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きまぐれな日々

日本列島にこの冬もっとも強い寒波が襲来しているが、日本の政治も、ここ数年でもっとも寒々とした風景が広がっている。

総理大臣・菅直人のふがいなさには私も匙を投げているけれど、アメリカの民間格付け会社が日本国債を格下げした件について菅直人が「疎いもので」と口にした失言で、鬼の首をとったようにはしゃぐ風潮はみっともないの一語だ。私が思い出すのは一昨年繰り返し笑いものにされた元首相・麻生太郎の漢字の読み違いの件である。

確かに菅直人の答弁は失言だが、そもそも外国の一民間格付け会社が勝手につけている格付けの引き下げなんかで騒ぐ方がおかしい。世界金融危機の時、あれほど格付け会社が批判されたことは、いかに忘れっぽい日本国民といえどみんなよく覚えているのではないかと思っていたのだが、全然そんなことはないらしいことを知って愕然とした。たとえば、日頃は「悪徳ペンタゴン」がどうのといって反米的主張を声高に叫んでいる小沢信者たちまでもが、格付け引き下げに対する菅直人の失言に喜んではしゃいでいるあさはかさには開いた口がふさがらない。これについては、『kojitakenの日記』でぶっ叩いておいた。

上記『kojitakenの日記』にも書いたように、この格付け引き下げをもっとも喜んでいるのは、これで財政再建への圧力が強まり、念願の消費税増税への追い風が強まるとほくそ笑んでいるであろう与謝野馨だろうと想像していたが、案の定だった。下記URLの時事通信報道より引用する。
http://www.jiji.com/jc/c?g=eco_30&k=2011012800004

国債格下げ「消費増税の催促」=与謝野経財相

 与謝野馨経済財政担当相は27日夜、BSフジの報道番組に出演、米国の格付け会社が日本国債の長期格付けを引き下げたことについて、「(消費増税を)早くやれという催促だ」と語った。同相は「日本の消費税はたった5%。スウェーデン25%、ドイツも20%。(日本には)まだ消費税という使ってない武器があると(世界の人は)今まで思っていた」と指摘、財政再建に向け消費税率引き上げが必要との考えを示した。

(時事通信 2011年1月28日 00:06)


この与謝野発言と見事に歩調を合わせているのが、前記『kojitakenの日記』でも批判した朝日新聞の1月28日付社説である。
http://www.asahi.com/paper/editorial20110129.html#Edit1

 とりわけ深刻なのは、S&Pの格下げ理由に日本の政治状況があげられたことだ。ねじれ国会のもとで野党が対決色を強め、税と社会保障の一体改革は協議入りもかなり難しい。新年度予算案の関連法案が成立しない可能性さえある。その懸念が国債の格付けに響いているのである。

 日本の消費税率は先進国で最も低く、まだ引き上げ余地がある。日本政府はいずれ増税に踏み切るだろう。市場にはそういう期待と確信があった。だが日本の政治は重い腰を上げられないでいる。いまや市場から不信感が突きつけられたのだ。

 一体改革に「政治生命をかける」と言った菅直人首相が格下げについて聞かれ、「そういうことに疎い」と答えたのは情けない。「改革で、財政再建も経済成長も必ず成し遂げます」と、力強く言うべきだった。

(朝日新聞 2011年1月29日付社説「『疎い政治』への重い警告」より)


本当に批判のターゲットにすべきは、こうした与謝野馨や朝日新聞の主張だろう。菅直人の失言に喜んではしゃぐだけの物言いは、与謝野馨や朝日新聞を勢いづけるだけだということを知るべきである。菅直人自身も与謝野馨や朝日新聞と同じ側にいる。

もちろん、こんな与謝野や朝日の主張に納得する人は多くない。そんな人たちが熱狂するのが、たとえば名古屋市の場合、河村たかしと大村秀章である。名古屋市長選と愛知県知事選の情勢についても、衝撃的(?)な報道が出てきた。私が「(?)」と書いたのは、私にとっては予想通りだったからだが、少し前に知人と話をした時、「愛知県は民主党王国だし、選挙では民主党候補も立つから、河村たかしなんてそんなにうまくいかないよ」などと言っていたのを聞いて驚いたものだ。政権交代選挙で民主党が圧勝した愛知県だからこそ、風に流される有権者が多くて河村や大村は圧倒的に有利だと私は思っていたからだ。事実、その通りの情勢になっている。

たとえば、朝日新聞の情勢調査によると、大村秀章は自民党支持層の5割近く、民主党支持層の6割をまとめたという。自民党県連が推薦する重徳和彦氏が自民支持層の半数近くを固めたのに対し、民主、社民、国民新が推薦する御園慎一郎氏は民主支持層からの支持が3割にとどまるとのことだ。風任せの選挙をしている民主党が逆風にさらされるさまは、2005年の「郵政総選挙」を思い出させる。

愛知県では「みんなの党」も不振だ。同党公認の薬師寺道代氏は党支持層をまとめたものの、無党派層には支持が広がっていない。全体の6割を占める無党派層の半数を大村が固め、残りを重徳氏が2割、御園氏と薬師寺氏がそれぞれ1割程度と分け合う展開となっているとのことだ。前回のエントリで、みんなの党シンパ経済学者・飯田泰之氏が再分配を重視し、「年収1000万円以下はみんな『貧乏人』だ」と言って、リフレ政策とともに再分配の強化を求めていることを紹介したが、当ブログへのコメント欄に、飯田氏を「精神病患者」呼ばわりし、氏の主張を偉そうに取り上げるから闇ナベ党への支持が広がらないのだ、などと書いてきた人間もいた(承認せず削除する予定)。つまり、ある人々にとっては、「みんなの党」の主張程度では全く満足できず、より過激でわかりやすい「減税真理教」の河村たかしや大村秀章に期待を託すのだろう。

朝日新聞の記事には名古屋市長選の情勢調査も載っているが、こちらはさらに極端で、河村たかしがなんと民主党支持層の9割のほか、自民党支持層の6割、無党派層の8割の支持を集めているという。民主、社民、国民新三党と自民党県連が推薦する石田芳弘氏は民主支持層で1割、自民支持層で3割の支持にとどまるとのことで、民主党国会議員から転じた石田氏を推すのは、もっぱら自民党支持者という皮肉な情勢になっている。名古屋市長選はおそらく想像を絶する河村たかしの圧勝になり、トリプルスコアどころかクアドラプルスコアになるのではないか。

あの「郵政総選挙」からこのかた、こんな選挙ばかりだが、「郵政総選挙」が、そして「政権交代選挙」がそうであったように、暴風雨は長続きしない。前回のエントリで書いたように、現実には「金持ちの、金持ちによる、金持ちのための政党」に過ぎない「減税日本」が長続きするはずがない。与謝野馨が金持ちを優遇して貧乏人から消費税を絞り取ろうとする政治家であるとすると、河村たかしは十分すぎるほど優遇してきた金持ちをさらに優遇しようとする政治家であって、二人は同じ穴のむじなに過ぎない。主に財政政策によるべきか、金融政策の強い助けを借りるべきかは別として、今後の日本は「大きくて効率的な政府」による再分配の強化なくしてはやっていけない。

そう主張するブログ「Nabe Party ~ 再分配を重視する市民の会」が更新され、新着エントリ「法人税(1) 日本の法人税はそんなに高いのか?」が公開された(下記URL)。
http://nabeparty744.blog111.fc2.com/blog-entry-5.html

今回から3回連続で、Takky@UCさんの「法人税」シリーズ掲載の予定なので、当エントリをお読みいただいた皆さまには、上記リンク先の「Nabe Party」の記事も是非ご覧いただきたいと思う。

さらに、鍋パーティーのTwitterもできた(下記URL)。
http://twitter.com/@nabeparty_avenu

私自身はTwitterユーザーではないため全然知らなかったのだが、鍋党会員でブログ「憧れの風」管理人・星影里沙さんの骨折りでスタートすることができた。感謝したい。

現在は、与謝野馨に代表される「財政再建至上主義」と、河村たかしに代表される「減税真理教」という、いずれ劣らぬ過激な新自由主義の二大潮流を前にして、それこそ極少数派でしかない「再分配重視派」だが、出発点において勢力が小さい分だけ、成長した時の喜びが大きいというプラス思考で、めげずに歩を進めていきたい。
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2011.01.31 08:46 | 河村たかし批判 | トラックバック(-) | コメント(16) | このエントリーを含むはてなブックマーク
最近残念に思うのは、ブログの記事に「ここまで堕ちたか菅政権!」というタイトルをつけるとアクセス数が急増するのに、そこから消費税や人頭税(!)の「逆進性」の話を始めると、とたんに反応がぱったり止まってしまうことだ。私にとっては、「ここまで堕ちたか菅政権!」という「日刊ゲンダイ」風の煽り文句は、税制に関する主張を聞いてもらうための客寄せに過ぎないのだが、煽り文句を見ただけで人々はもう十分らしい。そして、マスコミのプロパガンダをみんな鵜呑みにしてしまって、前回のエントリのように、分離課税になっている株式の売却益や配当などへの課税が、総合課税化されるところか、20%から10%に軽減されたままの税率が10年以上も続くことになる、と書いても全然反応がない。どうやら、「『応益負担』論の落とし穴と税制」などという小難しそうなタイトルがいけなかったらしい。同じ主旨の文章を、「日本の所得税制が超高所得者に有利な逆進課税になっている動かぬ証拠」というタイトルをつけて書くと、何万というアクセス数になるというのにである。

世論がこんな状態だから、税収を増やしたい財務省は、「税金は取りやすいところから取る」、すなわち消費税増税路線に走る。私は、消費税増税を阻止したかったら、証券税制の総合課税化を含む金持ち増税を国民世論として盛り上げていかなければならないと思うのだが、現実に流行する考え方は河村たかしの「減税日本」なのだからどうしようもない。「財政再建至上主義」と「減税真理教」は、いずれ劣るとも優らない「新自由主義思想」の最たるものなのだが、小泉・竹中の構造改革を批判しながら与謝野馨を支持する人間や、はたまた河村たかしを支持する人間が後を絶たない現状は困ったものである。

mixiコミュとして立ち上げた「鍋党」は、そんな流れに対抗して、「再分配を重視する市民の会」を標榜している。常時参加者を募集しているが、現在はブログを立ち上げたほか、さまざまな方法で会の主張をアピールするための準備を進めている。基本的に、「鍋党コミュ」のトピックで議論をオープンにしているので、興味のおありの方の積極的な参加をお待ちしている。また、mixiに登録することができない方々のための場を作ることも考えている。

「鍋党」のブログは、25日に4番目のエントリ「何故、応能負担原則が応益負担より公平な税制と言えるか」(筆者・秋原葉月さん)を公開した。このエントリは、応能負担原則が、憲法14条の定める「法の下の平等」の精神に沿ったものであることを丁寧に解説している。いわば正義の観点から応能負担原則を支持する趣旨だが、私はそれだけではなく、経済成長のためにも最適な再分配が必要であると考えている。少し前に、お前は再分配のことばかり言うけれど、「経済コラムマガジン」は「問題は分配ではない」と言っているぞ、お前はどう思うんだ、という主旨のコメントをいただいた。だが、「分配か成長か」という二者択一の問題設定に無理がある。実際、このところ毎回のように名前を出すが、経済成長を重視する「みんなの党」シンパの学者・飯田泰之が再分配の問題を語っていないなどということは全然ない。飯田泰之と雨宮処凛の共著『脱貧困の経済学』(自由国民社、2009年)から、見出しの一部を以下に挙げておく。

「再分配で貧乏人が増える国」、「相続税こそ増税せよ!」、「富裕層減税なんて効くはずがない!」、「年収1000万円以下はみんな『貧乏人』だ!」、「日本人は『逆進税』がお好き?」、「金持ち大減税の果て」。


この本で、飯田泰之は雨宮処凛を相手に言いたい放題。一部を引用する。


 実は日本はすごく減税をやってます。だけど、大幅な減税になっているのは事実上年収1000万円以上の人だけ。
 いま財政がものすごくやばい、破産する、とか言ってますけど、あれもバカな話で、たくさんお金を納めてくれるお金持ちだけを、これだけどんどん減税して、それで財政収支が悪くならないわけがない。
 小さな政府で無駄遣いをなくす、といえば聞こえはいいですが、小さな政府というよりは、たんに金持ちを減税した。年収2000万円以上の人は、減税による割り戻しが100万円とか、そんな感じ。
 (中略)日本の財政がここまでひどくなった理由について、どうしてみんなこんなにわかってないんだろう。そこが僕にはいちばん気持ちが悪い。
 「お金持ちを減税したから」という簡単な理屈を、メディアではほとんど聞いたことがない。でも、どう考えてもそうなんですよね。
 (中略)「なぜこんなに貧富の差が広がったんですか」と問われたら、僕はいつも「金持ちを減税して貧乏人を増税しているんだから当たり前ですと言います。
 (中略)しかも彼ら(引用者註:財源論を持ち出してプレカリアート運動を批判する人たち)はメディア作戦が圧倒的にうまく、みんなすぐに生活保護の話をしますよね。はっきりとは言わないけど「生活保障や社会保障のせいで財政が苦しい」と匂わせる。受給者が増えてるとか、ね。
 でもそんなことよりも、いちばん大きいのは金持ちを減税していることなんです。75%とっていた人から40%しかとらなくなったら、そりゃあ財政も悪くなります。

(飯田泰之、雨宮処凛『脱貧困の経済学』(自由国民社、2009年)89?92頁より抜粋)


飯田泰之はこのほかにも、贈与税や相続税の減税が景気回復になるという経済理論など、世界のどこにも存在しない(前掲書64頁)とか、2009年に麻生政権が行った15兆円の経済対策は、日本経済ではなく自民党への対策だ、あれで恩恵を受けるのは富裕層であって、大して恩恵を受けない年収700?800万円の中間層が喜ぶのは不思議だ(同95頁)とか、消費税は貧乏なほど負担が大きいので、もっと下げるべきだ、なくしてもかまわない(同235頁)などと主張している。

飯田は、「大きな政府」論者ではなく、政府支出の内訳を変えることで再分配を強化することと、インフレターゲットを強力に主張する論者だが、それでもこれだけ再分配の重要性を指摘する。飯田は、90年代のアメリカに安定的な成長をもたらした原因の一つは、ビル・クリントン政権が累進課税をきつくしたことだと言い、累進課税がきついと、好況時にはそれまで税率が20%だった人が税率30%になり、景気の過熱にブレーキがかかる、逆に不況期にはそれまで税率30%だった人が税率20%になるので、少し余裕ができてお金を使う、強めの累進の坂が景気の乱高下を防ぐと言っている(前掲書180頁)。これが「ビルトインスタビライザー」と言われる所得税の景気自動調節機能である。

バブル期に所得税の累進性を緩和した自民党政府は、それまでの税制が持っていた景気の自動調節機能を壊し、バブルの火に油を注ぐ真似をしていたわけである。特に罪が重いのは中曽根康弘と竹下登。中曽根は売上税を導入しようとして頓挫したが、竹下が消費税を導入した。80年代半ばまでうまく機能していた日本経済をおかしくした中曽根や竹下に対する批判こそ徹底的に行われなければならないのに、それどころか中曽根は今も政界に隠然たる影響力を持っているありさまだ。

以上のようなことを言う飯田泰之が「みんなの党」のシンパであることは理解できないし、渡辺喜美のアホ面を見ていると、渡辺が飯田の思い描く経済政策を実行する政治家であるとは私にはとても思えないのだが、この点は今回は触れない。また、飯田泰之は与謝野馨について、この本の脚注で「消費税増税による財政再建を強く主張する『財政タカ派』を代表する一人」と書いて批判している(前掲書87頁)。私は、「財政タカ派」どころか、与謝野のことを「経済極右」の「死神」だとして罵倒しているが、ここで与謝野批判にそれるとエントリの収拾がつかなくなるので、書きたくてたまらないけれども書くのをやめておく。

しかし、「減税日本」を立ち上げて名古屋市長選を戦っている河村たかしに対する批判は書く。財政再建至上主義の与謝野とは、一見ベクトルが正反対のように見えるが、その実、河村たかしも与謝野馨同様、現在の日本の政治家の中でも、もっとも過激な新自由主義者の一人である。ただ、与謝野が金持ちから減税した分を思いっきり貧乏人から搾取しようとしているのに対し、河村は十分すぎるほど減税した金持ちをもっともっと減税しようとしているだけの話である。「減税日本」の第1次公認候補に「会社役員」が多かったことは以前にも書いたと思うが、「減税日本」こそは、朝日新聞の某記者の名前のように富裕層の香りが漂う、富裕層の、富裕層による、富裕層のための政党だ。ところが河村は、巧妙にも「減税日本」の運動を「庶民革命」などと称して粉飾し、中間層以下の多くの名古屋市民の支持を取り付けた。テレビ朝日などのマスコミも河村を応援した。日本では、テレビに出演して露出度の高い人間は、選挙でもきわめて有利だ。河村の盟友という大村秀章が立候補する愛知県知事選を含む2月6日のトリプル選挙は、最悪の結果になることを覚悟しているが、それでも私は「河村たかしを倒せ、『減税日本』を倒せ」と叫ぶ。名古屋・愛知の選挙はもう告示されているが、落選運動であればネットで発言してもかまわないはずで、当ブログは堂々と「河村たかしと大村秀章を落選させよ」と呼びかける。

とにかく、何か「減税」が日本経済を活性化し、経済成長を実現させ、再分配を重視する人間は経済成長などどうでも良いと思っているに違いないという妙な錯覚というか思い込みというか一種の「信仰」が今の日本にはあるのだが、そんなものはとんでもない間違いであるというのが今回のエントリの主張である。もちろん、秋原葉月さんが言われるように、応能負担原則は憲法14条の「法の下での平等」を実現させるものでもあるのだが、同時に、日本経済の成長のためにも応能負担原則の徹底は必要だと声高に訴える次第である。

新自由主義者の言う「トリクル・ダウン理論」(金持ちの活発な消費が経済成長に結びつくという誤った信仰)など現実になったことはない。それどころか、いったん「負け組」になるとどこまでも転落する社会に恐怖を抱く金持ちは、財布のひもを固く締めてしまっている。だから金が市中に回らない。「金は天下の回り物」ということわざが現実のものになっていない。これが新自由主義社会の弊害なのである。

「経済成長のために国は再分配を強化せよ!」と声を大にして叫ぼうではないか!!
まず「鍋党(鍋パーティー)」のブログ「Nabe Party ? 再分配を重視する市民の会」のお知らせだが、昨日(1月23日)、鍋パーティーの会員・秋原葉月さんが書かれた「日本の税制の不公平(1)?分離課税」が公開された。同内容のエントリは、秋原さんが運営されているブログ「Afternoon Cafe」にも掲載されているので、鍋党ブログともどもよろしくお願いしたい。

ところで、上記秋原葉月さんのエントリに、首相・菅直人のブレーンといわれた神野直彦・東大名誉教授の著書『財政のしくみがわかる本』(岩波ジュニア新書、2007年)を参照しながら、

税金は、担税能力のある者、即ちお金持ちほどたくさん納める応能負担が原則です。
その原則からすれば、所得税は比例税(所得のいかんにかかわらず同じ税率が課されること。法人税がそう)ではなく、累進税(所得が多いほど税率も上がること)こそが公平な税制といえます。

と書かれている。

これは、神野名誉教授のスタンスであるが、財政学においてはもう一つのスタンスがあり、それは「応益負担」といわれるものだ。応益負担とは政府サービスの利益に応じて税を負担することであり、これを「納税の原則」として大学で教えている財政学者もいるらしい。いうまでもなく新自由主義の立場に立つ学者の言説であり、再分配を重視する神野名誉教授の立場とは真っ向から対立する。

現在の日本において声が大きいのは、残念ながら「応益負担」を主張する人たちの方であり、極端な人になると「人頭税こそもっとも公平な税制である」と言っている。冗談か本気かわからないが、こんなブログ記事もあった。おそらく、リンク先のブログ記事を書いたブロガーを怒らせようとするネタ記事だろうと思って吹き出した。そのブロガーとは私のことである。記事は、『kojitakenの日記』に書いた(下記URL)。
http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20110122/1295679240

記事のタイトルは、「ここまで堕ちたか菅政権! ついに『人頭税』を検討へ」というものだ。「はてな」のホッテントリにしてやろうと、わざとセンセーショナルなタイトルをつけて書き、狙い通り3桁の「はてなブックマーク」がついて、昨日の『kojitakenの日記』のアクセス数は、トータルアクセス数で12,632件、ユニークアクセス数でも9,874件に達した(「はてな」カウンタの計数)。狙ってこんなことをやるとは、われながらあざとい奴だと思うが、政権批判はこのくらい強烈にやらなければならない。自民党政権だろうが民主党政権だろうが、総理大臣が菅直人だろうが小沢一郎だろうが谷垣禎一だろうが、私は容赦しない。

ところで、人頭税はなぜ問題かというところから説き起こさなければならないとのご指摘も受けたので、それも『kojitakenの日記』に書いた。「応能負担と応益負担、比例課税と累進課税と逆進課税の話」と題したエントリである(下記URL)。「応能負担と応益負担」の部分は当エントリの内容と重複するが、あわせてご参照いただければ幸いである。
http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20110123/1295750982

さて、『kojitakenの日記』に書いた私の菅政権と朝日新聞への批判は、B型肝炎集団訴訟で札幌地裁の和解案を菅政権が受け入れるのに伴い、救済に必要な3兆円規模の財源を捻出するために、所得税を時限的に増税する方向で野党と調整すると報じた朝日新聞記事の中に、下記の記述があったことに噛みついたものだ。

 対象の患者は3万3千人、感染しているが症状が出ていない人は40万人おり、政府の試算では、和解案に沿って救済する場合、30年間で最大3兆2千億円が必要になる。歳出削減で捻出するには財源の規模が大きいため、増税で国民に広く負担を求めたい考えだ。社会保障分野に使われている消費税の活用は見送る。

 具体的な増税の仕組みや導入時期はこれから詰めるが、5?40%の6段階ある所得税率を一律1%上げると、年1兆円程度の増税になる。この場合、3年程度で必要な財源を確保できる。ただ、税率引き上げは高所得者の負担額が多くなるため、所得にかかわらず、国民に等しく一定額の拠出を求める案も検討する。このほか、社会保険料の増額と組み合わせる選択肢もある。増収分で救済のための基金を創設し、申請に応じて和解金などを支払う。

(asahi.com 2011年1月22日 3時6分)


あのね、「社会保障に使われている消費税の活用を見送る」と書きながら、なぜそれよりも逆進性のもっと強い「所得にかかわらず、国民に等しく一定額の拠出を求める案」だの「社会保険料の増額」だのといった話が出てくるわけですか。

私は何も消費税の全否定はしない。直接税、特に所得税の税収がもっと拡充され、所得再分配効果が得られるようになれば、将来的には消費税増税を検討する段階が来るだろうと思う。しかし、現在の政治は所得税の税収拡充に逆行したことばかりやっている。その一例が、当エントリの最初に紹介した秋原葉月さんのエントリでも触れられている「証券優遇税制」である。これは、歴史的にはシャウプ勧告のもと、1950年に一度総合課税化されながら、1953年には早くも原則非課税(ただし売買回数、株数多などの条件で総合課税)とされ、その後1989年に課税化されたものの、譲渡益の26%に課税する申告分離課税のほか、売買代金の1.05%に課税する源泉分離課税が認められた。後者は、売買代金の5.25%を譲渡益とみなし、その20%に課税するという理屈だ。しかし、1989年といえば、年末に日経平均が3万7千円を超えたバブル期のピークであり、譲渡益が売買代金の9割を超える(=購入時と比較して売却時の株価が10倍以上になる)取引などざらだった。その頃の富裕層にとっては、まさに「濡れ手に粟」だったことになる。

その後、バブル崩壊で税収が減った大蔵省(のちの財務省)は、何とか税収を確保しようと動いた。源泉分離課税は2001年3月に廃止され、申告分離課税に一本化されることになったが、証券業界の反対に遭って廃止は2003年3月まで延期され、しかも申告分離課税の税率が2003年から5年間、それまでの20%から10%に軽減される措置が取られた。さらにこれは三度延長され、三度目は菅政権下の昨年末に行われた。テレビや新聞では法人税減税をめぐる玄葉光一郎と財務大臣の野田佳彦意見の対立ばかりが報じられたが、証券譲渡益や配当に対する税率軽減措置の延長についても、財務省の立場を代表して延長は1年にとどめよとする野田佳彦と、当初3年の延長を主張していた国民新党所属の自見庄三郎金融担当相の折衝の結果、結局2年間の延長が決まった。
http://jp.reuters.com/article/stocksNews/idJPJAPAN-18626920101214

長々と書いたが、要するに証券優遇税制に対する世論の批判がないから、私が以前から主張している総合課税化(民主党のいう「シャウプ税制からの脱却」とは正反対の「シャウプ税制への回帰」ともいえる)どころか、その逆に、分離課税の税率を下げる方向の圧力ばかりがかかり続けてきたのが、証券税制の歴史だったというわけである。麻生政権時代にも世界金融危機への対策として、菅政権になってからの今回も景気対策として、軽減税率が延長された。一部から「積極財政政策をとった」と評価されている麻生太郎も、4年前に今はなき「論座」のインタビューに対して「北欧の社民主義を念頭に置いている」と語った菅直人も、ともに政権を担って実行した政策は、新自由主義の「トリクルダウン」(富裕層の活発な消費によって経済が活性化されるという誤った信仰)に基づいているのである。

ようやくB型肝炎救済の話に戻るが、定額増税を検討する理由として持ち出されるのが、

同じ場にいて、たまたまウィルスに感染してしまった人と、幸運にも感染せずに済んだ人とがいたことを思うと、これは国民全員で負担を分かち合っても止むを得ない

という、これは『日本がアブナイ!』からの引用だが、こうした素朴な言説なのである。これは、最初に述べた「応益負担」の考え方そのものだろう。そうではなく、税制全体を概観するところから認識を持とうとしなければ、それこそ「日本がアブナイ」のではなかろうか。

私は何も、特定のブログを攻撃するためにこんな文章を書いているのではない。むしろ逆で、『日本がアブナイ!』を真面目で良心的なブログとして、常日頃から愛読しているからこそ、そんなブログでさえ陥ってしまう落とし穴をあえて指摘する次第である。

それにしても、菅政権がこんなにひどい「定額増税案」の検討などと言い出す裏に感じるのは、与謝野馨の暗い影である。民主党よりもさらに新自由主義色が強い(現在の)自民党にすり寄るために、こんな案を出すという、いかにも与謝野の考えそうな浅知恵に思えてならない。与謝野は昨日、全国ネットはされていないテレビ朝日のローカルネオリベ番組(テリー伊藤と長野智子が司会している)に出演し、議員辞職すべきではないかとの批判や、「変節」批判などに答えていたが、使命感に燃える与謝野の姿は異様なほどだった。よほど自分を大政治家だろうと思い込んでいるのだろうが、私が思い出したのは、最近の白川勝彦氏のつぶやきだった。

政治に関する報道の大半が、与謝野と小沢だ。二人とも自分がさも大変な政治家だと考えているようだ。しかし、私に言わせれば、二人とも凡庸な政治家に過ぎないのだ。そこが分かっていないことが、二人ともすでに過去の政治家だという証左なのだが…。

(2011年1月19日付 白川勝彦氏のTwitter)


その通りだと思う。小沢一郎の「政倫審出る出る詐欺」もひどいもので、西松事件、一連の小沢問題については、非は主に東京地検特捜部にあると考えている私でさえ、自らの問題を「政争の具」にしているようにしか見えない小沢一郎は、朝日新聞の「天声人語」子が書く通り、「国政の十字路に転がり落ちて動かぬ巨岩」にしか見えないし、与謝野馨にいたっては、その不自然な黒髪のようにドス黒い害毒をもって菅政権を滅ぼす「死神」にしか見えない。そういえば麻生政権で法務大臣を務めた鳩山邦夫を「死に神」と書いたのは朝日新聞だったが、「死に神」といい「巨岩」といい、朝日新聞もたまにはまともなことを書く。

いずれにせよ、巨岩に行く手を遮られ、「死神」を自ら招き寄せた菅政権の先は、もう長くないだろう。
立ち上げたばかりの鍋党ブログ「Nabe Party ? 再分配を重視する市民の会」だが、発足から数日が経ち、アクセス数は日に100件ほどに減った。要するに現時点ではほとんどゼロに近い地点にいるというわけだ。

mixiに、コミュ「鍋党?再分配を重視する市民の会」を立ち上げた時から、ブログとホームページの作成はいずれ必ずやらなければならないと思っていたが、私としては鍋党のブログを当ブログや「kojitakenの日記」のような個人ブログの延長線上で運営するつもりは全くなく、会または会員からのお知らせを機動的に発信するほか、「鍋党」の主旨にご賛同いただける方(特に個人ブログをお持ちでない方。何もmixiコミュの会員には限らない)の意見を幅広く汲み上げ、自由に発信していく場にしたいと考えている。個人ブログの代替品とは全く位置づけていない。たとえば当ブログは、毎週月曜日(月曜日が休日の場合は火曜日)と金曜日の更新というルールを勝手に定めているが、鍋党ブログは縛りはなるべく少なく、発信が必要な時に発信するというスタイルをとりたい。

とはいえ、ブログには管理という厄介な問題があり、発足直後にメンバー間の意見対立が原因でブログの管理が混乱するという問題にさっそく行き当たったところである。鍋党ブログのあり方について、読者の皆さまのご意見ご要望があれば、当ブログにでも「鍋党ブログ」にでも、公開・非公開を問わずコメントいただければ幸いである。気軽にアクセスでき、みんながかかわることのできる、敷居の低いブログにしたいと考えている。

さて、「鍋党ブログ」にいただいたコメントだが、私が投稿したテストコメントを除く最初のコメントは、「みんなの党」支持者からのものだった。
http://nabeparty744.blog111.fc2.com/blog-entry-1.html#comment2

コメントは、下記のように書き出されている。

みんなの党は「給付つき税額控除(負の所得税)」など、再分配政策も打ち出しています。

それと、再分配や社会保障を重視することと、政府の大きさは関係ない気がしますが。効率的な税制をしくことで「小さな政府で大きな保障」も可能です。


コメントはこのあと、猪瀬直樹が書いた「小泉改革批判への大反論 セーフティネットを壊したのは守旧派だ」 というタイトルの噴飯ものの文章からの引用が続くが、それはともかくとして、みんなの党が再分配を全く考慮していないとは私も言わない。

私は、渡辺喜美というのはつまらない政治家だと考えているが、「みんなの党」のシンパには、前々回および前回のエントリでも名前を挙げた飯田泰之のような優秀な学者がいる。以前、当ブログが再分配に重きを置いていないとして飯田氏を批判したことがあり、それを飯田氏のブログにご注進に及んだ人間がいたが、飯田氏は、僕への批判としては納得できるものだ、と書いていた。財政政策による再分配も、金融政策もともに重視するが、現時点では後者により重きを置くのが飯田氏らの行き方だろうけれども、それは社会保障切り詰めなどの「サービスの小さな政府」を狙う人たちに利用されるだけに終わってしまうのではないかというのが、私が懸念していることである。

とはいえ、私は「なんとか信者」のような「善悪二元論」はとらないから、「みんなの党」支持者の意見であっても、取り入れるべきは取り入れるし、当ブログのコメント欄も、mixiコミュも、「みんなの党」支持者にも門戸は開放している。mixiコミュの方には、「みんなの党」どころか、河村たかし支持者の入会も受け入れたほどであり、現在までのところ入会を拒否した人は一人もいない。ただ、明らかなネット右翼や平沼赳夫・城内実の支持者ら、私が受け付けない人間からの入会申請があった場合は、この限りではない(笑)。

「みんなの党」支持者である、「朱の盤」さんからは、「ポジショントーク」の件に関して、下記のようなコメントをいただいている。
http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-1146.html#comment11178

個人のブログに来といて「『ポジショントークです』と書いといてください」はないでしょ。
そりゃ個人の気持ち、『私心』からポジショントークしてますって。どこのブログも。
そうじゃないブログなんて、よっぽどの『国士』さま、政治家さまでない限り無いんじゃないですか。
(団体ブログ、あるいは差し出がましいながら、鍋党再配分ブログをやるとなると、その辺りの前置きはあった方が無難でしょうけれど)

それでも、古寺多見さんのところは広い視点から意見を提言、またコメント欄に意見を取り入れてると個人的には思いますけどね。よっぽどひどくない限り。
意見が合わないと辛口の洗礼はありますけどね(苦笑)

2011.01.16 23:48 朱の盤


このコメントにある通り、朱の盤さんとは当ブログのコメント欄でよく喧嘩もしたが、リアルでも活動をされている真面目な方である朱の盤さんに対して、私は大いに好感を持っている。

そういう人たちの支持を「みんなの党」が集めている現状は、いっこうに「サービスの大きな政府」の路線を示そうとしないばかりか、なりふり構わず与謝野馨を一本釣りして財政再建至上主義に走るなど、反動化しているようにしか見えない現民主党・菅政権に大きな責任がある。菅直人と小沢一郎の民主党両巨頭が、ともに同じ「小沢一郎問題」を政争の具にして延々と抗争を繰り広げている現状も最悪だ。私が現在、名前も見たくないと思っている政治家は3人いて、それは菅直人、小沢一郎と与謝野馨である。

彼らの名前が出てくる政治のニュースは、もう見たくも聞きたくもない。そう思っておられる方は大勢おられるのではないかと思う今日この頃である。
今日1月17日は、1995年に阪神・淡路大震災が起きてからまる16年に当たる日だ。あらためて震災の犠牲になられた方々のご冥福をお祈りするとともに、震災で身内を亡くされた方々や心身の後遺症に苦しまれている方々に、心よりお見舞い申し上げる。

1995年というと、日本という国にとってもターニング・ポイントになった年だ。社会的には、東京で地下鉄サリン事件が起きたが、労働問題では、日経連が「新時代の『日本的経営』」を発表した年でもある。翌1996年の派遣労働法改正は、派遣業務が原則自由化された1999年の改正や、同改正で派遣禁止業務とされた製造業にまで派遣を解禁した2004年の同法改正ほどには言及されることが少ないが、99年改正への道を開いたのが96年改正だった。96年改正によって、派遣の対象となる業務が、16業務から26業務へと増えたのだが、これは単に業種を増やしたものではなく、日経連の「新時代の『日本的経営』」の方針に沿って、正社員の数を減らし、派遣労働を増やす狙いがあった。当時私が働いていた職場は、増えた10業務に属していたので、96年改正による労働環境の変化を肌で感じていた。

私が、消費税の問題以上に現民主党トロイカが罪深いと思うのは、この派遣労働法改正の件である。1999年改正では、小沢一郎の自由党は与党だったため当然賛成したし、野党の民主党も賛成した。当時の民主党代表は菅直人である。2004年の派遣法改正に民主党は反対したが、代表は岡田克也だった。派遣法改正に関しては、小沢一郎も菅直人もまごうかたなきA級戦犯である。

90年代後半というのは、今思い出してもひどい時代であって、何しろ今でいう新自由主義に反対する言論の力はきわめて弱かった。そうなった原因の一つとして、90年代前半の「政治改革」によって、社会党が弱体化したことが挙げられると思うが、この「政治改革」を主導したのも、小沢一郎や菅直人、鳩山由紀夫ら現「トロイカ」だった。もっとも、社会党も自らが政権与党の時代に主要な政策を次々と転換したあげく、消費税率引き上げへの道を開いたのだから責められて当然だ。

90年代後半にはやった言葉として、「グローバルスタンダード」がある。日本経済も、国際標準に従わなければならないという風潮があった。「グローバルスタンダード」なんて、正体は「アメリカンスタンダード」に過ぎない、という批判が目立つようになったのは、ようやく1998年頃からだった。この反対言論に私は飛びついたものである。しかし、その後に「小泉構造改革」という、さらなる新自由主義の猛攻が待ち構えていた。

小泉構造改革に対する反対言論は、小泉政権末期の2005年、郵政総選挙で自民党が圧勝したあとに、その反動として目立つようになった。私がこのブログを開設したのは2006年4月だが、その頃には「新自由主義」という言葉も論壇で普通に用いられるようになっていた。だから私は、安倍晋三ごときが小泉純一郎の跡を継いで総理大臣になろうとも、そんな政権は早晩潰れるだろうと、安倍がまだ総理大臣になる前から確信していたし、それどころか安倍が総理大臣になること自体阻止できると思っていたくらいだ。現実はそこまで甘くはなく、安倍は総理大臣になってしまったが、その政権は1年しか持たなかった。

NHKスペシャルが、現在も語り継がれる名番組「ワーキングプア」三部作を制作したのは2006年から2007年にかけてだったが、初回は小泉政権時代、第2回は安倍政権時代、第3回は福田政権時代だった。小泉純一郎の後を受けた政権は、新自由主義の政策を批判され、その後の麻生太郎も含めて、発足直後はそれなりの支持率を得たものの、いずれも急速に支持率を落とした。竹中平蔵は世紀の悪人呼ばわりされるに至り、2009年の政権交代につながった。

しかし、自民党に代わって政権与党となった民主党が、鳩山由紀夫・菅直人の両内閣で全然成果を挙げられないと、2006年以降退潮一方だったはずの新自由主義の言論が、一気に息を吹き返した。今回の菅再改造内閣自体、経済財政政策担当相に与謝野馨を起用したことに端的に表れているように、紛れもない新自由主義政権である。

与謝野馨入閣を批判する民主党議員は、主に小沢派だが、テレビに映っていたのは森ゆうこ、姫井由美子、三宅雪子、松木謙公らだった。このうち姫井由美子は自らが「改革クラブ」に行こうとしたのを引き留められて、1日で態度を豹変させた人間だから論外だけれど、三宅雪子と松木謙公は、ともに名古屋で河村たかしの市議会リコールに向けた署名運動に協力した人物である。与謝野馨の財政再建至上主義に反対するのは良いけれど、その代わりが「減税真理教」ではどうしようもない。財政再建至上主義も「減税真理教」も、ともに公共サービスを切り詰めるという点で、新自由主義のドグマにとらわれた思想といえることは、前回のエントリ「タイガーマスクと与謝野馨」でも触れた通りである。

それと、最近の新自由主義言論の復活に伴ってか、政府や地方公共団体による再分配を強めよと主張する当ブログに対して、「ポジショントークだ」という批判が目立つようになった。これは実におかしな話であって、3年前に当ブログが浴びた「上から目線」批判と相通じるものがある。「上から目線」については、2008年1月29日付エントリ「『ポピュリズム』や『上から目線』などなど?大阪府知事選雑感」に書いたので、それをご参照いただきたいが、2009年7月12日付朝日新聞で、呉智英と宇野常寛が「『上から目線』で何が悪い」と題した対談をしていたらしい。これを取り上げている「みんななかよく」の記事から以下に引用する。

 冒頭で、呉氏が、「上から目線」てえ非難は、根源的な問いかけをのっぺりしたものの中に塗り込めようとしていて、嫌なもんでやんすな、と言うと、宇野氏が、なんの、ありゃ、議論相手への罵倒語でありんす、と答えております。

(「みんななかよく」 2009年7月27日付エントリ「朝日新聞 耕論 『上から目線』で何が悪いか を読む」より)


このところ当ブログが立て続けに浴びている「ポジショントーク」という非難も、「上から目線」批判と全く変わらない。

ネット検索をかけてみると、面白い記事が見つかった。「モジログ」の2010年1月18日付エントリ「ポジショントーク大歓迎」である(下記URL)。
http://mojix.org/2010/01/18/position_talk_welcome

あまりに面白いので、以下に全文を引用する。

ポジショントーク大歓迎

ネットではしばしば、「それはお前に都合がいいだけのポジショントークだ」といった批判を見かける。

別にポジショントークでもいいんじゃないか?と私は思う。

ポジショントークかどうかが重要なのではなく、その人の言っていることが妥当なのか、有益な見方を含んでいるのかどうかが重要だろう。

「それはポジショントークだ」と批判する人は、要するに「もっと客観的な立場から発言せよ」と言っているのだと思うが、完全に客観的になることはそもそも不可能だ。それに、ヘタに客観的であろうとすると、何を言っても主観的になるように思えてきて、保留だらけの意味不明な発言になったり、結局何も言えなくなったりする。これはちょうど、失敗やリスクを徹底的に回避しようとすると、結局何もできなくなるのと似ている。

以前、ポール・グレアムの「反論ヒエラルキー」を紹介したことがある。

反論ヒエラルキー
http://mojix.org/2008/04/13/disagreement_hierarchy

「反論ヒエラルキー」は、最もレベルが低い「罵倒」から、最もレベルが高い「主眼論破」まで、反論を次の7段階に分類したものだ。

DH0. 罵倒(Name-calling): 「この低能が!!!」といったもの。発言者に対する罵倒。
DH1. 人身攻撃(Ad Hominem): 論旨でなく、発言者の属性に対する攻撃。
DH2. 論調批判(Responding to Tone): 発言のトーン(調子)に対する攻撃。
DH3. 単純否定(Contradiction): 論拠なしに、ただ否定。
DH4. 抗論(Counterargument): 論拠はあるが、もとの発言に対して論点がズレている。
DH5. 論破(Refutation): 論破できているが、もとの発言の主眼点は論破できていない。
DH6. 主眼論破(Refuting the Central Point): もとの発言の主眼点を論破できている。

この7段階において、「論拠なしに、ただ否定」という「単純否定」が、ちょうど真ん中の「DH3」であることに注目してほしい。論拠がないのだから、反論としてうまいものとはいえないが、それよりひどいものがあと3つあるのだ。

いちばんひどいのが「罵倒」で、これはわかりやすい。そしてその次にひどいのが「人身攻撃」、つまり「論旨でなく、発言者の属性に対する攻撃」なのだ。論拠で否定するのではなく、発言者の属性を攻撃するのは、「論拠なしに、ただ否定」よりも悪いのだ。その理由は、「人身攻撃」は論旨による反論になっていない上に、属性への攻撃を含んでいるからだ。

「罵倒」が単に一般的な汚い言葉であるのに対して、「人身攻撃」はその発言者自身の属性への攻撃なので、むしろ陰湿だとも言える。「それはポジショントークだ」という批判は、論旨ではなく発言者の「ポジション」を持ち出して、それによって発言の説得力を下げたり、発言者のイメージダウンを狙うものなので、この「人身攻撃」の一種だろう。


特定の立場にある人の意見が、あまりにもその立場に都合のいい意見だ、と感じられることは確かにある。しかしその場合も、「それはポジショントークだ」という「人身攻撃」で反論するのではなく、あくまでも論旨の上で反論すべきだろう。特定の立場にある人の意見が、必ずしも独善的な意見とは限らず、その立場にあるからこそ、平均的な一般人よりも「問題の構造」が見えている、という場合も少なくない。

ネットなどで「人身攻撃」を見かけたとき、私はたいてい、「この人は論旨で反論できないので、人身攻撃しているんだな」と感じる。私は「人身攻撃」している人に共感することはほとんどなく、むしろ「人身攻撃」している人には失望して、そこで攻撃されている人の意見のほうが逆に輝きを増すように感じることが多い。ムキになって否定する人が続出するような見解は、しばしば極端だったり大雑把だったりはするが、何らかの真理や鋭い見方を含んでいることが少なくないからだ。

ひとりひとりの個人に対して客観性を求める考え方は、発言を抑圧する方向に作用しがちで、日本人の「主観恐怖症」をますます強めてしまうだろう。そうではなく、ひとりひとりの個人はどんどん主観的に発言してもらって、それをたくさん集めることで、全体的な多様性によって客観性が実現される、というほうがいいと思う。

ポジショントークを批判するのではなく、むしろ歓迎して、いろいろな立場の人に、どんどん主観的に発言してもらおう。

(「モジログ」2010年1月18日付エントリ「ポジショントーク大歓迎」)


この記事を書いたブログ主は、「左派から市場原理主義者として批判を受けることのある」とのことだが、立場に関係なく、正しいものは正しい。自分の気に食わない言説を「ポジショントーク」だとして問答無用に切り捨てることは「人身攻撃」であるとする指摘は、痛快そのものだ。

格差や貧困の問題について論じる場合、1月7日付エントリ「本当に必要なのは減税ではなく、再分配の強化なのだ」でも飯田泰之の言説を引用・紹介したように、年収600万円の「中流層」は、実際には日本の全世帯の平均額も納税していないにもかかわらず、自らを「税金を払いすぎている金持ち」だと思い込んで、小泉純一郎の「構造改革」に賛同して貧乏人を放置しようとしている。飯田泰之に言わせれば、「年収1000万円以下はみんな『貧乏人』だ!」ということになる。私ももちろん貧乏人だし、「くーちゃん」とか「わくわく44」とか、他にも文句をつけてきた人間がいたと思うけれども、そういう輩もおそらく同類だろう。飯田泰之といえば、「みんなの党」シンパの学者だが、そんな人でさえ、小泉構造改革を批判し、再分配を重視している。それなのに、肝心の貧乏人が同じ貧乏人の意見発信を「ポジショントーク」呼ばわりしてどうする。声を大にしてそう言いたい。一般に、大衆は専門家たちよりずっと保守的で反動的だというのが私の意見だが、その確信がますます強まる事例だった。

私はむしろ、貧乏人の側から積極的に発言しないことは、格差や貧困を温存するか、ないしは悪化させる罪悪であると考えている。つまり、「堂々と語れ、ポジショントークを!」と叫ぶ次第である。

そのための「鍋党(鍋パーティー)」なのだが、昨年11月4日に開設したmixiコミュに加えて、このほど「鍋党」ブログを開設したので、お知らせする。ブログ名は、「Nabe Party ? 再分配を重視する市民の会」である。下記URLのリンク先に飛んでご参照いただきたい。
http://nabeparty744.blog111.fc2.com/

今のところ、私が書いた開設の挨拶のエントリがあるだけだが、このブログは、著者が "nabe-party" で、実際には「鍋党」の参加者が作るものである。つまり、「きまぐれな日々」は「私」のブログだが、「Nabe Party ? 再分配を重視する市民の会」は、「われわれ」のブログであり、鍋党の参加者が書いた原稿を "nabe-party" が記事にするというわけである。機動性がブログの特徴だと思うので、それを活かした運営をしていきたい。

当ブログにせよ、「Nabe Party ? 再分配を重視する市民の会」にせよ、堂々とポジショントークを語っていく。それが貧乏人の務めである。
昨年末から大きな話題になっているのが、「タイガーマスク」である。

約40年前、1969年から71年にかけて放送された同名のアニメの主人公・伊達直人を名乗る者から、各地の児童相談所や児童養護施設にランドセルなどの寄付が相次いだ件だ。

アニメは古いものの、アニメにあやかった同名のプロレスラーの存在によって、「タイガーマスク」は広く知られている。しかし、アニメのオープニングやエンディングの主題歌は、もう何十年も耳にしたことがなかった。今回の寄付ブームによって、数十年ぶりにアニメのエンディングテーマ「みなし児のバラード」を聞いて、変則的な拍子を持つ哀愁に満ちた歌を、驚きを持って再発見した。最初に耳にしたのは、一昨日(12日)のテレビ朝日「報道ステーション」でニュースのBGMとして流れた時で、数十年前にテレビで流れていたタイガーマスクのエンディングテーマであることはすぐに思い出せたが、懐かしさのあまりネット検索でYouTubeの動画を確認した次第だ。

たまたま、昨日読んだ『日本がアブナイ!』のエントリ「地方競馬のタイガーマスク+菅の「共助の精神」を党内融和にも活かして欲しい」にも、この歌の歌詞が紹介されているのだが、歌詞の中で特に引きつけられたのは、下記のくだりだった。

強ければ それでいいんだ 力さえ あればいいんだ
ひねくれて 星をにらんだ ぼくなのさ


この歌詞について、YouTubeにはこんなコメントが寄せられていた。

強ければそれでいいんだ。力さえあればいいんだ。
という考え方が”ひねくれた”ことだった時代が、あったんだ!
私も、ランドセルの件でたどり着きました。今の日本について、思­わず考えさせられました。


この歌詞の件は、『kojitakenの日記』にも書いたのだけれど、あまりにも印象的だったので、ここにもう一度書く。私は一瞬、竹中平蔵に対する皮肉ではないかと思ったのだが、よく考えてみると竹中だけではない。討論会で高校生と真剣勝負をして泣かせた橋下徹や、「金儲けして何が悪いんですか」と開き直った村上世彰、マッチョとレイシズムがウリの石原慎太郎などが拍手喝采を浴びる時代がずっと続いた。だが、タイガーマスクの時代にはそうではなかった。

私は、かつて住民税を逃れるために毎年住民票を日本とアメリカの間で移していたとされる人物が、辛坊治郎が司会するテレビの極右番組でヘラヘラ愛想笑いを浮かべながら「頑張った者が報われる社会を実現せよ」とのたまう時代に、ほとほと嫌気が差していたのだが、日本人はそんな下種(げす)野郎ばかりではないことが今回の「タイガーマスク」の一件でわかったことは良かった。酷薄な新自由主義の世界は、日本の社会には似合わない。

ところで、前記リンク先の『日本がアブナイ!』は次のように書いている。

 そして、もちろん個人の善意も大切なのだけど。mew的には、本当は、利益を得ている企業が、社会的な役割を果たすために、率先して、様々な施設などへの支援、寄付を行なうようになって欲しいと思うし。<将来のために、進学や資格取得のための奨学金を出すことなども含めて。>


それはその通りだと思う。しかし、グローバル時代には企業も激しい競争にさらされて余裕がなくなっている。もちろん、莫大な利益を上げながら労働分配率を上げずに内部留保を溜め込んだりする新自由主義時代の「優良企業」の問題もあるが、時代の変化によって、業種自体が競争力を失った企業も多く、それらの企業に慈善事業や寄付を求めるのは難しくなってきたことは否めないだろう。

かつての高度成長時代のようなわけにはいかないのである。かつては、大企業が従業員への福利厚生を手厚くして、再分配を行ってきた時代があったが、高度成長時代だったからそれは可能だった。

しかし、高度成長時代を始動した池田勇人自身が、いずれ高度成長時代が終わって低成長時代になると、私企業に代わって政府が再分配を手厚くしなければならない時代がくると考えていた。田中角栄内閣時代に、1973年(昭和48年)を「福祉元年」と位置づけたのも、そうした考え方に沿ったものだ。だが、折悪しく石油ショックとスタグフレーションに見舞われて、日本が福祉国家に転換するチャンスを逃したことはこれまで何度か書いた。その後、福田政権と大平政権の時代(1976?80年)に、財政出動の効果が実って景気が回復したが、今度こそ福祉国家に向けて舵を切らなければならなかった1982年に出現した中曽根康弘政権が新自由主義政策を開始し、バブルの勃興と破裂を招き、当時直間比率の見直しと称して直接税の減税をやり過ぎた結果、日本政府は慢性的な税収不足に悩むことになってしまった。

今、傾いた日本の財政を立て直そうと意欲満々なのが、その日本経済低落の元凶・中曽根康弘の直系である与謝野馨である。中曽根は、「政界風見鶏」として有名で(というより悪名高く)、三木政権(1974?76年)時代には三木武夫と手を組んでいたためにロッキード事件での摘発を免れ、その後田中角栄と組んでついに念願の総理大臣の座に上り詰めた。つい一昨年の麻生太郎内閣で経済関係の閣僚をいくつも兼任して権勢を誇っていた与謝野馨が、自民党が下野すると自民党を離党して平沼赳夫と組み、今また平沼と袂を分かって民主党政権入りしようとしているのを見ると、師の中曽根に勝るとも劣らない「政界風見鶏」だなあと思ってしまう。選挙区で敗れ、自民党の比例代表で復活当選した与謝野は、民主党入りはできないはずだが、無所属議員としてなら入閣できるというのは、たいへんなモラルハザードではないだろうか。与謝野馨の辞書には「恥」という文字はないようである。

そして、その与謝野馨の政策といえば、財務官僚から教わった「財政再建至上主義」を墨守するだけのものだ。菅直人のブレーンとされる経済学者の神野直彦は、財政均衡主義を「新自由主義のドグマ」として厳しく批判しているのだが、神野氏から何も吸収していないらしい菅直人は、財政再建至上主義者である与謝野馨を経済閣僚として迎え入れようとしている。

私は、何も政府の財政赤字に問題がないなどというつもりはない。財政赤字は、政府支出を再分配のために有効に使われなくしてしまう。だが、財政再建というのは好況で税収が増えている時に行うべきものである。過去の日本でいえば、バブル期に税収が増えた時、こんなに税収があるんだからバラマキに使え、減税を行えなどと、間違った政策を次々と繰り出して景気を過熱させた竹下政権の罪が重かった。消費税は、その竹下政権時に導入された。現在のような不況期に消費税率引き上げを含む財政再建策などやってはならない。そんなことは、1996?97年の橋本龍太郎政権の失敗でわかり切っているはずなのだが、歴史から学ぶことを知らない人間は、同じ誤りを何度でも繰り返す。

自民党政権で経済閣僚の要職を長く務めた与謝野馨は、「経済通」として重用されるどころか、経済失政の責任を追及されてしかるべき人間なのだが、財務省や財界、それに中央マスコミの人間を含む富裕層にとってあまりに都合の良い政治家であるため、自民党政権であろうが民主党政権であろうが経済閣僚としてのさばっていられる。それは、与謝野馨にとっては「男子の本懐」かもしれないが、日本国民にとっては良い迷惑である。

与謝野の経済失政の中でも最たるものは、第3次小泉内閣の経済財政政策担当大臣として、「骨太の方針2006」の責任者としてこれをまとめ上げたことだ。この方針の目玉は、年間2200億円の社会保障費の削減だった。与謝野は『文藝春秋』2010年4月号で、自らの業績を下記のように誇っている。

私(注:与謝野馨)が経済財政担当大臣を務めていた小泉内閣時代に作成した「骨太の方針二〇〇六」では、国と地方を合わせたプライマリーバランス(基礎的財政収支)を黒字化するという目標を盛り込んだ。


重ねて書くが、この「骨太の方針2006」が、年間2200億円の社会保障費の削減を決めたのだ。骨太どころか、「骨粗鬆症」の方針ではないか。

その与謝野馨が、第1次菅再改造内閣の経済財政担当相に就任するという。首相の器とは思えない政治家・菅直人は、たちあがれ日本との連立話が破談になっても、与謝野馨の引き抜きは諦めていなかった。そもそもたちあがれ日本の成り立ち自体に、与謝野馨を蝶番にして民主党と自民党を大連立させようという中曽根康弘とナベツネ(渡邉恒雄)が、やはり権力欲の強い平沼赳夫を利用しようとした思惑が見え隠れする。

中曽根やナベツネの思惑にまんまと乗った菅直人は、しょせんその程度の政治家ということだが、与謝野馨の方は、忘れている人も多いかもしれないが、麻生太郎内閣でも最初から経済財政担当相に起用され、故中川昭一が「ローマの窮日」で「もうろう会見」の失態を犯して財務大臣と金融担当大臣を解任されると、これらのポストも兼任して、主要経済閣僚のポストを一人で独占した男だ。一部に、菅政権を批判して、麻生太郎内閣は良かったと持ち上げる「反新自由主義」の人たちがいるが、そういうことを言う人は、麻生内閣の閣僚人事を忘れているのだろう。

民主党大会では、小沢一郎に近い武闘派の森ゆうこ参院議員が、「自民党時代の大増税路線に行くんじゃないですか」と声を張り上げた。単に執行部に反対しているだけといえばそれまでだが、結果的にとはいえ与謝野の閣僚起用人事を批判しているのは間違ってはいない。だが、小沢一郎自身は与謝野馨批判の声をあげない。例によってソンタクズに動いてもらうスタイルをとっているのだろうか。そのせいか、小沢信者の代表格のブログも、与謝野批判の声をあげない。だから与謝野批判は広まらない。

ブログでは、今春の統一地方選で、無所属で広島県議選(安佐南区)への立候補を検討されているさとうしゅういち氏が「供給重視+財政再建至上主義では国滅ぶ」と書いているのが目立つが、普段あれほど菅・仙谷批判や検察批判の声を張り上げる人たちは、与謝野の名前も出さないか、名前を出しているところでも、菅が与謝野を起用することは批判しても与謝野本人は批判しない。これはいったいどういうことなのだ。与謝野は、小泉内閣の経済財政担当相として「骨太の方針2006」を策定した責任者ではないか。小泉・竹中の新自由主義を批判するのであれば、小泉内閣の経済財政担当相を務めた与謝野馨も批判するのが首尾一貫した姿勢というものではないのか。

掲示板を見ていると、タイガーマスク運動を称賛して菅直人を批判する小沢信者が、前者を福祉国家、後者を市場主義国家になぞらえる書き込みをしていた(下記2件のURLを参照)。

http://www3.rocketbbs.com/731/bbs.cgi?id=liberal7&mode=res&no=15347

http://www3.rocketbbs.com/731/bbs.cgi?id=liberal7&mode=res&no=15350

これを読んでいたら頭痛がしてきた。スレ主の桐野昭二氏は、こんなことを書いている。

地域政策の貧困を打開するには、多湿な褶曲列島の風土から、流域圏を圏域に有志の研究会を発足させ、地域再生の設計図を描くのが最初の課題だ。それは、地域政策と地域政党、住民主導の連携行動につながる。大阪・名古屋・鹿児島の阿久根市、沖縄の歩みは、それを教えている。次の地方選は、その検証過程と捉えたい。


それを受けて、「なおもて」氏は書く。

今後、日本が二つの選択のどの道を目的合理的に採用するのか、
すなわち
 1.弱肉強食の小泉路線による経済拡大路線、
 2.経済成長の期待できないスェーデンタイプの福祉国家路線

この分水嶺において、阿久根市竹原市長、名古屋市河村市長問題は大きな問いかけを我々国民に投げかけているように思えます。
果たして、政治は又国民は二つの選択うち決定を行うことが出来るでしょうか?


まるで、竹原信一や橋下徹や河村たかしが福祉国家を実現するかのような書き込みだ。

私はたまりかねて乱入したのだが、そこでも書いたように話があべこべだ。タイガーマスク運動が起きた背景には、国や地方自治体の再分配の不全がある。アメリカは「サービスの小さな政府」の国だが、金持ちの寄付の文化があり、タイガーマスク運動にたとえられるべきは、むしろアメリカの金持ちの善行だ。そして、竹原信一や橋下徹、とりわけ「減税日本」を掲げる河村たかしが志向するのは、「(サービスの)小さな(地方)政府」だ。政府による強力な再分配を行っているスウェーデンとは真逆ではないか。それに、「経済成長の期待できないスウェーデンタイプの福祉国家路線」という言い方もおかしい。3年前の『週刊東洋経済』の北欧特集号は今も手元にあるが、北欧諸国が注目された大きな理由に、これらの国々の高成長がある。3年も経てば、みな昔のことは忘れてしまうのだろうか。「減税日本」にせよ、与謝野馨の消費税増税・財政再建路線にせよ、「サービスの小さな政府」を目指す点で共通しており、ともに(神野直彦の言葉を借りれば)「新自由主義のドグマ」にとらわれているのだ。そして、慈善事業は「タイガーマスク」のような、個人の篤志家の善意に任せればよい。そういう思想だ。私も「タイガーマスク」には心を動かされるが、それでも心のどこかに引っかかりがあるのは、こうした善意の行為を隠れ蓑にして、国や地方公共団体によるが再分配の強化など必要ない、という風潮が強まるのを恐れるからだ。

「鍋党?再分配を重視する市民の会」を立ち上げて、120人の会員が集まって喜んでいたのだが、世間一般ではごく少数派であることを思い知る今日この頃である。上記mixiのコミュには、携帯電話を使用していないので参加できないなどのご意見も戴いているが、近日中に「鍋党ブログ」(仮称)を立ち上げる予定であり、次回のエントリではご報告できると思う。

財政再建至上論者か、さもなくば「減税真理教」信者という風潮に抗して、再分配の重視を求める声を拡大していきたい。
年初から、全国紙の社説がどこも同じように消費税増税とTPP参加を主張し、マスコミの要望通りの年頭所感を発表した総理大臣の菅直人を翼賛していることが話題になっている。

共産党(「しんぶん赤旗」)は、「5紙共同社説」だと言ってこれを批判している。同党が引き合いに出しているのは、60年安保の時の「7紙共同宣言」だが、何も半世紀前にまで遡らなくても、主要紙がみな同じ論調をとったことは、最近にもあった。

10年前の2001年、小泉純一郎政権が発足した時のことである。当時、朝日新聞や毎日新聞は、読売新聞以上に歓呼の声をもってこの政権を迎えた。政党でも、当時、経済思想の左側から小泉政権を批判したのは共産党だけだった。社民党の土井たか子党首は「改革」という言葉を肯定的に使っていた。

社民党でさえこのていたらくだったから、民主党の鳩山由紀夫代表や自由党の小沢一郎党首が、当時自民党を経済軸上の左側から批判したという事実はない。それどころか、鳩山由紀夫にいたっては2001年の国会で、「抵抗勢力」と戦うポーズをとっていた小泉純一郎に対して、国会の質疑で共闘を申し出たほどだった。

マスコミも、小泉構造改革を経済軸上の左側から批判することなど一切しなかった。当ブログが以前からずっと朝日新聞の経済関係の主張が新自由主義的だと批判してきたことは、継続してお読みいただいている読者の方はご存知だと思うが、これはブログ開設のずっと以前から朝日新聞に対して抱いている不満であって、今でも2002年10月26日付の朝日新聞が自民党内の「竹中いじめ」を批判する社説を掲載した時や、2005年の郵政総選挙の投票日に、朝日新聞が「小泉首相はこれまで見たこともない型の指導者だ」とか「単純だが響きのいいフレーズの繰り返しは、音楽のように、聴く人の気分を高揚させる」などと書いた社説を読んだ時のことをよく覚えている。

小泉政権当時は、同政権の経済タカ派的な政策を朝日や毎日が支持し、イラク戦争への自衛隊派遣などの外交・安全保障政策を読売や産経が支持するという色分けができていた。その傾向は基本的には現在も多少残っていて、防衛大綱が「動的防衛力」をうたった時にも、朝日の社説は懐疑的だったし、毎日の主筆・岸井成格はテレビで、こういう大きな問題を民主党がろくな議論も経ないで進めていると指摘していた。

だが、その岸井成格も「毎日の社論を護憲から論憲に変えた」と自画自賛している人間だ。朝日は前主筆の船橋洋一がずいぶん社論を右に傾けた。概して、朝・毎は外交・安全保障政策面で徐々に右に寄ってきている。経済政策における読売はどうかというと、これはナベツネの新聞であり、ナベツネは昔から「市場原理主義」批判はしていたものの、直接税の税率をもっともっと下げて、消費税率をバンバン上げろというのが持論で、貿易自由化も同様に以前からのナベツネの持論だったはずだ。小泉政権時代に同政権の経済政策に多少懐疑的だったのは、単に竹中平蔵のようなエキセントリックな新自由主義者とナベツネのウマが合わなかっただけなのだろう。

こう考えると、現在の「5紙共同社説」の論調は今に始まったものではないといえるかもしれない。幸いというべきか、北海道や中部のブロック紙を含む地方紙には、菅政権の政策を批判する論調もかなり強い。特に、TPPについては地方紙にかなり強い批判が見られる。

つまり、「5紙共同社説」対地方紙という対立構図がある。中央対地方であるとともに、経団連対一般国民の対立構図もある。ここで注意すべきは、「全国紙」というのが、実際には「東京と大阪のブロック紙」に毛が生えたようなものでしかないという事実である。たいていの都道府県には有力な地方紙があるが、東京と大阪にはない(東京新聞は中日新聞が「都新聞」を買収した新聞であり、「中日新聞東京本社」が発行している)。たいていは地方紙のシェアがもっとも高い。地方紙の中には、地元選出の代議士と関係の深い新聞もいくつかあり、そういう新聞には社説がなかったりするが(自民党政権時代に政権批判を載せにくかった事情でもあるのかもしれない)、全国紙には見られない鋭い政権批判を載せる新聞もある。中でも、北海道新聞と沖縄の2紙(沖縄タイムスと琉球新報)が特に目立つ。地方紙その地方ごとの財界には弱いが、全国紙の場合は日本の財界、つまり経団連に弱いという共通の特性がある。「政治主導対官僚主導」など、マスコミがミスリードするまやかしの対立構図であり、本当の対立構図は「経団連対一般国民」なのである。

だから、東京で経団連の主張を代弁する朝日新聞なんかを日々読んでいると、気分が重くなる。朝日なんかを読む方が悪いと言われそうだが、他紙をとったところで同じであり、それなら、昔から良くも悪くも(良いところなどほとんどないが)日本を代表する新聞と言われている朝日をとって、ブログでこれを批判した方が良いだろうと思っている。

そうは言いながらも、この記事も書き始めるまで時間がかかり、書いている今も気分が乗っていない。小泉・竹中の構造改革路線への批判が強まった時期も、つい最近あったばかりだから、ずっと寒い日が続いている時よりも、比較的暖かい日のあとに寒くなった方が体にこたえるのと同じ理屈である。「5紙共同社説」にはやはり圧迫感というか威圧感がある。

小沢派に期待を寄せる人もいるが、小沢一郎は昔から日本の政治家の中でももっとも強硬な自由貿易論者であり、TPPにも特に反対していないことだけ指摘しておく。政治・経済に限らず、大事なのはまず事実を正視することであり、信仰によって歪められた、あるいは捏造された虚構に基づいた議論は一切意味を持たない。

事実を見据えると、ますます心が挫けそうになってしまうのだが、それでも現実を見て、なおかつ前に進もうという気持ちが求められる時代なのだろうと思う。
年末年始に体調を崩していたせいもあるのかもしれないが、現在ほど重苦しい時代の空気は、ちょっと記憶にない。バブルが崩壊してから数年後の90年代末に、「第二の敗戦」などと言われた。ネットで調べてみると、これを言ったのは江藤淳で、1997年12月に発売された『文藝春秋』1998年1月号に書いたものらしいが、江藤淳は1999年に自殺した。

その2年後、閉塞感を打ち破れとばかり現れたのが小泉純一郎であり、彼は「抵抗勢力」を設定して、それへの批判を集中させる手法で人気を得た。小泉の錦の御旗は「規制緩和」であり、官僚支配を脱して「官から民へ」と「改革」を行い、「小さな政府」を実現させれば、日本に明るい未来があるはずだった。だが、それは幻想に過ぎなかった。

90年代末にも「閉塞感」が語られたが、10年代初めにも再び「閉塞感」が語られている。だが、現在の陰鬱さは90年代末の比ではないように思われる。日本人は、小泉純一郎という権力を振りかざす人間にすがり、その小泉はめちゃくちゃをやったあげく、「小泉以前」より「小泉以後」はずっと悪い社会になってしまった。格差が拡大し、貧困が大きな社会問題になった。

現在、人々はやはり力の強い権力者にすがろうとしているように見える。そして、一度は下火になったはずの「自己責任論」が再び息を吹き返している。こういうトレンドが、強い指導者を渇望する時期にシンクロして起きるような気がするのは、錯覚だろうか。

前世紀末頃に流行した新自由主義のキャッチフレーズに、「努力した者が報われる社会を」というのがあった。昨年来の民主党政権批判には、政治思想面、経済政策面のいずれについても左右両方からのものがあるが、特に注意すべきは、経済右派からの批判だ。

たとえば、昨年12月18日、大阪・読売テレビの極右番組で、司会の辛坊治郎は、今回の税制改革で法人税を5%減税しても、これまで実施されてきた減税措置が廃止されるので、実質1?2%減にしかならない、これでは諸外国に比べて高いままだ、と言った上、「主に富裕層をターゲットにした個人増税」を槍玉に上げ、「下(低所得層)を引き上げるなら良いけれども、上(高所得層)を押し下げると社会の活力が損なわれる」と言った。

これに唱和したのが、昨年の参院選に東京選挙区から立候補して惨敗した自民党の東海由紀子と、同じく自民党参院議員の林芳正であり、彼らが口にしたのが「頑張った者が報われない社会だ」という言葉だった。これに悪乗りした森本敏に至っては、「社会主義を通り越して共産主義社会だ」とまで言い放っていた。

こんな言葉は、小泉純一郎たちの後継者たち(安倍晋三、福田康夫、麻生太郎)らが低支持率に悩んでいた2007年から2009年にかけてはほとんど聞かれなかったが、2009年の政権交代以降、鳩山、菅の両政権が全く成果を挙げられずにいると、みるみる力を盛り返してきた。しかし、国民の多くはそんな自己責任論など聞き飽きているばかりか、自らの生活が苦しい時に、経済強者たちの自己責任論を聞かされても、気が重くなるばかりだろう。それが証拠に、これだけ菅内閣や民主党の支持率が低下しても、自民党の支持率は大して上がっていない。民主党が支持を失っただけで、無党派層がますます増えている。

一部の往生際の悪い人たちは、悪いのは菅・仙谷・岡田・前原一派であって政権交代ではない、と言っているが、そんな言葉も多くの国民は信用しない。国民は、同じ人間に一度は騙されても、二度は騙されないからだ。だから、かつて国民を騙した自民党も民主党も鳩山由紀夫も小沢一郎も信用されないのである。いや、小沢一郎だけは総理大臣にならなかったから一部に幻想が残っており、いつまでも小沢一郎に幻想が固着していることが閉塞感をますます強めていると思うが、それも全体から見ればほんの一部だろう。

だから、また社会全体に破壊衝動が強まり、既得権益はすべて潰してしまえ、のような、いってみれば「希望は、戦争」のようなムードが広がり、そんな中で橋下徹や河村たかしへの支持が拡大していくのだが、今回はその話はせず、支持者が減ったとはいえ今なおうるさい、「頑張った者が報われる社会」の宣伝の嘘を批判しておく。

たとえば、「エコバヤシ」などといって現在LED電球の宣伝をしている、小林幸子という歌手がいるが、彼女は子供時代の1964年にデビューしたものの15年間は鳴かず飛ばずで、1979年に「おもいで酒」が大ヒットした時、年末の歌謡賞で拳を握りしめながら「苦節十数年」などと言って感極まっていた様子は、ちょっと異様なほどだった。その後30年以上売れっ子歌手を続けているわけだが、小林幸子は「おもいで酒」以前には努力が足りなかったから報われず、「おもいで酒」以降には、「おもいで酒」以前には決して行わなかった努力を30年以上続けているからその間ずっと売れているわけではないだろう。

何が言いたいかというと、年収だの財産だのというものは、決して本人が行った努力の質と量を掛け合わせたものには比例しないということだ。「働いても働いても楽にならない」ワーキングプアの人たちが、竹中平蔵より数桁も少ない努力しかしていないことなどあり得ない。

要するに、たまたま天職についたとか人の心をとらえる楽曲と巡り会ったとかいう幸運と、本人の努力の両方があって大成功する人が出てくるのだが、その結果、自分はアメリカにあるような豪邸に住んで、多くの使用人を雇って豪勢な生活をしてしかるべき人間であると考えるのがたとえば竹中平蔵のような人間であり、竹中平蔵ら富裕層が消費することによって経済を刺激し、景気が上向くというのがトリクルダウン理論である。

これに対し、人々が財産や所得に応じて応分の分担を行い、国や地方公共団体を通じて富を再分配した方が経済を活性化することができるという考え方がある。いかなる努力をしても所得が変わらなければ、それは誰も努力などせず、経済は停滞してしまうだろうが、努力しても努力しても報われることがなければ、やはり誰も努力する気になれず、経済は停滞してしまう。

要するに、最適な再分配の程度というものがあり、それが再分配が少ない方に振れすぎているのが現状ではないかと私は考えている。

その現状を改善する適切な方法が、果たして「所得税や住民税の減税」なのだろうか。税金とは、本当にろくに働きもしない公務員や高級官僚の天下りにしか使われていないのだろうか。

もちろん、高級官僚の天下りは現状のままで良いというつもりなど毛頭ない。言いたいのは、天下りに対する批判は、税金の使い道を適正化すべきであるいう主張につなげるべきであって、税金をなくしてしまえという主張につなげるべきではない、本当に叫ぶべきは、「適切な再分配を行え」ということだ。

リフレ派の経済学者・飯田泰之は、雨宮処凛との共著『脱貧困の経済学』(自由国民社、2009年)の中で、国と地方を合わせた税収は85兆円、それを日本の世帯数である5000万で割ると170万円であり、税を170万以上払っているのはだいたい年収1000万円以上の世帯だ、それなのに小泉の「頑張っている金持ちに報いよ」というフレーズにもっとも共感したのは年収600万前後の、いわゆる「中流層」だと指摘している。

話は結局河村たかしの「減税日本」批判へとつながるわけだが、要するに「減税日本」で得をするのは年収1000万以上の富裕層が中心だということだ。それが証拠に、河村の「減税日本」の一次公認候補27人には、会社役員多いという(女性が27人中4人しかいないのも問題)。

俺たちゃみんな貧乏人なんだ。「国や地方自治体は再分配をもっと強化せよ」と言って何が悪い。さあ、みんなで「鍋党?再分配を重視する市民の会」に集おうよ!
前エントリの新年のご挨拶で書いた、「いい世にしたい」という思いとは裏腹に、体調を崩してここ数年の中では、もっとも冴えない正月だったが、ようやく回復したと思ったらもう仕事始めである。

今年は連合会長・古賀伸明が年頭所感で「福祉をきちんとするためには我々も負担をしていく。消費増税は受け入れていかなければならない」と述べ、朝日新聞の元旦付社説「今年こそ改革を―与野党の妥協しかない」では、税制と社会保障の一体改革と環太平洋パートナーシップ(TPP)への参加の2点で、与野党が妥協するしかないと主張する。ここで朝日新聞が言う与野党とは、もちろん民主党と自民党のことであり、自民党は民主党以上に極端な消費税率引き上げを主張しているから、要するに民主・自民両党は消費税増税で歩調を揃えて実現させろと言っているのに等しい。TPPに関しても、朝日は各紙の中でももっとも強硬な推進派である。毎日新聞の元旦付社説「2011 扉を開こう 底力に自信持ち挑戦を」も、格調の低い、というかつまらない上共感できない文章であり、主筆・岸井成格の手になるのではないかと私は疑ったのだが、TPPは持ち出していないものの、「消費税増税を含めた財政再建」を課題として挙げている。毎日は、「与野党は妥協せよ」とは書いていないが、「自民党主体の政権時代から早急な解決が求められていた課題」をいくつか挙げているから、トーンは朝日と同じで、民主と自民が協力して取り組めと言っているようなものだ。

「消費税増ありきは国民騙し、海外比較では個人所得課税増が筋」という記事が、陰謀論系・小沢信者系の投稿が目立つ掲示板に掲載されている。掲示板記事にはリンクを張らないが、下記リンク先を元記事にしていた投稿だ。
http://www002.upp.so-net.ne.jp/HATTORI-n/a220-6.htm

ここには、下記のように記述されている。

▼個人所得課税負担率が米国と同じなら16兆円税収増になる

※個人所得課税負担率をアメリカと同じ12.0%(日本7.6%なので4.4%増)にすれば単純計算で16兆円税収増になる。

2008年の国民所得384兆円なので(384×4.4%=16.8)となる

個人所得課税負担率は11ヶ国で最低の7.6%、他国は全て2桁

▼消費税増より個人所得課税増が筋

直間比率(個人所得課税負担率÷消費課税負担率)は高い順で米国がトップで日本は11ヶ国中5番目
米国 2.03、デンマーク1.66、カナだ1.43、スウェーデン1.19、日本1.10、フィンランド0.97、ーーー

福祉大国スウェーデンやデンマークよりも低い、これからも消費税増よりむしろ個人所得課税増が筋なのです、

※しかるに、政治家もエコノミストもマスコミも財源には消費税増のみだとしている

そもそも個人金融資産が1500兆円(うち現金と貯金は770兆円)もあるのに逆進性が高い消費税増が必要との意見は理屈に合わない


当ブログでは、以前から「(アメリカのように)サービスの小さな政府を目指すのであれば、税は所得税中心にせよ、大きな政府を目指す場合、直接税の税収を拡充したあと、それでも不足する分の財源として消費税を含む税制改革を検討すべきだ」と主張しており、上記リンク先記事は、それを補強するものである。

しかし、連合会長も、どちらかというと与党寄りの大新聞も、すべて経団連と同じように、与党は、経団連と仲が良くて与党どころではない獰猛な新自由主義をむき出しにしている野党第一党や、その傾向をさらに尖鋭化させた野党第三党と手を携えて、消費税増税に邁進せよと叫んでいる。八方美人の総理大臣は、当然のごとくその方向へ向かおうとしている。

翼賛体制とはこのことかもしれない。民主党と自民党、連合と経団連が協力して新自由主義を推進する。与党代表にして総理大臣、かつて党内左派と思われていたし(実際には党内でも中道左派程度だったと思うが)、野党第一党の総裁も、与党時代のように政治思想・経済政策とも右派色の強かった派閥からではなく、かつては保守本流とされていた派閥から出ているが、それにもかかわらず、与党も野党第一党も、ともに党の歴史でこれまでにも見られなかったほど「経済右派」に傾いている。特に野党第一党のそれは異常なくらいで、もっともっと法人税を下げよ、もっともっと消費税を上げよと絶叫している。これを応援しているのが読売新聞や産経新聞である。

これ以上書き連ねるのもいやになるほどだが、こんな現状がある以上、与党・民主党の党内抗争、「小沢対反小沢」がどうしたこうした、という記事をブログに書く気になどとうていなれない。そんなことはどうだって良い。

今年の政治でほぼ確実に予想できることが一つあって、それは菅直人首相の退陣である。昨年末に発覚した、たちあがれ日本との連立工作に私は激怒したが、この件で党内反主流派(小沢・鳩山派)から突き上げを食った菅政権は、年明け早々総辞職に追い込まれるかもしれないとも思った。しかしそうはなりそうになく、官房長官の首をすげ替えることで主流派と反主流派(菅直人と小沢一郎)が手打ちして、しばらくは内閣が延命しそうな状況だ。しかし、内閣は持って春までだろう。統一地方選は、主流派の体制が続いていようが、反主流派の体制に代わろうが、いずれにしても民主党の惨敗は間違いないので、菅代表・首相の責任が厳しく問われることは間違いない。反主流派としては、そのあとで現主流派の体制を倒して権力にありつくシナリオを描いているのではないかと想像する。だが、どう転んだところで「国民の生活が第一」をないがしろにした不毛な党内抗争としか言いようがないし、さりとて解散総選挙で自公政権が復活すれば、政治は現在よりさらに苛烈を極めるものになる。

そこを突いて出てこようとしているのが、「減税」で有権者をたぶらかそうとする勢力であるが、主に所得税と住民税を減税する彼らの政策は持続不可能であるから、いずれ消費税増税の話が出てくる。もともと「減税」というのは新自由主義と親和性の高い政策であるから、「民のかまど」どころか、金持ちだけが肥え太る社会になる。彼らの指導者たちは、それをわかっていて運動を推進しているものと私は考えている。

大企業経営者と結託した労働貴族が主導する現政権、大企業経営者と直結した階級政党である野党第一党、「減税」で国民をたぶらかそうとする詐欺師たちのいずれにも与せず、再分配の強化を求めていくのが、「鍋党?再分配を重視する市民の会」である。今年も引き続き参加者募集中なので、お気軽な参加をお待ちしている。もちろ前回エントリの新年のご挨拶にも書いたように、単にSNSの一コミュにとどまらない意見発信を、今年は行っていく予定にしている。
皆さま、明けましておめでとうございます。
旧年中は「きまぐれな日々」をご愛顧いただき、どうもありがとうございました。

旧年は、「政権交代」への期待が裏切られた一年だったといえるでしょう。
現在台頭しているのは、強い力を持つ者による「上からの革命」を渇望する空気です。
もう20年も低落を続け、今日より良い明日が期待できない日本にあってはしかたがないのかもしれません。

しかし、「上からの革命」がろくな結果をもたらさなかったことは、歴史が教えるところです。
現在必要なのは、「政治不信」を乗り越えた、草の根の力の結集ではないかと考える次第です。

当ブログ開設以来、足かけ6年目に入ります。この記事の通番は1142番ですが(欠番14件を含む)、2011年をこの記事番号通りの「いい世に」したいと思っています。

そのためには誰か「偉い人」に頼り、すがりつくのではなく、自らの根をしっかり張って声を上げていくべきではないでしょうか。

昨年始めたmixiコミュ「鍋党?再分配を重視する市民の会」も、そうした思いで立ち上げたものですが、今年は、再分配の強化を求める市民の声を、SNSの一コミュにとどまらずより広く発信していきたいと思います。「減税日本」にではなく、再分配の強化にこそ明るい日本の明日があります。

それでは、本年もどうぞよろしくお願いいたします。


2011年 元旦

「きまぐれな日々」管理人 古寺多見(kojitaken)