fc2ブログ

きまぐれな日々

「天皇の政治利用」に関する議論が止まない。昨日(12月27日)も、今年最後になるテレビ朝日『サンデープロジェクト』において、党首討論の議題に上がっていた。いまさら新しい論点など出てこないにもかかわらずである。

この件に関して、世論調査では小沢一郎を批判する意見が多数を占める。羽毛田信吾・宮内庁長官の思いがけない批判に遭って、小沢一郎が逆上して反論したいきさつがあり、これが国民の多くの反発を買ったためだろう。このところの鳩山政権の支持率低下には、この件がもっとも影響しているのではないかと私には思える。普天間基地移設問題については、世論は拮抗していて、支持率を大きく下げる要因になるとは考え難い。

のちに小沢一郎自身が認めた通り、天皇が外国の要人と会見するのは国事行為には当たらないのだった。これは、騒動が勃発した当初には私も気づかなかったのだが、共産党の志位和夫委員長の指摘によって周知のところとなった。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2009-12-16/2009121602_01_1.html

志位氏は、下記のように小沢氏を批判している。

 この問題をきちんと整理して考えると、外国の賓客と天皇が会見するというのは、憲法で規定された内閣の助言と承認を必要とする国事行為ではないのです。憲法を読んでも、国事行為のなかにはそういう項目は出てこない。国事行為以外の公的行為です。

 こういう国事行為以外の天皇の公的行為については、政治的性格を与えてはならないというのが憲法のさだめるところなのです。そういう憲法の規定から考えると、今回は、日本政府がその問題に関与することによって政治的性格を与えてしまった。これは日本国憲法の精神をたがえたものです。

 もしこれが許されたらどうなるか。たとえば国会の開会式で天皇の発言がおこなわれています。これも国事行為以外の行為です。この発言の内容について、ときの内閣の判断でどういうものでもやれるようになったらたいへんです。これは憲法の原則にかかわる大きな問題が問われているのです。

(『しんぶん赤旗』 2009年12月16日付記事より)


この説明は間違ってはいないだろう。だが、何度も書くようにどうしても釈然としないものが残る。

そもそも、天皇は政治的発言をしてはならないはずである。だったら、公的行為の場での発言は、誰がチェックしているかというと、それは宮内庁だろう。ところが、その宮内庁の長官が政権を批判する。これは十分政治的な行為であり、これこそ宮内庁の役人がやってはならないことではないのか。いろいろ考えてみたが、結局この疑問はどうしても解消できなかった。

もちろん、あえて「宿敵」の主張を認めるのだけれど、産経新聞の「社説」に相当する「主張」子が主張するように、小沢一郎が天皇の意図を勝手に忖度した発言をするのも不適当である。だが、小沢発言と同様に、天皇の発言に政治色を持たせてはならない宮内庁長官が、政府を批判することも不適当である。いや、問題のきっかけを作ったのは宮内庁長官の方だから、より問題が大きいのは羽毛田氏の方である。羽毛田氏の発言を、天皇の意を汲んだものだとする文章を書いた左派系の有力ブログもあったが、そういった言説もまた、天皇の意図を勝手に推測することによって、天皇を政治利用しようとするものにほかならず、これまた問題である。いかなる立場からでも、天皇を「政治利用」してはならないというのが、従来広く支持された考え方だったと私は思っていたのだが、違うのか。私に言わせれば、宮内庁長官も小沢一郎も件の左派ブロガーも全員に問題があるが、左記の順番で責任が重いと思う。今回の件でもっとも強く責められるべきは、やはり羽毛田信吾である。

このように、宮内庁の役人とは、天皇の言動に政治性を持たせてはならない重大な使命があるのだから、先々週の「サンプロ」で細野豪志が言っていたように、内閣と宮内庁は阿吽の呼吸でことを進めなければならないのである。それを破った羽毛田長官の責任は重大だ。もちろん、感情的な対応をして問題をこじらせた小沢一郎の責任も、羽毛田氏に次いで重い。

そして、この機に乗じて、安倍晋三だの平沼赳夫だの城内実だのといった極右政治家たちが、一斉に小沢一郎批判の声を挙げるに至っては、もう論外である。ところが、左側からも自称「真正保守」の人々による小沢批判の尻馬に乗る人たちがいるから困ったものだ。たとえば、「日本国憲法の第1条は大日本帝国憲法第3条の『神聖ニシテ侵スヘカラス』の規定をベースにしている」などという主張が、左側のブログから出てきた。普通には「護憲」側から出てくるはずもない憲法解釈だと私は思ったのだが、なぜかこれを批判する意見はほとんど見られなかった。

あまりの事態にあっけにとられている時に目にしたのが、田中角栄の天皇観である。石川真澄著『人物戦後政治 私の出会った政治家たち』(岩波現代文庫、2009年;初出は岩波書店、1997年)に出ていた。以下引用する。

私(注:故石川真澄・朝日新聞編集委員)は一つだけ、記事にするわけではないが、と田中氏の天皇観を尋ねた。佐藤栄作氏が私のインタビューに答えて「天皇様がいらっしゃるから、日本という国家の連続性が保たれるのです」と語ったことが念頭にあったからである。田中氏はむしろけげんな顔で言った。「そりゃあ、天皇陛下と皇室を私は敬っておるよ。両陛下の写真を応接間に飾っている。しかし、天皇が象徴天皇であって政治的機能を有しないことくらいは、もちろんわきまえている。戦前とは違う

(石川真澄 『人物戦後政治 私の出会った政治家たち』(岩波現代文庫、2009年) 93-94頁)


これは、田中角栄が首相を退任した翌年、1975年に石川記者が田中氏にインタビューした時のコメントである。34年前の保守政治家の方が、現在の宮内庁長官やほかならぬ田中氏の弟子や左派ブロガーと比較しても、日本国憲法を当然とする思考をしていることに感心した。何より、田中角栄は、戦前と戦後の連続性を強調する佐藤栄作とは対象的に、両者の断絶を意識している。日本国憲法第1条は、象徴天皇制とともに国民主権を規定しており、大日本帝国憲法第1条の「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と鋭い対照をなす。

こんなことを書くと、昭和天皇には戦争責任があったけれども、今の天皇にはそんなものはないし、何より今の天皇は日本国憲法を尊重する平和主義者だ、戦犯の昭和天皇と一緒にするなと言う人もいるだろう。だが、昭和天皇には政治的発言が許されず、今の天皇には許されるなどという理屈が通るはずはない。1978年にA級戦犯が靖国神社に合祀されたことが翌年明らかになったが、以後昭和天皇は靖国神社に参拝しなかった。しかし、多くの人はその理由を感づいていたにもかかわらず、それはあからさまには語られなかった。当ブログでは、2006年7月5日付エントリ『靖国神社と昭和天皇』でこの件を取り上げたところ、その15日後に日経新聞がこれを裏づける「富田メモ」をスクープしたものだから、びっくり仰天した思い出がある。それはともかく、誰もが気づいていた天皇の行動の意図さえ、在位中には言及しなかったのがかつての「象徴天皇」の言動に対する姿勢だった。もっとも、靖国の件で右翼が黙っていたのは、彼らにとって都合の悪い話だったからに違いなく、それ以前には右側による「天皇の政治利用」はしょっちゅう問題になっていたし、昭和天皇の発言自体が問題視されることもあった。しかし、天皇の名の下に軍部と政府が好き勝手をやって勝てるはずのない戦争に突っ込んでいった戦前への反省から、「天皇の政治利用」は戒められるのが普通だった。

今では、誰も彼もが天皇を政治利用しようとする。特に安倍晋三や産経新聞などの「右側」が今回の件で大騒ぎするのは、国民の間に「反中」の意識を広め、ナショナリズムの機運を高めようとする狙いがある。そして、産経新聞が小沢一郎を批判するのに、赤旗に掲載された志位委員長の批判を援用するに至っては、呆れるほかはない。

実は、裏ブログの方で、「政治は結果がすべて、現実を変えられない政党や政治家は無価値だ」と書いて、左側から大ブーイングを受けたのだが、現実は民主党がその気になれば憲法を改正できるところにまできているし、現に鳩山由紀夫首相が改憲を口にした。毎日新聞の「えらぼーと」への回答を見る限り、一昨年の参院選と今年の衆院選で増えた民主党議員にはリベラル派が多いように思うが、彼らには世論の動向に敏感だという特性もある。改憲が実現してしまえば、社民党や共産党は「結果を出せなかった」ことになるのだ。

どんな仕事であっても、結果で評価されるのが当たり前だが、政治家の場合、国民の生活にもろに影響するから、他のどの職業にも増して結果が重視される。アマチュアや、職業人でも経験の浅いうちはプロセスも重視されるが、国政にかかわる人たちともなれば、結果を出さなければ存在価値はない。そう繰り返し強調したい。国民が小泉純一郎にフリーハンドを与えた結果、暮らしがどうなったかを思い出せば明らかだろう。護憲にしたところで、社民党と共産党の勢力だけで護憲はできない。民主党のリベラル派を何とかしなければ、改憲など簡単に実現してしまうことを、世の護憲派は忘れてはならない。自ら民主党のリベラル派を「右」に追い込む言動をとるのは、国会での議席数から考えても自殺行為以外のなにものでもない。しかし、このことを左翼がどれくらい自覚しているかは大いに疑わしい。

それを考えれば、志位氏の主張がいかに正しくとも、やはり釈然としないものが残るのである。なお、共産党支持系ブログでも、『超左翼おじさんの挑戦』『BLOG BLUES』が、それぞれ独自の視点からエントリを公開し、後者が前者を批判しているが、両者の議論にまでは発展していないようだ。

私自身は、天皇制は必要とは思わないが、象徴天皇が存在することによって日本国の社会がうまく機能するのであれば、存続しても良いのではないかと思っている。逆に、天皇制はもう必要ない、という考えが国民の総意になった時には、憲法を改正して天皇制を廃止すれば良い。しかし、現時点では日本国憲法は国民より先を行っており、仮に「時代に合わなくなった部分や不自然な日本語表現を改める」という意図の改憲であっても、現在の政治勢力を考えた場合、国民の権利を制限する改正が加えられるのは確実だから、日本国憲法を現在のまま守るべきであるという立場に立っている。したがって象徴天皇制容認の立場であるから、天皇が海外の要人と会見することは、大いに続けるべしと考えている。そして、「1か月ルール」は、天皇の体調を配慮して守られるべきであるが、このルールを政治利用などしてはならないと考える次第である。いや、それだけの話なのに、これほど大騒ぎになって、年末のテレビの党首討論でも蒸し返されること自体、天皇の政治利用ではないか。それを言い出したら、ブログでこんな記事を書くのも天皇の政治利用になってしまうのかもしれないけれど。


↓ランキング参戦中です。クリックお願いします。
FC2ブログランキング

スポンサーサイト