはまだ「慣性が断ち切られ」てはいないのであり、野田佳彦は典型的な「慣性に従って行動する」タイプの政治家だ。

私はある意味、この野田佳彦は日本でもっとも総理大臣にしてはならなかった人物であり、その悪質さにおいてここ数代の総理大臣で野田と比較できるのは安倍晋三だけだと考えている。そんな人物を代表にしてしまった民主党は、近い将来滅びるほかはないとも思っているが、その責任の多くは「トロイカ」に帰せられるものだろう。「原発輸出」と「TPP推進」の旗を振っていた菅直人の責任はいうまでもないが、小沢一郎もまた典型的な風見鶏であり、TPPの政局においても静観を決め込んでいる。「脱原発」にも踏み込まなかった小沢は、事実上「原発再稼働」と「TPP推進」を容認しているようなものだ。小沢もまた、「永田町と霞ヶ関の慣性」に従って動く「政治屋」に過ぎず、そんな小沢一郎にすがる「リベラル・左派」が少なくない現状は、日本にとって百害あって一利なしだと考えている。鳩山由紀夫が菅・小沢以下の論外であることはいうまでもない。

ついつい「トロイカ」の悪口に話がそれたが、野田政権の異名として「野ダメ政権」の他に「野惰性犬」というのも思いついた、というよりタイプしているうちにそういう誤変換が現れたものだが、野田政権とは「惰性で動く野犬ならぬ(財界やアメリカの)飼い犬」にほかならないと言いたくなる。ところが、毎回にように書くことだが、菅直人に対してはあれほど人格攻撃まで辞さなかったマスコミが野田佳彦にはいたって甘い。だから野田内閣の支持率は発足直後と比較して少し下がった程度であり、鳩山内閣や菅内閣とはずいぶん違う。

原発問題に関しては、東電原発事故が起きた福島では完全に「慣性(イナーシャ)は断ち切られた」といえるだろう。また、今朝(10月26日)の朝日新聞オピニオン欄に掲載されている自治体首長のインタビューを読むと、村上達也・茨城県東海村長は日本原子力発電東海第二原発の廃炉を求め、西原茂樹・静岡県牧之原市長は浜岡原発の永久停止を求めている。後者にはスズキが「原発を再稼働させたら工場を浜松近辺に移転するぞ」と圧力をかけている影響も大きい。スズキの影響は同社が支援する極右政治家・城内実にも及んでいて、城内は「脱原発」を主張している。このレイシスト政治家の唯一の取り柄といえるだろう。

朝日のインタビューで異彩を放っていたのは福井県敦賀市長・河瀬一治である。新聞に載っている顔写真を見ても、村上村長・西原市長の2人と河瀬では全く印象が異なり、早い話がヤクザのような容貌だ。見てくれが悪くとも中身が立派なら良いのだが、中身も最悪であり、ひたすら関西電力敦賀原発の増設を求めている。「特に市民に喜ばれているのは、電源三法のお金を使ったサービスです」と河瀬がほざいているのを見た時には、新聞を破りたくなった。本当に「電源三法交付金」が敦賀市を発展させたのか。検証が必要だろう。

敦賀市といえば、前市長・高木孝一が1983年に発した暴言があまりにも悪名高いが、その高木でさえ、1995年の市長選で河瀬に敗れた前年には、次のように発言している。

私どもは、ずっと何十年前から、いわゆる日本国の政府等が日本国家としてどうしてもこれをやっていかなければならないところの国策であるというふうに、原子力発電所の推進方についていろいろと言われまして、そのことに相呼応してやってきておるというのが最大の基本理念であります。(中略)こうしたことで最近特に地域社会から迷惑施設とまで言われておりますけれども、こうしたものも私の敦賀市にも4基ございます。日本では45基が稼働いたしておりますし、さらに7基が建設中でありますが、私どもの、福井県の嶺南地方と言っておりますけれども、いわゆる若狭地区であります。若狭地区には、あの狭い土地柄において15基の発電所が実はあるわけでございまして、これもなかなか本当に大変でございましたけれども、ただ今申し上げましたような理念に基づいてこれに協力してまいったものでございます。

ですから国策ということを最重点に置いてもらわなければならない。ところが、1つの例を挙げてみましても、やはり若狭には旧態依然たる国道27号線1本しかないわけであります。

(「長期計画改定に関するご意見を聞く会」会議録、1994年3月4日、5日=高木仁三郎『原子力神話からの解放 日本を滅ぼす九つの呪縛』(講談社+α文庫, 2011年=初出は光文社, 2000年) 184頁より孫引き)


つまり、高木孝一は国策に従って原発を誘致したけれども、道路さえ引かれていないと愚痴っていたのだ。さらに高木は、「私どもも決して、原子力発電所がいい、ほれ込んでやっているんじゃないんですよ」とまで発言していた。ところが現市長の河瀬の発言は、17年前の時計の針をさらにその11年前に戻している。

何より問題だと思うのは、河瀬にとって福島県の東電原発事故は「他人事」に過ぎないことだ。河瀬のような人間を市長に選んだ敦賀市民の責任も重い。同じことは、青森県・下北半島で原発を誘致している自治体にもいえる。東電原発事故の前なら、「国策の犠牲になった」という側面を考慮しなければならなかったが、東電原発事故後も政策を変えないということは、「人の痛みを感じようとしない」悪魔の所業というほかあるまい。

そして、経団連と官僚と保守政治家仲間の世界に働いているイナーシャに従って「安全運転」をしているつもりの野田佳彦も河瀬らと同じ非難を受けなければならないのは当然のことだ。野田の場合、前政権が腰が引けていたとはいえ「脱原発依存」を打ち出したのに、それさえ「なかったこと」にしてしまった悪逆非道ぶりであり、河瀬一治をはるかに凌ぐ「ヤクザ的政治家」だと断定せざるを得ない。

「野ダメ」が日本を滅ぼす、と言いたいところだが、何も野田佳彦一人でこんなことになっているわけではなく、日本の政治・経済がシステム的にダメになっているとしか思えないことに脱力感を覚える今日この頃だ。
「体育の日」の3連休のあと風邪を引いてしまって、気楽に書ける裏ブログ(『kojitakenの日記』)はともかく、こちらのブログは1週間以上も放置してしまった。

その間、体調もさることながら、野田政権(「野ダメ」政権)のあまりの極悪さに気持ちが冷え切る思いだった。消費税増税とTPPと辺野古移設と原発再稼働、これらを同時に遮二無二進めようとする野田政権の政治は、自民党政権時代の中でも最悪だったと考えている安倍晋三政権の時代よりもっとひどいのではないか。だが、小泉政権時代に政権批判を控えていたマスコミが、総理大臣が安倍に代わると同時に政権批判を始めたのとは対照的に、菅政権時代に菅直人首相(当時)の人格攻撃まで平然と行なっていたマスコミは、自らを「どじょう」にたとえる野田佳彦に対しては非常に甘く、小泉のあと数台続いた内閣とは違って、政権発足後2度目の世論調査でも内閣支持率はたいして下がっていない。やはりマスコミが世論に与える影響力は絶大だ。

最近は、数年前に「新自由主義者」として非難を浴びた人々が、新自由主義を復権させようと巻き返しに出てきている。八代尚宏が『新自由主義の復権』と題した新書本を出したのでしばらく前に買ったが、読む気が起きなくてまだ読んでいない。伊賀篤さんから『kojitakenの日記』にいただいたコメントによると、

竹中平蔵が「同一労働同一賃金」などを唱えている?…というのを聞いて、嘘でしょう…と思いつつネットで検索したら、どうやら正社員の待遇をパート並に引き下げ、正規労働者を「既得権益者」として敵対的に描き出す事で、格差社会への不満を逸らそうと、意図的に議論を摩り替えている模様。

新自由主義者はろくなことをやらない。

今朝の新聞の1面左上には、アテネで緊縮財政政策に反対する48時間ゼネストが始まり、12万人がデモに参加したという記事が大きな写真つきで出ている。東京で行なわれた "Occupy Tokyo" デモの参加者は数百人だったが、「脱原発」デモには6万人が参加した。格差問題も原発問題も根は同じだと私は考えていて、そのことは福島県浜通りの過疎の地に原発を押しつけてきた構図を思い出せば明らかだと思う。沖縄の米軍基地問題も同じ構図だ。だから、今はまだ全然盛り上がっていないけれども、「グローバルスタンダード」(笑)の影響を受けて、日本でも遠からず反格差運動が大きく盛り上がることになるだろう。

格差の解消を「革命」ではなく、再分配の強化を行なうことによって漸進的に進めていきたいというのが「再分配を求める市民の会」と銘打った「鍋パーティー」を設立した意図だったのだが、政権側がここまで邪悪だと、格差解消を求める動きは「革命」的なものにならざるを得ないのではないかと思っている。たとえば復興増税の一つである所得税の一定期間定率増税の話を、民主党政権は定率増税の期間を延長することで自民・公明と妥協したいらしいが、何を考えているのかさっぱりわからない。

私はもともと5年間の一定期間所得税を定率増税すること自体には賛成なのだが、それはあくまで一定期間の話であって、5年が経過したらそれを元に戻すとともに、何十年にもわたって緩和され過ぎた所得税の累進性を再強化すべきだと考えている。ところが、民主・自民・公明3党にとっては「累進制の強化」はタブーらしい。おおかた「共産主義」か何かだと思っているのだろう。「累進制の強化なき増税」には私は絶対反対だ。

マスコミ人の「カマトト」ぶりも呆れたものだ。『kodebuyaの日記』経由で知った池上彰の記事「『金持ち優遇税制』というけれど」にはぶっ飛んでしまった。「年間所得が100万ドルを超える国民が納めている連邦所得税率は平均29%強」だと知った池上は、「これを読むと、アメリカの税制に対する印象が変わります。アメリカも累進課税をしているではないか」などと書く。私は、えっ、たったの29%なの、としか思わないのだが。

次のくだりには開いた口が塞がらなかった。

 日本に比べれば、まだまだ低いではないか、と突っ込みを入れたくなりますが、それでも、アメリカでも高額所得者は税負担の割合が低所得者より大きいというのは意外でした。なんで日本の新聞は、こういうことをきちんと書かないのか、と思ってしまいます。

 大富豪の投資家ウォーレン・バフェットは、自分が自分の秘書(当然ながらバフェットより所得が低い)より低い税率しか国税を払っていないことをおかしいと言っています。この主張だけを読むと、「アメリカの税制はおかしい」と思いますが、この記事によれば、バフェットの収入の多くが投資の収益であり、これに関しては、税率が15%のキャピタルゲイン(資産売却所得)税が適用されているからだというのです。

 株式投資など投資活動を活発にするために、投資の収益に関して低い税率を課すというのは、理論的にありうることです。投資できるのは富裕層ですから、結果的に金持ち優遇税制になっていますが、アメリカの株式投資は多くの中間層が関わっています。キャピタルゲイン税を引き上げると、中間層に打撃を与える可能性があるというのです。

 オバマの増税路線を伝える日本の新聞も、アメリカの税制の仕組みをきちんと解説する必要がある。この記事は、そのことを教えてくれました。

(池上彰「『金持ち優遇税制』というけれど」より)


これを読むと池上は、人頭税とまではいわないけれども定率税を「公平な税制」と考えているらしい。そう解釈しなければ読解できない文章だ。あるいは、あたかも定率税を「公平」であるかのように読者をミスリードしようとする意図があるかもしれないと思った。

思い出したのは、政権交代の直前くらいの頃、当ブログに「消費税はものを多く買う金持ちの方が多くの税金を払うから不公平な税制だ」と主張する人間が一時コメント欄の常連になって、その人間と私自身がコメント欄で議論したことだ。その人間の論法だと、人頭税がもっとも公平な税制ということになる。池上彰はさすがにそこまで極端ではないが、定率税こそ公平だという間違った前提を読者に植えつけようとする池上の意図は極めて悪質だと批判せざるを得ない。

キャピタルゲインへの課税が中間層を痛めつけるなどという妄論に至っては論外であり、昨年『kojitakenの日記』に公開した記事「日本の所得税制が超高所得者に有利な逆進課税になっている動かぬ証拠」をご参照いただければ、池上が書いていることが真っ赤な嘘であることがよくわかるだろう。

私は、いずれ日本でも「反格差」運動は盛り上がるとは思うけれども、池上彰のごとき電波芸者が信頼を得ているうちはダメだと思う。早いとここんな人間のメッキを剥がさなければならない。
3連休(8~10日)は完全にネットから離れていた。その間、特に8日や9日のニュースもよくわからないありさまだが、今朝の新聞などを見ていると、否応なくうんざりするような現実に引き戻される。

今回は「鍋パーティー」の宣伝から入る。「再分配を重視する市民の会」と銘打ったこのパーティーのブログに、ブログ編集長のTakky@UCさんが書いた記事「今必要なのは中流層の復活だ!」が掲載された。記事の後半にニューヨーク・タイムズに掲載されたロバート・ライシュの論文が引用されており、ライシュは1947~77年をアメリカの繁栄期、1981年以降を没落期と規定し、それぞれ中産階級の成長期と没落期に対応するとしているが、Takkyさんも指摘しているように、これは日本でも時期をほぼ同じくして起きたことだ。1977年というと参議院選挙があって自民党の低落に歯止めがかかった年であり、1981年は中曽根政権が発足して新自由主義政治を始める前の年である。日本は戦後何につけてもアメリカに追随し続けてきた。

富の金持ちへの偏在は日本よりアメリカ(や中国)の方がさらに激しいから、その限界も見えてきている。富裕層が率先して政府に金持ち増税を要求するようになったのは、そうしなければ市場経済がうまく機能しないからだ。ところが、日本では大部分を占める貧乏人がおとなしいから馬鹿で傲慢で強欲な金持ちがつけあがる。なぜ彼らが馬鹿で傲慢で強欲かというと、富の再分配を強化して人々の懐を温めることが経済発展に寄与するという当たり前のことを認めず、平然と「我なきあとに洪水よ来れ」という革命前のフランス王朝の貴族のような態度をとっているからだ。

さらに救いがないのは、日本では「金持ち増税」を求める主張を「貧乏人のひがみ」だとか「共産主義」などと決めつける馬鹿が後を絶たないことだ。しかも、これらの馬鹿の大半は自らも貧乏人である。日本人の大半が貧乏人なのだから当然だ。『kojitakenの日記』にも、前記ライシュの記事にリンクを張った記事「『増税反対』ではなく『消費税増税反対』。金持ちへの課税を強化せよ」を9月下旬に書いたのだが、この3連休の間に、その記事に下記のコメントがついていた。

kakumeiressi 2011/10/08 15:53
働いたら負け。貧乏人の嫉妬で頑張った人を引き摺り下ろす共産主義の考えですね。


このコメントなどが私の言う「馬鹿」の典型例である。もし私が共産主義者だったら、もっと格差を拡大して革命を起こさせる陰謀をたくらむかもしれない。再分配の強化とは、むしろ市場経済の温存を図るものであって、共産主義者からは批判されてもおかしくないと私は考えている。

エントリの後半は「野ダメ政権」の原発政策批判。今朝(10月12日)の朝日新聞4面に「民主の脱原発派に不満 PT廃止に『議論の場ない』」と題された記事が出ている。asahi.comには掲載されていないが、ブログ『薔薇、または陽だまりの猫』に引用されているので、同ブログ経由で以下に孫引きする。

民主の脱原発派、募る不満 菅政権時代のPTは廃止/朝日新聞

民主党の脱原発派の議員が不満を募らせている。菅政権時代に設置された脱原発色の強いプロジェクトチーム(PT)が、野田政権で廃止されたためだ。

 5日、荒井聰元国家戦略相や谷岡郁子参院議員ら4人の勉強会で「意見の持って行き場がない。党として原発事故に向き合う意思があるのか」との不満が相次いだ。4人は党が4月に設置した「原発事故影響対策PT」の元役員だ。13日にも勉強会を開く。

 原発事故PTは約30人の役員で組織。計34回開いた総会では、原発再稼働へ厳しい条件を求める声が相次いだ。8月には東京電力福島第一原発周辺の土地の国有化や原発事故調査委員会の国会設置などを提言。荒井氏は「菅政権の背中を押して原発対策を進めた。最も成功したPTだ」と胸を張る。

 一方、夏の電力不足対策は「電力需給問題検討PT」で協議。座長に原発推進派の直嶋正行元経済産業相が就き、脱原発派とのバランスを取った形だった。

 ところが、野田政権で二つのPTは廃止され、原発推進の色合いが濃い「エネルギーPT」が新設された。原発再稼働やエネルギー政策全般を検討する組織で、座長には日立製作所で原発プラントの設計に携わった大畠章宏元経済産業相が起用された。

 背景には前原誠司政調会長の意向がある。前原氏は9月に国会で原発再稼働の「年内」への前倒しを主張。脱原発派は「原発推進に路線転換するため、前原氏が政策決定過程から脱原発派を外した」とみる。

 荒井氏らは野田佳彦首相や輿石東幹事長らにPT復活を要望。他のPTや党内の会合で「脱原発」を訴える戦術も検討するが、党内でどれほど共感が広がるかは不透明だ。

*2011.10.12朝刊


要するに菅政権時代には推進派の直嶋正行と脱原発派の荒井聰をそれぞれ座長にした2つのPTを作って原発推進派と脱原発派のバランスをとっていたのを、野田佳彦がこともあろうに大畠章宏を座長にして一本化してしまったということだ。しかもその背後には前原誠司がいる。

これには「野田・前原の正体見たり」の思いだ。大畠章宏こそ2006年に民主党の原発政策の転換を当時代表だった小沢一郎に働きかけた人物であり、原発問題というよりエネルギー政策全般に関心の低い小沢一郎は翌2007年、大畠の希望通り民主党の原発政策を「慎重に推進」から「積極的に推進」へと転換したのだが(小沢自身の原発利権とのかかわりも指摘されている)、この政策転換にかかわった人物として、小沢一郎の直前に民主党代表を務めていた前原誠司の名が取り沙汰されていた。

前原誠司は、菅政権時代末期には「考えを一変させた」として「脱原発」へと政策を転換したかのようなことをテレビでしゃべっていたが、早くも政策を再転換して「原発推進」へと立場を戻したらしい。野田佳彦も内閣発足当初には「脱原発依存」を匂わせながらアメリカ(国連)で原発の安全性を世界最高水準に高めるとか原発の輸出を継続するなどと言い出した。それが日本で批判を受けるとまたおとなしくなったが、野田の本音が「原発推進」にあることはあまりにも明らかだ。そして、民主党代表選で争った野田佳彦と前原誠司は気が合うんだなあと再認識した。

野田佳彦も前原誠司も、ともに新自由主義者であって「富の再分配」にも不熱心だ。その上二人とも原発推進派であって二枚舌の使い手というところまで一致するとは呆れるばかりだ。

こんな政権が続くと思うとますます気が滅入る。
昨日(10月6日)は、小沢一郎被告の初公判が行なわれたり、その小沢一郎が腰痛を訴えて救急車で病院に緊急搬送されたなどのニュースがあったが、これらについてはさほどの関心は持たない。

私は小沢一郎の起訴に至ったいきさつは大いに問題があると思っているが、東日本大震災以降に小沢一郎のやったことを見ていると、この男を擁護しようとする気にはならない。とはいえ起訴には問題ありと思っているから、この裁判の件で小沢一郎を批判する気にもならない。

東日本大震災直後に雲隠れして「安否不明説」まで流れ、ろくに被災地を訪問もしなかったうえ、統一地方選で民主党が敗れると直ちに倒閣運動を起こし、6月の内閣不信任案提出につなげた。しかし自らは不信任案賛成票を投じることもなかった。結局この内閣不信任案にびびった菅直人が退陣を口にして、その後3か月は粘ったもののそこまでだった。東電原発事故を受けて「転向」した菅直人の「脱原発」は、党内や経済界などの抵抗を受けて「脱原発依存」に後退したが、小沢一郎は「脱原発依存」さえ打ち出さなかった。それどころか9月の民主党代表選では原発推進派の海江田万里を担いだ。

以上は、小沢一郎が裁判で裁かれている政治資金規制法違反の容疑とは関係ない話だ。だが、ここは個人ブログであり私の感情を出しているのだが、小沢一郎の裁判に関心を持てない理由は東日本大震災や原発事故への対応や政局にばかり熱心なこの男のあり方に反感を持っているためだ。いくらリンクするなといわれてもそれが正直な感情だからどうしようもない。

「小沢信者」と言われた人々の多くも同じなのではないか。特に民主党代表選以降、主立った「小沢信者」のブログの中にも3秘書の有罪判決をスルーしたところがあったし、当ブログにも「小沢信者」からブログ記事にクレームをつけるコメントが減っている。

その代わりに私の関心を引くのは、会計検査院が電源三法による「立地地域対策交付金」の見直しを経産省に勧告した件や、アメリカの「反ウォール街デモ」である。後者は昨年『鍋パーティー』を始めるに至った私が以前から持っていた方向性だが、原発問題については、それ以前から反原発派ではあったもののそれをブログの記事に反映させる頻度は低かった。やはり「3.11」以降の大きな変化だ。

大きな事件や戦争、災害などは、それ以前と以後ではっきり大きな断絶を生じさせるものだと痛感する。私が生きてきた期間を振り返ると、今までで一番大きな変化は1973年の石油危機に伴う高度経済成長の終焉で、それ以前と以後で日本の文化は一変した。今、高度成長時代を懐かしむ人も少なくないが、あの時代が良かったわけでは決してない。ひどい公害問題はあったし、大衆の嗜好も「原子力の父」正力松太郎・読売新聞社主(当時)が道筋をつけた方向性に引っ張られていた。テレビが人々にとってなくてはならないものになり、プロ野球が国民的人気スポーツになって読売ジャイアンツが9年連続日本一になったが、テレビもプロ野球(ジャイアンツ)もともに正力松太郎が生み出したものだ。70年代の昔に戻りたいとは私は思わない(読売の9連覇なんかを見せつけられたら狂い死にしかねない)。

そして、「3.11」の断絶は、1973年の断絶よりもっと大きいものになるのではないか。原発もまた正力松太郎が決めた方向性に沿って拡大してきた「モンスター」であり、ジャイアンツの人気は凋落しても原発の数は増え続けた。90年代から鈍化していたが、東日本大震災の直前には原発推進を再び加速させる方向に民主党政権(鳩山・菅両政権)は動いていた。それが「3.11」で一変した。

さすがに菅直人は「転向」するしかないといち早く悟って「脱原発」を打ち出したが、政官業の主流にとっては慣性に従って動いた方が楽なので、「脱原発」の動きには強く抵抗する。現状は、「脱原発」対「原発維持」のせめぎ合いだ。野田佳彦首相は軸足を「原発維持」に置きながらも、「脱原発」派にも配慮せざるを得ないことが現在のカメレオン的な態度に表れているのだろう。

もう一つは東日本大震災が招いた東北や北関東への多大なダメージであり、被災しなかった地域との不均衡が生じたため、一刻も早くその不均衡を解消しなければならない。そのためには少なくともある程度は「大きな政府」が必要だろう。

東日本大震災後、あれほど名古屋で勢いのあった河村たかしの人気が凋落し、現在は大阪で橋下徹の人気も落ちているらしい。大阪では橋下が知事から市長選へと転じて、橋下の息のかかった男を知事に据えるべく「ダブル選挙」を行なうつもりらしい。浜岡原発停止のあった中部地方と比較しても、関西は東日本大震災や東電原発事故の影響が小さいと思われ、どこまで橋下の人気が落ちているのか、大阪の空気がわからない私には何ともいえないので、「橋下、危うし」というところまで来ているかどうかは判断がつかないのだけれど。ただ、統一地方選でも踏ん張った橋下は侮れないとは思う。

ただ、長期的には「橋下的なるもの」は凋落することになるだろう。東日本大震災と東電原発事故を境に、新自由主義と原発はいずれ捨てていかざるを得ない。原発事故の悪影響は今後もっともっと出てくることは絶対に間違いない。

今後の日本にとって大事なのは、いかに早期に新自由主義と原発を捨てて国の方向を転換できるかということだ。だが残念ながら野田佳彦はその「変革の時代」にふさわしいリーダーとはいえない。
一時ブログで絶大な人気を誇った池田信夫(通称ノビー)という男がいるが、最近は池田ブログにつく「はてなブックマーク」の数もめっきり減り、ノビーの人気が凋落して「池田信者」が激減していることがよくわかる。

そのノビーが2008年に有馬哲夫氏の『原発・正力・CIA』(新潮新書, 2008年)の書評を書いている。その一部を引用する。

本書では原発が中心になっているが、著者の前著『日本テレビとCIA』とあわせて読むと、冷戦の中でメディアとエネルギーを最大限に政治利用した正力松太郎という怪物が、現在の日本にも大きな影響を残していることがわかる(これは『電波利権』にも書いた)。正力は暗号名「ポダム」というCIAのエージェントで、米軍のマイクロ回線を全国に張りめぐらし、それを使って通信・放送を支配下に収めるという恐るべき構想を進めていた。

この「正力構想」はGHQに後押しされ、テレビの方式はアメリカと同じNTSCになったが、彼が通信まで支配することには電電公社が強く反対し、吉田茂がそれをバックアップしたため、正力構想は挫折した。しかし、そのなごりは「日本テレビ放送網」という社名に残っている。そしてGHQが去ってからも、正力はCIAの巨額の資金援助によって「反共の砦」として読売新聞=日本テレビを築いた。同じくCIAのエージェントだった岸信介とあわせて、自民党の長期政権はCIAの工作資金で支えられていたわけだ。

正力が原子力に力を入れたのは、アメリカの核の傘に入るとともに、憲法を改正して再軍備を進めるためで、最終的には核武装まで想定していたという。しかしアメリカは、旧敵国に核兵器をもたせる気はなく、正力はCIAと衝突してアメリカに捨てられた。しかし彼の路線は、現在の渡辺恒雄氏の改憲論まで受け継がれている。こうした巨大な政治力を使えば、電波利用料で1000倍の利益を上げるなんて訳もない。


文中の太字部分はノビーのブログによる。「暗号名『ポダム』というCIAのエージェント」だったという読売新聞社主・正力松太郎だが、正力はアメリカの言いなりだったわけではなく、amazonのサイトに掲載されている読者レビューに指摘されているように、正力松太郎とは「世界一の謀略機関と恐れられるCIAすら己の権力のために利用しようという常人離れした思考」の持ち主だった。だから、最終的に「CIAと衝突してアメリカに捨てられた」のである。

現在、極右の一部は小林よしのりに象徴される「反米右翼」となっているが、小林のスタンスは「反米・核武装」のための「脱原発」である。いくら「脱原発」では同じだと言ったって、こんなのと「共闘」できるはずがないのは当然だろう。

上記のノビーのレビューはまあ普通に読めるものだが、そのノビーが最近書いた「朝日新聞の『第二の敗戦」』というブログ記事は実にひどい代物だ。あまりにひどいので、『kojitakenの日記』に「「旧来右翼」に過ぎない正体を露呈したノビー(池田信夫)」と題した記事を書いた。しかし、何か書き足りないものがあるなあと思っていたら、Gl17さんのコメントが鋭く突いていたので、以下に引用する。

Gl17 2011/10/02 14:08

「可能か不可能かを考えず、理想を掲げて強硬な方針を唱える姿勢」

↑原発は安いんだ!とお題目を唱えて、安全が確保できるのか、廃棄物どうするのかetcといった問題を無視する池田氏みたいな人のことですね。

毎度毎度、旧軍や戦前批判にかこつけてサヨクをDisるのがノビーの定番になってますが、大概の場合はもうかなりムリヤリで、あまり論理的ではありません。
恐らく、ソレが自己へ向けられるべき批判論理であるのは彼自身が周知だからこその行動でしょう。
先回りして言ってしまえば、自分は言われる側でなくなると思ってるのだろうと。

右派が批判される理路を左派へ強引に当て嵌めるのは産経などもよくやってますね。
戦前の日本が自らその強硬方針で破滅に至ったのはもう否定しようがありません、それは右派の原罪的なトラウマです。
それを少しでも慰撫しようと、批判側の左派へ「言い返す」という情動に逆らえないんでしょうね。
そもそも戦前の翼賛報道を批判するなら、つまり右派的政権や保守派へ阿るなという話にしかならないハズなのに、その根幹はスルーしちまう辺り・・・。


要するにノビーはもう詭弁を弄するくらいしかないほど「手詰まり」だということなのだろう。

正力松太郎の社論を正力没後40年以上が経つ今なお墨守している読売新聞も、惰性で原発を守ることが自己目的化した記事を書いているに過ぎない。ところがその原発の正力松太郎にとっての位置づけといえば、「核武装を視野に入れる」という一応の大義名分はあるけれども、実際のところは「総理大臣を目指す大政治家にふさわしいスケールの大きな政策」といった程度のものだった。前記有馬哲夫氏にインタビューした「ビデオニュース・ドットコム」のサイトから引用する。

正力はほどなく一つの結論にたどりつく。それは、野望を実現するためには自らが最高権力者、すなわち日本の首相になるしかない、というものだった。そして、正力は同じく当時将来が嘱望されていた原子力発電は、そのための強力なカードになると考えた。しかし、正力の関心はあくまでマイクロ波通信網であり、原発そのものは正力にとってはどうでもいい存在だった。


正力にとってその程度に過ぎなかったものが、日本に多大な災厄をもたらした。それにもかかわらず未だに原発を擁護するノビーやナベツネを筆頭とする読売新聞記者どもが妄言を書き連ねて世に害毒を流している。

正力松太郎は「新聞の生命はグロチックとエロテスクとセセーションだ」という迷言を残した人物だ。国会の答弁で「核燃料」を「ガイ燃料」と発音していて社会党議員に訂正されたというエピソードも残している。大衆操縦の大家だったが、知性的な人物とはいえなかった。警視庁時代に起きた関東大震災では、朝鮮人暴動の流言を撒き散らして朝鮮人虐殺を引き起こしている。戦争に協力したとしてA級戦犯容疑で逮捕されたが、実際には戦時中の読売新聞は戦争を煽ったというより戦場の刺激的な写真を紙面に掲載するなどしてセンセーショナリズムによって売り上げを伸ばしていたのだった。本当に戦争を煽ったのは朝日や毎日のような、読売と比較すれば「硬派」の新聞だった。

雨宮処凛氏の近著『14歳からの原発問題』(川出書房新社, 2011年)で著書の雨宮氏が東京大学大学院生にして「『フクシマ』論 - 原子力ムラはなぜ生まれたのか」(青土社, 2011年)の大著のある開沼博氏に「ガイ燃料」と発音した正力について「バカなんですか?」と訊くくだりがあって吹き出してしまったが、繰り返すけれども原発とは正力にとってその程度のものに過ぎなかった。もちろん開沼氏もその意味の答えを雨宮氏に返している。

「その程度のもの」に現代日本に住むわれわれがいつまでも振り回されるなんて不条理は、もういい加減やめにしようではないか。