当ブログは「政治ブログ」と思われており、政治以外の話題は不人気なのだが、この話題だけは取り上げないわけにはいかない。
野茂英雄が現役引退を表明した。
私は、1990年以来の「NOMOマニア」だ。新日鉄堺時代から応援していたファンには負けるが、大半の野茂ファンよりファン歴は古いだろう。野茂が入団した近鉄バファローズは、1988年と89年の両年、西武ライオンズと激烈な優勝争いを展開した。1988年、1敗どころか1引き分けでもすれば西武の優勝が決定するという「全勝マジック」が出た状態で近鉄は勝ち続け、最終戦に持ち込んだが、よりにもよって引き分けで優勝を逃した。同点ホームランを打たれたエース・阿波野秀幸は泣きながらグラウンドを引き揚げた。そして、翌1989年には、西武の優勝が決定しようかというダブルヘッダーで近鉄の主砲・ブライアントが4打数連続で本塁打を放って西武を粉砕、マジックナンバーを「1」とした近鉄は、前年の無念を晴らすかのように再び阿波野をリリーフに送って9年ぶりのリーグ優勝を遂げたのだった。勢いに乗った近鉄は、日本シリーズでも巨人に3連勝したが、「巨人はロッテより弱い」と言って巨人をバカにした加藤哲郎の発言が巨人の選手たちを怒らせ、第4戦から4連敗した近鉄は初の日本一を逃した。そして、2004年にオリックスと合併した近鉄は、ついに日本一になることなく球団史に幕を下ろしたのだった(今のオリックスバファローズの存続球団は旧オリックスブルーウェーブであって、旧近鉄バファローズではないはずだ)。
そんな球団にくじで引き当てられてドラフト1位で入団したのが野茂英雄だった。
近鉄バファローズ同様、野茂も浮き沈みの激しい選手で、開幕からしばらくはノーコンがたたってなかなか勝利投手になれなかった。二桁三振を奪いながら、二桁与四球でためた走者をタイムリーヒットで返されて敗戦投手になったりしていた。
翌日、職場で「二桁三振をとりながら、二桁四球を出して打たれ、負け投手になるなんて、野茂は本当に怪物なんだろうか」と言ったら、職場の先輩が「プロらしい選手だ」と感想を漏らした。そして野茂は初勝利を挙げた試合でいきなり当時の日本タイ記録となる1試合17奪三振を記録し、アナウンサーに「野茂はやはり怪物でした」と言わせた。
人のできないことをやる男。野茂は真のパイオニアだった。日本で最後のシーズンとなった1994年の開幕戦(対西武)では、4回までに11三振を奪ってノーヒットに抑え、三振の記録とノーヒットノーランを同時に達成するのではないかと思わせた。結局5回以降奪三振のペースは落ちたが、8回までノーヒット。0対0で迎えた9回表に3点の援護をもらって、さあ大記録と思ったところで清原和博に打たれた。しかも、鈴木監督がリリーフに送った赤堀も打たれて、近鉄は試合にも敗れてしまった。
この試合に象徴されるように、野茂の野球人生は山あり谷ありだった。1995年に渡米した時には、「出る杭は打たれる」の諺通り、野茂はマスコミや近鉄の鈴木監督(当時)から大バッシングを浴びた。野茂は、日本プロ野球にデビューした時と同じように、初勝利までしばらく時間がかかったが、ひとたび初勝利を挙げるとメジャーリーガーたちから三振の山を築き、オールスター戦で先発するまでに至り、日米に多数の「NOMOマニア」を生んだ。前年のストライキで人気を落としたMLB(メジャーリーグベースボール)の救世主とまで言われ、数ヶ月前に野茂をバッシングしていたマスコミは、掌を返すように野茂をほめあげた。そんな中、鈴木監督だけは苦虫を噛み潰していた。
野茂は1996年にノーヒット・ノーランを記録したが、98年には故障が元になった不振を理由にドジャースを放出され、移籍先のメッツでも良い働きはできなかったため、翌99年はマイナーからのスタートとなった。しかし、ミルウォーキー・ブリュワーズで復活し、地元で大人気を博した。野茂はデトロイトを経て2001年にはボストン・レッドソックス入りし、ここでもノーヒット・ノーランを記録。2002年には古巣ドジャースに戻って、翌03年にかけてエースとして活躍した。2002年には大投手ランディ・ジョンソンと投げ合って、自ら決勝二塁打を放って勝ち、2003年の開幕戦でも再び対戦したジョンソンに投げ勝って完封勝利を飾った。同年には、ジョンソンとともにアリゾナ・ダイヤモンドバックスの二枚看板といわれたカート・シリングとの息詰まる投手戦を制したこともある。しかし、この年のオフの手術からなかなか回復せず、翌年の不調で再びドジャースを解雇され、2005年にタンパベイ・デビルレイズで日米通算200勝を挙げたのだった。
それでも2003年オフの手術の影響からか、野茂は本格的な復活には至らず、05年途中にタンパベイを解雇されると、以後今年に入ってメジャーのマウンドに復帰するまでに1000日を要した。その間ベネズエラで投げたりもした。やっとこさメジャーのマウンドに戻った野茂だったが、全盛期からはほど遠い投球で、登板しては打ち込まれ、カンザスシティ・ロイヤルズからの解雇もやむなしだった。
野茂は2003年に「NOMOベースボールクラブ」を立ち上げ、野球部の廃部が相次ぐ日本のアマチュア野球界の再活性化にも心を砕いた。
誰もが予想できないことをやり遂げる男だった。そして、何よりもリスペクトに値するのは、得意の絶頂にあっても驕らず、失意のどん底にあっても悪びれないその生き方だ。「自己責任」とは名ばかりで、階級の固定化を狙いとしている新自由主義の世界と違って、真に「自己責任」が求められる世界で生きた男のすがすがしさが、そこにはある。
野茂英雄の引退によって、一つの時代が終わった。
※野茂英雄公式ウェブサイト
http://ballplayers.jp/nomo/
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野茂英雄が現役引退を表明した。
私は、1990年以来の「NOMOマニア」だ。新日鉄堺時代から応援していたファンには負けるが、大半の野茂ファンよりファン歴は古いだろう。野茂が入団した近鉄バファローズは、1988年と89年の両年、西武ライオンズと激烈な優勝争いを展開した。1988年、1敗どころか1引き分けでもすれば西武の優勝が決定するという「全勝マジック」が出た状態で近鉄は勝ち続け、最終戦に持ち込んだが、よりにもよって引き分けで優勝を逃した。同点ホームランを打たれたエース・阿波野秀幸は泣きながらグラウンドを引き揚げた。そして、翌1989年には、西武の優勝が決定しようかというダブルヘッダーで近鉄の主砲・ブライアントが4打数連続で本塁打を放って西武を粉砕、マジックナンバーを「1」とした近鉄は、前年の無念を晴らすかのように再び阿波野をリリーフに送って9年ぶりのリーグ優勝を遂げたのだった。勢いに乗った近鉄は、日本シリーズでも巨人に3連勝したが、「巨人はロッテより弱い」と言って巨人をバカにした加藤哲郎の発言が巨人の選手たちを怒らせ、第4戦から4連敗した近鉄は初の日本一を逃した。そして、2004年にオリックスと合併した近鉄は、ついに日本一になることなく球団史に幕を下ろしたのだった(今のオリックスバファローズの存続球団は旧オリックスブルーウェーブであって、旧近鉄バファローズではないはずだ)。
そんな球団にくじで引き当てられてドラフト1位で入団したのが野茂英雄だった。
近鉄バファローズ同様、野茂も浮き沈みの激しい選手で、開幕からしばらくはノーコンがたたってなかなか勝利投手になれなかった。二桁三振を奪いながら、二桁与四球でためた走者をタイムリーヒットで返されて敗戦投手になったりしていた。
翌日、職場で「二桁三振をとりながら、二桁四球を出して打たれ、負け投手になるなんて、野茂は本当に怪物なんだろうか」と言ったら、職場の先輩が「プロらしい選手だ」と感想を漏らした。そして野茂は初勝利を挙げた試合でいきなり当時の日本タイ記録となる1試合17奪三振を記録し、アナウンサーに「野茂はやはり怪物でした」と言わせた。
人のできないことをやる男。野茂は真のパイオニアだった。日本で最後のシーズンとなった1994年の開幕戦(対西武)では、4回までに11三振を奪ってノーヒットに抑え、三振の記録とノーヒットノーランを同時に達成するのではないかと思わせた。結局5回以降奪三振のペースは落ちたが、8回までノーヒット。0対0で迎えた9回表に3点の援護をもらって、さあ大記録と思ったところで清原和博に打たれた。しかも、鈴木監督がリリーフに送った赤堀も打たれて、近鉄は試合にも敗れてしまった。
この試合に象徴されるように、野茂の野球人生は山あり谷ありだった。1995年に渡米した時には、「出る杭は打たれる」の諺通り、野茂はマスコミや近鉄の鈴木監督(当時)から大バッシングを浴びた。野茂は、日本プロ野球にデビューした時と同じように、初勝利までしばらく時間がかかったが、ひとたび初勝利を挙げるとメジャーリーガーたちから三振の山を築き、オールスター戦で先発するまでに至り、日米に多数の「NOMOマニア」を生んだ。前年のストライキで人気を落としたMLB(メジャーリーグベースボール)の救世主とまで言われ、数ヶ月前に野茂をバッシングしていたマスコミは、掌を返すように野茂をほめあげた。そんな中、鈴木監督だけは苦虫を噛み潰していた。
野茂は1996年にノーヒット・ノーランを記録したが、98年には故障が元になった不振を理由にドジャースを放出され、移籍先のメッツでも良い働きはできなかったため、翌99年はマイナーからのスタートとなった。しかし、ミルウォーキー・ブリュワーズで復活し、地元で大人気を博した。野茂はデトロイトを経て2001年にはボストン・レッドソックス入りし、ここでもノーヒット・ノーランを記録。2002年には古巣ドジャースに戻って、翌03年にかけてエースとして活躍した。2002年には大投手ランディ・ジョンソンと投げ合って、自ら決勝二塁打を放って勝ち、2003年の開幕戦でも再び対戦したジョンソンに投げ勝って完封勝利を飾った。同年には、ジョンソンとともにアリゾナ・ダイヤモンドバックスの二枚看板といわれたカート・シリングとの息詰まる投手戦を制したこともある。しかし、この年のオフの手術からなかなか回復せず、翌年の不調で再びドジャースを解雇され、2005年にタンパベイ・デビルレイズで日米通算200勝を挙げたのだった。
それでも2003年オフの手術の影響からか、野茂は本格的な復活には至らず、05年途中にタンパベイを解雇されると、以後今年に入ってメジャーのマウンドに復帰するまでに1000日を要した。その間ベネズエラで投げたりもした。やっとこさメジャーのマウンドに戻った野茂だったが、全盛期からはほど遠い投球で、登板しては打ち込まれ、カンザスシティ・ロイヤルズからの解雇もやむなしだった。
野茂は2003年に「NOMOベースボールクラブ」を立ち上げ、野球部の廃部が相次ぐ日本のアマチュア野球界の再活性化にも心を砕いた。
誰もが予想できないことをやり遂げる男だった。そして、何よりもリスペクトに値するのは、得意の絶頂にあっても驕らず、失意のどん底にあっても悪びれないその生き方だ。「自己責任」とは名ばかりで、階級の固定化を狙いとしている新自由主義の世界と違って、真に「自己責任」が求められる世界で生きた男のすがすがしさが、そこにはある。
野茂英雄の引退によって、一つの時代が終わった。
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