今年は、本エントリを合わせて216件のエントリを公開した。過去最多の一昨年は322件、昨年は273件だったから、年々減っている。今年は特に9月以降、更新頻度をを意識的に落とした。
FC2カウンタの計数による年間総アクセス数は、12月29日までの集計で182万5424件だった。1日平均5千件のペースだったが、これは3月の西松事件の頃や、8月末の総選挙の前後にアクセス数が多かった影響が大きく、最近は5千件を超えることは滅多にない。昨年は年間アクセス数が122万2363件で、月平均10万件くらいのアクセス数だったから、今年は昨年より5割近く多かったことになるが、昨年9月から長らく続いたアクセス数の多い時期は過ぎ去った。
このうち検索エンジン経由のアクセス数は、37万件に到達する見込みで、昨年(241,186件)と比較して、やはり5割ほど増えている。こちらは、8月に大きなピークがあり、その前後の7月と9月も多かった。つまり、衆院選前後に検索エンジン経由のアクセスが集中した。
検索語別では、例年通りブログ名「きまぐれな日々」によるアクセスが最多だったが、2位が「城内実」だった。7月末に、城内実がポスターにタレントの眞鍋かをりさんの写真を無断で使用したとされる事件が起き、それから衆院選後の時期まで、検索語「城内実」によるアクセスが殺到した。特に、7月度には8,229件を記録し(8月度にも5,143件を記録)、同一検索語による月間アクセス数の過去最多だった、昨年4月の検索語「稲田朋美」によるアクセス数(3,866件)の倍以上を記録した。もっとも、検索語「稲田朋美」による来訪者は今年も相変わらず多く、昨年から順位を1つ下げたとはいえ、検索語別の3位を記録した。特に9月以降は「城内実」を大きく上回った。やはり野党第一党の議員の方が、無所属議員より注目度が高い。平沼一派の今後の動向が注目される。検索語別順位では、4位が「勝谷誠彦」、5位が「湯浅誠」だが、検索語「湯浅誠」でGoogle検索をした時に引っかかる当ブログのエントリは、湯浅誠の真価を伝えるものというよりは、嫉妬心をあらわにして湯浅誠の悪口を書いた池田信夫を揶揄するエントリであるのが、ちょっと恥ずかしい。
下記に、今年アクセスの多かったエントリのトップ15を示す。これは、個別エントリのURLへのアクセス数(12月28日現在)であり、公開時にトップページで表示された時や、タグ毎や年月毎にまとめてアクセスされた時にはカウントできないので、実際に記事が参照された件数より少ない数字になっていると考えられる。もっともその反面、記事をちらっと見て、読みたい記事ではないと判断されてすぐに閉じられたアクセスはカウントされるから、実際にどのくらいの読者にお読みいただいているかの感触は、ブログを書く方には全然わからない。ただ、エントリ間での人気・不人気の相対比較はできるので、毎月欠かさず集計している。
- 『週刊文春』の2009年総選挙予想 ? 昨年10月との比較 (1月9日) 17,094件
- テロ行為と極右政治家・城内実だけは絶対に許せない (2008年11月20日) 15,496件
- 電波芸者・勝谷誠彦の生態 (2006年8月6日) 10,211件
- 湯浅誠に対する池田信夫のみっともない嫉妬 (1月8日) 10,006件
- 極左と紙一重の極右・稲田朋美を衆議院選挙で落選させよう (2008年3月30日) 8,833件
- 八ッ場ダムをめぐる謀略マスコミのとんでもない「やらせ」報道 (9月25日) 8,765件
- 静岡7区・城内実に投票してはならない理由 (7月29日) 7,932件
- 衆議院選挙で民主党圧勝 ろくな議員が残らなかった自民党 (8月31日) 7,307件
- 新保守主義と新自由主義が一体となった「たかじん」の番組 (3月16日) 6,950件
- 小泉純一郎と安倍晋三と「女系」 (2006年8月6日) 6,566件
- 「毎日新聞叩き」に反対するキャンペーンを開始します (2008年8月17日) 5,853件
- あくまで眞鍋かをりさんに謝罪しない城内実の無責任 (8月1日) 5,680件
- 東京五輪落選、中川昭一急死 ─ 右翼政治家たちの黄昏 (10月5日) 5,558件
- 立花隆の痛烈な小沢一郎批判「師から何を学んだ」 (4月1日) 5,246件
- ある新自由主義者の死 ? 永田寿康が自殺 (1月4日) 5,231件
単に『週刊文春』に掲載された衆院選の予想記事を紹介しただけの工夫のないエントリが1位になったのは不本意だが、選挙前にこのエントリへのアクセスが集中したのだった。議席予想といっても1月の記事で、その後『週刊文春』は何度も議席予想の記事を出していたから、なぜこのエントリがいつまでも検索エンジンの上位に引っかかっていたのかよくわからないが、おそらく累積のアクセス数がものをいったのだろう。話題になりそうな題材を早めに取り上げることがアクセス数を増やす方法の一つらしい。2位以下は、私なりに力を入れて書いた記事が多いが、中でも城内実を批判したエントリがトップ15に3件入っている。
その一方で、一昨年と昨年に多かった橋下徹批判のエントリが入っておらず、そういえば今年は橋下批判をメインにしたエントリを、こちらの表ブログにはほとんど上げなかったように思う。かつて長らく検索語「橋下徹」によるGoogle検索で1ページ目に表示されていた「大阪府民は「極右ポピュリスト」橋下徹を打倒せよ」は、今見たら21番目に落ちていた。アクセス解析を見ると、年間23位で4,145件を記録しているものの、11月以降目立ってアクセス数が減っており、おそらくその頃に1ページ目から落ちたものと思われる。来年以降、橋下徹はもっとも警戒すべき政治家の一人だと私は考えているのだが、今年橋下を取り上げる頻度が低かったのはうかつだったかもしれない。
今年は政権交代の起きた年だったが、振り返ってみればさして満足感を覚えるわけでもない。それどころか、民主党政権の右傾化やネオリベ化ばかり気になって、全然落ち着くことができない。格差や貧困は全然解消されていないし、懸念される沖縄の米軍基地や改憲の問題、それにどこまで踏み込めるか未知数のグリーン・ニューディール政策など課題は山積している。ただ、政権交代が無意味だったとは全然思わず、市民が政治を動かす可能性が少しは見えたところに、2009年という年は意義があったと思う。それが良い方向転換になるかどうかは、2010年以降の私たち自身にかかっている。○○党なら、あるいは××さんなら何とかしてくれそうだ、という思考を捨てることが第一だろう。
最後に、今年一年間 「きまぐれな日々」 をご愛顧いただいた読者の方々に、厚くお礼を申し上げる。
それでは、皆さま、良いお年を。
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この件に関して、世論調査では小沢一郎を批判する意見が多数を占める。羽毛田信吾・宮内庁長官の思いがけない批判に遭って、小沢一郎が逆上して反論したいきさつがあり、これが国民の多くの反発を買ったためだろう。このところの鳩山政権の支持率低下には、この件がもっとも影響しているのではないかと私には思える。普天間基地移設問題については、世論は拮抗していて、支持率を大きく下げる要因になるとは考え難い。
のちに小沢一郎自身が認めた通り、天皇が外国の要人と会見するのは国事行為には当たらないのだった。これは、騒動が勃発した当初には私も気づかなかったのだが、共産党の志位和夫委員長の指摘によって周知のところとなった。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2009-12-16/2009121602_01_1.html
志位氏は、下記のように小沢氏を批判している。
この問題をきちんと整理して考えると、外国の賓客と天皇が会見するというのは、憲法で規定された内閣の助言と承認を必要とする国事行為ではないのです。憲法を読んでも、国事行為のなかにはそういう項目は出てこない。国事行為以外の公的行為です。
こういう国事行為以外の天皇の公的行為については、政治的性格を与えてはならないというのが憲法のさだめるところなのです。そういう憲法の規定から考えると、今回は、日本政府がその問題に関与することによって政治的性格を与えてしまった。これは日本国憲法の精神をたがえたものです。
もしこれが許されたらどうなるか。たとえば国会の開会式で天皇の発言がおこなわれています。これも国事行為以外の行為です。この発言の内容について、ときの内閣の判断でどういうものでもやれるようになったらたいへんです。これは憲法の原則にかかわる大きな問題が問われているのです。
(『しんぶん赤旗』 2009年12月16日付記事より)
この説明は間違ってはいないだろう。だが、何度も書くようにどうしても釈然としないものが残る。
そもそも、天皇は政治的発言をしてはならないはずである。だったら、公的行為の場での発言は、誰がチェックしているかというと、それは宮内庁だろう。ところが、その宮内庁の長官が政権を批判する。これは十分政治的な行為であり、これこそ宮内庁の役人がやってはならないことではないのか。いろいろ考えてみたが、結局この疑問はどうしても解消できなかった。
もちろん、あえて「宿敵」の主張を認めるのだけれど、産経新聞の「社説」に相当する「主張」子が主張するように、小沢一郎が天皇の意図を勝手に忖度した発言をするのも不適当である。だが、小沢発言と同様に、天皇の発言に政治色を持たせてはならない宮内庁長官が、政府を批判することも不適当である。いや、問題のきっかけを作ったのは宮内庁長官の方だから、より問題が大きいのは羽毛田氏の方である。羽毛田氏の発言を、天皇の意を汲んだものだとする文章を書いた左派系の有力ブログもあったが、そういった言説もまた、天皇の意図を勝手に推測することによって、天皇を政治利用しようとするものにほかならず、これまた問題である。いかなる立場からでも、天皇を「政治利用」してはならないというのが、従来広く支持された考え方だったと私は思っていたのだが、違うのか。私に言わせれば、宮内庁長官も小沢一郎も件の左派ブロガーも全員に問題があるが、左記の順番で責任が重いと思う。今回の件でもっとも強く責められるべきは、やはり羽毛田信吾である。
このように、宮内庁の役人とは、天皇の言動に政治性を持たせてはならない重大な使命があるのだから、先々週の「サンプロ」で細野豪志が言っていたように、内閣と宮内庁は阿吽の呼吸でことを進めなければならないのである。それを破った羽毛田長官の責任は重大だ。もちろん、感情的な対応をして問題をこじらせた小沢一郎の責任も、羽毛田氏に次いで重い。
そして、この機に乗じて、安倍晋三だの平沼赳夫だの城内実だのといった極右政治家たちが、一斉に小沢一郎批判の声を挙げるに至っては、もう論外である。ところが、左側からも自称「真正保守」の人々による小沢批判の尻馬に乗る人たちがいるから困ったものだ。たとえば、「日本国憲法の第1条は大日本帝国憲法第3条の『神聖ニシテ侵スヘカラス』の規定をベースにしている」などという主張が、左側のブログから出てきた。普通には「護憲」側から出てくるはずもない憲法解釈だと私は思ったのだが、なぜかこれを批判する意見はほとんど見られなかった。
あまりの事態にあっけにとられている時に目にしたのが、田中角栄の天皇観である。石川真澄著『人物戦後政治 私の出会った政治家たち』(岩波現代文庫、2009年;初出は岩波書店、1997年)に出ていた。以下引用する。
私(注:故石川真澄・朝日新聞編集委員)は一つだけ、記事にするわけではないが、と田中氏の天皇観を尋ねた。佐藤栄作氏が私のインタビューに答えて「天皇様がいらっしゃるから、日本という国家の連続性が保たれるのです」と語ったことが念頭にあったからである。田中氏はむしろけげんな顔で言った。「そりゃあ、天皇陛下と皇室を私は敬っておるよ。両陛下の写真を応接間に飾っている。しかし、天皇が象徴天皇であって政治的機能を有しないことくらいは、もちろんわきまえている。戦前とは違う」
(石川真澄 『人物戦後政治 私の出会った政治家たち』(岩波現代文庫、2009年) 93-94頁)
これは、田中角栄が首相を退任した翌年、1975年に石川記者が田中氏にインタビューした時のコメントである。34年前の保守政治家の方が、現在の宮内庁長官やほかならぬ田中氏の弟子や左派ブロガーと比較しても、日本国憲法を当然とする思考をしていることに感心した。何より、田中角栄は、戦前と戦後の連続性を強調する佐藤栄作とは対象的に、両者の断絶を意識している。日本国憲法第1条は、象徴天皇制とともに国民主権を規定しており、大日本帝国憲法第1条の「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と鋭い対照をなす。
こんなことを書くと、昭和天皇には戦争責任があったけれども、今の天皇にはそんなものはないし、何より今の天皇は日本国憲法を尊重する平和主義者だ、戦犯の昭和天皇と一緒にするなと言う人もいるだろう。だが、昭和天皇には政治的発言が許されず、今の天皇には許されるなどという理屈が通るはずはない。1978年にA級戦犯が靖国神社に合祀されたことが翌年明らかになったが、以後昭和天皇は靖国神社に参拝しなかった。しかし、多くの人はその理由を感づいていたにもかかわらず、それはあからさまには語られなかった。当ブログでは、2006年7月5日付エントリ『靖国神社と昭和天皇』でこの件を取り上げたところ、その15日後に日経新聞がこれを裏づける「富田メモ」をスクープしたものだから、びっくり仰天した思い出がある。それはともかく、誰もが気づいていた天皇の行動の意図さえ、在位中には言及しなかったのがかつての「象徴天皇」の言動に対する姿勢だった。もっとも、靖国の件で右翼が黙っていたのは、彼らにとって都合の悪い話だったからに違いなく、それ以前には右側による「天皇の政治利用」はしょっちゅう問題になっていたし、昭和天皇の発言自体が問題視されることもあった。しかし、天皇の名の下に軍部と政府が好き勝手をやって勝てるはずのない戦争に突っ込んでいった戦前への反省から、「天皇の政治利用」は戒められるのが普通だった。
今では、誰も彼もが天皇を政治利用しようとする。特に安倍晋三や産経新聞などの「右側」が今回の件で大騒ぎするのは、国民の間に「反中」の意識を広め、ナショナリズムの機運を高めようとする狙いがある。そして、産経新聞が小沢一郎を批判するのに、赤旗に掲載された志位委員長の批判を援用するに至っては、呆れるほかはない。
実は、裏ブログの方で、「政治は結果がすべて、現実を変えられない政党や政治家は無価値だ」と書いて、左側から大ブーイングを受けたのだが、現実は民主党がその気になれば憲法を改正できるところにまできているし、現に鳩山由紀夫首相が改憲を口にした。毎日新聞の「えらぼーと」への回答を見る限り、一昨年の参院選と今年の衆院選で増えた民主党議員にはリベラル派が多いように思うが、彼らには世論の動向に敏感だという特性もある。改憲が実現してしまえば、社民党や共産党は「結果を出せなかった」ことになるのだ。
どんな仕事であっても、結果で評価されるのが当たり前だが、政治家の場合、国民の生活にもろに影響するから、他のどの職業にも増して結果が重視される。アマチュアや、職業人でも経験の浅いうちはプロセスも重視されるが、国政にかかわる人たちともなれば、結果を出さなければ存在価値はない。そう繰り返し強調したい。国民が小泉純一郎にフリーハンドを与えた結果、暮らしがどうなったかを思い出せば明らかだろう。護憲にしたところで、社民党と共産党の勢力だけで護憲はできない。民主党のリベラル派を何とかしなければ、改憲など簡単に実現してしまうことを、世の護憲派は忘れてはならない。自ら民主党のリベラル派を「右」に追い込む言動をとるのは、国会での議席数から考えても自殺行為以外のなにものでもない。しかし、このことを左翼がどれくらい自覚しているかは大いに疑わしい。
それを考えれば、志位氏の主張がいかに正しくとも、やはり釈然としないものが残るのである。なお、共産党支持系ブログでも、『超左翼おじさんの挑戦』と『BLOG BLUES』が、それぞれ独自の視点からエントリを公開し、後者が前者を批判しているが、両者の議論にまでは発展していないようだ。
私自身は、天皇制は必要とは思わないが、象徴天皇が存在することによって日本国の社会がうまく機能するのであれば、存続しても良いのではないかと思っている。逆に、天皇制はもう必要ない、という考えが国民の総意になった時には、憲法を改正して天皇制を廃止すれば良い。しかし、現時点では日本国憲法は国民より先を行っており、仮に「時代に合わなくなった部分や不自然な日本語表現を改める」という意図の改憲であっても、現在の政治勢力を考えた場合、国民の権利を制限する改正が加えられるのは確実だから、日本国憲法を現在のまま守るべきであるという立場に立っている。したがって象徴天皇制容認の立場であるから、天皇が海外の要人と会見することは、大いに続けるべしと考えている。そして、「1か月ルール」は、天皇の体調を配慮して守られるべきであるが、このルールを政治利用などしてはならないと考える次第である。いや、それだけの話なのに、これほど大騒ぎになって、年末のテレビの党首討論でも蒸し返されること自体、天皇の政治利用ではないか。それを言い出したら、ブログでこんな記事を書くのも天皇の政治利用になってしまうのかもしれないけれど。
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NHKスペシャルで「ワーキングプア」が初めて取り上げられたのが、小泉政権末の2006年。その前年の2005年に、小泉純一郎は「郵政総選挙」に圧勝した。この選挙に向けた自民党のマニフェストには、「郵政民営化なくして、小さな政府なし。」と書かれている。また、同じ選挙のための自民党のパンフレット「改革を止めるな。」の初めの方にある、「小泉改革のめざすもの」の冒頭にはこう書かれている。
小泉改革のめざすもの
■小さな政府をつくります。
「小さな政府」とは、官が民の邪魔をしない政府のことです。
官の組織を小さくして、官が使うお金を減らします。官の規制や許認可を撤廃して、民間が仕事をしやすくします。
小さな政府を実現し、個人が自由に活力を発揮できる社会の中で、新しい技術・サービスを核とした起業・創業を支援します。
そして、経済と産業の国際競争力を強化し、民間主導の経済成長を持続させます。少子高齢化の中でも、国民の負担はできる限り小さく、国民の活力はできる限り大きく。それが小泉改革の目指す「小さな政府」です。
だが、この煽り文句にはウソがある。「小さな政府」とは、国民のために何もしてやらない政府のことだ。なぜ断定できるかって? 「国民の負担はできるだけ小さく」、ということは税収も少ないということであり、これでどうやって政府に金が使えるというのか。
私は、30年前から一貫して「小さな政府」という言葉をネガティブな意味でしかとらえることのできない人間であり、そんな私から見たら、こんな馬鹿なことを堂々と公約する小泉自民党が選挙で圧勝したことは悪夢以外のなにものでもなかった。2005年の総選挙当時から、安倍晋三政権の下で「改正教育基本法」が強行採決によって成立した頃までの1年数か月の政治状況は、今思い出しても背筋の凍るものだった。「小さな政府」を実現し、つまり、政府に金など与えず、民間にすべてを任せればうまくいくというのが新自由主義者の主張だったが、それを実行した結果現出したのが空前の格差社会であり、働けど食えないワーキング・プアと呼ばれる人々の激増だった。
私から見れば戦後日本政治の「谷底」だった「郵政総選挙」の直後、2005年末の耐震偽装問題や翌年前半のライブドア事件、村上ファンド摘発など、早くも変化の兆しが見られ、それがいつしか大きなうねりとなって、2007年の参院選では安倍晋三率いる自民党が大敗した。そして、ついに今年には政権交代に至った。しかし、鳩山政権が暫定税率の撤廃を断念し、「子ども手当」に所得制限を設けないことを決定するや、それまで熱に浮かされたように民主党支持の旗を振っていた人たちの一部が、政府批判に回る構えを見せるようになった。
私などは最初から民主党政権に対しては是々非々なのだが、ちょっとでも「増税」の匂いを嗅ぐと、パブロフの犬みたいに条件反射してキイキイ反対するのを見ていると、うんざりしてしまう。彼らは、結局小泉純一郎の言う「小さな政府」を支持しているのだろう。そういえば、一部左派ブロガーたちの教祖・植草一秀が理想とするのは「良い小さな政府」らしい。「良い小さな政府」が何を意味するのか、私にはさっぱり理解できない。結局人々は小泉構造改革の失敗の原因を何も理解してなくて、同じ失敗を何度も繰り返すのだろうなとしか思えない。
歳入なくして歳出なし、歳出なくして格差是正なし、などというのはあまりにも明白なことなのだが、それにも気づかないらしい。いや、気づいたところで、増税といえば消費税しかないようなマスコミの刷り込みに騙されてしまう。テレビでは年収が億単位のテレビキャスターたちが、入れ替わり立ち代わり、「国債残高がこんなにあります。そろそろ消費税の議論を国民的にしなければならないのではないでしょうか」などと、ソフトな口調で語る。それを、国民の約半数が真に受ける。上流階級に属しているわけでもないのに、累進的な増税を嫌って逆進的な増税を受け入れる人たちの理性と感性が、私には理解不能なのだ。あるいは「人生は修行だ」という信念でも皆さんお持ちなのだろうか。
暫定税率分の維持が決まると、民主党も自民党と同じだなどと言うのだが、左側では与党・社民党も野党・共産党も暫定税率の代わりに環境税の導入を求めているし、右側では「小さな政府」論をとる「みんなの党」でさえ、環境税の導入を先の総選挙でのマニフェストにうたった。環境税にもっとも強く反対しているのは経団連である。そんなことは、これまでに何度書いたことか。
地方では車がなければ生活できないとの声もあるが、その一方で地方では年々公共交通網が猛烈な勢いで衰退していっていることは、当ブログで何度も指摘した。運転に適さなくなった年代のお年寄りとか、大都市より地方に多い貧困層にとって、公共交通網の衰退は大きな問題だ。それに、温室効果ガス25%削減の中期目標を掲げた鳩山首相が暫定税率分の撤廃をするのであれば、政策に整合性がとれない。だが、それよりも何よりも、税金といえば反射的に反対という単細胞ぶりがいけない。税収がなければ、どうやって格差是正のための再分配というか政府支出が可能なのか。減税が善で増税が悪であるかのように報じるマスコミは、その一方で強硬に消費税増税を主張している。このあからさまな矛盾にどうして気づかないのか。日頃、「マスゴミは嘘ばかり書く。真実を伝えるのはネット(ブログ)だ」などと普段言っている人たちが、どうしてマスコミや経団連の思うツボでしかない「暫定税率分の撤廃に反対」、「環境税に反対」などという主張をするのか。マスコミに騙されているのはいったい誰なのか。こう考えるとイライラが募るばかりだ。
ま、短期は損気なのかもしれない。所詮は現在の鳩山民主党内閣は過渡的な性格を持つ政権に過ぎないと、私は内閣発足当時から考えていたが、そのあとに以前の自民党が戻ってくることはないにせよ、他のろくでもない政治勢力が台頭する可能性はある。特に警戒すべきは橋下徹だろう。一昨年末、私は橋下徹が大阪府知事選に当選する見込みはほとんどないと『kojitakenの日記』に書いて大恥をかいたが、「警戒すべきは橋下」というこの予言も外れてくれれば良いのだが。
だが、往々にして良い予感は全然当たらないが、悪い予感に限ってよく当たるものだ。野暮なクリスマスの愚痴は、このくらいにしておく。
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「子ども手当」に所得制限を設けないこと自体は、『kojitakenの日記』の12月17日付エントリ「「子ども手当の所得制限」に反対を表明する」に書いたように私は賛成であり、鳩山由紀夫首相の決断を支持する。そのエントリでも紹介したが、当ブログにいただいたぽむさんのコメントがとても素晴らしいと思うので、以下に再掲する。
http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20091217/1261050204#20091217f1
小沢幹事長が、鳩山首相に「子ども手当」に「所得制限すべきだ」と要望したそうです。
社民党や国民新党も以前から所得制限を設けるよう求めていたようですが、私は絶対反対です。
「子ども手当」は親や世帯に与えるものにしてはだめです。「親の収入にかかわらず、子供を皆ひとりの国民として平等に扱う」ことこそがが最大の意義でしょう。
財源が問題というなら累進課税の強化こそやるべきことでしょう。お金持ちの親にはたくさん納税することで義務を果たしていただき子供たちは平等に手当をもらえる、それでいいではないですか。
長妻厚労相は昨日も所得制限はしないと明言されたそうですね。長妻さんには、心からエールを送ります。
2009.12.17 11:41 ぽむ
ここでは、前記『kojitakenの日記』とは異なる箇所を青字ボールドにした。そこが、当エントリの主張の核心だからだ。
そもそも、「子ども手当」に再分配の役割を持たせようとする発想が、単なる人気取りに過ぎない。そんなことをしても、余分な手間が発生し、年収860万円なんかで線引きしたら、国民の間で不必要な階級闘争が起きるだけだ。『Munchener Brucke』のエントリ「子ども手当ての所得制限についてマスコミはきちんとデータを提示した上で調査をしているのか?」の議論が興味深いので是非参照されたい。
リンク先の記事にも、
という指摘があるが、さらにさかのぼって累進税率の変遷を記述しているのが、麻生内閣発足直後の昨年(2008年)9月25日付JanJanの記事「消費増税は誤り 格差解消は所得税の累進性復活で実現できる」である。『kojitakenの日記』のエントリ「所得税の累進性を強化した時代、日本経済は高度成長を遂げた」にも紹介したので、詳しくはそちらを参照されたいが、1955年から1973年まで18年間も続いた日本経済の高度成長にもっとも貢献が大きかったとされる池田勇人は、最低税率を8%に引き下げ、最高税率を75%に引き上げ、税率の刻み幅を13階層から15階層に細かくした。つまり、所得税の累進性を強めた池田内閣の時代に、日本の高度成長が本格期に入っていったのである。自民党政権時代も消費を刺激する施策は何度か打たれたが、定率減税や累進課税の緩和と言った高額所得者有利の施策が多かった。定額給付金は低所得者にも恩恵のある施策であったが、1回限りであった。
ちなみに最高税率は1986年まで70%であったが、1999年までの間に度々引き下げられている。
昨夜(22日)、テレビ朝日の「報道ステーション」を見ていたら、コメンテーターを務める朝日新聞編集委員の一色清が、「民主党政権は所得の再分配を目指すのか、経済成長を目指すのか」などと、あたかも両者が背反する概念であるかのようにコメントしていたが、私はこれに激怒し、それが休日早朝にこのエントリを書く動機になった。冗談じゃない。所得の再分配あっての経済成長である。一色清はいったい日本経済は誰が支えていると思っているのか。新自由主義に侵されて高給を食み、テレビで好き勝手しゃべっている大新聞社の幹部社員たちが経済を支えているわけではない。むしろ朝日新聞のごときは、いまだに竹中平蔵のネオリベ路線に親和的で、日本の経済成長を阻害している。
1979年の英サッチャー政権、1981年の米レーガン政権に続いて、1982年には日本にも中曽根康弘政権が成立し、政策がそれまでの修正資本主義路線から新自由主義路線に切り替えられた。そして、『Munchener Brucke』やJanJanの記事にもあるように、中曽根、竹下、小渕政権の時代に最高税率は引き下げられ、税率の刻み幅は粗くなった。JanJanの記事によると、
とのことだ。「税制の簡素化」によって、税金の計算の手間という「ムダを省き」、業務の効率化がなされたのだろうか。1982年から1999年というと、PC-8001からWindows98までPCが進化した時代である。お笑い種というほかない。これで格差が生じなかったら、不思議である。これだけのことを実行した理由が、なんと、“税制の簡素化”である。他に何の理由も示されていない。
さて、昨日気づいたのだが、戦後日本経済の高度成長時代は、吉田茂首相が退陣した1954年の翌年、鳩山一郎内閣の時代に始まっている。世襲の総理大臣が何代も続くのはもちろん問題だが、鳩山由紀夫首相にとっては来年は縁起の良い年と言えるかもしれないし、好材料もある。たとえば、日本には優れた環境関連の技術力があり、多くの人を失望させたCOP15の混乱は、逆に日本が今後この分野でイニシアティブを握るチャンスをもたらしているともいえる。正直言って、私は鳩山由紀夫首相にほとんど何も期待していないが、唯一期待しているのが鳩山氏が博士号を持つ日本初の本格的な理系の首相だということだ(トンデモの趣味もお持ちらしいのが気になるが)。中国政府には大勢の理系の人間がいて、彼らはとてもしたたかだと聞く。日本にとってピンチをチャンスに変えられるのが今の時代だし、所得税の累進性を強化して高度成長を実現させた池田内閣に倣うことだって、今なら可能だ。単に最高税率の引き上げや税率の刻み幅を細かくするだけではなく、分離課税だらけで実質的にある所得水準以上では逆進課税になっているとされる税制を抜本的に改革することだ。
そもそも、お国の借金がどうだとうるさい限りだが、日本政府は誰から借金しているのか。外国からではない。国民から借金しているのだ。長年の新自由主義政策によって、富裕層の資産は積み上がり、法人税をいくら減税したところで、民間給与所得は1998年から2006年まで9年連続で減少し、やっと上向いたと思ったところで世界金融危機が発生した。つまり、「いざなみ景気」の間だって「好景気」は勤労者に恩恵をもたらさなかったし、世界金融危機では大打撃を受けた。一方、「好景気」の期間中、企業の役員報酬や株主配当は高騰し、それでも余剰な利益が内部留保として積み上げられた。富裕層の資産や内部留保が積み上がったら、政府の財政赤字は拡大するに決まっているのではないか。違うのか。だが、マスコミはこの疑問に答える報道をほとんどせず、彼らが財政再建策として決まって持ち出すのが消費税増税である。アホか。財政の主要な機能(三機能などといわれる)の一つが富の再分配である。その再分配を行う財源として、逆進性の強い消費税を用いても効果が薄いのは当たり前である。ところが、長年にわたって新自由主義者たちによって刷り込みが行われたため、この当たり前のことを言う論者は、マスコミにはほとんどいない。その結果、新聞社が世論調査を行うと、国民の半数前後が消費税増税を容認しているとの結果が出る。そりゃマスコミがあれだけ消費税を上げろと言い続ければそうなるだろう。特に、朝日、読売、日経の3紙は悪質だ。田中康夫が全国紙は毎日新聞と産経新聞だけになれば良いと言っていたのには一理ある(もちろん政治思想面での産経新聞の弊害は大きいが、それはまた別の話である)。
鳩山由紀夫内閣が経済成長を目指すのであれば、所得税を改革する、いやもっとはっきり言うと、「金持ち増税」を行う必要がある。もちろん、それだけでは財源は足りないだろうが、少なくとも「金持ち増税」は今後なすべき政策の必要条件だ。大部分の金持ちは増税しようがしまいが同じくらいしか消費しないから、金持ち増税のデメリットなどほとんどない。逆に、現在のように金持ちがどんどん金を死蔵することが日本経済に及ぼす悪影響は計り知れないものがある。いつまでも、既に誤りが結果によって証明されている竹中平蔵一派のトチ狂った主張に耳を傾けるのはやめるべきだ。再分配なくして経済成長はない。
長くなったので暫定税率の件は次回に回すが、結論を言うと私は環境税を導入すべきだと考えている。来年度の導入は見送られたものの、鳩山首相が環境税導入を考えていることは明らかだが、環境税導入には社民党、共産党、みんなの党などが賛成である一方、もっとも強硬に環境税に反対しているのが経団連であって、それが自民党が環境税導入に踏み切れなかった原因であることだけ指摘しておく。
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ブログ関係で今年もっとも印象に残り、ブログのアクセス数にも反映したのは、城内実が眞鍋かをりさんをポスターに無断使用した件であるが、これは城内実が最初に遺憾の意を表明しさえすれば騒ぎになどならなかったものだ。初動を誤って大騒ぎになった例としては、ブログ内に限っても昨年の「水伝騒動」があった。「水伝騒動」関係のエントリは、昨年のベスト3には入れていない。個別エントリでの当ブログの年間アクセス数の2位は、昨年11月20日付エントリ「テロ行為と極右政治家・城内実だけは絶対に許せない」であり、今年1万5千件以上のアクセスがあったが、これは前記「ポスター事件」の直後にアクセスが集中したものだ。城内実を批判するのであれば、芸能プロダクション側にも怪しげなところのある「ポスター事件」よりも、城内のレイシズムがむき出しになった「国籍法改正反対」に関する城内のブログ記事に的を絞るべきだろう。
今年は3月に「西松事件」が起き、これが原因になって5月に民主党代表が小沢一郎から鳩山由紀夫に交代した。前回鳩山が民主党代表を務めた際、民主党の支持率を大きく下げ、その結果民主党代表が鳩山から菅直人に交代したことがあった。この例に示されるように、鳩山は必ずしも国民の間で人気の高い政治家ではないが、それでも民主党の代表交代が支持され、民主党が総選挙で圧勝したのは、小沢一郎のあくの強さを嫌う人が多かったのに加え、なんといっても長年の自民党政治がすっかり国民に不信感を持たれてしまったからだ。この間、一部のブログ及び植草一秀が先導(扇動?)した民主党マンセーキャンペーンがあり、それは4年前の郵政総選挙で小泉自民党をマンセーしたブログが林立したことを思い出させるものだった。鳩山政権が成立して共産党から批判を受けるようになると、教祖さまが示唆した共産党叩きに信者たちが呼応する馬鹿げた騒ぎが起きたが、これも思い出したくもない騒動だった。あげくの果てに、「事業仕分け」に絡んだ「漢方薬騒動」が起きた。この件は、ブログ『労働組合ってなにするところ』の12月8日付エントリ「漢方製剤の保険外しに反対する署名、期間延長」に書かれた下記の指摘に尽きる。
ネット上の議論では、「事業仕分け」では「市販品類似薬」と言っているのであって「漢方製剤」とは言っていないということで、漢方製剤の保険適用外しはマスコミが流した「デマ」だという説が出されたのですが、そもそも「市販品類似薬」の中に漢方製剤が含まれているのですから、そういった説は成り立ちません。
「事業仕分け」の結論については、反対の署名活動を立ち上げた方々も承知していて、下記の文書にきちんと説明されています。
(『労働組合ってなにするところ』 2009年12月8日付エントリ「漢方製剤の保険外しに反対する署名、期間延長」より)
騒動を起こした『きっこの日記』は、「63分間の音源を聞け」と繰り返すばかりで、反論の核心である「そもそも「市販品類似薬」の中に漢方製剤が含まれている」という指摘に対しては、知らないのか知っていながら黙殺しているのかは知らないが、何も書かない。そして、『きっこの日記』のエピゴーネンたちも、ひたすら先導者に追随するだけだ。そこには自由な精神など何もない。中には、あるブログのコメント欄で、前記『労働組合ってなにするところ』の管理人・みどりさんを誹謗中傷してコメント欄から締め出されて自滅した、私同様kで始まるブロガーもいた。もっとも、この男は「金融機関の人間を博多湾に浮かばせ」「『合法的かつ間接的に』人を死へと追い詰めた経験が何回もある」そうだから、警戒を怠ってはならないのかもしれないが(本当か?)。
なにしろこんな騒ぎばかりが繰り返されたものだから、ブログの可能性に対してもすっかり悲観的になってきた今日この頃なのだが、それでも3年8か月ブログを書いてきた人間として指摘しておきたいのは、毎度書くことだが、ブログには検索エンジンに引っかかりやすい特性があることだ。昨年の「NHKの『自民党のコマーシャル』事件」のように、ブログが連鎖することによって発信を増幅することもできる。参加者が限定されるSNSではそうはいかないし、例の「2ちゃんねる」に代表される掲示板も、その影響力を年々低下させている。「2ちゃんねる」は投稿数が1000件に達したり、一定期間投稿がなかったりすると、「過去ログ倉庫」に入ってしまって、専用ビューアを用いなければ参照できない。昨年の記事が再び見出されてアクセスが集中するなどということは起こりえないのである。ましてやメーリングリストなど、その影響力は無視できるほど小さい。
つまり、ブログにはまだまだ可能性があり、裏を返せばそれだけ権力に利用される余地も残っている。そのポテンシャルを思う時、低迷したとしか言いようのない今年のブログシーンを残念に思うものである。
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たとえば小野善康著『景気と経済政策』(岩波新書、1998年)という本があり、ネット検索したらこちらに要旨が出ていた。小野氏は、不況期にこそ財政出動をせよ、不況期の財政赤字は余剰資源の有効活用ができるからかえって好ましい、不況期に必要なのは、政府が民間では吸収し得ない余剰労働力を積極的に使って、意味のある公共財を供給することである、国債発行は将来世代の負担になるというが、この議論自体にも多くの誤りがあり、特に不況期には負担にならないなどと主張している。
1998年当時からこのような主張があったのに、コイズミはその逆をやってしまい、日本をぶっ壊した。小野氏は、「官から民へ」という中曽根以来の新自由主義政権が使い続けたスローガンについても、「官から民へと騒げば、官は何もしないことになり、失業が放置されてかえって無駄が発生する」と批判している。
私には、中川秀直ら「上げ潮派」の、小さな政府と金融政策の組み合わせで、というか政府は財政出動などしなくても、適切な金融政策だけで景気を浮揚させるという主張(としか私には思えない)が、私の頭が悪いせいかもしれないが、どうしても理解できない。新自由主義者は、これは高度に洗練された理論であって、だからエスタブリッシュメントはみな支持しているのだと言うのだが、私には富裕層をさらに富ませるための詐術としか思えない。
(『きまぐれな日々』 2008年10月3日付エントリ「ようやく「脱コイズミカイカク」を打ち出した毎日新聞の社説」より)
その後、世界同時不況に対応するために、どこの国の政府でも財政政策と金融政策を組み合わせて対処したので、現在では当時「上げ潮派」のように、「小さな政府と金融政策の組み合わせで、政府は財政出動などしなくても、適切な金融政策だけで景気を浮揚させる」ことができると主張する人はほとんどいなくなった。
それは当然だし、良いことだと思うのだが、前記『エコノミストを格付けする』が指摘するには、小野氏は『景気と経済政策』の中で、「不況期には人々は将来不安を抱えて消費意欲が萎え、貯蓄意欲が高いため、消費性向は小さい」、したがって、「消費増の部分が小さくなって、当初の公共投資を超える波及効果の部分は、ほとんどなくなる」、つまり、「不況期は乗数効果がもっとも効かない時期であり、このときには乗数はほとんど1である」と主張しているとのことだ(東谷暁『エコノミストを格付けする』(文春新書、2009年)150頁)。ところがそれにもかかわらず、小野氏が「不況期にこそ財政出動せよ」と主張する理由は、同氏が公共投資はもっとも無駄である失業を最小限にするためのものだと考えているからだ。つまり、不況の時には政府支出が必要だが、景気回復の手段として劇的に効くものではないと小野氏は考えている。
もし、この小野氏の主張が正しければ、リーマン・ショックの震源地だったアメリカには、莫大な政府支出が必要であり、それにもかかわらず劇的な景気回復につながるものではないともいえる。つまり、アメリカ政府にとって「無駄を削る」ことは切実な問題だろうと推測される。
果てさて、そんな時期にアメリカが極東の軍事基地をどれだけ必要としているだろうか。昨今のアメリカ経済を思えば、極東の軍備にかける金があるなら、その分を国内経済の建て直しに回したいと考えるのが普通だろう。私にはこのことが常に頭にあるから、右派メディアの産経・読売・日経だけではなく朝日や毎日までもが日々叫んでいる、アメリカが普天間基地の辺野古への移設を早く決めろと日本政府に圧力をかけているという話が信じられないのである。マスメディアや自民党は、アメリカに振られたくなくて、アメリカの気を引こうと必死だが、アメリカはそれどころじゃないというのが本音ではあるまいか。だって、公共投資の「乗数がほとんど1」なのだったら、アメリカ政府は経済を好転させるために莫大な政府支出が必要であって、極東なんかから手を引きたいと考えているのではないかというのが自然な推理だ。つまり、極東の米軍は言ってみればアメリカが「事業仕分け」の対象にしたくてたまらないのではないか。オバマ政権にとっては「国内経済が第一」なのである。そして、保守メディアや自民党は自意識過剰で自己中心的であり、彼らは何かというと「日米同盟」(1980年以前には保守政治家でさえこんな言葉は使わなかった)を口にするけれど、彼らこそ日本の(政官業癒着構造関係者の)都合ばかり考えていて、アメリカの都合さえ考えていない。辺野古に固執するのも利権がらみだろう。つまり彼らは、政権交代前の政官癒着構造にこだわっているのだ。おそらく、マスコミ人はそんなことは百も承知の上で自民党を応援している。もちろん沖縄の人たちのことなど彼らの眼中にはない。
私は、鳩山由紀夫首相はこの件に関してぶれまくっているとこれまで考えていた。しかし、日曜日(13日)の『サンデープロジェクト』で右派の渡辺周までもが社民党(阿部知子)や国民新党(亀井亜紀子)とがっちりスクラムを組んで自公の野党と応酬しているのを見ていると、辺野古移設を中止することで、政権の方針は固まっているように思える。容易に想像がつくのは、小沢一郎の意向が強く反映されていることだ。マスコミはよく、来年の参院選で民主党が単独過半数を確保したら、社民党を連立から切り離すと言っているが、それはマスコミの希望的観測に過ぎない。小沢一郎こそ社民党を必要としている。一つには、岡田克也を筆頭とする反小沢勢力との対抗上であり、今ひとつは、アメリカとの交渉に「社民党カード」を使うためだ。マスコミは、アメリカと一緒になって「日米同盟と社民とのどっちが大事なんだ」と金切り声を上げるが、私に言わせればこれ以上「売国」的な言論はない。彼らはいったいどこの国の人間なのかと思ってしまう。思い出すが良い。「55年体制」の頃、自民党政府はアメリカとの交渉で「社会党カード」を用いたものだ。もっとも、当時の自民党では吉田茂の流れをくむ保守本流が政策を決めており、売国的な岸信介の系列は「保守傍流」だった。その彼らが、今では「真正保守」(笑)を自称しており、保守本流の流れをくむはずの谷垣禎一も、彼ら「真正保守」たちに迎合しなければ自民党を運営できないようだ。
単刀直入に言って、私は普天間基地移設問題に関しては、小沢一郎?鳩山由紀夫のラインは結構買えると、最近認識を改めたのだが、他の問題に関しては、小沢一郎の専横ぶりにはいただけないことが多い。世間を騒がせた「天皇の政治利用」問題における小沢一郎の態度は、私にはかつて「皇室は最後の抵抗勢力だ」と言ったという小泉純一郎を思い出させるものだった。こと天皇制に関しては、小泉純一郎も小沢一郎も「真正保守」とは正反対に、全く皇室を重視していない。そして、この件で小沢一郎が突っ張ると、得をするのは安倍晋三、平沼赳夫、城内実、稲田朋美ら「真正保守」たちなのである。リベラル・左派はまずこれら復古的改憲(または自主憲法制定)論者たちを「お前が言うな」と批判して(だって、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」を憲法に復活させようとする彼らのもくろみこそ、究極の「天皇の政治利用」だろ?)、それから小沢一郎の強権的な姿勢に注文をつけるべきだと思うが、左翼が右翼と一緒になって小沢一郎叩きに熱中しているようではどうしようもない。
小沢一郎が突如として「子ども手当の所得制限」などを言い出したこともいただけない。この件に関する私の見解は、『kojitakenの日記』のエントリ「「子ども手当の所得制限」に反対を表明する」および前エントリへのコメント欄に書いた。結論から言うと、「子ども手当」の所得制限は実施すべきではない。財源を求めるなら、税制を抜本的に改革し、所得税の累進性を強めるべきだということだ。
なんだかんだ言って、ようやく民主党政府の政策をめぐって多様な意見が出るようになったと感じる年の瀬ではある。
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私は、基本的にその道の専門家の意見を尊重するものであるが、こと経済学に関しては、学者によって正反対の主張がなされるばかりか、同じ学者がころころ意見を変える例が目立つ。だから、裏ブログ『kojitakenの日記』では、その道の専門家である(ことになっている)池田信夫氏や植草一秀氏をしばしば批判するし、彼らに「トンデモ」だとか「陰謀論者」などというレッテルを張ることも厭わない。もっとも、池田、植草両氏はネットでは絶大な人気を誇るものの、アカデミーで地歩を築いているとは言い難いようだ。
しかし、小泉内閣の閣僚を務めた竹中平蔵となると話は別で、今でもしばしばメディアに出て、得意の饒舌をふるっている。今年の正月に、NHKの特番を初めとして精力的にテレビ出演していた頃の竹中は、金子勝や加藤紘一を相手にしても、その弁舌の巧みさにより、あたかもディベートに勝っているかのような印象を視聴者に与えることに成功していた。しかし、この頃が竹中の最後の栄光であり、政権交代が起きて「小泉構造改革」への批判がタブーでなくなると、竹中もテレビで議論するたびに「勝者」の印象を視聴者に与えることはできなくなった。最近、亀井静香との対論で、竹中は、積極財政を主張する亀井の意見に対して「それも一つの考え方です」と言ったが、かつては竹中はこのような言い方は決してしない男だった。この対論を見て、竹中も精彩を欠くようになったなあと思った。
政権交代選挙の直前の今年8月に、フリージャーナリストの東谷暁氏が書いた『エコノミストを格付けする』(文春新書、2009年)という本が出た。買い込んだまま読んでいなかったが、昨日一気読みした。この本の「あとがき」に、下記のようにある。
数式やグラフが並び、緻密な論理によって組み立てられたエコノミストたちの議論を読めば、ここには客観的な真理を追求する「科学」があると思うかもしれない。しかし、お互いを激しく罵りあう論争や、自説についての傲慢なまでの確信を目の当たりにすると、むしろ、それは「宗教」に近いのではないかと感じることもあった。
興味深いのは、2003年ころから一時的な景気回復が見られた際、構造改革派もインフレターゲット派も財政出動派も、この経済の立ち直りは自分たちの理論の正しさが証明されたと信じて疑わなかったことである。自分たちの世界観充足し、自説を疑うことがないというのだから、これはまさにカルト宗教に近いと言えるかもしれない。事実、経済学を宗教になぞらえる経済思想の研究家もいるほどだ。
とはいえ、世界同時不況という事実を直視し、各国政府が実際に採用した経済政策を検討するならば、ある種のエコノミストたちが声高に論じていた絶対に正しい理論もなければ、何から何まで神秘的なオカルト的理論から成り立っていたわけでもない。ほどほどのところで仮説を立てて、そこそこの共通認識でアメリカの金融危機に端を発する経済的混乱に対応しているというのが、掛け値なしの現実というべきだろう。
(東谷暁 『エコノミストを格付けする』(文春新書、2009年) 251頁)
私はもちろん著者のように経済学の文献を読み込んだことなどないが、これは納得できる文章だ。この「あとがき」にあるように、この本は構造改革派、インフレターゲット派、財政出動派のいずれもを厳しく批判しているが、その中でも竹中平蔵、中谷巌、八代尚宏といった新自由主義者たちと、かつて日本にインフレターゲットを強く推奨しながら、リーマン・ショックに端を発するアメリカの経済危機に際しては財政出動派に変身してしまったポール・クルーグマンをこき下ろしている。
「転向」した中谷巌に対しても、
と手厳しい。しかし、さらに辛辣を極めるのが竹中平蔵に対する論評であり、著者は竹中を、すっかり「時代の犠牲者」のような風貌を備えるに至ったが、中谷氏はいまも「改革論者」であることに変わりはない。(中略)中央政府の仕事を、外交と防衛だけに限定してしまうというのだから、夜警国家を推奨する「新自由主義者」であり、霞が関の官僚を激減させてしまうというのだから、小泉政権以上のハードな「構造改革論」を振り回しているわけである。(前掲書218-219頁)
と酷評している。実際、竹中が主張を豹変させてきたのはよく知られているところで、それでなければ閣僚はつとまらなかったのかもしれないが、竹中の特に悪質なところは、それを得意の詭弁でごまかしてしまうところだった。これほどあけすけに、アメリカ金融界との間に立つ「フィクサー」として振る舞っていながら、多くの読者の支持を得ていることが不思議で仕方がない。(中略)これまで竹中氏が公言してきた経済についてのコメントは、ほとんどが矛盾を来し、しかも、そのすべてが政治的な行動のために経済学的な見解を犠牲にしてきた。私はこの人物が単にアメリカに「操られている」だけだなどとは思わないが、少なくともその発言を経済学者のものとして扱うのは間違っているだろう。(前掲書213-214頁)
ところで、著者が竹中とともにメインのターゲットにしているのが、昨年のノーベル経済学賞受賞者のポール・クルーグマンである。かつて1998年に日本が不況に陥った時、クルーグマンが日本に勧めた政策がインフレターゲットであり(つい最近も経済学者でもない元新自由主義者の勝間和代が菅直人に勧めて話題になったが)、日銀が量的緩和を続けながら日銀総裁が日本経済をインフレにすると宣言して国民のインフレ期待を引き起こせば、不況なんて簡単に脱出できるよと言っていたが、昨年来アメリカ経済が危機に陥った際にとられたのは普通の金融緩和策と財政政策の組み合わせであって、しかもクルーグマン自身がインフレターゲット論ではなく「ためらいなき財政出動」を推奨する旗振り役になり、かつてインフレターゲットを勧めた日本に対しては「謝罪」した。著者はクルーグマンをくるくる立場を変える人間と見ている。そして、かつて金融緩和はダメな企業を生き残らせるとして反対してきたサプライサイド経済学者の竹中平蔵が、突如として究極の金融緩和策であるインフレターゲット論を受け入れる立場に転向したことについて、
と皮肉っている。竹中は論外としても、ついしばらく前までは、不況には財政出動なんか効かない、効くのは金融政策だけだと言われていたのが(どうもこの説が主流になったのは、1993年にクリントン時代のアメリカが緊縮財政をとりながら不況を脱出したことが原因らしい。著者はこれを、冷戦の終結(社会主義陣営の崩壊)と日本のバブル崩壊という、(アメリカにとっての)幸運に見舞われたためだと考えている)、今どこの政府でもやっているのは財政政策と金融政策の組み合わせであって、改革派経済学者である野口悠紀雄までもが財政出動を訴えている。ましてや、他の大勢の学者が小泉政権時代の2000年代前半には「小さな政府」論を唱えながら、現在では過去の自らの誤りに言及するのでもなく「大きな政府」を推奨している実例が、証拠を提示しながら、これでもか、これでもかというほど本に書き連ねられている。この本を読んで、経済学者たちに不信感を持たない人などいるだろうかと思えるくらいだ。この人物(竹中平蔵)を、「自説」といったものを持つ経済学者であると認識している限り解けない謎だろう。(前掲書115頁)
現在、ネットで一部民主党支持系ブロガーたちに神のごとく崇め奉られている植草一秀も、リーマン・ショックの直前には「良い小さな政府」を唱えていた。そもそもこの人物は、経済学者としての出発点がマネタリストであり、レーガン大統領の任期中、日本の経済学アカデミーの間でレーガノミクスに対して否定的な評価が主流になっていた1983年に、レーガノミクスを評価する論文を書いたことを今でも自著(『知られざる真実 ?勾留地にて?』)で誇っている。どうしてそういう人物が現在金融政策を軽視して財政出動だけを叫ぶ人間になっているのか、私にはさっぱりわからない。
また、やはり現在ネットで一部新自由主義系ネットワーカーたちの熱烈な信奉の対象になっている池田信夫は、竹中平蔵をさらに過激にしたような主張を展開している。この人物の場合、まだ主張が首尾一貫しているとはいえるが、竹中平蔵でさえ世の支持を急速に失っている時代に、ネットにおける池田信夫の人気が衰えないのも謎だ。そして、前記東谷暁氏の『エコノミストを格付けする』には池田のいの字も植草のうの字も出てこないことからもわかるように、ご両人とも経済学のアカデミーから認められた人物ではないが、ネットではともに一部の信者たちから絶大な支持を集めている。
池田信夫の高慢な文章はよく知られているが、読者、特に一部の有名ブロガーに取り入る文章を書く植草一秀にしても、
と書くなど、その「知られざる」高慢さは池田信夫に一歩も引けをとらない。現実は、どこの国でも財政政策と金融政策を組み合わせて不況に対処していることなど、別に植草一秀のレポートなど読まずとも誰でも知っている。誇大宣伝をしている植草一秀にも呆れるし、世界中の政府の政策に反して、いまだに「改革が遅れているから景気が回復しないのだ」と叫ぶ竹中平蔵や、それに追随する池田信夫に至っては論外というほかない。仙谷由人行政刷新相の発言がこれまでの発言と一変した。(植草一秀の書いている)『金利・為替・株価特報』を熟読していただいたのだと思われる。(11月29日付の植草氏のブログより)
そして、「無駄の削減だけしていれば財源は確保できる」としてきた民主党政府や、その「事業仕分け」を熱狂的に支持してきた国民を見ていると、日本がいまや世界の主流から大きく乖離した小泉構造改革路線に立ち戻ろうとしているようにしか見えず、暗澹たる思いになる。一昨年の参院選および今年の衆院選は、「国民の生活が第一」というスローガンを掲げた民主党を第一党にすることによって、有権者が新自由主義に「ノー」という審判を下したものとしか私には思えないのだが、その結果小泉構造改革が復活するようでは、日本経済の再建が果たして本当に可能なのかという暗い気持ちになってしまう。日本人はいつになったら「改革詐欺」に騙されていたことに気づくのだろうか。
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今年の「流行語大賞」は「政権交代」だそうだが、そりゃそうなんだろうけれども、政権交代が確実と目された8月の総選挙の直前から、私の心はなぜか高揚することがなく、むしろメランコリーに支配されていた。来るべきものに対する懸念からだった。そして、それは現実のものとなった。
選挙が終わったばかりの頃、田原総一朗がテレビで「野党が政権をとった」と言ったことがあった。冗談じゃない。政権をとったらそれはもう与党なのだ。「政治ブログ」でも、「野党共闘政権」と表現したところがあった。田原の場合は「与党ボケ」、「政治ブログ」の場合は「野党ボケ」だといえる。与党ボケの田原総一朗は、来年3月末をもってようやく『サンデープロジェクト』の司会を降板するそうだが、「野党ボケ」政治ブログの間でも政権交代後は迷走が目立った。
ジャーナリズムには、常に批判精神が求められる。それは、与党が自民党であっても民主党であっても同じことだ。実際のマスコミは全然そうではなく、それはそれで問題なのだが、ネットが、ブログが「マスゴミ」(私の好まない表現だが)と違う、と主張するのであれば、ブログは民主党政権をも批判の対象としなければならないはずだ。
しかし、実際にはどうだったかというと、選挙前に自民党を激しく攻撃していたブログの中には、その過程で民主党への思い入れが強くなり過ぎて、民主党政権が批判を受けるとヒステリックな反応を示すところが現れた。リアルの政治では、下野した自民党と、連立政権に加わらなかった共産党が野党だから、自民党と共産党、それに公明党、みんなの党や平沼一派などが民主党政権を批判するスタンスをとっている。
実に愚かしいことに、政権交代前には民主党と城内実(平沼一派)をともに支持していた一部の右派の人たちが、政権交代後民主党への批判を強めた城内実に失望して、城内を批判するようになったそうである。彼らが民主党と城内実に何を期待していたのか、私にはよくわからない。
さらにいただけなかったのは、共産党の政権批判に切れて、共産党支持者をヒステリックに攻撃する人たちが続出したことだ。それが、正当な理由に基づく共産党批判であればまだよかったが、一部の民主党支持者の間にある共産党バッシングの空気を読んだ扇動者が共産党への批判を煽ったのが現実だった。これについては、11月9日付エントリ「植草一秀氏の共産党批判と普天間基地問題のトンデモ認識」および11月13日付エントリ「ブロガーを惑わす植草一秀氏は「ハーメルンの笛吹き男」だ」で批判した。
自民党政権時代には自民党を批判し、民主党現政権に対しても批判すべきは批判するブログに対して、「おまえらはなんでいつも世の中の少数派なん?」と書いたお馬鹿なブロガーもいた。この言葉に端的に表れているのは、少数者を疎外する論理であり、こんな論法は自民党支持者でさえほとんど用いなかったものだ。なぜなら、自民党支持者にとって敵はまず民主党であり、議席も支持者も無視できるほど少数ではなかったからだ。ところが、旧野党の勢力の間では、共産党は少数派だ。しかも、小選挙区制のせいで議席は少ないものの共産党の得票率はそこそこあるうえ、熱心な支持者が多いから声も大きい。だから民主党狂信者にとっては癪でたまらない存在であり、それが「少数派が何を言っているんだ、黙れ」という反応となって現れる。ある意味、民主党狂信者は、自民党支持者以上に全体主義への親和性が強いともいえる。
民主、社民、国民新党の三党が連立協議をしている時もそうだった。全体主義志向の強い民主党狂信者は、社民党や国民新党はごちゃごちゃ言ってないで、早く連立合意しろと喚いていた。こんなやつらの跳梁跋扈が目に見えていたから、政権交代を前にして私の気分が晴れなかったのである。懸念していた通り、いやそれ以上にひどい状態になった。
少数者の疎外という問題についていうと、現在注目すべきは、普天間基地の移設問題だろう。自民党の石破茂などは、平然と「沖縄に犠牲になってもらう」と言い放つ冷血漢だが、連立与党を形成する社民党は基地の県外・国外移設を求めており、国民新党も社民党に同調している。連立協議の時に、つべこべ言わずに早く合意しろと言っていた連中は、社民党や国民新党が民主党に何も言わず、産経・読売や日経が言うがままに、民主党政府が早期に県内移設を決定したとしても、それを批判する資格などないのである。彼らの教祖・植草一秀は書いた。
普天間飛行場の返還を確実にするためには、県外への移設を確定する時間的余裕
はないと考えられる。嘉手納基地への統合かキャンプシュワブへの移設を軸に着地点を見出す必要があると考えられる。
(植草一秀の『知られざる真実』 2009年10月27日付エントリ「平成の無血革命成功を期す鳩山首相演説」より)
だが、信者の間から、教祖さまのこの言葉を批判する意見は出なかった。そして、植草氏を批判できないのは、共産党支持者を疎外しようとしたのと同じ人たちであり、「少数者の疎外」がその共通項だ。これでは、革命は革命でも「文化大革命」だろう。植草主席か「三種の神器」か知らないが、一部ブロガーの間には、「神聖にして侵すべからず」の対象となっている人物が存在する。そういえば、現在でもなお人々の話題にのぼり続ける「事業仕分け」も文革にたとえられた。バカが一番えらい世の中。庶民感覚が大事だと称しながら、その実庶民は何も知らなくて良いと主張し、実際には多くの庶民と比較して無知にして無恥な者までもが旗を振っていたのがブログの「政権交代」キャンペーンだった。
リベラル・左派系の「政治ブログ」で、今年一番目立ったのは、「植草一秀の『知られざる真実』」のアクセス数が際立って増えたことだろう。もちろん、これに対する私の評価は肯定的なものではない。しかし、一部のネット右翼系ブログは、ブログランキングの順位を吊り上げる工作をしているが、植草氏のブログは掛け値なしにアクセス数が多い。今年は、5月にその植草氏、9月には衆議院議員に復帰したばかりの城内実が、相次いで自らが運営するブログランキングの低下はおかしいのではないかとするエントリをあげた。国民の生活が第一というよりは、自分のブログランキングが第一なのではないかと思えた。そういえば、城内実が衆議院議員に復帰したのも、覚悟していたとはいえ今年の不快なニュースの一つだった。
今年は、「政治ブログ」の世界もすっかり沈滞してしまったように思う。政権交代が実現して、国民の政治熱がピーク時と比べて低下している今は、「政治ブログ」がアクセス数を稼ぎやすい時期ではないが、逆にこういう時に種を蒔いておくことがのちのちにつながる。だから、われこそはと思われる方には、今こそブログへの参入をおすすめしたい。来年末には、「2010年はここ数年の沈滞を脱して、ブログ言論が活発さを取り戻した年だった」と評されることも、決して夢ではない。特に、全体主義への流れに力強く対抗するブログの台頭を期待したい。
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それに気づかない者が、医療費の切り詰めを狙う財務省の後押しをする。そして今回は、その中に「反小泉」ブロガーとして有名なきっこさんもいた。それが一連の「漢方薬騒動」の本質である。そんな中にあって、『村野瀬玲奈の秘書課広報室』のコメント欄でことの本質を明らかにしようと活発な投稿を繰り返したみどりさん(ブログ『労働組合ってなにするところ?』管理人)の果敢な言論は特筆に値するものだったし、『きっこの日記』を支持したのは良いけれども、みどりさんに対して誹謗中傷を繰り返した「学士様」kaetzchenのコメントは、醜悪極まりないものだった。ブログのコメント欄やトラックバックでkaetzchenを放牧しているブロガーたちは恥を知るべきだ。
kaetzchenをコメント欄に飼っているブログの一つとして、『逝きし日の面影』がある。このブログは、私をはじめとする数人のブログ管理人を事実無根の「解同」(部落解放同盟)呼ばわりし、他にも何人かの共産党支持ブロガーを罵倒している。しかし、全く根拠のない「解同」呼ばわり(現に私は解同のメンバーではないのだから、かつて「布引洋」と名乗っていた同ブログの管理人が証拠を示せないのは当然である)に「睨まれていない」ブロガーたちは、平気で布引洋とTBを交換し合って恥じるところがない。あきれるばかりの事なかれ主義である。こういう人たちが「リベラル」だの「護憲」だのを掲げているとは、なんとひどい偽善ぶりだろうか。そして彼らは揃いも揃って腰抜けばかりだから、こうして私が非難しても、反論する勇気を持たず、仲間うちで馴れ合っているだけだ。見下げ果てたものである。
私と同じように、かつて布引洋に「解同」呼ばわりされたブログ『多文化・多民族・多国籍社会で「人として」』の管理人、仲@ukiukiさんは、布引洋を非難する『kojitakenの日記』につけた「はてなブックマーク」のコメントで、下記のように書いた。
「逝っちゃってる人」とTB交換等しながらも、諍いが起きぬまま今日まで来れた方々、いい加減自省してみるべきではないかと、http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20091206/1260058625 を読んで、思いを新たに、そして呆気に。
ここで私が何を言いたいのかというと、自分が被害に遭っていないからといって見て見ぬふりをして、平然と布引洋のような人物とTBを交換する事なかれ主義が、ファシズムを招くということだ。そのような人たちは、自ら「私は全体主義者のカモですよ」と看板を掲げているようなものである。彼らにニーメラーの詩に言及する資格はない。
そんな人たちだから、民主党政権が「無駄を削る」と称して、財務省と結託して行政サービスの縮小を図っても、これを的確に批判することができない。「彼ら」にできることは、せいぜい沖縄の米軍基地問題で「辺野古移転」を強行しようとしている岡田克也外相をスケープゴートにして、鳩山由紀夫や小沢一郎を不問に付すことだけだ。岡田外相の拙劣さはもちろん全くいただけないけれども、岡田克也一人に責めを負わせて済む話ではないことは明らかだ。しかし、「彼ら」には現実を直視することができない。
たとえば政府が医療費を削減するということは、患者に負担させるというのと同義なのである。そんなことにさえ気づかずに、政府の「事業仕分け」に拍手喝采し、批判するものを「自公の工作員」、「共産党支持者」、あるいは「解同」などと決めつけるのが、「彼ら」のやり方である。特に、「支持者」や「工作員」ならともかく、「解同」呼ばわりというのは、「解同」の構成員であると事実無根の決めつけをしているものであり、論敵を誹謗中傷するための嘘をついているものである。そういう悪意の嘘つきと親しくするような人間に、人権だの平和だのを語る資格はない。
そのような人たちだから、ブログ仲間が城内実のような極右政治家を支持すると、簡単にそれに同調してしまう。総選挙前、リベラル・平和系とされるブロガーの間で、城内実の支持者または城内実に理解を示す者は異様なくらい多かった。布引洋もその一人である。
その城内実は、先日読売新聞主筆の渡邉恒雄(ナベツネ)と会見し、ブログにナベツネとのツーショットの写真を披露している(下記URL)。
http://www.m-kiuchi.com/2009/12/03/watanabetsuneosyuhitsu/
城内実は、ナベツネを「大変ものごしが丁寧な、ほんものの紳士だ」と絶賛している。会見の内容は、「あえて詳細について書くことは差し控えたい」と書いているが、そう書いた直後に下記のように書いている。
ただ、小泉竹中構造カイカク路線に対する痛烈な批判と、現下の景気低迷期にあっては公共事業をはじめとして内需拡大をすべきであり、世界一の債権国である日本の財政が破綻するということはないと喝破されたことに、大変感銘を受けた。このことだけはしるしておく。
(城内みのるの「とことん信念」ブログ 2009年12月3日付エントリ「渡邉恒雄読売新聞社主筆(写真付)」より)
ここで赤字ボールドで示した部分だけ切り取れば、ナベツネと城内実の共通認識は正しく、「事業仕分け」などに熱中して、緊縮財政路線をとろうとした鳩山由紀夫首相や藤井裕久財務相は間違っている。ところが、妙に世論や民主党支持ブログなどが鳩山政権を持ち上げるものだから、ナベツネや城内実に正論を言われてしまうのである。
1984年から1999年にかけてナベツネが書いた論説を集めた『ポピュリズム批判』(博文館新社、1999年)を読んだことのある私は知っているのだが、ナベツネはケインズ主義を激しく攻撃した人間である。同書から、ナベツネが1990年に書いた「『ケインズ社会主義』とは何か」の一部を抜粋して紹介する。これは、1990年1月5日付朝日新聞社説「『ケインズ社会主義』の時代」をナベツネが批判したものである。
もともと、ケインズは反社会主義である。赤字財政による巨額な公共投資で有効需要を喚起し、完全雇用を達成するというその理論は、インフレによる実質賃金の切り下げを是認し、ある意味では急進的な資本主義である。戦後、英国労働党が基幹産業の国有化とともに、ケインズ的な手法を採用したが、「イギリス病」を起こして惨憺たる失政を残した。また石油ショック後の世界的スタグフレーションで、ケインズ主義の弊害が指摘された。「ケインズは死んだ」とまで言われ、対極的なハイエックの復活が論じられている。
(中略)
日本経済はやっと今年赤字国債発行から脱却した。世界的に破綻してしまったケインズ主義と社会主義を結び付けて、これからの日本に導入すれば、「大きな政府」と赤字財政に逆戻りして、非効率、浪費、重税、ついにはひどいインフレをもたらし、社会的弱者を最もいじめる結果となろう。
(渡邉恒雄 『ポピュリズム批判』(博文館新社、1999年) 128-129頁)
これは、バブル崩壊が始まる直前に書かれた文章である。引用しなかった部分に、ナベツネ自身の立場は、ケインズ主義と反ケインズ主義の中間点だと書かれているが、この文章および他の論説などを読むと、中間点とはいいながら、かなり反ケインズ主義寄りの主張をしていることがわかる。ナベツネ自身の立場はその後変化していないが、小泉・竹中政権の時代になると、政権や世論がナベツネ以上の経済右派に振れてしまったために(その中には民主党はもちろん、社民党や朝日・毎日新聞なども含まれる。2001年には社民党までもが「改革」という言葉を肯定的に用いていた)、相対的にナベツネが経済左派になっただけだ。
ここで指摘すべきは、この論説が書かれたのち、小泉・竹中やそれに先立つ橋本龍太郎政権が断行した反ケインズ的な政策は、ひどいデフレをもたらして「社会的弱者を最もいじめる結果」を招いたことだ。ナベツネの予見は当たらなかった。
景気が良くなって税収が増えれば財政が改善されることは、バブルの頂点の時期に「やっと赤字国債発行から脱却した」とナベツネ自身が書いていることからも明らかである。逆に言うと、バブル期にバラマキをやって景気を過熱させた竹下登政権の政策は間違いだったということになる。本来、財政再建はバブル期のような好況期になすべき仕事だった。深刻な不況期に「事業仕分け」で国民の人気を得ようなどという政策は、ナベツネや城内実に批判されて当然である。
問題は、ナベツネや城内実の「真の目標」は何なのかということで、もちろん彼らの最終目標は改憲(城内実の場合は「自主憲法制定」)である。本来左派がなすべき「事業仕分け」への批判を、右派にお株を奪われている現在の事態は、今後政権の経済失政が日本の不況をますます悪化させて国民の不満が高まっていったときに、ナショナリズムへの傾斜を招きかねない。私が「国家社会主義の台頭」を警戒する文章を書くようになったのは、もとはといえば、昨年10月に大阪で聴講した辺見庸の講演会に触発されたものであり、もちろん辺見庸は左翼といえる人である。城内実が国籍法改正反対に絡んで書いたレイシズムむき出しのブログ記事を何度も何度もさらしものにするのは、国家社会主義の台頭を恐れるからである。ナベツネにも城内実のブログ記事をよく読んでほしい。その上で城内実を支援するのなら、もう何も言うことはない。また、これまで城内実応援の旗を振ってきた人たちには、ナベツネと城内実の握手をどう考えるのか聞きたい。彼らは、憲法を改定するために保守勢力の再編を狙っている。一昨年にナベツネが仕掛けた「大連立」を思い出してほしい。そんなものに、「9条を守れ」と言っている人間が手を貸しても良いのか。
このままでは、左翼が先頭を切って日本を右傾化させてしまうように思えてならない。現政権が転ぶと極右が台頭する。だからこそ、政権交代の旗を振った人間であればあるほど、現政権にも厳しい目を向けていかなければならない。
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まず、トラックバックいただいた『たまごどんが行く!』のエントリ「事業仕分けを考察する」から引用する。
事業仕分けが世間の喝采を浴びているようだ。批判する人も蓮舫議員がキツ過ぎるとか、時間が短いとかが多く、たまごどんの思う本質とは違う枝葉からの非難が多いように思える。
たまごどんの言う本質とは、この事業仕分けが小泉総理の構造改革とまるで同じに見えるというものだ。小泉改革では福祉・医療・教育分野で大鉈が振るわれたが、今度の事業仕分けでは基礎科学分野にまで予算削減の波が及んだということが相違点かな。今回は基礎科学分野の決定的な衰退を招く可能性もあるなあ。困るのは将来の国民、つまり子供たちである。
(『たまごどんが行く!』 2009年11月26日付エントリ「事業仕分けの違和感を考察する」より)
このエントリの後半で、当ブログがリンクを張られて紹介されており、だからお世辞を言うわけではないが、これは共感できるエントリだ。科学技術分野については、ノーベル賞受賞者たちが声をあげたスーパーコンピュータばかりが注目されたが、それ以前に基礎科学部門や大学などでの研究に市場原理を持ち込む思想自体に、私はずっと違和感を持ってきた。
たまたま宇沢弘文著『社会的共通資本』(岩波新書、2000年)を読み返していたら、下記のような記述があった。
他の実利的、実用的な目的からまったく独立して、知識の探求のみを行う場として、大学の本来の存在理由がある。このような大学の目的から、大学人の行動様式、習慣、基本的性向にかんしておのずからある共通のパターンが生み出されることになる。それは、学問研究が、自由な精神にもとづいて、しかも科学技術的に最新の知識を用いておこなわれるような環境のもとではじめて実現可能となるものだからである。そこには、大学以外の教育機関にみられるような規律、規則の類いは存在する余地はない。
ところが、アメリカの諸大学では、法人企業において支配的な基準を大学に持ち込もうとしている。知識が金銭的利益をどれだけもたらすか、という市場的基準が導入され、大学における研究者は、有用な知識をどれだけ生産したか、学生を何人教育したかという外的な基準にしたがって評価される。大学自体も、利潤最大化という企業的制約条件のもとで経営されることになる。
(宇沢弘文 『社会的共通資本』(岩波新書、2000年) 151-152頁)
小泉政権発足の前年、2000年に出版された本だが、小泉構造改革を経た今、このような考え方は極論として片づける人が大半なのではなかろうかと思う。2001年に、当時経済産業大臣だった平沼赳夫が打ち出した「大学発ベンチャー1000社構想」(通称・平沼プラン)は、まさしく宇沢弘文の書くところのアメリカの諸大学に市場的基準が導入されたと同じことを、日本でもやろうとしたものだといえる。
宇沢弘文は、「サッチャー政権になって大学関係の予算を大幅に削減する暴挙に出てから」(前掲書161頁)イギリスの大学が退廃し、かつての自由で闊達な雰囲気が失われたと書く。さらに日本についても、「第二臨調を契機として、教育の効率化という奇妙な発想が提起され、臨教審によって、具体的な政策転換のプログラムとなっていった」(同163頁)ことが「いかに大きな社会的、文化的損失をもたらすか」(同164頁)はあまりにも明白だと主張している。鈴木善幸内閣時代の1981年に発足した第二臨調(土光臨調)は、翌年発足した中曽根康弘内閣の行政改革を方向づける役割を果たした。中曽根康弘こそ、日本における新自由主義政権の開祖である。
その後、大学の研究に市場原理を持ち込もうという動きは何度も起きた。特に橋本政権、小泉政権や現在の鳩山政権など、「改革」に意欲を燃やす政権が出てくるたびに同じような事態が生じるように思われる。
先に私は「効率的な(サービスの)大きな政府を目指すべき」と書いたが、効率的とは費用対効果(コストパフォーマンス)の良い、という意味だ。しかし、そういう経済効果だけ考えていれば良いというわけではないはずだ、というのが私が引っかかっていたところだった。「学問研究が自由な精神にもとづく」というところが特にポイントなのであって、これは素人のなし得るところではない。素人はどうしても思い込みにとらわれて、自由なものの考え方ができない。私がその最たる例だと考えているのが陰謀論者であって、ひとたび陰謀が存在するという仮説にとらわれると、その仮説抜きに物事を考えることができなくなる。そして、なお悪いことに、最初は仮説に過ぎなかったものがドグマ(教義)と化してしまう。
そうなってしまっては終わりで、落ちるところまで落ちるしかない。最近では、自民党の小池百合子議員が陰謀論に侵されていることがネットで話題になった。きっかけは、小池が発信したTwitterである(下記URL)。
http://twitter.com/ecoyuri/status/6083239039
以下引用する。
中共の「日本解放工作要綱」にならえば、事業仕分けは日本弱体化の強力な手段。カタルシスを発散させながら、日本沈没を加速させる…。
7:01 AM Nov 26th webで
ecoyuri
小池百合子
ここで小池百合子が言及している「中共の『日本解放工作要綱』」とは、日中国交回復のなった1972年に、『國民新聞』(昭和47年8月特別号)に掲載された「日本解放第二期工作要綱」と題された怪文書のことである。Wikipediaの記述によると、『國民新聞』の発刊歴は、上記1972年に「特別号」を出したあと、25年の休刊を経て再発刊され現在に至っているという。「休刊中の1990年に政治団体國民新聞社として登録されており、1997年の再発刊以降は政治団体機関紙として位置づけとなっている」とのことだから、要するに右翼のアジビラのようなもので、小池はこんなものにコロッと騙されたのである。
小池のTwittterがジョークではないか、との議論があったが、ジョークなどではあり得ないことは、ごく一部の人しか知らないであろう「日本解放工作要綱」なるものを持ち出したことから明らかである。私自身も小池のTwitterによってこの怪文書を初めて知った。そして、小池が本気である何よりの証拠は、自民党が下野した総選挙の直後に当たる今年9月に、自身のメールマガジンで「昭和47年に明らかになった中国共産党による秘密文書なるもの」としてこれを紹介していることだ。下記URLにリンクを張ったので、是非ご確認いただきたい。
http://www.yuriko.or.jp/mail_m/090921.shtml
恐ろしいのは、この小池百合子は環境大臣、内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)、内閣総理大臣補佐官(国家安全保障問題担当)、防衛大臣を歴任しており、現在も自民党の広報本部長を務める人物だということである。
巧みな政界遊泳術で、権力のあるところを渡り歩いてきた小池百合子は、超えられそうにもない壁に当たると、簡単に陰謀論に騙されてしまう脆弱な人物だった。そして、そんな人物が「次期総理大臣候補」の呼び声が高かったほど、政界には人材が払底していた。小池は、大学で「自由な物事の考え方」を身につけることができなかったといえる。いわば、「こうあってはならない」という反面教師である。
二度とこの程度の人物を「総理大臣候補」に擬さないためにも、教育は重要だし、それに加えて、大学における研究にはそれ自身に価値があり、それを安易に市場原理にもとづいて「事業仕分け」などしてはならない。「仕分け」を行う側には、小池同様簡単に陰謀論に侵されてしまうような人物がウヨウヨいると推測されるだけになおさらである。
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