まず、トラックバックいただいた『たまごどんが行く!』のエントリ「事業仕分けを考察する」から引用する。
事業仕分けが世間の喝采を浴びているようだ。批判する人も蓮舫議員がキツ過ぎるとか、時間が短いとかが多く、たまごどんの思う本質とは違う枝葉からの非難が多いように思える。
たまごどんの言う本質とは、この事業仕分けが小泉総理の構造改革とまるで同じに見えるというものだ。小泉改革では福祉・医療・教育分野で大鉈が振るわれたが、今度の事業仕分けでは基礎科学分野にまで予算削減の波が及んだということが相違点かな。今回は基礎科学分野の決定的な衰退を招く可能性もあるなあ。困るのは将来の国民、つまり子供たちである。
(『たまごどんが行く!』 2009年11月26日付エントリ「事業仕分けの違和感を考察する」より)
このエントリの後半で、当ブログがリンクを張られて紹介されており、だからお世辞を言うわけではないが、これは共感できるエントリだ。科学技術分野については、ノーベル賞受賞者たちが声をあげたスーパーコンピュータばかりが注目されたが、それ以前に基礎科学部門や大学などでの研究に市場原理を持ち込む思想自体に、私はずっと違和感を持ってきた。
たまたま宇沢弘文著『社会的共通資本』(岩波新書、2000年)を読み返していたら、下記のような記述があった。
他の実利的、実用的な目的からまったく独立して、知識の探求のみを行う場として、大学の本来の存在理由がある。このような大学の目的から、大学人の行動様式、習慣、基本的性向にかんしておのずからある共通のパターンが生み出されることになる。それは、学問研究が、自由な精神にもとづいて、しかも科学技術的に最新の知識を用いておこなわれるような環境のもとではじめて実現可能となるものだからである。そこには、大学以外の教育機関にみられるような規律、規則の類いは存在する余地はない。
ところが、アメリカの諸大学では、法人企業において支配的な基準を大学に持ち込もうとしている。知識が金銭的利益をどれだけもたらすか、という市場的基準が導入され、大学における研究者は、有用な知識をどれだけ生産したか、学生を何人教育したかという外的な基準にしたがって評価される。大学自体も、利潤最大化という企業的制約条件のもとで経営されることになる。
(宇沢弘文 『社会的共通資本』(岩波新書、2000年) 151-152頁)
小泉政権発足の前年、2000年に出版された本だが、小泉構造改革を経た今、このような考え方は極論として片づける人が大半なのではなかろうかと思う。2001年に、当時経済産業大臣だった平沼赳夫が打ち出した「大学発ベンチャー1000社構想」(通称・平沼プラン)は、まさしく宇沢弘文の書くところのアメリカの諸大学に市場的基準が導入されたと同じことを、日本でもやろうとしたものだといえる。
宇沢弘文は、「サッチャー政権になって大学関係の予算を大幅に削減する暴挙に出てから」(前掲書161頁)イギリスの大学が退廃し、かつての自由で闊達な雰囲気が失われたと書く。さらに日本についても、「第二臨調を契機として、教育の効率化という奇妙な発想が提起され、臨教審によって、具体的な政策転換のプログラムとなっていった」(同163頁)ことが「いかに大きな社会的、文化的損失をもたらすか」(同164頁)はあまりにも明白だと主張している。鈴木善幸内閣時代の1981年に発足した第二臨調(土光臨調)は、翌年発足した中曽根康弘内閣の行政改革を方向づける役割を果たした。中曽根康弘こそ、日本における新自由主義政権の開祖である。
その後、大学の研究に市場原理を持ち込もうという動きは何度も起きた。特に橋本政権、小泉政権や現在の鳩山政権など、「改革」に意欲を燃やす政権が出てくるたびに同じような事態が生じるように思われる。
先に私は「効率的な(サービスの)大きな政府を目指すべき」と書いたが、効率的とは費用対効果(コストパフォーマンス)の良い、という意味だ。しかし、そういう経済効果だけ考えていれば良いというわけではないはずだ、というのが私が引っかかっていたところだった。「学問研究が自由な精神にもとづく」というところが特にポイントなのであって、これは素人のなし得るところではない。素人はどうしても思い込みにとらわれて、自由なものの考え方ができない。私がその最たる例だと考えているのが陰謀論者であって、ひとたび陰謀が存在するという仮説にとらわれると、その仮説抜きに物事を考えることができなくなる。そして、なお悪いことに、最初は仮説に過ぎなかったものがドグマ(教義)と化してしまう。
そうなってしまっては終わりで、落ちるところまで落ちるしかない。最近では、自民党の小池百合子議員が陰謀論に侵されていることがネットで話題になった。きっかけは、小池が発信したTwitterである(下記URL)。
http://twitter.com/ecoyuri/status/6083239039
以下引用する。
中共の「日本解放工作要綱」にならえば、事業仕分けは日本弱体化の強力な手段。カタルシスを発散させながら、日本沈没を加速させる…。
7:01 AM Nov 26th webで
ecoyuri
小池百合子
ここで小池百合子が言及している「中共の『日本解放工作要綱』」とは、日中国交回復のなった1972年に、『國民新聞』(昭和47年8月特別号)に掲載された「日本解放第二期工作要綱」と題された怪文書のことである。Wikipediaの記述によると、『國民新聞』の発刊歴は、上記1972年に「特別号」を出したあと、25年の休刊を経て再発刊され現在に至っているという。「休刊中の1990年に政治団体國民新聞社として登録されており、1997年の再発刊以降は政治団体機関紙として位置づけとなっている」とのことだから、要するに右翼のアジビラのようなもので、小池はこんなものにコロッと騙されたのである。
小池のTwittterがジョークではないか、との議論があったが、ジョークなどではあり得ないことは、ごく一部の人しか知らないであろう「日本解放工作要綱」なるものを持ち出したことから明らかである。私自身も小池のTwitterによってこの怪文書を初めて知った。そして、小池が本気である何よりの証拠は、自民党が下野した総選挙の直後に当たる今年9月に、自身のメールマガジンで「昭和47年に明らかになった中国共産党による秘密文書なるもの」としてこれを紹介していることだ。下記URLにリンクを張ったので、是非ご確認いただきたい。
http://www.yuriko.or.jp/mail_m/090921.shtml
恐ろしいのは、この小池百合子は環境大臣、内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)、内閣総理大臣補佐官(国家安全保障問題担当)、防衛大臣を歴任しており、現在も自民党の広報本部長を務める人物だということである。
巧みな政界遊泳術で、権力のあるところを渡り歩いてきた小池百合子は、超えられそうにもない壁に当たると、簡単に陰謀論に騙されてしまう脆弱な人物だった。そして、そんな人物が「次期総理大臣候補」の呼び声が高かったほど、政界には人材が払底していた。小池は、大学で「自由な物事の考え方」を身につけることができなかったといえる。いわば、「こうあってはならない」という反面教師である。
二度とこの程度の人物を「総理大臣候補」に擬さないためにも、教育は重要だし、それに加えて、大学における研究にはそれ自身に価値があり、それを安易に市場原理にもとづいて「事業仕分け」などしてはならない。「仕分け」を行う側には、小池同様簡単に陰謀論に侵されてしまうような人物がウヨウヨいると推測されるだけになおさらである。
↓ランキング参戦中です。クリックお願いします。
