大荒れなのは日本だけではなくアメリカでも同じで、11月2日に行われる中間選挙で共和党の勝利が予想されているが、一昨年の「チェンジ」旋風はどこへやら、茶番党というべきか茶会党というべきか(一般には「茶会運動」と訳されるが、私にはへそが茶を沸かす「茶番運動」としか思えない)、わけのわからない「ティーパーティー」旋風が吹き荒れ、共和党内をさらに「右」から脅かしている。
ここで「右」というのは、政治思想上以上に経済政策面を指す。オバマ大統領は「社会主義者」だと批判され、共和党は「小さな政府」を目指すが、現在の共和党主流は手ぬるいと、さらなる「極右」からこれを攻撃するのがティーパーティーであり、それを後押しするのが、一昨年の共和党大統領選候補争いにおいて、おバカな言動で全米の失笑を買ったサラ・ペイリンなのである。
呆れたことに、ティーパーティー運動を行う人たちは、自ら「無知」を売り物にしている。これについては、「gooニュース」に掲載された加藤祐子さんの記事「『無知』が選挙争点になっているアメリカ 誰が金を払っているのか」が、非常に面白い読み物なので、読者の方々にはご一読をおすすめする(下記URL)。
http://dictionary.goo.ne.jp/study/newsword/monday/20101022-01.html
加藤さんはコラムの書き出しに、「無知をよりどころにした民衆運動が国政を動かそうとしている」と書いているが、数年前に日本のネットにおける政治談義ブログで、「庶民」を合言葉にしながら、実際には無知を売り物にしていた人たちがいたことを思い出した。結局彼らは主流にはならなかったが、いわゆる「小沢信者」の主流も似たり寄ったりだったのであり、彼らがハーメルンの笛吹き・植草一秀に導かれた先には、陰謀論者・副島隆彦(通称ソエジー)がいた。
当ブログにいつも批判コメントを下さるcubeさんは、小沢一郎支持者ではあるものの副島隆彦一派を「支離滅裂」と批判するが、多くの小沢信者のブログで副島隆彦を批判する言説に接することはほとんどできない。副島が目指すのは「日本版ティーパーティー運動」であり、河村たかしは現にそれを実践しているが、副島は小沢一郎にもその指導者になってほしいと熱望している。だが、小沢信者の主流は、そんな副島を批判できないのだから呆れてものもいえない(と言いながら執拗に批判し続けているわけだが)。
加藤祐子さんのコラムに戻ると、その2ページ目に、ティーパーティーや共和党の政治家がほぼ全員「地球温暖化論」を否定していることが紹介されている。当ブログがこれまで何度も批判してきたように、「地球温暖化懐疑論」ばかりか「地球温暖化陰謀論」(地球温暖化論は原発推進勢力の陰謀だとかいうアレのことですよ)は、小沢信者の十八番である。そして、よく似た議論を展開していたのが、ネットにおける代表的な新自由主義者・池田信夫(通称ノビー)だった。
「リバタリアン」を自称する、実際には単なる新自由主義者であるソエジーや、ネットでももっとも獰猛なネオリベといえるノビーと親和性の強い「小沢信者」とはいったい何者なのか。アメリカではティーパーティーは共和党のさらに右側から出てきた。日本の自民党でも、この運動を日本に紹介しようとした片山さつきは、自民党の中でも、政治思想軸、経済軸ともに特に右寄りの政治家だから、片山がそういう動きをすることはまだ理解できる。
だが、小沢信者的史観によると、「民主党左派」のはずの小沢一郎(私は決してそうは考えないけれども)が河村たかしと(現在では)親密であることはどう考えたらよいのか。私は、小沢一郎が「これからはティーパーティーのような運動が力を増す」と勘を働かせた結果ではないかと疑っているが、それならなおのこと、極端な「小さな政府」と規制緩和を目指す究極の新自由主義であるところの、アメリカのティーパーティー運動や、日本の河村たかし一派への批判は、どんなにブログの読者から不人気のテーマであってもしつこく続けていかなければならないと思っている。
ところで、オバマ政権の2年目にティーパーティー運動が旋風を巻き起こしていることは、アメリカにとっては良くない兆候だ。というのは、かつてジミー・カーター政権が2年目を迎えた1978年に、カリフォルニアの富裕層が「納税者の反乱」を起こしたが、その2年後の1980年大統領選で、カーターはレーガンに惨敗し、レーガノミクスが始まったからだ。数年後、東大経済学部在学中の植草一秀が、当時日本で不評を極めていたレーガノミクスを肯定的に評価する研究をしていたことにも触れておこう。
日本の1978年というと、大平正芳が自民党総裁予備選で福田赳夫を破って総理大臣に就任したことにより、福田が推進していた右旋回の流れが止まり、日本政治が小康期に入る時期だったが、アメリカではいちはやく新自由主義化の流れが強まっていた。日本もそれを追うように1982年に中曽根康弘政権が成立した。この中曽根政権こそ、今日に至る日本没落の種を蒔いた最低最悪の政権だったが、小沢信者に中曽根批判の視点はほとんど見られない。彼らは、「悪いのは小泉・竹中だ」くらいにしか思っておらず、彼らのいう「新自由主義」とはいったい何を意味するのか、私にはさっぱり理解できない。
アメリカに続いて、日本の政治も今後冬の時代に逆戻りする予感がする。現在の菅政権は、事実上自民党政治を継承しており、これまで同様徐々に日本を悪くしていくと思われるが、それにとって代わるのが「ティーパーティー」の日本版であれば、それは菅政権よりも自公政権よりもずっと悪く、日本の将来には破局のハードランディングしかない。だが、名古屋から大阪から、その流れは強まっている。
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鳩山由紀夫の件である。次の総選挙で政界を引退するという、6月に首相を辞めた時の発言を、鳩山は撤回した。
小沢信者が言う「真実を伝えるメディア」である『日刊ゲンダイ』も鳩山由紀夫をかばい切れなかった。普段、「ゲンダイ相手にせず」を信条にしている私だが、「ゲンダイ」とは信じられないまっとうな記事なので、禁を破って紹介する。
http://gendai.net/articles/view/syakai/127102
鳩山前首相 「引退撤回」のKYぶり
自民の老害政治家と同じになってしまう
この男は、いったい何を考えているのか。鳩山前首相である。24日、訪問先のベトナム・ハノイで記者団に対し「議員を続ける方向に気持ちが傾いてきている。まだ決めていないが今年中に結論を出す」と話したというのだ。
今年6月の首相辞任時に「首相を辞めた人が影響力を行使しすぎてはいけない。次の総選挙には出馬いたしません」とテレビカメラの前で明言し、次期衆院選に出馬せず政界を引退する考えを示していた。
その後、地元後援会の会合で、11年春の統一地方選のころを目安に結論を出すと、先送り発言。そして今回の“続投宣言”である。
鳩山は続投の理由について「民主党の状況が思わしくない。自分なりの役割を投げ出していいのかという、いろいろな声をもらっている。自分の判断を前向きに変えないといけないかなと思う」と、党を思っての行動だとしている。
いやはや、KYにもほどがある。
「9月の代表選直前に、トロイカを主張して、菅と小沢の仲介役にしゃしゃり出たものの、結局まとめることはできなかった。その後、中国漁船衝突事件が起きると、“私だったら事件直後に、この問題をどうすべきか中国の温家宝首相と腹を割って話し合えた”と発言し、ひんしゅくを買った。最近は首相特使や前首相の肩書で中国、ロシアやベトナムなど海外を飛び回っていますが、この人の復権を期待している人はほとんどいませんよ」(政界関係者)
鳩山の引退撤回に対しては、早くも野党から「いやしくも首相だった人が自らの進退について発言したことを翻すのは国民の信頼を損なう」(公明党の山口那津男代表)と批判が出てきた。野党にとっては民主党政権を攻撃する新たな材料となったわけだ。
いつまでも権力に未練たっぷりでは、自民党の老害政治家と変わらなくなってしまう。
(gendai.net 2010年10月25日)
『ゲンダイ』でさえこれだから、ozw信者言うところの「マスゴミ」の代表格・朝日新聞はもっと辛辣だ。
「引退撤回―新たな役割期待したのに」と題した10月26日付社説では、下記のように書いている(引用箇所前後の部分を省略)。
鳩山氏には議員の資格がない、というのではない。
ただ、鳩山氏は政界引退を表明するにあたり、「総理たる者、その影響力を、その後、行使しすぎてはいけない」と語っていた。
自民党政権時代、首相を退いた政治家が陰に陽に政界に影響力を及ぼすことは珍しくなかった。それだけに、この鳩山氏の言葉には、首相経験者の新たな身の処し方を示そうという自負と潔さが感じられたものだった。
鳩山氏は政権交代前にも、自民党の森喜朗、安倍晋三両元首相を念頭に、「総理まで極めた人」のふるまいが「政治の混乱を招いている」と批判し、自らはその道は採らないと述べていた。それは、確固たる信念ではなかったのだろうか。
(朝日新聞 2010年10月26日付社説より)
私は、鳩山由紀夫には議員の資格がないと思うが、朝日新聞は社説ではそこまでは書かない。だが、同紙4面に記事が掲載された西山公隆記者の意見は、社説よりはるかに厳しく、私にも共感できるものだ。
asahi.comには出ていないようなので、手打ちで紹介する。
資格なし、政界引退を
私たちは、かくも言葉の軽い政治家を一国の指導者に担いだものである。鳩山氏の引退撤回発言に、私はあぜんとするほかなかった。政治家にとって最も大切な出処進退の決断で迷走。これでは首相もおろか、政治家としての資格もない。
政策をめぐる発言が迷走して鳩山氏が内閣総辞職に追い込まれた6月、私は首相官邸に詰め、右往左往ぶりを目の当たりにしてきた。鳩山氏は首相辞任を表明した時、歴代首相がほぼ例外なく行ってきた辞任会見に応じなかった。私は「国民に背を向けた」と紙面で批判した。一方で、政界引退の決断は評価していた。
自民党政権では、首相が辞任後にキングメーカーとして君臨し、不透明な形で影響力を及ぼす例が続いてきた。鳩山氏の決意は政権交代を機にそれを断ち切り、政治文化を転換させる試みだった。自らの「政治とカネ」の問題や、突然の辞任で政界を混乱させたことに対する、最高権力者としての責任の取り方でもある。私は、層解釈していた。
ところが、鳩山氏は半年もたたぬうち前言を翻した。
民意による政権交代で首相になった鳩山氏の言葉は、政治への信頼に直結する。まして鳩山氏が掲げた民主党のマニフェストの信頼性が国会論戦の大きなテーマになっている。鳩山氏の振る舞いは、民主党全体の信頼にまで及ぶ。
鳩山氏は「党の状況が思わしくないので、自分の役割を投げ出していいのかと考えた」と引退撤回の理由を語った。これは逆である。いまや鳩山氏が党の足を引っ張ろうとしているのだ。
民主党への信頼を取り戻すため、為政者の言葉の重みを国民に示すため、鳩山氏は約束を貫いてこのまま政界を去るべきだ。
(朝日新聞 2010年10月26日付4面掲載 西山公隆記者の署名記事)
朝日新聞の4面には、西山記者の署名記事のほか、「辞めるのや?めた 軽すぎる」「地元も不信」という見出しで、鳩山由紀夫への批判を大々的に展開している。
同紙によると、たとえば野田正彰・関西学院大教授(精神病理学)は、「恵まれた環境に育ち、優柔不断の性格で政治をやってきた。引退撤回も非常に情緒的な意思決定だ」と分析し、さらに鳩山由紀夫が代表選で菅直人支持から一転して小沢一郎支持に転じた理由が「首相にしてくれた恩返し」だったことについて、「私情と政治判断を混同していることに気づいていない。彼はこれからも同じことを繰り返す。この程度で政治家になれるのか」と厳しく批判している。
呆れたことに、年は鳩山由紀夫より若いが、「KY道」にかけては大先輩である、あの安倍晋三までもが「総理の発言があまりにも軽くなってしまう。3カ月くらい前の発言だから、多くの国民は驚くだろう」と発言している。3カ月どころか、前の日に行った所信表明演説をなかったことにして総理大臣の座を投げ出したことを、安倍晋三は忘れているのだろう。
6月の鳩山由紀夫の引退発言は、こんな安倍晋三(や森喜朗)のような人間がいつまでも政界にのさばり続けていることに対する、痛烈な批判になっていた。だから、鳩山内閣の業績をほとんど評価しない私でさえ、鳩山由紀夫の政界引退発言だけは、高く評価していた。
だが、歴代首相の中では他に安倍晋三くらいしか比較する対象が思い浮かばない「引退撤回」KY発言は、単に民主党の足を引っ張るのみならず、政界に害毒を流している安倍晋三らの行動を正当化し、彼らを勇気づけるものになった。安倍は、鳩山を批判しながら、内心でほくそ笑んでいるに違いない。
鳩山由紀夫の政界引退撤回は、このところの政界ニュースの中でも、とりわけ不快だった。
鳩山由紀夫よ、お願いだから、やめるのやめるのやめてくれ。政界をさらに混乱させようとしたことの責任をとって、直ちに議員辞職してくれ。こう言いたい。
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http://www.magazine9.jp/karin/101020/
もうひとつ、驚いたのは河村たかし市長の応援をしている、というオジサンの発言。何かとても熱心に応援しているようなのだが、河村市長の「市議会の議員報酬カット」を強く支持している模様で、「イチローがたくさん貰ってることには腹は立たないけど、議員が2000万貰ってるってことに腹が立つんですよ!」とアジテーション。また、生活保護を受けている人に批判めいた発言をしたり、「若者の貧困には同情するけど老人の貧困は自己責任」的なことを言って会場から非難されると慌てて取り消したりと、とにかく印象深い発言のオンパレードなのだった。
この部分だけ切り取り、
とだけコメントして『kojitakenの日記』に投稿したところ、一瞬だけとはいえ「はてな」のホッテントリになったが、読者の皆さまには、「『誰かが自分より得・楽してるっぽい』問題。の巻」と題された雨宮さんのコラム全文を是非お読みいただきたいと思う。雨宮さんが著書を読んだという山口二郎は、私は必ずしも高く評価する学者ではないが、彼のポピュリズム批判には異存はない。あの政治家にしてこの信者あり。
雨宮さんはさらに、『DAYS JAPAN』9月号に斎藤美奈子さんが書いた、大阪で2人の子どもが置き去りにされて亡くなった事件に関する記事(「児童虐待と『消えた高齢者』の背後に隠れているのは何?」)に触れている。テレビなどマスコミにも大きく報道された事件だが、その原因には児童相談所の絶望的な人手不足があった。雨宮さんのコラム経由で、斎藤美奈子さんが書いた記事の結びの部分を以下に引用する。
この件から間接的にいえるのは、十分な住民サービスを提供できるだけの体制が日本では整っていないという事実である。もっといえば、公務員の数が足りていない。
私が疑問に思うのは、にもかかわらず公務員の削減や給与カットを支持し、『小さな政府』を標榜する『みんなの党』などに投票する人がいることだ。『行政はいったい何をやっているんじゃ!』と怒るなら、公務員の数を増やして福祉に潤沢な予算を回せ、という主張が出てきたっていいんじゃないの?
行政の怠慢をなじりつつ『小さな政府』を支持する矛盾。公務員を非難してウップン晴らしをするような風潮がこのまま続けば現場の士気はますます下がるだろう。本末転倒、悪循環というしかない。
斎藤さんの文章を引用したあと、雨宮さんはコラムを下記の文章で締めくくっている。
児童相談所だけでなく、ハローワークや福祉事務所も慢性的な人手不足に悩まされている。
「自分より得・楽しているっぽい誰か」を見ると、条件反射的にイラッとくる気持ちはわかる。しかし、キツい言い方をすれば少なくない人の「条件反射」や「気分」がある意味でこの国の政治をグダグダにしてきた面も否定できない。ということで、私は自分に「条件反射」的反応を禁じている。とにかく、一度冷静になるように常につとめてはいるつもりだ。
最近では、小沢一郎を支持する人たちのうちかなりの人々が河村たかし支持に走ったり、天木直人が「みんなの党」に投票したのに小沢信者の誰もとがめ立てしないなど、「空気」によっていかようにも変わる人たちの多さに失望の度合いを強めていたが、ロスジェネ世代を中心に人気の高い雨宮処凛さんの認識がしっかりしていることには勇気づけられる。
それとは対照的なのが、雨宮さんに戯画化された「河村たかし市長の応援をしている、というオジサン」であって、アジテーションがうまくいかないと、途端に気が弱くなるあたりが笑える。徒党を組まなければ何もできない人なのだろう。
河村たかしに愛知県知事選への立候補を呼びかけられた自民党衆院議員の大村秀章は、私の見たところ立候補する気満点だ。いつまで続くかわからない野党議員暮らしを続けるくらいなら、名古屋で絶大な人気を誇る河村たかしの尻馬に乗って愛知県知事にでもなろうかと考えても不思議はない。こんな人間を頼りにしていたから、安倍晋三は3年前の参院選で惨敗に追い込まれた。
東京では副知事の猪瀬直樹が石原慎太郎に推されて来年の都知事選に立候補すると見られてきたが、ここにきて東国原英夫の立候補や、果ては石原慎太郎が4選を目指すという話まで出てきた。冗談じゃない。
大阪では橋下徹がどう動くのだろうか。辛坊治郎の名前も聞こえてくる。
政府税調の専門家委員会は、河村たかしとは正反対で増税を打ち出しているが、同委が所得税の累進強化を打ち出したことは前回のエントリでも紹介した。ところが、これを報じる共同通信の記事についた「はてなブックマーク」を見ると、
というコメントをつけている人がいる。狂ってる。現役世代からより多くとって、資産家老人などは安泰ってことだよ。世代間格差が拡大する。
だが実際には、専門家委、というより政府は資産課税の強化も打ち出している。たとえば相続税について、鳩山内閣時代の昨年12月21日に、下記のような閣議決定が行われている(下記URLの税調専門家委員会資料より引用)。
http://www.cao.go.jp/zei-cho/senmon/pdf/sen9kai3.pdf
相続税は格差是正の観点から、非常に重要な税です。バブル期の地価急騰に伴い、相続税の対象者が急激に広がったことなどから、基礎控除の引上げや小規模宅地等の課税の特例の拡充により、対象者を抑制する等の改正が行われました。バブル崩壊後、地価が下落したにもかかわらず、基礎控除の引下げ等は行われてきませんでした。そのため、相続税は100人に4人しか負担しない構造となり、最高税率の引下げを含む税率構造の緩和も行われてきた結果、再分配機能が果たせているとは言えません。また、金融資産の増加などの環境の変化が見られます。
今後、格差是正の観点から、相続税の課税ベース、税率構造の見直しについて平成23年度改正を目指します。
その見直しに当たっては、我が国社会の安定や活力に不可欠な中堅資産家層の育成や事業の円滑な承継等に配慮しつつ、本人の努力とは関係のない大きな格差が固定化しない社会の構築や課税の公平性に配慮すべきです。
さらに、相続税の課税方式の見直しに併せて、現役世代への生前贈与による財産の有効活用などの視点を含めて、贈与税のあり方も見直していく必要があります。
また、法人等を利用した租税回避への対応など、課税の適正化の観点からの見直しを引き続き行っていきます。
専門家委員会の資料に載っているグラフを見ると一目瞭然だが、地価はバブル崩壊によって1980年頃の水準に戻っているにもかかわらず、基礎控除は引き上げられたままだ。これでは再分配機能が弱すぎて、格差の固定化が進んでいるとして、鳩山内閣時代に見直しが閣議決定された。当時はまだ藤井裕久が財務大臣の頃で、専門家委員会委員長に神野直彦氏が招聘される前である。鳩山内閣の閣議決定は、別に「左派」が主導したわけでも何でもない、ごく当たり前の政策といえる。
ところが、河村たかしは「再分配なんて要らない」という意味でしかない「減税」を声高に叫んで、名古屋市民のハートをわしづかみにする一方、実質的には土豪に奉仕している。これぞ悪い意味でのポピュリズム。論外である。
最初に触れた、雨宮さんのコラムから河村たかし信者の暴言の部分だけ切り取って紹介した『kojitakenの日記』についた「はてなブックマーク」のうち、もっとも多くの「はてなスター」がついたコメントを最後に紹介する。
shigeto2006 こういう庶民の嫉妬心を利用するのが、日本型新自由主義。私が日本のネオリベが嫌いなのは、そのようなドロドロとした陰湿さが嫌だからなんだよ。 2010/10/23
雨宮処凛さんの言う、「誰かが自分より得・楽してるっぽい」と思って嫉妬心を全開にしているのが、「河村信者のオジサン」なら、それを利用しているのが河村たかしだといえるだろう。
河村たかしに踊らされるような人たちが、名古屋のみならず日本をダメにする。
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感じるのは、ネットで政治を語る人たちのメインストリームが、新自由主義批判がピークに達した2007年頃からずいぶん変わり、小泉政権時代に回帰しつつあるように思われることだ。
2006年の民主党代表選で勝利した小沢一郎が、「国民の生活が第一」をスローガンに掲げ、それまでの小沢一郎の政策路線を改め、前年(2005年)の『論座』のインタビューではおくびにも出さなかった、農業者所得戸別保障制度、子ども手当、高校無償化などの政策を打ち出して、2007年の参院選で安倍晋三を葬り、2009年の政権交代につなげたことは、「反小沢」と見られているであろう当ブログも高く評価している。
2007年当時、「公務員カイカク」に熱心だったのは、首相の安倍晋三だった。安倍晋三は前任者の小泉純一郎とは打って変わって不人気だったが、田原総一朗が必死に安倍を擁護している記事を今読み返すと感慨深い。
http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/column/tahara/070626_16th/index1.html
当時田原は、公務員カイカクに熱心な安倍晋三を叩く「安倍叩き」がトレンドになっていたことに激怒していた。同じ頃、安倍政権を攻撃する小沢一郎を「小沢自治労」と呼んだのは屋山太郎だった。だが、前年からこの年にかけてNHKが放送した「NHKスペシャル・ワーキングプア」のシリーズなどの影響もあって、格差・貧困への怒りが高まっていたこの年においては、安倍晋三の「公務員カイカク」よりも小沢一郎の「国民の生活が第一」の方が圧倒的に支持され、参院選で自民党は歴史的惨敗を喫して、安倍晋三は臨時国会初日に所信表明演説を行った翌日に辞意を表明するという、これ以上考えられないほどの "AbEnd"(=安倍の異常終了)で政権の座を去ったのだった。
しかし、昨年の政権交代前頃には既に風向きが変わっていた。新自由主義側は、「みんなの党」を押し立てて反攻に出てきた。当時の麻生政権は、「小泉構造改革を継承する」としていた安倍政権とはずいぶん政策を変え、リーマン・ショックを受けて景気を下支えするために積極財政に転じていた。竹中平蔵は麻生政権のこの政策を厳しく批判したものだが、民主党も麻生政権の「バラマキ」を批判していた。
昨年6月18日付当ブログエントリ「単純な『官僚叩き』は『小さな政府』志向の新自由主義の道だ」で、社会経済学者の松原隆一郎が「新自由主義の立場からすれば、官僚は私利のため国民に無駄を強いている」と指摘していることを紹介した。この頃には民主党代表は小沢一郎から鳩山由紀夫に代わっていたが、鳩山由紀夫はもともと民主党内でも新自由主義色の強い政治家であり、麻生政権の「バラマキ」批判へと舵を切っていた。政権交代しか眼中になかった小沢信者(ozw信者)は気づかなかったに違いないが、私は同じ記事で屋山太郎が民主党支持にスタンスを変えていることを指摘し、
と書いた。屋山太郎は、今では渡辺喜美一派に参加しているが、最近その屋山が民主党にすり寄っているのも、鳩山由紀夫らが強調する「官僚支配の打破」が単純な官僚叩きに堕して新自由主義の道を進む可能性があると見て取ったからではないかと私は想像している。
屋山太郎は先月産経新聞に寄稿した「菅氏も小沢氏も存在意義失った」と題する記事で、安倍晋三政権時代に生まれ、みんなの党が引き継いだ公務員カイカクを民主党は骨抜きにしていると怒っている。屋山は新自由主義者なりに首尾一貫しており、自らの信念に基づいて、2007年に小沢一郎を罵倒し、昨年には鳩山由紀夫に好意を示し、今年は菅直人を批判した。
ところが現在ozw信者が繰り広げている菅政権批判の中には、屋山太郎と同じような視点から政権を批判する者が目立つようになった。そういう連中は、河村たかしを擁護している場合が多く、「減税真理教」にはまり込んでいる。つまり彼ら自身が、かつてあれほど激しく批判した新自由主義者と化しているわけだが、彼らにはそんな自覚は露ほどもないに違いない。
屋山太郎なんかに言われるまでもなく、天下りなどの高級官僚の悪弊は改めるべきだろう。だが、それがなぜ河村の「減税真理教」信仰に短絡するのか、私にはさっぱり理解できない。私は、毎回毎回河村たかしを批判し続けてきた結果、前回のエントリでは、ついにコメント欄で「自治労」認定を受けるに至った(笑)。3年前に小沢一郎が屋山太郎に言われたのと同じことを小沢一郎支持者から言われるようになろうとは、と感慨深いものがある。これほどまでにも、新自由主義の浸透力は強い。何しろ、あれだけ新自由主義を全開にしている河村たかしを、小沢一郎と提携しているという理由だけでozw信者は批判するどころか絶賛するのだから。
河村たかしが唱える「減税真理教」の信者から見ると、政府税調の専門家委員会など、「増税を唱えて景気を冷やす悪魔」にしか見えないのかもしれない。先日、専門家委員会の議論が再開され、同委が「所得税の累進性を強化することが望ましい」、「証券優遇税制は廃止」などの方向性を示したとのニュースが流れている。
陰謀論者として悪名が高い副島隆彦(ソエジー)あたりは、神野直彦や大沢真理を「増税主義者」呼ばわりするのかもしれないが、専門家委は当然の方向性を示したものと私は理解している。
法人税減税についても、政権のスタンスが揺れていることが報道されており、そもそも政権は法人税を下げたとしても租税特別措置の見直しなどによって法人税収が減らない方策を模索している。一昨日(20日)の朝日新聞には、玄葉光一郎・民主党政調会長が「社会保険料の企業負担は、欧州よりも日本は低い。法人税率を5%引き下げる意味はどれくらいあるのかは、真剣に考えないといけない」と話した、と書かれている。
新自由主義者として名を馳せた玄葉光一郎でも、政権与党の政調会長になるとこういう発言になる。考えてみれば当たり前の話で、財界と政府の役割は異なる。私企業は利潤の獲得を追求するが、政府には富の再分配が求められるのである。方針はぶつかり合って当然。「官から民へ」とは、正しくは「公から私へ」と言うべきであって、河村たかしの「減税真理教」とは、「富の再分配を止めてひたすら利潤の追求だけをマンセーしよう」と唱えるトンデモ新興宗教以外のなにものでもない。そんなものに、陰謀論者の副島隆彦らに扇動された一部のozw信者が感化されて熱狂する。目をそむけたくなる醜悪な光景である。
ところで、河村たかしに関するニュースだが、署名集めを担った受任者の記名欄が未記入の署名が約11万4800人分あることを受け、名古屋市選挙管理委員会が審査期間を1か月延長して個別に調査する方針を固めた。これに対し、河村側は「恣意(しい)的な調査だ」と強く反発し、期間延長の取りやめを求める仮処分申請など法的措置も辞さない構えだという(リンク先の中日新聞記事より)。
審査期間が1か月延びると、河村がもくろむ愛知県知事選、名古屋市長選、名古屋市議選のトリプル選挙が不可能となることもあって、河村陣営がいきり立っているらしい。
提出された約46万5千人の署名のうち約11万5千人分が、受任者の記入欄が空白の署名簿に書かれているとの報道だが、1人で10回署名したなどと公言して河村たかしのお褒めにあずかろうとした河村信者のおばちゃんがいたという報道もあったことでもあり、選管には厳正な審査を行ってもらいたい。河村信者には勝手に騒がせておけばよい。
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http://www.asahi.com/politics/update/1015/NGY201010150006.html
河村市長、自民・大村衆院議員に愛知知事選立候補を要請
来年2月6日に投開票される愛知県知事選で、河村たかし名古屋市長は15日、自民党の大村秀章衆院議員(50)=比例東海ブロック=に立候補を要請したことを明らかにした。自らが代表を務める地域政党「減税日本」の支援候補とし、減税などの公約をともに訴えたい考えだ。
河村市長は15日朝、報道陣に「郷土愛のある方。減税ができる人ということでお願いした。感触はよい。出てくれると思っています」と語った。一方、大村氏は朝日新聞の取材に「河村市長とは盟友だ。ただ、知事選について正式な話はない。現時点でこれ以上のコメントはできない」としつつ、立候補の可能性については「あるともないとも言えない」と含みを残した。
大村氏は愛知県碧南市出身で当選5回。自民党政権では厚生労働副大臣を務めた。
同知事選は、民主党が元総務省官房審議官の御園慎一郎氏(57)、自民党が内閣府行政刷新会議事務局参事官補佐を務めた重徳和彦氏(39)、みんなの党が医師薬師寺道代氏(46)を擁立する方針。
(asahi.com 2010年10月15日11時2分)
民主党と自民党がともに元官僚、みんなの党が女性医師の擁立を決めているところに、かつて民主党に属していた河村たかしが現役自民党議員の大村秀章を立てて、既成政党、既得権益の打破を訴えて、名古屋のみならず愛知県全体を「河村帝国」にしたいかに見える。これが実現すれば河村たかしは民主党に、大村秀章は自民党にそれぞれ弓を引くことになる。河村は、自身も名古屋市長を辞任して改めて立候補し、愛知県知事選、名古屋市議選と名古屋市長選のトリプル選挙にする構想を持っているとも伝えられる。
大村秀章の名前を聞いて私が思い出すのは、3年前の参院選を1か月後に控えた6月、テレビ朝日の『サンデープロジェクト』に出演して「消えた年金」問題を民主党の長妻昭(前厚労相)と討論したが、当時野党の論客として鳴らした長妻に完膚なきまでに叩きのめされ、反論する言葉も出ずに涙目になる醜態を晒したことだ。2007年6月17日付の当ブログエントリ「自民党の『年金問題の切り札』・大村秀章の醜態」は、自公政権時代には長らく人気エントリだった(現在ではほとんど参照されない)。
とはいえ、与党の政治家が野党の政治家との論戦を行うのは、守勢に立たなければならない不利さはある。当時人気の高い論客だった長妻昭も、いざ厚生労働大臣に就任すると、目立った成果をあげることはできなかった。私は、長妻、大村両氏に小泉・竹中構造改革に親和的な体質を感じるので、二人とも支持しないが、それでも大村氏が自民党では片山さつきともども「派遣村」に足を運んだ数少ない政治家であることは覚えている。
しかし、前々回のエントリ「『日本版ティーパーティー』に入れ込む片山さつきと副島(そえじま)一派」で書いたように、片山さつきが自らサラ・ペイリンを気取って「日本版ティーパーティー運動」を宣伝したかと思うと、大村秀章も河村たかしから愛知県知事選出馬の誘いを受け、受諾こそしていないけれども、諾否をマスコミから聞かれて即答を避ける程度には心を動かされている。黒川滋氏は、ブログ『きょうも歩く』で、
と書いている。河村氏と友人であろうがなかろうが、年越し派遣村で汗をかき厚生労働関係に造詣の深い大村議員が、減税が第一の公約の政治勢力から立候補要請を即座に断らないというのは、自己否定につながらないのか。
社会保障、労働関係の施策は、企業福祉、家庭内福祉を多用して小さな政府路線をとってきた日本で、行き詰まりを見せている。多少なりとも社会保障について知識がある政治家なら、減税はできるわけがないと知っているはずである。
だが、河村たかしの主張に心を動かされているのは、何も大村秀章だけに限らない。さとうしゅういち氏によると、名古屋市議会のリコールを目指す河村たかしの「市民運動」は、
とのことだ。インターネットの「ネオコン」の方々から支持が厚い橋下徹・大阪府知事と、今までは名古屋で環境や平和などの市民運動をしてこられた一部の「左翼」の方々、一部インターネットの左翼の方々に評判がいい論客らが「相乗り」する形になっています。
ネットでのみ特異な集団を形成している「小沢信者」(ozw信者)の一部が副島隆彦(ソエジー)や中田安彦(「アルルの男・ヒロシ」)らに扇動されて河村たかし支持に走っていることを私は知っており、彼らozw信者の生態が、アメリカでサラ・ペイリンらが主導する「ティーパーティー運動」に共鳴する人たちとあまりにもよく似ているので、私は『kojitakenの日記』の記事「ozw信者さんたちが大好きなもの」でこれを皮肉ったが、リアルの運動家たちにも河村たかし支持が浸透しているとなると、事態は深刻だ。
上記リンク先でさとう氏が描いた2次元ダイアグラムを見ると、菅直人首相、小沢一郎元民主党代表、「一部左翼」の三者が揃って、自民党政権時代や鳩山政権時代と比べてグラフの下の方、つまり「再分配小」の方向に動いている。菅首相は民主党内で政権を支える前原誠司ら松下政経塾出身議員や、鳩山由紀夫と両天秤にかけながら菅政権も支える旧民社に引っ張られ、「一部左翼」は自分たちが喝采を送る河村たかしに引っ張られ(副島隆彦一派や植草一秀の影響も見逃せない)、機を見るに敏な小沢一郎も、世論のトレンドを読んで「小さな政府」側にシフトしたと考えられる。
さとう氏は、河村市長は「庶民革命」と言うが、例えば生活保護ギリギリくらいの人にとって、本当に負担が重いのは国保料や介護保険料などだと指摘する。河村たかしの支持者らからは評判が悪いであろう、政府税調専門家委員会委員長代理(つまり神野直彦氏の代理)を務める大沢真理氏も、9月3日付の朝日新聞で、2000年以降社会保険料の総額が国税収入の総額を上回っているが、正社員が加入する厚生年金の保険料が企業との折半であるのに対し、不安定で低賃金の非正規労働者が加入する国民年金は、月1万5千円程度を本人のみで負担するので、生活が苦しい人ほど負担が重く、保険料に依存する仕組みはもう限界を迎えていると主張している。
大沢氏は、「増税は景気が回復を待っていては遅い」とも主張するので、勝手に「増税=消費税」とすり替える人たちの標的になりそうだが、大沢氏は課税対象を広げて納税力のある人に負担をしてもらい、税収が増える仕組みを作るべきだと言っており、要するに再分配を強化せよと主張している。
一方、河村たかしの主張は、一言でいえば再分配なんてする必要はないというものだ。
それでも名古屋市民や愛知県民が河村たかしを支持するならそれは仕方がない。名古屋市や愛知県から(ついでに大阪府からも)市民・県民(・府民)の方々は逃げ出した方が得策だと私は思うけれども。
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何がって、どんどんポピュリズム的な言論が支持者を増やしてきている現実だ。
一昨年の大阪府知事選直前、大阪府民はみんな冷静で、橋下徹を支持する人などほとんどいないと伝えてきた人がいたが、現状は広く知られている通り。前記発言の主は、橋下徹こそ支持してないものの、小沢信者と化した。
河村たかしが旗を振った名古屋市議会のリコールに向けての署名運動にしても、名古屋から「署名が集まるはずなんてない」との声がずいぶん聞こえてきたが、河村らは必要数の署名を集めてしまった。
その河村たかしが、昨日(14日)の朝日新聞紙面に登場していた。同紙には、「衆院予算委が開かれた13日、朝日新聞記者と一緒に国会記者会館でテレビ観戦し、自民党の質問と菅直人首相の答弁を批評してもらった。(聞き手・渡辺哲哉)」と書かれている。
「テレビ観戦」とは昔のプロ野球、いやプロレス番組みたいだな、と思ったのはさておき、朝日新聞(東京本社14版)の紙面には、「首相、経済学わかってない」との見出しがつけられている。該当部分を下記に引用する。
河村氏の目玉政策は、市民税減税だ。河村氏は民主党で菅グループの事務局長を務めていたことがあるが、菅首相がデフレ脱却について「国債でお金を借りて何か使うか、税収で何か使うか」と答弁したとたん、すぐにかみついた。
「減税っていう道があるの。悪口言いたくないけど、経済学、わかってないですよ。入りが少なくなれば、役所はムダを削るよう精一杯努力する。菅さん、昔から脱官僚って言ってるけど、官僚が一番おいしいのは税なの。増税したら脱官僚にならんじゃない」
(2010年10月14日付朝日新聞4面より)
河村の言う「経済学」とはいったい何なのか、門外漢からは「神学論争」をしているようにしか見えない「経済学」とは本当に学問といえるのだろうかと言いたくなるが、記事の末尾に、河村が小沢一郎と会う約束があるからと言って去って行ったという記述を見るにつけ、過去に河村を「グループの事務局長」にしたという菅直人ともども、現在河村に接近している小沢一郎とは何者なのかという疑問が頭を離れない。私には、菅直人も小沢一郎も五十歩百歩の大衆迎合政治家にしか見えない。
また、菅や小沢と比較しても、さらに小粒な政治家たちとしか思えない松下政経塾出身の政治家たちは、同塾で「無税国家」の理念をたたき込まれているとのことだ。前東京都杉並区長の山田宏は、現実に杉並区で「無税国家」に向けての実験を行っていた。山田は、毎年一定の予算額を積み立てし、その利子で区民税を削減した上で、最終的(といっても何十年も先)には区民税をなくすという壮大な計画を実行に移していたが、幸い現区長はこれを反故にした。しかし、今度は名古屋市が馬鹿げた実験に舵を切ろうとしている。
当ブログの河村たかし批判エントリは、環境・エネルギー政策を取り上げた記事ほど酷くはないが、かなりの不人気だ。しかも、環境・エネルギー問題の場合、読者の反感を買うまでには至っていないが、河村批判記事は反感も買っているのではないかと思う。ブログ主は公務員を信用しすぎだと思っている読者は多くおられることだろう。
「官から民へ」(私はこれを「公から私へ」と言い換えるべきだと思う)や「小さな政府」の幻想は、それほどまでにも根強いのだろう。一部高級官僚の度外れた悪行が反感を買うのは当然だと思うが、それが一般の公務員にまで適用されるのは理にかなっていない。
いったい民間企業では、企業経営層による理不尽な不正義は行われていないのだろうか。そんなことはあるまい。民間企業の中でも、電力会社やガス会社などのインフラ系企業は、他の製造業と比較して、世界金融危機以降の賃金低下が極めて少ないが、人々の怒りが電力会社に向いているという話はほとんど聞かない。現実に経団連や電力総連を通して自民党や民主党に圧力をかけ、日本の「グリーンニューディール政策」推進を妨害しているのは電力会社なのだが、そんなことを指摘する人間はごく少数派である。
さて、当エントリの後半は唐突なようだが陰謀論批判である。「公から私へ」「小さな政府」論者と陰謀論者がかなりの重なりを見せるように私は思う。これを書きながら私が念頭に置いているのは、前回の記事でも取り上げた副島隆彦や中田安彦である。「ティーパーティー」、「片山さつき」、「副島一派」をキーワードにした前回エントリは、ストレートに河村たかしを批判したエントリと比較してもさらに不人気だったが、小室直樹の弟子を自称する副島隆彦の妄言には目に余るものがある。
直近の例でいうと、私は「小沢信者」の一人が、小沢一郎に「起訴相当」の議決を出した検察委員会のメンバー11人は統一協会のメンバーだったという陰謀論を根拠も示さずに垂れ流していたことを発見したが、言い出しっぺは誰か、ネット検索で調べてみると、案の定副島隆彦だった。副島は、自身が運営する「気軽にではなく重たい気持ちで書く掲示板」に自ら投稿した102番の記事「私たちの小沢一郎と小沢派国民2千万人の反撃がこれから始まる。」に、下記のように書いた。
この吉田繁實(引用者註:検察審査会で審査補助員を務めた弁護士)や、検察審査会員に選ばれた者たちは、統一教会という恐ろしい宗教政治団体のメンバーだろう。そして、この統一教会が検察庁や警察庁の幹部たちの中にまでたくさん潜り込んでいる。英語名では、Moonist (ムーニスト)という。現職のアメリカの国務省の国務次官補のひとりまでいる、潜り込んでいるおそろしい集団である。 あの日本で言えば「(拓大(たくだい)右翼、国士舘(こくしかん)右翼の元締め」のようであるディック・チェーニー副大統領(当時)が、「なに。アベ(安倍晋三首相のこと)は、ムーニストか。だったら、オレはイヤだから、会わない」と、この男でさえ、避けたのだ。そういう連中だ。
なんと副島隆彦は審査補助員と検察審査員を、何の根拠もなく統一協会のメンバーと決めつけている。安倍晋三の悪口を書いて左派のご機嫌を取っているが、安倍晋三とて統一協会系の大会に祝電を送るなど、統一協会との関係が取り沙汰される人間ではあるが(安倍の統一協会への祝電事件は、当ブログ開設直後の主要なテーマでもあった)、安倍晋三とて統一協会のメンバーではあるまい。単に祖父の岸信介から韓国関係の利権を引き継いだだけだろう。
ましてや勝手に検察審査員を統一協会のメンバーと決めつけるなど言語道断である。当ブログで「副島隆彦」を検索語にしてブログ内検索をかけていただければわかるが、当ブログが副島隆彦に言及したエントリは、当エントリで8件目で、いずれも今年(2010年)の記事だが、過去副島隆彦など眼中になかった私の視界に副島が入ってきたのは、いうまでもなく植草一秀と共著を出版したことによる。副島は、中川昭一の「もうろう会見」や過度の飲酒癖がたたったと思われる急死についても陰謀論を展開するような輩であり、当ブログで副島の言説を肯定的に取り上げたことは、もちろん一度もない。
これまで当ブログは植草一秀を陰謀論者の代名詞のように書いてきたが、ブログ開設から副島との共著を出すまでの間は、植草が陰謀論を展開したことによって得た金はほとんどなかったはずだ。しかし副島は違う。ずっと前から陰謀論で飯を食ってきた人間である。そんな副島に、ブログを書くことによって一銭の対価も得ていない人間が迎合する筋合いなど何もない。だから私は、いくら不人気でも副島の陰謀論を徹底的に叩き続ける。
ところが、そんな副島隆彦の陰謀論の火に油を注ぐ政治家がいる。田中康夫である。
私は、2007年の東京都知事選で、石原慎太郎を倒すべく田中康夫の立候補を期待していた人間だが、石原に勝てると露ほども考えていなかったであろう田中は、立候補するどころか極右の櫻井よしことテレビ番組(テレビ朝日の『サンデープロジェクト』)で石原慎太郎のみならず、対立候補の浅野史郎氏を揶揄する雑談を繰り広げていたのに私は激怒し、それ以来、田中に評価すべき点「も」あることは認めながら、田中に対してネガティブになった。当ブログの2007年6月6日付記事は、「反 『新党日本』 宣言 ? 『田中康夫』 『有田芳生』 を落選させよう!」と題している。この記事は、現在ではほとんど参照されないが(実際たいした記事でもないが)、公開当時にはかなりのアクセスを集めた。
残念ながら現在では田中康夫も有田ヨシフも国会議員になってしまった。田中の盟友・有田芳生は、統一協会ウォッチャーとのことだが、安倍晋三の祝電事件当時、週刊誌に登場しては安倍晋三を弁護し、懸命に火消しをしていたいかがわしい人物である。田中自身も、統一協会と関係があるとされる民主党参院議員の室井邦彦と親密であり、この件についてはかつて私自身が「だからといって田中康夫自身が統一協会と関係があるとはいえない」と田中を弁護して批判を浴びたことがあるが、田中自身にも胡散くささはある。
さらに田中康夫は、「国籍法」改正に反対し、平沼赳夫や城内実と共同歩調をとった。最近では田中は外国人参政権や選択的夫婦別姓にも反対しているのではないかとの情報もあるが、真偽は確認できていない。2005年に田中が小林興起らと「新党日本」を結成した時、私は「田中ってこんな右翼だったのか」と思ったものだが、田中は年々右傾化の度合いを強めているように見える。ちなみに小林興起も浪人時代にリチャード・コシミズを頼ったこともある陰謀論体質の政治家だ。
以上延々と田中康夫の悪口を書いたが、その田中康夫が最近垂れ流したのが、「検察審査員の平均年齢が30.9歳だったことは、統計学という『科学』を超越した、長寿国家ニッポンらしからぬ摩訶不思議な年齢構成比だ」という陰謀論である。田中はこれを『日刊ゲンダイ』という小沢信者御用達のイエローペーパーに発表したが、ネットでも参照できる(下記URL)。
http://news.livedoor.com/article/detail/5056359/
田中はここで「平均年齢出現の確率は100万分の7」という、週刊誌が書いた記事を盲信したものと思われるが、この計算は70歳以上の人は検察審査員を辞退できることを無視しているなど、信用できる推定とはいえず、仮に70歳以上を除外すれば確率は0.1%、つまり勝率5割のプロ野球・ヤクルトスワローズが10連勝する程度の確率になるらしい。今年、ヤクルトが10連勝を記録していることを覚えておられるプロ野球ファンの方もおられるだろう。
さらに、検察審査員の平均年齢は実は33.91歳だったという訂正が後になされており、その場合さらにありふれた事象となる。この時になされた説明も、算術計算で辻褄が合わないらしいが、お役所が審査員の平均年齢を低く発表して得られるメリットは何もない。お役所の仕事があまりにずさんで、何重ものミスを犯したとしか考えられない。
田中康夫自身ではないが、この件に関して若者に対する差別的言辞を弄した小沢信者もいた。彼らの正体を露呈したというべきだろう。
さすがに田中はそこまで酷くはないが、それでも「審査員は護られ、裁判員は晒される」というタイトル自体が問題含みだ。田中が「審査員同様、裁判員も守れ」と言いたいのなら、私は反対しない。しかし、田中の文章からそのような含意を読み取ることはできない。田中は、「裁判員同様、審査員も晒せ」と言っていると解釈するのが自然だ。
副島隆彦が「検察審査委員の11人は統一協会のメンバーだ」などというデマをばらまく現状で、審査員の実名を晒したりしたらどうなるか。彼らの社会生活は支障を来すだろう。審査員を提訴せよ、などと息巻く小沢信者もいるし、最悪狂信的な小沢信者に暗殺されかねない。
どう控えめに評価したところで、田中康夫は副島隆彦らの陰謀論の火に油を注ぐ軽佻浮薄な文章を書いたと言わざるを得ないだろう。恣意的に若者を選んだという印象を読者に与える田中の文章自体が、陰謀論以外のなにものでもないと当ブログは主張する。
とにかく私は、副島隆彦や田中康夫が垂れ流す陰謀論に心底怒っている。こんなものに影響されては日本はますますダメになる一方だ。
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従来2番目に多かったのは、稲田朋美と思想的に極めて近い城内実を非難した、2008年11月20日付の「テロ行為と極右政治家・城内実だけは絶対に許せない」だったが、このところ城内実が鳴りを潜めていることもあって、このエントリへのアクセスはこのところさっぱり伸びなくなった。酷使さま、もとい国士さまの方々のホープも、城内実から稲田朋美へと移りつつあるのかもしれない。城内実の場合、「たちあがれ日本」に参加しなかった優柔不断さが酷使さまたちの間で不評を買った。
もっとも今日のテーマは稲田朋美や城内実ではない。またまた河村たかし関連の話題なのだが、この河村たかしも極右思想においては稲田朋美や城内実に決してひけはとらない。
だが、現在河村たかしが注目されているのは、なんといっても名古屋市議会のリコール運動であり、住民投票が実施されることになりそうだ。住民投票が行われれば、その投票の結果は火を見るよりも明らかだ。つまり、間違いなくリコールは成立する。市議会側には先手を打って議会を自主解散する動きがあることは、前にも書いたと思う。
河村たかしの主張通り、議員定数も議員報酬も半減し、おまけに河村のいいなりになる市議が多数を占めれば、名古屋市政は河村の独裁となり、名古屋市民の暮らしは大打撃を受けるだろうが、自らそんな道を選ぶのであれば仕方がない。河村がやろうとしているのは、極端な「小さな政府」を地方自治で行おうという過激な実験である。
一昨日(10日)朝、テレビ朝日で小宮悦子が司会をやっているサンデーなんとかという番組を見て、政治家の討論さえもなくなり、ますます政局咄で飯を食う業界人が好き勝手雑談する場と化した番組内容に呆れたが、その中で週刊10大ニュースとやらが選定され、名古屋市議会リコールに向けての署名が目標を上回る46万人以上を集めたニュースも取り上げられた。藤沢久美という人が、当日出演はしていなかったが、市民自身による政治参加だとかいうコメントとともにこのニュースを「10大ニュース」の1位に推していたが、新自由主義の恩恵にたっぷり浴した人らしいコメントだな、と思った。
前回も書いたが、河村の運動はアメリカでブームを巻き起こした「ティーパーティー(茶会)運動」の日本版に過ぎない。「究極の小さな政府」を追求するこのティーパーティー運動も、保守派の市民たちによる草の根の運動だとされる。このところ毎日新聞がこれを活発に取り上げており、「茶会の乱」と題した3回連続の記事を掲載している。
その上篇で、毎日新聞は「連邦政府の役割の縮小を求め、オバマ政権が進めてきた主要政策にことごとく反発し、『乱』を起こしつつある」この運動について、
と書いているが、これと類似する河村たかしの運動を手放しで「新しい民主主義の胎動」と肯定的に評価するのが、藤沢久美のごとき、新自由主義で飯を食う業界人である。なお、「アウェークニング」というのは嫌な響きの言葉で、私には「われわれは『目覚めた民』だ」といわんばかりの、彼らの選民意識を感じる。妙な連想かもしれないが、それは、「われわれはマスゴミなんかに騙されない」と力み返る、ネットにおける小沢・河村信者を私に思い出させる。運動では「アウエークニング(目覚め)」という言葉を使い、運動の歴史的な意義が語られる。新しい民主主義の胎動か、一時的な保守派の反動に過ぎないのか、評価が定まるのはこれからだ。
中篇では、ネバダ州選出の上院選で、共和党候補で茶会運動の支援を受ける新人女性のシャロン・アングル氏(61)が、社会保障の廃止(!)や一部政府機関の解体を訴えて、上院民主党を統括するハリー・リード院内総務(70)を脅かし、世論調査では両氏の支持率は拮抗していることを伝えている。さらに、共和党支持者の中に、財政赤字を拡大し続け危機を招いたブッシュ前政権もオバマ政権も変わらないと見ていて、政府が大きくなりすぎたとして茶会運動に共鳴する人がいたり、それどころか民主党支持者までもが茶会運動に共鳴し、リード氏への投票を検討していることを紹介している。
さらに深刻な状況を伝えるのは下篇で、茶会運動の集会に参加した人たちの大半が白人であること、「オバマをケニアに送還しろ」などのプラカードを持ち込む人の姿が目撃されたことを紹介している。この毎日新聞のシリーズ記事には書かれていないが、ティーパーティー運動の参加者の中にはイスラム教の排撃を主張する人たちも少なくないといわれている。
今年2月に書かれたブログ『乾いた世代と廻る世の中』のエントリ「放課後ティーパーティーと元議員の差別発言」は、ハフィントン・ポスト紙が報じるティーパーティー運動の開会式で行われたスピーチを日本語訳付きで伝えているので、これを紹介する。
"People who could not even spell the word 'vote', or say it in English, put a committed socialist ideologue in the White House."
"His name is Barack Hussein Obama."
「英語で『投票』と言えず、字すら綴れない野郎が、社会主義のイデオロギーをホワイトハウスに注入した。そいつの名前は、バラク・フセイン・オバマだ」
"We do not have a civics, Literacy test before people can vote in this country”
「(オバマが大統領になったのは)投票する前にリテラシーテストがなかったからだ」
同ブログは、アメリカでは過去にジム・クロウ法により識字率の低い黒人の投票権をそのリテラシーテストによって事実上締め出しを行っていたことを紹介し、当時日本で話題になった平沼赳夫の蓮舫に対する差別発言「元々日本人じゃない」を引き合いに出して、「平沼赳夫と共闘すればいいと思うぞ」と皮肉っている。"bakawashinanakyanaoranai" で悪名高い城内実とも共闘できると私は思うけれども(下記URL参照)。
http://www.m-kiuchi.com/2008/11/11/bakawashinanakyanaoranai/
ティーパーティー運動とはそんな運動だ。ところが、呆れたことにこの「ティーパーティー運動」を日本に紹介して広めようとした政治家がいた。それが、なんと前述の城内実の宿敵として知られる自民党参院議員・片山さつきである(下記URL)。
http://satsuki-katayama.livedoor.biz/archives/2956502.html
上記リンク先の内容には触れないので、興味のある方はリンク先に飛んでご参照いただきたい。一つだけ指摘したいのは、ブログを飾る「日本を変える維新の志」というフレーズであり、元財務官僚の片山さつきとは、戦時中の「革新官僚」と似た気風を持った人なのかな、ということだ。それが清和会期待の星だった城内実と敵対していたのだから、何が何だかよくわからない。似た者同士じゃん。
そんな片山さつきを激しく非難したのが、陰謀論者として知られ、副島隆彦(ソエジー)の一派である「アルルの男・ヒロシ」こと中田安彦である(下記URL)。
http://amesei.exblog.jp/11589273/
以下引用する。
ティーパーティーはポピュリストやリバータリアンを横断する多様な保守的な考えを持つ人々が、反税金というスローガンで集まった運動体であるといっていい。そのような運動を消費増税を掲げている自民党の候補が標榜するのは、ちゃんちゃらおかしくて、まさに「臍で茶が沸いてしまう」という話なのだ。
当ブログの継続的な読者であればおわかりと思うが、私は「反税金」なるスローガン自体に反対である。「アルルの男・ヒロシ」こと中田安彦が主張していることは、「われこそが正統的なリバタリアンなり」ということであり、ここで繰り広げられているのは、片山さつきと副島隆彦・中田安彦一派による「新自由主義の正統」争いに過ぎないのである。
中田安彦は、こんなこともつぶやいている。
http://twitter.com/bilderberg54/status/23205941819
確かに、片山さつきは「日本版ティーパーティー」と寝ぼけたことを言っていたけど、小沢と河村こそが日本版ティーパーティーになりえた。
ここで中田が過去形を使っているのは、「ツイッターの『草莽パワー』と連携しなかった小沢陣営の失敗」と題した、中田のつぶやきからリンクを張ったブログ記事を受けてのことだが、小沢一郎は民主党代表選の論戦で、当初「所得税と住民税の大幅減税」を打ち出そうとしながら、結局これを主要な争点にするのを止め、「一括交付金」の一点に絞る作戦に出た。後者にも新自由主義的な問題点はあるが、所得税と住民税の大幅減は、必然的に社会保障切り捨てを招く論外の政策であり、小沢一郎がこれを主要な争点にしなかったことは、リバタリアン側から見れば「ツイッターの『草莽パワー』と連携しなかった小沢陣営の失敗」に相当するのかもしれない。
ところで中田安彦だが、昨年3月13日に東京・品川で開催された城内実の「信念ブログ」オフ会に参加していたこともわかった(下記URL)。
http://amesei.exblog.jp/9463537/
ここらへんの話は、前回のエントリにコメントをいただいたcubeさんに感謝しなければならない。cubeさんはコメントで下記のように指摘された。
(前略)「小沢信者」といっても、河村を応援しているのは、城内実も応援しているような、政治分析に論理性のない一部でしょう。特に、副島隆彦一派とか。彼らは、前から支離滅裂です。
たとえば、ブログ主さんの大嫌いな植草氏は、河村応援はしませんね。
2010.10.08 16:22 cube
このコメントを読んで、副島隆彦について調べていた時に、副島の子分格であるらしい「アルルの男・ヒロシ」こと中田安彦のトンデモエントリの数々に行き当たった次第である。
ただ、植草一秀のブログで「河村たかし」を検索語にしてブログ内検索をかけたところ、5件が引っかかり、いずれも軽い扱いではあったが好意的な言及であり、一度も批判はしていなかった。植草一秀は河村たかしが主導する名古屋市議会のリコール運動には一度も言及してはいないが、副島隆彦との共著は年中ブログで宣伝している。
上記のように、植草一秀に関する認識では残念ながらcubeさんと私では一致しないが、「城内実も応援しているような副島隆彦一派は、政治分析に論理性がなく支離滅裂」というcubeさんのご指摘には全面的に同意する。
そういえば城内実は(経済政策においては?)「中道左派」だとか言っていたような記憶もあるが、中田安彦のアプローチにはどういう見解なのだろうか。
城内実はともかく、私が問題だと思うのは、ネットで反自公政権運動を煽った多くのブロガーが、小沢一郎応援の旗を熱烈に振っていた副島隆彦の言説を、肯定的かつ仰々しく取り上げていることだ。あちこちの小沢信者のブログを見てみればよい。その多くには、副島隆彦のサイトだとか、たまには中田安彦のブログにもリンクが張られており、ブログ内検索で「副島」(たまに「福島」と誤記されていることもあるから要注意。「副島」は「そえじま」であって「ふくしま」とは読まないんだけどね)を検索語にして調べてみればわかるだろう。
政治思想右翼の城内実にすり寄る一方で、「究極の小さな政府」を目指す「日本版ティーパーティー運動」に入れ込み、民主党代表時代に「国民の生活が第一」を掲げて、子ども手当、高校無償化、農業者戸別所得保障制度など、「小さな政府」とは反対の方向性を打ち出そうとした小沢一郎(小沢一郎自身の方向性も怪しいが、それはひとまず措いておく)を「日本版ティーパーティー」の担い手にしようともくろむ人たち、それが副島隆彦一派である。
こんなのに易々と騙されてしまう「リベラル・左派」の脆弱さに長嘆息する今日この頃だが、最後に「ティーパーティー運動」の本質を一言でズバリ言い表した冷泉彰彦氏の寸評を紹介しておこう。冷泉氏は「ティーパーティー」を、
と評している。この「反エスタブリッシュメント」というところがキモで、エスタブリッシュメント層に対するルサンチマンが、今や「殉教者」となった小沢一郎を熱烈に崇め奉ることにつながるのだろうし、情念だけで結ばれているから、平気でそれまで持っていた思想信条をかなぐり捨てて、極端な「小さな政府」の思想に走ったって自己矛盾など全然自覚しない。「小さな政府論」と「反エスタブリッシュメント」という「情念」で結ばれているだけで、中身はバラバラ
そんな人々を操ろうとする独裁者候補たちは、出番近しと待ち構えているに違いない。それは、東京からではなく、まず日本第三の都市圏から現れた。次は、日本第二の都市圏が舞台になるのではないかと思えてならない。
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最初にこの件について書いた、同年3月12日付エントリ「テロを肯定する女・稲田朋美が今度は映画を検閲しようとした」を読み返すと、この時にも、TBSの「NEWS23」がこの件を報じると同時に、当ブログへのアクセスが急増したために稲田の妄動を知るに至ったいきさつが書かれている。一度ならず二度までもアクセス数を押し上げてもらって、私は福井に足を向けて寝られそうにもない(笑)。
こんなことがあったおかげで、私は映画「靖国 YASUKUNI」に興味を惹かれ、実際に映画館でこれを見たが、当時自民党の右翼議員・島村宜伸が「一貫したストーリーを見せるというよりは、様々な場面をつなげた映画。自虐的な歴史観に観客を無理やり引っ張り込むものではなかった」と述べた通りの内容で、むしろ思想の右左を問わず多くの方に是非ご覧いただきたい映画だと思ったほどだ(映画としてとびきりの傑作だとは思わなかったが)。なお、この映画にはほかならぬ稲田朋美も出てくる。
稲田朋美は、そんな映画に公開中止の圧力をかけ、現実に多くの映画館が公開を取りやめる中、辛うじて東京・渋谷の映画館が一昨年の憲法記念日に公開した。一方、稲田朋美の行動はどうだったかというと、同年4月6日のテレビ朝日『サンデープロジェクト』の出演交渉を受けながら出演を承諾せず、おかげで番組は田原総一朗による稲田朋美の欠席裁判となり、稲田は厳しく指弾された。これは、2002年8月に田原が高市早苗の、やはり靖国に関する言葉に対して、「こういう幼稚な人がね、下品な言葉で、靖国、靖国って言う」と激怒した時と並んで、田原の「靖国二大激怒事件」だった。
田原総一朗との議論からは逃げる「腰抜け」(笑)の稲田朋美だが、大衆をアジる才能だけは抜群らしい。他にも当ブログの天敵・城内実をはじめとして、その名がメディアに取り上げられると当ブログのアクセス数が伸びる政治家はいるが、国会の代表質問だけでここまでアクセス数を押し上げる政治家は、ほかにはいない。例えば城内実が当ブログのアクセス数を押し上げたのは、眞鍋かをりさんを無断で選挙ポスターに用いた件や、冬季五輪で女子フィギュアスケートについて城内実がブログに何か書いた時だった。城内実は、アジテーションよりも芸能・スポーツ関係が得意らしい。
実際、稲田朋美の国会代表質問は、昨日(7日)の朝日新聞にもほとんど取り上げられておらず、稲田が「総理がなすべきことは内閣総辞職か一刻も早い衆院解散」と言ったことが触れられているだけだ。あと、稲田の言葉遣いに菅直人首相が切れた件はコラムに書いてあって、菅直人も同様の言葉遣いで小泉純一郎首相(当時)の失言を引き出したじゃないか、と、菅直人を揶揄するのに引き合いに出されてはいるが、稲田自身はそのダシにされたにすぎない。しかし、テレビで稲田の質問を見ていた人のインパクトが大きかったことは、平日の昼間で視聴率もごく低かったであろう国会中継なのに、検索語「稲田朋美」でググった人たちが多かったことからうかがい知ることができる。
私が苦々しく思うのは、稲田朋美の質問に熱狂した人たちの多くが、その前に質問した谷垣禎一・自民党総裁を引き合いに出し、谷垣を批判して稲田を持ち上げる挙に出ていることだ。しかも、それはネット右翼にとどまらず、先の参院選で「みんなの党」に投票した天木直人も同じだ。「みんなの党」に投票した天木直人は、稲田朋美の代表質問を、
と絶賛するが、同じ代表質問を見た『日本がアブナイ!』のブログ主・mewさんは、一切の馴れ合いを排し、周到に準備された自分の言葉で菅民主党政権の政策の弱点や、民主党という政党が抱えている矛盾を見事についた。民主党攻撃材料のすべてがその中にあった。
と書いている。あまりの落差に、頭がクラクラする。何か「国旗や愛国心」がどうの「反日行為」がどうの「腰抜け」「愚挙」などと,今、国民が目の前で抱えている問題など目にはいっていないかのようなことばっか言っていて、「あら、自民党は、また超保守の新人女性でも売り出すつもりなのかしらん」と思いつつ、TVに近寄ってみたら、何と、あの超保守のマドンナの稲田朋美ちゃんだったですぅ。(@@)
実際、問題なのは国民生活にかかわりが深い経済問題のはずで、稲田朋美の代表質問を無視した朝日新聞は、「税制改革 定まらぬ首相」という見出しの記事を、「政策」面と銘打った7面に載せているが、参院選惨敗後、消費税増税を口にしなくなった菅首相に不満たらたらの上、菅首相が公約している法人税減税について、企業を優遇する租特(租税特別措置)の見直しなどの「課税ベース(対象)の拡大」を前提としていること、つまり法人税全体としては減収にならない方向性を示していることについて、
などと、財界を代弁する記事を書いている。この記事を書いたのは伊藤裕香子という記者であり、見覚えがあったので自ブログ内検索をかけてみると案の定で、今年6月11日付エントリ「消費税増税による財政再建を暗に求める朝日新聞の欺瞞」が引っかかった。朝日新聞経済部の「経済右派」記者として記憶しておきたい。伊藤裕香子の記事にも典型的に見られる通り、朝日新聞は菅政権を、経済軸のさらに「右」から攻撃している。これは昔からずっとそうで、あの安倍晋三でさえ朝日新聞に経済軸の「右」側から攻撃されたことがある。産業界は「全体の税負担が実際に軽くなる改革でなければ、国際競争力の強化にならない」と指摘する。
朝日新聞がますます「小さな政府」志向を鮮明にしてきた現状こそ問題なのだが、そんなことは天木直人の関心の埒外らしい。経済問題に関心を持たず、極右の稲田朋美が菅政権を攻撃するのを「敵の敵は味方」の論理から喜ぶ、「みんなの党」に投票した天木直人のような人間が、「小沢信者」たちに悪影響を与え、日本をますますダメにする。
そもそも、小沢信者の思考様式は「敵味方志向」の一語で言い表されるものであり、だからかつては主張が稲田朋美とほとんど変わらない城内実を絶賛しながら、映画『靖国 YASUKUNI』公開中止の圧力をかけた稲田朋美を非難するなどの矛盾した行動をとっていた。その意味では、小沢信者がいまや稲田朋美をも絶賛するようになったことは矛盾が一つ解消した、喜ばしいことなのかもしれない。
小沢信者の大きな矛盾はもう一つあって、橋下徹を激しく非難しながら、河村たかしを絶賛することだ。こと歴史修正主義に関しては、河村たかしは橋下徹よりもずっと安倍晋三・平沼赳夫・城内実・稲田朋美らに近い。また経済政策も極端な新自由主義である。ところが、小沢一郎が河村たかしによる名古屋市議会リコールの署名運動を支援して、松木謙公や三宅雪子らを名古屋に送り込んだいきさつなどもあり、小沢信者の多くは河村たかしを絶賛する。
アメリカで、「ティーパーティー運動」というのがあり、「9・11陰謀論者」として小沢信者の間でも人気の高い共和党下院議員のロン・ポールが始め、次期大統領候補(!)といわれるサラ・ペイリンも参加している。そういえば、前記『日本がアブナイ!』で、ブログ主の友人によると、ペイリンは「共和党の稲田朋美みたいなやつ」なのだそうだ。言い得て妙であり、ペイリンもまた極右で有名だ。
例によって脱線したが、「ティーパーティー運動」とは何ぞや、というと、要するに現在の共和党よりももっと過激に「規制緩和」と「小さな政府」を目指す運動だ。河村たかしらの運動は、要するに「日本版ティーパーティー」運動といえ、それは小泉純一郎や竹中平蔵らよりももっと過激に「規制緩和」と「小さな政府」を目指すものにほかならない。しかも、小泉純一郎は靖国神社参拝には熱心だったものの、それは保守的な支持者のご機嫌を取るための打算に基づくもので、小泉自身は必ずしも歴史修正主義者とはいえない一方、河村たかしは "THE FACTS" の意見広告にも名を連ねた、筋金入りの歴史修正主義者である。極端な新自由主義者にして、極端な新保守主義者、というより極右。これが河村たかしの正体なのである。
こういうのを公然と支援する小沢一郎とは何者なのか、と私は言っている。私が「小沢=河村」と決めつけていると、読者のcubeさんはご不満の様子だが、cubeさんが「小沢=河村」に対する反証を示したことは一度もない。小沢一郎の功罪の総括がなされないまま強引に小沢一郎を葬り去ろうというのが、「西松事件」以来の一連の流れであり、特捜検察の捜査や検察審査会の議決をも私は強く非難する。その上で小沢一郎を批判している。
だが、真に問題なのは、もはや小沢一郎自身より「小沢信者」であり、彼らはかつての「小泉信者」と質において何も変わらないばかりか、「小泉信者」をより一層極端にしたものになっている。
稲田朋美や河村たかしを持ち上げることが一体何を意味するのか、冷静に考えてみよといいたいが、そもそも冷静に物事を考えることのできる人間であれば、「信者」になんかなりようがないよなあと匙を投げる今日この頃なのである。
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当ブログはかつて、「安倍晋三を『the END!』させよう」という「AbEndキャンペーン」("AbEnd"とは安倍晋三の異常終了を意味する)の旗を振ったが、当時キャンペーンに参加した多くの人たちは「小沢信者」と化した。だが、安倍晋三よりも小沢一郎よりももっと危険なのが河村たかしや橋下徹であると私は考える。
安倍晋三は、総理大臣になった前後、顔写真にちょび髭を描かれるなどしたが、大衆を扇動するどころか「KY」と馬鹿にされ、参院選で惨敗し、臨時国会の所信表明演説を行った翌日、突如政権を投げ出した。今でも自民党町村派で存在感を誇示しているが、安倍がのさばればのさばるほど自民党は弱体化する。現に谷垣禎一総裁にとっては異論を唱える頭の痛い異分子になっているし、町村派では一時キングメーカーとして権勢を誇っていた森喜朗は、安倍晋三がでかい顔をしているのに切れて、派閥を脱退した。安倍は、自民党にとどまるよりも「たちあがれ日本」に行くべき政治家だが、自分が見えていない安倍は「再チャレンジ」の夢を捨てていないため、自民党にとどまり続け、その結果自民党の足を誰よりも強く引っ張っている。今となっては、こんな政治家は時々馬鹿にする程度で十分だ。
また小沢一郎は、先の民主党代表選で国民的不人気が証明された。「小沢信者」の抱く幻想と小沢一郎の実像には、あまりにも開きがありすぎるが、民主党代表選で、得意とするはずの地方で票を稼げなかったことから、神話は既に崩れており、自民党とはもちろん、「みんなの党」とも組めないだろう。大衆迎合主義者(ポピュリスト)である渡辺喜美は、不人気が証明された小沢一郎になど魅力を感じないだろう。小沢一郎が組む可能性があるのは、これまた「たちあがれ日本」くらいのものではないか。
だが河村たかしは違う。名古屋市長選への出馬を決めた時は、民主党に弓を引く形だった。当時、某ネトウヨ系有名ブログが、河村たかしは民主党の支持などなくても勝てるのに、当初内定していた候補の出馬を取りやめさせた民主党が、勝ち馬に乗ろうと勝手に推薦してきたのであって、むしろ民主党の支持で河村たかしの票が減る、などと書いていた。当該ブログ主は、どうやら民主党は大嫌いだけれど河村たかしは大好きらしい。誰かというと某ヒロシ君のことである。リンクは張らないので、物好きの方は当該エントリを探してみられたい。
このように、有名ネットウヨブロガーの支持も得ている河村たかしだが、呆れたことに民主党代表時代に河村に弓を引かれた小沢一郎が、何を考えたか河村たかしと結託したらしく、松木謙公や三宅雪子を名古屋に送り込んだ。これら全国区の有名人(?)の応援の甲斐あって、河村たかしの名古屋市議会リコールに向けての署名は、必要数に達した見通しだ。
もともと所得税と住民税の半減を掲げる小沢一郎の政策は、「減税日本」を掲げる河村たかしとは親和性が強かった。小沢一郎は、「国民の生活が第一」を掲げながら、今なお「小さな政府」の看板を下ろしていない。この矛盾は、民主党が政権についた今、もう少しまともに批判されてしかるべきではないか、小沢一郎に遠慮してそこをおろそかにしていては、前に進めないのではないかと私は考える。
2007年の参院選を前に民主党が作った、「大増税で生活がガーン!なことに。」と題した漫画も、今から見れば突っ込みどころ満載だ。民主党は、漫画の末尾で「格差是正のための『税制改革』を実施します」と書いているが、小沢一郎は別に金持ち増税や法人税率引き上げを考えていたわけではなく、それどころか同じ2007年の参院選前に消費税の3%増税(つまり税率10%で、今年菅直人が言い出した税率と同じ)を口にしたし、今年の民主党代表選同様、大幅な所得税と住民税の減税(小沢一郎の腹案は、所得税と住民税をともに半減することだったらしい)を公約に入れようとしたが、これを断念した。つまり、当時民主党が考えていた「税制改革」では格差が是正できるはずがなかったのである。だが、参院選は相手の安倍晋三があまりにひどすぎたために、小沢民主党が圧勝した。それには、「国民の生活が第一」というスローガンの力が大きかった。このスローガンだけは、今も色あせない卓抜したものだ。
その小沢一郎は、「西松事件」によって「政治と金」のイメージが国民に強く植え付けられた。この捜査や大久保秘書(当時。その後大久保氏は小沢一郎に解雇された)の逮捕・起訴が正当だとは私は思わないし、「西松事件」で東京地検特捜部をずいぶん批判したために、私自身「小沢信者」呼ばわりされた。だが私は、小沢一郎だろうが東京地検だろうが批判すべき時には批判するし、東京地検批判が結果的に小沢一郎擁護につながって、反民主党の自民党信者がそれを気に入らなかったとしても知ったことではない。そもそも私は特捜検察など廃止すべきだと考えている。現在話題になっている大阪地検の件は、特捜検察が百害あって一利なしの存在であることをよく示している。
しかし、小沢一郎は企業・団体献金の禁止や取り調べの全面可視化について、民主党の政策を前進させなかった。小沢一郎は確かに総理大臣でこそなかったが、前首相・鳩山由紀夫を思いのままに操れる力を持っていたことを疑う人間は誰もいない。取り調べの全面可視化の件に関しては、小沢一郎が検察と裏取引した影響で、民主党政権が及び腰になったとの観測も流れた。一言で言えば、小沢一郎は結果を出せなかったのである。政策論争で菅直人との違いを打ち出せなかったことと合わせて、これでは小沢一郎が代表選で敗北したのも止むを得ない。
今後の政治の主役はもはや小沢一郎ではない。小沢一郎はもう70歳近い。東国原英夫が来年の宮崎県知事選不出馬を表明し、国政への転進を示唆しているが、東京都知事選出馬もあり得るという。どちらの選択肢を選んでも、東国原は今後さらなる害毒を撒き散らすだろう。その翌年には大阪府知事選があり、橋下徹が再選を目指すかどうかは不透明だ。おそらく東国原同様出馬しないのではないかと思う。その流れの中に、河村たかしも位置づけられる。
河村たかしについては、前エントリのコメント欄で、さまざまな意見をお持ちの読者から興味深いコメントをお寄せいただいている。
その中で、「リベサヨ」という言葉に注目した。ネットで調べてみると、「リベサヨ」とは濱口桂一郎氏がブログ「EU労働法政策雑記帳」で常用する言葉で、「ポリティカルコンパス」でいう「リベラル右派」(政治思想的には左派で経済思想的には右派=経済思想的には規制緩和・小さな政府をよしとする新自由主義に近い人たちで、植草一秀もこれに含まれる)に当たる人たちを指すらしい。ポリティカルコンパスは、昔私もやってみたが、当然ながら私は「リベラル左派」になる。
その「リベサヨ」の人たちが持つルサンチマンが、河村たかしらの支持につながるのではないかとのことだが、ことはそう単純ではない。河村たかしを支持する人たちは、一方で平沼赳夫や城内実らにも抵抗を持っていないことを私は知っているからだ。そもそも、"THE FACTS" の意見広告に名を連ねた河村たかし自身が、ポリティカルコンパスでいえば「保守右派」であり、「リベサヨ」ではなく「リベウヨ」に当たる。本音では経済政策に興味がない平沼赳夫や城内実は、長く「保守左派」(「ソシウヨ」?)と見なされてきた。河村たかしと城内実の共通点は、政治思想的に極右であることだ。「小沢信者」は、自身が左翼でありながら、河村たかしと城内実への支持を矛盾なく両立する。それでいて彼ら小沢信者は安倍晋三、稲田朋美、橋下徹らを強く非難するのだからわけがわからない。少なくとも私には全く理解不能である。
もっとも、以上は軽薄に過ぎる軽口かもしれない。おそらく事態はもっと深刻で、「dongfang99の日記」を引用しながらぽむさんが指摘しているところが、特に懸念される。
ナチスをもっとも熱狂的に支持した層とされるのが下層中産階級の人々ですが、ナチスは巧みに彼らのもつ「既得権益者」へのルサンチマンをあおったのです。産業構造の変化で富や社会的地位を得たユダヤ人や組合を組織し団結して権利を主張できる労働者が彼らの憎悪の対象となったことはよく知られています。
スターリン時代のクラーク(富農)撲滅運動や文革も権力者が「既得権益者」への大衆のルサンチマンを利用した代表的な例です。
おかげで真に大衆の幸福を奪っている者たち?大資本家や党の幹部たちへの批判をかわすことができたのです。
実際、河村たかしがもし名古屋市の独裁者として君臨することになれば、一番喜ぶのは名古屋の土豪であり、もッとも悲惨な目に遭うのは名古屋の一般市民だろう。同様に、もし小沢一郎が総理大臣になって、所得税と住民税を半減したら、全国の土豪が喜び、日本社会の格差はさらに拡大し、日本は焦土と化してしまうに違いない。
菅直人の場合は、小さな政府志向とはいえないけれど、東京に本社を持つ大企業優遇で、それはそれで問題だ。だが、大衆のルサンチマンを利用して名古屋の独裁者に成り上がろうとする河村たかしや、河村を支援する小沢一郎はもはや賞味期限切れであるにせよ、今後橋下徹や東国原らが何をやろうとするかを考えると、どっちもどっちというか、緩やかな破滅と一気呵成の破滅の違いしか、菅直人と河村たかしの間には見出せないように思われる。
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http://www.asahi.com/politics/update/0930/NGY201009300004.html
河村側が設定した目標は、無効票を多めに見積もって設定した数字だから、リコール成立はほぼ間違いないと考えるべきだろう。これで、住民投票などによって名古屋市は4億5千万円の税金を無駄遣いすることになってしまいそうだが、残念ながらそれが名古屋市民の選択なのだから仕方ない。
大阪府の橋下徹といい、この河村たかしといい、モンスター首長の人気ぶりには呆れるばかりだ。それだけ日本各地で苦しくなる一方の暮らしに閉塞感が強まっているのだろうが、間違った方向に舵を切ろうとしている人たちへの人気が高まっている現状を憂慮するほかない。
当ブログには、尖閣諸島沖の衝突事件を取り上げろというリクエストもいただいているが、メインテーマとして取り上げるつもりはない。現在目立つのは右翼のヒステリックな叫びであり、火に油を注いだって仕方ないからだ。その中で、石原慎太郎なる犬同然の人間が、「ヤクザ国家には核武装しかない」などと週刊誌でキャンキャン吠えているようだ。その石原は、河村や橋下といったモンスター首長のはしりであることを指摘しておきたい。
尖閣諸島沖事件と相前後して、ロシアのメドベージェフ大統領が北方領土を訪問する意思を示すなど、大国が日本に対して強い態度をとることが目立っているが、いうまでもなくこれは日本の国力が落ちたためだ。思い出せば、1990年初頭には北方領土の返還が視野に入った時期があったが、当時のロシアはソ連崩壊直後の混乱で国力が落ちていた。一方、日本は海部俊樹が総理大臣を務め、小沢一郎が自民党幹事長の時代。あの頃、日本は北方領土問題を金で解決しようとしているかに見えた。当時、私の友人は「日本は北方領土を買うんだよ」と皮肉を込めて言っていた。
現在の菅政権の対応は頼りない限りだが、責任を菅政権にのみ帰しても得られるものは何もない。政治に必要なのは、なぜ日本の国力がここまで落ちたのかを分析し、国を立て直すことだ。まさに「失われた20年」(というより中曽根政権時代から数えて「失われた30年」)であって、その間違った方向へと向かった誤りを、早く総括して立ち直ることが必要だ。内政あっての外交であり、先の戦争だって内政の失敗が無謀な戦争へと国を突っ込ませた。
折しも、昨年(2009年)の民間給与所得が国税庁調べで前年比23万7千円減(5.5%減)の405万9千円となったことが報じられた。統計を取り始めた1949年以降で、過去最大の減少幅を記録した一昨年(同7万6千円、1.7%減)を大幅に上回ったが、2年間を合計すると、金額にして31万3千円、率にして7.2%も下がったことになる。2007年にはわずかに前年比で増えていたが、その前は1998年から2006年まで9年連続で前年比で減っていた。
トラックバックいただいた『ニコブログ』のエントリ「『企業平均給与23万円減、過去最大の減少』の衝撃」が、9年連続で民間給与所得が減少する直前の1997年との比較を行っているが、30?34歳で16.8%、35?39歳で15.6%、40?44歳で10.2%、45?49歳で10.8%、50?54歳で14.7%減少となっている。しわ寄せは40代には比較的小さく、30代と50代に大きいことがわかる。さらに悲惨なのが新卒であることはいうまでもない。
私が思い出すのは、1995年に日経連が打ち出した「新時代の『日本的経営』」である。日経連がこの方針を発表すると同時に、まず大企業が賃金切り下げ競争を始めた。「成果主義」など賃金切り下げのための方便に過ぎなかった。その影響が現れる直前の1997年に民間給与所得がピークに達し、以後減少の一途をたどったのは必然の帰結である。賃金切り下げはその後さらに、派遣労働の範囲拡大へと進んでいく。
手前味噌だが、「新時代の日本的経営」を検索語にしてGoogle検索をかけると、当ブログの2009年1月19日付エントリ「1995年?『新時代の日本的経営』と内橋克人『共生の大地』」が引っかかる。当該記事自体には大した内容はないが、そこで取り上げた内橋克人の『共生の大地―新しい経済がはじまる』(岩波新書、1995年)は、今なお価値を失わない、読まれるべき本だ。
15年前に書かれたこの本が今なお価値を失っていないことは、内橋克人にとっては名誉なことだが、日本にとっては不幸なことであり、要するに内橋克人が書いた「新しい経済」は未だ始まっていないのである。1年半以上前の当ブログの記事では、当時民主党代表を務めていた小沢一郎が、「2つのニューディール」として、「環境のニューディール」と「安心・安全のニューディール」を打ち出したことを評価する文章を書いていたが、「グリーンニューディール」を鳩山由紀夫も菅直人もさぼり続け、小沢一郎も先の民主党代表選で争点にもしなかった。その代わりに小沢一郎が言い出したのはひも付き補助金の一括交付金化による財源捻出と所得税・住民税の大幅減税だった。何のことはない、自民党から自由党時代までに小沢が唱えていた「小さな政府」路線に立ち返ったわけだが、悪名高い「小沢信者」のみならず、小沢支持者にも菅支持者にもそのことを指摘する人間はほとんどいなかった。図に乗る小沢一郎は、子飼いの松木謙公や三宅雪子を名古屋に送り込み、河村たかしを応援させる暴挙に出た。新自由主義者へと先祖返りした小沢一郎を、私は許せない。
思えば、中曽根政権時代の第二臨調の「民活」(民間活力の活用)から「新時代の『日本的経営』」を経て、橋本政権の「8大改革」、そしてそれらの総仕上げとしての小泉・竹中「構造改革」へと進んだ流れの中に、小沢一郎も新自由主義の唱道者の一人として位置づけられるし、それを示した小沢の著書が1993年の『日本改造計画』である。ところが、今なお小沢一郎は「『日本改造計画』の頃と私は変わっていない」と口にする。なぜ小沢一郎がそんなことを言うかというと、「国民の生活が第一」を実現させるために不可欠であると私が考えているところの「高福祉高負担」路線を日本人が望んでいないと小沢一郎が見ているためではないか。
小沢一郎にはそうした嗅覚が強く働く。本来は利益誘導型政治家だった小沢が90年代初頭に新自由主義路線を掲げたのも、2006年に民主党代表に就任したと同時に「国民の生活が第一」をスローガンに掲げたのも、現在再び新自由主義路線に回帰しようとしているのも、同じ動機に基づくものなのではないか。私はそういう仮説を立てている。私に言わせれば、小沢一郎こそ典型的な大衆迎合主義者(ポピュリスト)であり、2006年からの民主党代表時代には、それが良い結果をもたらしたこともあるが、現在は害毒の方が目立つ。菅直人も世論の動向に敏感な風見鶏だから、世論が新自由主義に容認的なら、それでなくとも経団連、大企業御用労組、松下政経塾出身や旧民社の民主党議員たちにがんじがらめにされている菅直人はますます新自由主義的な傾向を強める。
例によって小沢一郎批判へと話がそれてしまったが、公務員の給料を減らせ、議員定数を削減せよ、税金は「悪」だ、民主党を「減税政党」にせよという河村たかしを、名古屋市民のみならず日本人の多くが支持する現状は嘆かわしい限りだ。小沢一郎が「マスゴミ」の標的になっていると、被害妄想全開で絶叫する「小沢信者」の中には、熱狂的に河村たかしを応援する者が多いが、テレビ朝日で小宮悦子が司会を務めている、サンデーなんとかという番組が何度も何度も河村たかしを好意的に取り上げ、名古屋市議会リコール運動を後押ししていた事実を、彼ら小沢信者はどう説明するのか。「マスゴミ」が応援する河村たかしを批判するのが彼らにとって筋の通った態度だと思うし、私も河村批判になら彼らに同意するかもしれないが、彼らは決してそんな態度はとらない。ダブルスタンダードとはこのことをいう。
最後に、現時点で既に日本が世界に冠たる「小さな政府」であることを示す資料にリンクを張ってこれを紹介する。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5194.html
「図録▽大きな政府・小さな政府(OECD諸国の財政規模と公務員数規模)」と題されたこの資料には、縦軸に財政規模、横軸に公務員数規模をとったグラフが示されており、一目瞭然、日本政府は財政規模も公務員数規模もともに世界有数の小ささである。公務員数規模は2位韓国を抑え、堂々のOECD諸国中最小だし、財政規模も下から6番目で、アメリカより小さい。
記事は、「政府(中央、地方)のサービス水準に問題があるとすると、その原因は、政府の非効率・ムダづかいなのか、それともそもそもの規模の小ささなのかを疑わなくてはならない」と指摘するが、その通りだと思う。しかし、菅直人も小沢一郎も「無駄の削減」しか言わないし、社民党の福島瑞穂も「まず無駄の削減から」と言う。過激な公務員叩きをウリにしている「みんなの党」など論外だ。そんな流れの中に橋下徹や河村たかしもいる。
前記リンク先の記事は、「データの得られる国の中での下からの順位を見ると1970年以降だいたい一貫して小さな政府であったことが分かる」とも書いているが、それでも70年代の日本がうまくいっていたのは、民間の企業が再分配を行っていたからだ。70年代前半に「人手不足」に悩む日本の企業は、パートタイマーを正社員より高い時給で雇い、正社員の不満を抑えるために、企業の人事部では「正社員はその分解雇の心配もなく安定な身分なのだから」となだめていたという。企業に再分配を行う余裕がなくなった現在だから、日本は「大きくて強い政府」へと舵を切らなければならないのだが、河村たかしが日々叫ぶような「税金はすべて悪」という刷り込みを数十年にわたって行われてきた日本人は、簡単に河村らにだまされ、結局大金持ちの蓄財に自分から協力するのである。
再分配が適切に行われない社会は、ますます産業の競争力を失う一方だから、領土問題でも足元を見られてどんどん中国、ロシア、アメリカ(沖縄の米軍基地問題などその最たるもの)などの大国にやりたい放題をやられてしまうのであって、そんな背景を無視して排外主義に走る一方、河村たかしの「減税日本」なんかをマンセーしているようでは世も末だ、と強く思う今日この頃である。
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