しかし、マスコミはことさらにこれを過小評価し、麻生の所信表明演説を「盛り上がらなかった」などと評している。なぜだろうかと考えた時、マスコミにとってコイズミの「構造改革」路線の転換は好ましくないことだからではあるまいか、と思い当たった。新自由主義は、「勝ち組」のマスコミ業界人にとって都合の良いイデオロギーなのである。
しかし、このところ急速に広がる「反新自由主義」の機運に、乗り遅れてはならじとする人たちが多い。昨年末以来話題を呼んだのが経済学者の中谷巌の転向であり、ついには一国の総理大臣までが転向を表明したのである。
中谷巌については、多くのブログで論じられているが、転向については評価する意見と批判的な意見が相半ばし、著書については金を払って買うほどの内容ではないとの酷評が多い。私は、週刊誌のインタビュー記事をいくつか飛ばし読みしただけだが、それらから著書の内容はほぼ想像がつくし、実際その程度の書物らしいから、書店に置いてあっても手に取る気もしない。そんなものに割く時間がもったいない。それでなくとも、もっともっと時間が欲しいと思う日々を送っている。
私は、人文・社会科学を大学で専攻しなかった人間だが、政治・経済問題に対するスタンスは、高校2年生の時以来基本的に変わっていない。もちろん若干の揺れは常にあるのだが、微修正に過ぎない。それだけに、中谷巌のように極端な方向転換を行う人間が小渕内閣の経済戦略会議の議長代理を務め、経済政策の方向性を決めていたかと思うと、やりきれなさを感じるのである。少なくとも、まともな経済学者であるとは思われない。経済学の世界というのは、学問的な能力よりも世渡りの能力の方がものをいうのだろうか。世渡り上手というと竹中平蔵のにやけ顔がすぐ思い浮かぶが、新自由主義の代名詞である竹中平蔵は、間違っても転向宣言はしないだろう。
1945年の終戦を機に、多くの指導者たちが一斉に転向したことは誰もが知っている。朝日新聞の縮刷版を見ると、日本政府も朝日新聞も転向したことがよくわかる。戦争責任を問われて処刑された指導者たちもいるが、日本人自らが裁いたものではない。それどころか、A級戦犯容疑者だった岸信介は、アメリカにとって役に立つ人間だとみなされ無罪放免されたあと、戦後12年目にして総理大臣に就任した。小学生の頃、当時まだ生きていた元首相の岸が、かつて東条内閣に入閣していたことを知って驚いたものである。その岸の孫・安倍晋三が、「岸信介の孫」を売り物にして総理大臣に就任した時には世も末かと思ったが、政治思想も経済思想も「右」に属するネオコンの安倍が全くの無能だったことは、日本国民にとっては不幸中の幸いだった。安倍首相在任時の2007年の参院選は、日本政治の流れを変えた歴史的な選挙として後世に記憶されるだろう。あの選挙での自民党の歴史的惨敗が、世界金融危機を受けた新自由主義からの「転向」ブームにつながった。
ところで、『カトラー:katolerのマーケティング言論』が「経済学者、中谷巌の転向?新自由主義は死んだのか??」と題するエントリ(1月16日付)を上げている。著者はリバタリアン的な人らしく、中谷の転向を酷評する一方で、現在主流になりつつある反新自由主義の論調も厳しく批判している。カトラー氏の立場に私は与しないが、このエントリで「ポリティカル・コンパス」の原型であるノーラン・チャートを用いて、今後の日本の動向を予想していることが注目される。
カトラー氏は、新自由主義には、個人的自由と経済的自由の両方を追求するリバタリアニズムの思想が流れているとしているが、私はデヴィッド・ハーヴェイがいうように、新自由主義とは富裕層が階級支配を復活・強化し、格差の固定を狙ったプロジェクトであり、リバタリアニズムを装った新自由主義の主張は、その真の狙いを覆い隠す仮面であると考えている。個人的自由と経済的自由の両方を追求した結果、格差が固定されるというのはどう考えても矛盾した話だ。
だから、新自由主義に親和的なカトラー氏の主張には賛同できない部分が多いのだが、現在の新自由主義批判のあと、個人的自由も経済的自由も小さくする方向性を持った「ポピュリズム」に走るという予想には賛成する。
これは、カトラー氏のような(?)リバタリアンだけではなく、リベラルや左翼からも指摘されている。当ブログも、昨年10月27日付エントリ「新自由主義のあとにくるもの ? 国家社会主義を阻止せよ」で、辺見庸が講演会で「国家社会主義の変種ともいうべき者が、「革新づらをして」現れるだろう」と警告したことを紹介した。2月1日(日)の午後10時から、NHK教育テレビで「NHK・ETV特集「作家・辺見庸 しのびよる破局のなかで」」が放送されるそうだから、これは見逃せない。当初1時間の放送枠の予定だったが、延長されて1時間半の番組になるそうだ。
カトラー氏の下記の指摘には、当ブログも同感である。
自由から遁走することは、「ポピュリズム」に走ることであり、それは最終的にはファシズムに至る道である。ポピュリズムとファシズムが近いというと違和感を持つ人もいるかも知れないが、ファシズムとは、一般に思われているように、ヒトラーのような独裁者が、一方的に大衆を抑圧、支配することで成立するのではない。むしろその逆だ。大衆のほうから、むしろ進んで歓呼をもって独裁者を受け容れるものだということを歴史は教えている。残念ながら、今の日本は、そちらの方向に舵を切りつつあると実感している。
日々あちこちの「政治ブログ」の記事を瞥見していると、ポピュリズムとファシズムが近いというのは実感として実によくわかる。政治家でいえば平沼赳夫や城内実、文化人でいえば佐藤優がこのカテゴリに属する。ブログでいえば(以下自粛)。
麻生太郎も、もともと新自由主義政策を推進したコイズミ内閣の中枢にいた人物である。麻生の転向も、下手をすればファシズムの呼び水になりかねない。
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今回の施政方針演説で麻生が「脱カイカク」を打ち出すことは、マスコミの報道で知っていたので驚かなかった。麻生は、
「官から民へ」といったスローガンや、「大きな政府か小さな政府か」といった発想だけでは、あるべき姿は見えないということです。
市場にゆだねればすべてが良くなる、というものではありません。サブプライムローン問題と世界不況が、その例です。
などと明言した。国民の安心を考えた場合、政府は小さければよい、というわけではありません。
ここで絶対に思い出しておかなければならないことは、2005年の総選挙におけるコイズミの、有名な「改革を止めるな」のフレーズで始まる公約である。URLを下記に示す。
http://www.jimin.jp/jimin/jimin/2005_seisaku/pamphlet/
ここでコイズミは、「小さな政府をつくります。」と明言している。以下引用する。
小泉改革のめざすもの
■小さな政府をつくります。
「小さな政府」とは、官が民の邪魔をしない政府のことです。
官の組織を小さくして、官が使うお金を減らします。官の規制や許認可を撤廃して、民間が仕事をしやすくします。
小さな政府を実現し、個人が自由に活力を発揮できる社会の中で、新しい技術・サービスを核とした起業・創業を支援します。
そして、経済と産業の国際競争力を強化し、民間主導の経済成長を持続させます。少子高齢化の中でも、国民の負担はできる限り小さく、国民の活力はできる限り大きく。それが小泉改革の目指す「小さな政府」です。
つまり、麻生太郎は、郵政総選挙から4年、コイズミ内閣発足から8年になる今頃になって、ようやく「コイズミカイカク」路線を明確に否定したのである。
本当は、これは麻生が総理大臣に就任した直後の、昨年秋の臨時国会冒頭の所信表明演説で言わなければならないことだった。「カイカク」からの離脱を明言した上で直ちに衆議院を解散し、民主党と「脱カイカク」を競う選挙戦に持ち込んでいれば、自民党に勝機があったかもしれない。しかし、あの時麻生がやったことは、逆質問による民主党の挑発であり、特に見過ごせないのは「財源を明確にせよ」と民主党に迫ったことだ。これは、典型的な新自由主義者の論法だった。しかも、麻生の景気対策の方こそ財源を示せと民主党の鳩山幹事長に切り返されて麻生は口ごもり、年末までに明らかにすると答えて野党議員に野次を飛ばされた。私はニュースでその映像を見て、麻生の無能を確信した。まだ麻生が「漢字が読めない」ことを知る前である。
物事にはタイミングがある。麻生の言葉の軽さが国民に知れ渡った今頃になって、コイズミカイカクからの離脱を表明したのは、何も言わないよりずっとマシではあるが、時既に遅しなのである。
しかもいけないのは、「小さな政府」を否定したあと、「中福祉中負担」を目指し、そのために国民に負担をお願いする、と言い、さらに2011年に景気が回復すれば消費税を増税すると言ったことだ。これは、朝日新聞の主張とそっくり同じである。
なぜいけないかというと、コイズミカイカクによって日本社会は格差が著しく拡大し、日本経済を支えていた分厚い中産階級がやせ細り、貧困層が増えたことによって、消費が減退し、日本経済が衰退していったことを考慮していないからだ。今緊急に必要なのは、富の再分配である。たとえばイギリスでは消費税を2.5%引き下げたし、アメリカのオバマ大統領は就任前に金持ち増税と中産階級以下の減税を公約した(金持ち増税には横ヤリが入っているようだが)。
コイズミが公約した「小さな政府」は、政府が富の再分配をしないという意味だから、格差が拡大するのは当たり前なのである。実際にはコイズミは何もしないどころか、法人税減税や金持ち減税を行って格差を拡大させた。そして、どうしても必要な政府支出には、消費税増税で対応するというのは昔からの自民党の方針だが、消費税とは森永卓郎がよく言うように、逆進性の強い税制である。
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/o/141/index1.html
一度、当ブログに頭のおかしなコメンターが現れ(確か最初は名なしで、のちに「資本主義者」と名乗っていた)、消費税と言ったって金持ちの方が金を多く使うではないか、全然公平な税制ではないなどと寝言を言っていたことがある。なんて馬鹿なことを書くのかと呆れたが、思い出してみれば、竹中平蔵が理想とする税制はどんな人だろうが定額の税金を課する「人頭税」だった。今となっては信じられないことだが、イギリスのマーガレット・サッチャー首相は現実に人頭税を導入し、すさまじい国民の反発を買って退陣に追い込まれた。そして、「コイズミカイカク」や安倍晋三の「教育カイカク」は、サッチャーをお手本にしたものだったのである。後世の歴史家からは、間違いなく前世紀前半の戦争に突き進んだ時代と並んで酷評されるに違いない愚挙だが、これが大手を振ってのし歩いていた時代が、ついこの前まで続いていた。
いや、その影響は現在も残っている。当ブログにも時々、財政再建をどう考えているのか、消費税増税抜きでやれるのかというコメントをいただく。私はもともと高福祉高負担論者だから、ずっと先の段階では消費税増税は必要だと考えており、その点で共産党支持者と意見が合わず、増税論者として批判を受けたこともあるのだが、ここ数年に限って言えば、消費税率の引き上げには断固反対である。それは、日本社会の現状が緊急な再分配政策が必要な時期であるにもかかわらず、消費税増税はそれを阻害するからだ。要は、もっと庶民にお金が回るようにしなければならない。国民の生活が楽になれば、気持ちも明るくなって生産性が上がり、消費も促進される。結果として、税収が上がる。最近、無利子国債発行なども議論されているが、金持ちにはもっと金を出させなければならない。もちろん、アメリカより累進性のゆるやかな所得税制を改めなければならないし、環境税を創設して、環境に優しくない企業からは税金を取り立てなければならない。税収増は社会保障の充実に当てる。消費税率の引き上げを検討してもよいのは、これらがすっかり終わってからの話である。
ところで、せっかく麻生太郎が朝日新聞の主張を取り入れた施政方針演説をしたのに、今朝(29日)の朝日新聞社説はつれない反応を示した。「麻生演説―信なき人の言葉の弱さ」と題した社説は、下記のように結ばれている。
景気対策としての公共事業への封印を解き、財政再建の青写真も描き直す。そうした大転換をするには、本来なら有権者の信任に支えられた強力な政権が必要だ。
首相の言葉がいま一つ胸に迫ってこないのは、信任の問題、つまり総選挙から逃げているからだ。まして小泉時代に得られた与党の議席数を使って押し通すというのでは、著しく説得力を欠く。
その通りである。「小さな政府」を公約して総選挙に圧勝した与党の議席数の威力にしがみついている人間が、口だけ「コイズミカイカク」を否定してみたところで何の説得力もない。逆進性の強い消費税増税にやたらとこだわるのも、自民党が基本的に富裕層のための政党であることの反映だ。
麻生がやるべきことは、早期の解散総選挙である。自公政権の延命は、そのまま日本経済低迷の泥沼化を意味する。今後、3月末にかけて企業の倒産が相次ぐことは間違いない。その時、やっとコイズミカイカクからの離脱を表明したばかりで、党内に中川秀直らカイカク派の反発が渦巻いている自民党政権ではまともに対応できないことは火を見るより明らかである。
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私は、一日に何度か「自民党TBP」と「はてブニュース」をチェックしているが、最近はこれらの中にも注意を惹く記事が少なくなっており、ネット言論も閉塞状況になっているという印象だ。政府批判の視点もマスコミに誘導されたものになっており、マンネリ化しているのである。
そんな中で目をひいたのが、『評論家・森田敬一郎の発言』の1月27日付エントリ「自公連立政権の「再生可能エネルギー」への消極姿勢」だった(下記URL)。
http://morita-keiichiro.cocolog-nifty.com/hatsugen/2009/01/post-7a1d.html
読んで感心したので、下記に森田さんの記事の前半部を引用、紹介する。
朝のNHKテレビのニュースで、国際再生エネルギー機関の設立総会があったがわが国政府はオブザーバー出席にとどめたと報じられていた。つまり、わが国の政府は「風力」や「太陽光発電」については、中国やこの機関への対応を検討していたブッシュ・チェイニー政権と五十歩百歩ですと自ら発信したわけだ。
しかも、側聞するところではもともと外務省も経済産業省も出席すらするつもりがなかったところ、オバマ政権の誕生でアメリカが「欠席」から「オブザーバー派遣」に切り換えたので慌てて日本もオブザーバー参加に切り換えたという。
経済産業省や外務省は、天下りなどの都合で原子力村というか、財界というか、電事連というか、そういうものにがんじがらめになっているので、野放しにしておけばこの国際機関に「不参加」という結論もまあ予想はつく。朝日新聞でさえ、「風力発電の施設に貴重なオオタカがぶつかって死ぬ」といった記事をよく出していると思ったら、この前は「騒音などで健康被害」という記事を一面に大々的に掲載していた。「沖合を推進しよう」といった話など全く書かずにだ。これも赤字転落下の広告料の都合なのだろう。
しかし、こうした癒着の構造にばかり足をとられることなく、例えば地球環境問題で経済産業省や外務省をリードして、あるべき方向に持って行くのが「政治のリーダーシップ」の役割であるはずだ。
少なくとも、現在の自公政権はこの問題について私の期待には全く応えていない。やる気がないのだ。この際、民主党など野党各党はこうした問題についてどういう姿勢で臨むのか、ハッキリ態度を示して欲しい。民主党には電力会社からパーティー券を買ってもらっている議員がかなりの数いるのだろうが「政権交代しはしたけれども、やっぱり政治は電事連の言いなりのまま」といったことにならないよう、今から内外に「宣言」しておいたほうが良いと思う。
(『評論家・森田敬一郎の発言』?「自公連立政権の「再生可能エネルギー」への消極姿勢」より)
当ブログも何度も書いているが、太陽光発電は日本の技術が世界をリードしている分野であるが、コイズミが「カイカク」の一環で補助金を打ち切って以来、日本はこの分野でシェアを落とし、再生可能エネルギーに力を入れているドイツに逆転された。また、再生可能エネルギーは、今後内需を拡大し、地域を振興させるため、さらには地球の環境を守るために必ず力を入れなければならない分野である。それなのに、自公政府はブッシュが消極的だと追随して消極的になり、オバマが一転して積極的な姿勢を見せると、慌てて形だけ付き従う。しかし、内実は原子力利権にどっぷり浸かっているために再生エネルギーの開発推進には全くの不熱心なのである。とんでもない国賊というほかない。
しかし、それを批判するべき民主党や朝日新聞も、森田さんが指摘するようなていたらくで、民主党は電力会社や電機会社の労組が原子力産業に頼っていて原発推進を支持している関係で、再生可能エネルギーには及び腰だし、朝日新聞は、最近よく指摘されるように広告料収入が大幅に落ち込んで赤字に転落してしまったために、広告主の企業のご機嫌をとらなければならず、それが再生可能エネルギーに冷水を浴びせるような記事につながっている。
最近の朝日新聞は、もともと持っていた「構造改革」支持のネオリベ体質に加え、安全保障政策関係でも右傾化を強めている。1月24日付社説では、ソマリア沖の海賊への対応で海上自衛隊の護衛艦を派遣することをあっさり容認した。この件は、社民党だけではなく右派の国民新党まで反対し、民主党に共同歩調を取るよう働きかけていて、民主党も反対の方向で党内を取りまとめようとしていたが、朝日新聞があっさり容認したので、ネット右翼は「民主党は朝日新聞より左に行ってしまったのか」と民主党を批判した。民主党の長島昭久は海自の護衛艦派遣の言いだしっぺだったが、党の方針に従って主張をトーンダウンさせていたからだ。私に言わせれば、民主党が左傾したのではなく、朝日新聞の方が民主党右派より右に行ってしまったのである。
朝日新聞の右傾化は社説を書く幹部級記者の問題であり、末端の記者は頑張っていると言う人もいるが、果たしてそうだろうか。再生可能エネルギーの推進は、朝日新聞主筆の船橋洋一も主張しているはずだ。いかに「再生可能」と言っても、環境に全く悪影響を与えない電力供給設備を作るのは至難なのは当然だが、ネガティブな側面を強調するだけの記事は、化石燃料や原子力に頼っている現状を追認するだけのものだ。そして、そんな記事を書くのは社説を書く幹部級記者ではなく、現場で取材している記者なのである。朝日新聞の右傾化は、中堅や若手の記者にまで浸透しているのではないだろうか。
そんな朝日新聞は、民主党寄りの新聞として知られている。かつて社会党びいきだった流れをくんでいるのだが、朝日新聞の論調が民主党の政策に与える影響は大きいはずだから、その朝日の右傾化は憂慮すべきことである。ところが、当ブログが朝日新聞を批判すると、「なんでブログ主は産経ではなく朝日にばかり八つ当たりするのか。実は右翼なのではないか」などと呆れたコメントを寄せてくる読者もいる。そんなことを書くまでに批判精神が鈍磨してしまっているのであるが、それを自覚していない。
自公政府を批判する側までこのありさまだから、麻生内閣の支持率が20%を割り込んだくらいで(そんなのは当たり前のことだ)、浮かれる気には全くなれない今日この頃なのである。
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http://quote.yahoo.co.jp/m3?u
『株式日記と経済展望』は、1月21日のエントリで「金融立国の末路、アイスランドの次はイギリスが国家破綻か?」と書いているし、田中宇が書いた「イギリスの崩壊」はネットで注目され、400件以上の「はてなブックマーク」がついた。後者は、「9.11陰謀論」や「地球温暖化陰謀論」を信奉している田中宇の書いたものだから、読み物としては面白いけれども話半分にしておいて、信用し過ぎない方が良いと思う。
しかし、『株式日記と経済展望』からリンクを張られている伊藤洋一の「価格競争を超越した強さ」は、説得力のある記事だ。右派系雑誌の『Voice』に載った記事だし、著者の伊藤洋一は郵政解散・総選挙の時にコイズミ応援の旗を振った悪印象があまりにも強いが、この記事では「金融立国」が崩壊したとはっきり書いており、この期に及んでまだ日本は「金融立国」を目指せなどと主張する新自由主義者たちと一線を画した形だ。
詳しくは、伊藤氏の記事をご参照いただきたいが、国家破綻の状態にあるアイスランドに続いてイギリスも怪しく、アメリカもそれに続くが、これらの国々はいずれも「金融立国」であり、製造業が衰退していたと指摘している。
私は、イギリスやアメリカのとった新自由主義の政策は製造業と相性が悪く、製造業を衰退させてきたと考えている。2007年10月14日付エントリ「新自由主義の時代の「終わり」を暗示する安倍内閣の崩壊」でも紹介したように、神野直彦は、『人間回復の経済学』(岩波新書、2002年)で、サッチャーの政策によってイギリスの労働生産性は向上したものの、産出高はサッチャー政権前よりきわだって低下しており(1960?73年には年平均3.1%だったのに、サッチャー政権成立後の1979?95年には年平均0.3%にまで落ちた)、生産性向上は技術革新よりもむしろ経営側の苛烈なリストラのもたらしたものだったことを指摘している。
サッチャー政権成立前に書かれた森嶋道夫の『イギリスと日本』(岩波新書、1977年)などを読んでいると、イギリスはサッチャー以前から優秀な人材が産業界に行きたがらない社会だったらしく、イギリスにおける製造業の衰退の源は、実は産業革命期に遡るのではないかと最近では考えているが、それはともかく、イギリスが製造業の弱い国であることだけは間違いない。伊藤洋一の、
という指摘には、説得力がある。今回の金融危機が明らかにしたのは、人々が生活するうえでどうしても必要とするモノをつくる製造業をもたない国が置かれた惨状なのだ。
ただ、日本の工業製品の品質については、伊藤洋一は楽観的に過ぎると思う。私の意見では、日本の工業製品の品質がもっとも高かったのは1990年代前半であり、以後は新自由主義の波に洗われ、品質を犠牲にした過度のコスト削減や未完成の技術の見切り発車などによって、かつてほどの品質を誇っているかきわめて疑わしいと考えている。もちろん、他国と比較するとまだまだメリットはあるので、政府も財界もこれ以上間違った方向に進まないでほしいものだ。
とはいえ、伊藤洋一の記事を締めくくる下記の主張には賛成である。
日本の進むべき道ははっきりしている。「金融だけでメシが食える」と安易に考えた国々は呻吟している。金融はあくまで実物経済の流れを補完しているだけの存在である。それが前面に出てくるような、過去に例のないような脚光を浴びる時代は間違っていたことは明らかである。
対して、人間が必要として、それを使うことに楽しみを感じる製品は最後までなくならない。それを日本がきっちりと、長期的に「あの国のものは信頼できる」というレベルでつくりつづけることが、日本が、そして日本の企業が選ぶべき道だと筆者は考える。
(伊藤洋一 「価格競争を超越した強さ」より)
郵政総選挙でコイズミ自民党への投票を煽った論者からもこういう雑誌記事が出てきた。流れはもうすっかり変わった。
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任期が今年9月までと決まっていて、その先はないにもかかわらず、麻生内閣はひたすら政権延命のことのみ考えているが、日に日に悪化する経済情勢なのに何の手も打たないから、内閣支持率は低下の一途をたどっている。
昨日(25日)のフジテレビでは、台湾政府が実施した給付金が好調で、商戦を活発化させていると言っていた。その他、アメリカを含む各国の景気刺激策を紹介していた。
政治家や学者たちの議論でも、緊縮財政を主張する人は誰もいなかった。竹中平蔵のブレーンだった高橋洋一は、政府紙幣の発行と埋蔵金の活用を主張していた。民主党政権が成立すれば財務相に就任すると予想されている榊原英資は、政府紙幣の発行は私も10年前に主張したことがある、と言いながら、もちろんそれには異論はないが、相当にバブリーな政策なので、金の使い方が問題だ、として、農業支援を行えと言っていた。旧構造カイカク派、反カイカク派を問わず、財政政策と金融政策の組み合わせで景気浮揚を行えという主張だったように思う。
だが、政府はなかなか思い切った政策はとれない。なぜかというと、自民党において「コイズミカイカク」が総括されていないからだ。麻生内閣は規制緩和と社会保障削減を柱とする「小さな政府」のコイズミ路線からの離脱を指向しているにもかかわらず、党内でコイズミ批判がいまだにタブー同然になっているため、何もできず先送りを続け、支持率を下げ続けている。
私は、次の総選挙は「コイズミカイカク」と「世襲政治家」の審判選挙になると考えているが、コイズミカイカクに対する評価は、よくいわれるように地方では低いが、首都圏などの都市部ではまだまだ根強い支持がある。フジテレビ「新報道2001」の調査でも、コイズミカイカクに対して「間違っていた」とする人が46%だったのに対し、「正しかった」と評価する人がいまだに40%もいて、驚いてしまった。
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090125/stt0901251815003-n1.htm
野党の民主党にも、都市部選出の議員を中心に、カイカク派が大勢いる。自民党はなぜか都市部、地方を問わずカイカク派が広く分布しているが、自民党の場合、地方選出でも都会育ちの世襲議員が多い。当ブログ管理人の地元・香川でも、選挙区選出議員は全員自民党の世襲議員である。そして、とりわけ1区選出の平井卓也はカイカク派の一人であり、地方紙のオーナーでもあるが、次の総選挙では落選が予想されている。愛媛1区選出の塩崎恭久も、やはり世襲でカイカク派の大物自民党議員だが、有名政治家であるにもかかわらず、必ずしも楽観を許さない情勢とのことだ。こういう人たちが「コイズミカイカク」を推進し、日本をめちゃくちゃにしてしまったのである。
昨日(25日)、投開票が行われた山形県知事選でも現職が敗れた。民主党などが推す新人の吉村美栄子氏には、寝返った自民党参院議員の応援もあったため、当初政党色を抑えた選挙運動をしていたのだが、終盤の情勢調査で、当初の予想に反して吉村氏が現職知事の斎藤弘氏を猛追しているとの結果が出たため、民主党の小沢一郎代表が現地入りするなど、一転して政党色を強めた選挙戦に切り替えて、吉村氏の支持を訴えた。そして、小差ながら吉村氏が当選したのである。
現職は、財政再建路線による県政のサービス縮小を批判された形だが、なぜそうなったかというと、コイズミの「三位一体カイカク」で地方交付税を削減したからだ。コイズミカイカクを総括しない限り、何も解決しないのである。
ただ、「カイカク批判逃れ」を狙う動きが自民・民主の両党にあることには警戒したい。先日自民党を離党した渡辺喜美などがその代表格で、マスコミ、特に電波芸者たちは口を開けば「わたなべよしみさん」の名前を連呼している。昨日放送されたフジテレビの『新報道2001』で、首都圏の500人に聞いた麻生内閣支持率が14.4%だったと言っていたが、マスコミの支持率調査で横並びしている「支持率19%」より低い数字だ。これは、「コイズミカイカク」を支持する首都圏のネオリベたちが麻生離れを起こしていることを意味する。彼らが渡辺喜美らを支持していることは想像に難くない。
麻生内閣の低支持率をも、自らの生き残りに利用しようとするしたたかな「カイカク」派にだまされてはいけないと思う今日この頃である。
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今朝(23日)の朝日新聞を見ると、「首相がこだわる消費増税の道筋はぼやけ」などと表現しており、不満そうだ。朝日は消費税増税派の急先鋒になっている。
今回、消費税増税を急ぐことに反対しているのは、中川秀直を領袖とする「上げ潮派」、過激な新自由主義者たちであり、バックには竹中平蔵やコイズミがいるが、早期の消費税増税に反対する点では、新自由主義者たちの方が正しいのだから頭が痛いところである。もちろん、彼らの主張は、「骨太の方針2006」の堅持、すなわち社会保障費を年2200億円圧縮していく「コイズミカイカク」路線の維持がセットとなっていることは、決して忘れてはならない。
しかし、「増税派」のいう、「景気拡大過程にあれば消費税増税」というのはめちゃくちゃな話である。TBSテレビの「NEWS23」だったと思うが、景気拡大過程とはどういう時期を指すかということについて解説していた。現在は、明らかに景気の縮小期にあるが、それが「底」に達して上昇カーブを描き始めた時点以降を景気拡大過程とするのだと言っていた。
これを、1年の気温変化にたとえてみれば、1月下旬の現在は、1年でもっとも平均気温の低い時期だが、2月上旬以降徐々に気温が上昇し始め、以後半年間は気温が上がり続ける。この時期を「気温上昇過程」と言っているようなものである。つまり、景気が「底を打った」時点では、景気はどん底にあって、国民の暮らしがもっとも苦しい時期なのだが、それを少しでも過ぎていたら消費税率を上げますよと言っているわけだ。そんな時期の消費税増税が日本経済に与える悪影響は火を見るより明らかだろう。橋本龍太郎内閣時代、1997年の消費税増税と同じ、いや、もっとひどい効果をもたらす。橋本内閣の失政のせいで、1998年度の日本のGDPは前年比マイナス1.5%を記録したが、昨日(22日)日銀は、2008年度と2009年度のGDPをそれぞれマイナス1.8%、マイナス2.0%で、2年連続で戦後最悪を記録すると予想している。落ち込んだ経済が少しでも上向いたら消費税増税というのは、気違い沙汰というほかない。
それにしても、消費税増税を強硬に主張するマスコミは本当にどうかしている。1月15日付の四国新聞に、辺見庸の「水の透視画法」が掲載されたが(共同通信配信で、他の地方紙にも掲載されたはずである)、そこに、辺見が30代の新聞記者からもらった電子メールが紹介されている。彼の勤める新聞社は、
と彼は嘆き、この不景気をしのぐために以前よりさらに権力や大企業、お茶の間になりふりかまわず媚びをうり、大事な記事をへらしてでも広告を入れようとしているけれども、異議をとなえる気力は社内にも自分にもない
のだそうだ。権力をチェックする機能を持った大新聞社は、もはや日本には存在しない。仕事をやめたいのだがやめられない。「暗やみに吸いこまれていくような孤独と虚無感」に日々おそわれている
年が改まってから3週間以上が経過したが、明るい気持ちになどなりようもなく、鬱々とした日々が続く今日この頃である。
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私などは結構醒めているので、オバマにはもちろん期待しているけれども、最初から期待するほうが無理な分野もあり、おのずと限界があると最初から思っている。前大統領のブッシュや、共和党の大統領候補だったマケインよりは確実にマシだし、対イスラエル政策に関しては、ヒラリー・クリントンは代表的な親イスラエルの政治家として知られているから、クリントンだったら洞ヶ峠どころかより積極的にイスラエルを支持したのではないか。
今回のガザ侵攻は、オバマ大統領就任にタイミングを合わせてイスラエルは撤退したけれども、この侵攻において、イスラエルはもはやナチス・ドイツの域に迫る悪逆非道ぶりを発揮したと私は思うし、何よりイスラエル政府が選挙を意識して人気取りのために虐殺を行ったことは許し難い。しかし、同様の体質はアメリカも抱えているのであって、十年ちょっと前、愛人のスキャンダルで支持率が低下した当時のクリントン大統領がアフガンを空爆したところ、支持率が上昇したというニュースを聞いて呆れたことを思い出す。基本的に、アメリカ人にとってアフガンや中東に住む人々の命などどうでも良いのだろうと私は思っている。
対イスラエル政策というのは、どんな大統領であろうが、アメリカの政策には私は期待しない。オバマの政策でも、対イスラエル政策はもっとも期待できないものの一つで、次いで増派を公約してきたアフガンの政策が挙げられる。私は、アメリカの経済や財政を考えた時、オバマが選挙前に口にしていたようなアフガンでの強硬な政策は、実際には取れないのではないかと考えているのだが、どうなるかはわからない。アメリカというのは何をやるかわからない国だからだ。ブッシュのような悪逆非道ではなくとも、オバマにも警戒を解いてはならないだろう。
もっとも期待できるというか期待せざるを得ないのは、経済政策の転換であって、オバマの唱えるグリーン・ニューディール政策は、対米盲従を唯一のポリシーとする日本政府も追随せざるを得ないだろう。オバマは、電気自動車政策に力を入れると公言しており、これに関連するリチウムイオン電池技術を国策にしようとしているようだが、この分野はもともと日本が得意とするところであって、日本の技術が世界をリードしてきたものだ。本当は、日本政府こそこの分野を国策としなければならないはずである。
かつて、「小さな政府」を掲げていたコイズミ政権は、やはり日本の技術が世界をリードしていた太陽光発電への補助金を打ち切り、この分野での日本企業のシェアを大きく落としてしまった。ことほどさように、新自由主義の政策は百害あって一利なしである。財界が新自由主義の政権を支援するのは、根本的にポリシーがおかしいのではないかと私は思う。
日本でも政策の大胆な転換が求められる。次の総選挙で政権交代が起きることは確実だと考えられており、これはオバマ大統領の誕生に対応する日本におけるイベントであって、最低限政権交代がなければ日本は生き残れないと私は思う。しかし、政権交代は日本の生き残りのための必要条件の一つに過ぎず、新政権がどのような政策をとるかが大事だ。
経済政策に関しては、民主党と連立を組むことが予想される国民新党と社民党が、民主党を然るべき方向(社会民主主義的経済政策)に引っ張っていくことを期待している。逆方向に民主党を誘導しようとしているのが、渡辺喜美や、現在は身動きが取れないものの総選挙後の政界再編で政権入りを狙っている、中川秀直を領袖とする自民党の新自由主義者たちである。彼らにはマスコミのバックアップがあり、電波芸者たちも彼らをヨイショしている。たとえば、テリー伊藤は渡辺喜美を「100パーセント支持する」と言い切った。万一、彼らが政権に加わって民主党との「大連立」政権なんかができてしまうと、日本は間違いなく没落の度合いをさらに強めてしまう。その害毒は、平沼赳夫一派が政権に加わった場合に政権の外交・安全保障政策に与える悪影響よりもさらに性質が悪く、コイズミカイカクという癌が除去できずに残ってしまうようなものだ。マスコミが新自由主義者をバックアップするのは、その方が業界の人間にとって好都合だからに過ぎず、彼らにとっての好都合は、日本に住むその他大勢の人々の不都合なのである。
とにかく、政権交代が実現したあとが大事だと思う今日この頃である。
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私が感心するのは、マイノリティである黒人のキング牧師の祝日を設けたアメリカという国である。ひるがえって日本はいうと、建国記念の日だの昭和の日だのと、右翼好みの祝日ばかりが増えていく。向きが正反対なのである。確かにキング牧師記念日は、牧師の死後15年経った1983年にようやく制定されたものだし、一部の州では白人たちの反対が多数で、なかなか祝日として導入されなかった。しかし、国として人種差別をなくしていこうというアメリカの姿勢は、周辺諸国に対する戦争責任問題でいまだにグズグズいう政治家が後を絶たない日本とはえらい違いである。
そのアメリカに、初めてアフリカ系のバラク・フセイン・オバマが大統領に就任した。大統領就任式を翌日に控えた19日、オバマはワシントンにある子供のホームレスのための施設を訪れ、壁にペンキを塗るなどして、施設の修復を手伝った。そして、「キング牧師の夢はすべての国民が自由を分かち合い、子供たちが私たちよりも高くのぼっていくことだった」と、牧師をたたえながら、社会奉仕への参加を訴えた。
"I have a dream" の一節で知られるキング牧師の演説から46年、やはり演説の名手として知られるオバマが全米の人たちの心をつかんだ。オバマの大統領就任演説や今後の政策については、多くの方々が語ってくれるだろうから、本エントリではそれには触れず、就任演説に先立って演奏されたバイオリン、チェロ、クラリネットとピアノの四重奏について書きたい。
オバマのために演奏を行った各氏は、バイオリンがイスラエル出身で幼い頃から下半身が不自由なイツァーク・パールマン、チェロが両親とも中国人のヨーヨー・マ、クラリネットが黒人のアントニー・マクギル、ピアノがベネズエラ出身女性のガブリエラ・モンテロ。演奏されたのは映画音楽の作曲家、ジョン・ウィリアムズがオバマ大統領就任式のために作曲した新曲 "Air and simple gifts"だった。演奏家の取り合わせが、いかにもアメリカらしいという印象だ。イスラエル出身のユダヤ人や中国系の演奏家がいるので、要らぬことを言う人たちもいるかもしれないが、そんな人はおのれの愚かさをさらけ出すだけだろう。
私は、NHKテレビの中継で見たのだが、この演奏の最中もアナウンサーがうるさかったし、オバマの就任演説では同時通訳によって聴く方の集中が妨げられた。だから、ちょっと興をそがれたのだが、それはいたしかたあるまい。ウィリアムズの新曲自体は、仮にアナウンサーの余計なおしゃべりがなかったとしても、正直言ってさほど素晴らしいものとは思えず、先立ってアレサ・フランクリンが歌った「アメリカ」の方が印象に残った。四重奏の方は、演奏家の顔合わせに意味があったといったところだ。
アメリカも日本も大変な時代を迎えたが、せめてアメリカ人が持てるくらいの夢を日本人も持ちたいものである。今までは、あまりに受動的であり過ぎた。今こそ、覚醒すべき時だと思う。
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鳩山総務相の動機はどうあれ、コイズミ?竹中のカイカク路線の中枢にいたオリックスへの異議申立は、麻生内閣が「カイカク離れ」をしようとしているものと解釈できる。これに対し、いまだに「カイカク命」の新聞各紙は、鳩山批判を行った。
日本経済新聞は、いち早く1月9日付社説「総務相の「待った」に異議あり」(既にリンク切れ)で鳩山総務相を批判した。
その後、鳩山総務相は14日に日本郵政の西川善文社長から事情説明を受けたが納得せず、事実上、譲渡計画の白紙撤回を求めた。これを受けて、産経新聞は1月16日付の「【主張】かんぽの宿譲渡 「白紙」なら合理的理由を」で、手続きに問題点はない、所管大臣が入札結果に口出しするのは許認可権の乱用だとしてやはり鳩山総務相を批判した。
さらに、このところすっかり新自由主義の牙城になっている朝日新聞が、1月18日付社説「かんぽの宿―筋通らぬ総務相の横やり」で、やはり鳩山総務相を批判した。
という朝日の主張は、早い話がコイズミカイカクに楯突くとはけしからん、という意味だ。宮内氏は規制緩和や民営化を推進してきた。官僚任せでは構造改革が進まないため、当時の政権が要請したものだ。過去の経歴や言動を後になってあげつらうのでは、政府に協力する民間人はいなくなってしまう。
朝日新聞に呼応するように、竹中平蔵が19日付産経新聞に登場し(【竹中平蔵 ポリシー・ウオッチ】かんぽの宿は“不良債権”)、大々的に盟友・宮内義彦のオリックスを擁護、鳩山総務相を批判するとともに、
と、国民新党や民主党をも批判した。筆者が失望したのは、この問題を国会で質問した野党が、大臣発言をむしろ擁護する立場にあったということである。
今朝(1月20日)の毎日新聞社説「かんぽの宿譲渡 与党の民営化姿勢問われる」は、先行して社説を掲載した3紙とは違って、与党に注文をつけるものであり、他紙と比較して同紙が「構造改革離れ」を始めている現われと見ることができるが、「カイカク利権」ともいえるオリックスの露骨なやり方を批判するには至っていない。同社説は、
と書くが、「批判は盛り上がらなかった」というのはずるい書き方であって、毎日新聞自らが意識的に批判を盛り上げなかったのである。コイズミカイカク当時、毎日新聞は朝日新聞同様、熱心にコイズミカイカク応援の旗を振った。読売新聞の方がまだ控え目だったほどだ。その読売は、この件に関してまだ社説を掲載しておらず、様子見をしているようにも見える。読売もまた、コイズミカイカクを否定まではしていなかった。小泉改革当時、規制改革にかかわった経営者の企業が、その成果を享受したと受け取られてもやむを得ない例は見受けられた。当時は、そうしたことへの批判は盛り上がらなかった。
この件は、たとえ手続き上問題はなくとも、露骨に「カイカク利権」にありつくやり方は、「脱法行為」的だと思う。朝日新聞がいきり立って「反カイカク」にかみつく社説を見ていると、その前日に掲載された消費税増税強硬論の社説などと合わせて、手に負えないネオリベ新聞だなあと呆れ果てるばかりの今日この頃である。
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3月には地下鉄サリン事件が起き、4月には1ドルが79円75銭まで円高が進んだ。同じ月、東京都と大阪府の知事選で、青島幸男と横山ノックが当選した。7月の参議院選挙では、与党の自民・社会・さきがけが敗北、特に社会党は大敗を喫した。8月の終戦記念日に、その社会党の村山富市首相が、「戦後50周年の終戦記念日にあたって」と題する談話(村山談話)を発表し、日本が戦前、戦中に行った侵略および植民地支配について公式に謝罪した。アメリカに渡ってMLB(メジャーリーグベースボール)で活躍した野茂英雄や、全英オープンテニス(ウィンブルドン)でベスト4に進出した伊達公子が話題を呼んだ年でもある。
だが、今日的な観点から、この1995年でもっとも特筆すべきできごとは、この年の5月に日経連(2002年に経団連に統合)が「新時代の『日本的経営』」を発表したことだ。日経連はこの提言で、労働者を、「長期蓄積能力活用型グループ」「高度専門能力活用型グループ」「雇用柔軟型グループ」という3つのグループに分け、労働力の「弾力化」「流動化」を進め、総人件費を節約し、「低コスト」化しようとした。これに呼応して、企業ではリストラが急に進んだ。そもそも、「再構築」を意味する "Restructuring" という英単語がクビ切り、解雇の意味に用いられるようになったのはこの頃ではなかったか。そして、労働者派遣法は1999年の改正で一部の対象業務は除いて原則自由化され、さらに2004年の改正で製造業にも解禁された。
日本における新自由主義の開祖は中曽根康弘であると言って良いが、中曽根政権時に円高不況への対処を誤って発生させたのがバブル経済であり、その対処をさらに誤って、政策に新自由主義色が強まっていったのが90年代後半だった。その流れの中で、財界が政治に及ぼした悪影響の元凶が、この「新時代の『日本的経営』」なのである。
その1995年に、内橋克人が書いた岩波新書の『共生の大地―新しい経済がはじまる』を、出版後14年にして初めて読んだ。1995年に刊行された岩波新書の中で、もっとも話題を呼んだ1冊だったそうだ。
政治が新自由主義へと舵を切ろうとしていた時、それに真っ向から対立する方向性を指し示した本だ。日本の経済政策は、内橋氏が主張したような方向性で進めるべきだったのだが、市場原理主義、新自由主義などと呼ばれる方向性の政策をとってしまった。
この本では、「新自由主義」という言葉は用いられていない(1995年当時はまだ一般的な用語ではなかった)が、市場が成熟すればすべてはうまくいくという新自由主義の考え方を、内橋克人は真っ向から否定している。そして、第3章では、再生可能エネルギーについて、かなりのスペースを割いて論じている。また、食料自給率の向上を、安全保障の問題としてとらえている。
この本では、トラフィック・カーミング(交通鎮静化)に取り組んだデルフトやフライブルクの事例が紹介されている。爆発する自動車交通をいかに抑制し、街を人間の手に取り戻そうとする試みだ。
しかし、その後の日本政府がとった政策や、新自由主義系の御用学者が唱えていた説は、内橋氏の主張とは正反対のものだった。地方では、公共の交通機関網は年々やせ細っており、お年寄りやハンディキャップのある人たちが安心して住める状態からどんどん遠ざかっている。コイズミ政権(2001?06年)は、再生可能エネルギーに不熱心なブッシュに追随するかのように、太陽光発電への補助金を打ち切ったし、「経済学者」(もどき)の池田信夫は一昨年、「そもそも「食料自給率」とか「食料安全保障」などという言葉を使うのも日本政府だけで、WTOでは相手にもされない」などという妄論をブログに書いた。しかし、昨年の食料価格の急騰によって、新自由主義者たちの主張がとんでもない誤りだったことが明らかになった。
昨日(18日)行われた民主党の党大会で、小沢一郎代表が「2つのニューディール」として、「環境のニューディール」(太陽電池パネルの全戸配置)と「安心・安全のニューディール」(全小中学校の耐震化、介護労働者増員)を打ち出した。長い新自由主義政策の誤りの政策を続けたあげく、日本経済がめちゃくちゃになってしまった今になって、ようやく内橋氏が思い描いた方向性に政策の舵が切られる可能性が出てきた。
この本は、1994年4月から同年12月まで、毎週日曜日の日本経済新聞に連載された記事をもとにしている。もう15年も前の記事だ。あの頃、内橋さんのような考え方に基づいて政策を立てれば、こんなにひどい国にはならなかったものを、と惜しまれるが、死んだ子の歳を数えても仕方がない。今年は、新生日本再建のスタートを切る年にしたいものだ。
14年前、朝のニュースで、阪神高速道路神戸線が倒壊している映像を見た時、とんでもない災害だと悟った。高速道路が倒壊したあたりは、知っている場所だった。やがて、建物の倒壊や火災によって、多くの人が命を落としたり、住む家を失ったりした。被災者のために、炊き出しが行われた。炊き出しとは、大災害や大事故が発生したときに、避難民や被災者に対し、飯を炊いて供出する行為のことである。
この年末年始、職や住居を失って、食うに困っている人たちのために各地で「炊き出し」が行われてニュースになった。阪神大震災が天災プラス人災によって被害が拡大したといえるのに対し、ワーキングプアの問題は政治の失敗が招いた人災であるといえる。失業者や路上生活者たちは、一種の被災者である。
被災者を救援する行為は、それを行う主体の属性や動機に関わらず、賞賛すべきものである。阪神大震災の時は、暴力団が炊き出しを行った。彼らの普段の行ないは糾弾されるべきであるが、彼らが行った被災者のための炊き出しは賞賛に値する。
田中康夫は、阪神大震災の被災地に足を運び、被災者救援に奔走した。私はこの田中康夫の行為を高く買っている。一方、震災の起きた当日に、さっそく「この規模の震災がもし東京で起きたら、どの程度の被害になるか」などと言っていたテレビの報道番組に、激しい怒りを感じた。現に被災して苦しんでいる時に、なんということを言うのかと。その番組とは拡大された枠のTBS「NEWS23」であり、キャスターは筑紫哲也だった。この件に限らず、阪神大震災の報道に関しては、筑紫はかなりの批判を浴びた。代表的なものは、ヘリコプターから見る神戸を、「温泉に湯煙が上っているかのよう」と表現したことだ。私は筑紫哲也に対しては一定の評価を与えているけれども、阪神大震災に関する報道では、残念ながら筑紫哲也はジャーナリスト失格だったと考えている。田中康夫も、著書『神戸震災日記』(新潮文庫、1996年)で、筑紫哲也を厳しく批判した。
ところが、そんな田中康夫が年末年始の「派遣村」の救援活動を批判した。湯浅誠が思い描いたものとは違う方向に進んでいるというのがその批判で、要するに共産党や同党系の労組が運動を政治利用していると言いたいらしいのだが、14年前の阪神大震災で救援活動を実際に行った田中がどうしてそんなことを言うのだろうか。また、田中の尻馬に乗る形で、電波芸者・勝谷誠彦も派遣村の活動を批判した。勝谷の実家は阪神間の兵庫県尼崎市だったはずである。勝谷の呆れた言動については、ブログ『勝谷誠彦様の華麗なる脳みそ』が詳しいが、視聴者のニーズに従って、右に左に言動がぶれる勝谷の卑しい言動は、唾棄すべきの一語に尽きるものだ。しかし、そんな勝谷と田中康夫は仲が良い。
「派遣村」への協力は、他の政治勢力や労組が
自民党でも、大村秀章や片山さつきが派遣村の活動にかかわった。両議員とも、普段は私の支持しない政治家だが、この動きは評価できる。片山さつきにはできる限り対立候補の城内実の票を奪い取って、城内を落選に追い込んでほしい。それはともかく、派遣村の活動の援護に関する件では、大村や片山は、田中康夫なんかよりずっと良い仕事をしている。選挙を意識したパフォーマンスであろうがなかろうが関係ない。
最低なのは、以前からの新自由主義の主張を今なお改めようとしないばかりか、派遣村の活動を激しく誹謗中傷した池田信夫のような輩であり、ああいうのはどこがどう悪いという前に、その言論を問答無用で全否定しても構わないと思っている。まさに人間のクズである。
だが、こと派遣村についての論評に関しては、残念ながら田中康夫も池田信夫と五十歩百歩だと言わざるを得ない。歳をとって、田中康夫もダメになってしまったのだろうか? そうではないことを、今後の言動を通じて示してほしい。
[追記]
みどりさん(ブログ『労働組合って何するところ』管理人)さんから下記のコメントをいただきました。
http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-826.html#comment4753
細かいことですが一つ言わせてください。
派遣村への協力を「労組がやらなかった」ということだけは事実に反します。
そもそも、派遣村の事務局となった「全国ユニオン」は2002年結成の労働組合です。その他にも、連合、全労連、全労協というナショナルセンターの違いを超えて様々な労働組合が派遣村に初期段階から参加していました。そういった労働組合が表に出ることなく裏方として運営を行なったことと、初期段階では組織全体ではなく有志での参加であり、徐々に組織としての協力の意志が固まってきたという経過もあり、労働組合の協力は目立たず、今も「労働組合は何もしない」というような批判を浴びています。ですが、事実はそうではありません。
この派遣村の取り組みは、三大ナショナルセンターが垣根を超えて協力したということで活気的なものであり、むしろ日本の労働組合運動史に明記されるべき重大な出来事です。
2009.01.16 09:26 URL | みどり
ご指摘に従って、本記事の記述を一部改めました。コメントどうもありがとうございました。
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http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20090114-OYT1T00705.htm
かねてから「大連立」を唱え、一昨年秋には仕掛人にもなった渡邉恒雄の読売新聞はこの動きを歓迎するのだろうか? ナベツネ自身は加藤紘一や山崎拓を接着剤とする「大連立」をもくろんでいると思うから、ちょっとズレがあるかもしれない。
ところで渡辺喜美は、
などと力んでいるのだが、自民党内からは「劇団ひとり」などという絶妙のあだ名をつけられて孤立している。しかし、渡辺が提携しようとしているのは、昨日のエントリでも書いた橋下徹をはじめ、江田憲司、東国原英夫、中田宏といった、知名度の高いネオコン連中であって、彼らを民主党政権にくっつけよう、いや彼らを介して民主党と自民党の大連立政権を組もうというのは、早い話が新政権を再び新自由主義者が乗っ取って、新自由主義を延命させるたくらみであり、こんなものは断じて許してはならない。危機管理内閣をつくるべきだが、(自民党と民主党が)水と油みたいな戦争を繰り広げている今の状況では無理だ。私が第3極をつくって橋渡しをやる
自民党が下野必至になると、自らが接着剤となって大連立を、などと考えるバカがあとを絶たない。平沼赳夫もそうだった。平沼が新党「侍」を立ち上げて、自民、民主以外の第3極となる構想があるとぶち上げたのは昨年5月だが、平沼は先に民主党に手を突っ込もうとして失敗した。福田康夫前首相が退陣を表明した直前の昨年8月、民主党から分かれて「改革クラブ」を結成した渡辺秀央や大江康弘は、いずれも極右政治家であり、平沼新党に参加する人たちだと見られていたが、泡沫新党を結成するにとどまった上、姫井由美子に逃げられるわ、民主党から絶縁されるわで散々、首班指名で平沼赳夫に投票した衆議院議員の西村真悟は次回の総選挙で落選必至の状況である。「平沼グループ」本体の方は、現職の平沼赳夫自身のほかに、前回の総選挙で落選した元職・城内実と小泉龍司の当選が見込まれているが、それでも「改革クラブ」とどっこいどっこいの勢力にしかなりそうにない。仮に両者が合同しても大きな政治勢力にはならないし、改革クラブが民主党に絶縁されている以上、平沼がもくろむ「大連立」の接着剤にはなれない。平沼の野望は潰えたも同然である。
渡辺喜美がやろうとしていることも、平沼と同じ発想であり、メンバーが極右ではなく、新自由主義者たちであるだけの違いだ。どっちもどっちというより、渡辺喜美の方がよりタチが悪いといえる。なぜかというと、彼ら新自由主義者は日本の社会や経済をめちゃくちゃにしてしまった元凶だからだ。
コイズミ政権時代に、極端な外需主導の景気回復策をとり、ただでさえ手薄だったセーフティネットをさらに薄くしたために、アメリカのバブルが弾けると、その影響をどの国よりも手ひどく受けてしまった。自動車業界が軒並み業績を急落させたのは、同業界の製品を消費に占めるアメリカの比率がきわめて高かったからだ。これまで日本人はいったい誰のために働いてきたのかと思うと、暗澹たる気分になる。一方で、ブッシュに追随するしか能のなかったコイズミは、太陽光発電への補助金を打ち切り、それまで同業界において世界でシェア1位だった日本は、以後シェアを急落させ、ドイツにとって代わられた。これも、コイズミの失政の一つである。ブッシュは再生可能エネルギーに冷淡で、京都議定書からも脱退したほどだが、そのブッシュにコイズミは追随して補助金を打ち切ったのに違いない。そして、オバマが「グリーン・ニューディール」を唱え始めると、日本も慌ててこれに追随しようとするありさまで、政治家にせよ官僚にせよ、日本の支配者層どもは、アメリカのご機嫌を伺ってしか行動できない無能な連中ばかりなのである。
そういえば、しばらく前に「新自由主義」とは何か、それを定義せよというコメントをいただいたことがある。その方は、リバタリアンとお見受けした。だが、新自由主義はリバタリアニズムとは似て非なる、いや、全く異なるものである。当ブログの2007年12月7日付エントリ「「痛みに耐えたカイカク」の先に現出した「階級社会」」にも書いたが、デヴィッド・ハーヴェイは、新自由主義の「実践」を「富裕階級の権力回復のプロセス」ととらえ、新自由主義は、経済成長ではなく格差の拡大を真の目的としたプロジェクトであるとしている。これは現実をかなりよく説明できる非常に興味深い仮説だ。現実に日本では格差が急激に拡大し、一時期新自由主義者たちが叫んでいた「再チャレンジ」とは裏腹に、階級が固定された不自由な社会になろうとしている。これを意図的に目指していたのが真の新自由主義者であり、その代表格は竹中平蔵だ。一方、新自由主義にリバタリアン的幻想を持っていた人たちは、その誤りに既に気づいている。中谷巌がその例で、『週刊朝日』を立ち読みしていたらまた中谷のインタビュー記事が出ていて、新自由主義とはエリート層が庶民から搾取するのに都合の良いツールだと言っていた。
日本で新自由主義の旗を振っていた人たちは、竹中平蔵のような確信犯から、新自由主義が本当に日本の改革のためになると無邪気に信じ込んでいた人たちまでさまざまだろうが、そのプロジェクトが支配者層以外に何の利益ももたらさず、社会を破壊し、大多数の国民を不幸にするという結果は既に出ている。そして、新自由主義に対する審判も、直近の国政選挙である一昨年の参議院選挙で下されているのである。
だから、いまさら「大連立」という形で、離党したとはいえ実質的に自民党の延命をなおかつ懸命に図っている渡辺喜美は、単なる見苦しいピエロであり、民主党はおろか自民党からも追随者が出ないのは当然のことである。今度はまた、消費税増税の問題をめぐって、中川秀直を筆頭とする新自由主義者たちが巻き返しを図っているようだが、国民はこんなものにダマされてはならない。アメリカより弱い所得税の累進性をそのままにしながらの消費税増税を許してはならないのは当然だが、それを「小さな政府」論者どもに悪用させてはならない。議論には十分な注意が必要である。
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私は、この「採決棄権」というバカバカしいパフォーマンスは全く好まず、共産党のように反対すれば良いと思うのだが、相変わらずのドタバタが繰り返されている。
ところで、12日のエントリで書いた定額給付金批判に対する懐疑論だが、「1回こっきりの給付であって、そのあとに消費税増税を行うと政府・与党が言っているから評判が悪いのだ」という意見がある。これはその通りだとは思うが、給付金を実施しようとしまいと、与党は消費税増税を狙っているし、民主党も本音では消費税増税賛成なのではないかと私はずっと疑っている。昨夜のテレビ朝日『報道ステーション』で、民主党の細野豪志が、「カイカクはどうした」と与党議員を挑発していたが、これなど新自由主義側からの政権批判の典型であって、どんなに党執行部が抑えつけようとしても、民主党内部からはこうしたネオリベ政治家の本音が沸き上がってくる。細野豪志の選挙区は静岡5区だが、どうしてこう静岡からはろくでもない政治家ばかりが出てくるのだろうか。静岡6区には渡辺周がいるし、静岡7区の無所属・城内実に対しても、民主党は厳しく当たらず、一応対立候補として斉木武志を用意しているが、あまり力を入れているようには見えず、情勢は城内が圧倒的に優勢とのことだ。片山さつき陣営あたりが、例の国籍法改正問題で妄言を吐いた城内を批判するビラのバラマキをやると良いと思うのだが、片山ももう再選は諦めているのだろうか。
昨日は、ようやく渡辺喜美が自民党に離党届を出したが、前記細野豪志がわざわざ「渡辺喜美議員を除く」と断って与党議員を挑発していたように、民主党は渡辺喜美の離党に歓迎ムードである。山岡賢次国対委員長はさっそく、「志を同じくする人の所には我々はあえて候補者を立てない」などとのたまった。
しかし、渡辺喜美がさっそくやったことは何だったか。なんと渡辺は、大阪府知事・橋下徹に連携を呼びかけ、4時間もの長きにわたって会談したが、橋下に断られたのである。橋下といえば、強烈なネオコン・ネオリベにしてポピュリスト。こんな男にいの一番に連携を呼びかける政治家と民主党は「志を同じくする」というのだから、呆れてしまう。
民主党が対立候補を立てない選挙区というと、平沼赳夫の岡山3区があるが、平沼と渡辺喜美とは、かたや政治思想極右、かたやカイカク派の新自由主義者で水と油だが、どちらにも甘い顔をする民主党には、私はどうしても信を置くことができない。朝日新聞ともども、民主党には表裏があり過ぎる。とはいえ民主党は最大野党であり、現在の自公政権はとっくに統治能力を失っているから、民主党に対しては是々非々で臨むしかない。そうはいっても、渡辺喜美を介して橋下徹とさえつながりかねない民主党の危なっかしさを見ていると、民主党がまともな政権政党になるまでの道のりはまだまだ遠そうだ。
そうこうしているうちに、「派遣切り」はどんどん進んでいく。政治は何もしない。
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2面では、派遣社員をしていたが、次の仕事が見つからずホームレスになるうちに体調を崩し、飛び込み自殺しようとして駅員に取り押さえられた男性をはじめ、自民党や役所や労組などに相談したが相手にしてもらえなかった人たちが共産党に入党した例を挙げ、「まるで現代の「駆け込み寺」だ」と書く。
記事は、二大政党制が進んだものの、「「働く貧困層」のような新たな課題、地域固有の切実な問題に政治はこたえきれていない」と指摘する。そして、地域固有の問題の例として、奈良県川上村の限界集落を取り上げる。昨年3月以降、住民95人のうち60歳以上の10人が共産党員になったという。50年来の自民党支持者だったが郵政民営化を契機に民主党支持に変わった85歳の元森林組合長が、衆議院奈良4区の選挙では、「選挙区は民主、比例は共産」という選挙協力を進めているとのことだ。
記事は、
という元森林組合長の言葉で締めくくられる。「自分の考えを持って行動しないと、村も政治もよくならないと思うようになった。それがなかったら、惰性で死ぬまで自民党支持だったかもしれない」
この記事は、「はてなブックマーク」での評判も良かったのだが、私にはかなり引っかかるところがあった。そこで、
というコメントをつけた。なお、「はてな」が朝日新聞と業務提携しているせいでもあるまいが、「はてブ」では「共産党擁護の記事だ」として叩いている人はごく少数だった。これが共産党擁護の記事に見える人はどうかしていると思う。むしろ、「共産党にしか頼れないなんて」というニュアンスで、体制の内側から、なんとかしろと支配者層をせっついているような記事に私には見える。
記事を書いた高橋純子記者は、かつて政治部で森首相番を務めたことのある人だと思うが、いかにも政治記者らしい視点から書かれていることが、記事に違和感が感じられた原因かもしれない。社会部の記者が書いた記事だったらもっと良い記事になったのではないかと思う。
ところで、派遣問題についての、朝日をはじめとする大新聞のスタンスはどうなっているのか。調べてみると、毎日新聞は、昨年10月6日付の社説で、
と書いている。私たちはこれまで、法を99年の改正前に戻し、登録型派遣そのものを原則禁止し、派遣元が常用雇用する労働者を専門業務に限って派遣する方向での改正などを主張してきた。常用雇用なら不安定さは格段に解消され、派遣先を専門業務に限定すれば低賃金の改善にもつながるはずだ。抜本的見直しを改めて求めたい。
朝日は、毎日ほど明確な主張はしていないように見える。それどころか、ひとつ気になる記事があった。麻生内閣の支持率が19%に落ちたという結果が出た世論調査で、朝日は製造業への派遣禁止の是非を問うているのだが、なんと下記のような聞き方をしている。
信じられないような露骨な誘導尋問である。結果は案の定、賛成30%、反対46%。そして、「製造業への派遣禁止に反対する人の方が多数」という結果だけが一人歩きするのである。この「質問と回答」は、13日付朝日新聞の2面に出ている。その隣の3面には、朝日新聞主筆・船橋洋一の「「成長の質」高める道を」と題したご立派な記事が出ているのだが、いくら中国をはじめとするアジアと地域協力せよとか、日本でもアメリカの「グリーン・ニューディール」に倣って「低炭素国」を目指せなどと言っても、その横に「製造業への派遣の維持」への誘導を意図する世論調査の質問文の記事があるのでは、読者として朝日新聞の主張に信を置くことなどできないのである。派遣の打ち切りが相次いでいることを受けて、労働者の派遣を製造業については禁止し、直接雇い入れることを原則とすべきだという意見があります。これに対し、かえって雇用の機会が減るという意見もあります。製造業への派遣を禁止することに賛成ですか。反対ですか。
今朝の朝日新聞を見ると、麻生内閣の支持率がさらに低下して19%になったとあるが、一面トップの見出しは「給付金「中止を」63%」(大阪本社発行統合版)というものだ。当ブログは、給付金の件についてはほとんど取り上げないのだが、それはこの政策がマスコミが批判するほどひどいとは考えていないからで、社民党が掲げる「定額減税」と同じ方向性を持っている。
社民党のオフィシャルウェブサイトには、「「社民党の定額減税」と「政府の給付金」の違いについて」という解説文が掲載されている(昨年10月31日付)。社民党案の方がより所得再分配の効果が高いという指摘は正しいと思うが、給付金も方向性自体が間違っているわけではない。ただ、社民党案のように、もっと効果的なやり方がありますよ、ということだ。
ところが、マスコミは給付金を「バラマキ」だと言って叩く。社民党とは方向性が逆の、新自由主義側からの批判だ。特にこの傾向が顕著なのが朝日新聞であって、この新聞はどうしようもないネオリベ新聞である。朝日新聞は、記者自身がいわゆる「勝ち組」であったり、スポンサーの意向を汲んでいたり、朝日新聞の読者が首都圏や大阪近辺のサラリーマン(正社員)の世帯に特に多く、彼らのニーズに応えようとしている、等々の理由によって、現在の新自由主義の継続を求めているものだろう。
毎日新聞は、朝日より一足早く、従来の「構造改革」支持路線からの離脱を始めているが、これは朝日と比べて毎日は広告料収入が際立って少なく、それだけスポンサーの意向を気にする必要性が少ないからだと考えられる。佐々木俊尚の『ブログ論壇の誕生』(文春新書、2008年)によると、新聞社の収益に占める広告料の比率は、アメリカでは8割だが日本では5割であり、朝日や読売に比べて部数の少ない毎日の場合は2割程度なのではないかという。実際、朝日・読売・日経の強者3紙と比較して、毎日新聞や産経新聞のページ数が少ないことは皆さまよくご存知だろう。これは、記事が少ないのではなく広告が少ないのである。だからこそ、「低俗記事事件」で『毎日jp』から広告を引き上げられてもダメージはほとんどなかった(広告料収入に占めるインターネット広告の割合など微々たるものだろう)。
蛇足だが、産経も毎日と同様の事情のはずなのに、財界の意向を汲んだ記事を掲載しているのは滑稽極まりない。せめて、産経と思想的にきわめて近い平沼赳夫一派に倣って構造改革に反対し、反貧困に力を入れて竹中平蔵などの誤謬を指弾する紙面づくりをすれば、産経新聞は右側の読者を増やせると思うのだが、なぜかそうはしない。おそらく、産経新聞の首根っこを押さえているフジテレビの圧力だろう。毎日新聞はTBSとは業務提携しているだけなのに対し、産経新聞はフジテレビに生殺与奪の権を握られてしまっている。フジテレビは、もちろんスポンサー様のご意向どおりに動く電波媒体だから、財界の意向には絶対に逆らえない。
そんなマスコミに受けが良いのが渡辺喜美だが、この男がいつも最初に口にするのが「給付金をやめろ」であることからもうかがわれるように、典型的な新自由主義者である。だからこそマスコミの評判が良いのだ。1月5日付の新聞各紙に、渡辺が自民党離党に踏み切るだろうという観測記事が掲載されたが、自民党に同調者はおらず、今になって渡辺に迷いが生じているという情けない報道まで出てきた。口だけ勇ましくて何もやれないのであれば、渡辺喜美など麻生太郎と何も変わらない。
ところで、麻生内閣の支持率が下がっても、民主党の支持率はいっこうに上向かない。共同通信の世論調査でも、麻生内閣支持率は朝日と同じ19%という数字になっているが、昨年前半には36%に達していた民主党の支持率は31.1%止まりである(自民党は27.5%)。勢力急伸が伝えられる共産党も、同調査では支持率3.6%で、昨年春に支持を急増させたあとはむしろ伸び悩んでいる。実は、福田政権後半から政局は基本的には膠着状態にあり、麻生内閣成立で一時波乱があったものの、元に戻った状態だともいえる。
そんな中、民主党は渡辺喜美のほか、加藤紘一や山崎拓らにも菅直人が亀井静香や黒幕・ナベツネらを介して接近し、かと思うと平沼赳夫一派にも色目を使っている。これは、新自由主義者だろうが保守本流だろうが極右国家主義者だろうが、取り込めるものは誰でも取り込もう、というダボハゼ的発想であり、政策も何もあったものではない。
だが、年も改まり、いまさら新党を結成しても政党助成金も受けられない。今後、総選挙までの間に政党の離合集散の動きはほとんど考えられない。民主党は国会での論戦を通じて麻生内閣を解散に追い込まなければならない。
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これを見て、意気がまた上がっている人たちもいるようだが、私が気になったのは3か月前との比較である。
週刊誌というのは、選挙がない時でもしょっちゅうこの手の企画をやる。昨年の正月にも『週刊文春』は同様の企画をやっていて、その時は自民党が200議席くらいで、民主党はそれを上回って第一党に躍進するものの、単独過半数には至らないという予想だった。
しかし、麻生内閣が成立し、臨時国会冒頭で解散かといわれた時期に発行された、同誌の昨年10月9日号の予想では、自民党惨敗、民主党圧勝と、予想が大きく変わったのである。この時、自民党の予想議席数は141議席で、民主党は280議席だった。そして、今回の予想では、民主党の280議席は変わらないものの、自民党の予想獲得議席が149議席と、3か月前と比較して8議席増えている。調査は、前回も今回も同じ宮川隆義によるものだ。そこで、この3か月で情勢はどう変わったのかを、3か月前と今回の両者を比較して調べてみた。
すると当然ながら、前回苦戦を予想されながら、今回有力または当確と予想された自民党候補が結構いた。以下その名を挙げる。額賀福志郎、谷津義男、小島敏男、松本純、桜井郁三、深谷隆司、平将明、伊藤達也、長勢甚遠、橘慶一郎、稲田朋美、棚橋泰文、上川陽子、大村秀章、川崎二郎、中馬弘毅、谷畑孝、中山太郎、赤沢亮正、中川秀直、金子恭之、上杉光弘、徳田毅、小里泰弘、国場幸之助。以上の人たちが、3か月前には落選が予想されながら、その後情勢が改善されて今回当選予想に変わった。
もちろん、一方で前回は優勢を予想されながら、今回の調査では落選予想に変わった人たちもいる。その影響で、トータルでは前回の141議席という予想から8議席増えたに過ぎない。また、山崎拓、古賀誠、中川昭一、津島雄二、伊吹文明、武部勤らの落選予想も変わっていない。だが、それにもかかわらず、今回の調査では見逃せない傾向がある。
まず、東京、神奈川、大阪で自民党が巻き返していることである。逆に地方では自民党の退潮はさらに進んでいる。たとえば、当ブログ管理人の地元・香川では、前回の予想では2区で自民党の木村義雄が当選するとされていたが、今回は民主党の玉木雄一郎優勢に変わっている。1区は民主の小川淳也、3区は自民の大野功統で決まりの情勢だから、2区で民主が取ると、民主の2勝1敗になる(3区で民主党が支持予定の社民党の米田晴彦候補を含む)。他県を見ても、地方では自民党の退潮はさらに進んでいる。これは、大都市ではいまだにコイズミカイカクの余韻が残っていて新自由主義を支持する人たちがまだまだいるのに対し、地方ではますます「カイカク離れ」が進んでいるためと見られる。
さらに、ニュースになったり、バラエティ番組に出たりして、電波媒体への露出度が高かった候補が巻き返している。額賀福志郎、稲田朋美、棚橋泰文、大村秀章、中川秀直らである。いずれも、当ブログでも何度となく取り上げた人たちである。「消えた年金」問題についての討論で、民主党の長妻昭に完膚なきまでに叩きのめされて目に悔し涙をにじませた大村秀章が、愛知県の選挙区で唯一優勢と予想されている自民党候補だというのだから、呆れるほかはない。どんなに恥をさらそうが、テレビに出て名を売ると、選挙で有利になるというやり切れない傾向である。
自民党以外にも視野を広げて眺めてみると、極右候補が元気なのも目立つ。前述の稲田朋美もそうだが、平沼グループの平沼赳夫は当然として、城内実や小泉龍司も当確との予想だ。城内がブログでやらかした差別エントリの公開は、情勢に何の影響も与えていないようだ。民主党でも、松原仁や渡辺周などが当確とされている。改革クラブの西村真悟は無印であり、議席を失う見通しであることだけが救いだ。これによって、改革クラブ所属の国会議員は4名になってしまうので、総選挙後に平沼グループと合流するのではないか。当ブログは、こういった極右勢力は政権から排除すべきであると考えている。
以上まとめると、(1)首都圏や大阪ではまだまだ新自由主義の勢いが残っており、(2)テレビで名を売ることは、それがたとえ悪名であろうと選挙では有利であり、(3)勇ましい極右の主張をする候補にも勢いがある、ということだ。
もっとも、以上はあくまでも自民党惨敗の予想の中での懸念点に過ぎない。『週刊文春』の記事では、いくつか興味深い指摘がある。
まず、民主党過半数の予想によって、政界再編成の議論の根拠がもはや消滅したこと。さらに、公明党が小選挙区で全敗して(上限でも3議席)、公明党は「政党機能を失う」こと。小選挙区選出の民主党女性議員が、現在の3人から18人に増えること。自民党は、コイズミチルドレンの総崩れなどもあって、世襲議員の占める比率がさらに上がること。逆に、民主党は新人の当選で世襲議員の比率が下がる。『週刊文春』の予想では、世襲議員の比率は自民が44%、民主が6%となり、こうなれば、少なくとも世襲議員が少ないという点では、民主党が自民党とはっきり差別化することができるとともに、世襲王国・自民党の没落は一時代の終わりをはっきり告げることになるだろう。宮川隆義は、国会議員世襲禁止法の立法を提案している。民主党の小沢一郎や鳩山由紀夫も世襲議員だが、彼らも引退が近い。真面目な話、総選挙後に検討すべきだと思う。コイズミ、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎と四代続いた世襲内閣の悪政が、日本をズタズタにしてしまった。この根を断ち切らなければならない。
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当ブログは、朝日新聞がこれを大きく扱わなかったことを非難してきたが、もっと滑稽だったのは権力や御用文化人の反応である。
派遣村に集まってきた人たちに対して、「本当に働こうとしている人か」と述べたのは、坂本哲志総務政務官である。この発言を報じた毎日新聞の記事には、およそ270件の「はてなブックマーク」がついたが、うち33件に「これはひどい」というタグがついている。「はてブ」の3分の1に「これはひどい」のタグがつけられた城内実には(ネットの世界では)及ばないが、大顰蹙を買ったといえる。
ところが、2ちゃんねるやmixiの日記などでは、この坂本発言を支持する声が多いのだという。いや、『Munchener Brucke』が採集して提示したように、坂本発言を擁護しているブログがゴマンとある。テレビで彼らを煽っているのはみのもんたである。いや、「たらたら飲んで、食べて、何もしない人(患者)の分の金(医療費)を何で私が払うんだ」とか、ハローワークで「何かありませんかと言うんじゃ仕事は見つからない。目的意識がないと雇う方もその気にならない」などと発言した麻生太郎首相自身が、コイズミ内閣の頃時代を席巻した自己責任論を再び撒き散らしている。麻生は、いくら積極財政論を唱えようが、本質的に新自由主義者である。
現在、日本の支配層の知的水準は際立って劣化しており、権力が崩壊していく時というのはいつもそうなのかと思わせるほどだ。単に漢字が読めないだけではなく、その無教養ぶりを日々露呈している麻生太郎もそうだが、「経済学者」であるらしい池田信夫という人物もその悪例に挙げられる。
以前、『kojitakenの日記』で、池田が「地球温暖化陰謀論」なるトンデモにはまっていることをご紹介したが、当該エントリからリンクを張った『シートン俗物記』の指摘によると、池田は、従軍慰安婦否定論、沖縄集団自決否定論、捕鯨問題などにも首を突っ込んで、毒電波を撒き散らしているようだ。学界ではまともに相手にされていないのではないか。少なくとも、私は池田を「経済学者」とはみなしていない。
その池田が、ブログで「「派遣村」の偽善」なる、呆れたエントリを上げている。2ちゃんねるでは絶賛されているのかもしれないが、「はてなブックマーク」における評判はかなり悪い。私に言わせれば、この池田のエントリは、どこがどう悪いという以前のレベルのものだ。
ところで興味深かったのは、これだけではおさまらなかった池田が、「反貧困―「すべり台社会」からの脱出」というタイトルのエントリを上げてきたことだ。
内容は、同名の湯浅誠の著書に対する単なる悪口だが、このエントリを読んでいて、池田がこんな駄文を書いた動機がわかった。
池田もエントリ冒頭で書いているように、この本は昨年暮、朝日新聞社が主催する「大佛次郎論壇賞」を受賞した。
http://www.asahi.com/culture/update/1213/TKY200812130197.html
朝日新聞の論調自体は、必ずしも「反貧困」の方向性を持っているとはいえないが、この湯浅の名著に論壇賞を授与する程度の良識は残っているようだ。そして、池田は明らかに湯浅誠に嫉妬している。
などとわざわざ書いて、対抗心をむき出しにしているし、なんといってもお笑いなのは、彼の経歴も東大法学部の博士課程修了と、普通の「プロ市民」とは違う。
というくだりだ。おいおい、と思ってしまった。これをちょっと言い換えると、本書のような「社会主義2.0」では、朝日新聞や岩波書店などの滅びゆく左翼は喜ぶかもしれないが、若者はついてこないし、政策論議としても建設的なものは出てこない。
となる。池田信夫のような「新自由主義2.0」では、自民党や竹中平蔵一派などの滅びゆくネオリベは喜ぶかもしれないが、若者はついてこないし、政策論議としても建設的なものは出てこない。
とにかく滑稽なのは、池田信夫の湯浅誠に対する強烈な嫉妬心であり、これが池田にくだらないエントリを書かせた動機なのだ。みっともないの一語に尽きるが、こういう人間のありようが露骨な形で示されるのが新自由主義時代の日本の特徴なのかと思ってしまった今日この頃である。
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昭和天皇は、約4か月間がんと闘病した末、息を引き取った。その間、大げさな歌舞音曲の自粛騒ぎがあったが、天皇死去のおよそ1か月前、本島等長崎市長(当時)が「天皇に戦争責任はあると思う」と発言して波紋が広がった。この本島発言によって、かろうじて昭和天皇の生前に戦争責任の問題が議論された。
もちろん、戦時中の昭和天皇の立場が難しいものだったとは思うが、どう考えても戦争責任がなかったはずがない。世を去って歴史上の人物となり、過剰な敬語も用いられなくなるのを見て私は、これから徐々に昭和天皇の戦争責任の問題も冷静に議論されるようになり、重大な戦争責任があったことが国民の常識になるだろうと予想していた。
しかし、それから20年。必ずしも私の予想した通りにはならなかった。それどころか、世論は徐々に右に傾いていき、あろうことか東条英機の復権まで図られるありさまだ。産経新聞や極右文化人は、先の戦争は裏でコミンテルンが糸を引いていた、などという陰謀論を言い出す始末で、昨年も田母神俊雄の「論文」問題で話題となった。
産経新聞や極右文化人のほか、一部の保守政治家も妄言をしばしば吐き、それが周辺各国を蔑視する排外主義的な言動につながり、普段「反貧困」に熱心な「リベラル」を自称する人たちの一部までこれを容認している。
こんな状況になってしまった原因として、昭和天皇の戦争責任を問わなかったことを挙げざるを得ない。天皇でさえ責任を問われなかったのだからとばかり、A級戦犯容疑で逮捕された岸信介は、それからわずか12年で総理大臣に就任した。岸はアメリカCIAから資金援助を受けていたことが、後年公開された当時の機密文書から明らかになっている。
今、日本は敗戦時以来の危機的状況にいると思うが、再建のために必要なのは、現状を招いた政治の責任者を厳しく追及することだ。昭和天皇と東条英機に相当する責任者は、いうまでもなくコイズミと竹中平蔵である。この二人は、重罪を犯した犯罪者として、二度と政治や言論の表舞台に立てないよう、徹底的に批判する必要がある。
さらに、新自由主義の開祖である中曽根康弘と、その協力者である渡邉恒雄(ナベツネ)の責任も重い。この二人は、憲法改定の道を切り開いたことについても責任を問いたい。経済政策に関してナベツネは、市場原理主義に反対すると主張しているが、新自由主義の開祖・中曽根に批判が及んでいないのは片手落ちだ。そもそも、著書などでナベツネ自身が明らかにしているように、ナベツネはもともと経済問題には関心の薄い政治記者だった。だから、読売新聞の新自由主義批判は、ほんの上っ面をなでた程度のものにしかならない。
許されないのは、かつて新自由主義の旗振り役を務めていながら、自民党政権が怪しいと見るや、泥船から逃げ出して新政権にも参画しようとたくらむ新自由主義者たちであって、その筆頭が渡辺喜美である。山本一太や塩崎恭久らなども、渡辺の尻馬に乗ろうとしている。
民主党も、かつて自民党と「カイカク」を競った政党であり、路線を転換してから3年近くになるとはいえ、党内に多くの新自由主義勢力を抱える。だから、共産、社民、国民新各党が掲げる製造業派遣原則禁止には党内で異論がかなりある。いや、そもそもかつて民主党も労働者派遣法の改正(1999年)に賛成した(但し製造業への派遣解禁は、コイズミ時代の2004年、与党の強行可決で成立した)。民主党も、党の新自由主義とのかかわりを総括しなければならない。
日本人は、今度こそ戦争責任を追及しなかったかつての誤りを繰り返してはならない。新自由主義者を自らの手で裁いて政治や言論の表舞台から去らしめなければ、成熟した社会を作り上げることはできない。
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http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-815.html#comment4695
>紙媒体としての新聞がなくなるとしても、現場で取材し、それを記事にまとめる企業体の必要性はなくならない
>既存のジャーナリズムとの補完関係を求めていきたいと思う
それは、おっしゃられるとおりですが、朝日新聞の場合は立ち直りができるのか疑問です。かつて故石川真澄政治記者が晩年の2004年頃「世界」に連載していた当時、多くの若手たちからその政府批判について、苦情の声があると、嘆いておられました。
こういう特権階級意識と政府迎合の若手記者層が、この数年の出世で実務と社説の論説委員室を把握した。それで格差や消費税上げ賛成など国民の希望を追及しない、エリートから見下ろす視点で作っているのが現状だと思うからです。象徴なのが社説欄の論説委員室メールアドレスが昨年から消えました。
2009.01.02 20:18 URL | 奈良たかし
また、奈良さんからは、同趣旨のブログ『生きてるしるし』のエントリ「有力ブログのメールマガジン有料化とマスコミ競立はあるか」をトラックバックいただいた。お礼を申し上げる。
実は、奈良さんのコメントに私も少なからず賛成である。故石川真澄記者晩年の著書『戦争体験は無力なのか』(岩波書店、2005年)は、当ブログでも2007年6月1日付エントリ「「亥年現象」を超えて」などで何度か紹介しているが、かつて朝日新聞の中心的な政治記者だった石川氏は、90年代の「政治改革」、特に選挙制度の改変に賛成しなかったあたりから、社論の主流から外れていった。朝日新聞は政治改革に賛成し、1993年に成立した細川政権を支持し、98年の小渕政権以降は民主党寄りの論調になった。そして、2001年にコイズミ政権が発足すると、コイズミ・竹中の「構造改革」を支持したのである。
それでも、右翼たちは朝日新聞を目の敵にした。今世紀初頭には、護憲派の佐柄木俊郎が論説主幹で、昭和天皇の戦争責任を問う社説を掲載して右翼から非難を浴びるなどしたが、佐柄木はどうやら経済問題にはほとんど関心がなかったらしく、佐柄木の名前と「新自由主義」あるいは「構造改革」といった言葉を掛け合わせてネット検索しても、ほとんど何も引っかからない。しかし、朝日新聞社の幹部は政治思想的に左派色の強い佐柄木を嫌って、論説主幹を若宮啓文に交代させて佐柄木をヒラの論説委員に降格した。父親も朝日新聞記者だったいわば「世襲記者」の若宮は、コイズミ?竹中の「構造改革」を支持し、論説主幹交代後の2002年10月26日付紙面には、「不良債権──「竹中いじめ」の無責任」という呆れたタイトルの社説が掲載された。
さらに、一昨年からは長く空位だった「主筆」に船橋洋一が就任した。読売新聞では渡邉恒雄(ナベツネ)が主筆の座にいる。船橋は、しばしば朝日新聞の一面に署名入り記事を書く。昨年末には、下記のように書いた。
公の再建は、資本主義をよみがえらせる上でも必要である。資本主義の代案は資本主義しかない。市場の欠陥を補うのは、市場に「公正」のルールを課し、国民の働く場を維持し、社会を安定させることである。それにはたくましい「公」が不可欠である。
要は修正資本主義ということで、その主張自体は間違っているとは思わないが、船橋には竹中平蔵との共編著『IT革命―新世紀への挑戦』(朝日新聞社、2000年)があるし、最近朝日新聞本紙の真ん中に折り込まれるちょっと紙質の良いなんとかいう付録にも、竹中平蔵がでかでかと登場していた。その記事は、読む気にもならなかった。竹中平蔵の主張など読む時間ももったいなかったからだ。いうまでもなく竹中は、「政府は余計なことをするな」が口癖の「小さな政府」論者、すなわち新自由主義者である。建前上修正資本主義を掲げる船橋洋一が、その実新自由主義と親和性が高いように見えるのは何故だろうか。
朝日新聞の紙面を見ていても、派遣村の記事はいつも小さいし、イスラエルのガザ侵攻の記事はイスラエル側からの記事ばかりで、何か官僚的な新聞という、もともと朝日新聞にあった印象が、このところますます強くなっている。私は、新聞社の命は社会面だと考えているが、朝日新聞の社会面は全然生き生きとしていない。
朝日新聞は相当重症だなあと言わざるを得ない。記事を眺めていると、ため息が出てしまう。それでも、マスコミが権力に対するチェック機能を取り戻さなければ日本の再生はなく、朝日に限らず新聞記者たちには頑張ってもらわなければならないと思う今日この頃なのである。
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さて、年明け最初の平日の今日は、読者の皆さまを拍子抜けさせてしまうかもしれないが、岩波新書から昨年5月に刊行された、大泰司紀之・本間浩昭著『カラー版 知床・北方四島』を紹介したいと思う。
![]() | 知床・北方四島―流氷が育む自然遺産 カラー版 (岩波新書) (2008/05) 大泰司 紀之本間 浩昭 商品詳細を見る |
大泰司紀之(おおたいし・のりゆき)氏は北海道大学名誉教授で現在、同大学総合博物館資料部研究員。また、本間浩昭氏は毎日新聞記者。旧石器発掘捏造事件の端緒を入手し、毎日新聞に大スクープをもたらした敏腕ジャーナリストである。
私はかつて首都圏に在住していた頃、よく夏休みの旅行で北海道を訪れた。特に利尻島・礼文島を含む道北と、知床に代表される道東に魅せられた。そして、北方四島にはいかなる自然があるのだろうとよく思ったものだ。しかし、ひとたび四島が日本に返還されるや、乱開発で自然はめちゃくちゃになってしまうだろうな、そうなるくらいならまだ返還されないほうがマシかもしれないなとも思っていたのである。既に乱開発されてしまった北海道と違って、四島には豊富な自然が残されていることはよく知られている。
ところが、この本を読み始めてすぐ、当時から変わらなかった私の考えはすっかり時代遅れになってしまっていることを知った。冷戦終了後のロシアの急激な資本主義化によって、北方四島の自然は今や急激に脅かされつつあるのだ。
特に慄然としたのは、北方四島で行われているウニやカニなどの密漁だ。ソ連崩壊後の90年代から、北方四島で密漁により獲れたウニやカニが日本に輸入され、日本では海産物の値段が下がって喜ばれていたというが、密漁によって生態系が乱され、海域でウニやカニが激減した。上記のように、ラッコの写真がこの本の表紙を飾っているが、ウニやカニはラッコのにとって重要な食料なのに、ほとんど捕り尽くされてしまっているのが現状だ。さらに追い討ちをかけるように、2007年、ロシアの中央政府からの巨額の予算投入に支えられた「クリル諸島(日本名:千島列島)社会経済発展計画」が始まった。資金は当面、空港や港湾などの整備、道路網整備、地熱発電所建設などに向けられるそうだ。さらに、外国企業の誘致やリゾート開発も狙っているらしい。
著者らは、かつて高度成長期に開発のために自然を犠牲にしてしまった日本(本州)の失敗を北方四島で繰り返してはならないと危機感を抱く。そして、貴重な北方四島の生態系を保全するために、世界遺産「知床」を、北方四島及びその北隣のウルップ島(ロシア領)にまで広げることを提唱する。北方四島は、その帰属をめぐって日本とロシアの間で対立関係があるので、日本の領土である知床と、ロシア領のウルップ島(日本共産党によると全千島の日本への返還を求めるべきとのことだが、それは措いておく)をともに含めることで、両者の妥協点を見出そうとするやり方だ。
これは、なかなかナイスアイデアだと思ったのだが、なかなか実現は難しいようだ。日露平和条約の締結後は、四島を日露混住の地として、日本人にもロシア人にも動物たちにもプラスになるような方法も模索されている。
開発と自然保護。この両立は本当に難しい。新自由主義の社会が破綻して、次にどんな社会を目指すべきかという議論において、70年代の高度成長期をよみがえらせよという主張をする人もいるが、当時都会地区(関西)で育った私が生まれて最初に関心を持った、というよりも持たざるを得なかったのは公害問題だった。神崎川の悪臭は、この世のものとは思われないほどひどいものだったからだ。当時、水俣病、第二水俣病、四日市ぜんそく、イタイイタイ病の「四大公害病」をはじめとする公害は、深刻な問題になっていた。今、現代の「ニューディール政策」として、再生可能エネルギー(自然エネルギー)が注目されているのは、過去の反省の上に立っている。だが、再生可能エネルギーといえど、自然破壊と無縁というわけにはいかない。悩ましい話だが、可能な限り両立を目指して努力するしかあるまい。
なお、この本は、「カラー版」と銘打たれているように、本のおよそ半分は写真が占めており、表紙のラッコのほか、クジラ、アザラシ、シャチ、ヒグマ、シマフクロウ、エトピリカなど、動物の写真が満載されている。これらの写真だけでも見る価値のある本だと思う。
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新自由主義者だった。東京大学工学部物理工学科を卒業したが、大蔵省を経て政界に身を転じ、若くして国会議員になった。学生時代から野心家だったに違いない。永田は衆議院議員時代、「東大生へのメッセージ」でその思想信条を述べている。以下にその一部を引用する。
◆ 失敗した人が責任をとるということが当たり前の国にしたい
────日本はどうなったらいいですとか、日本をこういう風にしたいといったお考えがあると思いますが、それはどのようなことでしょうか
失敗した人は責任をとるような「当たり前」の国にしたいですね。「当たり前」って言葉を軽々しく使うべきではないけれども、今の日本というのは、責任をとらないような国になってしまったんですよね。
(中略)
僕とか民主党が目指してる社会ってのは、失敗した人が責任を取るっていう社会なんですよ。まあ、失敗した人が責任を取った結果、その責任をとった人が路頭に迷ってホントに生活できないようにもなってしまってはかわいそうだから、もしそうなったら社会みんなで暖かい手を差し伸べて、助けてあげると。生活ができるようにはしてあげると。だけども、その後に今度は、その後に、失敗の教訓を社会に生かしてもらうように、再チャレンジの機会を与えるのも、これもまた、社会の責任だと思うんですよ。失敗した人が責任をとらないって言う社会と、失敗した人が、一回責任をとるんだけれども、再チャレンジできる社会ってのは、これは、本質的に異なる。似て非なるものだね。だから、やっぱり、僕は、いったん責任をとると、成功したら、成功した人なりに、経済的社会的、ありとあらゆる面で一つの報いを得ると。
(中略)
他人の成功をうらやんだりひがんだりしない。で、その、他人の失敗を許すようなこともしない。そういう社会にしたいですね。
永田は自らの言葉通り、「偽メール事件」の責任を取って議員辞職した。だが、あの事件で永田は、本当は議員辞職では償い切れないくらいの大罪を犯したと私は考えている。「郵政総選挙」で自民党が圧勝した直後だというのに、耐震偽装事件、ライブドア事件、米国産牛肉輸入問題、防衛施設庁の官製談合事件の「4点セット」によって自民党は国会論戦で守勢に立たされていた。特にライブドア事件では、エイチエス証券副社長の野口英昭氏が沖縄で謎の死を遂げたことによって真相究明が困難になっていたとはいえ、東京地検は政治家の立件も視野に入れて取調べを行っていたし、マスコミや野党も政府を厳しく追及していた。ライブドアのダミーの投資事業組合には政治家が関与していたと言われ、NHKの『日曜討論』(2006年2月12日放送)で、民主党の鳩山由紀夫幹事長は、「安倍(晋三)官房長官」(当時)の実名を挙げた。そんな事件追及の機運が頂点に達した頃に永田が起こしたのが、「偽メール事件」だったのである。
永田は、偽メールをもとに自民党幹事長(当時)の武部勤を追及した。武部はおそらく「クロ」だったが、肝心の追及に用いたメールがニセモノだった。電子メールをプリントアウトしたもののコピーと称するものを証拠として挙げたのだが、そんなものはワープロソフトなどでいくらでも偽造できる。国会の答弁で、当時の首相・コイズミは直ちに「ガセ」だと喝破したのだが、あるいは自民党が永田をはめた罠だったのかもしれない。いずれにせよ、この一件で国会におけるライブドア事件の追及は急に下火になってしまった。投資事業組合の疑惑ばかりか、「自殺」したとされる野口英昭氏や耐震偽装事件のヒューザー・小嶋進が「安晋会」の会員であったことが報じられて苦境に追い込まれていた安倍晋三は、危機を脱して、以後自民党総裁レースを独走した。そればかりではない。新自由主義のひずみを追及する機運自体が弱まってしまった。
永田の罪はあまりにも重かった。永田の議員辞職や民主党の前原誠司代表の辞任は当然だった。だが、命をもって償う必要まではなかった。昨年11月に永田が自殺未遂をした時、民主党候補として衆院選に立候補して再起を図りたい希望があったが、党に受け入れられなかったという話を聞いた。かつての民主党は、永田のような新自由主義者が幅を利かせていたが、新自由主義批判がトレンドとなった今、かつて失敗を犯した永田に再び国会議員への道などあろうはずもない。「再チャレンジ」には長い道のりが必要だったと思うが、「偽メール事件」以前には挫折を知らなかったかもしれない永田にとってはとても耐えられなかったのだろう。
かくして、新自由主義者は自ら死を選んだ。「自己責任論」に自らとらわれ過ぎたのだろうか。自殺に同情はしないが、哀しい死だったとは思う。
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今年は、朝日新聞が「混迷の中で考える 人間主役に大きな絵を」と題した社説を掲載した。正論だが、総花的で心に響くものはない。毎日新聞は、「日本版「緑のニューディール」を」と題した社説を掲載した。同様の主張を当ブログは昨年12月29日付エントリで行った。社説の冒頭で、
と書いているのは、歯切れが良くて評価できる。太陽光発電と電気自動車以外の技術への目配りや、これまでの原子力行政への批判がないところは不満だが、大新聞の社説としてはこのくらいが限度なのかもしれない。赤字国債の累増は問題だが、いま政府が出なければ不況の深化は避けられず、財政再建にも悪影響をおよぼす。必要な財政出動をためらってはならない。
毎日新聞の社説と対照的なのは日経新聞の社説で、「資本主義の活力をいかすには国の介入は少ない方がよい」、「市場を信頼し自由競争を重んじるこの保守主義の政策が金融危機を招いたとする見方もあるが、必ずしも正しくない」などと平然と書いている。日経新聞は財界の代弁者だから、今年も経団連がどういう方向性で政府に圧力をかけるかは想像がつく。同じ保守でも、読売新聞は、のっけから「新自由主義の崩落」という小見出しをつけて、「新自由主義・市場原理主義の象徴だった米国型金融ビジネスモデルの崩落が、世界を揺るがせている」と書いている。おそらくナベツネ自身が書いた社説だと思うが、ナベツネはずっと以前から「市場原理主義」には批判的だった。
ところで、私が購読しているのは朝日新聞(大阪本社発行統合版)だが、「年越し派遣村」の記事が元旦紙面の一面真ん中あたりと第二社会面の右上に出ている。しかし、いずれも小さな記事だ。それでも大阪本社版は一面に載っただけまだマシで、東京本社版では一面には載らなかったそうだ。そして3面には政局を面白おかしく予想した記事が大々的に出ている。各地で「地域新党」が発足し、自民党から造反者が出る。予算成立と引き換えにした春頃の解散または任期満了選挙を経て、民主党を中心とする連立政権が発足。平沼グループも加わる可能性があるなどといやなことも書いている。そして、自民党の一部との部分連立、社民党の連立離脱、小沢(次期)首相の電撃辞任と2010年の衆参同日選挙、などなど、いかにも起きそうなことが書かれている。
だが、こんな記事は週刊誌でも読めるし、テレビの政治をネタにしたバラエティ番組でも、電波芸者たちのおしゃべりを聞くことができる。社説が左3分の1を占める3面の残りスペース全部を潰して、朝日新聞が元旦の紙面に載せるような記事とは思えない。
昨年、当ブログは「「毎日新聞叩き」に反対するキャンペーンを開始します」と題したエントリを公開し、一部から「今度は新聞ヨイショか」と陰口を叩かれたが、当ブログは朝日新聞や毎日新聞をはじめとする新聞各紙には頑張ってもらわなければならないと考えている。朝日も毎日も(産経も)赤字に転落したが、特に朝日新聞の場合は記者の給料が異様に高く、エスタブリッシュメントの一部に完全に組み込まれている。「ブン屋」という言葉はもはや死語であり、朝日新聞の記者は「ブン屋」呼ばわりされたら激怒するだろう。そんな朝日新聞だから、執拗に消費税率引き上げを求め続けるし、派遣切りの記事は小さいし、政局の記事は大きい。
だが、そんなダメ新聞ではあっても、新聞記者には現場がある。昔存在した週刊誌『朝日ジャーナル』の表紙には、題字の横に「報道 解説 評論」と書かれていた(筑紫哲也が編集長になった時のリニューアルで取り除かれたんだっけ?)。一方、「新聞に代わるジャーナリズム」を目指しているブログには、「現場」がないことが多い。「現場」なくして「報道」はないし、「報道」がなければジャーナリズムではない。
私は、仮にネット言論といえるものがあるとしても、それが新聞を置き換えることはできないと考えている。紙媒体としての新聞がなくなるとしても、現場で取材し、それを記事にまとめる企業体の必要性はなくならない。問題は、その「解説」や「評論」が政府や官僚、広告主などによってバイアスがかかってしまうことで、特に電波媒体の腐敗ぶりはどうしようもなくひどい。ネット言論には、マスメディアが流す言論の歪みを明らかにして、人民の側に立って情報を読み解き直し、全体像を再提示する役割が求められているのではないかと思う。既存のジャーナリズムとの補完関係を求めていきたいと思う今日この頃なのである。
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新年あけましておめでとうございます。
旧年中は「きまぐれな日々」の拙い記事をお読みいただき、どうもありがとうございました。旧年は、アメリカ発の金融危機に端を発した急激な景気の落ち込みや、一向に改まらない政府の新自由主義的施策、企業の非情なリストラなどによって、日本国憲法第25条で保障されているはずの日本国民の生存権が脅かされる、とんでもない一年でした。日本は現在、1945年の敗戦以来の危機的な状況に瀕していると言っても過言ではないと思います。本年は、この惨状から立ち上がって、社会再建の第一歩を記す年にしなければなりません。4年ぶりの衆議院選挙も行われます。当ブログは、苦しい状況にあっても希望を失うことなく、皆さまとともに歩んで行きたいと存じます。
本年が皆さまにとって素晴らしい年になりますよう、心より祈念いたします。
本年も、「きまぐれな日々」をどうぞよろしくお願いいたします。
2009年元旦
「きまぐれな日々」 管理人 kojitaken